土曜夫人
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著者名:織田作之助 

      六

「土曜日の晩は、ママの旦那が来るんだよ。だから……」
 京吉はまるで他人事のような口調で答えた。
「ママ……って、あんたの……お母さん……?」
 と、陽子がきいた。京吉は急に笑い出した。
 玄関のボーイが振り向いた。
 その視線を感じて、陽子ははじめて、立ち話の長さに気がつき、
「ハバハバ行きましょう」
 と、小声で誘って、ドレスの裾を持った。
「おれ、お袋なんかねえよ」
 と、京吉もロビイを横切って、
「――おれのいる家の女のことだよ。みんな、ママ、ママと呼んでるから……」
 おれもそう呼ぶんだ――というその言葉は、しかし、半分は聴きとれなかった。
 バンドの騒音が、ホールの入口に近づいた二人の耳に、いきなりかぶさって来たのである。
「ママお二号さんなの……?」
「うん。旦那は土曜だけ来るんだ。おれ居候みたいだろう。だから、旦那に見つからない方がいいんだ」
 京吉は聴えるように、ぐっと体を近づけていたが、ホールの中へはいると、陽子は何思ったのか、いきなり京吉からはなれて、
「あんた、じゃ、ママの燕……? いやねえ」
 不潔だわ――と、顔をそむけた拍子に、ホールの奥の朱塗りの階段が、いつもより毒々しい色で眼に来た。
 ふと、カメラを持っていた木崎のことが、頭をかすめた。陽子の眉は急に翳った。
「えっ……?」
 丁度演奏台の傍をすり抜けている時だったので、京吉には聴えなかったらしい。
「聴えなかったらいいわ」
 顔を見ずに、陽子は疳高く言った。
「燕だというんだろう……? まさか。ママは丙午だよ。大年増だよ」
 と、京吉は二十三歳に似合わぬませた口を利いた。
「いいじゃないの。どうせ年上ならいっそ……」
「二十違っても……? あはは……。まるで怪奇映画だ。おれの趣味じゃないよ」
「どうだか……」
「どうして、そんなにこだわるんだ」
 京吉は陽子の顔を覗きこんだ。
 凛とした気品に冴え返った、ダンサーにあるまじい仮面のような冷やかな顔が、提灯のピンクの灯りに染められて、ふと臈たけたなまめかしさがあった。
「だって、不潔じゃないの。燕だなんて。もし燕だったら、断然絶交よ」
「じゃ、燕でなかったら、おれを泊めてくれる……?」
 京吉はだしぬけにそう言った。
「えっ……?」
 商売柄、口説かれることには馴れていたから、口説かれて、腹の立つことはあっても、もはや驚くことだけはしなくなっている筈の陽子だったが、思わず立ちすくんだ。
 ――とは、一体どうしたことであろう。
 その時、一人の男が椅子に掛けたまま遠くから陽子に会釈した。

      七

 会釈したのは、乗竹侯爵の次男坊の、春隆という三十前後の青年だった。
「ねえ、泊めてくれる……?」
 と、京吉が二十三歳の顔に、十代の無邪気な表情を浮べながら、くりかえす言葉をききながら、陽子は春隆に会釈をかえした。
 乗竹春隆は「乗竹」をもじった「首ったけ」侯爵という綽名をつけられていて、十番館の定連だった。
 十番館には、戦争犯罪容疑者として収容される前夜、青酸加里で自殺した遠衛公爵の三男坊が憂さばらしか、それとも元来享楽的なのか、時どき踊りに来るほか、数名の華族のいわゆる若様が顔を見せて、ある際物雑誌にその行状記を素ッ破抜かれた。
 春隆もその槍玉に挙げられた一人だが、もともと鈍感なのか、大して参りもせず、むろんその雑誌の買い占めに走りまわったりせず、そんな金があればと、せっせとチケットを買って、十番館へ通っていた。
 一つには、そんなことぐらいで謹慎するには、この「首ったけ」侯爵は余りにも陽子に首ったけであった。
 彼は十番館以外のホールへは行かず、また、十番館では、陽子以外のダンサーとは踊らず、陽子が他の男と踊っている時は、大人しく一つ椅子に腰を掛けて、いつまでも同じ姿勢のまま、陽子の体があくまで待っているのだった。
 今夜も茉莉が倒れたどさくさのあとへ来てみると、陽子の姿が見当らぬので、眼だけキョロキョロ動かせていたところだったらしい。
 そして、やっと見つかって、いそいそと会釈したのだが、陽子が京吉と話をしているので、椅子を立つまでは、もう一本葉巻を吸わなくてはなるまい――という彼らしいエティケットで諦めた。
 しかし、京吉にはそんなエティケットの持ち合わせは、耳かきですくう程もなかった。
「ねえ。泊めてくれよ」
「…………」
「今夜……。いけない……?」
「呆れたッ!」
 と、言葉だけでなく、本当に陽子は呆れて、
「――どうしてあんたを泊めなくっちゃならないの……?」
「だって、土曜の晩という奴は、たいていの女は差し障りがあるんだよ。ママみたいに……。茉莉と陽子ぐらいだよ。土曜でも清潔なのは……」
「だって、あんた茉莉に借り切られてるんでしょう」
「だから、茉莉に万一のことがあった時の話さ。死んじゃったりしたら、おれ今夜泊る所が……。おれ、茉莉が死んじゃうような気が……」
「する……? あんたもそんな気がするの……?」
 陽子は急に心配になって来て、
「――あ、そうだ。こんな話してないで、あんた事務所へ行って来てよ。お医者が来てるかどうか。ハバハバ行って見て来てよ」
 そして、ホールを出て行った京吉の後姿を見送って振り向くと、眼の前に春隆が立っていた。

      八

 陽子は右の手のハンカチを左手に移して、
「…………」
 春隆が差し伸べた手を握った。
 それが春隆への、いや、自分に通って来るすべての客に対する、陽子のいつもの挨拶であった。
 蓮ッ葉なダンサーのように、
「あーら。来たの」
 と、いきなり飛びついて行ったり、ペラペラと喋ったり――そんなことは自尊心がさせなかった。ことに、東京の家を飛び出して、京都へ来た足でホールへはいった当座は、鉛のようにつんとしていた。貴婦人みたいに冷やかであった。美貌で品が良かったから、それがかえって魅力だと惹かれる客もあったが、たかがダンサーじゃないか、生意気なと、この頃は戦前にくらべると、ホールの柄も落ちていた。ダンサーの粒もまず気位からして下っていた。客を怒らせてはとマネージャーや先輩のダンサーが注意したくらいだった。
「じゃ、あたしよすわ」
 注意されると、令嬢気質がいきなり頭をもたげかけたが、よしてしまっては生きる辛さに負けるようなものだと、やっと自分をおさえた。それに女ひとりでそれくらい新円のはいる商売は、もっと身を堕すか自分を汚すよりほかには、なさそうだ――と思い直しているうちに、少しはホールの雰囲気に馴れて、せめて握手ぐらいは出来るようになったのだ。
 柄が落ちても、さすがにホールといえば、ほかの場所よりも客はきざっぽく気取りたがる。だから握手のきざっぽさもホールでは案外自然だ。
「――しかし、握手が素直な色気になっているのは、このダンサーぐらいだな」
 と、春隆はお茶を引いているダンサーの横をすり抜けて、陽子をホールの真中へ連れて行きながら、思った。
 容姿だけがそう思わせるのではない。昨夜誰かと泊った手で握手されるのは、むしろ頽廃めくが、陽子だけはその踊りっぷりのように固そうだった。
 曲はアロング・ザ・ナバホ・トレール。
 アメリカ西部大陸の滅び行くラテン系移民ナバホの郷愁が、涯しない草原の夜のとばりをさまようかのようなこの曲は、駒の響きを想わせる低音部のくりかえしが印象的で、ふと日本人のセンチメンタリズムをゆすぶるのだったが、陽子は粘って踊るほど柔くなかった。
 ターンの時、相手の膝を自分の両股にぐっとはさんで廻るような技巧も用いず、それが陽子を処女らしく見せていた。
 いや、京吉が土曜日すら清潔だと勘でかぎつけていたように、春隆――この乗竹侯爵の次男坊も、背中へ廻した手の感触で、この女はまだ一度も体を濡らしたことはないと、改めて直感すると、
「今夜こそこの女をどこかへ連れて行って……」
 という想いに心も弾むのだった。
 ついて来ればあとは自信はあるが、果してついて来るかどうか。いや、もしおれがとって置きの一言を言えば、もうおれの誘いを断り切れまい! その一言、春隆はいきなり言った。
「君、学習院の女学部だろう。そうじゃない……?」
「えッ……? はあ、いいえ……」
 狼狽して、ターンした途端に、ホールの入口に佇んでいる京吉の姿が陽子の眼にはいった。陽子はどきんとした。

      九

 丁度その時、上海帰りのルミというダンサーが、自分と踊っていた闇ブローカーの浜田のでっぷり肥えた背中が、陽子につき当ったので、
「阿呆! シミイダンスの尻ばっかし振ってるさかい、衝突するねンし。プロ!」
 プロちゃんで通っている浜田を、すれっからしの口で叱り飛ばしたが、その言葉は陽子の耳にははいらなかった。
 それどころではなかった。春隆の思いがけない一言! そして京吉の顔色!
 陽子は思わず京吉の立っているホールの入口の方へ、気を取られたが、春隆は急にまたターンしたので途端に見えなくなった。
 春隆はやはり陽子が狼狽したのをみると、
「もうこの女はおれのものになったも同然だ」
 という想いのズボンを、陽子の裾にさっと斬り込ませながら、鮮やかにターンして、
「君は、中瀬古さんのお嬢さんでしょう……?」
「違います」
「いや、隠してもだめです。妹の卒業アルバムで、僕は君の写真を見ましたよ」
「…………」
「学習院で妹と同じクラスだったそうですね」
「たぶん、他人の……」
「……空似だなんて、随分君らしくもないエスプリのない科白ですね。どうして君は……」
 と、またくるりと廻って、
「――そんなに隠すんです。もっとも僕が新聞記者なら、隠す必要はあるかも知れない。君のお父さんはとにかく政界の第一人者ですからね。その中瀬古鉱三の令嬢が十番館のダン……」
「誰にもおっしゃらないで! お願いです」
「じゃ、やっぱし……」
 そうだったのかと、春隆のトロンと濁った眼は急に輝いた。そして、何思ったのか、
「――僕あした東京へ行きます」
 ぽつりと、連絡のない言葉を言って、陽子の耳を見た。
 いい形の耳だ! 春隆は耳の形の悪い女には、魅力を感じない男だった。
「東京へ……?」
 何をしに行くのか、このことを誰かに喋りに行くのか――という眼で、陽子は見たが、春隆はわざとそれには答えず、
「当分会えませんね。一度ゆっくりこのことで語りもし、相談相手にもなろうと思ったんですがね。まず今夜しか機会はなさそうですね」
 その時、アロング・ザ・ナバホ・トレールの曲が終った。春隆は早口に畳みかけて、
「――今夜はしかし僕田村へ行ってます。木屋町四条下ル。田村と赤い提灯が出ている料理屋です。ホールが引けたら、いらっしゃい」
 きっと待っていますよと、言ったかと思うと、返辞も待たず、あっという間にホールを出て行った。
 陽子は京吉の傍へ人ごみを抜けて行った。
「茉莉は……? お医者様来た……?」
「来た。来たけど……」
 京吉は急にわざとらしい京都訛りになって、
「来たけんど、手おくれどすわ」
「じゃ、茉莉やっぱし……?」
「青酸加里! 茉莉ばかだなア!」

      十

 陽子はボロボロ涙を落しながら、事務室へかけつけた。
 うるんだ視線に、白い布がぼうっとかすんで、しかし、なまなましく映った。
 その布の下に、茉莉の蝋色の顔があった。
 近づいてみると、薄い上唇の真中に、剥げ残った口紅が暗い赤さに乾いていた。唇のまわりには、うぶ毛が濃かった。
 それが、顔を剃る気にもなれなかった茉莉の、昨日今日の悩みをふと物語っているように思われて、また涙をそそり、陽子はいつまでも放心したように佇んでいたが、やがて、ふとわれにかえると、隣の部屋で警官に調べられているらしい京吉の声が聴えて来た。
「……クンパルシータを踊ってたんです。すると茉莉が、京ちゃんのリードでクンパルシータで死ねたら本望だわと言ったので、なぜだいとききましたが、だまってました。するうちに、茉莉の顔色が急に変ったかと思うと、真青になってぱったり倒れたんです」
「何か口の中へ入れる所は見なかったか」
「入れる所は見なかったけど、何だかモグモグしていたようです。茉莉はチュウインガムをしゃぶったり、仁丹をたべたりしないと、口がさびしいというダンサーでしたから、おかしいとは思わなかったけど、今から思うと……」
 踊る前から、青酸加里のはいったカプセルを口の中に入れて置いて、噛みきったのか。
 やがて警官は、京吉に茉莉との関係をきいたが、何でもない仲だと判ると、二三人の事務所関係の者につづいて陽子にも訊問した。
「茉莉は何でもあたしに打ち明けていましたが、死ぬような事情なぞききませんでしたわ。茉莉に死ぬような悩みがあったのでしょうか」
 陽子は逆に質問した。
 稼ぎ高は多かったから、生活苦でもない。男との立ち入った関係も、噂に上るようなものはなさそうだ。
 警官が要領を得ずに引きあげて行くと、やがてラストのグッドナイトの曲が聴えて来た。
 京吉は陽子を事務所の隅へ連れて行った。
「おれとうとう泊る所がなくなったよ。今夜泊めてくれよ」
「だめよ。あんた今夜茉莉に借り切られてるんでしょう。お通夜してあげなくちゃ……。お通夜すれば、茉莉のアパートに泊れるわよ」
「それもそうだな。じゃ、そうしよう。その代り、こんどの土曜日泊めてくれるだろう。ねえ、おれ泊る所がねえんだよ。ねえ」
 子供が駄々をこねているようだった。陽子は微笑しながら、あいまいにうなずいた。
「お通夜、おれ一人じゃ心細いや。陽子もお通夜に行くんだろう……?」
「ええ。でも、あたし、ちょっと遅れるかも知れなくってよ」
「どっかへ行くのかい」
「田村」
「田村……? まさか木屋町の田村では……」
「木屋町よ」
「行っちゃいけない、田村はよせ。行くな!」
 京吉はいきなり叫んだ。

      十一

 行くなと言われると、陽子はもう天邪鬼な女だった。理由はきかず、命令的な京吉の調子だけが、ぐっと自尊心に来て、
「あんた、あたしに命令する権利、耳かきですくう程もないわよ」
 迷っていたのが、この一言できまってしまい、声も言葉づかいも、もうダンサーではなかった。
「じゃ勝手にしろ!」
 と、京吉も唇を噛んだが、わざとひとり言めいて、
「――しかし、陽子も田村へ出入りするようになったのか」
「お料理屋へ行くのがいけないの……?」
 校長が女教員を説教するような口きかないでよ……と、皮肉ると、京吉も口は達者で、
「うぶな女教員は、田村をただの料理屋と思ってるから可愛いいよ。――もっとも料理は出るがね。何でも出る。ボラれて足も出る。枕も二つ出る。寝巻も二つ出る。出るに出られん籠の鳥さ。ただの待合とは違うんだ」
「へえん……? よく知ってるわね」
 はっとする所を、わざと露悪的に言った。
「そりゃ、知ってるさ。だって、おれ……」
 田村で寝起きしているのだ。田村のママの居候だからね――と言おうとしたが、さすがにそれは言いだしかねて、
「――それより、田村の帰り、お通夜には来ない方がいいぜ。仏がよごれるからな」
「それ、どういう……?」
 意味かも考えても、すぐにはぴったり来ないほど、陽子は何も知らぬ娘だったが、
「――あ、あんた、あたしが誘惑されると思ってるのね。失礼だわ。まさか……」
 と、これは半分自分に言いきかせて、二階の脱衣室へ上って行った。そして、イヴニングを腰まで落して、素早くシュミーズに手を通していると、ラストの曲も終ったのか、ガヤガヤとダンサーがよって来た。
 土曜日は、ダンサーの足も火のようにほてる。それほど疲れるのだが、しかし、大声で話ができるのはこの部屋だけだ。ことに今夜は茉莉の事件もある。シュミーズを頭にかぶったまま、喋っているダンサーもいた。
 しかし、陽子はいつものように黙っていた。澄ましてるよと、言われてから、一層仲間入りをしなくなっていた。
 黙々とコバルト色の無地のワンピースを着て、衿のボタン代りに丸紐をボウ(蝶結び)に結んでいると、上海帰りのルミが、
「殺生やわ、ほんまに……」と、遅れて上って来て、ペラペラひとり喋った。
「――今夜はパトロン、あしたは二時まで寝たる積りやのに、マネージャーの使いか。茉莉が倒れたとこ写した男いたんやテなア。朝のうちにその写真貰って来い、発表されたら困る、ルミの心臓で行って来てくれ。ダンサーを使うのん屁とも思てへん。マネージャーの方がよっぽど心臓や」
 陽子は何思ったのか、ルミの傍へ寄って行って、
「あたし、代りにあした行ってあげてもいいわよ」
 と、ルミがマネージャーの机から貰って来た木崎の名刺を、覗きこんだ。


    夜光時計

      一

 三条河原町の元京宝劇場は、占領軍専用の映画が掛り土曜日の夜はジープとトラックが並んだ。
 木崎が十番館を出て河原町通りまで来た時は、丁度その劇場のハネで、夜空に点滅する――
「KYOTO THEATRE」
 のピンクの電飾文字のまわりを囲って、ぐるぐる廻る橙色の点滅燈のテンポが、にわかにいきいきとして、劇場から溢れでる米兵の足も速かったが、木崎の足はソワソワと速かった。
 昂奮していたのだ。なぜだろう……。
 レンズが肉体に化した木崎の写真は、印画紙からニヒリズムの体臭が漂うくらい、個性が強く、彼のねらう構図にはつねに夜が感じられて、ふとデカダンめいたが、今夜の陽子と茉莉の写真も「夜のポーズ」という彼の好みのテエマにふさわしかった。
 しかし、美しい陽子をわざと最も醜いポーズで撮り、茉莉の倒れた姿に醜悪なポーズを見出したのは、単なる好みだけだろうか。ほかの場所では、それほどまでにしなかった筈だ。
 つまりは、彼のホールぎらいのせいだ。それというのも、亡妻がダンサーだったからである。
 亡妻の名は八重子といった。
 学生の頃の木崎が八重子と知り合った時は、しかし八重子はもうダンサーではなく、阪神間のあるホテルの受付で働いていた。
 四年の長い恋愛ののち結婚した木崎はダンスは出来ず、彼女もダンスレコードは集めたが、踊りたがらなかった。二年たって、八重子は軽い肺炎に罹り、南紀の白浜温泉に出養生した。ある日、彼が見舞いに行くと、八重子は旅館のホールで見知らぬ男と踊っていた。クンパルシータだった。咳をしながら、しかしうっとりと踊っていた。
 はじめて妻のダンスを、しかも、自分以外の男に抱かれて踊っている姿を見た途端、木崎はダンサー時代の妻が、毎夜抱かれて踊った男の数を考えて茫然とした。結婚前に既にホールの客と二三の関係があった、という打ち明け話も、にわかに思い出されて、なまなましい嫉妬が、今更のように感覚的に甦った。
 木崎はもはや、妻の過去に寛大な夫ではなくなり、嫉妬に背を焼かれてデカダンスに陥った。
 そして、この嫉妬の火は、一昨年八重子が死んでしまっても、消えてしまわず、十番館へ来てはじめて陽子を見た途端、再び燃え上った。
 陽子は、死んだ八重子に似ていたのだ。だから、陽子を撮ろうときめて、陽子の美しさを追うたのだが、旅館のホールで八重子の姿態を醜いとしか見られなかった木崎の、嫉妬の眼は、陽子の美しさに反撥して、どんなポーズも男にひきずられる女の本能の、あわれな醜さに見え、空しく三日通ったあげく、
「よしッ! こうなったら、もうあの女の一番いやらしいポーズを、撮ってやれ!」
 そんな自虐の快感に燃えて、シャッターを切った途端、茉莉が……。
 倒れたその姿に投げたのは、ホールへの諷刺だ。歪んだ昂奮に青ざめて、やがて木崎は四条通りを円山公園の方へ、歩いて行った。
 そして、祇園の石段を登って行くと、暗闇の中から、いきなり若い娘が飛び出して来た。

      二

「おっちゃん、煙草の火貸してんか」
 ドスンドスンと歩いていた木崎の前に、娘はバスガールのように足をひらいて、傲然と立ちはだかった。
 声も若かったが、木崎がライターの火をつけると、まだ大人になり切らない娘の顔が、ぱっと白く浮び上り、十七か八であろう。
 しかし、娘は三十芸者のように、器用に火をつけて、
「おっちゃん、どこまで行きはるのン……?」
 と、きいて、アパートへ帰るんだ――という返辞もまたず、煙をふきだしながら、ついて来た。
「まだ、何か用か……?」
「夜道は物騒やさかい、そこまで送って行ってくれたかテ、かめへんやろ」
「そこまでって、どこまでだ……?」
「おっちゃんは……?」
「清閑寺の方だ」
「うちもその辺や」
「嘘をつけ!」
 と言おうとしたが、木崎はだまって娘と肩を並べて円山公園を抜けると、高台寺の方へ折れて行った。
 三条大橋、四条大橋、円山公園に佇む女は殆んどいかがわしい女ばかりだ――と、噂にもきき、目撃もして来たから、すぐにそれと直感したが、しかし、ふと、そうとも決め切ってしまえない感じが、その娘のどこかにあったせいだろうか。
 若すぎるから……ではなかった。十七や八はざらだった。そして、そんな年頃の、いかがわしい女は、若さの持ついやらしさがベタベタとぬった白粉や口紅を、不潔に見せていたが、この娘の白粉気のない清潔な皮膚には、遠いノスタルジアがあった。
 紫の御所車のはいった白地の浴衣に、紫の兵児帯――不良少女じみて煙草を吸っていても、何か中学時代のハーモニカの音を想わせた。
 ――といって、興味は感じなかった。ただ、帰れといわぬだけ、――いや、何一つ口を利かずに、ついて来るのに任せて、やがて、高台寺の道を清水の参詣道へ折れ、くねくねと曲って登って行くと、音羽山が真近に迫り、清閑荘というアパートが、森の中にぽつりと建っていた。
 門燈の鈍い灯りのまわりに、しんとした寂けさが暈のように渦を巻いていて、にわかに夜の更けた感じだ。
 木崎は遠くから指して、
「あそこだ、おれのアパートは……」
 と、はじめて口を利いた。
「――君の家はどこだ。まさか、あの山の中でもないだろう。帰れ!」
「そんなン殺生や。こんなとこから……」
「怖くて帰れんのか。ついて来るのがわるいんだ。幽霊は出んから、走って帰れ!」
「おっちゃん、アパートでひとり……?」
 うんと、不興気にうなずくと、娘はいきなり、
「ほな、うちも泊めて。――いや……?」
 と、木崎の顔を覗き込んだ。汗くさい髪の毛がにおいと一緒に、木崎の鼻にふれた。

      三

「いやだ!」
「そんなこと言わんと、泊めて!」
「…………」
「うち、帰るとこあれへんねン」
「どうしてだ……?」
「うち、家出してん」
「ふーん、なぜそんな莫迦なことをしたんだ」
「…………」
「帰るところはなくっても、泊るところはあるだろう。宿屋で泊ればいい」
「うち、泊るお金あれへん」
 そこは藪の中で、蚊が多く、立ち話しているうちに、木崎は神経がいらいらして来たので、いきなり十円札を三枚つかみ出すと、
「じゃ、これをやるから宿屋で泊れ!」
 娘の手に渡して、やっぱりただの夜の花だったのか――と、且つはがっかりし、且つはサバサバして、あとも見ずに清閑荘の玄関へはいって行った。
 二階の階段を上って掛りの六畳が、木崎の部屋だった。六畳の中二畳ばかり、黒いカーテンで仕切ってこしらえた現像用の暗室へ、カメラを置いて、蚊やり線香に火をつけていると、ドアを敲く音がした。あけると、さっきの娘がしょんぼりと、しかし顔だけはニイッと笑って、立っていた。
「帰らんのか」
「うん」
 ペロリと舌を出した――のを見ると、木崎は思わず噴き出しそうになって、もう追いかえせなかった。娘はいそいそとはいると、
「木崎さん、ええ写真機持ったはンねンなア」
 部屋の外に掛った木崎の名札をもう見ていたらしい。それには答えず、
「君は大阪だろう」
 木崎も大阪人だけに、娘の言葉のなまりがなつかしかった。
「うん。焼けてん」
 娘は暗室のカーテンへ素早い視線を送っていた。
「お父さんは……?」
「監獄……。未決に……」
 はいっているのだと、ケロリとした顔で言ったが、ふと声を弾ませると、
「――未決にはいっていると、金が要るねン。差入れせんならんし、看守にもつかまさんならンし、……それに、弁護士は金持って行かなんだら、もの言うてくれへん」
 そんな心配を、この娘がしているのかと、驚いて、母親はあるのかときくと、いきなり、
「お母ちゃん、きらいや」
 と、その言葉のはげしさはなお意外で、ピリピリと動く痩せた眉のあたりを見ていると、
「――あんな妾根性の女きらいや。男ばっかし……」
 こしらえているようだった。が、木崎はそれ以上きく興味もなく、
「もう寝ろ!」
 と、押入れから蒲団を引き出した。
 娘は急に固い表情になって、木崎の動作を見つめていた。

      四

 その固い表情に、木崎はふと女を感じながら、夜具を敷こうとすると、娘ははっとしたように飛び上って、部屋の隅へ後ろ向きに立った。
 六畳のうち、二畳は暗室に使っているので、狭い。だから、夜具を敷く邪魔にならぬように起ち上って隅の方へ寄った――という風に考える方が自然だろうが、やはり飛び上ったと感じたのは、木崎の思いすごしだろうか。
「家出してから、どのくらいになるんだ」
 木崎はふときいてみた。
「十日!」
 背中で答えた娘の、腰のふくらみへ、木崎はふと眼をやって、あわてて外らした。
 浴衣に兵児帯という姿に、淡いノスタルジアを抱いたとはいうものの、胴をきゅっと細く緊めているせいか、一層まるみを帯びて見えた娘の腰に、木崎はその娘の十日間のくらしを想った。暗がりで借りる煙草の火。しかし、それは木崎の好色の眼ではなかった。むしろ、痛々しさと反撥を感じていたのだ。
 外科手術台の女の姿態を連想したのだ。寝床、外科手術、若い女の裸身。痛々しさの感覚!
 好んで外科手術を受ける女はなかろう。が、それを受けるのが病人の、いや女の悲しい運命だ。手術台に横たわった女のあきらめ! 強いられた自己放棄! 失神状態! 手術者へすがりつく本能、不安! そして、憎悪と恨み……。自虐の快感!
 目出たいと騒ぐ初夜の儀式は、メスの祭典だ。唯の祭典ではない。手術のメス! 女の生理の宿命的な哀れさは、木崎にはつねに痛々しかった。それというのも、亡妻の八重子への嫉妬が、女の生理に対する木崎の考え方を変えてしまったからではなかろうか。
 八重子は木崎と結婚する前に、二三の男と関係があった。が、それは八重子が進んで求めたのだとは考えられず、ダンサーという職業の周囲に張りめぐらされたワナに、弱気な八重子がひっ掛って、のっぴきならなくなったのだ――という風に木崎は思いたかったのだ。
 八重子はその頃十八か九だったという。相手の男は市井無頼の不良の徒であった。十八か九の何も知らぬ小娘と不良少年、何という残酷さだ!
 木崎が外科手術を連想したのも、一つにはその男たちへの得体の知れぬ憎悪からであったろう。しかも、八重子が逃れようと思いながら、いつかその男たちの体の魅力にひきずられて行ったと考えると、女の生理の脆さに対する木崎のあわれみは、殆んどいきどおりに近いまでに高まったのだ。
 あわれみと反撥――その振幅の間には中間はなかった。いわば木崎は誇張的にしか女の肉体が考えられなかったのだ。しかし、嫉妬とはつねに誇張に歪んだ情熱だ。
 木崎がその小娘に感じたもの、やはりそれだった。ここに女の肉体がある! 木崎はいじらしいばかりに痩せた娘の肩と、ふっくりした腰を交互に見ているうちに、いらいらして来て、いきなり声を掛けた。
「おい!」

      五

「何……?」
 と、振り向いたが、木崎はとっさに言葉が出なかった。
 何のために声をかけたのか、まるで自分にも判らず、やっと、
「君は何という名だ……?」
 と、きいた木崎の声はなぜか乾いていた。
「うち、チマ子や。うふふ……。けったいな名やろ……?」
 クスクスと無邪気に笑っていたが、ふと敷かれた夜具を見ると、
「――お蒲団一つしかないの……?」
「枕も一つだ。大阪で罹災したから、これだけだ」
「うち、眠とうなった。ここへ横になったかテかめへん……?」
 兵児帯のまま腹ばいになって、夜具の裾の方に投げ出してあったハンドバッグを、素足の先につまんで、ひょいと肩越しに枕元へほうり上げ、その中から煙草を取り出すと、
「火貸してちょう……。あ、これで点けるわ」
 蚊やり線香の火で、はすっぱに吸いはじめたが、いきなり仰のけになると、じっと天井を見つめていた。
 眼がピカピカ光っていた。そして、暫く化石したように動かなかった。が、全身で木崎を意識しているようだった。眼かくしをされ、麻酔薬をかがされても、メス皿にカチリと触れる音はかすかに聴いている患者のように。
「何を考えてるんだ。――灰が……」
 落ちるよと、木崎はつとにじり寄りながら、自分の血管の中で凶暴な男の血が脈を打っていることを、はじめて意識した。
 あわれんでいるものを、逆に残酷に苛めたいという得体の知れぬ衝動だろうか、それとも、反撥し、嫌悪しているものに逆に惹かれるという自虐作用であろうか。
 人は崇高な気持で愛しているものにも、ふと昆虫のような本能で挑むことがある。まして、チマ子はきのうきょう巷の夜にうごめいているいかがわしい女の、あわれさと醜さを見せているのだ。
 あわれさとは手術台に横たわる宿命的な受動性!
 醜さとは、醜さを意識しない官能の脆さ、好奇心!
 しかし、このあわれさと醜さが、木崎の描く夜のポーズの主題だ。そして、そんなデカダンスの底に、亡妻への嫉妬がうずいているのだ。好色ではなかった。
 だから、何を考えてるのかときかれて、チマ子が、
「……監獄にいたはるお父さんのこと……」
 と、ぽつりと言って、ふっと深く吸い込んだ煙を輪にして吐き出しながら、その消えて行く方に放心したような視線を向けているのを見ると、木崎ははっと手をひっこめて、もうチマ子が抱けなかった。
 その時、廊下に足音がして、
「木崎さん、只今ア!」
 と、声が来た。

      六

 声ですぐ、隣の部屋の坂野という楽師だと判った。
 ホールがひけて帰って来たのであろう。いつもより不健康に濁った声が、夜更けの時間と、肩に掛けたアコーディオンの重さをガラガラと無気力に響かせていた。
「あ、お帰り……」
 と、木崎は頓狂な声を出したが、その声も何か浅ましくふるえて、不健康であった。
 醜く昂奮していたのが判り、情なくなっていると、やがて、
「木崎さん、木崎さん!」
 ちょっと来て下さいと、再び坂野の声がして、その頓狂な声も浅ましくふるえていた。マージャンに誘う声にしては、何かあわただしく取り乱している。
 木崎はチマ子の枕元から起ち上って、キラッと光る素早い視線を背中に感じながら、
「どうかしたんですか」
 と、坂野の部屋へはいって行った。
「女房が逃げました」
 わりに上手な、しかし右肩下りの字で、置手紙があった。
「……ヒロポン中毒とは一しょに暮していけません……」云々。
 ヒロポンは鎮静催眠剤とは反対に、中枢神経を一時的に刺戟して、覚醒、昂奮させる注射薬だが、坂野はもと「漫談とアコーディオン」を売物に舞台に出ていた頃から、この味をおぼえたらしく、煙草を吸うように、ひんぱんにこの劇薬を注射していて、その量と回数は、さすがの木崎もあきれていた。木崎があきれるくらいだから、坂野の細君は、
「十本入り二十三円でしょう。それを二箱も打つ日があるんですから、たまりませんわ。ヒロポン代だけでサラリーが……」
 飛んじゃいますわと、こぼしていたが、到頭逃げてしまったらしい。――米よりもまず注射薬を買い、米は買えなかったのだ。
「畜生! ひでえアマだ。(あなたは坂野医院の看板を出して、毎日注射して幸福にくらして下さい)か。ばかにしてやがる。いや、手紙よりも、木崎さん、一寸これ見て下さい」
 細君が出しなにたたき割って行った買いだめの注射薬のアンプルのかけらを、坂野は見せ、土色の顔を一層土色にして、ふぬけていたが、やがてエヘッと笑うと、
「印籠みたいなもンでさあ」
 と、ポケットからヒロポンの箱を出して来た。
「――これだけは肌身はなさず。エヘッ……。これがないと、アコーディオンも弾けませんや。何はともあれ……」
 まず一本……と、二CC、針のあとだらけの腕に打って、ペタペタたたいた。
「僕にも打って下さい」
 坂野を慰める最上の方法はこれだと、木崎は腕を出したが、一つにはヒロポンを打って、徹夜で陽子と茉莉の写真を現像しようと思ったのだ。
「チマ子に触れないためにも……」
 現像をすることだ――と、つぶやいて、やがて木崎は部屋へ戻ってみると、チマ子はいつの間にかいなくなっていた。
 そして、暗室へはいると、そこへ置いた筈のライカが見当らず、暗がりの中でただ夜光時計の青い針が十一時二十分をひっそりと指していた。


    貴族

      一

「十一時二十分ですわ。もう……」
 時間をきかれて、貴子はむっちりと贅肉のついた白い腕を、わざと春隆の前へ差し出した。――田村の二階の一室である。
 貴子は一日に五度衣裳をかえたが、土曜日の夜は、白いショートパンツに白いワイシャツという無造作な服装になることが多かった。男の子のように色気のない服装だが、それがかえって四十女の色気になっていると、この田村の女将は計算していた。
 長襦袢の緋の色で稼げる色気の限界なぞたかが知れている――というのが、十五年前銀座の某サロンのナンバーワンだった頃から今日まで、永年男相手の水商売でもまれて来たこの女の、持論であった。
「エロチシズムよりもエキゾチシズムだわよ」
 大阪でバーを経営していた頃、貴子が女給たちに与えた訓戒である。が、女給たちはその意味が判らなかった。銀座式のハイカラさが大阪では受けるのだと思ったのは、まだいい方で、たいていは外国映画のメーキャップを模倣し、エキゾチシズムとはアイシャドウを濃くして、つけ睫毛を太くすることだと考えたので、グロテスクな効果だけ残って、失敗した。
 貴子が言ったのは、白いショートパンツに白いワイシャツの魅力であった。が、このような服装が成功するには、美貌を前提としている。幸い貴子は美貌であった。しかし、美貌だけが成功するのではない。美貌が成功するには、彼女のいわゆるエキゾチシズムが必要なのだ。男は色気たっぷりの芸者をある程度の金で縛りつけることが出来るのだ。それを自分の方に惹きつけて無制限に金をひき出させるには、もうエキゾチシズムよりないと、貴子は水商売の女の考える限界の中では、まずギリギリの知慧を働かせていた。
 そして、彼女は成功して来た。もっとも、彼女のいう成功とは、二号として、即ち日かげ者としての成功であることは、いうまでもない。
 しかし、彼女はその服装では、一つだけ失敗していた。彼女の服装が時に滑稽に見えるということに、気がつかなかったのだ。これは重大な手落ちだ。すくなくとも、春隆はそんな貴子の恰好を見て、噴き出したくなっていた。
 しかし、春隆という男に、もし取得というものがあれば、いんぎんなエティケットがわずかにそれであろう。
 春隆は噴き出す代りに、彼女の時計をほめてやることにした。ダイヤの指輪をほめるには、春隆は余りに侯爵だったし、だいいち、せっかくのショートパンツとワイシャツにダイヤはぶちこわしで、ふとパトロンのある女の虚栄のあわれさであった。――時計は型が風変りだったのだ。
「拝見!」
 時間や分秒のほかに、日付や七曜が出て来るその時計を、覗こうとすると、
「見にくいでしょう」
 貴子はにじり寄って、ぐっと体を近づけて来た。
「たしかに、見にくいですな」
 相槌を打ちながら、見にくいという言葉に「醜い」の意味を、春隆は含ませていた。

      二

 いきなり貴子から媚態を見せつけられて、さすがに春隆は辟易していた。
 このような場合、でれりとやに下るには、春隆は若すぎた。女にかけては凄い方だったが、四十男のいやらしさも冷酷さも、まだ皮膚にはしみついていず、一応はうぶに見えていたから、なるべく自分でもうぶに見せていた。
 いわば、首ったけ侯爵などと綽名されるような、純情な甘さの中に、女たらしの押しの強さをかくしていたのだ。――大して利口ではなかったが、馬鹿ではなかった証拠である。
 しかし、その純情らしさの外面を、仮面にすぎないと言い切ってしまっては、酷であろう。計算はしていたが、しかし全くの計算ずくめではない。やはり、うぶらしく自然に照れていた。十代のように照れていた。しかし、十代とちがうところは、照れている状態の効果の損得を、損も得も心得ているという二十代の狡さだ。
 そして、春隆はその二十の最後の年齢に達していた。二十九という厄介な歳だ。
 春隆が若すぎたように、貴子は年がいきすぎていた。
 貴子がもっと若ければ、春隆もこれほどまで照れなかっただろう。姥桜という言葉の魅力も、せいぜい三十三までだ。それ以上は姥桜という言葉は、もう二十代の自尊心にかけても、一応生理的にやり切れない。
 春隆は、貴子の歳を、自分では三十二と言っているが、三十五か六だろうと見ていた。ところが、実は貴子は丙午だから、ことし四十一歳である。
 春隆の辟易もむりはなかったわけだが、しかし、すっかり辟易していたといっては、言いすぎだろう。
 辟易したような顔をしながら、春隆は時計を見ている間、じっと貴子のむっちりした腕を握っていることを、さすがに忘れなかったのだ。
 そして、貴子の胸の動悸を冷静に聴いていた――のだから、「見にくい時計ですね」という言葉に「醜い」という意味を含ませたのは、春隆にわずかに残っていた自嘲の精神だろう。
 含ませるといえば、貴子の体を胸にもたせかけるまでにはしなかったが、含みはもたせたわけだ。
 将棋でいえば、王手はせぬが、攻め味は残して置くという手! 王手を掛ける相手はやがて来るだろう。
 陽子だ。
 陽子と貴子の魅力の違いを計りながら、
「いい時計ですね」
 春隆はわざとソワソワしたように、身を引いた。貴子は何の表情もない顔をしていた。燃えるような視線が、急にケロリと冷めていた。
「この女はおれに来ている」
 という春隆のうぬぼれを、ふと錯覚にさせてしまうくらい、冷やかであった。
 いわば双方とも申し分のない態度だった。陽子を待っている春隆にとっても、階下にパトロンが待っている貴子にとっても……。
「では、ごゆっくり……」
 と、やがて貴子は出て行った。が、何思ったか急にまた引き返して来た。

      三

 春隆はちょっとあわてた。
 貴子のショートパンツは、尻の重みに圧されて、皺をくぼませていたので、起ち上った時は腰のまるみが裸の曲線とそっくりに二つに割れて、ふと滑稽な、しかしなまなましい色気が後姿に揺れていた。
 むき出した膝から下も、むっちりと弾んで、若くから体を濡らして男の触感に磨かれて来た女の、アクを洗いとったなめらかな白さに、すくっと伸びていた。
 陽子を待ちわびている春隆には、べつに心をそそるほどの魅力でもなかったが、やはりふとその後姿に眼が注がれて、じっと見送っていたので、いきなり貴子がひきかえして来ると、さすがにあわてたのだ。
 いきなり……だが、しかし、のっそりと貴子ははいって来ると、声もしずかに、
「この次いらっしゃる時は、お一人でいらっして下さいね」
 北海道生れだが、案外訛りのすくない言葉で言って、またしずかに出て行った。
 貴子は、同時に何人もの男をつくるのは平気であったが、その代り、その埋め合せといわんばかしに、男が何人も女をつくるのには平気でおれなかった。何人も女をつくる男は不潔だと思うことが、この何人も男をつくる女の潔癖を辛うじて支えているのだろうか。
 しかし、彼女にとって幸か不幸か、この潔癖を満足させてくれるような男は、ついぞこれまで一人も現れなかった。
 すくなくとも、田村へ来る男は、一人ではめったに来なかった。表向き料理店だが、その実連れ込み専門の貸席旅館だから、女を連れずに来る男もいなかったわけだ。
 貴子は大阪で経営していたバーが焼けてしまうと、一時蘆屋の山手のしもた家で、ひそかに闇料理をしていたのだが、終戦と同時に、焼け残った京都という都会に眼をつけて、木屋町の廃業した料亭のあとを十五万円の安値で買いとった。
 そして、改造費や調度家具類に二百万円を投じて、どの部屋にも鍵つきの別室がついているという構造と、数寄を凝らした装飾、一流料理人を雇った闇料理、朝風呂、夜ぬいだワイシャツは朝までに洗いプレスするというサーヴィスで、田村の看板を出した。
 敗戦後の京都の、いかにも女の都、享楽の町らしい世相を見ぬいたこの敏感な経営法はたちまち狙いが当って、木屋町の貸席や料亭は、すっかりこの大阪の資本に圧されてしまったのを見ると、貴子の水商売への自信は増すばかりで、丙午の運の強さも想い出されたが、しかしバーの時と違って、このような田村へ来る客は、宴会を除いてはみな女づれだ。これはと眼をつけた男が、まれに一人で来たかと思えば、ダンサーを待っている。
 そう思えば、店がはやりながら、やはり寂しく、男は何人もつくり金も出来たが、打ち込んだ恋は結局ただ一度もせずに四十を越してしまった女のあせりを、わざとゆっくりした足取りで押えながら、階段を降り、自分の居間に戻って来ると浴衣がけの男が、寝そべったまま、
「おい、あの子今日はおれへんな。どないしたんや」

      四

 いきなりそう言ったのは、この田村へ女を連れずにやって来るたった一人の男――いいかえれば、貴子が田村の改造費の二百万円を借りた木文字章三だった。
 木文字章三は、姓も変っているが、それ以上に風変りな男であった。彼は年中、
「俺は爪楊枝けずりの職人の息子だ」
 と、昂然と言っていた。
 卑賤に生れたが、それをかくそうとせず、卑屈な態度は少しもなかった。美貌だが、自分から女を口説こうとしなかった。
 彼は北浜の株屋の店員だった頃から、貴子のバーの常連だった。ある時、女給が、
「くにの母さんの病気の見舞いに行くから……」
 と、彼に旅費を無心した。彼は言われた額の二倍くれてやった。
 ところが、その女給は見合いに帰ったのだと判ったが、章三は、
「見舞いと見合いは一字違いやが、考えてみたら、えらい違いや」
 と、笑っていた。そして、その女給が縁談がまとまって、バーへ挨拶に帰って来ると、
「これ葬式の費用や」
 と、結婚の祝をくれてやった。
 しかし、その女給は半年たたぬうちに、夫婦別れして、もとのバーへ戻って来た。そして、章三をパトロンにしようとした。彼は金をやったが、手をつけようとしなかった。女は彼をホテルへ誘った。彼は別に部屋を取った。女はバーのわらい者になった。
 それが彼の三十の年だった。
 それから五年がたち、三十五歳の章三は、終戦直後の北浜に木文字商事会社の事務所を持っていた。株で四五十万円は儲けたのだろうかと、貴子が田村の改造費のことを相談に行くと、ただ一言、
「京都へ行ったら泊めてくれ」
 と、二百万円だしてくれた。
 二号になれという意味だろうと貴子は察してむろんそれは百も承知だという顔をしたが、ところが章三はその後土曜日の夜ごとにやって来ても、口説こうとしない。
 たまりかねて、到頭貴子の方からむりやりこの美貌のパトロンを口説いてしまったが、その時章三は言った。
「おれは爪楊枝けずりの職人の息子や。女には金は出すが、金で口説けへん。女の方から惚れて来よったら口説かれてやる」
 その自尊心の強さに、貴子はむっとしたが、しかしこの三十五歳の青年には、何か頭の上らぬ感じだった。
「何をッ! 爪楊枝けずりの息子が……」
 と、思うが、鋭く迫って来る剃刀の光はヒヤリと冴えすぎていた。仮面のような美しい無表情も気になる。だから、
「あの子、おれへんな。どないしたンや」
 と、いきなり言われると、どきんとして、
「あの子……?」
 京吉のことを勘づかれたのだろうか、土曜日だけは田村へ置かずによそへ泊めているのにと、ひそかに呟いていると、
「うん。チマ子のことや。チマ子は……?」

      五

「チマ子……?」
 わざと問い返して、貴子はワイシャツをぬぎはじめた。
 章三は黙ってうなずいて、ひそめた貴子の眉に、とっさに答えられぬ表情を読み、それから裸になった上半身を見た。ワイシャツの下はシュミーズもなく、むかし子供をうんだことのある乳房が、しかし二十歳の娘のように豊かに弾んで、ふといやらしい。
 うんだのはチマ子。十六年前、貴子が銀座の某サロンで働いていた頃のことだ。その頃貴子は、文士や画家の取巻きが多く、
「明日はスタンダールで来い」
 と、言われると「赤と黒」の二色のイヴニングで現れたり、
「今日は源氏物語よ」
 と、紫の無地の着物で来たりするくらい、文学趣味にかぶれていたが、彼女がパトロンに選んだ姫宮銀造は、大阪の鉄屋でむろん文学などに縁のない男だった。その代り、金があった。貴子は銀造の子をうんだ。チマ子だ。貧しい家に生れて早くから水商売の女になった貴子は、美貌と肉体という女の二つの条件を極度に利用することを、きびしい世相に生きぬいて行く唯一の道だと考えていた。世の封建的な親達が娘の配偶者の条件に、家柄、財産、学歴を考えるのとほとんど同じ自己保存の本能から、貴子は男の条件をパトロンとしての資格で考える女だった。そして男を利用しながら、男を敵と考えて来た。
 だから、チマ子をうんでも、うまされたと考えたのだ。しかし銀造はチマ子を可愛がったから、銀造の本妻が死んだ時、そのあとへはいれたのだが、銀造は既に破産していた。沈没船引揚げ事業につぎ込んで、失敗したのだ。
 貴子に見捨てられた銀造は満州へ走り、その後消息は絶えたので、サバサバしていると、終戦になりひょっくり内地へ引揚げて来た。みるかげもなく痩せ衰えて田村を頼って来た父親を見ると、チマ子は喜ばぬ貴子の分まで喜んで、あいた部屋へ泊めた。が、ある夜銀造は貴子に挑んだ。貴子は冷酷にはねつけて田村を追い出そうとすると、銀造の方から飛び出したが、一月のちには、どんな罪を犯したのか、大阪の南署から検事局の拘置所へ送られていた。チマ子は差し入れに行った。貴子はきびしく叱りつけ、銀造を見る眼は赤の他人以上に冷たく白かった。チマ子は家出した。
 浴衣に兵児帯、着のみ着のままで何一つ持たず飛び出したのである。環境のせいか、不良じみて、放浪性も少しはある娘だったから、貴子は箱入り娘の家出ほど騒がなかったが、しかしひそかに心当りは探してみた。そして空しく十日たっている……。
 と、そんな事情をありていに章三に言ったものかどうか。貴子は素早く浴衣をひっ掛けて、
「チマ子お友達と東京よ。芸術祭とか何とかあるんでしょう。気まぐれな子だから……」
 困っちゃうわと、東京弁で早口に言うと、章三は、
「ふーん。東京ならおれも行けばよかった。――いや、用事はあれへん。ただ、あの子と行くのがたのしいんや。どや、あの子おれにくれんか」

      六

 貴子ははっとした。
「チマ子をくれって、あなたあの子に……」
 惚れてるの――と、あとの方はあわてて冗談にしてしまった。
「阿呆ぬかせ。――しかし、あの子は面白い子や。おれの顔を見ると、いつも白い侮辱したような眼で、にらみつける。おれはああいう眼を見ると、なんぼでも、おれの財産ありったけでも、出して、おれの自由にしたい――いう気になるンや。あはは……」
 章三は三十五歳に似合わぬ豪放な笑いを笑ったが、しかしふと虚ろな響きがあり、おまけに眼だけ笑っていなかった。それが油断のならぬ感じだ。
「金さえ出せば、女はものになると……」
 思ってるのねと、貴子は浴衣の紐を結んだ。
「君のような女がいる限り、男はみなそない思うやろ。君は男と金を同じ秤ではかってる女やさかいな」
「いやにからむのね」
「いや、ほめてるんや。女はみなチャッカリしてるが、しかし君みたいに、徹底したのはおらんな。男に金を出させといて、その男を恨んどるンやさかい、大したもンや」
「女ってそんなものよ。自分の体を自由にする男は、ハズだってどんなに好きなリーベだって、ふっと憎みたくなるものよ」
「つまり、おれなんか憎くて憎くてたまらんのやろ」
「あら。あなたは別よ」
「別って、どない別や」
「カーテン閉めましょうね。秋口だから、川風がひえるわ」
 窓の外は加茂の川原で、その向うに宮川町の青楼の灯がまだ眠っていなかった。
「――このお部屋、宮川町からまる見えね」
 いやねえ――と、わざと若い声を出しながらスタンドの青い灯だけ残して、あかりを消したが、章三はいつになく執拗になおもからんで、
「しかし、憎まれる方がおれはうれしいよ。好かれるためなら、何も二百万円君に貸すもんか。女は佃煮にするくらいいる。東京では紅茶一杯の女もいるということやが、女の地位は上った代りに、相場は下ったもンや。その点、おれに担保、証文、利子、期限なしで二百万円出させた君は大したもンや。しかし、おれが君に金を出したのは、実は君から薄情冷酷という証文を取りたかったからや」
 そして、にやりと冷笑をうかべて貴子を見た。自尊心のかたまりのようなその眼を貴子は全身で受けとめていた。章三はつづけた。
「――君は、男というものは見栄坊だから、虚栄心をつつけば、けちと思われるのがいやさに、しぶしぶ金を出すものと心得ているらしいが、しかしおれはしぶしぶじゃなかった。喜んで出したぜ。君のような女には、そうするのが一番君を……」
 侮辱することになるのだと、言いかけた時、玄関から若い女の声が聴えて来た。
「乗竹さんいらっしゃるでしょうか」
 陽子だった。

      七

 春隆を訪ねて来た陽子の玄関の声をきいた時、章三はなぜかはっとした。
 しかし、なぜはっとしたのか、その理由はあとで判ったが、その時は判らなかった。いや、自分がはっとしたことすら、気づいていたかどうか。
「聴いたような声だな」
 という、しびれるような懐しさも、はっきり意識の上へは浮び上っていなかったようだ。
「乗竹というと、あの乗竹……か」
 侯爵の乗竹とちがうかと、章三はきいた。そうよと、貴子はすかさずいったが、
「侯爵よ。侯爵の若様よ。いやな奴よ」
 と、畳みかける口調がふとぎこちなかった。
「来てるのか」
「いやな奴よ」
「いやな奴テ、どないいやな奴っちゃ……?」
「へんな女なんか、連れ込んで……。今来たのがそうよ。男は三十過ぎなくっちゃ、だめね」
 自分でもそれと気がつかぬ女の本能から、貴子は章三の手前、春隆をやっつけていたが、しかしまんざら心にもないことをいっているわけでもなかった。嘘の中に軽い嫉妬の実感はあったのだ。もっとも貴子は春隆をそんなに好いているわけでもなかった。真底から男に惚れるには、余りに惚れっぽいのだ。つまり、簡単な浮気の気持――だが、春隆には大した魅力を感じているわけでもなかった。ただ、貴族――それだけかも知れない。貴族も相場は下った。しかし、相場が下ったから、貴子のような女は近づいて行くのだ。パトロンのある女は、こんどは逆に自分より非力の男と浮気したがるものだ。春隆も、貴子の眼にはそれだけ相場が下ったのか、終戦後の輿論だろうが、一つには、げんに金払いがわるい。もっとも、貴子は貴族を軽蔑しているわけではなかった。貴子は自分の名に「貴」の一字があることを、つねにある種の誇りを持って、想い出していたのだ。
 章三は鈍感ではなかったから、貴子が春隆の悪口を余りにいいすぎることに気がついた。貴子という女は、めったに客の悪口をいったことがなかった。自分の店へ来る客はいわゆる上客ばかしだというのが、貴子の自慢で、パトロンの章三にはとくにそれを誇張していたくらいだ。
「なんや、こいつ侯爵に気があるのンか」
 章三は不機嫌な唇を噛んだまま、鉛のように黙ってしまった。
 そして三十分許りたった頃、いきなりバタバタと階段を降りる足音がして、靴を出してくれと、昂奮した女の声が聴えた。
「まア、そないお怒りにならんと、泊っとうきやす」
「履物どこですの……?」
「もう電車おへんえ。泊っとうきやす」
「帰ります。履物出して下さらないの?」
 章三ははっとして廊下へ出て行った。玄関の女は振り向いた。視線が合った。
「あ」
 女はいきなり、はだしのままで、玄関を飛び出して行った。――陽子だった。


    夜の花

      一

 四条通りを横切ると、木屋町の並木は、高瀬川のほとりの柳も舗道のプラタナスも急に茂みが目立った。
 田村の玄関をはだしのまま逃げ出して来た陽子は、三条の方へその舗道を下って行きながら、誰もついて来る気配のなかったのにはほっとしたが、章三を見た驚きは去らなかった。
「あたしはいつもあの男から逃げている!」
 小石があるせいか一層歩きにくいはだしを、情なく意識しながら、陽子はつぶやいた。
 陽子が東京の家を逃げ出して京都へ来ているのも、実は章三という男のせいだったのだ。
 陽子の父の中瀬古鉱三は、毒舌的な演説のうまさと、政治資金の濫費と、押しの強さで政界に乗り出していたが、元来一徹者の自信家で、人を小莫迦にする癖があり、成り上り者の東条英機などを、政界の軽輩扱いにして、鼻であしらい、ことごとに反撥したので、東条軍閥に睨まれて、軽井沢の山荘に蟄居し、まったく政界より没落していた。
 ところが、終戦直前のある日、鉱三崇拝者の山谷某が大阪から山荘を訪れて来て、同行の木文字章三という青年実業家を紹介した。
 陽子が茶を運んで行くと、章三は陽子には眼もくれず、ひとりぺらぺらと喋っていた。
「僕は儲けました。これからも儲けます。最近、ある化学的薬品を使えば、酢、醤油、ソース、いや酒までつくれるという簡単な醸造法の特許権を、安く買い取りました。日本もいよいよポツダム宣言で手を打つらしいでンな。そうなったら、大いに今言いました事業で儲けます。あんさんの時代も日本がポツダム宣言で手をあげたら、やって来ますな。政治資金のことなら、一つ僕に心配させて下さい」
 鉱三はあっけに取られていたが、やがて終戦になり、政界復帰の機が熟したと見ると、大阪へ電報を打った。
 章三は東京の鉱三の寄寓先へ飛んで来て、三百万円の小切手を渡すといきなり言った。
「先生、何か情報ありまへんか。僕のほしいのは早耳と、それから、お嬢さんです」
 いつの間に見染めたのか、陽子を妻にくれという章三の言葉は、鉱三を驚かせたが、しかし、小切手を背景にした章三の精悍な顔と、押しの強さは、鉱三の青年時代を想わせて、満更でもなかった。難になる家柄の点も、民主主義という言葉が、この際便利だった。
 まず妻を説き、それから陽子を説き伏せに掛ったが、陽子もやはり民主主義を言った。そして、親娘は言い争った。
「民主主義のために闘うというパパが、あたしにいやな人と結婚しろとおっしゃるの……?」
 言い過ぎたと思ったが、陽子はもう家を出る肚をきめていた。父ものっぴきならなかったが、陽子ももうせっぱ詰っていた。
 陽子はたれにも頼らず自活して行くむずかしさを思ったが、そのむずかしさが自分の能力を試すスリルだと、ひそかに家を出て京都へ来たのだ……。
 おそくまでともっている紅屋橋のほとりのしるこ屋の提灯ももう灯が消えて、暗かった。
 三条小橋まで来ると、陽子はうしろからいきなり肩を掴まれた。

      二

 陽子はどきんとした。どんな女でも、深夜の暗い道でいきなり肩を掴まれれば、はっとするだろうが、しかし、陽子は肩を掴まれたということよりも、掴んだ男が章三ではないかという予感の方がどきんと来たのだ。章三をそれほど怖れている自分が、不思議なくらいだった。
 田村をはだしで逃げ出したのも、そうだ。春隆の誘惑をのがれるために逃げるのだったら、堂々と靴を出させて、帰った筈だ。それだけの気位の高さは持っていたのだ。ところが、章三を見ると、もう靴どころではなく、はだしという、自尊心から言っても人に見せたくない醜態を演じてしまったとは、何としたことであろう。
 京都へ逃げて来ていることを、一番知られたくない章三に見つかってしまったという狼狽にはちがいなかったが、しかし、それも章三という男だけには、何かかなわないという気持があったからであろう。何かジリジリとした粘り強い迫力に、みこまれているようだった。だから肩を掴んだ背後の男を、章三だと……。しかし、振り向くと、巡査であった。
「何をしてるんだ……?」
「はア……?」

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