たき火
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著者名:国木田独歩 

 たちまち見る、水ぎわをたどりて、火の方(かた)へと近づきくる黒き影あり。こは年老いたる旅人なり。彼は今しも御最後川を渡りて浜に出(い)で、浜づたいに小坪街道へと志(こころざ)しぬるなり。火を目がけて小走りに歩むその足音重し。
 嗄(しわが)れし声にて、よき火やとかすかに叫びつ、杖なげ捨てていそがしく背の小包を下ろし、両(りょう)の手をまず炎の上にかざしぬ。その手は震い、その膝(ひざ)はわななきたり。げに寒き夜かな、いう歯の根も合わぬがごとし。炎は赤くその顔を照らしぬ。皺(しわ)の深さよ。眼(まなこ)いたく凹(くぼ)み、その光は濁りて鈍(にぶ)し。
 頭髪も髯(ひげ)も胡麻白(ごまじろ)にて塵(ちり)にまみれ、鼻の先のみ赤く、頬(ほお)は土色せり。哀れいずくの誰ぞや、指(さ)してゆくさきはいずくぞ、行衛(ゆくえ)定めぬ旅なるかも。
 げに寒き夜かな。独(ひと)りごちし時、総身(そうしん)を心ありげに震いぬ。かくて温まりし掌もて心地よげに顔を摩(す)りたり。いたく古びてところどころ古綿(ふるわた)の現われし衣の、火に近き裾(すそ)のあたりより湯気を放つは、朝の雨に霑(うるお)いて、なお乾(ほ)すことだに得ざりしなるべし。
 あな心地よき火や。いいつつ投げやりし杖を拾いて、これを力に片足を揚げ火の上にかざしぬ。脚絆(きゃはん)も足袋(たび)も、紺の色あせ、のみならず血色(ちいろ)なき小指現われぬ。一声(いっせい)高く竹の裂(わ)るる音して、勢いよく燃え上がりし炎は足を焦がさんとす、されど翁(おきな)は足を引かざりき。
 げに心地よき火や、たが燃やしつる火ぞ、かたじけなし。いいさして足を替(か)えつ。十とせの昔、楽しき炉(いろり)見捨てぬるよりこのかた、いまだこのようなるうれしき火に遇(あ)わざりき。いいつつ火の奥を見つむる目(ま)なざしは遠きものを眺むるごとし。火の奥には過ぎし昔の炉(いろり)の火、昔のままに描かれやしつらん。鮮やかに現わるるものは児にや孫にや。
 昔の火は楽しく、今の火は悲し、あらず、あらず、昔は昔、今は今、心地よきこの火や。いう声は震いぬ。荒ら荒らしく杖を投げやりつ。火を背になし、沖の方(かた)を前にして立ち体(たい)をそらせ、両の拳(こぶし)もて腰をたたきたり。仰ぎ見る大ぞら、晴に晴れて、黒澄(くろす)み、星河(せいか)霜(しも)をつつみて、遠く伊豆の岬角(こうかく)に垂れたり。
 身うち煖(あたた)かくなりまさりゆき、ひじたる衣の裾(すそ)も袖(そで)も乾きぬ。ああこの火、誰(た)が燃やしつる火ぞ、誰(た)がためにとて、誰(たれ)が燃やしつるぞ。今や翁の心は感謝の情にみたされつ、老の眼(まなこ)は涙ぐみたり。風なく波なく、さしくる潮(うしお)の、しみじみと砂を浸(ひた)す音を翁は眼(まなこ)閉じて聴きぬ。さすらう旅の憂(うき)もこの刹那(せつな)にや忘れはてけん、翁が心、今ひとたび童の昔にかえりぬ。
 あわれこの火、ようように消えなんとす。竹も燃えつき、板も燃えつきぬ。かの太き丸太のみはなおよく燃えたり。されど翁はもはやこれを惜(お)しとも思わざりき。ただ立去りぎわに名残惜しくてや、両手もて輪をつくり、抱(いだ)くように胸のあたりまで火の上にかざしつ、眼しばだたきてありしが、いざとばかり腰うちのばし、二足三足(ふたあしみあし)ゆかんとして立ちかえれり、燃えのこりたる木の端々(はしばし)を掻集(かきあつ)めて火に加えつ、勢いよく燃え上がるを見て心地よげにうち笑みぬ。
 翁のゆきし後、火は紅(くれない)の光を放ちて、寂寞(じゃくばく)たる夜の闇のうちにおぼつかなく燃えたり。夜更け、潮みち、童らが焼(たき)し火も旅の翁が足跡も永久(とこしえ)の波に消されぬ。




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