猿飛佐助
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著者名:織田作之助 

余の年来諸国の高き山の嶺より嶺へ、飛行の彷徨を成し来ったのは外にもあらず、如何にもして超風の若者に遭遇して、余が鳥人の術を教えんとの念願からじゃが、今宵汝に超風の者を見出したぞ。俺は人間を見るを好まずといい、貴様は人間に見られるを好まずという、即ち俺と貴様は同醜だ。汝は黒き断崖と赤き断崖と聳え固りて、鳥の声なき深所に隠れたる、形容するに言葉なき者、即ち鬼神も憐憫の為に泣くという極醜の者、しかも亦極めてその醜を恥ずることを知れる者である。汝こそわが鳥人の術を以て、身を隠すに価する者じゃ」
 と、余と言ってみたり、我と言ってみたり、俺と言ってみたり、さまざまな一人称を使うところは、大方混乱している証拠と見えたが、佐助は鳥人の術に心を惹かれて、思わず、
「して、その術とは……?」
 と、叫んだ。
「鳥人の術とは、わが秘法の飛行の術及び火遁、水遁、木遁、金遁、土遁の忍術の謂いなり。まず飛行の術とは、甲賀五十三家の内、特にわが戸沢図書虎家のみに伝わる秘法中の秘法、日の下によって最も気を負える鷲の飛ぶよりも速く、江戸の男を長崎で、一夜の内に討ち果し得るという神変不可思議の術じゃ。また、忍術とは、即ち忍びの術なり。如何なる困苦にも堪うるを、これ能く忍ぶという、一瞬にして五体を隠す所謂五遁の術をも、これ能く忍ぶという。二者を能く忍ぶ即ち忍術の名人なり。忍術の名人にして且つ飛行の術を能くする者即ち鳥人なり。汝よく人間を超克して鳥人とならば、極醜のアバタ面も自由自在に隠し得て、もはや恥すくなからん。されば、只今より伝授せん」
 そう言い放つと同時に、老人は耳も聾する許りの豪屁を放ったが、途端にその姿は臭気もろ共かき消す如く消え失せてしまったので、
「さては、鼬(いたち)に因んだ土遁(どとん)の術か」
 と、うっとりしていると、忽然として現われ、
「忍術には屁の音は要らぬものじゃが、放屁走尿の束の間にも、夢幻の術を行うという所を見せるために、わざと一発放ってみたのじゃ」
 と、破顔一笑した。
 そして、ふと渋い顔になって、
「――そもそも忍びの術とは、古代道臣命勅を奉じ、諷歌倒語を用いられしことは書紀にも見えておるが、後世この法が近江の甲賀に伝えられて、天地人の和を以って行われたのが、甲賀流忍術である……」
 云々と、忍術の講義をはじめている内に、一番鶏の鳴声が聴えた。
 すると、老人にわかに狼狽して、
「はや一番鶏の鳴声が……、やがて山里にげす共の悪声が喧しい。三町四方に蚤の飛ぶのも聴えるこの耳に、うるそうてならんわい」
 と、言いざまに、煙の如く消え去り、さらばじゃという声は、遙か天井より聴えたが、それから毎夜乾の方に星の流れる頃には、必ず現われて、まず蝮蛇の頭をペロペロとくらったあと、鳥人の術の伝授に掛り、三年掛った。
 そしてある夜、鳥居峠の蝮蛇も今宵がくらい収めじゃと、老人はいつも二倍[#「いつも二倍」はママ]の十匹を、それも春先きの良い奴ばかしを、尻尾も余さず平げたので、ついのぼせてしもうた[#「しもうた」は底本では「しまうた」]のか、おびただしく鼻血を噴きだした。
 驚いた佐助が、蛇の脱殻をまるめて師匠の鼻の穴に詰め込もうとすると、老人は、
「えい、見苦しゅうなるわい。鼻血が停った代りに、人が見て噴きだすわ」
 と、振り払った瞬間、もう姿は見えず、
「――やよ、佐助、既にして汝は鳥人の極意を余す所なく会得(えとく)せり。これ以上の師弟の交りは、雲雨に似てあやし。われ年甲斐もなく、鼻血など噴きだした余りの見苦しさに、思わず姿を消してしもうたが、これ即ち師弟の別れと思うべし。汝はや鳥人たり。アバタ面をげす共に見られることもあるまい。臆し恥ずる所なく、往きて交り、機会(おり)あらば然るべき人にも仕うべし。されど、人と交るや、人しばしばその長所を喜ばず、その短所を喜ぶものと心得べし。即ち、汝のアバタ面は人に喜ばれようが、鳥人の術は喜ばれざる故に、心して用うべし。さらばじゃ」
 と、いう声は、はや遙か嶺の上より聴えて来たが、その時の佐助は、既にその遙かの声が聴きとれるほどの、極意に達していたのである。
 それから一月ばかりたったある日のことである。
「工夫に富める」上田の城主、真田幸村は三好清海入道はじめ、三好伊三、穴山、望月、海野、筧等六人の荒子姓を従えて、鳥居峠に狩猟を催した。
 法螺と笛の名手、三好清海入道が笛を吹くと、大小無数の猿が集ったので、まず幸村自身が射たところ、幸村の矢は意外にも獲物に届かぬ先に、真っ二つに折れてしまった。
「奇怪至極!」
 と、次に清海入道が試してみると、入道の矢は宙にぴったりと停ったかと思うと、いきなり入道の咽笛めがけて、戻って来た。
 入道は驚いて身をかわした拍子に、尻餠をついてしまった。途端に、聴えたのは、カラカラと高笑いの声である。
「誰だ、笑う奴は……?」
 と、入道はカンカンになって、
「――海野、お主か」
「いんや」
「穴山、お主か」
「いんや」
「筧、お主だろう」
「知らぬ」
「さては、望月だな」
「違う。大方貴様の弟だろう」
「おい。伊三、お前も。現在の兄貴を嘲笑するとは、太い奴だ」
「莫迦をいえ。わしが昨日から歯痛で、笑い声一つ立てられないのは、先刻承知じゃないか」
「ふーむ」
 その時、また笑い声がした。
「おや、また笑ったぞ。畜生!」
 と、思わずむいた入道の眼の前に、忽然として現われたのは、六尺三寸の大男だ。
「や、や、天から降ったか、地から湧いたか」
 と、入道が叫ぶと、その男は、揚幕を引いて花道へ出た役者のような、気取った口調で、
「流れ星のように、天から降ったといおうか。蕈(きのこ)のように、地から湧いたといおうか。流れ星なら、尻尾も見えよう、蕈の類なら、匂いもしようが、尻尾も見えず、匂いもなしに、火遁(かとん)[#ルビの「かとん」は底本では「かとく」]、水遁(すいとん)、木遁(もくとん)、金遁(きんとん)さては土遁(どとん)の合図もなしに、ふわりと現われ、ふわりと消える、白い雲よりなお身も軽い、白雲師匠の秘伝を受けて、受けて返すはへぼ弓、へぼ矢、返らぬとかねて思えばあずさ弓、なき面に蜂のおかしさに、つい笑ってしまったが、笑えば笑窪(えくぼ)がアバタにかくれる、信州にかくれもなきアバタ男、鷲塚の佐助とは、俺のことだ」
 と、名乗ったが、なお名乗り足らぬと見えて、
「――遠からん者は音にも聴け、近くば寄って眼にも見よ。見ればアバタの旗印、顔一面にひるがえる、あきれかえるの醜男と、六十余州かくれもなき、鷲塚佐助のこの面を、とっくり拝んで置け!」
 と、続けたので、さすがの三好入道も、思わず失笑しかけた。
 しかし、男同志が名乗り合う厳粛な時だと、笑いを噛みしめて、
「推参なり。我こそは、信州上田の鬼小姓、笛も吹けば、法螺も吹く、吹けば飛ぶよな横紙を破った数は白妙(しらたえ)の、衣を墨に染めかえて、入道姿はかくれもなき、三好清海入道なり」
 と、名乗った。
 そして、双方名乗りが済むと、三好入道はいきなり長槍をしごいて、佐助の胸をめがけて、
「エイッ!」
 と、突いたが、佐助はぱっと樹の上に飛び上って、笑いながら、
「おい、入道とやら。その坊主頭、打ち見たところ、ちと変哲が無さすぎて、寂しい故、枯木も山の賑いのコブを二つ三つ、坊主山のてっぺんに植えつけてくれようか。眼から出た火で山火事無用じゃ」
 と、言ったかと思うと、ぱっと飛び降りざまに、三好入道の頭を鉄扇でしたたか敲くと、入道は眼をまわして、気絶してしまった。
 見ていた幸村は、何思ったのか、佐助に呼びかけて、あたら幻妙の腕を持ちながら、山中に埋れるのは惜しいと仕官を口説くと元来自惚れの尠(すくな)くない佐助は脆(もろ)かった。

 やがて、幸村より猿飛の姓を与えられた佐助は、
「今日よりは、鳥居峠を猿(去る)飛佐助だ」
 と、駄洒落を飛ばしながら、いそいそと幸村主従のあとについて、上田の城にはいった。
 が、佐助はさすがに白雲師匠の教訓を忘れなかったのか、鳥人の術なぞ知った顔は一つも見せず、専らアバタの穴だらけの醜い顔を振りまわして行くと、案の定人に好かれた。
 その頃、同じ城内に、悪病の為に鼻の欠け落ちた男がいて、しかもこの男は、かなりの艶福を得たかの如く言い触らし、それが万更法螺でもなく、たしかに二三の艶福があったと、信ぜられる節があったから、随分人気が悪かった。
 ところが、佐助はこの男と違って、かつて楓と肩を並べて歩いたこともあったことなぞ、おくびにも出さず、いかにも持てませぬという顔を、城内の集りの時などに見せて、
「こんな顔ゆえ、女は諦めている」
 と、やけに聴えぬ程度に呟いて[#「呟いて」は底本では「咳いて」]、アバタの上に笑窪(えくぼ)を泛べたりしていたので、佐助は阿諛の徒以上に好かれ、城中の女共の中には、
「あのような醜い男を殿御に持てば、浮気をされずに済みましょう」
 と、ひどく理詰めな心の寄せ方をする女もいた。
 しかし、佐助はそんな女の顔を、ひそかに楓の顔とくらべて、見向きもしなかった。そして、アバタ面のためにかえって人に好かれる自分に、驚くたびに、
「人と交るや、人しばしばその長所を喜ばず、その短所を喜ぶものと、心得べし」
 と、訓えた白雲師匠への尊敬の念を新たにしたが、しかし、佐助にひそかに恃(たの)む術がなかったとすれば、あるいはその短所のために卑屈になったかも知れず、その時は短所を喜ばれることもなかったであろうとは、果して白雲師匠は気づいたであろうか。
 ところで、佐助はあまりアバタの顔をさらけ出しすぎたので、アバタの穴から風がはいったのか、それとも下界の風に馴れなかったのか、間もなく風邪をひいて、寝こんでしまった。
 そして、ある日、三好清海入道が病気見舞いにしては、ひどくあわてこんだ恰好でやって来た。
「どうだ、病気は」
「ありがとう。今日あたり起きられそうだ。どうも下界の風という奴は、俺の性に合わぬと見える。いっそ風をくらって、逃げてやろうと思っていたが、どっこい、くらった風が無類の暴れ者、この五体中を駈けずり廻り、横紙破って出たのは、咳やら熱やら、ひどい目に会うてしまったよ。あはは……」
 と、笑うと、入道は人の善さそうな眼をパチパチさせて呆れながら、
「相変らずぺラペラとよく喋る奴だ。が、その位の元気があれば、大丈夫だ」
 そして、急に声を改めると、
「――ところで、些か変なことを訊(き)くようだが、貴公、忍術のほかには何も出来ぬのか」
「風邪をひくことも出来る。ごらんの通りよ」
 済まして言うと、入道はあわてて手を振って、
「いや、そう茶化しては困る。えーと、例えばだ、歌を読むとか、作るとか、そういうことは出来るのか」
 すると、佐助は急に床の上に坐り込んで、
「何? もう一ぺん言ってみろ。出来ぬのかとは、何事だ。人生百般――と、敢えて大きく出ぬまでも、凡そ人間の成すべきことにして、不正、不義、傲慢のこの三つを除いたありとあらゆる中で、この佐助に能わぬことが、耳かきですくう程もあれば言ってみろ!」
「まア、そう怒るな。じゃ、出来るのか」
「憚りながら、猿飛佐助、十八歳の大晦日より二十四歳の秋まで、鳥居峠に籠っていた凡そ六年の間、万葉はもとより、古今、後撰、拾遺(しゅうい)の三代集に、後拾遺、金葉、詞花、千載、新古今の五つを加えて、世にいう八代集をはじめ、源実朝卿の金槐(かい)集、西行坊主の山家集、まった吉野朝三代の新葉集にいたるまで、凡そ歌の書(ふみ)にして、ひもどかざるは一つも無かったのみか、徒然なるままに、かつは読み、かつは作ってみた歌の数は、ざっと数えてこのアバタの数ほどあるわい」
「判った、判った。道理で日頃の貴公の言葉づかいが、些か常人とは異っていると思っていたよ。ところで、そうときまれば、好都合だ。というのは、外でもない、実は今夜城中に奥方の歌の会があるんだが、今夜の会には、ちと俺の気にくわぬ趣向がたくらまれているんだ」
「ほう? 下手糞な歌を作った罰に、三好清海入道に、裸おどりでもさせようという、趣向か。こりゃ面白い」
「莫迦をいえ。実は、一番いい歌を作った女を、一番いい歌を作った男にくれてやろうという、趣向なんだ。ところが、女の中で一番歌の巧いのは、奥方附きの侍女で、楓という女なんだ」
「楓……? きいたような名だな」
 ふと甘い想いが佐助の心をゆすぶった。が、入道はそんなことには気づかず、
「ところで、男の方の歌の巧い奴は、家老の伜の伊勢崎五六三郎だ」
「すると、何だな。その五六三郎が、楓とやらを、貰いそうなんだな。それがどうして、気に染まぬのだ。貴公、その楓とやらに、思いを寄せておるのか」
「あらぬことを口走るな。俺ア毛虫の次に嫌いなのは、女という動物だ。つまり、今夜の歌の会で俺の気にくわぬ理由が、ざっと数えて三つある。一つは、五六三郎という奴が虫が好かんのだ」
「向うでも、貴公を好きとは言っておらんだろう」
「そうだ、そうだ」
 と、三好はからかわれていることなぞに気のつかぬ鈍感な男だった。
「――この五六三郎という奴は、家老の家に生れたのを、笠に着て威張りよるのは、まず我慢出来るとして、のっぺりした顔をしやがって、頭のてっぺんから夏蜜柑のような声を出す。俺ア虫唾が走るんだ。第二の理由は、こ奴かねがね楓に横恋慕して、奥方を通じて、内々の申し入れ、それを楓がはねつけたものだから、奥方に入智慧して、歌の会の趣向など、たくらみおって、うむを言わさず、楓を娶ろうというその魂胆が気にくわぬ。第三の理由というのは……」
「おのれが一番いい歌を作るものと、はなから極めこんでいる、その鼻ッ柱が気にくわぬというのだろう」
 と、すかさず佐助が言うと、
「そうだ。その通りよ。そこで貴公、病気の全快祝いだと思って、今夜の歌の会に出て、五六三郎の鼻を明かしてくれんか」
「俺ア断るよ。貴公出て、珍妙なる歌でも作るさ」
 と、佐助が言うと、三好は坊主頭をかいて、
「ところが、俺ア笛と法螺なら、人並以上にうまく吹くが、歌と来た日にゃ、からきしだめなんだ。いや、こりゃ法螺じゃない。正直なところを、恥をしのんで言ってるんだ。頼む。貴公出てくれ」
「いやだ」
 と、佐助は吐きだすように言った。
「――考えてもみろ。歌を作るのはやすいが、そのおかげで、見も知らぬ女を押しつけられるのは、真っ平だ。俺の幼馴染みに、楓という美女がおったが、同じ楓でもピンから数えて、キリまであろうよ」
 そう断ったが、三好は言いだしたらあとへ引かぬ男で、しまいには、
「出てくれねば、今日限り口をきかぬ!」
 と、言うので、さすがの佐助もいいなりになるより外に仕方がなかった。
 夜になると、佐助はアバタ面に裃つけて、歌の会に臨んだ[#「臨んだ」は底本では「望んだ」]。ところが、たまたま自分の前へ、しずかに腰を下した侍女の顔を見て、佐助はさっと顔色を変えた。悪口祭の夜、別れて以来の楓だった。
「あッ、この楓だったのか」
 いつ召し抱えられたのであろうと、しかし考えるいとまなく、いきなり佐助は極意の忍術を使って、さっと天井の中へ姿を消してしまった。
 しかし、楓はいち早く気づいて、
「あッ、佐助様!」
 と、思わず起ち上ろうとした途端、はや佐助の気取った声が、天井から聴えて来た。
「楓どの。立つな、叫ぶな、探すな、坐れ。城中でござるぞ、見苦しい。いや、見苦しいのは、それがしが顔。人に見せてもそなたにだけは、夢うつつにも見せられようか。アバタめが、猿の衣裳の裃つけて、歌を読むとて短冊片手に首を振り、万葉もどきの調子をつけて、『アバタめが首を振る振る振るもよし振らざるもよし』などとは、口くさっても言えようか。気が狂うても見せられようか。アバタの穴が消せないままに、極意の秘伝でこの身を消して、雲の上より未練の一声、立つな、叫ぶな、探すな、坐れ。坐って聴けや、この胸の嘆き。猿飛佐助は、そなたの前から、今宵限りに姿を消して、あとは気任せ、足任せ、時には飛行の一足飛びに、日本全土飛び歩く、忍術道中の草鞋をはいて、はいて捨てるは毒舌三昧、ああこれからが面白いが、そなたに別れるこの苦しさは、少し旅寝の枕を濡らそう。楓どの、さらばじゃ」
 例によって、妙な調子のあらぬ言葉を残して、上田の城から姿を消した佐助は、歌の会の結果がどうなったか知る由もなく、また知ろうともせず、その夜の内に飛行の術で、飛ぶわ、飛ぶわ、物の怪につかれたように飛んで、丑満の頃には、京の都の東山の上空まで来たが、折柄南禪寺の山門に立ちのぼる陰々たる妖気を見ると、何思ったか、えいと飛び降りた。
 そして、耳をすますと、果して山門の楼上より、ひそびそと話し声が聴えて来た。
「はて、面妖な。この丑満刻に時ならぬ人の声。何? 伏見桃山、千鳥の香炉?……ふーむ、奇怪な言葉が聴えるぞ」
 三町四方に蚤の飛んだ音も聴きわけるという佐助が、怪しい楼上の声を聴きつけて、そう呟いた途端、一本の手裏剣が佐助の眉間めがけて、飛んで来た。

      水遁巻

 南禪寺山門に立ちのぼる陰々たる妖気を見て、いきなり飛び降りた佐助が、折柄楼上より聴える、
「伏見桃山、千鳥の香炉……」
 という怪しの人声を耳にした途端、一本の手裏剣が、佐助の眉間めがけて飛んで来たので、心得たりと、宙に受けとめて、うかがうと、百日かずらの怪しげな男が、いくらか洒落気のある男らしく、上方訛りの七五調をつらねながら、こう呶鳴るのが聴えた。
「時も時、草木も眠る丑満の、所もあろうにわが山門に、紛れ込んだる[#「紛れ込んだる」は底本では「粉れ込んだる」]慮外者、熱に浮かされ夜な夜な歩く、夢遊病者か風来坊か。風の通しのちと変挺な、その脳味噌に風穴一つ、明けて口惜しい手裏剣を、眉間めがけて投げてはみたが、宙にとめられ残念至極、うぬは一体どこの何奴だ?」
 佐助はこの言葉を聞くと、風流を解する男にめぐり合ったうれしさに、すっかり気を良くしたので、
「明けて口惜しい竜宮土産[#「竜宮土産」は底本では「龍宮土産」]、玉手の箱もたまには明かぬ……」
 と、例の調子を弾ませて、
「――明けてたまるか風穴一つ、と申すのもこの顔一面、疱瘡の神が手練の早業、百発百中の手裏剣の跡が、網代の目よりもなお厳重に、赤い鰯のうぬが[#「うぬが」は底本では「うねが」]手裏剣、仇な一匹もらしはせじと、見張って取り巻くあまたのアバタ、あの字づくし[#「づくし」は底本では「ずくし」]のアバタの穴が、空地あけずに葦のまろ屋、さては庵室あばら屋と、軒を並べた雨戸を明けりゃ、旭の登る勢いに、薊の花の一盛り、仇な姿に咲きにおう、アバタの穴の花見酒、呆れが礼を言いに来る、あたら男を台なしの、信州にかくれもなきアバタ男猿飛佐助とは俺のことだ」
 と、あの字づくし[#「づくし」は底本では「ずくし」]で答えると、楼上の男は心得たりと、
「いみじくも名乗った。手八丁口八丁の、ても天晴れなる若者が、あの字づくし[#「づくし」は底本では「ずくし」]で名乗ったからは、いの字づくし[#「づくし」は底本では「ずくし」]で、答えてくれよう。――十六夜う月も石山の、乾にかくれて一寸先を、いざりも這えぬ暗闇に、かくれてことなすいか者は、石川や浜の真砂の数あれど、石の上にも三年の伊賀で覚えし忍術を、いざ鎌倉のその時に、使えばいかな敵もなく、いつも月夜と米の飯、石が流れて木の葉が沈む、今太閣の天下をば、命をかけた陰謀の、意地ずくどりの的にして、命知らずの一味郎党、一蓮託生の手下に従え、一気呵成に奪わんと、一騎当千の勢いの、帷幄は東山南禅寺、一に石川、二に忍術で、三で騒がす、四に白浪の、五右衛門と噂に高い、洛中洛外かくれもなき天下の義賊、石川五右衛門とは俺のことだ」
 と、名乗った。
 が、佐助は、石川五右衛門と聴いても、少しも驚かず、こりゃますます面白くなったわいと、ぞくぞくしながら、
「さては、伏見桃山千鳥の香炉と囁いたは、桃山城に忍び入り、太閣秘蔵の千鳥の香炉を、奪い取らんとのよからぬ談合(だんごう)でありしよな」
 と、詰め寄った。
 すると、五右衛門は、さては聴かれてしまったかと、暫らく唸っていたが、やがて、大音声を張り上げて、相も変らぬ怪しげな七五調を飛ばしはじめた。
「石が物言う世の習い、習わぬ経を門前の、小僧に聴かれた上からは、覚えた経(今日)が飛鳥(あすか)(明日か)の流れ、三途の川へ引導代り、その首貰った、覚悟しろ!」
 そう言い終ると、五右衛門は仔細ありげに十字を切って、
「――南無さつたるま、ふんだりぎや、守護しょうでん、はらいそはらいそ……」
 と、おかしげな呪文を唱えたので、佐助は危く噴きだしかけたが、辛うじて堪えた。
 ところが、呪文が終った途端、五右衛門の身体はいきなりぱっと消え失せたかと思うと、一匹の大蟇がドロドロと現われたので、佐助はついに堪え切れず、大笑いに笑った。
「あはは……。バテレンもどきの呪文を唱えたかと思えば、罷り出でたる大蟇一匹。児来也ばりの、伊賀流妖魔の術とは、ても貧弱よな、笑止よな。そっちが伊賀流なら、こっちは甲賀流。蛇の道は蛇を、一匹ひねりだせば、一呑みに勝負はつくものを。したが、それでは些か芸がない。打ち見たところ、首をかしげて、何考えるか寒(かん)の蛙(かえる)の寒そうな、ちょっぴり温めてくれようか」
 そう言ったかと思うと、はや佐助の五体はぱっと消え失せて、一条の煙が立ちのぼった、――と、見るより、煙は忽ち炎と変じて、あれよあれよという間に、あたり一面火の海と化し甲賀流火遁の術であった。
 炎はみるみる蟇の背に乗りうつった。蟇は驚いて飛び上り、
「あッ!熱ウ、熱ウ!」
 と、情けない人間の声をだしながら、苦悶の油汗を、タラリタラリと絞り落した。
 が、五右衛門もさる者であったから、いつまでも蟇の我慢という洒落に、甘んじていず、再び「南無さつたるま、ふんだりぎや、守護しょうでん、はらいそはらいそ……」
 と、必死の呪文を唱えたかと思うと、沛然と雨を降らした。火遁の術を防ぐ水遁の術である。
 ところが案に相違して火はますます熾んに燃え、蟇の苦悶は増すばかりであったから、さすがの五右衛門も、
「助けてくれ、あッ、熱ウ、熱ウ!」
 と恥も見栄も忘れたあらぬ言葉を、口走った。
 実は蟇の身体より流れる油に燃えうつった火が、五右衛門の降らした水を得て、かえって勢いを増したのであった。
 これこそ、佐助の思う壺(つぼ)であった。五右衛門の奴め、わが術中に陥ったとは、笑止笑止と、佐助は得意満面の、いやみな声を出して、
「やよ、五右衛門、その水遁の術、薮をつついて、蛇を出したぞ。重ねた悪事の報いに、やがては、釜の油で煮られるその方、今のうちに蟇の油で焼かれる熱さに馴れて置け! それとも後悔の背を焼かれる、その熱ささましたければ、まずうぬが眼をさまして、顔を洗うまえに、悪事の足を洗うがよかろう」
 こじつけの、下手糞な洒落を吐くと、
「――さらばじゃ」
 東西南北、いずくとも知れず、姿を消してしまった。
 五右衛門には、一の子分の木鼠胴六をはじめ、関寺(せきでら)の番内(ばんない)、坂本の小虎、音羽の石千代、膳所(ぜぜ)の十六(とおろく)[#ルビの「とおろく」は底本では「とうろく」]、鍵はずしの長丸、手ふいごの風(かぜ)之助、穴掘[#「穴掘」は底本では「穴堀」]の団八、繩辷(なわすべ)りの猿松、窓潜(くぐ)りの軽(かる)太夫、格子毀(こぼち)の鉄伝(てつでん)、猫真似の闇(やみ)右衛門、穏松明(たいまつ)の千吉、白刃(しらは)取りの早若(はやわか)などの子分がいたが、これらの子分共は千鳥の香炉盗み取りの陰謀の談合のため、折柄南禅寺の山門へ寄っていたので、頭目の石川五右衛門の哀れな試合の一部始終を、見物していた。
 そして、五右衛門の大火傷を目撃すると、彼等は思わず噴きだすという失礼を犯してしまった。
 五右衛門は、腹が立つやら、情けないやら、熱いやら、痛いやら、まるで精神状態が目茶苦茶にみだれてしまったが、しかし、この男は元来が虚栄心で固めて日本一の大泥棒になったくらいの男であったから、さすがに燃え残りの自尊心を取り戻して、
「やいやい、野郎共、何を笑うておる。何がおかしい、親分の俺が大火傷をしたのが、そんなにおかしいか。莫迦め、こりゃ火傷じゃないわい。先頃から肩が凝ってならんから、わざと灸を据えてみたまでじゃ。何がおかしい。ああ、熱い熱い、痛い痛い。莫迦め! 莫迦野郎[#「莫迦野郎」は底本では「莫迦郎野」]! ああ、熱い、よく効く灸じゃ。ああ、熱い!」
 と、妙なことを口走って、子分共を叱り飛ばした。
 すると、手ふいごの風之助という、吹けば飛ぶようなひょうきんな男が、
「親分、肩の凝りなら、灸よりも蛭(ひる)に血を吸わせた方が効きますぜ」
「いや、蛭よりも鼠の黒焼きを耳かきに一杯と、焼明礬をまぜて、貼りつけた方が……」
 そう言ったのは、膳所(ぜぜ)の十六である。
「やいやい、野郎共、何をあらぬことをぬかしておる」
 と、五右衛門はカンカンになりながら、ひょいと見ると、猫真似の闇右衛門という子分が、おかしさにたまりかねて、地べたに顔を伏せながら、くっくっ笑っているのだ。[#「笑っているのだ。」は底本では「笑っているのだ」]
「やい、猫真似! 何をしている?」
「猿飛の奴の足跡を探しますんで」
 と、猫真似の闇右衛門が咄嗟にごまかすと、
「莫迦め! こけが銭を落しやすめえし、きょろきょろ地面を嗅ぎまわりやがって、みっともねえ真似をするな! 猿飛という奴は足跡を残すような、へまな男じゃねえ。今頃は東西南北、どこの空を飛んでいるか、解るものか」
 五右衛門はそう言ったが、何思ったか、急にうんとうなずいて、
「しかし、俺はきっと猿飛をつかまえて見せるぞ」
「何か妙策が……?」
「うん。二つはないが、一つはある。子分共もっと傍へ寄れ……」
 五右衛門は子分を集めると、わざとらしく声をひそめて、
「――妙策というのは外でねえ。手めえたちは、今から京の町を去って、一人ずつ諸国の山の中に閉じこもって、山賊となるんだ。そして手下を作って、仕たい放題の悪事を働けば、手めえたちの噂はすぐ日本国中にひろがって、猿飛の耳にもはいろう。猿飛という奴はオッチョコチョイだから、山賊の噂をきけば、直ぐノコノコと山賊退治にやって来るに違いねえ。そこをふん縛るんだ」
「しかし、親分、猿飛という奴は、親分にも大火傷、いやお灸[#「お灸」は底本では「お炙」]を据える位の忍術使いですから、下手すると、こっちがやられてしまいますぜ」
「莫迦をいえ! いかな猿飛といえど、俺の秘策に掛っては……」
「秘策というと……?」
「松明仕掛けの睡り薬で参らすんだ。その作り方は、土竜(もぐら)[#「土竜」は底本では「土龍」]、井守(いもり)、蝮蛇(まむし)の血に、天鼠、百足(むかで)、白檀、丁香、水銀郎の細末をまぜて……」
 そんな陰謀があるとは、知らぬが仏の奈良の都へ、一足飛びに飛んだ佐助は、その夜は大仏殿の大毘盧遮那仏の掌の上で夜を明かした。
「天下広しといえども、大仏の掌で夜を明かしたのは、まずこの俺くらいなものであろう」
 と、例によって佐助は得意になっていたが、しかし、翌朝早く眼を覚ますと、にわかに空腹を覚えた。
「なるほど大仏の掌は、天下一[#「天下一」は底本では「大下一」]の旅籠だが、朝飯を出さぬのが、手落ちだ。といって、あわてて上田の城を飛び出して来たもんだから、一杯六文の奈良茶漬けを食う銭もない」
 と、呟いてみたが、そんな駄洒落では腹の足しになるまいと、考えているうちに、ふと頭に泛んだのは、奈良には槍の宝蔵院があるということである。
「そうだ。宝蔵院では試合を求めに来た者には宝蔵院漬けの茶漬けを出すということだ」
 そう呟いた途端、佐助の身体はえいという掛声と共に、もう宝蔵院の前に突っ立っていた。
 玄関につるしてある銅鑼(どら)を鳴らすと、
「どーれ」
 出て来たのは三好清海入道よりまだ汚い、あらくれの坊主である。
「それがしは、信州真田の郎党、猿飛佐助幸吉と申す未熟者、御教授を仰ぎたい」
「上られい!」
 草鞋を脱いで上ると、道場へ通された。
「流儀は……?」
 と訊かれたので、にやにやしながら、
「何流と名乗るほどのものはござらぬが、強いて申さば、一流でござる」
 と、答えると、相手はカンカンになって、
「当院は宝蔵院流といって、一度び試合を行えば必ず怪我人が出るというはげしい流儀じゃ。町道場の如き生ぬるい槍と思われては後悔するぞ。まった、当院は特に真槍の試合にも応ずるが、当院に於いて命を落した武芸者は既に数名に及んでいる。寺院なれば殺生を好まずなどと、考えては身のためにならんぞ!」
「なるほど、当院は人殺し道場でござるか。いやいや、感服致した。寺院なれば葬式の手間もはぶけて、手廻しのよいことでござるわい」
「…………」
 相手はあっけにとられていた。
「したが、それがし目下無一文にて、回向料の用意もしておらぬ故、今ここで死ぬというわけには参りませぬて。あはは……」
「何ッ!」
 坊主はかんかんになって、起ち上った。
「あはは……。薬鑵(やかん)頭から湯気が出ているとは、はてさて茶漬けの用意でござるか。ても手廻しのよい」
「黙れ!」
 坊主は真槍をしごくと、
「――えい!」
 と、佐助の胸をめがけて、突き出した。
 途端に、佐助の姿は消えていた。
「やや、こ奴魔法つかいか。いきなり見えなくなったとは、面妖な」
 と坊主は驚いたが、すぐカラカラと笑うと、
「いやそうではあるまい。大方、愚僧の槍に突かれて、猿沢の池あたりまで吹っ飛んでしまったのであろう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、万物逝いて復らず、人生流転、生者必滅、色即是空!」
 どうも修業の足りぬ坊主と見えて、しどろもどろの念仏を唱えているところを、佐助は宙に浮いたまま鉄扇でしたたか敲くと、
「参った!」
 佐助はドロドロと姿を現わして、
「失礼仕った!」
「やや、こ奴!」
「あはは……。お手前の眼から出た火で、薬鑵頭の湯気が煮え立っておるところを見れば、茶の用意も整ったと見えた。――どれ、茶漬けの馳走にあずかりましょうかな」

 宝蔵院漬けの茶漬けに味をしめた佐助は、その日の昼食を、奈良から一足飛びに飛んだ京の都、今出川畔、当時洛中に噂の高い、その名も富田無敵(とんだむてき)という男の道場で、したためた。
 晩飯は同じく四条、元室町出仕の吉岡憲法の道場、翌日の朝飯は百万遍、舎利無二斎(しゃりむにさい)の道場と洛中の道場を一つ余さず食べつくした挙句、やがて京の都を今日(京)を限りに大坂へ現われた時に既にアバタの茶漬け侍の威名は、その醜いアバタ面の噂と共に、大坂中に鳴り響いていた。
 大坂の道場もまた、佐助の忍術の前には赤子同然であった。
 その赤子の手を軽くねじった佐助の足は、やがて、須磨、明石、姫路、岡山へと中国筋に伸びて、遂に九州の南の端にも及び、琉球の唐手術も佐助の前には、脆かった。
 佐助の自尊心は、ここに到って、アバタのひけ目を補って余りあるくらい満足され、
「天下ひろしといえども、この俺より強い者に一人も出会わなかったとは、はてさて弱い奴ばかしが、佃煮(つくだに)にするほどおったものだわい」
 と、歩き方も変って来たが、しかし、帰りの道を歩いて帰るのは、いささかおっくうであつた。
 一体に、武芸者が諸国を漫遊するのは、自分より強い武芸者に会うて、教えを請い、自分の腕を磨きたいという気持よりも、むしろ、天下に自分より強い者がおるかどうかを知りたい、自分より強い者がいないことを確かめて、自己満足に酔いたいという傲慢な虚栄心から、漫遊するのが常である。
 してみると、佐助にとっては、既に自分より強い者はわが師白雲斎のほかになしと、わかった以上、弱い奴ばかしが一月いくらの月謝ほしさの道場を、ほそぼそと張って、それで威張りかえっているような国々を、もう一度てくてくと歩いて帰るのは、これほど退屈な話はない。
 そこで、佐助は久し振りの飛行の術で一足飛びに帰ることにした。
 が、どこへ帰るのか。俺に帰るところがあろうか。恋しい楓のいる信州へか。いや、アバタの穴が消えぬ限り、楓の前には、会わす顔がない。
 そう考えると、佐助は憂鬱だったが、
「往きはよいよいの、中風のような武芸者が相手だが、帰りは怖い雷様を道連れとは、ても洒落た道中かな。えいと叫べば、はや五体は宙を飛んで行く。ぐんぐん登れば雷様を下に見る、不死身の強さは日本一の、猿飛佐助の道中だ」
 という洒落が出て来ると、もう憂鬱はけし飛んで、得意満面の鼻歌まじりに、大空を飛んで行った。
 そして、九州を過ぎ、中国筋を飛び、大坂、京の上空を過ぎて、近江の上空甲賀の山上まで飛んで来た時の佐助は、虚栄心に動かされやすい、青春客気の昂奮に、気も遠くなるくらい甘くしびれていた。
 ところが、ふと眼下の甲賀山中から、一筋の妖気の立ちのぼるのを見て、
「はて面妖な!」
 と、呟いた途端、
「――あッ」
 たちまち飛行の術は破れて、佐助の身体は甲賀山中に墜落して行ったが、さすがに佐助は、地面すれすれの、咄嗟の宙がえりで、危く五体が木ッ葉微塵になるのをまぬがれた。
「ふーむ。わが飛行の術を破ったとは、いかなる妖魔の仕業か。わが術を破り得るほどの者、天下ひろしといえども、わが白雲斎師匠を除いて、ほかにはない筈だが、伊賀流か、甲賀流か、何れにしても手強い奴! 名を名乗れ!」
と、呶鳴りながら、起ち直ったところ、いきなり足をすくわれて尻餠つき、
「ああ、見苦しい!」
 と、直ちに木遁の術……が、しかし何故か思うに任せず、金縛りにかかったようになりながら、ただ阿呆の一つ覚えのように、
「名を名乗れ! 名を名乗れ!」
 と、わめいていると、いきなり、
「汝のようなたわけめに、名乗る名を持たぬわ!」
 という声が、どこからか聴えて来た。
「あ、先生!」
 さすがに、佐助は白雲斎師匠の声を覚えていた。
「――おなつかしゅうござります。佐助でござります」
 すると、空よりの声は、
「知っておる」
「お顔を見せて下さりませ」
「たわけめ! 汝のような愚か者に、見せる顔は、持たぬわ!」
「えッ?」
「汝ははや余が教訓を忘れしか」
「えッ?」
「忍術とは……?」
 と、いきなり訊かれたので、すかさず、
「忍ぶの術なり」
「忍ぶとは……?」
「如何なる困苦にも堪うる、これ能く忍ぶなり。まった、火遁水遁木遁金遁土遁の五遁を以って、五体を隠す。これまた能く忍ぶなり」
「忍術の名人とは……?」
「能く忍び、能く隠す、これ忍術の名人たり」
 すらすらと答えたが、いきなり、
「汝、能く忍んだか」
 と訊かれると、もう答えられなかった。
「はッ! あのウ……」
「答えられまい。汝は能く隠すも能く忍ばざる者じゃ。徒らに五遁の術の安易さに頼って、勝ち急ぐ余りの、不意討ちの卑怯の術にうつつを抜かし、試合に望んでは一太刀の太刀合わせもなさず、あまっさえ、天下一の強者を自負するばかりか、わが教えし飛行の術をも鼻歌まじりに使うとは、何たる軽佻浮薄、増長傲慢、余りの見苦しさに、汝の術を封じてやったが、向後一年間、この封を解いてはやらぬぞ。これ汝への懲罰じゃ――。さらばじゃ」
「あッ、先生!」
 と叫んだが、もう師匠の声は聴えなかった。
「たった一度、お姿をお現わし下さいませ! なつかしいお顔を見せて下さりませ。先生! 先生!」
 しかし、遂に白雲斎は姿を見せなかった。それは師の鞭のきびしさの故か、それとも、いつぞやの鼻血騒ぎの見苦しさを恥じて、生涯佐助に顔を見せまいと誓っていた故だろうか。
 佐助は呆然として、尻餠を突いていた。
 術を破られたことよりも、封じられたことよりも、増長傲慢だと、日頃の自惚れを指摘されたことが辛く、
「ああ、俺はだめだ」
 と、にわかに自信をなくし、すっかり自尊心を失いながら、とぼとぼと山を降り、やがて、鈴鹿峠の麓の茶店へ腰を下すと、
「お茶を一杯下さい」
 ひどく心細い声で言った。
「お侍様は、この峠をお越しになられるのですか」
 その声を掛けた茶店の女の顔は、一寸美しかった。
 美しい女にアバタ面を見られるのは辛い。いつもの佐助なら、直ちに忍術で姿を消したところだが、術は封じられている。
 それを悲しみながら、しかし佐助はさすがに気取った口調を忘れず、
「来し(越し)は夢の夢の夢のまた夢、昨日は今日のはつ昔、旅の衣は鈴鹿の峠を越す(乾す)も乾さぬも、雨次第じゃが、どうやら、今宵は降りそうじゃな」
 と、しんみりした声で言うと、茶店の女は、
「お侍様、そりゃおよしなさいませ。あの峠には、木鼠胴六といって、名高い石川五右衛門の一の子分が山賊となって、山塞にとじこもり、旅人を見れば、剥ぎ取って、殺してしまいます」
「何ッ! 山賊が……?」
 佐助の眼は急に生々と輝いた。
「――こりゃ面白い。雨でも越さずばなるまい」
「まア、命知らずな。悪いことは申しませんから、およしなさいませ。昨日も坊様かお侍様かわからぬような、けったいな方が、俺が退治て来てやると言って、山の中へはいって行かれましたが、今に降りて見えぬところを見ると……」
「あはは……。退治られたと申すか。いや、この俺は、そんな坊主か侍かわからぬような、宝蔵院くずれとは、些か訳がちがう。忍術は封じられても、猿飛佐助、石川五右衛門の子分共に退治られるような、弱虫ではないわ。――おや、何をそのようにそれがしの顔を見ておるのじゃ。そのように穴のあくほど見つめずとも、既にアバタの穴があいているわい。あはは……」
 笑いやむと、佐助は武者ぶるいしながら峠道を登って行った。
 やがてノッポの大股は山賊の山塞に近づくと、佐助は、
「遠からん者は音にも聴け、近くば寄って眼にも見よ、見ればアバタの旗印、顔一面にひるがえる、信州にかくれもなきアバタ男、猿飛佐助とは俺のことだ。鈴鹿峠の山賊共! いざ尋常に……」[#「尋常に……」」は底本では「尋常に……」]と、例によって、奇妙な名乗りをあげながら、木鼠胴六の山塞へ、樊□(はんかい)[#ルビの「はんかい」は底本では「はんか」]の如き恰好で乱入して行った。

      木遁巻

 嘘八百と出鱈目仙人で狐狸(こり)固めた信州新手(にいて)村はおろか信州一円に隠れもなきアバタ男、形容するに言葉なきその醜怪な面相には千曲川の河童も憐憫の余り死に、老醜そのものの如き怪しげな人間嫌いの仙人戸沢図書虎(ツアラツストラ)も、汝極醜の人よと感嘆して、鳥人の思想及びその術即ち飛行の術並びに忍術を伝授せざるを得なかったという猿飛佐助が、遠からん者は音にも聴け、近くば寄って眼にも見よ、見ればアバタの旗印、顔一面に翻えしながら、鈴鹿峠の山賊の山塞に乱入した時の凄さは、樊□排闥とはこのことかと天狗も悶絶するくらいであったから、忽ち山賊は顫え上り、中には恐怖の余り尿を洩らす奴もあったが[#「あったが」は底本では「あったか」]、さすがに頭目の木鼠胴六は、石川五右衡門の一の子分だけあって下手に騒がず、うろたえる手下共をはげまして、かねて用意の松明を佐助めがけて投げつけた。
 佐助はひらりと体をかわしながら、
「やや、おびただしき松明の雨を降らしたとは、何の合図か挑戦状か。それとも悪意に解釈すれば、アバタの穴をよく見んための提灯代りの松明か」
 と、例によって怪しげな詩人気取りの、あらぬことを口走り、よもやその松明が土竜[#「土竜」は底本では「土龍」]、井守、蝮蛇の血に、天鼠、百足、白檀、丁香、水銀郎の細末を混じた眠り薬を仕掛けたものであるとは知らぬが仏を作って、魂を入れるための駄洒落もがなと、咄嗟に、
「来るか鈴鹿の山賊共!」
 と言う言葉が口をついて出ると、随分とこの洒落にわれながら気をよくして思わず笑えば笑窪(えくぼ)がアバタにかくれて、信州にかくれもなきアバタ面を、しかし棚にあげて、
「打ちみたところ、眼ッかち、鼻べちゃ、藪にらみ、さては兎唇(みつくち)出歯の守、そろいそろった醜(ぶ)男が、ひょっとこ面を三百も、目刺しまがいに、並べたところは祭だが祭は祭でも血祭りだ」
 と、いい気な気焔をわめき散らした。あとで思えば醜態であった。
 しかも、更に赤面汗顔に価いしたのは、いよいよとなると、ただ黙々とやるだけでは芸がない、雅びた文句の数え歌に合わせてやるとて、石川五右衛門[#「石川五右衛門」は底本では「石川五衛門」]の洒落た名乗り文句をもじって、
「一に石川で」で一人。
「二に忍術で」で二人。
「三にさわがす」で三人。
「四に白浪の五右衛門の」で四人五人。
「六でも七(な)き子分ども」で六人七人。
「八(や)いばに掛けて」八人。
「九(く)もなく倒すに」で九人。
「十(呪)文は要らぬ」
 で、十人まで倒したたという悪趣味に淫したことである。いかにも殺風景な話である。そして、更に調子に乗って、
「十一、十二も瞬く間、お月様いくつ、十三泣き面、十四は頓死、十五夜お月様餠つきのお突き、十六夜(いざよい)月は誰と見ん、十七娘か二人と見れば、飽かずながめてにくからぬ、十九(苦)も忘れて、二十(重)の喜び……」
 と、二十人まで倒したのはまず無難だったが、二十一人目あたりから、はや眠り薬の効目があらわれて、手足がしびれて眼がかすみ、それでも二十二、二十三は無我夢中、二十四人目は辛うじてかすり傷を負わし、二十五人目はどうなったか、いつか鼾をかいて眠り込んでしまった。汗と脂がアバタの穴についたその寝顔は、いかにも醜悪であったから、木鼠胴六は、
「何てきたねえアバタ面だ」
 と、ペッペッと唾を吐き散らし、わざとらしく嘔吐を催した振りをしながら、佐助の懐中をさぐったが、鐚一文も出て来なかったので、呆れかえって[#「かえって」は底本では「かえった」]しまった。
 が、それよりもなお失望したのは、戸沢図書虎(ツアラツストラ)伝授の甲賀流忍術の虎の巻が見当らなかったことである。
 実は佐助が「信州にかくれもなき雲をつくような大男、雷様を下に見る不死身の強さは日本一」と己惚れた余りの驕慢の罰として、師の戸沢図書虎より忍術を封じられた挙句、虎の巻も捲き上げられてしまったなどとは知らぬ胴六は、下帯の中まで探していたがいよいよ見つからぬと判ると、急にけがらわしくなって来て、手下に命じて佐助の身体を牢屋の中へ投げ込んでしまい、自身成敗するのも不潔だといわん許りであった。
 こうして佐助を牢屋へ入れると、胴六は早速韋駄天の勘六という者を走らせて、この旨を京の五右衛門のもとへ知らせた。
 やがて、どれだけ眠ったろうか、牢屋の中で眼を覚した佐助は、はげしい自己嫌悪が欠伸と同時に出て来た。
 既に生真面目が看板の教授連や物々しさが売物の驥尾の蠅や深刻癖の架空嫌いや、おのれの無力卑屈を無力卑屈としてさらけ出すのを悦ぶ人生主義家連中が、常日頃の佐助の行状、就中この山塞におけるややもすれば軽々しい言動を見て、まず眉をひそめ、やがておもむろに嫌味たっぷりな唇から吐き出すのは、何たる軽佻浮薄、まるで索頭(たいこ)持だ、いや樗蒲(ばくち)打だ、げすの戲作者気質だなどという評語であったろうが、しかしわが猿飛佐助のために一言弁解すれば、彼自身いちはやくも自己嫌悪を嘔吐のように催していた。荘重を欠いたが、莫迦ではなかった証拠である……。
 思えば今日まで自尊心を傷つけられた数は、ざっと数えて四度あった。
 最初はいわずと知れた十九歳の大晦日の夜、鄙(ひな)にもまれな新手村の小町娘楓をそそのかして、夜のとばりがせめてもに顔の醜さをかくしてくれようと、肩を並べてぬけぬけと氏神詣りに出掛けたが、折柄この夜だけはいかな悪口雑言も御免という悪口祭のかずかずの悪口のうち、蓄膿症をわずらったらしい男が、けれど口拍子おかしく、
「やい、おのれの女房は鷲塚の佐助どんみたいなアバタ面の子をうむがええわい」
 とほざいた一句の霜のような冷たい月の明りに照らされ覗かれて、星の数ほどあるアバタの穴をさらけ出してしまった時である。
 途端に隠遁をきめこんで、その夜のうちに鳥居峠の山中に洞窟を見つけこの中にアバタ面を隠したが、たまたま山中をよぎった鳥人の思想を説く奇怪な超人、戸沢図書虎よりアバタを隠す調法な忍術を授けられ、やがてこの術を以って真田幸村に仕えて間もなく、上田の城内の歌合せの会に出席して、はからずもその席上かつての小町娘今は奥方の侍女楓を見出した時が自尊心の傷ついた二度目。
 アバタ面の猿飛が猿の衣裳つけて罷り出で、短冊片手に首かしげ、歌を読むとて万葉もどきに「アバタめが首を振る振る振るもよし振らぬもよし……」などとは口くさっても言えようか見せられようか、ああ恥かしい、醜態じゃと、たちまち忍術の極意で楓の前より姿を消したその足で上田を立ちのき、武者修行に出掛けたが、忍術を使えばいかな敵もなく、遂にわれ日本一なりと呆れ果てたる己惚れに増長したところを、師の戸沢図書虎より苦もなく術を封じられてしまったのが三度目。
 そして四度目は想い出すさえ生々しい。即ち昨日の山賊退治の拙い一幕だ。だんまりで演れば丁々発止の竜闘虎争[#「竜闘虎争」は底本では「龍闘虎争」]の息使いも渋い写実で凄かったろうに、下手に鳴り物沢山入れて、野暮な駄洒落の啖呵に[#「啖呵に」は底本では「痰呵に」]風流を気取ったばかしに、竜頭蛇尾[#「竜頭蛇尾」は底本では「龍頭蛇尾」]に終ってしまったとは、いかにもオッチョコチョイめいて、思えばはしたない。

「総じておれは気障が過ぎるわい」
 ただでさえ目立つアバタの旗印を、雲をつく化物のような長身の肩で切った風にひるがえしながら、熊手のような手で怪しげな歌など作って、新手村の百姓娘に贈ってたまげさせていた年少多感の悪趣味はまず我慢出来るとしても、口をひらけば駄洒落か七五調、すまじきものは宮人気取った風流口調の軽薄さ。おまけに、自虐か自嘲か、われよりアバタを言い触らすとは、いっそ破れかぶれか……。
「いや、あれもこれも皆このアバタのひけ目の成せる業だ」
 と佐助はにわかにしょんぼりして、ふと寂しい心の底を覗きながら、折柄どこからか聴えて来る下手な笛の音を浮かぬ顔でしばらく聴いていたが、やがてその笛の主がどうやら壁をへだてた隣の牢屋にいるらしいと判ると、はや気取りたっぷりの気障な口調の昔取った杵の音をきかせて、
「秋も深し、夜も深し、眠りも深し、笛ふかす、隣は何をする人やら」
 と呟いたのち、壁に向って、
「――もし、お隣の仁、折角御清興中を野暮な問い掛けでおそれ入るが、お手前はいったいどこの何人でござるか」
 と、声を掛けた。途端に笛の音がやんで、隣から聴え来たのは、
「我こそは信州真田の鬼小姓、笛も吹けば法螺も吹く、吹けば飛ぶよな横紙を、破った数は白妙の、衣を墨に染めかえた、入道姿はかくれもなき、天下の横紙破り三好清海入道だ」
「なアんだ、三好か」
 佐助はふき出してしまった。阿呆の一つ覚えの名乗りを、さも得意らしく牢屋の中であげているのもおかしいが、それよりおかしいのは、俺は昨日茶店の女にきいた時、てっきり宝蔵院くずれだと思ったが、三好入道もまた山賊退治に失敗して牢の中に閉じこめられているのか、まず、佐助は自分の名を告げたあと訊ねたところ、果してその通りであった。が、上田の城内におとなしくいた筈の三好が何のためにのこのこ上田を発って来たのかと、その旨問うと、三好は言下に、
「貴様を縛り首にする為だ」
「えっ? なんだと?」
 さすがに驚き、人を驚かすが自分は驚かぬのを伊達男の心得の第一としている手前、佐助は咄嗟に自分を恥じて、何たる心の弱まりかと情けなかった。
 三好は佐助が案の定驚いたらしいのを見ると、ますます図に乗って、
「いつぞやの歌合せの夜、無断でお城を飛び出して気儘勝手に諸国漫遊[#「諸国漫遊」は底本では「諸国慢遊」]に出掛けた不届きな猿飛め、唐天竺まで探し出して、召しとって参れとの殿の上意をうけて上田を発ち、東西南北、貴様の行方を探しもとめている内、ひょんなことから、この牢屋へ閉じこめられ、退屈しのぎに笛を吹いていたというわけよ」
 と、日に一度吹かねば気嫌のわるいという法螺を、凝りに凝った笛のあとで吹けたという喜びにぞくぞくしながら、
「――したが、ここで会ったとは何が幸せになるやら、やい、猿飛、上意だ、繩に掛れ、……といいたいが、壁をへだてた牢の中。――おい、猿飛、貴様忍術が使えるのだろう。えいと九字をきって、ドロドロと鼠に化け、チョロチョロと穴を抜け出して、この俺を救い出してくれ」
「その忍術が使えるなら、今時、貴様の下手糞な笛など聴いておるものか」
 いかにもしょんぼりした声だが、さすがに虚勢を張って、佐助がそう言うと、三好は、
「ははあん。俺を救い出すと、こんどはお主が俺に召しとられるおそれがあると思って、そんな嘘を言っているのだろう」
 と、自身法螺吹きだけに、直ぐ邪推した。すると、
「莫迦! 坊主頭の貴様の前で嘘を言うても洒落にもなるまい」
 と、はや駄洒落がはじまり、
「――昨日までの俺ならば、天から降ったか地から湧いたか、火遁、水遁、木遁、金遁、さては土遁の合図もなしに、ふわりと現われふわりと消えて、消えぬアバタの星空も、飛行の術で飛んでもいたが、鳥人先生のいましめ受けて、封じられたる忍術の、昔を今になすよしも、泣く泣く喞(かこ)つ繰言の、それその証拠には、この合部屋に膝をかかえているじゃないか」
 と、万更法螺でもなさそうだったから、
「じゃ、この鈴鹿峠が俺たちの墓場か」
 と、三好がげっそりとすれば、
「そうよ。坂はてるてるの坊主の三好、墨の衣は鈴鹿の鐘を、チンと敲いて念仏でも唱えているんだな」
 などと、他愛もない洒落にますますうつつを抜かしはじめると、もういけない、まるで弁慶か索頭(たいこ)持ちみたいにここを先途と洒落あかして、刻の移るのも忘れてしまったが、そのありさまはここに写すまでもない。
 その翌日、まるで申し合わせたように、鈴鹿峠の麓の茶屋に柔かな物腰をおろした若い娘があった。峠を越すのかと女中がたずねると、
「峠を越せば、遠く信州を猿飛様にやがて近江(会う)路、日の暮れぬうちに越そうと思います」
 という気取った言い方は、大方佐助の感化であろう、それは楓であった。
 新手村の大晦日の夜と、それから城中での歌合せの夜の二度まで、自分を振り切るように逐電してしまった佐助が一途に恋しくて、思い余ったその挙句に、佐助たずねてのあてなき旅の明け暮れにも、はしたなく佐助ばりの口調が出るとは、思えば佐助も幸福な男である。
「滅相もない、お女中様、そりゃおよしなさいませ。あの峠にはおそろしい山賊がおります。昨日もアバタ面のお武家様が山賊退治に行くといって出掛けられましたが、今に下ってみえない所をみると……」
 女中がそう言いかけると、もしと楓はせきこんで、
「もしやそのお侍、信州訛りでは……?」
 胸のあたりがどきどきと顫え、そして、
「さア、どこの訛りかは知りませんが、妙に気取った物の言い振りをされるお武家様で……」
 という女中の言葉を皆まできかず、あ、佐助様にちがいはないと、起ち上ると、茶代も置かずに山道を駈け登って行った。そして、生きているか、死んでいるかは知らぬが、よしんば屍にせよ、恋しいひとの少しでも近くへ行きたい一心の楓の足は、食い気しか知らぬか、もしくは食い気を忘れぬという今時の娘たちの到底及びもつかぬ速さにいじらしい許りであったから、作者もこの辺りは駈足で語ろう。
 何刻かの後、楓は木鼠胴六の前で知っているだけの舞いを、全部舞っていた。
「名は秋の楓だが、はて見飽きもせぬ」
 と、胴六はわざとさりげなく洒落を言ってみせて、時に意味もなく笑い声を立て、手下共は何かしらやけくそめいた酒を飲み、無論胴六もしたたか痛飲し、熊掌駝蹄(ゆうしょうだてい)の宴であったが、やがてガヤガヤ[#「ガヤガヤ」は底本では「ガヤガヤり」]入りみだれている内に、物の順序として月並み軒並みに一人残らず酔いつぶれて眠ってしまった隙をのがさず、ひそかに牢屋の鍵を盗み出してしまった楓は、にわかにガタガタと顫えながら、這うようにして牢屋の前に来ると、
「佐助様、佐助様」
 どんな女の一生にも一度は必ず、そして一度しか出ぬ美しい声が、今こそあえかに唇を顫わせた。
「おお、その声は楓どの」
 さすがに覚えていてくれたかと、
「お久しゅうございます」
「…………」
 普段おしゃべりの佐助が鉛のように黙っているのを見て、何故こんなに変っしまったのかと楓はあやしく心が乱れて、まるでその変り方はこの楓を嫌ってしまったせいだろうか。
「何をそのように黙っておられます」
「余りのことに言葉も出なかったのじゃ。思いも掛けぬそなたとの対面、牢屋の中とは面目ないが、この暗闇がアバタの俺を隠してくれたとは、もっけの幸い」
 と、はやいつもの佐助に戻ったのが嬉しかったが、しかし、またそれももどかしくて、
「ま、そのようなことは後で。一刻も早うお逃げなさいませ」
「いや、逃げはせぬ。女人のそなたに助けられて逃げたとあっては、アバタ以上の恥でござる」
 などと佐助は収まりかえっていたが、やがて随分と手間の掛ったのち、やっと牢を出ると、眠っている山賊の傍へ飛んで行き、やい起きろと蹴り起し、そして、おれは口にしまりがない、気障な駄洒落に淫し過ぎるという折角の牢獄の反省も、簡単に蹴り飛ばしてしまうとぺらぺらと怪しげな七五調で、
「折角の夢を破った横紙破り、腰も抜ければ腹も立とうが、せめてこの世のお別れに、一眼だけでもこの娑婆を、拝んで置けとの思いやり、寝呆けた奴は眼をこすり、南蛮渡来の豚でさえ、見れば反吐をば吐き散らす、この面妖なアバタ面、地獄の迎えの来るまでに、穴のあくほど見て置けば、あの世へ行ったその時に、娑婆の不思議はアバタ面、二目と見られぬものだったと、エンマ大王喜ばす、土産話になるだろう。――おや、来るか鈴鹿の山賊共! 土産話が出来たと見えて、やけに急いだ地獄行き、邪魔な三好が顔出すまでに、こちらも少々急ぎの仕事、一人二人は面倒だ、束になって掛って来い」
 そして瞬く間に三百人、一人残さず眠らせてしまって、はじめてほのぼのとした自尊心の満足があった。
 三好は楓が自分もまた牢にいることにしばらく気づかなかったので牢を出るのがおくれ、
「三好入道これにあり!」
 と、叫んだ時には、もう出る幕は念仏しか残っていず、ぷりぷりと楓に当ったが、楓は耳にはいらず、いそいそと佐助の傍にかけ寄って、
「お見事でござりました」
 佐助は月を仰いでいた。
「楓どの、あの月を見やれ、綺麗な月ではござらぬか」
「ほんに、十六夜の月はおぼろに鈴鹿山……」
 と、楓がうっとりと歌いかけると、佐助は何思ったか急にそわそわして、
「鹿の子まだらのアバタの穴を……」
 照らしているのじゃと下の句を言いざまに、さらばじゃとはや駈け出してしまった。
 楓も驚いたが、三好も驚いて、
「おい、猿飛、どこへ行く、待たんか」
 と、呼びとめると、はや遠くの方で、
「月も怖いが、お主も怖い。どこへという当てもないが、月にアバタをまごまご曝していては、お主の繩目に掛らざなるまい」
「法螺だ、法螺だよ。ありゃ皆おれの法螺だ。返せ、返せ! おい、猿飛待たんか。おい」
 三好はあわてて法螺を白状したが、佐助の姿ははやどこかへ消えてしまっていた。
 楓は泣けもせず、三好に愚痴るよりほかに成すすべもなかった。
「三好様が法螺を吹かれたゆえ、佐助様は逃げておしまいになられました」
 三好はかえす言葉もなく、平謝りに謝りながら、楓と連れ立って佐助もとめての旅を続けねばならぬ羽目になったとは、まるで嘘から出た真じゃと、身から出た錆をやがて嘆いた。
 女連れでは武者修行もかなわぬのみか、人目には破戒僧のように見える――のはまず我慢するとして、女は第一愚図でのろまで、いやに頑なで、法螺も吹かねば本当のことも言わぬ、全身これ秘密だらけ、といって深い謎も無さそうな証拠には、思慮分別が呆れるくらい浅墓で、愚痴が多く、恐ろしくけちであると判り、三好はいやになってしまった。
 もともと三好は女はけがらわしいものと本能的に信じて、ことに女の匂いが好かず、入道姿になったのも妻帯をすすめられぬ用意だったというくらい故、楓がいつ何時どこで佐助にめぐり会っても見苦しくないようにと、朝夕化粧に念を入れて、脂粉の匂いを漂わしているのがいやでたまらぬ、おまけに三好は鼾のほかに歯軋りがはげしくて、かねがね他人と寝室を共にするのを避けているのに、よりによって楓と同室か、でなければ襖一つである。いかに女は嫌いとはいえ、いやそれだけに一層鼾や歯軋りが恥じられて、気になる余りまんじりともせず、無性に疳を立てながら、やがて明け方の薄ら明りにふと眼をやれば、楓の寝顔は白粉が剥げて、鼻の横筋など油が浮き、いっそ醜い。女などどこが良いのだろうと、改めて思われて、三好は自分が女の腹から生れた人間だとはいかにも思いたくなく、佐助のアバタが笑窪だなどと思いたがるこんな女など、早く佐助に押しつけてしまおうと、やっきになって佐助の行方を探していたが、空しかった。

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