渦巻ける烏の群
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著者名:黒島伝治 

   一〇

 春が来た。
 太陽が雲間からにこにこかがやきだした。枯木にかかっていた雪はいつのまにか落ちてしまった。雀の群が灌木(かんぼく)の間をにぎやかに囀(さえず)り、嬉々としてとびまわった。
 鉄橋を渡って行く軍用列車の轟(とどろ)きまでが、のびのびとしてきたようだ。
 積っていた雪は解け、雨垂れが、絶えず、快い音をたてて樋(とい)を流れる。
 吉永の中隊は、イイシに分遣されていた。丘の上の木造の建物を占領して、そこにいる。兵舎の樋から落ちた水は、枯れた芝生の間をくぐって、谷間へ小さな急流をなして流れていた。
 松木と武石との中隊が、行衛不明(ゆくえふめい)になった時、大隊長は、他の中隊を出して探索さした。大隊長は、心配そうな顔もしてみせた。遺族に対して申訳がない、そんなことも云った。――しかし、内心では、何等の心配をも感じてはいない。ばかりでなく、むしろ清々していた。気にかかるのは、師団長にどういう報告書を出すか、その事の方が大事であった。
 一週間探した。しかし、行衛は依然として分らなかった。少佐は、もうそのことは、全然忘れてしまっているようだった。彼は、本部の二階からガーリヤの家の方を眺めて、口笛で、「赤い夕日」を吹いたりした。
 春が来た。だが、あの一個中隊が、どこでどうして消えてしまったのか、今だにあとかたも分らなかった。
 吉永は、丘の上の兵営から、まだ、すっかり雪の解けきらない広漠たる曠野を見渡しながら、自分がよくも今まで生きてこられたものだ、とひそかに考えていた。あの時、自分達の中隊が、さきに分遣されることになっていたのだ。それがどうしたのか、出発の前日に変更されてしまった。彼の中隊が、橇(そり)でなく徒歩でやって来ていたならば、彼も、今頃、どこで自分の骨を見も知らぬ犬にしゃぶられているか分らないのだ。
 徒歩で深い雪の中へ行けば、それは、死に行くようなものだ。
 彼等をシベリアへよこした者は、彼等が、×××餌食(えじき)になろうが、狼に食い×××ようが、屁(へ)とも思っていやしないのだ。二人や三人が死ぬことは勿論である。二百人死のうが何でもない。兵士の死ぬ事を、チンコロが一匹死んだ程にも考えやしない。代りはいくらでもあるのだ。それは、令状一枚でかり出して来られるのだ。……
 丘の左側には汽車が通っていた。
 河があった。そこには、まだ氷が張っていた。牛が、ほがほがその上を歩いていた。
 右側には、はてしない曠野があった。
 枯木が立っていた。解けかけた雪があった。黒い烏の群が、空中に渦巻いていた。陰欝(いんうつ)に唖々(ああ)と鳴き交すその声は、丘の兵舎にまで、やかましく聞えてきた。それは、地平線の隅々からすべての烏が集って来たかと思われる程、無数に群がり、夕立雲のように空を蔽わぬばかりだった。
 烏はやがて、空から地平をめがけて、騒々しくとびおりて行った。そして、雪の中を執念(しゅうね)くかきさがしていた。
 その群は、昨日も集っていた。
 そして、今日もいる。
 三日たった。しかし、烏は、数と、騒々しさと、陰欝さとを増して来るばかりだった。
 或る日、村の警衛に出ていた兵士は、露西亜(ロシア)の百姓が、銃のさきに背嚢を引っかけて、肩にかついで帰って来るのに出会した。銃も背嚢も日本のものだ。
「おい、待て! それゃ、どっから、かっぱらって来たんだ?」
「あっちだよ。」髯(ひげ)もじゃの百姓は、大きな手をあげて、烏が群がっている曠野を指さした。
「あっちに落ちとったんだ。」
「うそ云え!」
「あっちだ。あっちの雪の中に沢山落ちとるんだ。……兵タイも沢山死んどるだ。」
「うそ云え!」兵士は、百姓の頬をぴしゃりとやった。「一寸来い。中隊まで来い!」
 日本の兵士が雪に埋れていることが明かになった。背嚢の中についていた記号は、それが、松木と武石の中隊のものであることを物語った。
 翌日中隊は、早朝から、烏が渦巻いている空の下へ出かけて行った。烏は、既に、浅猿(あさま)しくも、雪の上に群がって、貪慾(どんよく)な嘴(くちばし)で、そこをかきさがしつついていた。
 兵士達が行くと、烏は、かあかあ鳴き叫び、雲のように空へまい上った。
 そこには、半ば貪(むさぼ)り啄(つつ)かれた兵士達の屍(しかばね)が散り散りに横たわっていた。顔面はさんざんに傷(そこな)われて見るかげもなくなっていた。
 雪は半ば解けかけていた。水が靴にしみ通ってきた。
 やかましく鳴き叫びながら、空に群がっている烏は、やがて、一町ほど向うの雪の上へおりて行った。
 兵士は、烏が雪をかきさがし、つついているのを見つけては、それを追っかけた。
 烏は、また、鳴き叫びながら、空に廻(ま)い上(あが)って、二三町さきへおりた。そこにも屍があった。兵士はそれを追っかけた。
 烏は、次第に遠く、一里も、二里も向うの方まで、雪の上におりながら逃げて行った。




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