空知川の岸辺
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著者名:国木田独歩 

 歌志内を出発(たつ)てから此処までの間に人に出遇つたのは此老人ばかりで、途中又小屋らしき物を見なかつたのである、余は此老人を見て空知川の沿岸の既に多少(いくら)かの開墾者の入込(いりこ)んで居ることを事実の上に知つた。
 熊笹の径(こみち)を通りぬけると果して、思ひがけない大道が深林を穿(うが)つて一直線に作られてある。其幅は五間以上もあらうか。然も両側に密茂(みつも)して居る林は、二丈を越へ三丈に達する大木が多いので、此幅広き大道も、堀割を通ずる鉄道線路のやうであつた。然し余は此道路を見て拓殖に熱心なる道庁の計営の、如何に困難多きかを知つたのである。
 見れば此道路の最初の右側に、内地では見ることの出来ない異様なる掘立小屋(ほつたてごや)[#「掘立小屋」は底本では「堀立小屋」]がある。小屋の左右及び後背(うしろ)は林を倒して、二三段歩の平地が開かれて居る。余は首尾よく此小屋で道庁の属官、井田某及び他の一人に会ふことが出来た。
 殖民課長の丁寧なる紹介は、彼等をして十分に親切に余が相談相手とならしめたのである。更に驚くべきは、彼等が余の名を聞いて、早く既に余を知つて居たことで、余の蕪雑なる文章も、何時しか北海道の思ひもかけぬ地に其読者を得て居たことであつた。
 二人は余の目的を聞き終りて後、空知川沿岸の地図を披(ひら)き其経験多き鑑識を以て、彼処比処(かしここゝ)と、移民者の為めに区劃せる一区一万五千坪の地の中から六ヶ所ほど撰定して呉れた。
 事務は終り雑談に移つた。
 小屋は三間に四間を出でず、屋根も周囲(まはり)の壁も大木の皮を幅広く剥(は)ぎて組合したもので、板を用ゐしは床のみ、床には莚(むしろ)を敷き、出入の口はこれ又樹皮を組みて戸となしたるが一枚被(おほ)はれてあるばかりこれ開墾者の巣なり家なり、いな城廓なり。一隅に長方形の大きな炉が切つて、これを火鉢に竈(かまど)に、煙草盆に、冬ならば煖炉に使用するのである。
「冬になつたら堪らんでしやうねこんな小屋に居ては。」
「だつて開墾者は皆(みん)なこんな小屋に住んで居るのですよ。どうです辛棒が出来ますか。」と井田は笑ひながら言つた。
「覚悟は為(し)て居ますが、イザとなつたら随分困るでしやう。」
「然し思つた程でもないものです。若し冬になつて如何(どう)しても辛棒が出来さうもなかつたら、貴所方(あなたがた)のことだから札幌へ逃げて来れば可いですよ。どうせ冬籠(ふゆごもり)は何処でしても同じことだから。」
「ハッハッハッヽヽヽ其(それ)なら初めから小作人任(まかせ)にして御自分は札幌に居る方が可(よ)からう。」と他の属官が言つた。
「さうですとも、さうですとも冬になつて札幌に逃げて行くほどなら寧(いつ)そ初めから東京に居て開墾した方が可いんです。何に僕は辛棒しますよ。」と余は覚悟を見せた。井田は
「さうですな、先づ雪でも降つて来たら、此(この)炉にドン/\焼火(たきび)をするんですな、薪木(たきゞ)ならお手のものだから。それで貴所方だからウンと書籍(しよもつ)を仕込(しこん)で置いて勉強なさるんですな。」
「雪が解ける時分には大学者になつて現はれるといふ趣向ですか。」と余は思わず笑つた。
 談(はな)して居ると、突然パラ/\と音がして来たので余は外に出て見ると、日は薄く光り、雲は静に流れ、寂たる深林を越えて時雨(しぐれ)が過ぎゆくのであつた。
 余は宿の子を残して、一人此辺(このあたり)を散歩すべく小屋を出た。
 げに怪しき道路よ。これ千年の深林を滅(めつ)し、人力を以て自然に打克(うちかた)んが為めに、殊更に無人(ぶじん)の境(さかひ)を撰んで作られたのである。見渡すかぎり、両側の森林これを覆ふのみにて、一個の人影(じんえい)すらなく、一縷(いちる)の軽煙すら起らず、一の人語すら聞えず、寂々(せき/\)寥々(れう/\)として横はつて居る。
 余は時雨の音の淋しさを知つて居る、然し未だ曾(かつ)て、原始の大深林を忍びやかに過ぎゆく時雨ほど淋びしさを感じたことはない。これ実に自然の幽寂なる私語(さゝやき)である。深林の底に居て、此音(ね)を聞く者、何人か生物を冷笑する自然の無限の威力を感ぜざらん。怒濤、暴風、疾雷、閃雷は自然の虚喝(きよかつ)である。彼の威力の最も人に迫るのは、彼の最も静かなる時である。高遠なる蒼天の、何の声もなく唯だ黙して下界を視下(みおろ)す時、曾(かつ)て人跡を許さゞりし深林の奥深き処、一片の木の葉の朽ちて風なきに落つる時、自然は欠伸(あくび)して曰く「あゝ我(わが)一日も暮れんとす」と、而して人間の一千年は此刹那に飛びゆくのである。
 余は両側の林を覗きつゝ行くと、左側で林のやゝ薄くなつて居る処を見出した。下草を分けて進み、ふと顧みると、此身は何時しか深林の底に居たのである。とある大木の朽ちて倒れたるに腰をかけた。
 林が暗くなつたかと思ふと、高い枝の上を時雨がサラ/\と降つて来た。来たかと思ふと間もなく止んで森(しん)として林は静まりかへつた。
 余は暫くジツとして林の奥の暗くなつて居る処を見て居た。
 社会が何処にある、人間の誇り顔に伝唱する「歴史」が何処にある。此場所に於て、此時に於て、人はたゞ「生存」其者(そのもの)の、自然の一呼吸の中に托されてをることを感ずるばかりである。露国の詩人は曾て森林の中に坐して、死の影の我に迫まるを覚えたと言つたが、実にさうである。又た曰く「人類の最後の一人が此の地球上より消滅する時、木の葉の一片も其為にそよがざるなり」と。
 死の如く静なる、冷やかなる、暗き、深き森林の中に坐して、此の如きの威迫を受けないものは誰も無からう。余我を忘れて恐ろしき空想に沈んで居ると、
「旦那! 旦那!」と呼ぶ声が森の外でした。急いで出て見ると宿の子が立つて居る。
「最早(もう)御用が済んで(〔ママ〕)帰りましやう」
 其処で二人は一先づ小屋に帰ると、井田は、
「どうです今夜は試験のために一晩此処に泊つて御覧になつては。」

 余は遂に再び北海道の地を踏まないで今日に到つた。たとひ一家の事情は余の開墾の目的を中止せしめたにせよ、余は今も尚ほ空知川の沿岸を思ふと、あの冷厳なる自然が、余を引つけるやうに感ずるのである。
 何故だらう。
(明治三十五年十一月―十二月)



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