土曜夫人
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著者名:織田作之助 

 鉱三はあっけに取られていたが、やがて終戦になり、政界復帰の機が熟したと見ると、大阪へ電報を打った。
 章三は東京の鉱三の寄寓先へ飛んで来て、三百万円の小切手を渡すといきなり言った。
「先生、何か情報ありまへんか。僕のほしいのは早耳と、それから、お嬢さんです」
 いつの間に見染めたのか、陽子を妻にくれという章三の言葉は、鉱三を驚かせたが、しかし、小切手を背景にした章三の精悍な顔と、押しの強さは、鉱三の青年時代を想わせて、満更でもなかった。難になる家柄の点も、民主主義という言葉が、この際便利だった。
 まず妻を説き、それから陽子を説き伏せに掛ったが、陽子もやはり民主主義を言った。そして、親娘は言い争った。
「民主主義のために闘うというパパが、あたしにいやな人と結婚しろとおっしゃるの……?」
 言い過ぎたと思ったが、陽子はもう家を出る肚をきめていた。父ものっぴきならなかったが、陽子ももうせっぱ詰っていた。
 陽子はたれにも頼らず自活して行くむずかしさを思ったが、そのむずかしさが自分の能力を試すスリルだと、ひそかに家を出て京都へ来たのだ……。
 おそくまでともっている紅屋橋のほとりのしるこ屋の提灯ももう灯が消えて、暗かった。
 三条小橋まで来ると、陽子はうしろからいきなり肩を掴まれた。

      二

 陽子はどきんとした。どんな女でも、深夜の暗い道でいきなり肩を掴まれれば、はっとするだろうが、しかし、陽子は肩を掴まれたということよりも、掴んだ男が章三ではないかという予感の方がどきんと来たのだ。章三をそれほど怖れている自分が、不思議なくらいだった。
 田村をはだしで逃げ出したのも、そうだ。春隆の誘惑をのがれるために逃げるのだったら、堂々と靴を出させて、帰った筈だ。それだけの気位の高さは持っていたのだ。ところが、章三を見ると、もう靴どころではなく、はだしという、自尊心から言っても人に見せたくない醜態を演じてしまったとは、何としたことであろう。
 京都へ逃げて来ていることを、一番知られたくない章三に見つかってしまったという狼狽にはちがいなかったが、しかし、それも章三という男だけには、何かかなわないという気持があったからであろう。何かジリジリとした粘り強い迫力に、みこまれているようだった。だから肩を掴んだ背後の男を、章三だと……。しかし、振り向くと、巡査であった。
「何をしてるんだ……?」
「はア……?」
 咄嗟に意味は判らなかった。
「今時分、何をしてるんだと、きいとるんだ」
「歩いているんです」
 むっとして答えると、巡査もむっとして、
「歩いてることは判ってる。寝てるとは言っとらん。何のために歩いとるんだ……?」
「家へ帰るんです」
「家はどこだ……?」
「京都ホテルの裏のアパートです」
 章三に居所を知られたくないという無意識な気持から茉莉のアパートの所を言った。
「今時分まで、何をしとった……?」
「お友達のお通夜に行っていました」
「商売は何だ……?」
「お友達はダンサーです」
「お前の商売をきいとるんだ」
「ダンサーです」
「なぜ、はだしになっとるんだ……?」
 半分むっとした気持から、からかうような口調になっていた陽子も、しだいに気味悪くなって来た。夜おそく歩いていて、闇の女と間違えられて、拘引された女もいるという。
「踊ると、足がほてって仕方がないんです。電車があれば、靴をはいて帰りますが、歩くのははだしの方が気持がいいんです」
「靴はどうした……? 持っとらんじゃないか」
「お友達のアパートへ預けて来ました」
「どこだ、そのアパート」
「京都ホテルの……いいえ、丸太町です」
「丸太町から来たのなら、逆の方向に歩いてる筈だ。来い!」
 巡査はいきなり陽子の腕を掴むと、三条大橋の方へ連れて行った。
 橋のたもとには、女を一杯のせたトラックが待っていて、どれもこれも闇の女らしかった。

      三

 検挙した闇の女を警察へ送るトラックであることは、一眼で判った。
「違います。あたしは……」
 商売女ではないと、陽子は言いかけたが、巡査はそれには答えず、
「そら一丁!」
「よし来た!」
 トラックの上の声が応じて、陽子はまるで荷物のように簡単に、積み上げられてしまった。
 橋のたもとの街燈は、ガス燈のように青白く冴えて、柳の葉に降り注ぐ光の中を、小さな虫が群がって泳いでいた。陽子はトラックの上からふっとそれをながめた途端、気の遠くなるような孤独を感じた。
 加茂川のせせらぎの単調なあわただしさは、何か焦躁めいた悔恨の響きを、陽子の胸に落していたが、やがてそれがエンジンの騒音に消されて、トラックが動き出した。
 橋を渡ると、急にカーブした。途端に陽子は茉莉を想い出した。
 陽子がダンサーになったのは、茉莉と知り合ったからであった。しかし、直接の動機はロマンティックなものではない。実は、家出して京都で宿屋ぐらしをしているうちに、二月の金融非常措置令の発表という殺風景な事情が、陽子をダンサーにしたとも言えよう。
 家の方へは行先を隠し、また京都では素姓を隠す必要上、陽子は転入証明も配給通帳もわざと持って来なかった。だから、旧円を新円に替えることも、通帳から生活資金を引き出すことも出来なかった。旧円流通の期限が来ると、宿賃はおろか電車にも乗れないと、陽子は狼狽した。
 新聞には、鉱三の封鎖反対論が出ていた。陽子は身にしみて同感だったが、しかし、一月前の父は、インフレ防止のためには封鎖策よりほかにないと、会う人毎に喋っていた筈だ――と想い出すと、一徹者だった父も選挙の成績をよくするためには、清濁ばかりか、黒も白も一緒に呑んでしまうようになるのかと、不可解な気がした。それが利口なのか利口でないのか、判らなかったが、父も鳩山一郎と共に何かタガがゆるんだような気がして、尻尾をまいて帰る気になれなかった。
「あたしの家出が封鎖のためにオジャンになったと判れば、パパは封鎖賛成論に逆戻りするかも知れないわ」
 皮肉だけはつぶやいたが、しかし、たまたまセットに行った美容院で、茉莉と知り合い、相談を持ちかけた時は、全く途方に暮れていたのだ。
 陽子は十五の年からダンスを知っていたし、好きでもあった。が、ダンサーをして新円を稼いで行くことを、陽子の自尊心が許したのは、ホールの環境に汚れずに、溺れるくらいダンスが好きでありながら、毅然として純潔を守って行く茉莉の自信の強さに刺戟されたからであった。
 だから、陽子は茉莉がたよりであり、茉莉の死が陽子を全く孤独な気持に陥しいれたのもそのためだ。茉莉も陽子をたよっていた。
「それだのに、あたしはお通夜に行ってあげられない」
 取りかえしのつかぬ二重の想いに揺れているうちに、やがてトラックは警察署についた。

      四

 トラックから降りると、陽子はそのまま闇の女たちと一緒に、留置場へ入れられた。
 深夜の町をはだしで歩いていたというだけでも、疑われるのは無理もないと諦めていたが、しかし、警察へ行けばすぐ釈放されるだろうと、楽観もしていた。
 それだけに、留置場の狭い穴をくぐった時は、泣けもしない気持だった。身動きも出来ない狭さや、不潔さや、いやな臭気もたまらなかったが、何よりも茉莉のお通夜に行けなくなったことが、情なかった。
 それもみな、田村なぞへ行ったからだと、今更の後悔と一緒に、京吉の顔がうかんだ。
「田村はよせ、行くな!」
 と、京吉も停めたし、お通夜も気になったし、素姓をかぎつけたのを好餌にして釣ろうという春隆のワナは月並みで俗悪だったから、余りに見えすいてもいた。
 ところが、わざわざそのワナの中へ飛び込んで行ったのは、むろん春隆に口止めさせるためであった。
 京都でダンサーをしているという秘密が春隆の口から洩れて父の耳にはいれば、強引につれ戻されるおそれはあったし、それに家出生活の辛さを我慢している気持の中には、誰も自分の素姓を知らないというひそかなスリル感があった。新聞の種になってしまっては、もうつまらないし、父の政治的人気に疵がつくという心配もあった。
 一つには、京吉が命令するように停めたということへの、天邪鬼の反撥が、陽子の足を田村へ向けたのだ。
 しかしまた、それと同じ天邪鬼が、田村へ行く時間を出来るだけ伸ばして、春隆を待たせてやろうという気持を、ふと起させた。
「お願いです。誰にもおっしゃらないで……」
 と、思わず哀願したホールでの、みじめに狼狽した自分をそのまま持って行きたくなかったのだ。必ず来るという春隆の自信にも一応反撥したかったのだ。待たせる方が有利だという、女特有の本能も無意識に働いていた。
 だから陽子は十番館を出た足で、まず近くのすし常という店へわざわざ寄って行った。
 すし常の主人は変った男で、毎晩ホールへ行ってラストまで踊り、帰ってからそろそろ店をあけて、すしを握るのだが、準備に暇が掛るので、ホール帰りのダンサーがわざと遅く行っても、大分待たされる。しかし、やはりダンサーの常連が多いのは、この店の主人からチケット代りに無料でくえるすし券を貰うからであろう。
 やっとすし常を出ると、陽子は田村へ行ったが、案内されてはいった時の春隆の部屋は、煙草のけむりが濛々として、待たせた時間の長さを思わせていた。
 ――と、そんなことまで今陽子が想い出したのは、ちょうど陽子の隣りに膝をかかえて坐っている若い娘が、留置場の中へいつの間に持ってはいったのか、急に煙草を吸い出したからであろうか。
「姉ちゃん、一口吸わしたげよか」
 浴衣をだらんと着たその若い娘は、陽子へ話し掛けて来た。チマ子だった。

      五

「あたし……? いらないわ」
 陽子が断ると、チマ子は吸い掛けの煙草を突き出して、
「遠慮せんでもええわ。はよ吸わんと、日本の煙草すぐ消えるさかい……」
 留置されている娘とは思えなかった。
「いいのよ。あたし喫めないのよ」
「へえん……? 真面目やなア」
 チマ子のその言葉に、陽子は微笑した。
 実は田村へ行った時、春隆も同じような言葉を言った――それを、想い出したのである……。
「煙草いかがです。どうぞ」
「喫めませんの、あたし……」
「本当……? 真面目だなア」
 そう春隆は言ったが、ビールの瓶は持って、
「――しかし、この方なら……」
「あら、いただけませんの」
「そうですか。じゃ、無理にすすめちゃ悪いから……しかし本当に飲めないんですか。少しぐらいなら……、飲むんでしょう……? 半分だけ……注ぐだけです。悪いかな、飲ましちゃ。僕も好きな方じゃないんです」
 細かい神経を働かせながら、さすがに粘りも見せて、一人ペラペラ薄い唇を動かせていた。
「東京へお行きになるんですの?」
「ええ、明日」
「お行きになっても、あたしのこと誰にもおっしゃらないで下さいません……?」

「今夜のこのこと……?」
 春隆はもううぬぼれていた。
「いいえ、ホールでおっしゃったこと……」
「ああ、あのこと……」
「もし誰かに知れると、あたしまた姿をくらまさなくっちゃなりませんわ。そしたら、十番館で踊っていただけなくなりますわねえ」
 これくらいの殺し文句は、陽子も使えるくらい、――頭がよかった。
「いや、大丈夫ですよ。あはは……。二人っきりの秘密にして置きましょう。じゃ、かん盃!」
「だめですの。本当に……」
「そうですか。じゃ、食事……」
「済んで来ましたの」
 それで遅かったのか、誰と食べて来たのかと、春隆は興冷めしたが、しかし、陽子の来た時間が遅かったのは、もっけの幸いだと思った。女中を呼んで、
「くるま呼べる……? くるまなければ、この方帰れないんだ」
「今時分、おくるまなンかおすかいな」
 あっては困る春隆のはらを、むろん女中は見ぬいていて、これは上出来だったが、余り心得すぎて、春隆がだんだんに陽子をひきとめる技巧を使おうと思っているのも知らず、あっという間に、さアどうぞと別室の襖をあけてしまった。
 行燈式のスタンド、枕二つ並んでいる。今見せてはまずい! と春隆が眉をひそめた途端、陽子はいきなり部屋を飛び出してしまったのだ。帰るきっかけをなくしかけていた陽子にとっては、女中が申し分のないきっかけを与えてくれたようなものだが、しかし、そのあとが……廊下の章三、はだし、巡査、留置場……。
「ああ、いやな土曜日!」
 思わず額をおさえていると、
「姉ちゃん、飴あげよか」
 チマ子がまた話し掛けて来た。

      六

 陽子はあきれてチマ子を見た。
 兵児帯は留置される時に、取られたのであろう。だらんとはだけた浴衣の裾は立てた膝にまきつけていても、すぐみだれ勝ちになるのだが、それが案外だらしなく見えなかったのは、白粉気のない皮膚の清潔さと、青み勝ちに澄んだ眼の、怜悧そうな光のせいであろう。にやっと笑ってうかべたエクボには、あどけない少女も感じられた。
「こんな可愛いい子が……」
 煙草や飴玉をひそかに留置場へ持ってはいっている大胆不敵さに、陽子は驚いたのだ。
「トラックに乗ってる間に、浴衣の縫込みへこっそり入れといたってン」
 チマ子はペロリと舌を出して、素早く陽子に飴玉を渡した。陽子は茉莉を想い出した。
「姉ちゃん、ブラックガールのわりにきれいな」
「ブラックガール……?」
 すぐに意味が判らなかったが、
「――ああ。ちがうのよ。間違えられたのよ」
「そうやろと思った」
 チマ子は留置場の中を見廻して、
「――そこらにいる奴と大分ちがうと思った。あそこにいる女、あれ常習犯で病院へ入れられとったのに、毎晩こっそり逃げ出して、商売しとってん。病院にいると、親が養われへんそうや。まず親の働き口から見つけたらんと、あの女の病気いつまでたっても癒れへん。うちが警察やったら、あの女が入院してる間、毎日五十円ずつやる。ほな、あの女も安心して病気癒す気になるやろ。けど、巡査でも一日五十円月給取ってるやろかなア」
「そうね。――あんた頭いいじゃないの。政治家より頭いいわ」
「うちが頭よかったら、日本中みな頭ええわ。たれかテこないしたらええいうこと、判ってる。政治家かテ阿呆ばっかしと違う。けど、政治家が日本中の人間の一人一人のことを考えてたら、演説してまわるひまもないくらい、忙しいさかいに、だれのことも考えんと、自分のことばっかし考えてるンやろ。――うちは阿呆や、阿呆やなかったら、泥棒みたいなもンせえへん。しても、ドジ踏めへん」
「あんた泥棒したの……?」
「うん、下手売ったワ」
 と、与太者の口調になって、
「――監獄にいたはるお父さんを助けたげよ思って、娘が泥棒するなんテ、トックリ味噌つめるより、まだ阿呆や。けど、壺がなかったから、トックリにつめな仕様がない」
「一体、何を盗んだの……?」
「写真機!」
「ふーん」
 陽子はふと木崎を想い出し、そこが留置場だということをいつか忘れていた。
「あんまりええ写真機持っとるさかい、こんなン盗んだったかテ構めへんやろ思って、アパートまでついて行って、笑って来たってん。ほな、掴まってン」
「笑う……?」
「笑ういうたら、盗むこっちゃ」
 そして、ケタケタとチマ子は笑った。

      七

「喧しいな。ええ加減におしやす」
 長い体を持て余して、窮屈そうにゴロンゴロン寝ていた痩せぎすの女が、チマ子の笑い声に眉をひそめた。
 留置場の鈍い灯が、左の眉毛の横に出来たコブを、青く照らしている。そのコブがゴム脹だとすれば、もういまわしい毒が末期へ来ているのかも知れない。
 水銀を飲まされたようなしわがれた声で、
「――豚箱へはいって、面白そうに笑う人がおすか。――喧しゅうて眠られへん」
「きつうきつう堪忍どっせ」
 チマ子はわざとらしい京都弁で言ったが、すぐ大阪弁に戻り、
「――喧しかったら、独房へはいったらええやないの。ここはあんた一人の留置場とちがう。無料宿泊所や、贅沢いいな!」
「何やテ、もう一ぺん言うとオみ!」
 と、女はむくりと起き上って、
「――わてを誰や思ってンにヤ……?」
 仏壇お春のあだ名を持った、私娼生活二十年という女だった。
 今はどうサバを読もうと思っても、四十以下には言えぬくらい老けてしまったが、若い頃はこれでも自分に迷って先祖の仏壇を売った男もいるくらい、鳴らしたものだ、四条の橋の上に張店みたいに並んだ何とかガールのお前のような女とは、ものが違うのだ――というお春の言葉は、陽子の耳をあかくさせたが、チマ子は負けずに言いかえした。
「あんたが仏壇お春やったら、うちは兵児帯おチマや。兵児帯おチマは喧嘩は売っても、体は売れへん。――年をきいたら笑って十七、可愛いあの子は兵児帯おチマ、喧嘩は売っても、体は売らぬ――とセンターでフライが唄うてるのを、あんた知らんのンか」
 三条河原町から四条、京極へかけて、京都の中心(センター)で、天プラ(フライ)の不良学生たちが唄っている唄を、チマ子は口ずさんだが、急にあーあと、自嘲めいた声になると、
「――ほんまに、うちのような娘を持った親はえらい災難や」
 その言い方にみんな笑った。お春も笑いながら、よれよれの背中を向けて、横になったが、留置場の床の痛さに骨ばった自分の体を感じた途端、お春はふと母親を想った。母親はもう七十、あと三年ももつまいが、しかし、自分の体が稼げなくなる時は、それよりも早く来るのではなかろうか。
 女が女である限り、どんなに醜くても、汚くても、たとえ五十を過ぎても、男相手に稼いで行ける――というお春の自信も、病気のまわった体を思えば、にわかに心細い。
「みんな、わてみたいになるンどっせ。しまいには、骨だけしか売るもンがない」
 あーあとお春も奇妙な溜息をついたが、もうだれも笑わず、何かしーんと黙って、うなだれてしまった。
 チマ子はしかしキラッと眼を光らせて、いきなり陽子の耳に口を寄せて来た。
「姉ちゃん、うちの頼み、きいてくれはる……?」

      八

「きいてあげてもいいわ」
 陽子は、チマ子のささやきを耳になつかしく感じながら微笑した。
「兵児帯のおチマ」と名乗る不良少女などにふと、男心めいたなつかしさを抱くとは、留置場にいれば人恋しくなるせいだろうか。
 いや、不良少女らしく見えないという点にむしろ陽子の興味は傾いたのだ。一つには、チマ子が盗んだのが写真機だという点にも、ひそかな好奇心はあった。
「ほんまに、きいてくれはる……?」
「ええ、どんなこと……?」
「うちが写真機盗んだ人の所へ行って来てほしいねン」
「えっ……?」
「ねえ、行ってくれはる……?」
 甘えるように、体をすりつけて来た。
「でも、ここを逃げ出して行くわけにいかないわ」
「しかし、姉ちゃんは本当のブラックガールと違うさかい、明日になったら、すぐ出して貰えるわ。うちは泥棒したさかい、あかんけど、姉ちゃんは鳩やわ」
 飛んで出るから鳩だというチマ子の声の明るさに、陽子もほっと心に灯がともって、
「じゃ、ここを出たら、あんたの使をしてくれというわけね」
「モチ、コース……」
 モチは勿論のモチ、コースはオヴ・コース(勿論)のコース。綴り合せて、モチの論よという意味らしい。
「――うち、刑事にきかれても、あの写真機盗んだと白状せんつもりや。預かった品やと言うて頑張るつもりやねン」
「そんな嘘すぐはげるでしょう」
 陽子が呆れると、チマ子はじれったそうに、
「――そやさかい、行ってくれと頼んでるんやないの。その人の所へ行って、あの写真機はうちに預けた品やということにしてくれと、姉ちゃんから説き伏せてくれたらそれでええやないの」
「ふーん。でも、その人うんと言ってくれるかな」
「ええおっちゃんやさかい、うちを助けてくれはるやろ。一寸こわい所あるけど、親切な人やさかい。うち、今でも、あの人の写真機盗んだこと後悔してるねン」
「どこにいる人……?」
「行ってくれはる……?」
「それより、どこにいる人なの、それを先に……」
 言ってごらんと、一寸せきこむと、チマ子は場所をまず言って、
「木崎さんという人……」
「木崎……?」
 ルミから貰った名刺の「木崎三郎」の明朝(みんちょう)の活字が、ぱっと陽子の頭に閃いた。
「ねえ、行ってくれはる……?」
「行くわ。で、その写真機は……?」
「サツ(警察)で夜明ししてる! 売れば一万五千円の新円のサツやけどな」
 チマ子は吐き捨てるように言った。


    兄ちゃん

      一

 頽廃の一夜が明けて、日曜日の朝が来た。
 ただでさえ頽廃の町である。ことに土曜日の京都は、沼の底に妖しく光る夜光虫の青白い光のような夜が、悪の華の巷にひらいて、数々のいまわしい出来事が、頽廃のメシベから放つ毒々しい花粉の色に染まる――というこの形容は誇張であろうか。
 例えば、われわれが知る限りでも、昨夜、つまり土曜日の夜……。
 キャバレエ十番館のホールの階段に立った木崎のライカが狙う「ホール風景」の夜のポーズのシャッターが切られた途端に、倒れたダンサー茉莉!
 青酸加里! 京吉!
 東山のアパート清閑荘では、ヒロポン中毒のアコーディオン弾き坂野の細君が逃げ、闇の女を装う兵児帯のチマ子が木崎のライカを奪って逃げた。
 そのチマ子の母親が経営している田村では、好色の侯爵乗竹春隆を訪れたダンサーの陽子が貴子のパトロンの木文字章三を廊下で見た途端に、はだしで田村を飛び出し、闇の女と間違えられて留置されると、たまたまチマ子も同じ留置場にはいっていて、仏壇お春、病毒……。
 そして、さまざまな女が、いかにも女の都の京都らしく、あるいは一夜妻の、そして土曜夫人として週末の一夜を明かすと、日曜日の朝の河原町通りは、昨夜の男が子供にせがまれていそいそと玩具のジープを買うのだ。その幸福な顔!
 だから、土曜日の夜の二人連れを見るよりも、日曜日の朝の親子連れを見る方が、ふっと羨しい。ことに京吉のような男には……。
 朝といっても、もう午ちかい。茉莉のアパートを出た京吉は、わびしい顔で河原町の雑閙の中を歩いていた。
 京吉には両親の記憶はない。兄弟も身寄りもなく、祖母の手に育てられたが、中学校三年生の時にたった一人の肉親のその祖母もなくなり、天涯孤独となった身は放浪生活に馴染み易く、どこへ勤めても尻が落ちつかず、いまだにきまった職がなかった。
 しかし、十六の歳に十も年上の未亡人に女というのを知らされてから今日まで、彼の美貌と孤独な境遇と無慾な性格に慕い寄る女たちの間を、転々と移っている間に、もう自分はどんなことがあっても、この顔さえあれば女は食わせてくれるという自信がついた。
 いわば一見幸福な男だが、しかし、このわびしさは何であろう。
 日曜日の朝の親子連れの姿を見て、ふっと自分の孤独を知らされたからだろうか、それとも……。
 転々と女から女へ移った――というより、移されて来たが、恋は知らなかった。誰からも好かれたが、誰をも好かなかった。そのさびしさだろうか。しかし、そのさびしさの底には、昨夜到頭お通夜に来なかった陽子のことがなかったとは、いいきれまい。
 うかぬ顔をして、三条河原町の朝日ビルの前まで来ると、京吉はいきなり、
「兄ちゃん」
 と、声を掛けられた。

      二

 兄ちゃんと呼ばれて、京吉はびっくりした。自分を兄ちゃんと呼ぶのは、田村のママの娘のチマ子よりほかにはいない筈だが、ちかしチマ子は十日前に家出したきり、行方不明であった。チマ子の父親は大阪の拘置所にいるゆえ、面会や差入れに大阪へ行っているのかも知れないと、京吉は考えていた。
 もっとも、昨日、四条通りでチマ子の姿を見かけたいう男もいる。してみれば、やはり京都へ帰って来ているのかと、京吉はひょいと声のする方を見たがチマ子ではなかった。
 朝日ビルの前に、靴磨きの道具を出して、うずくまっている十二三の少女が、なつかしそうに京吉を見上げているのだった。
 あ、そうだ、ここにも一人自分を兄ちゃんと呼ぶ娘がいたっけ――と、京吉は思い出して、寄って行った。
「なんだ、お前か」
 お洒落の京吉は、いつもその娘に靴を磨かせていたのだが、この半月ほどはその場所に姿を見せなかったので、ふしぎに思っていた。
「うん。あたいや。兄ちゃん、あたいまた戻って来ちゃったの。あたいのことよう覚えてくれたはったなア」
 娘はうれしそうだった。アクセントは東京弁だが、大阪と京都の訛りがごっちゃにまじって、根無し草のようなこの娘の放浪を、語っているようだった。
「どうしてたんだ……?」
 と、靴を出すと、いそいそとブラシを使いながら、
「あげられちゃったの」
「悪いことしたのか」
「ううん。浮浪者狩りにひっ掛ったのよ。寝屋川のお寺に入れられてたんえ」
「逃げて来たのか」
「うん」
 クリームを塗っていた手をとめて、顔を上げると、ニイッと笑った。
「――やっぱし、靴磨きの方がいいわ」
 笑うと、奇麗な歯並びが印象的に白かった。一寸すが眼気味の眼元がぱっちりとして、薄汚れているが思わず見とれたくなる可愛さは前とかわらなかった。が、半月見ぬ間にすっかり痩せおとろえている。
 そのことを言うと、
「風呂は入れてくれるけンど、お腹ペコペコやさかい、風呂の中で眼がまわりそうになっちゃった。あんなとこにいてられへん」
 寺院で経営している収容所には、放浪性に富んだこの娘をひきとめる魅力は何一つなかったが、その埋め合せといわんばかしに、我慢しきれぬいやなことが随分多かったらしい。
「――センターがなつかしかったえ」
「野宿しても腹一杯食べた方がましか」
「うん。それに、収容所にいたら、兄ちゃんに会われへんさかい……」
「えっ……?」
「あたい、兄ちゃんに会いたかったえ」

      三

「おれに……? どうして……」
 会いたかったんだい――と思わずきくと、
「好きやもん。あたい、兄ちゃん好きえ」
 靴磨きの少女は、磨きもせず、熱っぽい眼でじっと京吉の顔を見つめながら、甘えるように言った。
 京吉はキョトンとした表情になった。
 時に三十男に見える京吉の苦味走った顔は、キョトンとすると、急に十二三の少年――いや少女のように可憐で無邪気な表情になる。びっくりした時の癖だった。
 いや、びっくりしたというより、むしろ不思議でたまらぬという気持だった。動く玩具を見た時の赤ん坊の驚きにも似ていた。鏡の前へ連れて行かれた犬のように、何か虚ろだが、新鮮な驚きだった。
「一体これは何の意味だろう。なぜこうなるんだろう」
 と、自分の心に、――というより自然に向って問いながら、首をかしげている謙虚な裸の状態だった。よれよれの五十銭札みたいに使い古された陳腐な言葉の助けを借りて、何もかも既知の事実にしてしまうという観念の衣裳をまとわぬナイーヴな子供の感受性を、京吉は馴々しく図太い神経の中に持っているのだ。
 例えば、祖母が死んだ時がそうだった。昨夜茉莉が倒れた時も、キョトンとしていた。
 そして今も……、十二の娘にあるまじい熱っぽい眼が、何か不可解で仕方がなかったのだ。しかも、それがなぜか得体の知れぬ不思議な魅力であった。
「兄ちゃん、右の足とかえて!」
 キョトンとしていた京吉は、娘に言われて、あわてて右足を出した。いつも左の足から磨かせているのは、ダンスの習慣で左足を先に出しているからであろう。
「ああ、もうそれでいい」
 いつもより念入りに磨いている娘の、鼻の上の汗を見ると、可哀相になって、金を払おうとすると、
「お金いらないわ。お兄ちゃんはただにしとく」
 ハアハア息を弾ませながら、娘は言った。
「ホールじゃあるめえし、――いや、ホールでももうただで踊るのは、おれこりたよ」
 払うよと、あちこちポケットを探ったが、財布の手ごたえがない。
「なんだ、掏られてやがらア」
 苦笑したが、べつに悲しそうな顔も見せず、
「――明日まとめて払うから、貸しといてくれ。済まん、済まん。じゃ、また……」
 歩き出して、三条通りを横切ろうとしたが、ジープが来たので、足を停めて待っていると、
「兄ちゃん!」
 娘が追いついて来て、腕にすがりついた。
「――あたいも一緒に行く!」
「…………」
 三条通りの角をカーブしたジープが、みるみる河原町の六角通り方に小さくなって行くのを見送っていると、
「もう、渡れる。兄ちゃん、さア渡ろう」
 京吉の手をひっぱるようにして横切った娘は、
「兄ちゃん、あたいと歩くのンいや……?」

      四

 二言目には兄ちゃん兄ちゃんとうるさいくらい、繰りかえすのが、娘にはたのしい癖のようだった。
 しかし、それがふと哀れじみて聴えたのは、この娘の孤独のせいだろうか。浮浪し、流転して来た一年余りの歳月の間に覚えた悲しい人恋いの歌のリフレエンのようだった。
 すくなくとも、京吉の耳には悲しい響きに聴えた。孤独と放浪の淀の水車のようなリズムが人一倍判る京吉だった。だから、
「兄ちゃん、あたいと一緒に歩くのンいや……?」
 と言いながら、そっと覗きこんで顔色をうかがう十二歳の娘の気持は、三十女が何気なくすり寄せて来る肩の柔い体温の意味よりも、もっと身近に読み取れて、その言葉の何か故郷を持たぬ訛りにも、しびれるようななつかしさを感じた。
 しかし、それにしても、この娘の熱っぽい眼は一体何であろう。
「おれと一緒に歩くと、誘拐されるぞ!」
 京吉は肩を並べて歩きながら言った。
「うん、兄ちゃん誘拐して!」
「汽車に乗って、どこかへ行こうか。牛小屋や水車小屋のある百姓家で泊めて貰ったり、どっかの家の軒先で、ラジオの音が家の中から流れて来るのを聴いたり、降るような星空にすっと星が流れるのを見たりしながら野宿したり、行き当りばったりの小さな駅で降りると、こんな所にも小さな町があって、汚い映画館のアトラクションのビラに、ホールを追い出された顔馴染みのアコーディオン弾きの名前が出ているのを見て、なつかしさに涙がこぼれたり、さびれた温泉場の宿屋で宿賃が払えなくなって、兄ちゃんは客引に雇われ、お前は交換手に雇われて……」
「兄ちゃん、誘拐して! 誘拐して!」
 京吉の眼もふとうるんでいたが、娘の眼も濡れていた。
 河原町通りの雑閙の中で、ふと旅への郷愁を語るくらい、京吉は感傷的になっていたのだ。が、本当にこの娘と一緒に放浪しようかという気持がふっと起ったのは、昨夜茉莉のお通夜にやって来なかった陽子への面当てだろうか。
「陽子はきっと誘惑されたんだ。田村で泊ったんだ。だから、来られなかったんだ」
 女は何人も知って来たが、恋は一度もしなかった京吉だった。女と関係しながら、恋だけはもっと素晴しい女とするんだと夢を抱いて来たのだ。そして、陽子となら恋が出来そうな気がした。いや、もう恋になっているかも知れない。すくなくとも恋心めいたなつかしさは感じていた。だから、ほかのダンサーとは踊っても、陽子とは踊ろうとしなかったのだ。抱いて踊るには、陽子は京吉にとって余りに処女であった。どんな女にも生理的に抵抗できない自分の踊りの技巧の中へ、陽子だけはひきずり込みたくなかったのだ。
「誘拐するにも、おれ金がねえや」
 むろん娘にもない……と苦笑すると、娘は、
「あたいお金持ってる。あたい今日インフレやねン」

      五

 京吉はケラケラと笑った。
 いくら持っているか知らないが、どうせ靴を磨いて稼いだ金のたかは知れている。それを、あたい今日インフレやねンという娘の言い方は、昨夜からの京吉の憂鬱を瞬間吹き飛ばして、京吉も噴き出しながら放浪の思いつきがもう一種の快感だった。
 陽子への面あてが咄嗟に放浪を思いつかせる――この衝動的な破れかぶれは、ませてはいても二十三歳という歳のせいか、それとも教養のなさか、身についた野性の浅はかな動きだろうか。いずれにしても、時と場合でぐるぐる変る京吉の心の動きは、昨日まであれほど魅力的だった京都の町々を、途端にいやらしく感じてしまった。
 焼けなかったと思って、威張ってやがらア。なんだ、こんな京都! 京都なんて隠退蔵物資みたいなもンだ。けちけちと食べずに残して置いたおかげで、値が上ったようなもんだ。もとは三文の値打しかなかったんだ。
 逃げ出そうと、京吉は娘の手を握ったが、しかし、足は自然に河原町通りを東へはいったごたごたした横丁の「セントルイス」という喫茶店へ向いたとは、一体どうしたことであろう。
「セントルイス」は京吉の巣であり、一日中入りびたっていることもある。京都をおさらばする前に寄って行こうと思ったのは、やはり京都への未練だろうか。
 しかし「セントルイス」は京都にありながら、京都ではなかった。この店の経営者は蘆屋のマダム連中で、かつては阪神間のブルジョワの有閑夫人を代表していた蘆屋のマダム連中も、洋裁教授の看板を出したり、喫茶店の共同経営を思いついたりしなければならぬくらい、恥も外聞も忘れた苦しい新円生活に追い込まれていたのであろう。
 京都は大阪や蘆屋の妾だといわれていた。しかし、この妾は旦那の大阪や蘆屋が焼けてしまうと、にわかに若がえって、無気力な古障子を張り替え、日本一の美人になってしまった。そして大阪や蘆屋の本妻は亭主の昔の妾を相手に、商売しなければならなくなったのだ。
 背に腹は代えられぬ情なさだが、しかし「セントルイス」は女の経営にしては、万事大まかに穴があいて、ちゃっかりした抜け目のなさが感じられぬのは、さすがに本妻の気品で、他の京都人経営の喫茶店を嗤っているところもあり、
「おれ京都がいやになったよ」
 と、京吉が言いに行くには、ふさわしい店でもあった。
 金文字のはいった扉を押すと、十球の全波受信機がキャッチしたサンフランシスコの放送音楽が、弦楽器の見事なアンサンブルを繊細な一本の曲線に流して、京吉の足は途端に、リズミカルに動き出した。が、
「京ちゃん、今電話掛ったわよ」
「誰から……?」
「陽子さん!」
 ときくと、はっと停った。

      六

「なアんだ」
 陽子から掛って来たのかと、わざと興冷めていたが、さすが甘い胸さわぎはあった。
「京ちゃんのリーベ……? マダム、それともメッチェン……? マイ、ダアーリングね」
 バーテン台の中にいる夏子は、舌を噛みそうな外国語を、ガラガラした声で言って、不器用な手つきで京吉の肩をぶった。そして京吉の連れて来た娘が、白い眼をキッと向けたのも気づかず、いきなりけたたましい笑い声を立てた。
 声も大きいが、身振りも大げさで、何か身につかぬ笑い方だった。藍色の上布を渋く着ているが、頭には真紅の派手なターバンを巻いている――そのチグハグさに似ていた。
 しかし、夏子はこのターバンを思い切って巻くようになってから、急にうきうきした気分になったのだ。そんな自分が不思議でならなかった。
 夏子の夫は歯科医で、大阪の戎橋附近の小さなビルの一室を診療所に借りて、毎日蘆屋から通っていた。夏子は歯科医などを莫迦にして嫁いだのだが、歯科医のボロさは夏子を蘆屋のプチブルの有閑マダムの仲間へ入れてくれた。
 しかし、夏子はもともと引っ込み思案で、応召した夫が戦死したのちも、六つになる男の子と昔かたぎの姑と、出戻りの小姑と一緒に暮すつつましい未亡人ぶりが似合う女であった。ガラガラしたしわがれた声や、人一倍大きく突き出した鼻も、案外彼女のさびしい貞淑さを裏切っていなかった。
 代診を雇ってやらせていた医院が、買い溜めの高価な薬品や機械や材料といっしょに空襲で焼けてしまったり、預金が封鎖されたりして、到頭友達と共同で喫茶店をひらくようになってからも、陰気に蘆屋の家に閉じこもって夫のことを考えている日が多かった。
 ところが、セントルイスへ時々やって来て、旦那を待ち合わせている先斗町の千代若という芸者が、焼け出されるまでは大阪の南地にいたというので、いろいろ大阪の戎橋附近の話をしているうちに、ああ、あの歯医者はんなら知ってますどころか、あての旦那はんどしたンや。
 えっと驚いてなおきくと、夫は千代若だけではなく、何人もの芸者や女給と関係があったという。千代若は簡単に捨てられたらしい。
「箒で有名どしたえ。ほんまに、こんなええ奥さんがいたはったのに……」
 夏子がもとの旦那の本妻だったと判ると、もう夏子の分までふんがいしている千代若の言葉をききながら、夏子は真青になっていたが、しかし、ターバンを巻くようになったのは、それから間もなくのことだ。
 千代若とも変な工合に親しくなり、蘆屋に帰る日もすくなく、急に笑い上戸になった……。
 京吉は笑い声の高い女がきらいだった。顔をしかめて、
「いつ掛ったんだい」
「気になるの。おほほ……。今より約五分前!」
 夏子は情報放送の真似をして、
「――でも、少ししてまた掛けるから、京ちゃん来たら、待って貰ってくれと必死の声で、言ってたわよ」

      七

「へえーん」
 京吉は小莫迦にしたような声を出していたが、やはり、陽子何の用事だろうと、胸はさわいでいた。
 京吉は陽子の身の上は何にも知らなかった。どこに住んでいるのかも知らなかった。陽子も京吉が田村に居候していることは知らなかった。十番館で一寸口を利くだけのつきあいでしかなかった。
 だから、セントルイスへ掛ければ、京吉がつかまると、陽子が知っていることすら、すでに京吉には不思議だった。むろん、これまで電話なぞ掛って来たためしはなかった。
 それだけに、意外なよろこびだと、胸が温まりかけたが、しかし、それでやに下るのはだらしがないと、京吉はピシャリと水を掛けた。
「昨日の今日じゃねえか。感じ悪いよ」
 夢がこわれたのだ。誰かと踊る時、いつもあごをぐっと引いて、心もち下唇を突き出しながら口を閉じている陽子の癖や、ほんのりと桜色に透けて見える肉の薄い耳から、生え下りへ掛けての、男を知らぬやるせない曲線の弱々しさを、三十男の感覚で思い出すと、なまなましい嫉妬が改めて甦った。
「おれ帰るよ」
「あら、電話きかないの……?」
「おれポン引じゃねえよ」
「ポン引って、何のことなの。やっぱしピンボケみたいなもの……?」
 夏子は「カマトト」ではなかったのだ。千代若と一緒に、キャッキャッと遊びまわったりすることが、何となく浮々と面白くて、にわかに不良マダムめいていたが、夏子はやはりうぶだった。スリルは感じても、体をよごすのは怖く、何にも知らなかった。見かけ倒しの不良マダムだった。共同経営者の他の二人が、抑留者の引揚げ促進運動のデモに参加することと、店へ来る客と大津へ泊りに行くことを、ちゃんと使い分けているのを、びっくりしたような眼でながめていたのだ。
「ピンボケ……? あはは……。朝帰りの女の電話を待つのは、ピンボケかポン引ぐらいなもんだ。おれ趣味じゃねえよ」
「あら、あら。本当に帰るの……?」
「電話掛ったら、おれもう京都にいねえよと、言っといてくれ」
「本当、それ。あたしあんたにリベラルクラブへはいって貰おうと思ってたのよ。知ってるでしょう、リベラルクラブ。同伴者がなければ入会できないのよ。アベック、素敵じゃないの。おほほ……」
 場ちがいのけたたましい笑いだった。
「アベックか。ふん」
 鼻の先で笑って、
「アベックは旅に限るよ。旅は道連れ、一夜は情けか」
 京吉は軽薄に言って、さア行こうと娘の手を取ると、
「――見よ、東海の朝帰り!」
 口ずさみながら、出て行った。


    東京へ

      一

 隣の部屋の話声で眼がさめた。枕元の時計を見ると、もう十時であった。
 しかし、章三にとってはまだ十時だ。
 章三はいつもは四時間ぐらいしか眠らぬ男だが、日曜日だけは夕方近くまでぐっすり眠ることにしている。寝だめをして置くのだ。田村という所は丁度それに都合よく出来ている。だいいち、貴子という女の体には、一種ふしぎな体温と体臭があり、エーテルのように章三を眠らせる作用を持っているのだ。ぐっすり眠ってしまう。忙しい章三にとっては、土曜日以外に会ってはならない女であり、日曜日の寝だめには重宝な女である。
 だから十時に眼がさめたのは、めずらしい方なのだ。しかし、眠りをさまたげたのは、隣の部屋の話声ではない。とすれば、一体何であろう。
 眼をさましたのは、彼の自尊心と情熱だ。いや、彼にとっては、自尊心と情熱とは同じものを意味する。自尊心だけが彼の情熱をうみ出すのである。
 そして、この情熱は今陽子に集中されているのだ。
 彼が陽子の父の中瀬古鉱三に陽子をくれといったのは、最初鉱三を訪問した時に陽子が章三に見せた高慢な表情のせいだった。陽子の眉はひそめられたのだ。好悪感情のはっきりしている陽子は、章三のような男のタイプには好感が持てなかった。章三の全身にみなぎっている自尊心が、元来自尊心の強い陽子を反撥したのであろう。爪楊枝職人の息子は、侮辱されたと、誇張して考えた。そして、この考えが直ちに陽子へのだしぬけの求婚に移るところに、章三の面目がある。即ち、章三にとって求婚とは陽子を侮辱する最も効果的な手段であり、鉱三に対する軽蔑も少しはあった。もともと、章三は鉱三の如き政治家を、少しも尊敬していなかった。尊敬していないから、金を出したのだ。
 ところが、陽子は章三との結婚をきらって家出した。
 章三の自尊心は完全に傷つけられた。この爪楊枝けずりの息子は、爪楊枝の先ほどの情熱も感じていなかった陽子に、はじめて情熱を動かされた。
「よし、いつかはあの女をおれの足許に膝まずかしてやる!」
 自尊心のためには、どんなことをもやりかねない章三だった。陽子を屈服させるためには、どんな犠牲を払ってもいいのだ。しかし、たった一つ、払ってはならない犠牲がある。いうならば、自尊心だけは犠牲にしてはならないのだ。
 だから、昨夜田村の玄関で陽子を見ても、章三は追うて行こうとしなかった。自尊心が許さなかったのだ。
「しかし、あの女が京都にいると判れば、こっちのもンや」
 ぼやぼや寝てられんぞ、と章三は寝床の中で、今日これから成すべきことを考えながら、隣室の話声をきくともなしに聴いていた。

      二

「いい部屋じゃないの、この洋室。このままバーに使えるわね」
「使ってたのよ。ただのお料理屋や旅館じゃ面白くないでしょう。だから、バーっていうほどじゃないけど、まあ洋酒も飲めるし、女の子もサーヴィス出来るように、この部屋だけ特別に洋室にしたのよ。今はオフリミットになっちゃったけど、開店当時は随分外人も来たわよ。いい子もわりと揃えてたのよ」
「京都には女の子つきで一晩いくらっていう宿屋があるときいてたけど、ははアん……」
「何がははアんよ。だけど、本当……? 東京までそんなデマがひろがってたの……?」
「デマでもないんでしょう。モリモリ儲けてるんじゃない……?」
「旧円の時ほどじゃないわよ。警察が喧しいから、女の子もみないなくなったし、この部屋だって今は応接間に使ってるぐらいだから……」
「とにかくたいしたものよ。ママは……。どう、出資しない……?」
「ああ、さっきのキャバレエの話……? 面白いと思うけど……」
「百万円で出来るでしょう。ママ、半分出してくれたら丁度いいのよ。銀座でぱアッと派手に開店するのよ。わーっと来ると思うがな。ママをあてにして、わざわざ東京から飛んで来たんだから……。ねえ、乗らない、この話。……今から準備して、クリスマスまでには、百万円回収出来ると思うがなア」
「さア、東京でどうかしら。大阪の赤玉なんか西瓜一個で五千円動かせるって話だけど。……東京じゃ、新円が再封鎖になったりしたら、どかんとバテちゃうんじゃない……?」
「見くびったわね。まア一度東京を見ることね。話じゃ判らない。今夜あたしが帰る時、ママも一緒に行かない……?」
「あら、今夜もう帰るの……?」
「京都見物……? 田村で十分。焼けない都会なんていうおよそ発展性のない所を見物したってくだらないわよ」
「ご挨拶ね」
「うふふ……。それに、もう帰りの切符三枚買っちゃったの。まごまごしてると、国鉄ゼネに引っ掛ったりして、眼も当てれらない」
「首に繩をつけて、あたしを連れて行こうというのね。負けた。だけど、あとの一枚は……?」
「どうせママのことだから、途中で一風呂浴びてということになるんじゃない……? 誰か連れて行くでしょう」
「ばかね」
「エーヴリ・ナイト!」
「何よ。それ。エーヴ……。歯むき出して!」
「うふふ……。ママのことよ。今でもそう……?」
「ばかッ!」
 応接間で話しているのは、貴子と、東京から来た貴子の友達であろう。やがて話声が聴えなくなった。貴子は二階へ上って行ったようだった。
「侯爵のところだな」
 章三の眼は急に輝いた。昨夜春隆のところへ来ていた陽子!
 十分ばかりして、貴子は章三の寝ている部屋へはいって来た。

      三

「あら。もうお眼覚め……?」
「うん」
 章三は腹這いのまま、手を伸ばして、煙草を取った。
「ライター……?」
 貴子がダンヒルのライターをつけようとしている間に、章三はもうマッチを擦っていた。ダンヒルのライターには、マッチを擦った時のぽっと燃える感じがない。それがいやだという章三の気持の底には、貴子と陽子の比較があった。
 魅力という点では、陽子は魅力の乏しい女だ。逆立ちしたって、貴子ほどの魅力は出て来ない。陽子がどれだけ処女の美しさに輝いていようと、高貴な上品さを漂わしていようと、教養があろうと、知性があろうと、一日一緒におれば、退屈するだろう。そう章三は観察していた。
 いわば、マッチの軸のように魅力がない。しかし、その陽子にジイーッと音を立てて燃える感じがあると、章三が思うのは、軸を手に持って、スッと擦る時の残酷めいたスリルに自尊心の快感を予想するからであろう。爪楊枝がマッチの軸を焼き亡ぼしてしまうのだ。そして、そんな野心がふと恋心めいた情熱に変っているのだから、所謂男の心は公式では割り切れない。
 火のついた軸から、ふと眼をはなして、章三は貴子を見た。貴子は昨夜のショートパンツではなかった。二十の娘が着るような花模様のワンピースを着ていた。エキゾチシズムからエロチシズムへ、そして日曜日の朝は、豚肉のあとの新鮮な果物のような少女趣味!
 章三の頭に陽子が浮んでいなかったら、この貴子の計算も効果があったかも知れない。
「東京でキャバレエやろうという話あるんだけど……」
 章三から金を出させようと思っているのだ。
「…………」
「何だか、銀座でいい場所らしいから、今夜行って見て来ようと思うんだけど……」
「誰と……?」
「ああ、お友達、来てるのよ。あとで会ってあげてね。ちょっと綺麗よ」
「それより、ゆうべ乗竹のとこへ来てた女、あれどこの女や」
「さア……」
「ここへは……?」
「はじめてでしょう。どうせ、どっかの玄人じゃないかしら」
「靴とりに来えへんのか」
「まだでしょう……?」
「乗竹は……? まだ居とるのンか」
「侯爵……? 帰ったわ、今……」
「ふーん」
「あなたは、これからどうなさる……?」
「大阪へ帰る」
「東京へ行くひまなんか……?」
「まア、ないな」
 そう言いながら、章三は、こいつ乗竹を誘って行くつもりやなと、キラッと光る眼で貴子を見た。そして、新聞をひろげると、
「売邸、某侯爵邸、東京近郊……」
 そんな広告が眼にとまった。

      四

 章三はゾッとするような凄い笑いをうかべて、
「こりゃ面白くなって来よったぞ!」
 と、その新聞広告を見ていた。
「某侯爵邸と書いとるが、こらてっきり乗竹侯爵のことにちがいない」
 章三は偶然というものを信じていた。自分の事業家としての才能や、頭脳回転の速度や、闘志は無論信じていたが、それ以上に偶然を信じていたのだ。
 爪楊枝けずり職人の家に生れたのは、偶然だ。そして、この偶然がやがてかずかずの偶然を呼んで、三十五歳の無名の青年実業家が、二十一年度の個人所得番付では、古い財閥の当主の上位を占めるという大きな偶然を作りだしたのだと、彼は思っていた。
「偶然に恵まれんような人間はあかん」
 これが彼の持論だ。もっとも、考えようによっては、誰の一生も偶然の連続であろう。しかし、偶然に対する鈍感さと鋭敏さがあるわけだ。章三は絶えず偶然を感じ、それをキャッチして来たのである。しかもそれを自分にとっての必然に変えてしまうくらい、偶然を利用するのが巧かった。いや、利用するというより、偶然に賭けるのだ。そして、賭にはつねに勝って来た。幸運に恵まれた男だというわけだが、しかし、例えば爪楊枝職人の家に生れたという偶然を、結局幸運な偶然にしてしまうまでには、絶えず偶然の襟首を掴んで、それに自分を賭けるというスリルがくりかえされて来たのだ。自信はあったが、しかし、必ず勝つときまった賭にはスリルはない。
 だから、章三にとって偶然を信ずるということは、自分は絶えず偶然によって試されて行く人間であり、しかもその時自分の頼るのは結局天よりも自分だけだということであろう。
 例えば――、新聞は誰でも読む。新聞のない一日はユーモアや偶然のない一日より寂しいくらいだ。祇園のあるお茶屋では、抱えの舞妓に新聞を読むことを禁じた。彼女はパンツの中へ新聞をかくして、便所の中で読んだという。昔は若い娘が新聞を持って町を歩いている姿は殆んど見られなかったが、最近では夜の町角で佇む若い軽薄な背のずんぐりした娘でも、ハンドバッグと一緒に新聞をかかえている。猫も杓子も読むのだ。しかし、同じ新聞を同じ時にひらいても、一番さきに眼にはいるのが、同じ記事だとは限らず、某侯爵邸の売物の広告が何よりも先にぱッと眼にはいるのは、余ほどの偶然であろう。
 しかも、この偶然を陽子、春隆、貴子、貴子の友達、東京行き……などという偶然に重ねてみると、もはや章三にはその売邸が乗竹侯爵邸以外のものであるとは思えず、今日一日の行動がもはや必然的にきまってしまった。そして、その行動がひろがって行くありさまを、描きながら、さりげなく貴子にきいた。
「何時の汽車にするンや」
「急行だから、夜の九時頃でしょう」
「車よんでくれ。飯はいらん」
「あら、もうお帰り!」
「急ぐんや。君の友達によろしく。どうせまた会えるやろ」
 章三はにやりとした。


    身上相談


      一

 猫も杓子も新聞を読む。同じ記事を読んでいる。われわれが思っている以上に、猫の関心も杓子の関心もみな似たり寄ったりである。しかしまた、われわれが思っている以上に、猫も杓子も同じ問題に関心を抱いているとは限らないのだ。
 われわれが思っている以上に、ひとびとは一番さきに新聞の同じ欄を見るだろうし、また、われわれが思っている以上に、ひとびとが一番さきに見る欄は、それぞれ違っているのだ。
 たとえば、坂野という男は、まっさきに身上相談欄を読む。そのあとで、ほかの欄を読む――こともあるし、読まぬこともあるが、とにかく身上相談欄をまっさきに読むことだけは、一日も欠かしたこともない。もっとも、一日もというのは、誇張だ。載っていない日があるからだ。
 今朝の新聞には載っていた。細君が逃げてしまっても、身上相談欄はちゃんと彼の傍にいた。その欄を読むという習慣は、実は細君の影響だが、細君がいなくなっても、この習慣だけはヒロポン注射同様逃げてしまわない。
 だから、坂野はまずヒロポンを二CC打った。それから今日の身上相談欄を読んだ。そして、改めて細君に逃げられたことを想い出して、ふんがいした。
「問――私の出征中、妻は、御主人は前線から帰りませんよという一巡査の言葉に偽られて、不倫の関係に陥り、ついに子供まで出来てしまったのでした。
 その上相手は私の勤務先の手当や、子供の貯金まですっかり消費してしまい、終戦となるや、私の復員をおそれて無籍の嬰児を連れたまま行方をくらましてしまいました。妻も今では、捨てられたと詫びて、苦しんでおりますが、このような相手が公職にいるとは、国家のためにも許されないと思います。また連れて行った赤ん坊について調査の方法はないものでしょうか。赤ん坊は相手の意に従ってまだ籍が入れてありません」
「答――戦争はそれ自体が悲劇ですが、その悲劇に巻き込まれた国民の生活、これは最も悲惨で苦悩の深いものです。あなたの胸中をお察しします。同時に奥さんについても一概に不貞の妻としてかたづけてしまうのは、気の毒のように思います。
 私どもは出征者の遺家族の生活というものを知りすぎるほど知っています。もし奥さんが前非を悔いておるなら許してあげて、再び平和な家庭をつくって下さい。
 ことにお子さんたちの将来を考えるとき、私はそれを希望します。それにしても相手の巡査はけしからん奴です。遺家族とあれば一層保護を加うべき任にありながら、色と慾の二筋道をかけるなど実に言語道断です。
 その男の勤務していた警察署に頼んで探し出し、厳重な処置をして貰って下さい」
 読み終ると、坂野はいきなり、
「ばか野郎!」
 とどなった。

      二

 その時、
「何が、ばか野郎なんだい……?」
 と、にやにや笑いながら、木崎がドアをあけてはいって来た。赤い眼をしばだたいているのは、昨夜坂野に打って貰ったヒロポンが効きすぎて、眠れなかったのであろう。
「聴えましたか。――いや、なに、おたくに言ったわけじゃないです。一寸これ見て下さい。ひでえもんですよ」
 坂野は新聞の身上相談欄を見せた。木崎はざっと眼を通して、
「なるほど、こりゃひどい!」
「そうでしょう。怒ったね、あたしゃ。全くこりゃ怒りもんでさアね。とんがらかる理由がざっと数えて四つはありまさアね。ひでえ話だよ、こいつア……」
 昔漫談をやっていただけに、真剣に喋っていても、坂野の喋り方は何か軽佻じみていた。
「まず第一に、よりによって、昨日の今日、こんな身上相談が出ているなんてね。罪ですよ。罪な野郎だよ、全く……。あたしゃアね、木崎さん、これを読んだ途端、女房の奴、てっきり男をこしらえて逃げやがったなと、ピンと来ましたよ。いや、それに違えねえ。ヒロポンだけで逃げるもんですか。だいたい、あたしと女の馴れ染めはね、あたしがまだ小屋に出ていた時分でしてね、え、へ、へ……。女房もその小屋で、ハッチャッチャッ……てね、足をあげて、踊ってましてね。つまり、踊り子。あたしゃ、これでも音楽家ですからね。先生ッ! ですよ。ねえ、先生ッ! と来やがった。徹夜稽古の晩にね、あたし眠いわと来やがった」
 そこで坂野は、ぶるぶるッと肩をふるわせて、もはや喜劇役者の身振りであった。
「――待ってましたッてとこですね。しかし、あたしゃ、眠いのかい、じゃ、一緒に寝ンねしようや――なんて言わない。夜が更けりゃ泥棒だって眠いや。辛抱、辛抱! 今夜のうちにあげてしまわなくっちゃ、明日の初日は開かんよ――ってね、実にこれ芸人の真随でさアね。すると、奴さん、眠くってたまらないのよ、ヒロポン打って頂戴! よし来た、むっちりした柔い白い腕へプスリ……、これがそもそも馴れ染めで、ヒロポンが取り持つ縁でさアね」
「じゃ、あんたのヒロポンは承知の上じゃないか」
「そうなんですよ。今更ヒロポンがどうの、こうの……。何言ってやがんだい。男が出来て逃げたに違えねえですよ。どこの馬の骨か知らねえが、ひでえ男だ。まるで、この警官でさアね」
 と、新聞を指して、
「――捨てられて、孕まされて、ポテ腹つき出して、堪忍どっせと帰って来たって、あたしゃ、承知しませんよ」
「しかし、そりゃ一寸気を廻し過ぎじゃないかな」
「いや。てっきりでさア。賭けてもいいね」
 百パーセントそれでさアねと、坂野が言った時、アパートの階段を登る足音が、
「見よ、東海の朝帰り……」
 という鼻歌と一緒に聴えて来た。

      三

「坂野さん」
 京吉は部屋の前まで来ると、馴々しい声を出した。
「――はいってもいい……?」
「あ、京ちゃんか」
 それで、はいれと言ったのも同じだった。
「はいりますよ。うっかり、あけられんからね、この部屋」
 京吉はドアを一寸あけて、首だけのそっと入れると、
「――おや、お客さん……?」
 と、言いながら、はいって来た。そして、木崎に向って、ピョコンと頭を下げた。木崎はおや見たような顔だなと思いながら、挨拶をかえした。
「人ぎきの悪いことを言うなよ。――第一覗かれなくっても、もう手遅れでさアね」
 逃げちゃったよと、坂野はケラケラと笑ったが、さすがに虚ろな響きだった。
「へえーん」
「京ちゃん、どう思う。女房のやつ男が出来たと、あたしゃ思うんだが、どうかね。おたくの観察は……」
「そりゃ、てっきりですよ」

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