猿飛佐助
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著者名:織田作之助 

「――もし、お隣の仁、折角御清興中を野暮な問い掛けでおそれ入るが、お手前はいったいどこの何人でござるか」
 と、声を掛けた。途端に笛の音がやんで、隣から聴え来たのは、
「我こそは信州真田の鬼小姓、笛も吹けば法螺も吹く、吹けば飛ぶよな横紙を、破った数は白妙の、衣を墨に染めかえた、入道姿はかくれもなき、天下の横紙破り三好清海入道だ」
「なアんだ、三好か」
 佐助はふき出してしまった。阿呆の一つ覚えの名乗りを、さも得意らしく牢屋の中であげているのもおかしいが、それよりおかしいのは、俺は昨日茶店の女にきいた時、てっきり宝蔵院くずれだと思ったが、三好入道もまた山賊退治に失敗して牢の中に閉じこめられているのか、まず、佐助は自分の名を告げたあと訊ねたところ、果してその通りであった。が、上田の城内におとなしくいた筈の三好が何のためにのこのこ上田を発って来たのかと、その旨問うと、三好は言下に、
「貴様を縛り首にする為だ」
「えっ? なんだと?」
 さすがに驚き、人を驚かすが自分は驚かぬのを伊達男の心得の第一としている手前、佐助は咄嗟に自分を恥じて、何たる心の弱まりかと情けなかった。
 三好は佐助が案の定驚いたらしいのを見ると、ますます図に乗って、
「いつぞやの歌合せの夜、無断でお城を飛び出して気儘勝手に諸国漫遊[#「諸国漫遊」は底本では「諸国慢遊」]に出掛けた不届きな猿飛め、唐天竺まで探し出して、召しとって参れとの殿の上意をうけて上田を発ち、東西南北、貴様の行方を探しもとめている内、ひょんなことから、この牢屋へ閉じこめられ、退屈しのぎに笛を吹いていたというわけよ」
 と、日に一度吹かねば気嫌のわるいという法螺を、凝りに凝った笛のあとで吹けたという喜びにぞくぞくしながら、
「――したが、ここで会ったとは何が幸せになるやら、やい、猿飛、上意だ、繩に掛れ、……といいたいが、壁をへだてた牢の中。――おい、猿飛、貴様忍術が使えるのだろう。えいと九字をきって、ドロドロと鼠に化け、チョロチョロと穴を抜け出して、この俺を救い出してくれ」
「その忍術が使えるなら、今時、貴様の下手糞な笛など聴いておるものか」
 いかにもしょんぼりした声だが、さすがに虚勢を張って、佐助がそう言うと、三好は、
「ははあん。俺を救い出すと、こんどはお主が俺に召しとられるおそれがあると思って、そんな嘘を言っているのだろう」
 と、自身法螺吹きだけに、直ぐ邪推した。すると、
「莫迦! 坊主頭の貴様の前で嘘を言うても洒落にもなるまい」
 と、はや駄洒落がはじまり、
「――昨日までの俺ならば、天から降ったか地から湧いたか、火遁、水遁、木遁、金遁、さては土遁の合図もなしに、ふわりと現われふわりと消えて、消えぬアバタの星空も、飛行の術で飛んでもいたが、鳥人先生のいましめ受けて、封じられたる忍術の、昔を今になすよしも、泣く泣く喞(かこ)つ繰言の、それその証拠には、この合部屋に膝をかかえているじゃないか」
 と、万更法螺でもなさそうだったから、
「じゃ、この鈴鹿峠が俺たちの墓場か」
 と、三好がげっそりとすれば、
「そうよ。坂はてるてるの坊主の三好、墨の衣は鈴鹿の鐘を、チンと敲いて念仏でも唱えているんだな」
 などと、他愛もない洒落にますますうつつを抜かしはじめると、もういけない、まるで弁慶か索頭(たいこ)持ちみたいにここを先途と洒落あかして、刻の移るのも忘れてしまったが、そのありさまはここに写すまでもない。
 その翌日、まるで申し合わせたように、鈴鹿峠の麓の茶屋に柔かな物腰をおろした若い娘があった。峠を越すのかと女中がたずねると、
「峠を越せば、遠く信州を猿飛様にやがて近江(会う)路、日の暮れぬうちに越そうと思います」
 という気取った言い方は、大方佐助の感化であろう、それは楓であった。
 新手村の大晦日の夜と、それから城中での歌合せの夜の二度まで、自分を振り切るように逐電してしまった佐助が一途に恋しくて、思い余ったその挙句に、佐助たずねてのあてなき旅の明け暮れにも、はしたなく佐助ばりの口調が出るとは、思えば佐助も幸福な男である。
「滅相もない、お女中様、そりゃおよしなさいませ。あの峠にはおそろしい山賊がおります。昨日もアバタ面のお武家様が山賊退治に行くといって出掛けられましたが、今に下ってみえない所をみると……」
 女中がそう言いかけると、もしと楓はせきこんで、
「もしやそのお侍、信州訛りでは……?」
 胸のあたりがどきどきと顫え、そして、
「さア、どこの訛りかは知りませんが、妙に気取った物の言い振りをされるお武家様で……」
 という女中の言葉を皆まできかず、あ、佐助様にちがいはないと、起ち上ると、茶代も置かずに山道を駈け登って行った。そして、生きているか、死んでいるかは知らぬが、よしんば屍にせよ、恋しいひとの少しでも近くへ行きたい一心の楓の足は、食い気しか知らぬか、もしくは食い気を忘れぬという今時の娘たちの到底及びもつかぬ速さにいじらしい許りであったから、作者もこの辺りは駈足で語ろう。
 何刻かの後、楓は木鼠胴六の前で知っているだけの舞いを、全部舞っていた。
「名は秋の楓だが、はて見飽きもせぬ」
 と、胴六はわざとさりげなく洒落を言ってみせて、時に意味もなく笑い声を立て、手下共は何かしらやけくそめいた酒を飲み、無論胴六もしたたか痛飲し、熊掌駝蹄(ゆうしょうだてい)の宴であったが、やがてガヤガヤ[#「ガヤガヤ」は底本では「ガヤガヤり」]入りみだれている内に、物の順序として月並み軒並みに一人残らず酔いつぶれて眠ってしまった隙をのがさず、ひそかに牢屋の鍵を盗み出してしまった楓は、にわかにガタガタと顫えながら、這うようにして牢屋の前に来ると、
「佐助様、佐助様」
 どんな女の一生にも一度は必ず、そして一度しか出ぬ美しい声が、今こそあえかに唇を顫わせた。
「おお、その声は楓どの」
 さすがに覚えていてくれたかと、
「お久しゅうございます」
「…………」
 普段おしゃべりの佐助が鉛のように黙っているのを見て、何故こんなに変っしまったのかと楓はあやしく心が乱れて、まるでその変り方はこの楓を嫌ってしまったせいだろうか。
「何をそのように黙っておられます」
「余りのことに言葉も出なかったのじゃ。思いも掛けぬそなたとの対面、牢屋の中とは面目ないが、この暗闇がアバタの俺を隠してくれたとは、もっけの幸い」
 と、はやいつもの佐助に戻ったのが嬉しかったが、しかし、またそれももどかしくて、
「ま、そのようなことは後で。一刻も早うお逃げなさいませ」
「いや、逃げはせぬ。女人のそなたに助けられて逃げたとあっては、アバタ以上の恥でござる」
 などと佐助は収まりかえっていたが、やがて随分と手間の掛ったのち、やっと牢を出ると、眠っている山賊の傍へ飛んで行き、やい起きろと蹴り起し、そして、おれは口にしまりがない、気障な駄洒落に淫し過ぎるという折角の牢獄の反省も、簡単に蹴り飛ばしてしまうとぺらぺらと怪しげな七五調で、
「折角の夢を破った横紙破り、腰も抜ければ腹も立とうが、せめてこの世のお別れに、一眼だけでもこの娑婆を、拝んで置けとの思いやり、寝呆けた奴は眼をこすり、南蛮渡来の豚でさえ、見れば反吐をば吐き散らす、この面妖なアバタ面、地獄の迎えの来るまでに、穴のあくほど見て置けば、あの世へ行ったその時に、娑婆の不思議はアバタ面、二目と見られぬものだったと、エンマ大王喜ばす、土産話になるだろう。――おや、来るか鈴鹿の山賊共! 土産話が出来たと見えて、やけに急いだ地獄行き、邪魔な三好が顔出すまでに、こちらも少々急ぎの仕事、一人二人は面倒だ、束になって掛って来い」
 そして瞬く間に三百人、一人残さず眠らせてしまって、はじめてほのぼのとした自尊心の満足があった。
 三好は楓が自分もまた牢にいることにしばらく気づかなかったので牢を出るのがおくれ、
「三好入道これにあり!」
 と、叫んだ時には、もう出る幕は念仏しか残っていず、ぷりぷりと楓に当ったが、楓は耳にはいらず、いそいそと佐助の傍にかけ寄って、
「お見事でござりました」
 佐助は月を仰いでいた。
「楓どの、あの月を見やれ、綺麗な月ではござらぬか」
「ほんに、十六夜の月はおぼろに鈴鹿山……」
 と、楓がうっとりと歌いかけると、佐助は何思ったか急にそわそわして、
「鹿の子まだらのアバタの穴を……」
 照らしているのじゃと下の句を言いざまに、さらばじゃとはや駈け出してしまった。
 楓も驚いたが、三好も驚いて、
「おい、猿飛、どこへ行く、待たんか」
 と、呼びとめると、はや遠くの方で、
「月も怖いが、お主も怖い。どこへという当てもないが、月にアバタをまごまご曝していては、お主の繩目に掛らざなるまい」
「法螺だ、法螺だよ。ありゃ皆おれの法螺だ。返せ、返せ! おい、猿飛待たんか。おい」
 三好はあわてて法螺を白状したが、佐助の姿ははやどこかへ消えてしまっていた。
 楓は泣けもせず、三好に愚痴るよりほかに成すすべもなかった。
「三好様が法螺を吹かれたゆえ、佐助様は逃げておしまいになられました」
 三好はかえす言葉もなく、平謝りに謝りながら、楓と連れ立って佐助もとめての旅を続けねばならぬ羽目になったとは、まるで嘘から出た真じゃと、身から出た錆をやがて嘆いた。
 女連れでは武者修行もかなわぬのみか、人目には破戒僧のように見える――のはまず我慢するとして、女は第一愚図でのろまで、いやに頑なで、法螺も吹かねば本当のことも言わぬ、全身これ秘密だらけ、といって深い謎も無さそうな証拠には、思慮分別が呆れるくらい浅墓で、愚痴が多く、恐ろしくけちであると判り、三好はいやになってしまった。
 もともと三好は女はけがらわしいものと本能的に信じて、ことに女の匂いが好かず、入道姿になったのも妻帯をすすめられぬ用意だったというくらい故、楓がいつ何時どこで佐助にめぐり会っても見苦しくないようにと、朝夕化粧に念を入れて、脂粉の匂いを漂わしているのがいやでたまらぬ、おまけに三好は鼾のほかに歯軋りがはげしくて、かねがね他人と寝室を共にするのを避けているのに、よりによって楓と同室か、でなければ襖一つである。いかに女は嫌いとはいえ、いやそれだけに一層鼾や歯軋りが恥じられて、気になる余りまんじりともせず、無性に疳を立てながら、やがて明け方の薄ら明りにふと眼をやれば、楓の寝顔は白粉が剥げて、鼻の横筋など油が浮き、いっそ醜い。女などどこが良いのだろうと、改めて思われて、三好は自分が女の腹から生れた人間だとはいかにも思いたくなく、佐助のアバタが笑窪だなどと思いたがるこんな女など、早く佐助に押しつけてしまおうと、やっきになって佐助の行方を探していたが、空しかった。
 佐助はどこをどう歩いていたのか、鈴鹿峠を去って何日か経ったある夜、彦根の宿のある旅館の割部屋に泊った客の、どこやら寂しい横顔を、鈍い行燈の灯に透かせば、かくしもならぬアバタ面、後からはいって来た相客がつくづくと眺めて、
「猿飛どのではござらぬか」
 と、声を掛けた。
「おお富田無敵(とんだむてき)どのでござったか。これは奇遇!」
 先年佐助がその今出川の道場を荒して茶漬飯をふるまわれたことのある富田無敵だと、すぐ判ったが、その富田無敵が何の仔細あって、彦根の旅籠のよりによって割部屋に泊るのかと訊けば、
「実は首のない男を探しもとめての旅でござる」
 と、言う。
 首のない男、これは耳寄りなと佐助が膝を乗り出すと、無敵は、
「それがしの話を聴いて、けっしてお嗤いめさるな!」
 と、さびしそうに念を押して語ったのはこうだった。
 ――四五日前の夜のことである。道場と知ってか知らずにか、無敵の宅へ盗賊がかかったらしく、真夜中に裏の戸がガタコトと鳴った。素早く眼を覚して、襷、鉢巻も物ものしく、太刀を片手に、いざ抜討ちと待ち構えていると、果して、戸の隙間からぬっと首を差し入れた。すかさず斬りつけたが、どう仕損じたのか、皮一枚斬り残したらしく、首は落ちずにブラリと前へ下っただけである。しまったと、二の太刀を振り上げた途端、首はすっと引っ込められて、盗賊はうしろも見ずに一目散に逃げ出した。直ぐあとを追うた。盗賊は月光を浴びて必死に逃げたが、ぶらつく首が邪魔になるらしく、次第に逃げ足が鈍って来た。二条で追いつき、あわや襟首をつかもうとした時、盗賊はぶらついていた首をいきなり千切ってふところへ入れたので、すかされて前のめりになった。その隙に盗賊はみるみる遠ざかったので、またあとを追うて行ったが、邪魔な首をふところへ入れてしまったせいか、男の逃げ足の速さはにわかに神(しん)か仙(せん)か妖(よう)か、人間とは思えなんだ。三条を過ぎ蛸薬師あたりで見失ってしまった。夜が明けると、早速この旨を奉行に届け出ると、
「とりとめなき事を届け出るものではない」
 と、一笑に附す。
「いや、根もなき事ではござらん。それがし確かに一太刀浴びせ申したが、残念にも風をくらって……」
 逃げてしまったと言いかけると、奉行はカラカラと笑い出した。
「なに? 風をくらって逃げた? 首のなき者がいかにして風をくらう事が出来よう。あらぬ事を口走るものではない」
 言葉尻をつかまえて、からかおうとした故、では、それがしの申すことを出鱈目、嘘いつわりと申さるるかと血相変えて詰め寄ると、その殺気におそれを成したのか、奉行はにわかに狼狽していった。
「あ、いや、左様に昂奮めさるな。――確かに首のなき者が風をくらって都大路を逃げ失せたのじゃな。しからば、早速触れを出す事に致そう」
 翌日、高札場の前を通り掛ると、人々が集って笑っている。見れば、
「万一首のなき者通行致さば、見あい次第に、きっとからめ参るべし。
 右は今出川住人富田無敵の訴出に依れば、盗賊の逐電致せし者にきっとまぎれなき由、依って高札を掲げる事如件」
 とあり、何となく面映ゆく赤面していると、意外な囁きが耳に入った。
「首のない男が風をくらったそうな」
 途端に奉行の魂胆がわれを世の嗤い者にする事にあると判った。高札の文章にわざわざ『今出川往人富田無敵』の名を入れた理由も読めたと、直ちに奉行所へ乱入して…………と思ったが……。
「いや、それも大人げない。それよりも、件の首なき男を探し出して召しとらえ、これ見よと奉行へ突き出すに若かずと思い直して、旅に出たのでござる。旅籠、旅籠で割部屋を所望致せしは幸い相客の中に首なき男もがなとの念願から」
 と、無敵は語り終わって
「――貴公はさぞお嗤いであろう」
 打ちしおれていた。
 佐助ははたと膝をたたいて、
「何の嗤いましょうか。首をふところへ入れて都大路を駈けたとは、近頃天晴れなる風流男、それがしもその趣向にあやかって、このアバタ面を懐中して歩きたいくらいでござる。いや、それがしもその天下第一の風流男に会いとうなりました。お差しつかえなければ、お伴致しとうござる」
 と言うと、無敵は、
「よくぞ言って下さった」
 と、佐助の手を握って、ハラハラと落涙し、既に道場を荒された恨みなど忘れていたのは勿論である。
 翌朝から、二人は首のない男を探して歩いた。
「運よく召しとって、奉行所へ突き出せば、奉行はじめ狼狽し、やがてその狼狽をかくすために、やい、首のなき者よ、汝盗賊を働かんとせし罪科軽からず、速刻打ち首に致すとあわてて申し渡すに相違ない。そこで貴公すかさず、あいや、首のなき者を打ち首にとは、いかにして行わるるや、後学のために拝見致したしと、言ってやれば、溜飲が下ると申すものでござろう」
 と、佐助が言えば、そうだ、そうだと無敵は喜んで、佐助の機嫌をとるために、
「山本勘助どのは左めっかち、右びっこ、身の丈矮(みじか)く色黒く、信玄どのも驚かれたという男振りでござったが、知慧にかけては天下第一の器量人でござったな」
 などと佐助を喜ばせるような話を持ち出して、この旅は楽しかったが、肝腎の首のない男には一向に出会わず、これではいっそ、ろくろ首の棲家を探して、首が遠出をしている隙をねらって胴を小腋にかかえて逃げ出すのも一法だなどと、言っている内に、石田三成が関東相手のむほん噂を耳にしたので、胴探しは一時中止して、無敵は佐和山へ、佐助は中仙道へ、右と左に別れて一刻も早く上田へ急がねばと、六尺三寸のノッポの大股で佐助は真昼の中仙道を夢中で走っていると、いきなり、
「やい、佐助、何を左様に急いでいるのじゃ」
 と、空の声が三町四方に蚤の飛ぶ音も判る耳に降りて来た。
「おお、その天上よりのお声はまさしくおなつかしい戸沢先生!」
 と、しかし走りながら、すがりつくような声を出すと、空の声も微笑を含んで、
「俺のこのしわがれ声が判るか」
「判らないで何と致しましょう、師の恩は海よりも高く、山よりも深……、おっと間違えました。山よりも高く、海よりも……」
「何をうろたえている。落着きなさい、見苦しい。走りながら口を利くからじゃ。だいいち師匠に口利くのに走りながらとは何事じゃ」
「はッ! 失礼しました。――ごらんの通り停まりました[#「停まりました」は底本では「停まりした]]」
「汗を拭きなさい。アバタの穴からおびただしい汗の玉が飛び散っているわ。醜態じゃ」
「はッ! 只今!」
 と、拭いていると、何故か師の優しさが身にしみて来て、涙が出そうになった故、あわてて、
「アバタのアの字は汗のアの字でござりますな。あはは……」
 と笑いにまぎらした。
「くだらぬ洒落はよせ。だいたいお前は駄洒落が多すぎる。女のお洒落に男の駄洒落の過ぎたのは感心せぬて。士農工商師匠のこせついたのは見苦しいが、ことの序でに戒めて置くぞ。などといいながら、ついこの俺も駄洒落してしもうたが、ところで最前より何を急いでいるのじゃ」
 と訊いて、納得すると、
「――ならば、何故に飛行の術を使わぬのじゃ。先日よりの汝の振舞い、時に能く忍びて神妙じゃ。今より飛行の術及び忍術を用いても苦しゅうないぞ」
 と、思いがけぬ言葉に、はッ、かたじけのうござりますと、いきなり大地にひれ伏した。空よりの声はにわかに荘重になり、
「したが、飛行の術は[#「飛行の術は」は底本では「飛行の術の]]卑怯の術ではない。めったなことに卑怯はならぬ。まった忍術とは……」
「忍術とは……?」
 すかさず訊くと、戸沢図書虎先生は雲の上でそわそわとされているらしく、
「忍術とは、ええと、忍術とは、ええ、忍、忍、忍……と。うむ、よき洒落が出て来ぬわい。えい、面倒じゃ。ゴロ合わせはこれまで。雷が待っておる。佐助よ、さらばじゃ」
 どういう風の吹き廻しか、さんざん駄洒落たあと、先生の声はそこで途絶えて、暫らくの別れであった。
「ああ、ありがたし、かたじけなし、この日、この刻、この術を、許されたとは、鬼に金棒」
 と、佐助は天にも登る心地がした途端に、はや五体は天に登っていた。
 しかも、佐助を喜ばしたのは、師もまた洒落るか、さればわれもまた洒落よう、軽佻と言うならば言え、浮薄と嗤うならば嗤え、吹けば飛ぶよな駄洒落ぐらい、誰はばかって慎もうや、洒落は礼に反するなどと書いた未だ書(ふみ)も見ずという浩然の気が、天のはしたなく湧いて来たことであった。
 佐助はもはやけちくさい自己反省にとらわれることなく、空の広さものびのびと飛びながら、老いたる鴉が徒労の森の上を飛ぶ以外に聴き手のない駄洒落を、気取った声も高らかに飛ばしはじめた。
「おお、五体は宙を飛んで行く、これぞ甲賀流飛行の術、宙を飛んで注進の、信州上田へ一足飛び、飛ぶは木の葉か沈むは石田か、徳川の流れに泛んだ、葵を目掛けて、丁と飛ばした石田が三成、千成瓢箪押し立てりゃ、天下分け目の大いくさ、月は東に日は西に、沈めまいとて買うて出る、価は六文銭の旗印、真田が城にひるがえりゃ、狸が泣いて猿めがわらう、わらえばエクボがアバタにかくれる。エクボは二つ、アバタは大勢、こりゃ何としてもアバタの勝じゃが、徒歩(かち)(勝)で行かずに飛んで行けと、許されたる飛行の術、使えば中仙道も一またぎ、はやなつかしい上田の天守閣、おお六文銭の旗印、あのヒラヒラとひるがえること、おお、このアバタの数ほども、首なき男を作ってみせるぞ」
 などと、富田無敵のために首なき男を作ろうと、奇妙なことを考えている。この男はどこまで正気なのか、わからなかった。




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