竹の木戸
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著者名:国木田独歩 

 布団の中でお源が啜泣(すすりなき)する声が聞えたが磯には香物(こうのもの)を噛(か)む音と飯を流し込む音と、美味(うま)いので夢中になっているのとで聞えなかった、そして飯を食い終ったころには啜泣の声も止(や)んだのである。
 磯が火鉢の縁(ふち)を忽々(こつこつ)叩(たた)き初めるや布団がむくむく動いていたが、やがてお源が半分布団に巻纏(くるま)って其処へ坐った。前が開(あい)て膝頭(ひざがしら)が少し出ていても合そうとも仕ない、見ると逆上(のぼ)せて顔を赤くして眼は涙に潤み、頻(しき)りに啜泣を為(し)ている。
「どうしたと云うのだ、え?」と磯は問うたが、この男の持前として驚いて狼狽(うろた)えた様子は少しも見えない。
「磯さん私は最早(もう)つくづく厭(いや)になった」と言い出してお源は涙声になり
「お前さんと同棲(いっしょ)になってから三年になるが、その間真実(ほんとう)に食うや食わずで今日はと思った日は一日だって有りやしないよ。私だって何も楽を仕様(しよう)とは思わんけれど、これじゃ余(あんま)りだと思うわ。お前さんこれじゃ乞食も同然じゃ無いか。お前さんそうは思わないの?」
 磯は黙っている。
「これじゃ唯(た)だ食って生きてるだけじゃないか。饑死(かつじに)する者は世間に滅多にありや仕ないから、食って生きてるだけなら誰(だれ)だってするよ。それじゃ余(あんま)り情ないと私は思うわ」涙を袖(そで)で拭(ふい)て「お前さんだって立派な職人じゃないか、それに唯(たっ)た二人きりの生活(くらし)だよ。それがどうだろう、のべつ貧乏の仕通しでその貧乏も唯の貧乏じゃ無いよ。満足な家には一度だって住まないで何時(いつ)でもこんな物置か――」
「何を何時までべらべら喋舌(しゃべっ)てるんだい」と磯は矢張(やはり)お源の方は向(むか)ないで、手荒く煙管(きせる)を撃(はた)いて言った。
「お前さん怒るなら何程(いくら)でもお怒り。今夜という今夜は私はどうあっても言うだけ言うよ」とお源は急促込(せきこ)んで言った。
「貧乏が好きな者はないよ」
「そんなら何故(なぜ)お前さん月の中(うち)十日は必然(きっと)休むの? お前さんはお酒は呑(のま)ないし外に道楽はなし満足に仕事に出てさえおくれなら如斯(こんな)貧乏は仕ないんだよ。――」
 磯は火鉢の灰を見つめて黙っている。
「だからお前さんがも少し精出しておくれならこの節のように計量炭(はかりずみ)もろくに買(かえ)ないような情ない……」
 お源は布団へ打伏して泣きだした。磯吉はふいと起って土間に下りて麻裏(あさうら)を突掛けるや戸外(そと)へ飛び出した。戸外は月冴えて風はないが、骨身に徹(こた)える寒さに磯は大急ぎで新開の通へ出て、七八丁もゆくと金次という仲間が居る、其家(そこ)を訪(たず)ねて、十時過まで金次と将棋を指して遊んだが帰掛(かえりがけ)に一寸一円貸せと頼んだ。明日なら出来るが今夜は一文もないと謝絶(ことわ)られた。
 帰路(かえりみち)に炭屋がある。この店は酒も薪(まき)も量炭(はかりずみ)も売り、大庭もこの店から炭薪を取り、お源も此店(ここ)へ炭を買いに来るのである。新開地は店を早く終(しま)うのでこの店も最早(もう)閉っていた。磯は少時(しばら)く此店(ここ)の前を迂路々々(うろうろ)していたが急に店の軒下に積である炭俵の一個(ひとつ)をひょいと肩に乗て直ぐ横の田甫道(たんぼみち)に外(それ)て了った。
 大急で帰宅(かえ)って土間にどしりと俵を下した音に、泣き寝入(ねいり)に寝入っていたお源は眼を覚したが声を出(ださ)なかった。そして今のは何の響とも気に留めなかった。磯もそのままお源の後から布団の中に潜(もぐ)り込んだ。
 翌朝になってお源は炭俵に気が着き、喫驚(びっくり)して
「磯さんこれはどうしたの、この炭俵は?」
「買って来たのサ」と磯は布団を被(かぶ)ってるまま答えた。朝飯(めし)が出来るまでは磯は床を出ないのである。
「何店(どこ)で買ったの?」
「何処(どこ)だって可いじゃないか」
「聞いたって可いじゃないか」
「初公の近所の店だよ」
「まアどうしてそんな遠くで買ったの。……オヤお前さん今日お米を買うお銭(あし)を費(つか)って了(しま)やアしまいね」
 磯は起上って「お前がやれ量炭も買えんだのッて八(や)か間(ま)しく言うから昨夜(ゆうべ)金公の家へ往(い)って借りようとして無(ない)ってやがる。それから直ぐ初公の家(とこ)へ往ったのだ。炭を買うから少(すこし)ばかり貸せといったら一俵位なら俺家(おれんとこ)の酒屋で取って往けと大(おおき)なこと言うから直ぐ其家(そこうち)で初公の名前で持て来たのだ。それだけあれば四五日は保(あ)るだろう」
「まアそう」と言ってお源はよろこんだ。直ぐ口を明けて見たかったけれど、先(ま)ア後の事と、せっせと朝飯の仕度をしながら「え、四五日どころか自宅(うち)なら十日もあるよ」
 昨夜(ゆうべ)磯吉が飛出した後でお源は色々に思い難(なや)んだ末が、亭主に精出せと勧める以上、自分も気を腐らして寝ていちゃ何もならない、又たお隣へも顔を出さんと却(かえっ)て疑がわれるとこう考えたのである。
 其処(そこ)で平常(いつも)の通り弁当持たせて磯吉を出してやり、自分も飯を食べて一通(ひととおり)片附たところでバケツを持って木戸を開けた。
 お清とお徳が外に出ていた。お清はお源を見て
「お源さん大変顔色が悪いね、どうか仕(し)たの」
「昨日(きのう)から少し風邪(かぜ)を引たもんですから……」
「用心なさいよ、それは不可(いけな)い」
 お徳は「お早う」と口早に挨拶(あいさつ)したきり何も言わない、そしてお源が炭俵の並べてないのに気が着き顔色を変えて眼をぎょろぎょろさしているのを見て、にやり笑った。お源は又た早くもこれを看取(みてと)りお徳の顔を睨(にら)みつけた。お徳はこう睨みつけられたとなると最早(もう)喧嘩(けんか)だ、何か甚(ひど)い皮肉を言いたいがお清が傍(そば)に居るので辛棒していると十八九になる増屋の御用聞が木戸の方から入て来た。増屋とは昨夜(ゆうべ)磯吉が炭を盗んだ店である。
「皆様(みなさん)お早う御座います」と挨拶するや、昨日(きのう)まで戸外(そと)に並べてあった炭俵が一個(ひとつ)見えないので「オヤ炭は何処(どっか)へ片附けたのですか」
 お徳は待ってたという調子で
「あア悉皆(みんな)内へ入(いれ)ちゃったよ。外へ置くとどうも物騒だからね。今の高価(たか)い炭を一片(ひときれ)だって盗られちゃ馬鹿々々しいやね」とお源を見る、お清はお徳を睨む、お源は水を汲んで二歩(ふたあし)三歩(みあし)歩るき出したところであった。
「全く物騒ですよ、私(わたし)の店(ところ)では昨夜(ゆうべ)当到(とうとう)一俵盗すまれました」
「どうして」とお清が問うた。
「戸外(そと)に積んだまま、平時(いつも)放下(うっちゃ)って置くからです」
「何炭(なに)を盗られたの」とお徳は執着(しゅうね)くお源を見ながら聞いた。
「上等の佐倉炭(さくら)です」
 お源はこれ等の問答を聞きながら、歯を喰いしばって、踉蹌(よろめ)いて木戸の外に出た。
 土間に入るやバケツを投(ほう)るように置いて大急ぎで炭俵の口を開けて見た。
「まア佐倉炭(さくら)だよ!」と思わず叫んだ。

 お徳は老母からも細君からも、みっしり叱(しか)られた。お清は日の暮になってもお源の姿が見えないので心配して御気慊(ごきげん)取りと風邪見舞とを兼ねてお源を訪(たず)ねた。内が余り寂然(ひっそり)しておるので「お源さん、お源さん」と呼んでみた。返事がないので可恐々々(こわごわ)ながら障子戸を開けるとお源は炭俵を脚継(あしつぎ)にしたらしく土間の真中(まんなか)の梁(はり)へ細帯をかけて死でいた。
 二日経(た)って竹の木戸が破壊(こわ)された。そして生垣(いけがき)が以前(もと)の様(さま)に復帰(かえ)った。
 それから二月経過(たつ)と磯吉はお源と同年輩(おなじとしごろ)の女を女房に持って、渋谷村に住んでいたが、矢張(やはり)豚小屋同然の住宅(すまい)であった。




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