渦巻ける烏の群
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著者名:黒島伝治 

   四

 雪は深くなって来た。
 炊事場へザンパンを貰いに来る者たちが踏み固めた道は、新しい雪に蔽(おお)われて、あと方も分らなくなった。すると、子供達は、それを踏みつけ、もとの通りの道をこしらえた。
 雪は、その上へまた降り積った。
 丘の家々は、石のように雪の下に埋れていた。
 彼方の山からは、始終、パルチザンがこちらの村を覗(うかが)っていた。のみならず、夜になると、歩哨(ほしょう)が、たびたび狼に襲われた。四肢が没してもまだ足りない程、深い雪の中を、狼は素早く馳(は)せて来た。
 狼は山で食うべきものが得られなかった。そこで、すきに乗じて、村落を襲い、鶏や仔犬や、豚をさらって行くのであった。彼等は群をなして、わめきながら、行くさきにあるものは何でも喰い殺さずにはおかないような勢いでやって来た。歩哨は、それに会うと、ふるえ上らずにはいられなかった。こちらは銃を持っているとは云え、二人だけしかいないのだ。慄悍(ひょうかん)な動物は、弾丸をくぐって直ちに、人に迫って来る。それは全く凄いものだった。衛兵は総がかりで狼と戦わねばならなかった。悪くすると、腋(わき)の下(した)や、のどに喰いつかれるのだ。
 薄ら曇りの日がつづいた。昼は短く、夜は長かった。太陽は、一度もにこにこした顔を見せなかった。松木は、これで二度目の冬を西伯利亜で過しているのであった。彼は疲れて憂欝(ゆううつ)になっていた。太陽が、地球を見棄ててどっかへとんで行っているような気がした。こんな状態がいつまでもつづけばきっと病気にかかるだろう。――それは、松木ばかりではなかった。同年兵が悉(ことごと)く、ふさぎこみ、疲憊(ひはい)していた。そして、女のところへ行く。そのことだけにしか興味を持っていなかった。
 ガーリヤは、人眼をしのぶようにして炊事場へやって来た。古いが、もとは相当にものが良かったらしい外套(がいとう)の下から、白く洗い晒(さら)された彼女のスカートがちらちら見えていた。
「お前は、人をよせつけないから、ザンパンが有ったってやらないよ。」
「あら、そう。」
 彼女は響きのいい、すき通るような声を出した。
「そうだとも、あたりまえだ。」
「じゃいい。」
 黒く磨かれた、踵(かがと)の高い靴で、彼女はきりっと、ブン廻しのように一とまわりして、丘の方へ行きかけた。
「いや、うそだうそだ。今さっきほかの者が来てすっかり持って行っちゃったんだ。」
 松木はうしろから叫んだ。
「いいえ、いらないわ。」
 彼女の細長い二本の脚は、強いばねのように勢いよくはねながら、丘を登った。
「ガーリヤ! 待て! 待て!」
 彼は乾麺麭(かんめんぽう)を一袋握って、あとから追っかけた。
 炊事場の入口へ同年兵が出てきて、それを見て笑っていた。
 松木は息を切らし切らし女に追いつくと、空の洗面器の中へ乾麺麭の袋を放り込んだ。
「さあ、これをやるよ。」
 ガーリヤは立止まって彼を見た。そして真白い歯を露(あら)わして、何か云った。彼は、何ということか意味が汲みとれなかった。しかし女が、自分に好感をよせていることだけは、円みのあるおだやかな調子ですぐ分った。彼は追っかけて来ていいことをしたと思った。
 帰りかけて、うしろへ振り向くと、ガーリヤは、雪の道を辷(すべ)りながら、丘を登っていた。
「おい、いいかげんにしろ。」炊事場の入口から、武石が叫んだ。「あんまりじゃれつきよると競争に行くぞ!」

   五

 吉永の中隊は、大隊から分れて、イイシへ守備に行くことになった。
 HとSとの間に、かなり広汎(こうはん)な区域に亘って、森林地帯があった。そこには山があり、大きな谷があった。森林の中を貫いて、河が流ていた。そのあたりの地理は詳細には分らなかった。
 だが、そこの鉄橋は始終破壊された。枕木はいつの間にか引きぬかれていた。不意に軍用列車が襲撃された。
 電線は切断されづめだった。
 HとSとの連絡は始終断たれていた。
 そこにパルチザンの巣窟があることは、それで、ほぼ想像がついた。
 イイシへ守備中隊を出すのは、そこの連絡を十分にするがためであった。
 吉永は、松木の寝台の上で私物を纏(まと)めていた。炊事場を引き上げて、中隊へ帰るのだ。
 彼は、これまでに、しばしば危険に身を曝(さら)したことを思った。
 弾丸に倒れ、眼を失い、腕を落した者が、三人や四人ではなかった。
 彼と、一緒に歩哨に立っていて、夕方、不意に、胸から血潮を迸(ほと)ばしらして、倒れた男もあった。坂本という姓だった。
 彼は、その時の情景をいつまでもまざまざと覚えていた。
 どこからともなく、誰れかに射撃されたのだ。
 二人が立っていたのは山際だった。
 交代の歩哨は衛兵所から列を組んで出ているところだった。もう十五分すれば、二人は衛兵所へ帰って休めるのだった。
 夕日が、あかあかと彼方の地平線に落ちようとしていた。牛や馬の群が、背に夕日をあびて、草原をのろのろ歩いていた。十月半ばのことだ。
 坂本は、
「腹がへったなあ。」と云ってあくびをした。
「内地に居りゃ、今頃、野良から鍬(くわ)をかついで帰りよる時分だぜ。」
「あ、そうだ。もう芋を掘る時分かな。」
「うむ。」
「ああ、芋が食いたいなあ!」
 そして坂本はまたあくびをした。そのあくびが終るか終らないうちに、彼は、ぱたりと丸太を倒すように芝生の上に倒れてしまった。
 吉永は、とび上った。
 も一発、弾丸が、彼の頭をかすめて、ヒウと唸(うな)り去った。
「おい、坂本! おい!」
 彼は呼んでみた。
 軍服が、どす黒い血に染った。
 坂本はただ、「うう」と唸るばかりだった。
 内地を出発して、ウラジオストックへ着き、上陸した。その時から、既に危険は皆の身に迫っていたのであった。
 機関車は薪を焚(た)いていた。
 彼等は四百里ほど奥へ乗りこんで行った。時々列車からおりて、鉄砲で打ち合いをやった。そして、また列車にかえって、飯を焚いた。薪が燻(くすぶ)った。冬だった。機関車は薪がつきて、しょっちゅう動かなくなった。彼は二カ月間顔を洗わなかった。向うへ着いた時には、まるで黒ン坊だった。息が出来ぬくらいの寒さだった。そして流行感冒がはやっていた。兵営の上には、向うの飛行機が飛んでいた。街には到るところ、赤旗が流れていた。
 そこでどうしたか。結局、こっちの条件が悪く、負けそうだったので、持って帰れぬ什器(じゅうき)を焼いて退却した。赤旗が退路を遮った。で、戦争をした。そして、また退却をつづけた。赤旗は流行感冒のように、到るところに伝播(でんぱ)していた。また戦争だ。それからどうしたか?……
 雪解の沼のような泥濘(でいねい)の中に寝て、戦争をしたこともあった。頭の上から、機関銃をあびせかけられたこともあった。
 吉永は、自分がよくもこれまで生きてこられたものだと思った。一尺か二尺、自分の立っていた場所が横へそれていたら、死んでいるかもしれないのだ。
 これからだって、どうなることか、分るものか! 分るものか! 俺が一人死ぬことは、誰れも屁(へ)とも思っていないのだ。ただ、自分のことを心配してくれるのは、村で薪出しをしているお母(ふくろ)だけだ。
 彼は、お母がこしらえてくれた守り袋を肌につけていた。新しい白木綿で縫った、かなり大きい袋だった。それが、垢(あか)や汗にしみて黒く臭くなっていた。彼は、それを開けて、新しい袋を入れかえようと思った。彼は、袋を鋏(はさみ)で切り開けた。お守りが沢山慾張って入れてある。金刀比羅宮(ことひらぐう)、男山八幡宮(おとこやまはちまんぐう)、天照皇大神宮、不動明王、妙法蓮華経、水天宮。――母は、多ければ多いほど、御利益があると思ったのだろう! それ等が、殆んど紙の正体が失われるくらいにすり切れていた。――まだある。別に、紙に包んだ奴が。彼はそれを開けてみた。そこには紙幣が入っていた。五円札と、五十銭札と、一円札とが合せて十円ぐらい入っている。母が、薪出しをしてためた金を内所(ないしょ)で入れといてくれたのだろう。
「おい、おい。お守りの中から金が出てきたが。」
 吉永は嬉しそうに云った。
「何だ。」
「お守りの中から金が出てきたんだ。」
「ほんとかい。」
「嘘を云ったりするもんか。」
「ほう、そいつぁ、儲(もう)けたな。」
 松木と武石とが調理台の方から走(は)せ込(こ)んで来た。
 札も、汗と垢とで黒くなっていた。
「どれどれ、内地の札だな。」松木と武石とはなつかしそうに、それを手に取って見た。「内地の札を見るんは久しぶりだぞ。」
「お母が多分内所で入れてくれたんだ。」
「それをまた今まで知らなかったとは間がぬけとるな。……全く儲けもんだ。」
「うむ、儲けた。……半分わけてやろう。」
 吉永は、自分が少くとも、明後日は、イイシへ行かなければならないことを思った。雪の谷や、山を通らなければならない。そこにはパルチザンがいる。また撃ち合いだ。生命がどうなるか。誰れが知るもんか! 誰れが知るもんか!

   六

 松木は、酒保から、餡(あん)パン、砂糖、パインアップル、煙草などを買って来た。
 晩におそくなって、彼は、それを新聞紙に包んで丘を登った。石のように固く凍(い)てついている雪は、靴にかちかち鳴った。空気は鼻を切りそうだ。彼は丘を登りきると、今度は向うへ下った。丘の下のあの窓には、灯がともっていた。人かげが、硝子戸(ガラスど)の中で、ちらちら動いていた。
 彼は歩きながら云ってみた。
「ガーリヤ。」
「ガーリヤ。」
「ガーリヤ。」
「あんたは、なんて生々しているんだろう。」
 さて、それを、ロシア語ではどう云ったらいいかな。
 丘の下でどっか人声がするようだった。三十すぎの婦人の声だ。それに一人は日本人らしい。何を云っているのかな。彼はちょいと立止まった。なんでも声が、ガーリヤの母親に似ているような気がした。が、声は、もうぷっつり聞えなかった。すると、まもなくすぐそこの、今まで開いていた窓に青いカーテンがさっと引っぱられた。
「おや、早や、寝る筈はないんだが……」彼はそう思った。そして、鉄条網をくぐりぬけ、窓の下へしのびよった。
「今晩は、――ガーリヤ!」
 ――彼が窓に届くように持って来ておいた踏石がとりのけられている。
「ガーリヤ。」
 砕かれた雪の破片が、彼の方へとんで来た。彼の防寒外套(がいとう)の裾のあたりへぱらぱらと落ちた。雪はまたとんできた。彼の背にあたった。でも彼は、それに気づかなかった。そして、じいっと、窓を見上げていた。
「ガーリヤ!」
 彼は、上に向いて云った。星が切れるように冴えかえっていた。
「おい、こらッ!」
 さきから、雪を投げていた男が、うしろの白樺のかげから靴をならしてとび出て来た。武石だった。
 松木は、ぎょっとした。そして、新聞紙に包んだものを雪の上へ落しそうだった。
 彼は、若(も)し将校か、或は知らない者であった場合には、何もかも投げすてて逃げ出そうと瞬間に心かまえたくらいだった。
「また、やって来たな。」武石は笑った。
「君かい。おどかすなよ。」
 松木は、暫らく胸がどきどきするのが止まらなかった。彼は、武石だと知ると同時に、吉永から貰った金で、すぐさま、女の喜びそうなものを買って来たことをきまり悪く思った。「砂糖とパイナップルは置いて来ればよかった。」
「誰れかさきに、ここへ来た者があるんだ。」と武石が声を落して窓の中を指した。「俺れゃ、君が這入ったんかと思うて、ここで様子を伺うとったんだ。」
「誰れだ?」
「分らん。」
「下士か、将校か?」
「ぼっとしとって、それが分らないんだ。」
「誰奴(どいつ)かな。」
「――中に這入って見てやろう。」
「よせ、よせ、……帰ろう。」
 松木は、若し将校にでも見つかると困る、――そんなことを思った。
「このまま帰るのは意気地がないじゃないか。」
 武石は反撥(はんぱつ)した。彼は、ガンガン硝子戸を叩いた。
「ガーリヤ、ガーリヤ、今晩は(ズラシテ)!」
 次の部屋から面倒くさそうな男の声がひびいた。
「ガーリヤ!」
「何だい。」
 ウラジオストックの幼年学校を、今はやめている弟のコーリヤが、白い肩章のついた軍服を着てカーテンのかげから顔を出した。
「ガーリヤは?」
「用をしてる。」
「一寸来いって。」
「何です? それ。」
 コーリヤは、松木の新聞包を見てたずねた。
「こら酒だ。」松木が答えないさきに、武石が脚もとから正宗の四合罎(びん)を出して来た。「沢山いいものを持って来とるよ。」
 武石は、包みの新聞紙を引きはぎ、硝子戸の外から、罎をコーリヤの眼のさきへつき出した。松木は、その手つきがものなれているなと思った。
「呉れ(ダワイ)。」コーリヤは手を動かした。
 でも、その手つきにいつものような力がなく、途中で腰を折られたように挫(くじ)けた。いつも無遠慮なコーリヤに珍らしいことだった。
 武石も、物を持って来て、やっているんだな、と松木は思った。じゃ、自分もやることは恥かしくない訳だ。彼はコーリヤが遠慮するとなおやりたくなった。
「さ、これもやるよ。」彼は、パイナップルの鑵詰(かんづめ)を取出した。
 コーリヤはもじもじしていた。
「さ、やるよ。」
「有がとう。」
 顔にどっか剣のある、それで一寸沈んだ少年が、武石には、面白そうな奴だと思われた。
「もっとやろうか。」
 少年は呉れるものは欲しいのだが、貰っては悪いというように、遠慮していた。
「煙草と砂糖。」松木は、窓口へさし上げた。
「有がとう。」
 コーリヤが、窓口から、やったものを受取って向うへ行くと、
「きっと、そこに誰れか来とるんだ。」と、武石は、小声で、松木にささやいた。
「誰れだな、俺れゃどうも見当がつかん。」
「這入りこんで現場を見届けてやろう。」
 二人は耳をすました。二つくらい次の部屋で、何か気配がして、開けたてに扉が軋(きし)る音が聞えてきた。サーベルの鞘(さや)が鳴る。武石は窓枠に手をかけて、よじ上り、中をのぞきこんだ。
「分るか。」
「いや、サモ□ールがじゅんじゅんたぎっとるばかりだ。――ここはまさか、娘を売物にしとる家じゃないんだろうな。」
 コーリヤが扉(ドア)のかげから現れて来た。窓から屋内へ這入ろうとするかのように、よじ上っている武石を見ると、彼は急に態度をかえて、
「いけない! いけない!」叱るように、かすれた幅のある声を出した。
 武石は、突然、その懸命な声に、自分が悪いことをしているような感じを抱かせられ、窓から辷(すべ)り落(お)ちた。
 コーリヤは、窓の方へ来かけて、途中、ふとあとかえりをして、扉をぴしゃっと閉めた。暫らく二人は窓の下に佇(たたず)んでいた。丘の上の、雪に蔽(おお)われた家々には、灯がきらきら光っていた。武石は、そこにも女がいることを思った。吉永が、温かい茶をのみながら、リーザと名残を惜んでいるかも知れない。やせぎすな、小柄なリーザに、イイシまで一緒に行くことをすすめているだろう。多分、彼も、何かリーザが喜びそうなものを買って持って行っているのに違いない。武石は、小皺(こじわ)のよった、人のよさそうな、吉永の顔を思い浮べた。そして、自から、ほほ笑ましくなった。――吉永は、危険なイイシ守備に行ってしまうのだ。
 丘の上のそこかしこの灯が、カーテンにさえぎられ、ぼつぼつ消えて行った。
「お休み。」
 一番手近の、グドコーフの家から、三四人同年兵が出て行った。歩きながら交す、その話声が、丘の下までひびいて来た。兵営へ帰っているのだ。
 不意に頭の上で、響きのいい朗らかなガーリヤの声がした。二人は、急に、それでよみがえったような気がした。
「ばあ!」彼女は、硝子戸(ガラスど)の中から、二人に笑って見せた。「いらっしゃい、どうぞ。」
 玄関から這入ると、松木は、食堂や、寝室や、それから、も一つの仕事部屋をのぞきこんだ。
「誰れが来ていたんです?」
「少佐(マイヨール)。」
「何?」二人とも言葉を知らなかった。
「マイヨールです。」
「何だろう。マイヨールって。」松木と武石とは顔を見合わした。「振(ま)い寄ると解釈すりゃ、ダンスでもする奴かな。」

   七

 少佐は、松木にとって、笑ってすませる競争者ではなかった。
 二人が玄関から這入って行った、丁度その時、少佐は勝手口から出て来た。彼は不機嫌に怒って、ぷりぷりしていた。十八貫もある、でっぷり肥った、髯(ひげ)のある男だ。彼の靴は、固い雪を蹴散らした。いっぱいに拡がった鼻の孔(あな)は、凍った空気をかみ殺すように吸いこみ、それから、その代りに、もうもうと蒸気を吐き出した。
 彼は、屈辱(!)と憤怒(ふんぬ)に背が焦げそうだった。それを、やっと我慢して押しこらえていた。そして、本部の方へ大股に歩いて行った。……途中で、ふと、彼は、踵(きびす)をかえした。
 つい、今さっきまで、松木と武石とが立っていた窓の下へ少佐は歩みよった。彼は、がん丈で、せいが高かった。つまさきで立ち上らずに、カーテンの隙間から部屋の中が見えた。
 そこには、二人の一等卒が、正宗の四合壜(びん)を立てらして、テーブルに向い合っていた。ガーリヤは、少し上気したような顔をして喋(しゃべ)っている。白い歯がちらちらした。薄荷(はっか)のようにひりひりする唇が微笑している。
 彼は、嫉妬(しっと)と憤怒が胸に爆発した。大隊を指揮する、取っておきのどら声で怒なりつけようとした。その声は、のどの最上部にまで、ぐうぐう押し上げて来た。
 が、彼は、必死の努力で、やっとそれを押しこらえた。そして、前よりも二倍位い大股に、聯隊(れんたい)へとんで帰った。
「女のところで酒をのむなんて、全くけしからん奴だ!」
 営門で捧(ささ)げ銃(つつ)をした歩哨(ほしょう)は何か怒声をあびせかけられた。
 衛兵司令は、大隊長が鞭(むち)で殴りに来やしないか、そのひどい見幕を見て、こんなことを心配した位いだった。
「副官!」
 彼は、部屋に這入るといきなり怒鳴った。
「副官!」
 副官が這入って来ると、彼は、刀もはずさず、椅子に腰を落して、荒い鼻息をしながら、
「速刻不時点呼。すぐだ、すぐやってくれ!」
「はい。」
「それから、炊事場へ露西亜人(ロシアじん)をよせつけることはならん。残飯は一粒と雖(いえど)も、やることは絶対にならん。厳禁してくれ。」
「はい。」
「よし、それだけだ。」
 副官が、命令を達するために、次の部屋へ引き下ると、彼はまた叫んだ。
「副官!」
「はい。」
「この点呼に、もしもおくれる者があったら、その中隊を、第一中隊の代りに、イイシ守備に行かせること、そうしてくれ、罰としてここには置かない。そうするんだ。――すぐだ、速刻やってくれ!」

   八

 一隊の兵士が雪の中を黙々として歩いて行った。疲れて元気がなかった。雪に落ちこむ大きな防寒靴が、如何にも重く、邪魔物のように感じられた。
 雪は、時々、彼等の脛(すね)にまで達した。すべての者が憂欝(ゆううつ)と不安に襲われていた。中隊長の顔には、焦慮の色が表われている。
 草原も、道も、河も悉(ことごと)く雪に蔽われていた。
 枝に雪をいただいて、それが丁度、枝に雪がなっているように見える枯木が、五六本ずつ所々に散見する外、あたりには何物も見えなかった。どこもかしこも、すべて、まぶしく光っている白い雪ばかりだった。そして、何等の音も、何等の叫びも聞えなかった。ばりばり雪を踏み砕いて歩く兵士の靴音は、空に呑まれるように消えて行った。
 彼等は、早朝から雪の曠野(こうや)を歩いているのであった。彼等は、昼に、パンと乾麺麭(かんめんぽう)をかじり、雪を食ってのどを湿した。
 どちらへ行けばイイシに達しられるか!
 右手向うの小高い丘の上から、銃を片手に提げ、片手に剣鞘を握って、斥候が馳(は)せ下(お)りて来た。彼は、銃が重くって、手が伸びているようだった。そして、雪の上にそれを引きずりながら、馳せていた。松木だった。
 彼は、息を切らし、中隊長の傍まで来ると、引きずっていた銃を如何にも重そうに持ち上げて、「捧げ銃」をした。彼の手は凍って、思う通りに利かなかった。銃は、真直に、形正しく、鼻のさきへ持ち上げることが出来なかった。
 中隊長は、不満げに、彼を睨(にら)んだ。「も一度。そんな捧(ささ)げ銃(つつ)があるか!」その眼は、そう云っているようだった。
 松木は、息切れがして、暫らくものを云うことが出来なかった。鼻孔から、喉頭が、マラソン競走をしたあとのように、乾燥し、硬(こわ)ばりついている。彼は唾液(つばき)を出して、のどを湿そうとしたが、その唾液が出てきなかった。雪の上に倒れて休みたかった。
「どうしたんだ?」
 中隊長は腹立たしげに眼に角立てた。
「道が、どうしても、」松木は息切れがして、つづけてものを云うことが出来なかった。「どうしても、分らないんであります。」
「露助は、どうしてるんだ。」
「はい。スメターニンは、」また息切れがした。「雪で見当がつかんというのであります。」
「仕様がない奴だ。大きな河があって、河の向うに、樅(もみ)の林がある。そういうところは見つからんか、そこへ出りゃ、すぐイイシへ行けるんだ。」
「はい。」
「露助にやかましく云って案内さして見ろ!」
 中隊長は歩きながら、腹立たしげに、がみがみ云った。「場合によっては銃剣をさしつけてもかまわん。あいつが、パルチザンと策応して、わざと道を迷わしとるのかもしれん。それをよく監視せにゃいかんぞ!」
「はい。」
 松木は、若(も)し交代さして貰えるかと、ひそかにそんなことをあてにして、暫らく中隊長の傍を並んで歩いていた。
 彼は蒼くなって居た。身体中の筋肉が、ぶちのめされるように疲れている。頭がぼんやりして耳が鳴る。
 だが、中隊長は、彼を休ませようとはしなかった。
「おい行くんだ。もっとよく探して見ろ!」
 ふらふら歩いていた松木は、疲れた老馬が鞭(むち)のために、最後の力を搾るように、また、銃を引きずって、向うへ馳(は)せ出(だ)した。
「おい、松木!」中隊長は呼び止めた。「道を探すだけでなしに、パルチザンがいやしないか、家があるか、鉄道が見えるか、よく気をつけてやるんだぞ。」
「はい。」
 斥候は、やがて、丘を登って、それから向うの谷かげに消えてしまった。そこには武石と、道案内のスメターニンとが彼を待っていた。
 松木と武石とは、朝、本隊を出発して以来つづけて斥候に出されているのであった。
 中隊長は、不機嫌に、二人に怒声をあびせかけた。
「中隊がイイシ守備に行かなけりゃならんのは誰れのためだと思うんだ! お前等、二人が脱柵(だっさく)して女のところで遊びよったせいじゃないか!」彼は、心から怒っているような眼で二人をにらみつけた。「中隊長は、皆んなを危険なところへは曝(さら)しとうない。中隊が可愛いいんだ。それを、危険なところへ行かなけりゃならんようにしたのは、貴様等二人だぞ! 軍人にあるまじきことだ!」
 そして二人は骨の折れる、危険な勤務につかせられた。
 松木と武石とは、雪の深い道を中隊から十町ばかりさきに出て歩いた。そして見た状勢を、馳(か)け足(あし)で、うしろへ引っかえして報告した。報告がすむと、また前に出て行くことを命じられた。雪は深く、そしてまぶしかった。二人は常に、前方と左右とに眼を配って行かなければならなかった。報告に、息せき息せき引っかえすたびに、中隊長は、不満げに、腹立たしそうな声で何か欠点を見つけてどなりつけた。
 雪の上に腰を落して休んでいた武石は、
「まだ交代さしてくれんのか。」ときいた。
「ああ。」松木の声にも元気がなかった。
「弱ったなア――俺れゃ、もうそこで凍(こご)え死んでしまう方がましだ!」
 武石は泣き出しそうに吐息をついた。
 二人は、スメターニンと共に、また歩きだした。丘を下ると、浅い谷があった。それから、緩慢な登りになっていた。それを行くと、左手には、けわしい山があった。右には、雪の曠野(こうや)が遥か遠くへ展開している。
 山へ登ってみよう、とスメターニンが云いだした。山から見下せば地理がはっきり分るかもしれなかった。それには、しかし、中隊が麓(ふもと)へ到着するまでに登って、様子を見て、おりてきなければならなかった。そうしなければ、また中隊長がやかましく云うのだ。
 山のひだは、一層、雪が深かった。松木と武石とは、銃を杖にしてよじ登った。そこには熊の趾跡(あしあと)があった。それから、小さい、何か分らぬ野獣の趾跡が到るところに印されていた。蓬(よもぎ)が雪に蔽(おお)われていた。灌木(かんぼく)の株に靴が引っかかった。二人は、熱病のように頭がふらふらした。何もかも取りはずして、雪の上に倒れて休みたかった。
 山は頂上で、次の山に連っていた。そしてそれから、また次の山が、丁度、珠数(じゅず)のように遠くへ続いていた。
 遠く彼方の地平線まで白い雪ばかりだ。スメターニンはやはり見当がつかなかった。
 中隊は、丘の上を蟻のように遅々としてやって来ていた。それは、広い、はてしのない雪の曠野で、実に、二三匹の蟻にも比すべき微々たるものであった。
「どっちへでもいい、ええかげんで連れてって呉れよ。」二人はやけになった。
「あんまり追いたてるから、なお分らなくなっちまったんだ。」
 スメターニンは、毛皮の帽子をぬいで額の汗を拭いた。

   九

 薄く、そして白い夕暮が、曠野全体を蔽い迫ってきた。
 どちらへ行けばいいのか!
 疲れて、雪の中に倒れ、そのまま凍死してしまう者があるのを松木はたびたび聞いていた。
 疲労と空腹は、寒さに対する抵抗力を奪い去ってしまうものだ。
 一個中隊すべての者が雪の中で凍死する、そんなことがあるものだろうか? あってもいいものだろうか?
 少佐の性慾の××になったのだ。兵卒達はそういうことすら知らなかった。
 何故、シベリアへ来なければならなかったか。それは、だれによこされたのか? そういうことは、勿論、雲の上にかくれて彼等、には分らなかった。
 われわれは、シベリアへ来たくなかったのだ。むりやりに来させられたのだ。――それすら、彼等は、今、殆んど忘れかけていた。
 彼等の思っていることは、死にたくない。どうにかして雪の中から逃がれて、生きていたい。ただそればかりであった。
 雪の中へ来なければならなくせしめたものは、松木と武石とだ。
 そして、道を踏み迷わせたのも松木と武石とだ。――彼等は、そんな風に思っていた。それより上に、彼等に魔の手が強く働いていることは、兵士達には分らなかった。
 彼等が、いくらあせっても、行くさきにあるものは雪ばかりだった。彼等の四肢は麻痺(まひ)してきだした。意識が遠くなりかけた。破れ小屋でもいい、それを見つけて一夜を明かしたい!
 だが、どこまで行っても雪ばかりだ。……
 最初に倒れたのは、松木だった。それから武石だった。
 松木は、意識がぼっとして来たのは、まだ知っていた。だが、まもなく頭がくらくらして前後が分らなくなった。そして眠るように、意識は失われてしまった。
 彼の四肢は凍った。そして、やがて、身体全体が固く棒のように硬ばって動かなくなった。

 ……雪が降った。
 白い曠野(こうや)に、散り散りに横たわっている黄色の肉体は、埋められて行った。雪は降った上に降り積った。倒れた兵士は、雪に蔽(おお)われ、暫らくするうちに、背嚢(はいのう)も、靴も、軍帽も、すべて雪の下にかくれて、彼等が横たわっている痕跡(こんせき)は、すっかり分らなくなってしまった。
 雪は、なお、降りつづいた。……

   一〇

 春が来た。
 太陽が雲間からにこにこかがやきだした。枯木にかかっていた雪はいつのまにか落ちてしまった。雀の群が灌木(かんぼく)の間をにぎやかに囀(さえず)り、嬉々としてとびまわった。
 鉄橋を渡って行く軍用列車の轟(とどろ)きまでが、のびのびとしてきたようだ。
 積っていた雪は解け、雨垂れが、絶えず、快い音をたてて樋(とい)を流れる。
 吉永の中隊は、イイシに分遣されていた。丘の上の木造の建物を占領して、そこにいる。兵舎の樋から落ちた水は、枯れた芝生の間をくぐって、谷間へ小さな急流をなして流れていた。
 松木と武石との中隊が、行衛不明(ゆくえふめい)になった時、大隊長は、他の中隊を出して探索さした。大隊長は、心配そうな顔もしてみせた。遺族に対して申訳がない、そんなことも云った。――しかし、内心では、何等の心配をも感じてはいない。ばかりでなく、むしろ清々していた。気にかかるのは、師団長にどういう報告書を出すか、その事の方が大事であった。
 一週間探した。しかし、行衛は依然として分らなかった。少佐は、もうそのことは、全然忘れてしまっているようだった。彼は、本部の二階からガーリヤの家の方を眺めて、口笛で、「赤い夕日」を吹いたりした。
 春が来た。だが、あの一個中隊が、どこでどうして消えてしまったのか、今だにあとかたも分らなかった。
 吉永は、丘の上の兵営から、まだ、すっかり雪の解けきらない広漠たる曠野を見渡しながら、自分がよくも今まで生きてこられたものだ、とひそかに考えていた。あの時、自分達の中隊が、さきに分遣されることになっていたのだ。それがどうしたのか、出発の前日に変更されてしまった。彼の中隊が、橇(そり)でなく徒歩でやって来ていたならば、彼も、今頃、どこで自分の骨を見も知らぬ犬にしゃぶられているか分らないのだ。
 徒歩で深い雪の中へ行けば、それは、死に行くようなものだ。
 彼等をシベリアへよこした者は、彼等が、×××餌食(えじき)になろうが、狼に食い×××ようが、屁(へ)とも思っていやしないのだ。二人や三人が死ぬことは勿論である。二百人死のうが何でもない。兵士の死ぬ事を、チンコロが一匹死んだ程にも考えやしない。代りはいくらでもあるのだ。それは、令状一枚でかり出して来られるのだ。……
 丘の左側には汽車が通っていた。
 河があった。そこには、まだ氷が張っていた。牛が、ほがほがその上を歩いていた。
 右側には、はてしない曠野があった。
 枯木が立っていた。解けかけた雪があった。黒い烏の群が、空中に渦巻いていた。陰欝(いんうつ)に唖々(ああ)と鳴き交すその声は、丘の兵舎にまで、やかましく聞えてきた。それは、地平線の隅々からすべての烏が集って来たかと思われる程、無数に群がり、夕立雲のように空を蔽わぬばかりだった。
 烏はやがて、空から地平をめがけて、騒々しくとびおりて行った。そして、雪の中を執念(しゅうね)くかきさがしていた。
 その群は、昨日も集っていた。
 そして、今日もいる。
 三日たった。しかし、烏は、数と、騒々しさと、陰欝さとを増して来るばかりだった。
 或る日、村の警衛に出ていた兵士は、露西亜(ロシア)の百姓が、銃のさきに背嚢を引っかけて、肩にかついで帰って来るのに出会した。銃も背嚢も日本のものだ。
「おい、待て! それゃ、どっから、かっぱらって来たんだ?」
「あっちだよ。」髯(ひげ)もじゃの百姓は、大きな手をあげて、烏が群がっている曠野を指さした。
「あっちに落ちとったんだ。」
「うそ云え!」
「あっちだ。あっちの雪の中に沢山落ちとるんだ。……兵タイも沢山死んどるだ。」
「うそ云え!」兵士は、百姓の頬をぴしゃりとやった。「一寸来い。中隊まで来い!」
 日本の兵士が雪に埋れていることが明かになった。背嚢の中についていた記号は、それが、松木と武石の中隊のものであることを物語った。
 翌日中隊は、早朝から、烏が渦巻いている空の下へ出かけて行った。烏は、既に、浅猿(あさま)しくも、雪の上に群がって、貪慾(どんよく)な嘴(くちばし)で、そこをかきさがしつついていた。
 兵士達が行くと、烏は、かあかあ鳴き叫び、雲のように空へまい上った。
 そこには、半ば貪(むさぼ)り啄(つつ)かれた兵士達の屍(しかばね)が散り散りに横たわっていた。顔面はさんざんに傷(そこな)われて見るかげもなくなっていた。
 雪は半ば解けかけていた。水が靴にしみ通ってきた。
 やかましく鳴き叫びながら、空に群がっている烏は、やがて、一町ほど向うの雪の上へおりて行った。
 兵士は、烏が雪をかきさがし、つついているのを見つけては、それを追っかけた。
 烏は、また、鳴き叫びながら、空に廻(ま)い上(あが)って、二三町さきへおりた。そこにも屍があった。兵士はそれを追っかけた。
 烏は、次第に遠く、一里も、二里も向うの方まで、雪の上におりながら逃げて行った。




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