わが町
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著者名:織田作之助 

わが町織田作之助   第一章 明治     1 マニラをバギオに結ぶベンゲット道路のうち、ダグバン・バギオ山頂間八十キロの開鑿(さく)は、工事監督のケノン少佐が開通式と同時に将軍になったというくらいの難工事であった。 人夫たちはベンゲット山腹五千フィートの絶壁をジグザグによじ登りながら作業しなければならず、スコールが来ると忽ち山崩れや地滑りが起って、谷底の岩の上へ家守のようにたたき潰された。風土病の危険はもちろんである。 起工後足掛け三年目の明治三十五年の七月に、七十万ドルの予算をすっかり使い果してなお工事の見込みが立たぬいいわけめいて、「……山腹は頗る傾斜が急で、おまけに巨巌はわだかまり、大樹が茂って、時には数百メートルも下って工事の基礎地点を発見しなければならない。しかも、そうした場所にひとたび鶴嘴を入れるや、必らず上部に地滑りが起り、しだいに亀裂を生じて、ついにはこれが数千メートルにも及ぶ始末である……」 もって工事の至難さを知るべしという技師長の報告が、米本国の議会へ送られた時には、土民の比律賓(フィリッピン)人をはじめ、米人・支那人・露西亜人・西班牙(スペイン)人等人種を問わず狩り集められていた千二百名の人夫は、五メートルの工事に平均一人ずつの死人が出るという惨状におどろいて、一人残らず逃げだしてしまっていた。 けれど、本国政府は諦めなかった。熱帯地にめずらしく冬は霜を見るというくらい涼しいバギオに避暑都市を開いて、兵舎を建築する計画の附帯事業として、ベンゲット道路の開鑿は、比島領有後の合衆国の施政に欠くことの出来ないものであった。 工事監督が更迭して、百万ドルの予算が追加された。新任のケノン少佐はさすがにこれらの人種の恃むに足らぬのを悟ったのか、マニラの日本領事館を訪問して、邦人労働者の供給を請うた。邦人移民排斥の法律を枉げてまでそうしたのは、カリフォルニヤを開拓した日本人の忍耐と努力を知っていたからであろうか。日本は清国との戦いにも勝っていた……。 領事代理の岩谷書記は神戸渡航合資会社の稲葉卯三郎をケノン少佐に推薦した。稲葉卯三郎が通訳長尾房之助を帯同、政庁を訪れると、ケノン少佐は移民法に接触してはならぬからと口頭契約で、人夫九百名、石工千名、人夫頭二十名、通訳二名、合計千九百二十二名の労働者の供給を申込んだ。 日給は道路人夫一ペソ二十五セント、石工二ペソ、人夫頭二ペソ五十セント、通訳は月給で百八十ペソと百ペソ、労働時間は十時間、食事及び宿舎は官費で病気の者は官営病院で無料治療、なおマニラ・ダグバン間の鉄道運賃は政府負担という申し分のない条件であった。 第一回の移民船香港丸が百二十五名の労働者を乗せて、マニラに入港したのは明治三十六年十月十六日であった。 股引、腹掛、脚絆に草鞋ばき、ねじ鉢巻きの者もいて、焼けだされたような薄汚い不気味な恰好で上陸した姿を見て、白人や比律賓人は何かぎょっとし、比人労働組合は同志を糾合して排斥運動をはじめ、英字新聞も日清戦争の勇士が比律賓占領に上陸したと書き立てた。 それを知ってか知らずにか、百二十五名の移民はマニラで二日休養ののち、がたがたの軽便鉄道でダグバンまで行き、そこから徒歩でベンゲットの山道へ向った。 まず牛車(カルトン)を雇って荷物を積み込み、そして道なき山を分け進んだが、もとより旅館はなく日が暮れると、ごろりと野宿して避難民めいた。 鍋釜が無いゆえ、飯は炊けず、持って来たパンはおおかた蟻に食い荒されておまけにひどい蚊だ。 そんな苦労を二晩つづけて、やっと工事の現場へたどり着いて見ると、断崖が鼻すれすれに迫り、下はもちろん谷底で、雲がかかり、時にはぐらぐらした岩を足場に作業して貰わねばならぬと言う。 ただでさえ異郷の、こんなところで働くのかと、船の中ではあらくれで通っていた連中も、あっと息をのんだが、けれど今更日本へ引きかえせない。旅費もなかった。 石に噛りついてとはこの事だと、やがて彼等は綱でからだを縛って、絶壁を下りて行った。 そして、中腹の岩に穴をうがち、爆薬を仕掛けるのだ。点火と同時に、綱をたぐって急いで攀じ登る。とたんに爆音が耳に割れて、岩石が飛び散り、もう和歌山県出身の村上音造はじめ五人が死んでいた。 間もなくの山崩れには、十三人が一度に生き埋めになった。 十一月にはコレラで八人とられた。 死体の見つかったものは、穴を掘って埋めたが、時には手間をはぶいて四五人いっしょに一つの穴へ埋めるというありさまであった。 坊主も宣教師も居らず、線香もなく、小石を立てて墓石代りの目じるしにし、黙祷するだけという簡単な葬式であった。ひとつには、毎日の葬式をいちいち念入りにやっていては、工事をするひまが無くなるためでもあったろう。それ程ひんぱんに死人が出た。 そんな風にだんだんに人数が減って行き、心細い日が続いたが、やがて第二回、第三回……と引き続いて移民船が来て、三十六年中には六百四十八名が、三十七年中にはほぼ千二百名がマニラへ上陸し、マニラ鉄道会社やマランガス・バタアン等の炭坑へ雇われた少数を除き、日給一ペソ二十五セントという宣伝に惹かれて殆んど全部ベンゲットへ送られて来た。内地では食事自弁で、五六十銭が精一杯だった。一ペソは一円に当る。しかも、ベンゲットでは食事、宿舎、医薬はすべて官費だということだ。 けれど、来て見ると、宿舎というのは、竹の柱に草葺の屋根で、土間には一枚の敷物もなく、丸竹の棚を並べて、それが寝台だ。蒲団もなく、まるで豚小屋であった。 食物もひどかった。 虫の喰滓のような比島米で、おまけに鍋も釜もないゆえ、石油鑵で炊くのだが、底がこげついても、上の方は生米のまま、一日一人当り一ポンド四分ノ三という約束の量も疑わしい。 副食物は牛肉又は豚肉半斤、魚肉半斤、玉葱又はその他の野菜若干量という約束のところを、二三尾の小鰯に、十日に一度、茄子が添えられるだけであった。 たちまち栄養不良に陥ったが、おまけに雨期になると、早朝から濡れ鼠のまま十時間働いてくたくたに疲れたからだで、着がえもせず死んだようになって丸竹の寝台に横たわり、一晩中蚊に食われているという状態ゆえ、脚気で斃れる者が絶えなかった。 三十七年の七、八、九の三ヵ月間に脚気のために死んだ者が九十三人であった。平均一日に一人の割合である。なお、マラリヤ、コレラ、赤痢で死ぬ者も無論多かった。 契約どおり病院はあった。が、医療設備など何ひとつなく、ただキナエンだけは豊富にあると見えて、赤痢にもキナエンを服まされた。なお、病院で食べさせられる粥は米虫の死骸で小豆粥のように見えるというありさま故、入院患者は減り、病死者がふえる一方であった。 すべては約束とちがっていたのだ。 こんな筈ではなかったと、鶴田組の三百名はとうとう人夫頭といっしょに山を下ってしまった。 そうしたものの、しかし雇われるところといってはマラバト・ナバトの兵営建築工事か、キャビテ軍港の石炭揚げよりほかになく、日給はわずかに八十セントで、うち三十五セントの食費を差し引かれるようではお話にならず、また、比律賓人の空家にはいりこんで自炊しながらの煎餅売りも乞食めく。 良い思案はないものかと評定していると、関西移民組合から派遣されて来たという佐渡島他吉が、「言うちゃなんやけど、今日まで生命があったのは、こら神さんのお蔭や。こないだの山崩れでころッと死[#文泉堂書店版では「い」のルビ]てしもたもんやおもて、もういっぺんベンゲットへ戻ろやないか。ここで逃げだしてしもてやな、工事が失敗(すかたん)になって見イ、死んだ連中が浮かばれへんやないか。わいらは正真正銘の日本人やぜ」 と、大阪弁で言った。すると、「そうとものし、俺(うら)らはアメジカ人やヘリピン人や、ドシア人の出来なかった工事(こうり)を、立派(じっぱ)にやって見せちやるんじゃ。俺(うら)らがマジダへ着いた時、がやがや排斥さらしよった奴らへ、お主(んし)やらこの工事(こうり)が出来るかと、いっぺん言うて見ちやらな、日本人であらいでよ」 と、言う者が出て、そして、あとサノサ節で、「一つには、光りかがやく日本国、日本の光を増さんぞと、万里荒浪ね、いといなく、マニラ国へとおもむいた」 と、唄いだすと、もう誰もベンゲットへ帰ることに反対しなかった。 そうして、元通り工事は続けられたが、斃れた者を犬死ににしないために働くという鶴田組の気持は、たちまち他の組にも響いて、何か殺気だった空気がしんと張られた。 屍を埋めて日が暮れ、とぼとぼ小屋に戻って行く道は暗く、しぜん気持も滅入ったが、まず今日いちにちは命を拾ったという想いに夜が明けると、もう仇討に出る気持めいてつよく黙々と、鶴嘴を肩にした。 鉛のように、誰も笑わず、意地だけで或る者は生き、そして或る者は死んだ。 三十七年の十月の或る夜、暴風雨が来て、バギオとは西班牙(スペイン)語で暴風のことだと想いだした途端に、小屋が吹き飛ばされ、道路は崩れて、橋も流された。それでも腑抜けず、ぶるぶるふるえながら夜を明かすと、死骸を埋めた足で早速工事場へ濡れ鼠の姿を、首垂れて現わした。 マニラのキャッポ区に雑貨商を出している太田恭三郎が、アメリカ当局と交渉して、ベンゲット移民への食料品納入を請負い、味噌、醤油、沢庵、梅干などを送って来てくれたのは、そんな時だった。     2 全長二十一マイル三十五のベンゲット道路が開通したのは、香港丸がマニラへ入港してから一年四ヵ月目の明治三十八年一月二十九日であった。 千五百名の邦人労働者のうち六百名を超える犠牲者があったと、開通式の日に生き残った者は全部泣き、白人・比律賓人・支那人たちが三年の日数と七十万ドルの金を使ってもなお一キロの開鑿も出来なかった難工事を、われわれ日本人の手で成しとげたのだという誇りはあっても、喜びはなかった。 おまけに工事が終ると、翌日からひとり残らず失業者で、なんとかしてくれと泣きつくには、アメリカ当局はあまりに冷淡であった。山を下り、マニラの日本人経営の旅館でごろごろしているうちに、儲けた金も全部使い果して、帰国するにも旅費はなく、うらぶれた恰好で、マニラの町をぞろぞろうろうろしているのを、見兼ねて、[#底本では、改行後はじめの一字さげ無し]「皆んな、ダバオの麻山へ働きに行け!」 太田恭三郎はすすめたが、ダバオはモロ族やバゴボ族以外に住む者のないおそろしい蛮地で、おまけにマラリヤのたちの悪さはベンゲット以上で、医者もいない。ダバオの麻山からベンゲット道路工事の方へ逃げだして来た者もあるくらいだ、そんなところへ誰が命を捨てに行くものかと、誰ひとり応じようとしなかったのを、日本人の医者も連れて行く、味噌も野菜も送ってやる、わるいようには計らぬ故、おれに任せろと太田は説き伏せた。「このまま餓死すると思えば、ダバオも極楽だぞ」 言われてみると、なるほど背に腹はかえられず、やがてマニラからぼろ汽船で二十日近く掛ってダバオにつき、遠くの森から聴えて来るバゴボ族の不気味なアゴンの音に肝をひやしながら、やがて麻山で働きだし、暫らくすると、バギオにサンマー・キャピタル(夏の都)がつくられて、ベンゲット道路がダンスに通う米人たちのドライヴ・ウェーに利用されだしたという噂が耳にはいった。 そんな目的でおれたちの血と汗を絞りとっていたのかと、皆んなは転げまわって口惜しがり、工事が済むといきなりおっぽり出されたことへの怒りも砂を噛む想いで、じりじり来たが、とりわけ佐渡島他吉はいきなり血相をかえて、ダバオを発って行き、何思ったのかマニラの入墨屋山本権四郎の所へ飛び込んだ。 そうして、背中いっぱいに青龍をあばれさせた勢いで、マニラじゅうへ凄みを利かせ、米人を見ると、「こらッ。ベンゲット道路には六百人という人間の血が流れてるんやぞオ。うかうかダンスさらしに通りやがって見イ。自動車のタイヤがパンクするさかい、要心せエよ。帰りがけには、こんなお化けがヒュードロドロと出るさかい、眼エまわすな。いっぺん、頭からガブッと噛んでこましたろか」 と、あやしい手つきでお化けの恰好をして見せた途端に、いきなり相手の横面を往復なぐりつけた。「文句があるなら、いつでも来い。わいはベンゲットの他(た)あやんや」 それで、いつか「ベンゲットの他あやん」と綽名がつき、たちまち顔を売ったが、そのため敬遠されて、やがて僅かな貯えを資本にはじめたモンゴ屋(金時氷や清涼飲料の売店)ははやらなかった。 国元への送金も思うようにならず、これではいったいなんのために比律賓まで来たのかわけが判らぬと、それが一層「ベンゲットの他あやん」めいた振舞いへ、他吉を追いやっていたが、やがて「お前がマニラに居てくれては……」かえってほかの日本人が迷惑する旨の話も有力者から出たのをしおに、内地へ残して来た妻子が気になるとの口実で、足掛け六年いた比律賓をあとにした。 神戸へ着いて見ると、大阪までの旅費をひいて所持金は十銭にも足らず、これではいくらなんでも妻子のいる大阪へ帰れぬと、さすがに思い、上陸した足で外人相手のホテルの帳場をおとずれ、俥夫に使うてくれと頼みこむと、英語が喋れるという点を重宝がられて、早速雇ってくれた。 給料はやすかったが、波止場からホテルへの送り迎えに客から貰うチップが存外莫迦にならず、ここで一年辛抱すれば、大阪へのよい土産が出来る、それまではつい鼻の先の土地に妻子が居ることも忘れるのだ、という想いを走らせていたが、三月ばかり経ったある日、波止場で乗せた米人を、どう癪にさわったのか、いきなりホテルの玄関で、俥もろともひっくりかえし、おまけに謝ろうとしないのがけしからぬと、その場でホテルを馘首になった。 その夜、大阪へ帰った。六年振りの河童路地(がたろろじ)のわが家へのそっとはいって、「いま、帰ったぜ」 しかし、返事はなく、家の中はがらんとして、女房や、それからことし十一歳になっている筈の娘の姿が見えぬ。 不吉な想いがふと来て、火の気のない火鉢の傍に半分腰を浮かせながら、うずくまっていると、「誰方――?」 ぬっと軒口(かどぐち)から顔を出した者がある。「よう〆さんか?」 相変らずでっぷりして、平目のような頬ぶくれした顔は、六年会わぬが、隣家に住んでいる〆団治だと、一眼でわかった。「なんや、おまはんやったんか。今時分人の家へ留守中にはいって、何やらごそごそしてるさかい、こらてっきり泥的やと思たがな……」 前座ばかり勤めているが、さすがに落語家で、〆団治のものの言い方は高座の調子がまじっていて、他吉は大阪へ帰って来たという想いが強く来た。「――しかし、他あさん、よう帰って来たな。いったいいつ帰って来てん? 言や言うもんの、お前、もう足掛け六年やで」「いま帰ったとこや」 他吉はちょっと固垂をのみ、「――ところで、皆どこイ行きよってんやろ。影も形も見えんがな」 夜逃げでもしたのではないかという顔で、訊くと、「声はすれども、姿は見えぬ、ほんにお前は屁のような……」 〆団治はうたうように言って、「――今日はお午(うま)の夜店やさかい、そこイ行ったはんネやろ」「さよか。――」 他吉はああ、よかったと、ほっとしたが、急に唇をとがらせて、「このくそ寒いのに、夜店みたいなもん、見に行かんでもええのに……。子供が風邪ひいたらどないすんねん。ほんまに、うちのかか[#「かか」に傍点]はど阿呆[#「ど阿呆」に傍点]やぜ」 そう言うと、〆団治は、なにを莫迦なこと言うてんねん、他あやんよう聴きやと、一喋り喋る弾んだ口つきになって、「お鶴はんが、何の夜店見物に行くひとかいな。お鶴はんはな、お初つぁん[#底本では「お初っあん」となっている]と一緒に夜店へ七味(なないろ)唐辛子を売りに行ったはるねんぜ」「えっ? ほな、なにか。夜店出ししとんのんか」 他吉は毛虫を噛んだような顔をした。「さいな。おまはんがヘリピンとかルソンとか行ったはええとして、ちっとも金は送っては来んし……」「送ったぜ」「はじめの二三年やろ? あとはお前鐚一文送って来ん、あとに残った二人がどないして食べて行けるねん? 夜店出しなとせんと、餓死してしまうやないか。ほんにお前は薄情な亭主やぜ。お鶴はんは築港に二階つきの電車が走っても、見に行きもせんと、昼は爪楊子の内職をして、夜はお前、夜店へ出て、うちのくそ親爺め言うて、ぽろぽろ涙こぼしこぼし、七味混ぜたはんねんぜ」 いかにもそれらしい表情で、七味唐辛子を混ぜる恰好をして見せた〆団治の手つきを見るなり、他吉は胸が熱くなり、寒い風が白く走っている戸外へ飛び出した。 谷町九丁目の坂を駈け降りて、千日前の裏通りに出ているお午の夜店へ行くと、お鶴が存外小綺麗な店にちょこんと坐って、ガラス箱の蓋を立てかけた中に前掛けをまいた膝を見せ、赤切れした手で七味を混ぜていた。娘の初枝は白い瀬戸火鉢をかかえて、まばらな人通りを、きょとんと見あげていた。 物も言わずにしょんぼり前に立った。「おいでやす」 言って見上げて、お鶴は他吉だとすぐ判ったらしく、「阿呆んだら!」「御機嫌さん。達者か」 他人にもの言うような口を利くと、もう一度、「阿呆んだら!」 お鶴は泣いていた。 それが六年振りの夫婦の挨拶であった。初枝は父親の顔を忘れているらしかった。水洟を鼻の下にこちこちに固めて、十一歳よりは下に見えた。「あんた、なんぜ、手紙くれへんかってん。帰るなら帰ると……」 お鶴の髪の毛は、油気もなくばさばさと乱れて、唐辛子の粉がくっついていた。 唐辛子の刺戟がぷんと鼻に眼に来て、他吉は眼をうるませた。「出せ言うたカテ、出せるかいな。わいに字が書けんのは、お前かてよう知ってるやろ。亭主に恥かかすな」 他吉はわざと怒ったような声で言い、「――しかし、大阪は寒いな」 と、初枝のかかえている火鉢の傍へ寄った。     3 翌日から、他吉がひとりで夜店へ出て、七味唐辛子の店を張った。 場割りの親方が、他吉を新米だと思ってか、「唐辛子はバナナ敲きの西隣りや」 と、いちばんわるい場所をあてがうと、他吉はいきなり「ベンゲットの他あやん」の凄みを利かせて、良い場所へ振りかえて貰ったが、「ああ、七味や、七味や、辛い七味やぜ、ああ、日本勝った、日本勝った、ロシヤ負けた。ああ、七味や、七味や!」 普通爺さん婆さんがひっそりと女相手に売っている七味屋に似合わぬ、割れ鐘のような掛け声をだしたので、客は落ち着いて、七味の調合にこのみの注文をつけることも出来ず、自然客足は遠ざかった。 招き猫の人形みたいに、ちょこんと台の上に坐って、背中を猫背にまるめてごしごし七味を混ぜていると、いっぺんに精が抜けてしまい、他吉はベンゲットのはげしい労働がかえってなつかしく、人間はからだを責めて働かな、骨がぶらぶらしてしまうという想いが、背中の青龍へじりじり来て、いたたまれず、むやみに赤いところを多くして、あっと顔をしかめるような辛い七味を竹筒に入れていたが、間もなく七味屋を廃してしまった。「あんた、またヘリピンへ行く積りとちがうか」 お鶴は気が気でなかったが、さすがに帰った早々、二人を見捨てて日本を離れることも出来ず、神戸で三月いた間にためて置いた金をはたいて、人力車の古手を一台購い、残ったからだ一つを資本に、長袖の法被(はっぴ)のかわりに年中マニラ麻の白い背広の上着を羽織った異様な風態で俥をひいて出て「ベンゲットの他吉」の綽名はここでも似合った。 二年経った夏、お鶴は冷え込みで死んだ。 他吉の留守中、まる四年夜店出しをしていた間にぬれた夜露が女の身にさわったのかと、博覧会も見ず、二階つき電車がどこを走っているかも知らなかったということもなにか不憫で、他吉は男泣いたが、死んで行くお鶴はその愚痴はいわず、ただ、「初枝の身がかたづくまで、あんたもベンゲットの他あやんや言われて、ええ気になって、売り出したり、うかうかよその国へ行ってしまわんようにしなはれや。大体、あんたは昔からおっちょこちょいやさかい、気イつけて、阿呆な真似をしなはんなや」 西日のかんかん射し込む奥の四畳半に敷いた床の上で、蚊細い声の意見をして、息絶えた。 夏になると、しきりに比律賓への郷愁にかり立てられる他吉の腹の虫を、お鶴は見抜いていたのだろうか。 お鶴の死に足止めされて、八年が経った。 一日何里俥をひいて走っても、狭い大阪の町を出ることは出来ないと、築港へ客を送るたび、銅羅の音に胸をどきどきさせているうちに、もう娘の初枝は二十一歳であった。 節分の日、もうその歳ではいくらか気がさす桃割れに結って、源聖寺坂の上を、初枝が近所の桶屋の職人の新太郎というのと、肩を並べて歩いている姿を、他吉は見つけた。 すぐ寺の境内に連れ込み、新太郎の横面を殴りつけた勢いで、初枝の顔にも手が行ったが、折角の髪をつぶしてはと、この方はさすがに力を抜いて、他吉の眼がさきに火が出るくらい、情けなかった。 こんな不仕鱈(ふしだら)な女をひとり放って置いて、比律賓へ行ってしまえば、どうなっていたことかと、他吉はひやっとしたが、間もなく行われた町内のマラソン競争で桶屋の新太郎は一等をとった。 新太郎は少年団の世話役で、毎夜子供たちを集めて、生国魂(いくだま)神社の裏の空地でラッパを教え、彼の吹くラッパの音は十町響いて、銭湯で冬も水を十杯あびるのは、他吉のほかは町内で新太郎ただひとりであった。なお、銭湯の帰り、うどん屋でラムネ一杯のまず、存外律儀者であった。 マラソン競争のあった翌日、他吉はれいの上着のポケットに、季節はずれの扇子を入れて、桶屋の主人を訪れ、「早速やが……」 と、新太郎を初枝の婿にする話を交渉した。「さあ、わいには異存はないけど、新太郎の奴がどない言いよりまっしゃろか」 桶屋の主人が言うと、「どないも、こないも、あんた、おまはんやわいの知らん間にあいつらもうちゃんと好いた同志になっとりまんねんぜ。阿呆らしい。ほんまに、こんな、じゃらじゃらした話おまっかいな」 他吉はぷりぷりしたが、しかし、新太郎の身体の良いところを見込んでの話だと、万更でも無い顔つきだった。 新太郎の年期ももうとっくに済んでいたので、話はすぐ纒った。 やがて、新太郎は玉造で桶屋を開業したが見込んだ通り、働き者で、夫婦仲のよいのは勿論である。 他吉はやれやれと思い、河童路地(がたろろじ)の朝夕急にそわそわしだした。 が、新太郎が開業する時に借りた金は、未だすっかり済んでいない。比律賓へ行くのはもうすこしの辛抱だと、じっと腹の虫を圧えている内、新太郎の家の隣りから火が出て、開業早々丸焼けになった。 焼け出されて、新太郎は一時河童路地の他吉の家へうつって来たが、げっそりして、頭から蒲団をかぶって、まるで暖簾に凭れて麩噛んだような精のない顔をしていた。 もう一度、立ち直って、桶屋をはじめる気もないらしく、また、職を探しに歩こうともしなかった。 ぶつぶつ何やら呟いているのを聴けば、開業資金に借りた金の残額を、おろおろ勘定しているのだった。「阿呆んだらめ!」 他吉は叱りつけて、「家の中でごろごろして借金がかえせる思てるのか。いったい、これからどないする気や。もちっと、はんなりしなはれ」「さあ、どないしたらええやろ。もう、こうなったら、冷やし飴でも売りに歩かな、仕様(しよ)おまへんな。ほんまに、えらい災難や」 心細い声で、ぼそんと言った。「仕様(しよう)むないこと言いな。お前みたな気イで冷やし飴売りに歩いてたら、飴が腐敗(くさ)ってしまう……」 言って、他吉はふと眼をひからせた。「――それとも、よっぽど冷やし飴が売りたけりゃ、マニラへ行きなはれ」「なんぜまた、マニラへ……?」 黙っている新太郎に代って、初枝がおどろいて訊くと、「マニラは年中夏やさかい、モンゴ屋商売して、金時(氷)や冷やし飴売ってても、結構商売になる。大阪にいてては、お前、寒なったら、冷やし飴が売れるか」「冬は甘酒売ったら、ええ」 初枝に肱を突かれて、新太郎が言うと、他吉は噛んだろかというような顔をした。「情けないこと言う男やな。新太郎、よう聴きや、人間はお前、若い時はどこイなと、遠いとこイ出なあかんネやぜ。――お初はわいが預っててやるさかい、マニラへ行って、一旗あげて来い」「…………」 二度焼け出されたようなものだと、新太郎が首垂れていると、「行くか、行けへんか。どっちやねん? 返事せんか。行かんと言うネやったら、わいにも考えがある。お初を……」「お父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]。何言うてんねん。死んだお母(か)はんの……」 遺言忘れたかと、初枝が言いかけるのを、「お前は黙ってエ」「黙ってられるかいな」と、壁一重越しにきいていた〆団治が、くるくるした眼で、はいって来て、「――他あやん、お前の言い分は、そら目茶苦茶や」 助け船を出したが、もう他吉はきかず、無理矢理説き伏せて、新太郎をマニラへ発たせた。 他吉は初枝とふたりで、神戸にまで見送りに行ったが、「わいもこの船でいっしょに……」 ……行きたい気持をおさえるのに、余程苦労した。 その代り、銅羅が鳴るまで、他吉はベンゲット道路の話をし、なお、「モンゴ屋商売しても、アメリカ人の客には頭を下げんでもええぞ。毎度おおけにと頭が下りかけたら、いまのベンゲットの話を想い出すんやぜ。――それから、歯抜きの辰いう歯医者に会うたら、忘れんと二円返しといてや。わいが虫歯抜いてもろた時の借りやさかい、他あやんがよろしゅう申してました言うて、二円渡しといてや」 と、言った。「コレラに罹らんように、気イつけとくなはれや」 初枝はおろおろして、やっとこれだけ言った。 初枝は〆団治の世話で、新世界の寄席へ雇われて、お茶子をした。[#改頁]   第二章 大正     1 そこは貧乏たらしくごみごみとして、しかも不思議にうつりかわりの尠ない、古手拭のように無気力な町であった。 角の果物屋は何代も果物屋をしていて、看板の字も主人にも読めぬくらい古びていた。 酒屋は何十年もそこを動かなかった。 銭湯も代替りをしなかった。 薬局もかわらなかった。よぼよぼの爺さんが、いまだに何十年か前の薬剤師の免状を店に飾って、頓服を盛っているのだった。もぐさが一番よく売れるという。 八百屋の向いに八百屋があって、どちらも移転をしなかった。隣の町に公設市場が出来ても、同じことであった。 一文菓子屋の息子はもう孫が出来て、店先にぺたりと坐って、景品(あてもの)附きの一文菓子を売るしぐさも、何か名人芸めいて来た。 散髪屋の娘はもう二十八歳で、嫁に行かなかった。年中ひとつ覚えの「石童丸」の筑前琵琶を弾いていた。散髪に来る客の気を惹くためにそうしているらしく、それが一そう縁遠い娘めいた。 一銭天婦羅屋は十年路地の入口で天婦羅をあげていた。 甘酒屋の婆さんももうかれこれ十五年寺の門前で甘酒の屋台を出していた。夏でも出していた。 相場師も夜逃げをしなかった。落語家(はなしか)も家賃を六つもためて、十七年一つ路地に居着いていた。 路地は情けないくらい多く、その町にざっと七八十もあろうか。 いったいに貧乏人の町である。路地裏に住む家族の方が、表通りに住む家族の数よりも多いのだ。 地蔵路地は※の字に抜けられる八十軒長屋である。 なか七軒はさんで凵の字に通ずる五十軒長屋は榎路地である。 入口と出口が六つもある長屋もある。狸(たのき)裏といい、一軒の平家に四つの家族が同居しているのだ。 銭湯日の丸湯と理髪店朝日軒の間の、せまくるしい路地を突き当ったところの空地を、凵の字に囲んで、七軒長屋があり、河童路地という。 この空地は羅宇(らお)しかえ屋の屋台の置場であり、夜店だしの荷車も置かれ、なお、病人もいないのに置かれている人力車は、もちろん佐渡島他吉の商売道具である。 この空地は洗濯物の干場にもなる。けれど、風が西向けば、もう干せない。日の丸湯の煙突は年中つまっていて、たちまち洗濯物が黒くなってしまうのだ。 羅宇しかえ屋の女房は名古屋生れの大声で、ある時、亭主を叱った声が表通りまできこえ、通り掛った巡査があやしんで路地の中まで覗きに来たというくらい故、煙突の苦情は日の丸湯の番台へ筒ぬけだが、日の丸湯の主人はきかぬ振りした。 また、長屋の中で、改まって煙突の掃除のことで、日の丸湯へ掛け合った者はひとりもない。 日の丸湯の主人というのは、先代より引き続いて、河童路地の家主であり、横車(ごりがん)も振る男であった。 河童路地はむかしこのあたりに河童が棲んでいたという噂からそういう名がついたほかに俗に只(ただ)裏ともいい、家賃は只同然にやすいさかいやと、日の丸湯の主人は言っていたが、それさえ誰もきちんと払えた例しはなく、かたがた煙突の苦情も言うて行けなかった。 つまりは、貧乏長屋であった。 だから、たとえば蝙蝠傘修繕屋のひとり息子は、小学校にいる間から、新聞配達に雇われて、黄昏の町をちょこちょこ走った。 明るいうちに配ってしまわぬと、帰りの寺町がひっそりと暗くて怖い。十歳の足で、高津神社の裏門の石段を、ある夕方、ひと日、ふた日は晴れたれど、三日、四日、五日は雨に風、道のあしさに乗る駒も、踏みわずらいて、野路病い……と、歌いながら、あわてて降り、黒焼屋の前まで来ると、「次郎ぼん、次郎ぼん」 うしろから呼び止められた。 振り向くと、血止めの紙きれをじじむさく鼻の穴に詰めこんだ他吉が空の俥をひきながら、にこにこ笑っている。「他あやん、また喧嘩したんやなア。あんまり売りだしたら、どんならんな」 二軒並んだ黒焼屋の店先へ、器用に夕刊を投げこみながら、そう言うと、「さいな、あんまり現糞(げんくそ)のわるい事言いやがったさかい……」 しかし、――他吉という男はど阿呆や、われが六年もいて一銭の金もよう溜めんといたマニラへ娘の婿を懲りもせんと行かす阿呆があるかと言われて、何をッと腹が立った余りの喧嘩だとは、さすがに子供相手に語りも出来ず、「お初に告わんといてや」 しおらしい声で言った。「さあ。どないしょ? ここが思案の四ツ橋……」「子供だてらに生意気な言い方しイな。――どや、しかしもう、犬に吠えられたかて、怖いことあれへんか」「犬か、犬はもう馴れたわ」「そか、そらええ。次郎ぼん、なんぼでも、せえだい働きや。人間はお前、苦労して、身体を責めて働かな、骨がぶらぶらしてしまうぜ。おっさんら見てみイ。六年まえ、ベンゲットで……」 松屋町筋まで来た。「他あやん、もっとほかの話してんか。ベンゲットの話ばっかしや。〆さんの落語(はなし)の方がよっぽどおもろいぜ」「そら、下手は下手なりに、向(むこ)は商売人や。――どや、しんどいやろ。豆糞ほど(少しの意)俥に乗せたろか」「なんじゃらと、巧いこと言いよって……。そないべんちゃら[#「べんちゃら」に傍点](お世辞)せんでも、他あやん喧嘩したこと黙ってたるわいな」 そして、早く配ってしまわねば叱られるさかいと、駈け出して行くのを、他吉は随いて行って、「ほな、おっさんに夕刊一枚おくれんか」 その気もなく言うと、「やったかて、読めるのんかいな。おっさんら新聞見ても、新聞やのうて珍ぷん漢ぷんやろ?」「殺生な。そんな毒性(どくしょ)な物の言い方する奴あるか。――ほんまはな、夕刊でなこの鼻の穴の紙を……」 ……詰めかえながら、河童路地へ戻って来ると、めずらしく郵便がはいっていた。切手を見て、マニラの婿から来た手紙だとすぐ判ったが、勿論読めなかった。 歯抜きの辰という歯医者を探したところ、とっくに死んでいたというたよりがあってから、一月振りの手紙で、こんどはどんなたよりが書いてあるかと、娘の帰りを待ち切れず、〆団治なら読めるだろうと、その足で、「〆さん、〆さん、留守か。居るのんか。居れへんのんか」 隣の〆団治に声をかけた。 すると、羅宇しかえ屋の家の中から、声だけ来て、「〆さんは寄席だっせ」「さよか。――ところで、おばはん、けったいな事訊くけど、おまはん字イはどないだ?」「良え薬でもくれるのんか。なんし、わての痔イは物言うても痛む奴ちゃさかい」 字と痔をききちがえて、羅宇しかえ屋のお内儀が言うと、「あれくらい大けな声出したら、なるほど痛みもするわいな」 と、理髪店朝日軒で客がききつけて、大笑いだった。     2 理髪店朝日軒では、先年葬礼の道供養に友恵堂の最中を二百袋も配って、随分近所の評判になった。 袋には朝日軒と書かれてあり、普通何の某家と書くところを、わざとそうしたのは無論宣伝のためであったろう。 死んだのはそこの当主で、あと総領の敬吉が家業を継ぐわけだが、未だ若かった、先代は理髪養成学校の創立委員で、嘱託されて教師にもなり、だから死なれて見ると、二代目の敬吉の若さは随分目立つ。おまけに高慢たれで、腕はともかく客あしらいはわるいと、母親のおたかにも心細くわかり、道供養に金を掛ける気持も出たのだろうが、ひとつには、娘の義枝のこともあったのではなかろうか。 どういうわけか、縁遠いのだ。二十六でまだ片づかぬのはおかしいと、近所の評判がきびしくて、父親も息を引きとる時まで、これを気にしていたくらいだ。 なお、義枝の下に定枝がいて、二十三といえば、義枝の歳に直ぐだった。しかも、そういう縁遠い小姑が二人もいては、敬吉に嫁の来手もあるまいと二十九歳の敬吉の独身までが目立ち、商売とちがって、ここでは彼の若さも通らなかったわけだ。おまけに、十七の久枝、十三の敬二郎、十の持子もあとに控えている。 父親の生きている時分はともかく、後家になったいまは、何か肩身のせまい想いに身が縮まって、おたかがそんな道供養を張り込んだ気持も、うなずけるのだった。 それかあらぬか、葬式が済んで当分の間、おたかは毎日かやく飯や五目寿司を近所へ配った。長屋の者など喜んだのはむろんである。わりにおたかの肩身が広くなったようで、それで娘の歳なども瞬間隠れた。 義枝はそんな母の心を知ってか知らずにか、忙しく立ち働いて炊事を手伝った。 小柄で、袖なしなどを色気なく着て、こそこそ背中をまるめ、びっくりしたような眼をしていた。器量もたいして良くなかった。 筑前琵琶をならい、年中「石童丸」を弾いて、それで散髪に来る客の心を惹いているように誤解されていることは、さきに述べた通りである。 父親の四十九日が済んで間もなく、紋附きを着た男が不意に来て、義枝の縁談であった。 気配で何かそれらしく、おたかは随分狼狽した。咄嗟の心構えがつかず、むしろ気恥かしく応待した。取り乱しては嗤われるかねがねの負目で、嬉しい顔も迂濶に出来なかった。 客は小憎いほど落ち着いて、世間話のまくらをだらだらとふった。 それで焦らされて、おたかはわざと濃い表情も自然に装えて、顔をしかめた。すると、縁談をきく心用意もどうやら出来たが、そうして落着いたところは、意外にも断る肚であった。 相手の身分も訊かぬうちに、そんな風に決めて、われながら意固地な母だったが、いまに始ったわけではない。 ……父親の生きていた頃、三度義枝に縁談があったことはあった。 相手は呉服屋の番頭、公設市場の書記、瓦斯会社の集金人と、だんだん格が落ちた。 父親はいつのときも、賛成も反対もせず、つまりは煮え切らず、ぼそぼそ口の中で呟いているだけだったが、おたかはまるで差し出でて、仲人に向い、「格式の違うことあれしまへんか」 と、いつもこの調子で、仲人を怒らしてしまい、その都度簡単に話は立ち消えたのだ。 当座の小気味良さも、しかし、あとでむなしい淋しさと変った。だから、義枝には、「あんな仕様むない男に貰われたら、お前の一生の損やさかいに……」 と言い聴かせ、それをまた自分へのいいわけにもした。 よその娘なら知らず、義枝の父親は理髪業者の寄合へ洋服で出席した最初の人で、なお町会の幹事もしているのだ……。 ところが、そんなことがあって、こんどの相手は畳屋の年期奉公上りの職人で、と聴いてみると、やはりおたかはあらかじめ断る肚をきめて置いてよかったと思った。 散髪屋も畳屋も同じ手職稼業でたいした違いはないようなものの、おたかにしてみれば、口惜しいほど格式が落ちたと思われ、だから断るにもサバサバした気持だった。 仲人はあきれて帰って行った。 おたかは暫時ぺたりと坐りこんだまま、肩で息をし、息をし、畳の一つところを凝視していた。腹立たしいというより、むしろさすがに取り逃した気持でわれにあらず心に穴があいた。「なんぜ断る気になったんやろか」 と、考えてみても判らず、所詮いまさらの後悔だったが、いってみれば父親は下手に町会の幹事などしたわけだ。 ひとつには、義枝の年が若ければ、かえって畳屋の職人でもあっさりと応じられたのかもしれず、つまりはひがみだったろうか。 やがてそわそわと立ち上り、勝手元へ出てみると、義枝はしきりに竈の下を覗いていた。新聞紙を突っ込み、薪をくべ、音高く燃えて、色黒い義枝の横顔に明るく映えていた。ふと振り向いたその眼が赤く、しばたたき、煙のせいばかりでないとおたかは胸痛く見たが、どういうわけかおたかの声は、「えらい煙たいやないか」 と、叱りつけるようだった。 大分経って、義枝の下の定枝を貰いに来た。 先方は小学校の教員で、二十九歳だというから、定枝と四つちがいだった。二十五の娘(いと)はんやったらしっかりしたはって、願ったりかなったりだと、わざわざ定枝の歳をありがたいものにするいい方を、仲人はして、つまりはおたかの気性をのみこんでいた。 そうされてみれば、おたかもさすがに固い表情が崩れ、小学校の教員といえば、よしんば薄給にしろまずまず世間態は良いと、素直に考えることが出来た。贔屓目にも定枝の器量は姉の義枝とそんなにちがいはしなかったが、ずんぐりとして浅黒い義枝とくらべて、定枝はややましにすんなりと蒼白く、そういう談があってみれば、いまそれは透き通るように白いと、改めて見直されるぐらいだった。なお、先方は尺八の趣味があるといい、それも何となく奥床しいではないかと、これで纒らねば嘘だった。 仲人は無料の散髪をして帰った。 ところが、纒まると見えて、いざ見合いという段になると、いきなりおたかは断ってしまった。 仲人は驚いたが、怒った顔も見せず、なるほど、姉さんをさし置いて妹御をかたづける法もなかったと筋を通して、御縁は切れたわけでもないと、苦労人だった。 けれども、その言葉は思いがけずおたかには痛く、妙なところで効果があった。 実はもって、おたかには断るほどの理由もはっきりとはなく、強いて娘の見合いの晴れがましさに馴れず臆したのだと言ってみたところで、それでは余りに阿呆らしく小娘めく。仲人ももう一押し押せば、十に一つは動く振り[#「動く振り」は底本では「く動振り」と誤植]もおたかには充分あったところだが、もはやそんな痛いところを突かれては、おたかの気持はいつものところへ落ち着いて、「格式が違うことあれしめへんか」 意固地な声であった。さすがの仲人もむっとした。 怒った顔二つ暫時にらみ合って、やがて仲人の帰ったあと、勝手元で騒々しい物音や叫声がして、おどろいておたかが出て見ると、義枝と定枝が掴み合い掴み合っているのだ。 おたかは何か思い当って、はっと胸をつかれ、蒼ざめた途端に、いきなり逆上して、二人を突き離すと、漆喰の上へ転がり落ちたのは、義枝の方だった。そのつもりではなかったが、倒れて見れば、やはり義枝らしかった。 物音で近所のひとびとがわざとのように駈けつけて来ると、ぴたりと三人は静まりかえった。 定枝はぷいと出て行った。義枝はおろおろと身体を縮めて忍び泣いていたがやがて座敷へはいると、琵琶をかきならした。それが店の間にもきこえ、客は頭を刈られながら、ふんふんときいた。 翌日、おたかは近所へ海老のはいったおからを配った。 半年経って、十九の久枝に縁談があったとき、矢張り義枝をさし置いてということが邪魔した。 久枝は北浜の銀行へ勤めに出て、太鼓の帯に帯〆めをきりりとしめ、赤い着物に赤い鼻緒の下駄で、姉たちとはかけはなれて派手な娘であった。なお、眼鏡を掛けていた。 相手は同じ銀行に働く男で、銀行員といえば、もう飛びつきたい話にはちがいなかった。しかし、同じところで働いていたとすれば、浮いた話ではなかったかと近所の評判も気にされた。 もともと久枝を勤めに出すことは、何かと気がひけていたのである。娘を働かさねばやって行けぬ世帯かと見られることが、随分辛いのだ。だから、同じ銀行で働く男と結婚したとすれば、一層とやかくの噂は避けがたい。 それがおたかにはいやだった。といって、断るには惜しい談だと、いろいろ迷ったあげく、結局義枝の縁組みもせぬうちに久枝をかたづけるわけには行かぬと、これがおたかの肚をきめたのである。 次の縁談があるまで半年待った。 こんどの談は敬吉に来て、先方は表具屋の娘だったから、これも敬吉の意見をきかぬうちに有耶無耶になった。仲人はしかし根気よく三度足を運んだのだった。 が、三度目にはもう、「こんな年増の小姑のいる家に、誰が嫁に来まっかいな」 と、捨科白して、ばたばたと帰ってしまった。 いわれてみると、おたかはちくちく胸が痛み、改めて敬吉の歳を数えてみると、三十だった。 三十の声をきいてから、敬吉の頬にはめきめき肉がついて、ふっくらとし、おまけに商売柄いつも剃り立ての髭あとがなまなまと青かった。 そんな顔を敬吉は店の間からはいって来てぬっと見せると、「いまのお客さん何しイに来はったんやねん?」 わりに若い声で訊いた。「何もしイに来やはれへんぜ」 おたかはとぼけて見せ、「――店放っといてええのんか」 叱りつけるように言うと、敬吉はこそこそ店へ引きかえした。 そして、見習小僧に代って、客の顔を剃りながら、かねがね理由(わけ)もなしに母親に頭の上らぬ自分の顔を、しょんぼり鏡に覗いていると、何となく気が滅入ったが、ふと、「良え薬でもくれるのんか。なんし、わての痔イは物言うても痛む奴ちゃさかい」 という羅宇しかえ屋のお内儀の声がきこえ、「あれくらい大けな声出したら、なるほど痛みもするわいな」と、客が笑ったのにつられて、敬吉も黒いセルロイドのマスクのかげで笑い、「ほんまにイな」 剃刀をとめて、客の笑いのとまるのを待っているところへ、他吉がひょっくりはいって来た。「敬さん。また無心や」「なに貸してほしいねん?」「さいな。今日は剃刀とちがう。あんたの学を貸してほしいねん」「安い御用やが……」 敬吉は講義録など読み、枢密院の話などを客にして、かねがね学があると煙たがられていた。「これをひとつ読んでほしいねん」 マニラからの手紙を渡すと、敬吉は剃刀を片手に眼を通した。「どうせ婿の新太郎から来た手紙や思いまっけど、なんぞ言うとりまっか。マニラは暑うてどんならん言うとりまっか」 敬吉はしかしそれに答えず、「他あやん、えらい鈍(どん)なこっちゃけど、こらわいには読めんわ」 と、びっくりした顔だった。「えらいまた敬さんに似合わんこっちゃな、どれ、どれ、わいにかして見イ、わいが読んだる」 客は散髪台の上に仰向けになったまま、他吉の手からその手紙を受けとったが、すぐ、あっと声をのんで、「わいにも読めんわ。えらい鈍なことで……」 と言いながら、滅法高い高下駄をはいた見習小僧にそれを渡した。「――お前読んでみたりイ」「へえ」 そして、読みだした小僧の声は、筑前琵琶の音にところどころ消されたが、他吉の胸に熱く落ちて来た。 マニラへ行っていた婿の新太郎が、風土病の赤痢に罹って死んだ旨、新太郎に部屋を貸している人からの報らせの手紙だった。「なんやて? さっきのとこもういっぺん読んで見てんか。一昨日の……?」「一昨日の午前二時、到頭看護及ばず逝去されました」「セイキョてなんやねん」「死ぬこっちゃ」 小僧は十六歳だった。 瓦斯燈がはいって、あたりはにわかに青い光に沈んだ。 理髪店の大鏡に情けない顔をちらと蒼弱くうつして、しょんぼり表へ出ると、夜がするする落ちて来た。 他吉は腑抜けて、ひょこひょこ歩いた。     3 それから半時間も経ったろうか、他吉はどこで拾ったのか、もう客を乗せて夜の町を走っていた。 通天閣のライオンハミガキの広告燈が青く、青く、黄色く点滅するのが、ぼうっとかすんで見えた。 客は他吉の異様な気配をあやしんで、「おやっさん、どないしてん? 泣いてるのんと違うか」「泣いてまんねん」「えっ?」 客はその返辞の仕方のほうに驚いてしまった。「――こらまたえらい罪な俥に乗ってしもたもんや。これから落語ききに行こちゅうのに、無茶苦茶やがな。一体どないした言うねん?」「へえ。娘の婿めが、あんた、マニラでころっと逝きよりましてな」「マニラ……? マニラてねっから聴いたことのない土地やが、何県やねん」「阿呆なこと言いなはんな」 ポロポロ涙を落しながら、マニラは比律賓の首府だと説明すると、「さよか、しかし、なんとまた遠いとこイ行ったもんやなあ」「マラソンの選手でしたが……」「ほんまかいな、しかし、可哀相に……。そいで、なにかいな。その娘はんちゅうのは子たちが……?」 あるのかと訊かれて、またぽろりと出た。「まあ、おまっしゃろ」「まあ、おまっしゃろや、あれへんぜ。男の子オか」「それがあんた、未だ生れてみんことにゃ……」 新世界の寄席の前で客を降ろすと、他吉はそのまま引きかえさず、隣の寄席で働いている娘の初枝を呼びだした。「お父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]なんぞ用か」 出て来た初枝は姙娠していると、一眼で判るからだつきだった。 他吉はあわてて眼をそらし、「うん。ちょっと……」 と、言いかけたが、あと口ごもって、「――ちょっと〆さんの落語でもきかせてもらおか思てな……」 寄ったんだと、咄嗟に心にもないことを言うと、「めずらしいこっちゃな。あんな下手糞な落語ようきく気になったな。そんなら、俥誰ぞに見てもろてるさかい、はよ、聴いてきなはれ」「いや、もう、やめとくわ。それより、ちょっとお前に話があるねん」 そして、寄席を出て、空の俥をひきながら歩きだすと、初枝は、「話やったら、ここで言うたら、ええやないか。けったいやなあ」 と言いながら、前掛けをくるりと腹の上へ捲きつけて、随いて来た。 活動小屋の絵看板がごちゃごちゃと並んだ明るい新世界の通りを抜けると、道は急にずり落ちたような暗さで、天王寺公園だった。 樹の香が暗がりに光って、瓦斯燈の蒼白いあかりが芝生を濡らしていた。 美術館の建物が小高くくろぐろと聳え、それが異国の風景めいて、他吉は婿の新太郎を想った。 白いランニングシャツを着た男が、グラウンドのほの暗い電燈の光を浴びて、自転車の稽古をしている。それが木の葉の隙間から影絵のように蠢いて見えた。 動物園から猛獣の吼声がきこえて来た。ラジュウム温泉の二階で素人浄瑠璃大会でも催されているらしく、太の三味線の音がかすかにきこえた。 丁稚らしい男がハーモニカを吹いている。「流れ流れてエ、落ち行く先はア、北はシベリヤ、南はジャバよ……」 というその曲が、もう五十近い他吉の耳にもそこはかとなく物悲しかった。 ベンチに並んで、腰掛けた。「お父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]、なんぜこんなとこイ連れて来んならんねん。けったいなお父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]やなあ。話があるねんやったら、はよ言いんかいな」 初枝がいくらか不安そうに言うと、他吉は横向いて、「明いとこで涙出して見イ。人さんに嗤われて、みっともないやないか」 初枝はどきんとした。「ほな、なんぞ泣かんならんようなことがあるのんか」「…………」 他吉は黙って、マニラからの手紙を渡した。 初枝は立ち上って、瓦斯燈のあかりに照らして読んだ。 途端に初枝は気が遠くなり、ふと気がついた時は、もう他吉の俥の上で、にわかに下腹がさしこんで来た。 産気づいたのだと、他吉にもわかり、路地へ戻って、羅宇しかえ屋のお内儀の手を借りて、初枝を寝かすなり、直ぐ飛んで行って産婆を自身乗せて来たので、月足らずだったが、子供は助かり、その代り初枝はとられた。「えらい因果なこっちゃな。死亡届けが二つと出産届けが一つ重なったやないか」 朝日軒の敬吉は法律知識を高慢たれて、ひとり喧しかったが、しかし、他の者は皆ひっそりとして、羅宇しかえ屋の女房でさえ、これを見ては、声をつつしんだ。 長屋の寄り合いにはなくてかなわぬ〆団治も、「おまはん、今日はただの晩やあらへんさかい、あんまり滑稽(ちょか)なこと言いなはんなや」 と、ダメを押されて、渋い顔をしていたが、けれど、さすがに黙っているのは辛いと見えて、腑抜けた恰好で壁に向って、ぶつぶつひとりごとを言っている他吉の傍へ寄って、「他あやん、ほんまにえらいこっちゃな、まるでお前、盆と正月が一緒に……」 うっかり言いかけると、「〆さん、阿呆なこと言いな!」 敬吉の声が来た。 それで、さすがに〆団治もシュンとしてしまったが、暫らくすると、また口をひらいて、「しかし、他あやん、人間はお前、諦めが肝腎やぜ。おまはんもよくよく運(かた)のわるい男やけど、負けてしもたらあかんぜ。そんな、夢の中で豆腐踏んでるみたいな顔をせんと、もっとはんなり[#「はんなり」に傍点]しなはれ。おまはんまで寝こんでしまうようになったら、どんならんさかいな」 そんな口を敲くと、他吉は、「何ぬかす、あんぽんたん奴。わいが寝こんでしもて、孫がどないなるんや。ベンゲットの他あやんは敲き殺しても死なへんぞ」 と、そこらじゅうにらみ倒すような眼をしたが、けれど、直ぐしんみりした声になると、「――しかし、言や言うもんの、〆さんよ、新太郎の奴と初枝はわいが殺したようなもんやなあ」 と、言った。 十日ばかり経った夜、界隈の金満家の笹原から、ちょっと話があるからと、他吉を呼びに来た。 黒の兵古帯を二本つなぎ合わせ、それで孫の君枝を背負って行くと、笹原は酒屋ゆえ、はいるなりぷんと良い匂いがし、他吉は精進あげの日飲んだのを最後に、生駒に願掛けて絶っている酒の味を想って、身体がしびれるようだった。「夜さり呼びつけて、えらい済まなんだけど、話言うのはな、実はおまはんのその孫のことやがな……」 型通りのおくやみを述べたあと、笹原はそう切りだした。「――藪から棒にこんなこと言うのは、なんやけったいやけど、その子どこぞイ遣るあてがもうあるのんか」「いえ、そんなもんおまへん」「そか、そんなら話がしやすい。早速やが、他あやん、その子うちへ呉れへんか」「ほんまだっかいな」「嘘言うもんか。おまはんも知ってる通り、うちは子供が一人も出けへんし、それにまた、わしもそうやが、うちの家内(おばはん)と来たら、よその子供が抱きとうて、うちに風呂があるのに、わざわざ風呂屋へ行きよるくらい子供が好きやし、まえまえから、養子を貰う肚をきめてたんや。ほかにも心当りないわけやないけど、それよりもやな、気心のよう判ったおまはんの孫を貰たらと、こない思てな。それになんや、その子は両親(ふたおや)ともないさかい、かえって貰ても罪が無うて良えしな」「……………」 背負った孫可愛さの重みに他吉は首を垂れて、慌しく心の底を覗いていた。 祖父ひとり孫ひとりのわびしい路地裏住いよりも、こんな大家にひきとられて、乳母傘で暮せば、なんぼこの子の倖せかと、願うてもない孫の倖せを想わぬこともなかったが、しかし、この子の中には新太郎と初枝の生命がはいっていると想えば、到底手離す気にはなれず、おろおろ迷っていると、「言うちゃなんやけど、礼はぎょうさん[#「ぎょうさん」に傍点]さして貰うぜ。おまはんの好きな酒も飲み次第や」 と、笹原が言った。途端に他吉の肚はきまった。「旦さん、えらい変骨言うようでっけど、わたいは孫を酒にかえる気イはおまへん。眼に入れても痛いことのない孫でっけど、酒に代えて口の中へ入れたら舌が火傷してしまいま」「そない言うてしもたら、話でけへんがな。――そらまあ、おまはんが私は要らん言うのやったらそいでええとせえ。しかし、他あやん、おまはんはそいでええとしても、ひとつその子のことを考えてみたりイな。河童路地で育つ方が倖せか、それとも……」 痛いところを突かれたが、他吉はいきなり、「そら判ってます。よう判ってま」 と、顔をあげて、「――しかし、旦さん、たとえ貧乏でも、狸や河童の巣みたいな路地で育っても、やっぱり血をわけたわいに育ててもろた方が、この子の倖せだす。いやきっとわたいが倖せにしてやりま」 そこまで言って、他吉は男泣いた。 やがて、涙をふきふき、「――まあ、聴いてやっとくれやす。この子のお父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]も、わいが無理矢理横車(ごりがん)振ってマニライ行かしたばっかりに、ころっと逝ってしまいよりました。この子のお母んもそれを苦にして、到頭……。言うたら皆わたいの責任だす。もうわたいは自分の命をこの孫にくれてやりまんねん」 言っているうちに、本当にその覚悟が膝にぶるぶる来て、光った眼をきっとあげると、傍にいた笹原の御寮人が、「あんたのそう言うのんはそら無理もないけど、ほんまに男手ひとつで育てられまっか。あんた、お乳が出るのんか」「出まへん、なんぼわたいの胸を吸うても、そら無理だす。胃袋で子供うめ言うのと同じだす」「それ見なはれ」「しかし、御寮はん、ミルクいうもんが……」 言うと、笹原が、「ミルクで育った子は弱い」 だしぬけに言った、「そうだすとも……」 笹原の御寮人は残酷めいた口元を見せて、「――他あやん、うちはその子貰たらお乳母をつけよ思てまんねんぜ。それに他あやん、あんたその子背負(せた)ろうて俥ひく気イだっか」「ほな、こいで失礼さしてもらいま。えらいおやかまっさんでした」 他吉が頭を下げると、背中の君枝の頭もぶらんと宙に浮いて、下った。     4  間もなく他吉は南河内狭山の百姓家へ君枝を里子に出し、その足で一日三十里梶棒握って走った。 里子の養育料は足もとを見られた月に二十円の大金だ。なお、婿の新太郎が大阪に残して行った借金もまだ済んでいない。 他吉の俥はどこの誰よりも速く、客がおどろいて、「あ、おっさん、そないに走ってくれたら、眼エがまう。もうちょっと、そろそろ行(や)って貰えんやろか」 と、頼んでも、「わたいはひとの二倍、三倍稼がんならん身体だっさかい、ゆっくり走ってられまへんねん」 辛抱してくれと、言って振り向いた眼の凄みに物を言わせて、他吉はきかなんだ。 その頃、大阪の主な川筋に巡航船が通った。 俥など及びもつかぬ速さで、おまけに料金もやすく、切符に景品をつける時もあって、自然俥夫連中は打撃をうけ、俥に赤い旗を立てて、巡航船の乗場に頑張り、巡航船に乗ろうとする客を、喧嘩腰で引っ張ろうとしてかなわぬ時は巡航船へ石を投げるという乱暴もはたらいたが、他吉はそんな仲間にはいらず「ベンゲットの他吉」を売り出そうとせなんだ。 もっとも、朋輩との客の奪い合いには、浅ましいくらい厚かましく出て、さすがに「ベンゲットの他あやん」の凄みを見せ、その癖酒は生駒に願掛けたといって一滴ものまず、なお朋輩に二十銭、三十銭の小銭を貸すと、必ず利子を取った。 次郎ぼんに貰った夕刊を一銭で客に売りつけることもあり、五厘のことで吠えた。 ある夏、角力の巡業があった。 横綱はじめ力士一同人力車で挨拶まわりをすることになったが、横綱ひとり大き過ぎて合乗用の俥にも乗れず、といって俥なしの挨拶まわりも淋しいと考えた挙句、横綱の腰に太い紐をまわし、その紐を人力車二台にひかせて、横綱自身よいしょよいしょと練り歩いて、恰好をつけ、大阪じゅうを驚かせた。 新聞に写真入りで犬も吠えたが、この俥をひいたのが、他吉とその相棒の増造で、さすが横綱だけあって祝儀の張り込み方がちがう、どや、これでたこ梅か正弁丹吾(しょうべんたんご)で一杯やろかと増造が誘ったのを、他吉は行かず、「それより此間(こないだ)貸した銭返してくれ。利子は十八銭や、――なにッ! 十八銭が高い? もういっぺん言うてみイ」 そんな時他吉の眼はいつになくぎろりと光り、マニラ帰りらしい薄汚れた麻の上着も、脱がぬだけに一そう凄みがあった。 ところが、それから半月ばかり経ったある夜のことだ。 御霊の文学座へ太夫を送って帰り途、平野町の夜店で孫の玩具を買うて、横堀伝いに、たぶん筋違橋(すじかいばし)か、横堀川の上に斜めにかかった橋のたもとまで来ると、「他吉!」 と、いきなり呼ばれ、五六人の俥夫に取り囲まれた。「なんぞ用か?」 咄嗟に「ベンゲットの他あやん」にかえって身構えたところを、「ようもひとの繩張りを荒しやがったな」 と、拳骨が来て、眼の前が血色に燃えた。「何をッ!」 と、まずぱっと上着とシャツを落して、背中を見せ、「さあ、来やがれ!』 と、振りあげた手に、握っていた玩具が自分の眼にはいらなかったら、他吉はその時足が折れるまで暴れまわったところだが、 ――今ここで怪我をしては孫が…… 他吉は気を失っただけで済んだ。 やがて、どれだけ経ったろうか、ベンゲットの丸竹の寝台の上に寝ている夢で眼をさますと、そこはもとの橋の上で、泡盛でも飲み過ぎたのかと、揺り起されていた。 そうして五年が経った。 間もなく小学校ゆえ君枝を自身俥に乗せて河童路地へ連れて戻ると君枝は痩せて顔色がわるく、青洟で筒っぽうの袖をこちこちにして、陰気な娘だった。 両親のないことがもう子供心にもこたえるらしく、それ故の精のなさかと、見れば不憫で、鮭を焼いて食べさせたところ、「これ、何ちゅうお菜なら?」 と、里訛で訊くのだった。「鮭という魚(とと)や」「魚て何なら?」「あッ、それでは……」 里では魚も食べさせて貰えなかったのかと、他吉はほろりとして、「取るもんだけは、きちきち取りくさって、この子をそんな目に会わしてけつかったのか」 と、そこらあたり睨みまわす眼にもふだんの光が無かった。 君枝は茶碗の中へ顔を突っ込み、突っ込み、がつがつと食べ、ほろりとした他吉が、「ほんまにお前にも苦労さすなあ。堪忍(かに)してや。しかし、なんやぜ、よそへ貰われるより、こないしてお祖父(じい)やんと一緒に飯(まま)食べる方が、なんぼ良えか判れへんぜ。な、そやろ? そない思うやろ?」 と、言っても、腑に落ちたのかどうかしきりに膝の上の飯粒を拾いぐいしていた。 入学式の日、他吉は附き添うて行った。 校長先生の挨拶に他吉はいたく感心し、傍にいる提灯屋の親爺をつかまえて、「やっぱし校長先生や。良えこと言いよんなあ。人間は何ちゅうても学やなあ」 と、しきりに囁いていたが、やがて新入生の姓名点呼がはじまると、他吉は襟をかき合わせ、緊張した。「青木道子」「ハイ」「伊那部寅吉」「ハイ」「宇田川マツ」「ハイ」「江知トラ」「ハイ」 アイウエオの順に名前を読みあげられたが、子供たちは皆んなしっかりと返辞した。 サの所へ来た。「笹原雪雄」「ハイ」 笹原雪雄とは笹原が君枝の代りに貰った養子である。来賓席の笹原はちょっと赧くなったが、子供がうまく答えたので、万更でもないらしくしきりにうなずいていた。「佐渡島君枝」「…………」 君枝は他所見していた。「佐渡島君枝サン」 他吉は君枝の首をつつき、「返辞せんかいな」 囁いたが、君枝はぼそんとして爪を噛んでいた。「佐渡島君枝サンハ居ラレマセンカ? 佐渡島君枝サン!」 他吉はたまりかねて、「居りまっせエ、へえ。居りまっせ」 と、両手をあげてどなった。 頓狂な声だったので、どっと笑い声があがり、途端におどろいて泣きだす子供もあった。
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