猿飛佐助
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著者名:織田作之助 

「えッ?」
「忍術とは……?」
 と、いきなり訊かれたので、すかさず、
「忍ぶの術なり」
「忍ぶとは……?」
「如何なる困苦にも堪うる、これ能く忍ぶなり。まった、火遁水遁木遁金遁土遁の五遁を以って、五体を隠す。これまた能く忍ぶなり」
「忍術の名人とは……?」
「能く忍び、能く隠す、これ忍術の名人たり」
 すらすらと答えたが、いきなり、
「汝、能く忍んだか」
 と訊かれると、もう答えられなかった。
「はッ! あのウ……」
「答えられまい。汝は能く隠すも能く忍ばざる者じゃ。徒らに五遁の術の安易さに頼って、勝ち急ぐ余りの、不意討ちの卑怯の術にうつつを抜かし、試合に望んでは一太刀の太刀合わせもなさず、あまっさえ、天下一の強者を自負するばかりか、わが教えし飛行の術をも鼻歌まじりに使うとは、何たる軽佻浮薄、増長傲慢、余りの見苦しさに、汝の術を封じてやったが、向後一年間、この封を解いてはやらぬぞ。これ汝への懲罰じゃ――。さらばじゃ」
「あッ、先生!」
 と叫んだが、もう師匠の声は聴えなかった。
「たった一度、お姿をお現わし下さいませ! なつかしいお顔を見せて下さりませ。先生! 先生!」
 しかし、遂に白雲斎は姿を見せなかった。それは師の鞭のきびしさの故か、それとも、いつぞやの鼻血騒ぎの見苦しさを恥じて、生涯佐助に顔を見せまいと誓っていた故だろうか。
 佐助は呆然として、尻餠を突いていた。
 術を破られたことよりも、封じられたことよりも、増長傲慢だと、日頃の自惚れを指摘されたことが辛く、
「ああ、俺はだめだ」
 と、にわかに自信をなくし、すっかり自尊心を失いながら、とぼとぼと山を降り、やがて、鈴鹿峠の麓の茶店へ腰を下すと、
「お茶を一杯下さい」
 ひどく心細い声で言った。
「お侍様は、この峠をお越しになられるのですか」
 その声を掛けた茶店の女の顔は、一寸美しかった。
 美しい女にアバタ面を見られるのは辛い。いつもの佐助なら、直ちに忍術で姿を消したところだが、術は封じられている。
 それを悲しみながら、しかし佐助はさすがに気取った口調を忘れず、
「来し(越し)は夢の夢の夢のまた夢、昨日は今日のはつ昔、旅の衣は鈴鹿の峠を越す(乾す)も乾さぬも、雨次第じゃが、どうやら、今宵は降りそうじゃな」
 と、しんみりした声で言うと、茶店の女は、
「お侍様、そりゃおよしなさいませ。あの峠には、木鼠胴六といって、名高い石川五右衛門の一の子分が山賊となって、山塞にとじこもり、旅人を見れば、剥ぎ取って、殺してしまいます」
「何ッ! 山賊が……?」
 佐助の眼は急に生々と輝いた。
「――こりゃ面白い。雨でも越さずばなるまい」
「まア、命知らずな。悪いことは申しませんから、およしなさいませ。昨日も坊様かお侍様かわからぬような、けったいな方が、俺が退治て来てやると言って、山の中へはいって行かれましたが、今に降りて見えぬところを見ると……」
「あはは……。退治られたと申すか。いや、この俺は、そんな坊主か侍かわからぬような、宝蔵院くずれとは、些か訳がちがう。忍術は封じられても、猿飛佐助、石川五右衛門の子分共に退治られるような、弱虫ではないわ。――おや、何をそのようにそれがしの顔を見ておるのじゃ。そのように穴のあくほど見つめずとも、既にアバタの穴があいているわい。あはは……」
 笑いやむと、佐助は武者ぶるいしながら峠道を登って行った。
 やがてノッポの大股は山賊の山塞に近づくと、佐助は、
「遠からん者は音にも聴け、近くば寄って眼にも見よ、見ればアバタの旗印、顔一面にひるがえる、信州にかくれもなきアバタ男、猿飛佐助とは俺のことだ。鈴鹿峠の山賊共! いざ尋常に……」[#「尋常に……」」は底本では「尋常に……」]と、例によって、奇妙な名乗りをあげながら、木鼠胴六の山塞へ、樊□(はんかい)[#ルビの「はんかい」は底本では「はんか」]の如き恰好で乱入して行った。

      木遁巻

 嘘八百と出鱈目仙人で狐狸(こり)固めた信州新手(にいて)村はおろか信州一円に隠れもなきアバタ男、形容するに言葉なきその醜怪な面相には千曲川の河童も憐憫の余り死に、老醜そのものの如き怪しげな人間嫌いの仙人戸沢図書虎(ツアラツストラ)も、汝極醜の人よと感嘆して、鳥人の思想及びその術即ち飛行の術並びに忍術を伝授せざるを得なかったという猿飛佐助が、遠からん者は音にも聴け、近くば寄って眼にも見よ、見ればアバタの旗印、顔一面に翻えしながら、鈴鹿峠の山賊の山塞に乱入した時の凄さは、樊□排闥とはこのことかと天狗も悶絶するくらいであったから、忽ち山賊は顫え上り、中には恐怖の余り尿を洩らす奴もあったが[#「あったが」は底本では「あったか」]、さすがに頭目の木鼠胴六は、石川五右衡門の一の子分だけあって下手に騒がず、うろたえる手下共をはげまして、かねて用意の松明を佐助めがけて投げつけた。
 佐助はひらりと体をかわしながら、
「やや、おびただしき松明の雨を降らしたとは、何の合図か挑戦状か。それとも悪意に解釈すれば、アバタの穴をよく見んための提灯代りの松明か」
 と、例によって怪しげな詩人気取りの、あらぬことを口走り、よもやその松明が土竜[#「土竜」は底本では「土龍」]、井守、蝮蛇の血に、天鼠、百足、白檀、丁香、水銀郎の細末を混じた眠り薬を仕掛けたものであるとは知らぬが仏を作って、魂を入れるための駄洒落もがなと、咄嗟に、
「来るか鈴鹿の山賊共!」
 と言う言葉が口をついて出ると、随分とこの洒落にわれながら気をよくして思わず笑えば笑窪(えくぼ)がアバタにかくれて、信州にかくれもなきアバタ面を、しかし棚にあげて、
「打ちみたところ、眼ッかち、鼻べちゃ、藪にらみ、さては兎唇(みつくち)出歯の守、そろいそろった醜(ぶ)男が、ひょっとこ面を三百も、目刺しまがいに、並べたところは祭だが祭は祭でも血祭りだ」
 と、いい気な気焔をわめき散らした。あとで思えば醜態であった。
 しかも、更に赤面汗顔に価いしたのは、いよいよとなると、ただ黙々とやるだけでは芸がない、雅びた文句の数え歌に合わせてやるとて、石川五右衛門[#「石川五右衛門」は底本では「石川五衛門」]の洒落た名乗り文句をもじって、
「一に石川で」で一人。
「二に忍術で」で二人。
「三にさわがす」で三人。
「四に白浪の五右衛門の」で四人五人。
「六でも七(な)き子分ども」で六人七人。
「八(や)いばに掛けて」八人。
「九(く)もなく倒すに」で九人。
「十(呪)文は要らぬ」
 で、十人まで倒したたという悪趣味に淫したことである。いかにも殺風景な話である。そして、更に調子に乗って、
「十一、十二も瞬く間、お月様いくつ、十三泣き面、十四は頓死、十五夜お月様餠つきのお突き、十六夜(いざよい)月は誰と見ん、十七娘か二人と見れば、飽かずながめてにくからぬ、十九(苦)も忘れて、二十(重)の喜び……」
 と、二十人まで倒したのはまず無難だったが、二十一人目あたりから、はや眠り薬の効目があらわれて、手足がしびれて眼がかすみ、それでも二十二、二十三は無我夢中、二十四人目は辛うじてかすり傷を負わし、二十五人目はどうなったか、いつか鼾をかいて眠り込んでしまった。汗と脂がアバタの穴についたその寝顔は、いかにも醜悪であったから、木鼠胴六は、
「何てきたねえアバタ面だ」
 と、ペッペッと唾を吐き散らし、わざとらしく嘔吐を催した振りをしながら、佐助の懐中をさぐったが、鐚一文も出て来なかったので、呆れかえって[#「かえって」は底本では「かえった」]しまった。
 が、それよりもなお失望したのは、戸沢図書虎(ツアラツストラ)伝授の甲賀流忍術の虎の巻が見当らなかったことである。
 実は佐助が「信州にかくれもなき雲をつくような大男、雷様を下に見る不死身の強さは日本一」と己惚れた余りの驕慢の罰として、師の戸沢図書虎より忍術を封じられた挙句、虎の巻も捲き上げられてしまったなどとは知らぬ胴六は、下帯の中まで探していたがいよいよ見つからぬと判ると、急にけがらわしくなって来て、手下に命じて佐助の身体を牢屋の中へ投げ込んでしまい、自身成敗するのも不潔だといわん許りであった。
 こうして佐助を牢屋へ入れると、胴六は早速韋駄天の勘六という者を走らせて、この旨を京の五右衛門のもとへ知らせた。
 やがて、どれだけ眠ったろうか、牢屋の中で眼を覚した佐助は、はげしい自己嫌悪が欠伸と同時に出て来た。
 既に生真面目が看板の教授連や物々しさが売物の驥尾の蠅や深刻癖の架空嫌いや、おのれの無力卑屈を無力卑屈としてさらけ出すのを悦ぶ人生主義家連中が、常日頃の佐助の行状、就中この山塞におけるややもすれば軽々しい言動を見て、まず眉をひそめ、やがておもむろに嫌味たっぷりな唇から吐き出すのは、何たる軽佻浮薄、まるで索頭(たいこ)持だ、いや樗蒲(ばくち)打だ、げすの戲作者気質だなどという評語であったろうが、しかしわが猿飛佐助のために一言弁解すれば、彼自身いちはやくも自己嫌悪を嘔吐のように催していた。荘重を欠いたが、莫迦ではなかった証拠である……。
 思えば今日まで自尊心を傷つけられた数は、ざっと数えて四度あった。
 最初はいわずと知れた十九歳の大晦日の夜、鄙(ひな)にもまれな新手村の小町娘楓をそそのかして、夜のとばりがせめてもに顔の醜さをかくしてくれようと、肩を並べてぬけぬけと氏神詣りに出掛けたが、折柄この夜だけはいかな悪口雑言も御免という悪口祭のかずかずの悪口のうち、蓄膿症をわずらったらしい男が、けれど口拍子おかしく、
「やい、おのれの女房は鷲塚の佐助どんみたいなアバタ面の子をうむがええわい」
 とほざいた一句の霜のような冷たい月の明りに照らされ覗かれて、星の数ほどあるアバタの穴をさらけ出してしまった時である。
 途端に隠遁をきめこんで、その夜のうちに鳥居峠の山中に洞窟を見つけこの中にアバタ面を隠したが、たまたま山中をよぎった鳥人の思想を説く奇怪な超人、戸沢図書虎よりアバタを隠す調法な忍術を授けられ、やがてこの術を以って真田幸村に仕えて間もなく、上田の城内の歌合せの会に出席して、はからずもその席上かつての小町娘今は奥方の侍女楓を見出した時が自尊心の傷ついた二度目。
 アバタ面の猿飛が猿の衣裳つけて罷り出で、短冊片手に首かしげ、歌を読むとて万葉もどきに「アバタめが首を振る振る振るもよし振らぬもよし……」などとは口くさっても言えようか見せられようか、ああ恥かしい、醜態じゃと、たちまち忍術の極意で楓の前より姿を消したその足で上田を立ちのき、武者修行に出掛けたが、忍術を使えばいかな敵もなく、遂にわれ日本一なりと呆れ果てたる己惚れに増長したところを、師の戸沢図書虎より苦もなく術を封じられてしまったのが三度目。
 そして四度目は想い出すさえ生々しい。即ち昨日の山賊退治の拙い一幕だ。だんまりで演れば丁々発止の竜闘虎争[#「竜闘虎争」は底本では「龍闘虎争」]の息使いも渋い写実で凄かったろうに、下手に鳴り物沢山入れて、野暮な駄洒落の啖呵に[#「啖呵に」は底本では「痰呵に」]風流を気取ったばかしに、竜頭蛇尾[#「竜頭蛇尾」は底本では「龍頭蛇尾」]に終ってしまったとは、いかにもオッチョコチョイめいて、思えばはしたない。

「総じておれは気障が過ぎるわい」
 ただでさえ目立つアバタの旗印を、雲をつく化物のような長身の肩で切った風にひるがえしながら、熊手のような手で怪しげな歌など作って、新手村の百姓娘に贈ってたまげさせていた年少多感の悪趣味はまず我慢出来るとしても、口をひらけば駄洒落か七五調、すまじきものは宮人気取った風流口調の軽薄さ。おまけに、自虐か自嘲か、われよりアバタを言い触らすとは、いっそ破れかぶれか……。
「いや、あれもこれも皆このアバタのひけ目の成せる業だ」
 と佐助はにわかにしょんぼりして、ふと寂しい心の底を覗きながら、折柄どこからか聴えて来る下手な笛の音を浮かぬ顔でしばらく聴いていたが、やがてその笛の主がどうやら壁をへだてた隣の牢屋にいるらしいと判ると、はや気取りたっぷりの気障な口調の昔取った杵の音をきかせて、
「秋も深し、夜も深し、眠りも深し、笛ふかす、隣は何をする人やら」
 と呟いたのち、壁に向って、
「――もし、お隣の仁、折角御清興中を野暮な問い掛けでおそれ入るが、お手前はいったいどこの何人でござるか」
 と、声を掛けた。途端に笛の音がやんで、隣から聴え来たのは、
「我こそは信州真田の鬼小姓、笛も吹けば法螺も吹く、吹けば飛ぶよな横紙を、破った数は白妙の、衣を墨に染めかえた、入道姿はかくれもなき、天下の横紙破り三好清海入道だ」
「なアんだ、三好か」
 佐助はふき出してしまった。阿呆の一つ覚えの名乗りを、さも得意らしく牢屋の中であげているのもおかしいが、それよりおかしいのは、俺は昨日茶店の女にきいた時、てっきり宝蔵院くずれだと思ったが、三好入道もまた山賊退治に失敗して牢の中に閉じこめられているのか、まず、佐助は自分の名を告げたあと訊ねたところ、果してその通りであった。が、上田の城内におとなしくいた筈の三好が何のためにのこのこ上田を発って来たのかと、その旨問うと、三好は言下に、
「貴様を縛り首にする為だ」
「えっ? なんだと?」
 さすがに驚き、人を驚かすが自分は驚かぬのを伊達男の心得の第一としている手前、佐助は咄嗟に自分を恥じて、何たる心の弱まりかと情けなかった。
 三好は佐助が案の定驚いたらしいのを見ると、ますます図に乗って、
「いつぞやの歌合せの夜、無断でお城を飛び出して気儘勝手に諸国漫遊[#「諸国漫遊」は底本では「諸国慢遊」]に出掛けた不届きな猿飛め、唐天竺まで探し出して、召しとって参れとの殿の上意をうけて上田を発ち、東西南北、貴様の行方を探しもとめている内、ひょんなことから、この牢屋へ閉じこめられ、退屈しのぎに笛を吹いていたというわけよ」
 と、日に一度吹かねば気嫌のわるいという法螺を、凝りに凝った笛のあとで吹けたという喜びにぞくぞくしながら、
「――したが、ここで会ったとは何が幸せになるやら、やい、猿飛、上意だ、繩に掛れ、……といいたいが、壁をへだてた牢の中。――おい、猿飛、貴様忍術が使えるのだろう。えいと九字をきって、ドロドロと鼠に化け、チョロチョロと穴を抜け出して、この俺を救い出してくれ」
「その忍術が使えるなら、今時、貴様の下手糞な笛など聴いておるものか」
 いかにもしょんぼりした声だが、さすがに虚勢を張って、佐助がそう言うと、三好は、
「ははあん。俺を救い出すと、こんどはお主が俺に召しとられるおそれがあると思って、そんな嘘を言っているのだろう」
 と、自身法螺吹きだけに、直ぐ邪推した。すると、
「莫迦! 坊主頭の貴様の前で嘘を言うても洒落にもなるまい」
 と、はや駄洒落がはじまり、
「――昨日までの俺ならば、天から降ったか地から湧いたか、火遁、水遁、木遁、金遁、さては土遁の合図もなしに、ふわりと現われふわりと消えて、消えぬアバタの星空も、飛行の術で飛んでもいたが、鳥人先生のいましめ受けて、封じられたる忍術の、昔を今になすよしも、泣く泣く喞(かこ)つ繰言の、それその証拠には、この合部屋に膝をかかえているじゃないか」
 と、万更法螺でもなさそうだったから、
「じゃ、この鈴鹿峠が俺たちの墓場か」
 と、三好がげっそりとすれば、
「そうよ。坂はてるてるの坊主の三好、墨の衣は鈴鹿の鐘を、チンと敲いて念仏でも唱えているんだな」
 などと、他愛もない洒落にますますうつつを抜かしはじめると、もういけない、まるで弁慶か索頭(たいこ)持ちみたいにここを先途と洒落あかして、刻の移るのも忘れてしまったが、そのありさまはここに写すまでもない。
 その翌日、まるで申し合わせたように、鈴鹿峠の麓の茶屋に柔かな物腰をおろした若い娘があった。峠を越すのかと女中がたずねると、
「峠を越せば、遠く信州を猿飛様にやがて近江(会う)路、日の暮れぬうちに越そうと思います」
 という気取った言い方は、大方佐助の感化であろう、それは楓であった。
 新手村の大晦日の夜と、それから城中での歌合せの夜の二度まで、自分を振り切るように逐電してしまった佐助が一途に恋しくて、思い余ったその挙句に、佐助たずねてのあてなき旅の明け暮れにも、はしたなく佐助ばりの口調が出るとは、思えば佐助も幸福な男である。
「滅相もない、お女中様、そりゃおよしなさいませ。あの峠にはおそろしい山賊がおります。昨日もアバタ面のお武家様が山賊退治に行くといって出掛けられましたが、今に下ってみえない所をみると……」
 女中がそう言いかけると、もしと楓はせきこんで、
「もしやそのお侍、信州訛りでは……?」
 胸のあたりがどきどきと顫え、そして、
「さア、どこの訛りかは知りませんが、妙に気取った物の言い振りをされるお武家様で……」
 という女中の言葉を皆まできかず、あ、佐助様にちがいはないと、起ち上ると、茶代も置かずに山道を駈け登って行った。そして、生きているか、死んでいるかは知らぬが、よしんば屍にせよ、恋しいひとの少しでも近くへ行きたい一心の楓の足は、食い気しか知らぬか、もしくは食い気を忘れぬという今時の娘たちの到底及びもつかぬ速さにいじらしい許りであったから、作者もこの辺りは駈足で語ろう。
 何刻かの後、楓は木鼠胴六の前で知っているだけの舞いを、全部舞っていた。
「名は秋の楓だが、はて見飽きもせぬ」
 と、胴六はわざとさりげなく洒落を言ってみせて、時に意味もなく笑い声を立て、手下共は何かしらやけくそめいた酒を飲み、無論胴六もしたたか痛飲し、熊掌駝蹄(ゆうしょうだてい)の宴であったが、やがてガヤガヤ[#「ガヤガヤ」は底本では「ガヤガヤり」]入りみだれている内に、物の順序として月並み軒並みに一人残らず酔いつぶれて眠ってしまった隙をのがさず、ひそかに牢屋の鍵を盗み出してしまった楓は、にわかにガタガタと顫えながら、這うようにして牢屋の前に来ると、
「佐助様、佐助様」
 どんな女の一生にも一度は必ず、そして一度しか出ぬ美しい声が、今こそあえかに唇を顫わせた。
「おお、その声は楓どの」
 さすがに覚えていてくれたかと、
「お久しゅうございます」
「…………」
 普段おしゃべりの佐助が鉛のように黙っているのを見て、何故こんなに変っしまったのかと楓はあやしく心が乱れて、まるでその変り方はこの楓を嫌ってしまったせいだろうか。
「何をそのように黙っておられます」
「余りのことに言葉も出なかったのじゃ。思いも掛けぬそなたとの対面、牢屋の中とは面目ないが、この暗闇がアバタの俺を隠してくれたとは、もっけの幸い」
 と、はやいつもの佐助に戻ったのが嬉しかったが、しかし、またそれももどかしくて、
「ま、そのようなことは後で。一刻も早うお逃げなさいませ」
「いや、逃げはせぬ。女人のそなたに助けられて逃げたとあっては、アバタ以上の恥でござる」
 などと佐助は収まりかえっていたが、やがて随分と手間の掛ったのち、やっと牢を出ると、眠っている山賊の傍へ飛んで行き、やい起きろと蹴り起し、そして、おれは口にしまりがない、気障な駄洒落に淫し過ぎるという折角の牢獄の反省も、簡単に蹴り飛ばしてしまうとぺらぺらと怪しげな七五調で、
「折角の夢を破った横紙破り、腰も抜ければ腹も立とうが、せめてこの世のお別れに、一眼だけでもこの娑婆を、拝んで置けとの思いやり、寝呆けた奴は眼をこすり、南蛮渡来の豚でさえ、見れば反吐をば吐き散らす、この面妖なアバタ面、地獄の迎えの来るまでに、穴のあくほど見て置けば、あの世へ行ったその時に、娑婆の不思議はアバタ面、二目と見られぬものだったと、エンマ大王喜ばす、土産話になるだろう。――おや、来るか鈴鹿の山賊共! 土産話が出来たと見えて、やけに急いだ地獄行き、邪魔な三好が顔出すまでに、こちらも少々急ぎの仕事、一人二人は面倒だ、束になって掛って来い」
 そして瞬く間に三百人、一人残さず眠らせてしまって、はじめてほのぼのとした自尊心の満足があった。
 三好は楓が自分もまた牢にいることにしばらく気づかなかったので牢を出るのがおくれ、
「三好入道これにあり!」
 と、叫んだ時には、もう出る幕は念仏しか残っていず、ぷりぷりと楓に当ったが、楓は耳にはいらず、いそいそと佐助の傍にかけ寄って、
「お見事でござりました」
 佐助は月を仰いでいた。
「楓どの、あの月を見やれ、綺麗な月ではござらぬか」
「ほんに、十六夜の月はおぼろに鈴鹿山……」
 と、楓がうっとりと歌いかけると、佐助は何思ったか急にそわそわして、
「鹿の子まだらのアバタの穴を……」
 照らしているのじゃと下の句を言いざまに、さらばじゃとはや駈け出してしまった。
 楓も驚いたが、三好も驚いて、
「おい、猿飛、どこへ行く、待たんか」
 と、呼びとめると、はや遠くの方で、
「月も怖いが、お主も怖い。どこへという当てもないが、月にアバタをまごまご曝していては、お主の繩目に掛らざなるまい」
「法螺だ、法螺だよ。ありゃ皆おれの法螺だ。返せ、返せ! おい、猿飛待たんか。おい」
 三好はあわてて法螺を白状したが、佐助の姿ははやどこかへ消えてしまっていた。
 楓は泣けもせず、三好に愚痴るよりほかに成すすべもなかった。
「三好様が法螺を吹かれたゆえ、佐助様は逃げておしまいになられました」
 三好はかえす言葉もなく、平謝りに謝りながら、楓と連れ立って佐助もとめての旅を続けねばならぬ羽目になったとは、まるで嘘から出た真じゃと、身から出た錆をやがて嘆いた。
 女連れでは武者修行もかなわぬのみか、人目には破戒僧のように見える――のはまず我慢するとして、女は第一愚図でのろまで、いやに頑なで、法螺も吹かねば本当のことも言わぬ、全身これ秘密だらけ、といって深い謎も無さそうな証拠には、思慮分別が呆れるくらい浅墓で、愚痴が多く、恐ろしくけちであると判り、三好はいやになってしまった。
 もともと三好は女はけがらわしいものと本能的に信じて、ことに女の匂いが好かず、入道姿になったのも妻帯をすすめられぬ用意だったというくらい故、楓がいつ何時どこで佐助にめぐり会っても見苦しくないようにと、朝夕化粧に念を入れて、脂粉の匂いを漂わしているのがいやでたまらぬ、おまけに三好は鼾のほかに歯軋りがはげしくて、かねがね他人と寝室を共にするのを避けているのに、よりによって楓と同室か、でなければ襖一つである。いかに女は嫌いとはいえ、いやそれだけに一層鼾や歯軋りが恥じられて、気になる余りまんじりともせず、無性に疳を立てながら、やがて明け方の薄ら明りにふと眼をやれば、楓の寝顔は白粉が剥げて、鼻の横筋など油が浮き、いっそ醜い。女などどこが良いのだろうと、改めて思われて、三好は自分が女の腹から生れた人間だとはいかにも思いたくなく、佐助のアバタが笑窪だなどと思いたがるこんな女など、早く佐助に押しつけてしまおうと、やっきになって佐助の行方を探していたが、空しかった。
 佐助はどこをどう歩いていたのか、鈴鹿峠を去って何日か経ったある夜、彦根の宿のある旅館の割部屋に泊った客の、どこやら寂しい横顔を、鈍い行燈の灯に透かせば、かくしもならぬアバタ面、後からはいって来た相客がつくづくと眺めて、
「猿飛どのではござらぬか」
 と、声を掛けた。
「おお富田無敵(とんだむてき)どのでござったか。これは奇遇!」
 先年佐助がその今出川の道場を荒して茶漬飯をふるまわれたことのある富田無敵だと、すぐ判ったが、その富田無敵が何の仔細あって、彦根の旅籠のよりによって割部屋に泊るのかと訊けば、
「実は首のない男を探しもとめての旅でござる」
 と、言う。
 首のない男、これは耳寄りなと佐助が膝を乗り出すと、無敵は、
「それがしの話を聴いて、けっしてお嗤いめさるな!」
 と、さびしそうに念を押して語ったのはこうだった。
 ――四五日前の夜のことである。道場と知ってか知らずにか、無敵の宅へ盗賊がかかったらしく、真夜中に裏の戸がガタコトと鳴った。素早く眼を覚して、襷、鉢巻も物ものしく、太刀を片手に、いざ抜討ちと待ち構えていると、果して、戸の隙間からぬっと首を差し入れた。すかさず斬りつけたが、どう仕損じたのか、皮一枚斬り残したらしく、首は落ちずにブラリと前へ下っただけである。しまったと、二の太刀を振り上げた途端、首はすっと引っ込められて、盗賊はうしろも見ずに一目散に逃げ出した。直ぐあとを追うた。盗賊は月光を浴びて必死に逃げたが、ぶらつく首が邪魔になるらしく、次第に逃げ足が鈍って来た。二条で追いつき、あわや襟首をつかもうとした時、盗賊はぶらついていた首をいきなり千切ってふところへ入れたので、すかされて前のめりになった。その隙に盗賊はみるみる遠ざかったので、またあとを追うて行ったが、邪魔な首をふところへ入れてしまったせいか、男の逃げ足の速さはにわかに神(しん)か仙(せん)か妖(よう)か、人間とは思えなんだ。三条を過ぎ蛸薬師あたりで見失ってしまった。夜が明けると、早速この旨を奉行に届け出ると、
「とりとめなき事を届け出るものではない」
 と、一笑に附す。
「いや、根もなき事ではござらん。それがし確かに一太刀浴びせ申したが、残念にも風をくらって……」
 逃げてしまったと言いかけると、奉行はカラカラと笑い出した。
「なに? 風をくらって逃げた? 首のなき者がいかにして風をくらう事が出来よう。あらぬ事を口走るものではない」
 言葉尻をつかまえて、からかおうとした故、では、それがしの申すことを出鱈目、嘘いつわりと申さるるかと血相変えて詰め寄ると、その殺気におそれを成したのか、奉行はにわかに狼狽していった。
「あ、いや、左様に昂奮めさるな。――確かに首のなき者が風をくらって都大路を逃げ失せたのじゃな。しからば、早速触れを出す事に致そう」
 翌日、高札場の前を通り掛ると、人々が集って笑っている。見れば、
「万一首のなき者通行致さば、見あい次第に、きっとからめ参るべし。
 右は今出川住人富田無敵の訴出に依れば、盗賊の逐電致せし者にきっとまぎれなき由、依って高札を掲げる事如件」
 とあり、何となく面映ゆく赤面していると、意外な囁きが耳に入った。
「首のない男が風をくらったそうな」
 途端に奉行の魂胆がわれを世の嗤い者にする事にあると判った。高札の文章にわざわざ『今出川往人富田無敵』の名を入れた理由も読めたと、直ちに奉行所へ乱入して…………と思ったが……。
「いや、それも大人げない。それよりも、件の首なき男を探し出して召しとらえ、これ見よと奉行へ突き出すに若かずと思い直して、旅に出たのでござる。旅籠、旅籠で割部屋を所望致せしは幸い相客の中に首なき男もがなとの念願から」
 と、無敵は語り終わって
「――貴公はさぞお嗤いであろう」
 打ちしおれていた。
 佐助ははたと膝をたたいて、
「何の嗤いましょうか。首をふところへ入れて都大路を駈けたとは、近頃天晴れなる風流男、それがしもその趣向にあやかって、このアバタ面を懐中して歩きたいくらいでござる。いや、それがしもその天下第一の風流男に会いとうなりました。お差しつかえなければ、お伴致しとうござる」
 と言うと、無敵は、
「よくぞ言って下さった」
 と、佐助の手を握って、ハラハラと落涙し、既に道場を荒された恨みなど忘れていたのは勿論である。
 翌朝から、二人は首のない男を探して歩いた。
「運よく召しとって、奉行所へ突き出せば、奉行はじめ狼狽し、やがてその狼狽をかくすために、やい、首のなき者よ、汝盗賊を働かんとせし罪科軽からず、速刻打ち首に致すとあわてて申し渡すに相違ない。そこで貴公すかさず、あいや、首のなき者を打ち首にとは、いかにして行わるるや、後学のために拝見致したしと、言ってやれば、溜飲が下ると申すものでござろう」
 と、佐助が言えば、そうだ、そうだと無敵は喜んで、佐助の機嫌をとるために、
「山本勘助どのは左めっかち、右びっこ、身の丈矮(みじか)く色黒く、信玄どのも驚かれたという男振りでござったが、知慧にかけては天下第一の器量人でござったな」
 などと佐助を喜ばせるような話を持ち出して、この旅は楽しかったが、肝腎の首のない男には一向に出会わず、これではいっそ、ろくろ首の棲家を探して、首が遠出をしている隙をねらって胴を小腋にかかえて逃げ出すのも一法だなどと、言っている内に、石田三成が関東相手のむほん噂を耳にしたので、胴探しは一時中止して、無敵は佐和山へ、佐助は中仙道へ、右と左に別れて一刻も早く上田へ急がねばと、六尺三寸のノッポの大股で佐助は真昼の中仙道を夢中で走っていると、いきなり、
「やい、佐助、何を左様に急いでいるのじゃ」
 と、空の声が三町四方に蚤の飛ぶ音も判る耳に降りて来た。
「おお、その天上よりのお声はまさしくおなつかしい戸沢先生!」
 と、しかし走りながら、すがりつくような声を出すと、空の声も微笑を含んで、
「俺のこのしわがれ声が判るか」
「判らないで何と致しましょう、師の恩は海よりも高く、山よりも深……、おっと間違えました。山よりも高く、海よりも……」
「何をうろたえている。落着きなさい、見苦しい。走りながら口を利くからじゃ。だいいち師匠に口利くのに走りながらとは何事じゃ」
「はッ! 失礼しました。――ごらんの通り停まりました[#「停まりました」は底本では「停まりした]]」
「汗を拭きなさい。アバタの穴からおびただしい汗の玉が飛び散っているわ。醜態じゃ」
「はッ! 只今!」
 と、拭いていると、何故か師の優しさが身にしみて来て、涙が出そうになった故、あわてて、
「アバタのアの字は汗のアの字でござりますな。あはは……」
 と笑いにまぎらした。
「くだらぬ洒落はよせ。だいたいお前は駄洒落が多すぎる。女のお洒落に男の駄洒落の過ぎたのは感心せぬて。士農工商師匠のこせついたのは見苦しいが、ことの序でに戒めて置くぞ。などといいながら、ついこの俺も駄洒落してしもうたが、ところで最前より何を急いでいるのじゃ」
 と訊いて、納得すると、
「――ならば、何故に飛行の術を使わぬのじゃ。先日よりの汝の振舞い、時に能く忍びて神妙じゃ。今より飛行の術及び忍術を用いても苦しゅうないぞ」
 と、思いがけぬ言葉に、はッ、かたじけのうござりますと、いきなり大地にひれ伏した。空よりの声はにわかに荘重になり、
「したが、飛行の術は[#「飛行の術は」は底本では「飛行の術の]]卑怯の術ではない。めったなことに卑怯はならぬ。まった忍術とは……」
「忍術とは……?」
 すかさず訊くと、戸沢図書虎先生は雲の上でそわそわとされているらしく、
「忍術とは、ええと、忍術とは、ええ、忍、忍、忍……と。うむ、よき洒落が出て来ぬわい。えい、面倒じゃ。ゴロ合わせはこれまで。雷が待っておる。佐助よ、さらばじゃ」
 どういう風の吹き廻しか、さんざん駄洒落たあと、先生の声はそこで途絶えて、暫らくの別れであった。
「ああ、ありがたし、かたじけなし、この日、この刻、この術を、許されたとは、鬼に金棒」
 と、佐助は天にも登る心地がした途端に、はや五体は天に登っていた。
 しかも、佐助を喜ばしたのは、師もまた洒落るか、さればわれもまた洒落よう、軽佻と言うならば言え、浮薄と嗤うならば嗤え、吹けば飛ぶよな駄洒落ぐらい、誰はばかって慎もうや、洒落は礼に反するなどと書いた未だ書(ふみ)も見ずという浩然の気が、天のはしたなく湧いて来たことであった。
 佐助はもはやけちくさい自己反省にとらわれることなく、空の広さものびのびと飛びながら、老いたる鴉が徒労の森の上を飛ぶ以外に聴き手のない駄洒落を、気取った声も高らかに飛ばしはじめた。
「おお、五体は宙を飛んで行く、これぞ甲賀流飛行の術、宙を飛んで注進の、信州上田へ一足飛び、飛ぶは木の葉か沈むは石田か、徳川の流れに泛んだ、葵を目掛けて、丁と飛ばした石田が三成、千成瓢箪押し立てりゃ、天下分け目の大いくさ、月は東に日は西に、沈めまいとて買うて出る、価は六文銭の旗印、真田が城にひるがえりゃ、狸が泣いて猿めがわらう、わらえばエクボがアバタにかくれる。エクボは二つ、アバタは大勢、こりゃ何としてもアバタの勝じゃが、徒歩(かち)(勝)で行かずに飛んで行けと、許されたる飛行の術、使えば中仙道も一またぎ、はやなつかしい上田の天守閣、おお六文銭の旗印、あのヒラヒラとひるがえること、おお、このアバタの数ほども、首なき男を作ってみせるぞ」
 などと、富田無敵のために首なき男を作ろうと、奇妙なことを考えている。この男はどこまで正気なのか、わからなかった。




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