武装せる市街
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著者名:黒島伝治 

     一

 五六台の一輪車が追手に帆をあげた。
 そして、貧民窟を横ぎった。塵埃(ほこり)の色をした苦力(クリー)が一台に一人ずつそれを押していた。たった一本しかない一輪車の車軸は、巨大な麻袋(マアタイ)の重みを一身に引き受けて苦るしげに咽びうめいた。貧民窟の向う側は、青い瓦の支那兵営だ。
 一輪車は菱形の帆をふくらましたまゝ貧民窟から、その兵営の土煉瓦のかげへかくれて行った。帆かげは見えなくなった。だが、車軸はいつまでも遠くで呻吟(うめき)を、つゞけていた。
 貧民窟の掘立小屋の高梁稈の風よけのかげでは、用便をする子供が、孟子も幼年時代には、かくしたであろうと思われるようなしゃがみ方をして、出た糞を細い棒切でいじくっていた。
 紙ぎれ、ボロぎれ、藁屑、披璃のかけらなど、――そんなものゝ堆積がそこらじゅう一面にちらばっていた。纏足(てんそく)の女房は、小盗市場の古びた骨董のようだ。顔のへしゃげた苦力は、塵芥や、南京豆の殻や、西瓜の噛りかすを、ひもじげにかきさがしつゝ突ついていた、[#「、」はママ]彼等は人蔘の尻尾でも萎れた菜っぱでも大根の切屑でも、食えそうなものは、なんでも拾い出してそれを喰った。
 一輪車が咽ぶその反対の方向では、白楊の丸太を喰うマッチ工場の機械鋸が骨を削るようにいがり立てた。――青黒い支那兵営の中から四五人の白露兵が歩き出して来た。
「要不要(ヨウブヨウ)?」
 客を求める洋車(ヤンチョ)の群(むれ)が、どこからか、白露兵の周囲にまぶれついた。苦力のズボンの尻はフゴ/\していた。彼等は、自分だけさきに客を取ろうと口やかましく争った。
「要不要?」
 ロシヤ人は、洋車の群に見むきもせず、長い脚でのしのしと歩いてきた。
 彼等は、昔、本国から極東へ逃げ、シベリアから支那へ落ちのびて来た。着のみ着のまゝの彼等の服装は、もう着破って、バンド一条さえ残っていなかった。が、彼等は、金がなくても、どこからか、十年前の趣味に合致した服や外套を手に入れてきた。汚れた黒い毛皮のコサック帽も、革の長靴も、腰がだぶつき、膝がしまっている青鼠のズボンも、昔に変らぬものを、彼等は、はいていた。
 頭も肩も、低い支那人から遙かに高く聳(そび)えていた。
「今月は、いくら月給を貰ったい?」
 支那服の大褂児(タアコアル)の男が、彼等と並んで歩き乍(なが)ら、話しかけていた。これは山崎である。
「一文も貰わねえや。」
「先月は、いくら貰ったい?」
「先月だって、一文も貰わねえや。」
「先々月は?」
「先々月だって一文も貰わねえや。」
「ひっぱたいたれ!」支那服の山崎は声をひそめた。「かまうもんか、ひっぱたいたれ! あの大男の張宗昌のぶくぶく肥っている頬ッぺたをぴしゃりとやったれよ。」
 白露兵は、ふいに、愉快げに上を向いて笑いだした。
 彼等は、頭領のミルクロフが、張宗昌に身売りをした、そのあとについて、山東軍に買われて来た。いつも、せいの低い、支那馬にまたがり、靴を地上にひきずりそうにして、あぶない第一線ばかりに立たせられた。ある者は、戦線で、弾丸にあたって斃(たお)れてしまった。ある者は、びっこになり、片目になり、腕をなくして追っぱらわれた。ある者は、支那人の大蒜(にんにく)の匂いに愛想をつかして逃亡した。仲の悪い支那兵と大喧嘩をした。
 彼等が戦線からロシヤバーに帰って来る時、皮下の肉体にまで、なまぐさい血と煙硝の匂いがしみこんでいた。
「畜生! 女郎屋のお上(かみ)に、唇を喰いちぎられそこなった張宗昌が何だい! 妾ばっかし二十七人も持ってやがって!……かまうもんか。ひっぱたいてやれ!」
 白露兵は、なお嬉しげに上を向いて笑った。
 彼等の眼のさきの、マッチ工場のトタン塀に添うて、並んでいるアカシヤは、初々(ういうい)しい春の芽を吹きかけていた。
 そのなお上には、街の空を、小さい烏が横腹に夕陽を浴びて、嬉しげに群れとんでいた。

     二

 工場は、塵埃と、硫黄と、燐、松脂(まつやに)などの焦げる匂いに白紫ずんでいぶっていた。
 少年工と少女工が、作業台に並んで、手品師の如く素早く頭付軸木を黄色の小函に詰めている「函詰」では、牛を追う舌打ちのように気ぜわしい音響が絶えず連続して起っている。全く歯の根がゆるむような気ぜわしさだった。
 乾燥室から運ばれる頭付軸木を手ごころで一定の分量だけ掴んで小函の抽斗(ひきだし)に詰め、レッテルを貼った外函にさす、それを、手を打ち合わす、拍手のような動作のように、一瞬に一箇ずつ、チャッ、チャッとやってのけた。七つか八つの遊びざかりの少年や少女も営々と気ばっている。
 支那人は、小さい子供は籠に担い、少しおおきいのは、歩かして、街へ子供を売りにくる。それを七元か、十元で買い取った者が半分まじっていた。幼年工もあった。おさなくって、せいがひくいので、その子供達は、ほかの男女工達と同列の椅子に腰かけては、作業台に手が届かなかった。床に盆を置いて貰って、その上へ小さな机子(ウーズ)(腰かけ)を置き、そこへ腰かけて、小(ち)ッちゃい、可愛らしい手で、ツメこんでいた。
 彼等は、みな、灰黄色の、土のような顔になっていた。燐寸の自然発火と、外函の両側に膠着された硝子粉のため、焼き爛(ただ)らした指頭には、黒い垢じみた繃帯を巻いていた。
 作業にかゝると休憩まで、彼女達と彼等は、用事上で喋ることも、雑談することも禁じられていた。彼等は、六時間を、たゞ、唖の小ロボットのように、手を動かすばかりで過すのだった。
 時々シュッといったり、シャッといったりする。黄燐マッチが、自然と摩擦して一刹那に発火する音響だ。その時、子供達は、指を焼くのだった。同時に、よごれた彼等は、ユラ/\と立上る薄紫の煙に姿がボカされた。
 一人として、一言も発する者がなかった。が、そこには、騒々しい雑音と、軋音(あつおん)が、気狂いのように溢れていた。
 幹太郎は、そこの工場をぐる/\まわり歩いていた。
 彼も、鞭と拳銃を持っていゝことになっていた。彼の下には、支那人の把頭(バトウ)がついていた。把頭も木の棒を持っていた。その木の棒は、相手かまわず、ブン殴っても、軟らかい手や脚を叩き折ってもかまわないことになっていた。しかし、日本人と把頭の前では、ちり/\して勤勉振りを示そうとつとめる工人達には棒も拳銃も更に必要がなかった。
 彼は今年二十五歳の青年だった。ひどく気むずかしやで、支那人をよりよく働かせることが嫌いなような、監督振りがまずい、理窟ッぽい男だった。
 塵埃と共に黄燐を含んだ有毒瓦斯は、少年達へと同様に、彼の肺臓へも、どん/\侵入して来た。
 ――君は、一体、支那人かね。それとも日本人かね? 最近、瑞典(スエーデン)マッチの圧迫を受けてぷり/\している不機嫌な支配人は、彼がむしろ支那人に肩を持つ癖があるのを責めて、皮肉な辛辣な眼つきをした。
 幹太郎は、親爺が、とうとうヘロ□(いん)者となってしまった。それと、これを思い合わして淋しげな顔をした。日本人はヘロを売ってもかまわない。しかし、支那人の如くヘロを吸ってはいけない。そのヘロを親爺は、支那人の如く吸飲した。支那人の如く□者となってしまった。
「俺れらは、日本人仲間からも嫌われているんだ、どうも、追ッつけ、俺れも、この工場からお払箱か……」
 実際、幹太郎は、すれッからしの日本人よりも、支那人に対して親しみが持てた。又、工人達も、彼に対して、ほかの小山や守田に対するよりも、親しく、ざっくばらんであるように見えた。

「お前あといくつだい?」
 軸削機をがちゃ/\ならして、木枠に軸木を並べている房鴻吉(ファンホウチ)に、彼は、なでるように笑ってみせた。房(ファン)の頭は、ホコリで白くなっていた。平べったい鼻の下には、よごれた大きい黄色い歯が、にやりとしていた。
「あといくつだい?」
「三ツ、三ツ」房は、あたふたと答えた。枠台車(わくだいしゃ)に三台のことだ。
「早くやれ。」
「すぐ、すぐ。」
 房は小さい軸木を林のように一面に植えつけた木枠に止め金をあてがった。ピシン/\とつまった音がした。
 幹太郎は、そこから、浸点作業へ通り抜けた。焼くような甘味のある燐の匂いが、硫黄や、松脂ともつれあって、鼻をくん/\さした。
 開け放された裏の出入口からは、機械鋸と軸素地剥機(じくそちはくき)が、歯を削るように、ギリ/\唸っていた。生の軸木を掌(て)にとってしらべていた小山は、唾を吐くように、叺(かます)にポイと投げて汚れた廊下をかえってきた。
「君、于(ユイ)の奴をどう思うね?」
 幹太郎の受持の、常から頭の下げっ振りが悪い変骨の于立嶺(ユイリソン)を指しているのは分っていた。
「どうも思いません。」
「あいつの仕事は、いつもおおばちだから、浸点で屑が出来るこた知っとるだろうね?」
「そうでもありませんよ。」
「君の眼に、屑でも屑でないと見えるんならそれでもいゝさ。」
 あんまりしつこく支那人の肩を持っていると、邪推されるのは癪だが、小山と一緒になって自分の受持の者を悪く云うのは、なお更、自分が許さなかった。軸列と、浸点と、乾燥室は幹太郎の受持になっていた。
「あんな奴を放って置いちゃ、北伐軍でもやって来た日にゃ、手がつけられなくなっちまうんだ!」
 小山は傷つけられたものを鼻のさきに出して鳴らした。
 小山がむきになると、幹太郎は、ワザと、于の尻を押してみたい気持を感じるのだった。小山は、下顎骨が燐の毒で腐り、その上、胸を侵され、胴で咳をしていた。于は、人を小馬鹿にしたような、フーンと小鼻を突き出したりする支那人ではあった。
 彼等は歩いた。
「□呀(アイヤ)!」
 その時、小函を一打(ダース)ずつ紙に包み、更に大きい木箱に詰めている包装で、ふいに、シユーッシユーッと空気を斬る音響が起った。
 仲間の工人から、工場での美人とされている、しかし、日本人が見ると、どうしても美しいとは思われない、平たい顔の紅月莪(ホンユエウオ)がびっくりして身を引いた。脚が弱々しく細かった。木箱の中のマッチが、すれて、発火してしまったのだ。紫黒の煙が、六百打詰の木箱から、四方へ、大砲を打ったように、ぱあッとひろがった。煙に取りまかれた紅月莪は、指を焼いたらしかった。
 小山は、骨ばった手を口にあてゝ煙にむせながら、こっちから、じろりと眼をやった。焼いた手を痛そうに、他の手で押えながら顔をあげて、ぐるりをはゞかるように見わたした紅(ホン)は、小山の視線に出会すと、すぐ、まだ煙が出ている木箱の方へ眼を伏せた。
 幹太郎は、小山の下顎骨の落ちこんだ口元が、苦るしげに歪むのを見た。紅(ホン)は、なお気がかりらしく、今度は恐る恐る、上目遣いに職長の方を見た。
 依然として、濛々とゆれている煙に、小山は、なお、胴ぐるみにむせていた。
 幹太郎は事務所の方へ歩いた。

     三

 蒋介石の第二次の北伐と、窮乏した山東兵の乱暴と狼藉が、毎日、巷の空気をかき乱した。
 名をなすために排日宣伝を仕事とする者もあった。何故、排日をやるかときくと、食えないからやるのだ、と答えたりした。
 六カ月も、七カ月も、一元の給料さえ、兵卒に支払わない、その督弁(トバン)の張宗昌は、城門附近で、自動車から、あわれげな乞食の親子を見て、扈従(こしょう)に、三百元を放ってやらした。張という男は、こんな気まぐれな男だった。
「鬼の眼に涙だ!」
 支那人達も、張宗昌をボロくそに、くさした。
 街の空気は、工場の工人達に、ひゞいてこずにはいなかった。
 あてがわれる機密費を、自分の貯金として、支那にいる間に、一と財産作って帰る腹の山崎は、M製粉や、日華蛋粉(たんぷん)、K紡績、福隆火柴公司(ホサイコンス)などを順ぐりに、めぐり歩いていた。
 金を出して、支那人から、あんまりあてにならない情報を一ツ/\買いとるよりは、実業協会の情報を、そのまゝ貰って、それで、報告のまに合わせる方が気がきいている。山崎は、それをやっていた。そして、あてがわれる金は、自分の懐へ取りこんだ。
 彼のポケットには、福隆火柴公司の社員の名刺がはいっていた。日華蛋粉の外交員の名刺も這入っていた。勿論、燐火の注文を取って来た、ためしもなく、用材の買い出しに行ったこともなかった。
 工場の出入口まで来ると彼は、そこで煙と塵埃と、不潔な工人や、鼻をもぎあげる硫黄の臭気に、爪を長くのばした手を鼻のさきにあてゝたじろいだ。今、ロシヤ兵と、別れて来たばかりだ。
 彼は話しも、顔の恰好も、歩きっ振りも、支那人と全く変らないのを自慢にしていた。手洟(てばな)をかんで、指についた洟(はな)をそこらへなすりつけるのは平気になっていた。上に臍のついた黒い縁なし帽子をかむり、服も、靴も、支那人のものを着けている。爪を長くのばしているのも、支那人の趣味を真似たのだ。たゞ、一ツ、彼の気づかない欠点は、白眼と黒眼のさかいがはっきりしすぎている尖った眼だ。これだけは、職業と人種とをどうしても胡麻化すことが出来なかった。どんよりと濁っている支那人とは違っていた。裏から裏をこそ/\とつゝいて歩く職業は、ひとりでに形となって外部に現れた。
 うぬぼれやの山崎は、自分の欠点を知らなかった。それについて面白い話がある。が、丁度、彼が作業場の入口へやってくると、そこへ幹太郎が、鼻のさきへ黄色いゴミをたまらして内部から出て来た。幹太郎は急ににこ/\笑って何か云った。
「何だね?」と山崎はきいた。
「とても面白い種ですよ。」
「何だね?」
「すぐ云いますがね。――云ったら、情報料をくれますか? 五円でいゝですよ。たった五円でいゝですよ。」
「出すさ、物によっちゃ出すさ。」
「呉れなけりゃ、山崎さん、儲かりすぎて、金の置き場に困るでしょう。」
 山崎は、唇から気に喰わん笑いをこぼした。
「何だね?」
「――土匪が出たんですよ。昨日、□口(ロンコー)の沼へ鴨打ちに行ったら、土匪がツカ/\っと、六、七人黄河の方からやって来たんですよ。」
 幹太郎は笑い出した。
 情報料は冗談だと云いたげな、罪のなげな笑い方をした。
「乗って行った自転車を打っちゃらかして逃げて来たんですよ。ケントの上等だったんですがな。」
 山崎は、出て来る苦笑をかみ殺していた。国家(?)の安否にも関係する重大なことをあさっているのに、何ンにもならんことで茶化すんねえ! そんな顔をした。それに気づいた幹太郎は、彼の方でも、次第に硬ばった、不自然な笑い方になった。
 そこへ、胴ぐるみの咳をつゞけながら小山が出て来た。
 一日分の請取り仕事を終った工人達は、色のあせてしまった顔で出口ヘやって来はじめた。幹太郎は、山崎と一緒に事務室へ歩いた。工人は一日の作業高を出勤簿に記入して貰う。食事札を受取る。そのどよめきと、せり合いが金属的な支那語と共に、把頭(バトウ)の机の周囲で起った。
 あたりは薄暗くなっていた。
「ここじゃ、相変らず温順そのものだな。」
 山崎は、もみ合っている工人達をじろりと一瞥(いちべつ)した。そしてささやいた。
「そこどころか、……幹部にまで不穏な奴があるんだから。」
 小山が答えた。
「ふむむ、総工会のまわし者がもぐりこんどるかどうかは、なか/\吾々日本人にゃ分からんもんだ。用心しないと。」
「なに、そんなもぐりこみなら、囮(おとり)を使やアすぐ分るさ。」
「ところが、此頃は、その囮に、又囮をつけなきゃあぶなくなっていますよ。」
「チェッ! 如何にも訳が分らねえや。」
 小山はつゞけて咳をした。そこらへ痰を吐きちらした。
 三人は事務室へ這入った。そこも燐や、硫黄や、塩酸加里などの影響を受けて、すべてが色褪せ、机の板は、もく目ともく目の間が腐蝕し、灰色に黝(くろ)ずんでいた。
 三円で払下げを受けた一挺(ちょう)の古鉄砲を、五十円で、何千挺か張宗昌に売りつけた仲間の一人の内川は、憂鬱で心配げな暗い顔をして二重硝子の窓の傍に陣取っていた。その顔は、この工場と同じように、規則正しくかたまって、乾き切っていた。これが支配人である。
「なんだ、あんたが来ると馬鹿に大蒜(にんにく)くさいや。」
 内川はブッキラ棒に笑った。その笑い方までが乾燥していた。
「それゃありがたい。これで大蒜の匂いがすりゃ、支那人と一分も変りがないでしょう。どうです?」
 山崎は、自慢げに、幇間(ほうかん)のような恰好をした。
「自分でそう思っていれば、それが一番いゝや、世話がいらなくって。」
「我和中国人不是一様□(ウンホツンゴレンブシイヤンマ)。怎□不一様(ソンモブイヤン)、那児有不一様的様子(ナアルブイヤンテヤンス)?」
 急に山崎は支那語で呶鳴った。どこが俺ゃ支那人と異うのだ――というような意味だ。しかし、それは、明かに冗談でむしろ、内川を喜ばす一つの手段の如く見えた。
 彼は、古鉄砲でウンと儲けた内川から約束通りのものをせしめようと念(こころ)がけていた。今にも出してよこすか、今か、今か、と待っていた。――幹太郎は、それを知っていた。
 それは、実に、見ッともないざまだった。
 彼は、飢(う)えた宿なしの犬のように、あらゆる感覚を緊張さして、どこでも、くん/\嗅ぎまわっていた。自分より新米の者の前では、すっかり、その本性の野獣性を曝露する小山は、支配人が居るとまるで別人になった。無口に、控え目になった。山崎は、内川に使われている人間でないだけ、まだ、無雑作で平気だった。しかしそれも、故意に無雑作をよそおっていた。無雑作のかげから、迎合する調子がとび出した。
 小山は、支配人が興味を持つことなら、もう十年間も土地(つち)を踏んだことのない内地の、新聞紙上だけの政治にも、なか/\興味をよせた。――よせた振りを見せた。
 彼は、内川の暗い顔を見て、すぐそれに反応した。
「めった、今度は去年あたりよりゃあいつらの景気がいいと思ったら、独逸が新しい武器を提供しとるそうじゃありませんか?」
「うむむ。」
 内川は唸った。
「どれっくらいですかな? その数量は?」
 今朝来たばかりの封書の口を引っぺがしてぬすみ見した。ぬすみ見して、その数量をも知っていた。それを、小山は、それだけは知らん振りをした。
「紅毛人は、やっぱし、教会だとか慈善だとか云ってけつかって、かげじゃなか/\大きな商売をやっているね。こちとらとは、桁(けた)が異うわい。」
「只の学校、只の病院なんて、まるっきり、奴等の手ですな。どうしても。」
「うむむ。」
「しかし、今度は、いくら精鋭な武器を持って蒋介石がやって来たって、大人(たいじん)の方でも背水の陣を敷いてやるでしょう。どちらかというと、大人の方が、どうしても負けられない戦じゃありませんか。」
 彼は、専門家の山崎の前で、一ツかどの意見を示したつもりだった。顔は得意げになった。山崎はそれに気づいた。
「古鉄砲の張宗昌が、新しい独逸銃に負けるっていう胸算用だな……」
「なに、張大人が勝ったって負けたって、何もかまいやせんじゃないか。そんなことまで、何も鉄砲を売った人間の責任じゃないですよ。」
 髯のない山崎は、その唇の周囲には皮肉げな、君達はこんなことを云ったり、こねたりする柄か! と云いたげな微笑を含めた。
「北伐軍にゃ、まだ/\政治部を出た共産党が、だいぶまじっとるんだよ。」内川は、にが/\しげに囁いた。「こいつだけは、いくら共産党狩りをやったって、どこまでもだにのように喰いついとるという話だな。――そんな共匪どもがこの町を占領したらどうなるんだね?――一体、どうなるんだね?」
「共産党は空気ですよ。隙間のあるところなら、どこへだって這入りこんで行くんでさ。しかし、それよりゃ、僕は、北伐軍がここまで漕ぎつけて来るだけの力があるかどうか、それが見ものだと思ってるんだがな。そいつを見きわめて置く方が先決問題だと思ってるんだがな。」
「何で、それを見きわめるかね?」
「金ですよ。」と、山崎は冷笑した。「十万の大兵を動かすには、二十万元や三十万元あったところで、二階から目薬にもなりませんからな。」
「金なら、総商会で最初に四百万円、あとから二百万円出しとるさ。」
「へええ、それゃ、又、誤報じゃないですな?」山崎は、又、冷笑するような声を出した。が、鯛でも釣ったように喜んだのは、色あせた机にツバキがとんだので分った。
「たしかにそれじゃ六百万円出したんですな。……そんならやって来ません。大丈夫やって来ません。それは結構なこってすな。総商会が六百万円献金したというのは結構なこってすな。――なかなか結構なこってすな。」
 小山には、山崎が、馬鹿々々しくはしゃぐ理由がちょっと分らなかった。

     四

 内川は三ツ股かけと呼ばれていた。
 カタイ大ッピラな燐寸工場以外、硬派と軟派を兼ねているからだ。
 ここの硬派、軟派は、新聞社内の二つの区別じゃ勿論なかった。武器を扱う商売が硬派だった。そして、阿片、モルヒネ、コカイン、ヘロイン、コデイン等を扱う商売が軟派だった。
 すべて、支那人相手の商売である。
 広い、広い、渾沌(こんとん)たる支那内地に居住する外国人の多くは、この硬派か軟派かを本当の仕事としていた。英国人もそれをやった。フランス人もそれをやった。ドイツ人もスペイン人もそれをやった。そして一方では支那人を麻酔さした。痴呆症となし了(おわ)らしめた。他方では軍閥や匪徒に武器と弾薬を供給した。
 戦乱と掠奪と民衆の不安は、そこからも誘導された。
 内川は頑固な一徹な目先の利く男だった。馬の眼をくり抜くのみならず、土匪の眼玉だってくり抜いたかも知れない。彼は、物事に熱中しだすと、散髪する半時間さえ惜しがった。胡麻塩頭をぼう/\と散乱さしひげむじゃのまま、仕事に打ちこんでいた。工場へはよく暗号の電話がかかって来た。
 三号十八匹、今日、ツブシに到着。と言ってくれば、四千円は動かなかった。豚の鼻十、五目飯で焚き込み。と云えば、十挺の鉄砲と、それに相当する弾薬、所属品が売れたことだ。
 山崎は、こんな、内川の秘密を知っていた。
 いろいろな情報や、日々の変遷、事件が手に取るように速急に這入る機関があるだけでも、工場を兼ねていることは、内川に有利だった。支那の巡警や、鉄道員や、税関吏は、金持をせびって余得をせしめるのが昔からの習慣となっている。内川はそれをうまく利用していた。
「工場へ来とったって、どっちが本職だか分らねえんだからな。あんまり一人でうまい汁ばかり吸っていると、今に腹が痛みだすんだから。」
「それを云うなよ、君、それ、それを云うなよ。」
 内川は、なぞをかけようとする山崎を見抜いて、おどけたように頸をすくめ、手を振って、茶化しようと努めた。
「こいつはまるで、軽業の綱渡りだからね。まかりまちがえば、落っこちて死んじまうんだからね。本当にこうして坐っていたって、しょっちゅう、ヒヤ/\しているんだよ。」
「落っこちる人は、あんたじゃなくってボーイやほかの野郎ですよ。」
「いや/\なか/\そうとばかりは行かないんだ、そうとばかりは……。」
 支那人は、誰でも、一号か、二号か、三号か、どれかがなければ、一日だって過して行けなかった。そんな習慣をつけられていた。
 督弁(トバン)でも、土豪劣紳でも、苦力(クリー)でも、乞食でも。一号、二号、三号……というのは阿片、ヘロイン、モルヒネなどの暗号だ。
 拒毒運動者はそれと戦った。
 その輸入は禁止されていた。その吸飲も禁止されていた。
 彼等に云わすと、阿片戦争以来、各国の帝国主義が支那民族を絶滅しようとして、故意に、阿片を持ち込むのだ。それにおぼれしめるのだ。しかし、いくら禁止しても、その法令は行われなかった。網の目をくゞる。
 没収されても罰金をとられても、又別の方法で持って来る。メリケン粉の中へしのびこましたり、外の薬品にまぎれ込ましたり、一人、一人の腹に巻きつけたり。どうにも、こうにも防ぎきれなかった。山崎はそれを知っていた。
 若し、内川が持って来なくっても、それは、ほかの誰れかゞ持って来るのにきまっていた。
 若し、日本人が持って来なくっても、独逸人か、ほかの外国人かゞ持って来るにきまっていた。――山崎は、そこで、内川を援助する理由を見つけた。誰かゞ持って来て欲求を満してやらなけりゃ、中毒した支那人が唸り死んじまうだろう。それなら彼は同胞に味方すべきだ。仏蘭西人や、独逸人は、むしろ、図太く、平気の皮でむちゃくちゃな数量を、輸入していた。六千トンの船にいっぱい積みこんで来たりした。それに較べると日本人は、こせ/\したあの内地のように、あまりに小心に、正直にすぎる。……
 だが、内川は、例外的にケチン坊で、不当に、むくいなかった。山崎はつむじを曲げた。
 彼は、内川とS銀行の高津が、鉄砲で、どれだけ掴んだかを知っていた。
 硬派は軟派よりはもっと仕事が困難だった。すべてを絶対に秘密にやらなけりゃならなかった。支那官憲は極度にやかましかった。軟派が曝露して罰金や牢屋ですむところを、硬派は命をかけなければならなかった。武器を持っていて見つかることは、支那では命がけの仕事だ。これこそ本当の軽業の綱渡りだった。古い錆のついた小銃弾を、ほかの屑物と一緒に買い取った屑屋が、何気なくそれをいじっていて、そこを巡警に見咎められ、ついに死刑にされたことさえあった。
 それほどやかましいのは、それほど、武器が大切であることを意味していた。
 殊に小軍閥や、土匪は、武器なら人を殺しても、それを奪取した。武器ならいくら金を出しても、それを買い取った。そこで、土匪のうわ前をはねるのさえ、実は容易な業だった。
 だから、売込の妨害をされないためだけにでも、五百やそこらは放り出すべきだ。
 それを、下積みの膳立ては、すべて、彼――山崎がちゃんとこしらえてやったんじゃないか。それを内川はむくいようとしなかった。
 山崎は、あんまり気長く放って置くと、自分の努力が時効にかゝっちまう、と気をもんだ。
 しかし内川が、彼を蹴るなら蹴るで、彼は又、彼として、考えがあった。若し万が一、今度百や二百やの眼くされ金で胡麻化そうとするんなら、その時は、その時で、今後の商売を、全く、上ったりにして呉れるから。
 山崎は、内川等がどんなことをやっているか、それを知っていた。そして、彼は、それをあげてやろうと思えばあげてやれるのだった。
 彼は、自国人であるために、それを庇護していた。
 それは、ある秋のことである。市街から離れた田舎道を、なお、山奥へ、樹々が枯色をした深い淋しい林へ、耳の長い驢馬(ろば)に引かれた長い葬式の列が通っていた。
 棺車は六頭の驢馬に引かれていた。驢馬は小さい胴体や、短かい四本の脚に似合わず、大きい頭を、苦るしげに振り振り、六頭が、六頭とも汗だくだくとなっていた。そのちぢれたような汚れた毛からは、湯気が立った。
 棺は死人を弔(とむら)うにふさわしく、支那式に、蛇頭や、黒い布でしめやかに飾られていた。喪主らしい男は、一人だけ粗麻の喪帽をかむり、泣き女はわんわんほえながらあとにつゞいていた。
 町で死んだ者が、郷里の田舎へつれかえられているのだろう。
 だが、一人の死屍に、そして、山の方へだが、まだ、山へはさしかからず平地をつゞいて行くのに、どうして六頭もの馬が、湯気が立つほど汗をかいているのだろう。
 どうして、一人の死屍がそんなに重いのか?
 巡警は、不思議に思った。
 暫らくは安全だった。普通葬列は、馬に引かれず、人の肩に棒で舁(かつ)がれて行くべきだ。それも巡警の疑念を深くした。が、二人の巡警は、棺車を守る七八人の屈強な男の敵じゃなかった。そして葬列は林へ、山へと近づいて行った。しかし、林へ這入ってしまうまでには、まだ、もう一つの村があった。
 村のたむろ所には巡警のたまりがあった。
 行儀正しくあとにつゞいている粗麻の喪主と、泣き女はくたびれると、欠伸(あくび)をして変に笑った。それが一人の巡警の眼にとまった。
 そこで、葬列が村の屯所の前にさしかゝった時、状態が急に変化した。棺車は停止を命じられた。
 銃と剣をつけた巡警は、車を取りまいた。
 棺桶を蔽う天蓋や、黒い幕は引きめくられた。桶の蓋(ふた)はあけられた。蓋の下は死屍でなく、鉄砲と手榴弾が、ずっしりと、いっぱいに詰めこまれてあった……。
「うへエ!」
 山崎はそんなことをも知っていた。内川は人の意表に出る男だ。

     五

 十王殿(シワンテン)附近に、汚ない、ややこしい、褌(ふんどし)から汁が出るような街がある。
 幹太郎はそこの親爺の家に住んでいた。
 そこには、彼の二人の親と、母親のない一人の子供と、二人の妹が住んでいた。彼は、そこから、商埠地(しょうふち)の街をはすかいに通りぬけて工場へ通った。
「あの、よぼよぼのじいさんは日本人ですか?」
 邦人達は、黄白の眼が曇った竹三郎のことを、知りあいの支那人からきかされると、
「なに、あいつは朝鮮人だよ。」
 と軽蔑しきった態度で答えた。
 ここでは、邦人達は、労働することと、□者となることを、国辱と思っていた。
 邦人達は、つい三丁先へ野菜ものを買いに行くのでも、洋車(くるま)にふんぞりかえって、そのくせ、苦力にやる車代はむちゃくちゃに値切りとばして乗りつけなければ、ならないものと心得ていた。
 落ちぶれた、日本人が、苦力達の仲間に這入って、筋肉労働を売っているとする、――そういう者も勿論あった。
 と、
「ふむ、あいつは朝鮮人だ!」
 洋車の上から、唾でも吐きかけぬばかりに軽蔑した。
 親爺の竹三郎は、その軽蔑を受ける人間の一人だった。
 彼は、煙槍(エンジャン)と、酒精(アルコール)ランプと、第三号がなければ生きて行かれなかった。彼は、一日に一度は必ず麻酔薬を吸わずにはいられなかった。体内から薬の気(け)が切れると、疼(うず)くような唸きにのた打った。それは、桶から、はね出した鯉のように、どうにもこうにも、我慢のしようがなかった。
 幹太郎は、その親爺が、見るからに好きになれなかった。
 親爺は仕事らしい仕事は殆んど出来なくなっていた。そして親爺の代りは、妹のすゞがした。彼女は、今、三、四封度(ポンド)を携えてくるために内地に帰って行っていた。
 邦人達は、たいてい、この軟派を仕事としている。饅頭屋、土産物商、時計屋、骨董屋などの表看板は、文字通り表看板にすぎなかった。内川は大量を取扱う卸商とすれば、彼等は小商人だった。――そんな商売をやる人間がここには一千人からいた。
 竹三郎もその一人だった。
 阿片は、苦力や工人達には、あまりに高すぎる。そこで、阿片の代りに、もっと割が安い、利き目が遙かにきつい三号含有物がここでは用いられた。阿片なら、三カ月間、吸いつゞけても、まだ中毒しない、しかし、ヘロインは、十日で、もう顔いろが、病的に変化するのだった。
 ――これにも主薬と佐薬がある。調合がうまくなければ、売行はよくなかった。そして、その調合法は、それぞれ、自分の秘密として家伝の如く、他人には容易にそれを話さなかった。竹三郎は、いろいろな仕事に失敗して、とうとう、一番、最後の切札に、この三号品を扱い出した。当初、売行が悪いのに、苦るしんだ。何もかも、すべてに失敗しても、彼は内地へは帰れなかった。彼は内地を追われて来たのだ。
 いくらでも、めちゃくちゃに金の儲かるボロイ商売のように云われている薬屋でも、やって見れば、やはり、苦労と、骨折がかゝるものだった。
「畜生! 今度は、俺がためしに吸うて見てやる。それくらいなことやらなけゃ、商売はどうしたって、うまくは行かんのだ。」
 こんなことを云っていた時には、まだ薬の恐ろしさは、彼にも、妻にも分っていなかった。
「阿呆云わんすな。――中毒したらどうするんじゃ。」――お仙も笑っていた。
「そんな呑気なことを云っちゃいられないぞ。どうしたって俺は、日本へは帰れないんだ!」彼は品物がだんだんに売行きがよくなると、彼の顔色は、古びた梨のように変化した。
 麻酔薬は、体内の細胞を侵していた。
 彼は、蟻地獄に陥る蟻だった。どんなに、もがいても、あがいても、吸わずにいられなくなっていた。
 すゞも、俊も、幹太郎も、内地からここへ来て、まる二年ばかりしか経っていなかった。
 すゞは、「快上快」の調合から、原料の補給や、時には、それを裏口から、足音をしのばせて、そッと這入ってくる青い顔の支那人に売ることも為(し)ていた。
 俊は、トシ子が置いて帰った一郎をあやしてたわむれた。一郎は幹太郎の子である。トシ子は、彼と、家を嫌って帰ってしまった妻だ。そして、俊は以前、トシ子と仲がよかった。
 姉の方のすゞは、トシ子が帰ってしまうと、家のことに、心から身を入れて働くようになった。
 原料の補給に内地へ帰らされるのはいつもすゞだった。彼女も、また、危険を冒してもそれをやった。
 やかましい税関をくゞり抜けて、禁制品を持ちこむのは、荒くれた男よりも、女の方が、――殊にまだどこかあどけない娘の方が、はるかにやりよかった。竹三郎は、初めて、幹太郎とすゞと、幹太郎の妻のトシ子を内地からつれて来しなに、もう、早速、一封度ずつ、三人に、肌身につけて上陸するように強いた。
 幹太郎は、その時、親爺の破廉恥(はれんち)さ加減に、暫らく唖然とした。二人の兄弟だけになら、まだ我慢が出来た。ところが、親爺は貰って四月しか経たないトシ子にも、平気の皮で云いつけた。彼は、トシ子と一年半ばかりで別れなければならなくなった原因の一半は親爺にあるような気が、今だにしている。人の気持が分らないのにも程があった。
 だが、第一回は、はずかしがったり、気をもんだりしたすゞと、トシ子が、うまく、やすやすとやりおおせた。親爺と幹太郎は上陸すると、すぐ眼のさきにある、税関のくぐりぬけがかえって面倒だった。女は、すらすらと通ってしまった。
 親爺は、一度味をしめると、それをいいことにして、またすゞを内地へ帰らした。
 すゞは、二回、三回のうちに税関をだまくらかすのを痛快がりだした。
「お前、あの時、どんな気がしたい?」
 露顕した時の恐怖と、親爺への不服が忘れられない幹太郎は、あとから、すゞに訊いた。
「どんな気もしない。ただお父さんが気の毒で可哀そうだっただけ。」
「お前は、腹のまわりに袋に入れたあの粉をまきつけて、――おや、妊娠三カ月にも見えやしなくって? なんて、ひどく気に病んどったじゃないか。」
「それゃ、気になったわ。帯がどうしても、うまく結べないんだもの、――でも、そんなこと、なんでもなかった。ただお父さんが可哀そうだったの、始めて済南へ連れて来る子供とそれから花嫁さんにまでこんなことをさせなけりゃならんかと思ったら、お父さんが可哀そうで、涙がこぼれたわ。」
「なあに、見つからせんかと、びくびくものだったくせに、今になって、ませた口をたたいてやがら。」
「じゃ、兄さん、あの時から、こっちの暮しが、こんな見すぼらしいものだって分ってて?」
「俺ら、なんぼなんだって、こんなにひどいとは思わなかったよ。」
「私、ちゃんと分ってた。……おじいさんがなくなったのに、お母さんもつれずに、たった一人っきり、お父さんが帰っちゃったでしょう、あれで、もうすっかり、すべてが分るじゃないの。」
「へええ、貴様あとからえらそうなことを云ってやがら。」
 妻に子供を残されて、逃げ帰られてしまってから、二人はお互にかたく結びつくようになった。
 第三者にいわすと、幹太郎はもっといい妻がほしくって、トシ子をヘイ履の如く捨て去ったのだった。ところが、一度、妻とした女を、かえすということは、功利的な打算だけで、そんなに、たやすく出来得ることじゃなかった。旧式な彼には、いろいろな迷いや、苦悩や、逡巡があった。それを知っているのは、すゞだけだ。彼は、妹が、しみ入るように好きになった。子供も彼女になついた。すゞは、浅草の鳩のように、人なれがしていた。つかまえようとすると、鳩が、一尺か二尺かの際どいところで、敏感に、とび立って逃げる。そんなかしこさがあった。
 彼女が内地へ帰ったのは、もう、これで七回目だ。

     六

 巷(ちまた)の騒々しさと、蒋介石の北伐遂行の噂は、彼女が内地へ着いた頃から、日々、頻ぱんになって来た。
 在留邦人達の北伐に対する関心は、幾年かを費して、拵え上げた財産や、飾りつけた家や、あさり集めた珍らしい支那器具や、生命を、五・三十事件当時の南京、漢口の在留者達のように、無惨に、血まみれに、乱暴な南兵のため踏みにじられやしないか、という一事にかかっていた。
 彼等は、誰かからそういう心配をするように暗示された。彼等はそのことのために、居留民団で会議を開いた。二人の選ばれたものが、領事館へ陳情に出かけた。小金をためこんでいる者も、すっからかんのその日暮しの連中も、同様に暗示にかかって、そのことにかゝずらった。
 絶えまない軍閥の小ぜり合いと、騒乱の連続は、その暗示をなお力強いものにした。――実際、町ではしょっちゅう騒乱が繰りかえされていた。遊芸園の東隣の女子学校へ、巡邏(じゅんら)の支那兵が昼間闖入(ちんにゅう)した。
 支那兵は二人だった。二人の支那兵は、女学生の寄宿している宿へ入り、彼等の飢えた性欲を十分に満足させた。
 ところが、女教師は、兵士に、そのことを内所にしといて呉れと頭を下げて頼むのだった。兵士は金を要求した。教師は弱味につけこまれた。金を出した。
 しかし、二人は青黒い兵営に帰ると、そのことを、ほかの者達にすっかり名誉のようにバラしてしまった。
 夜になると、まだ味をしめない兵士等が、群をなして学校へ押しよせて来た。支那語の叫喚、金属的なざわめきが、遠くで騒がしく起った。
 街では、毎晩、そこ、ここの家々が、武器を持った兵士等に襲われた。「諱三路(ウイサル)の×さアん、いらっしゃいますか? 急用!」映画を見ている最中に、木戸から誰かが呼ばれると、呼ばれない、附近の者までがギクリとした。――おや、又、強盗かしら?
 兵士達は食に窮していた。顔と頭を黒い布で包み、大きな袋のような大褂児(タアコアル)に身をかくしている。それは、どこでもかまわず、めちゃくちゃだった。
 土匪のように現金のある家をねらった計画的なものじゃなかった。それだけに尚、厄介だった。貧乏な者までが、気が気じゃなかった。
 そいつは押し入ると、獲物を求める、夜鷹のように、屋内を、隅から隅へ突きあたり、ひっくりかえした。はね上がったり、すねを突いて、物置の奥へ手を突ッ込む拍子に、大褂児の裾から、フト軍服の□子(クウズ)がまくれ出た。
「おや、兵隊だ!」
「兵隊がどうしたい?」
「兵隊だって食わずにゃ生きとれねんだぞ。督弁(トバン)は一文だってよこさねえし!」
 そいつらは正体を見破られて引っ込むどころじゃなかった。「我的我的(オーデオーデ)! 爾的我的(ニーデオーデ)! (おれのもんはおれのもんだ! お前のもんはおれのもんだ!)」
 工場では、内川が、北伐にともなう、共産系の宣伝と組織運動、動乱にまぎれての工人の逃亡に対する対策に腐心していた。
 頭の下げっぷりが悪い、生意気な者には、容赦のないリンチが行われた。
 工人は妻のある男も、夫のある女工も、門外に出ることを絶対に禁じられた。すべてが、二棟の寄宿舎に閉じこめられてしまった。
 門鑑は、巡警によって守られていた。
 巡警は、公司(コンス)の証明書を持たない者には、一切入門を拒絶した。
 逃亡の防止策としては、給料が払われなかった。工人達は、三月末に受け取る筈の一カ月分の給料と、四月になってから働いた分を貰わず、そのままとなっていた。
 彼等の仕事は、すべて請負制度だった。
 彼等は、函詰、百八十盒でトンズル一文半(日本の金で約九厘)を取った。軸列一台(木枠三十枚)トンズル二文半、外し一車につき、一文、小箱貼り、軸木運び、庭掃は一カ月二円か三円だった。骨が折れること、汚いこと、燐の毒を受けることはすべて彼等がやった。日本人はピストルを持って見張っているだけだ。
 そして燐寸は、中国の国産品と寸分も異わないものが出来上った。商標も支那式で「大吉」を黄色い紙に印されていた。レッテルの四隅には「提倡国貨」(国産品を用いましょう)とれい/\しく書いてあった。
 これは排日委員会で決議されたスローガンの一ツだ。それが、うま/\と逆用されていた。――なる程、何から何まで、すべてが支那人の手によって作られたものである。支那の国で作っている。だから、支那の国産品にゃ違いなかった。資本をのければ。
 猛烈な日貨排斥運動に、皆目売れ口がない神戸マッチを輸入して、関税や、賦金や、附加税を取られるよりは、労働賃銀が安い支那人を使って、全く支那の製品と違わない「国産品」を、支那でこしらえ支那で売る方がどれだけ合理的なやり方か知れない。
 大井商事は、とっくにこれに眼をつけていた。マッチだけじゃない。資本家は、紡績にも、機械にも、製粉にも、搾油にも、製糖にもこの方法を用いていた。世知辛い行きつまった内地で儲けられない埋め合せはここでつけた。
 工人達の窮乏は次第に度を加えて来た。彼等はただ饅頭(マントウ)や、□餅(コウビン)のかけらを食わして貰うだけだった。そして湯をのまして貰うだけだった。金は一文もなかった。
 金がない為めに、一本の煙草も吸えなかった。ぼう/\となった髪を刈ることが出来なかった。
 稼いで金を送って、家族を養うことが出来なかった。
 三日も四日も飯にありつけない、彼等のおふくろや、おやじや、妻が、キタならしいなりをして息子に面会を求めに来ても、門鑑はそれを拒絶した。
 内には、親にあいたい息子がいた。娘がいた。妻にあいたい夫がいた。夫にあいたい妻がいた。
 外には、息子や夫の仕送りを待っている親や、妻がいた。
 小山達は、会せた後の泣きごとを面倒がって、会せなかった。
 さんぼろさげた工人達は、鉄条網の張られた白楊材置場へまわった。そこの僅かの一部分だけは、トタン塀が張られていなかった。
 そこで、彼等は、金属的な、悲しげな声を出した。
 工人達は、親の唸くような、叫ぶ声をきゝつけると、そっと、作業場を抜け出して、鉄条網のそばへしのびよった。
 彼等は、鉄条網をへだてて、内密に、面会した。
 しかし、息子は、親に与える金がなかった。夫は、妻に与える金がなかった。
 それは悲痛な面会だった。
 幹太郎はこういう者たちから、給料をくれるように話してくれとせがまれた。
「猪川さん。」王洪吉(ワンホンチ)は、おず/\と、浸点を見ている幹太郎のそばへ近よった。気の弱い、勤勉な工人の一人だ。
「何だね?」
「猪川さん。」
「何だね?」幹太郎は早く云えというような顔をした。
「猪川さん。……あのう、月給を半分だけでも渡して貰えるように、あんたから、小山さんに頼んで呉れませんか。」
 王(ワン)の、卑屈げに、はにかんだ声を、幹太郎は意識した。
「今、おふくろが来て、女房がお産をしたが、もう、三日、飯をくわずにいると云うんです。」王はつゞけた。「おとゝいまで、嬶の妹のところから、粟を貰って来て食ったが、妹のところにも、なんにもなくなっちまったんです。」
「当分、月給を渡さないということになってるんだがなあ。」幹太郎は当惑げな顔をした。
「おふくろ、大きい方の餓鬼をおぶって来て、柵の外で泣いているです。――餓鬼も、おふくろも泣いているです。」
「会計にだって、支配人にだって、俺の云うことなんか、ちっとも効果がありゃせんのだよ。」
「…………」
 王洪吉は何か云おうとして、不思議な眼つきで、幹太郎を見た。彼は、肉体と精神と、両方で苦るしんでいた。胸がへしゃがれるようで、息をすることも、出来なかった。幹太郎は王の眼から、眉間(みけん)を打たれた瞬間の屠殺される去勢牛のように、人のいい、無抵抗なものを感じた。それは無抵抗なまゝに、俺れゃどうして殺されるんだ! 俺れゃ殺される覚えはない! というように無心に訴えていた。
 ふと、彼は
「よし、云ってやるよ。話してやるよ!」憤然と叫んだ。
「まるで、君等を人間並とは考えていないんだからなア。――かまわん。待ってい給え、云ってやる! 話してやるよ!」

 幹太郎は、工場の日本人のうちで一番植民地ずれがしていない、新顔だった。支配人の内川、職長の小山、大津、守田、会計の岩井、みな、コセ/\した内地に愛想をつかして、覊絆(きはん)のない奔放な土地にあこがれ、朝鮮、満洲へ足を踏み出した者ばかりだ。内地で喰いつめるか、法律に引っかゝるかする。居づらくなる。すると先ず朝鮮へ渡る。朝鮮が面白くない、満洲へ来る。満洲も面白くない、天津へ来る。北京へ来る。そこでもうまく行かない。そういう連中が、ここへ這入りこんでいた。
 彼等は、大連、奉天、青島、天津などを荒しまわっていた。常にニヤ/\している、顔にどっか生殖器のような感じのある大津のために、娘を山分けの手数料を取られて、七八十円で売らされた朝鮮人がどれだけあるか知れない。しかも、その生娘は、一人残らず大津に「あじみ」されて、それから、買手に渡されていた。小山の棍棒にかかって、不具者となり、くたばってしまった苦力は十人を下らないだろう。
 岩井は、今こそ、いくらか小金をためて虫をも殺さぬ顔をしている。が、その金を得るために、彼は日本人でも、朝鮮人でも、支那人でも、邪魔になるものは誰でも、なきものにし兼ねない手段を選んで来た。
 そんな面(つら)の皮の厚さが、二寸も三寸もありそうなゴツイ彼等も、自分自身の悪業のため、満洲がいにくゝなる。天津がいにくゝなる。青島がいにくゝなる。そしてここへやって来ていた。
 工場には、悪党上りが集った場所によくある、留置場のような、一種特別な、ざっくばらんな空気がかもされていた。こゝでは自分の悪業を蔽いかくそうとする者は一人もなかった。強姦でも、強盗でも、窃盗でも、自分の経験を大ッぴらに喋りちらした。そこへ這入って来る人間は、自分にやった覚えのない罪悪をも、誇大に作り出して喋らないと、はばがきかない感じを受けた。いろ/\な前科と剛胆な犯罪の経験をよけいに持っている奴ほど、はばをきかし、人を恐れさし、えらばっていることが出来た。
 小山は、工人の気に喰わぬ奴に対しては、燐や、塩酸加里、硫黄、松脂などが加熱されて釜の中でドロ/\にとけている頭薬を、柄杓(ひしゃく)ですくって、頭からピシャリとぶちかけた。支那人は、彼の手に握られた柄杓を見ると、物がひっくりかえるようなトンキョウな声を出して逃げ出すのだった。そのくせ、工人達が頭薬をこぼすと口ぎたなく呶鳴りちらした。
 彼等は、幹太郎をのけると、みなが、工人に対して、動物に対すると同じような態度をとった。幹太郎は工人等が、黒い饅頭か、高梁粉をベッタラ焼きのようにした□餅(コウビン)のかけらを噛って、湯をのむだけで、よくも一日十五時間の労働に消費される熱量を補給し得るものだと考えた。
 彼には支那人ほど、根気強く、辛抱強い奴はないと見えた。文句を云わなかった。一箇でもよけいにマッチを詰めて、たゞ金を儲けたいと心がけている。請負制度は彼等の愛銭心を挑発して働かせる。その一つの目的のために、案出された制度のようだった。
「馬鹿な!」小山は冷笑していた。「奴等自身だって、熱量が補給されるかどうかなんてこたア、考えてみもしねえんだ!」
 小山は、彼自身の経験から割り出して、ここの工人は、満洲の苦力よりも生意気で、能率が上らないと確信していた。彼は、大連埠頭の碧山荘の苦力を使った経験があった。「支那人って奴は、やくざな人種だということを知って置かなけゃだめだよ。奴らをほめたりなんかするこたア、そりゃ、決していらんこったよ。」先輩振って、云ってきかすような調子だった。
「あいつらは恥というものがないんだ。こっちがいくらよくしてやったって、それで十分なんてこたないんだ。十円くれてやったって、シェシェでそこすんだりだ。一円くれてやっても、やっぱし、シェシェでそこすんだりだ。十銭くれてやっても、同じように、シェシェとは云うよ。だから奴等に、大きな恩をきせてやるなんか馬鹿の骨頂だよ。――それで、貰ったが最後、なまけて、こっちの云うことなんかききやしないんだ。」
「朝鮮でも、満洲でも、――ヨボやチャンコロは吾々におじけて、ちり/\してるんだがな。」
 支配人は繰り返えした。
 汽車で席がない時、あとから乗り込んだ彼等が、さきから乗りこんでいるヨボを立たして、そこへ坐るのが当然とされている。それを、皆に思い出させながら、
「それが、こっちでは支那人が威張りくさってやがるんだ。やっぱし、ここにゃ、日本の軍隊がいないせいだな。」
 彼等は、満洲や朝鮮をゴロツク間に、不逞なヨボや、苦力が、守備隊の示威演習や、その狂暴な武力によって取っちめられてしまうのを、痛快に思いつつ目撃して来た。
 彼等は、ここに、そういう、日本帝国の守備隊が、来て呉れていないことを残念がった。
「しかし、物はなんでも比較の上の話ですよ。」
 幹太郎は、悪党に対して純なものの正しさを譲るまいと心がけながら云った。
「働くという点から較べると、日本人は到底支那人には及ばんですよ。それに、内地じゃ組合が出来たり、ストライキをやったりして労働者が、そうむちゃくちゃに、ひどい条件でこき使われて黙っちゃいなくなっていますよ。」
「そんなこた俺れゃ知らん。――そんなこたホヤホヤの君が知っているだけだよ。」小山は幹太郎がうぶいことを軽蔑した。「吾々が支那までやって来て、苦力のように働くってことがあるかね。吾々は奴等に仕事を与えているんじゃないか。ね。吾々が、こうしてこの土地に工場をこしらえなかったら、奴等は、ゼニを儲ける口もありゃせんのだよ。洋車(ヤンチョ)だって俺等が乗ってゼニを払わなかったら、誰れからゼニを貰うかね。それを、何を好んで、俺等が、奴等と同じレベルにまでなりさがって働くって法があるかい!そんなこた、それゃ、日本人の面汚しだぞ。」
「働くことが何で面汚しなんだ!」と幹太郎は考えた。「何てばかな奴だ。」
「もっと年を喰やア、君だって今に、分るんだ!」小山は呶鳴った。
 どうかした拍子に、田舎から、口を求めに出た男が、ひょっこりマッチ工場へ這入って来ることがある。
 垢に汚れた布団を肩に引っかけ、がらくたの炊事道具を麻袋(マアタイ)になでこんで、そいつを手にさげたままやって来た。巡警は前以って、内川の云いつけでそんな奴は門内に這入らせた。幹太郎がそういう奴の相手になった。
 内川は、幹太郎が支那語講座流の発音で話している間中、脇の方からその支那人を観察していた。
 おとなしくって、若い、丸々と肥えて、いくらでも働かし得る、そういう奴かどうかによって採否を決した。
 健康そうな、しかし、きれいではない、田舎出の若者が、一人採用される。と、その代りマッチ工場独特の骨壊疽(こつえそ)にかかった老人や、歯齦(はぐき)が腐って歯がすっかり抜け落ちてしまった勤続者や、たびたびの火傷(やけど)に指がただれ膿(う)んで、なりっぽのように、小さい物をつまみ上げることが出来ない女工が一人ずつ追い出されて行った。給料ぽッきりで。
 栄養不良と、日光不足(朝四時から夜七時まで作業)にもってきて、世界各国で禁止されている、最も有毒な黄燐を使うため、健康な肉体も、極めて短時日の間に、毒素に侵されてしまった。
 工人の出入は、はげしかった。一人が這入って来ると、一人が追い出された。それが度々繰り返された。そのうちに、一人の採用によって、工場中の支那人が、恐怖と不安に真蒼になることに幹太郎は気がついた。
 それは、解雇されそうな、ヒヨ/\の老人や、睨まれている連中だけじゃなかった。どうしても工場になくてはならない熟練工や、いたいけない、七ツか八ツの少年工や少女工までが、蒼くなって、どんよりとした、悲しげな眼で、生殺与奪の権を握っている日本人をだまっておがむように見るのだった。
 賃銀支払は、幹太郎がいくら懸命に話したところで、内川や小山は容れるどころじゃなかった。
「君は青二才だが、チャンコロのように雄弁だね。」
 小山は、そばに内川がひかえているのを意識しながら、皮肉に、鼻のさきで笑った。
「賃銀は、こっちから、めぐんでやる金じゃないんですよ。」と幹太郎は、喧嘩をするつもりで云った。「支払うべき金ですよ。労働は一つの商品ですからね。買ったものの代金を払うのは当然じゃないですか。」
 いくら人情に訴えたところで、きくような彼等じゃなかった。
「ふふむ、君は一体、支那人かね、ロシヤ人かね、――過激派の。」
「日本人ですよ。」
 幹太郎は、狂暴なものが、一時に、胸のなかで蠢(うごめ)くのを感じた。この二人に対してなにかしてやらねばならない!でなければ、胸のなかの苦痛は慰められない。だが、彼のやろうと思うことは、あまりに、結果がはっきりと分りすぎていた。
「日本人なら、日本人らしくしとり給え!」と小山は云った。「理屈ばかりじゃ、マッチは出来ねえんだから。」
「工人を見殺しにしちゃ、なお、マッチは出来ねえでしょう。」とうとうこらえていたものが、爆発してしまった。「泥棒! バクチ打ち!……」
 彼は、横の椅子を掴みあげた。ひょろ/\しながら、それを振り上げた。
 だが、内川は、豹のように立って来て、その椅子を取り上げた。
「馬鹿! 馬鹿! 何をするんだ猪川! 何をするんだ!……」
 幹太郎は扉の外へ押し出されてしまった。バタン! と扉が閉った。
「実際、あいつは、若いからね。」と、内川は緊張しきって、眼が怒っている小山に笑った。
「仕方のない奴だ。わしも、あいつのおふくろが気の毒だから、あれを使っているんだ。あいつの親爺はヘロ中だし、あいつはあいつで生意気だし、役に立たんが、ただ、あれのおふくろが気の毒でね……」

     七

 黄風(ホワンフォン)が電線に吠えた。
 この蒙古方面から疾駆して来る風は、立木をも、砂土をも、家屋をも、その渦のような速力の中に捲きこんで、捲き上げ、捲き散らかす如く感じられた。太陽は、青白くなった。人間は、地上から、天までの土煙の中で、自分の無力と、ちっぽけさに、ひし/\とちゞこまった。彼等は、いろ/\なことを考えた。
 支那、支那、何事か行われているが、収拾しきれない支那!
 ここの生活はのんきなようで、一番苦るしい。つらい!
 人間は、自分の通ってきた、これまでの生活が疵(きず)だらけであることを考えた。――ある者は、それを蔽いかくして生きて行かねばならぬと決心した。ある者は、自分で、自分の為したことにへたばった。
 俊だけは、憂鬱に物を考える人の中で、一人だけ、何も考えず、何も思わず、三歳の一郎をあやして、ふざけていた。
 一郎は、「テンチン」「テエアンチーン」など、支那語の片言をもとりかねる舌で、俊に菓子を求めた。
「一郎は、まるで、トシ子さんそっくりだわ。……それ、その天向きの可愛い鼻だって、眼もとだって、細長い眉だって」俊は嬉しげに笑った。彼女は、去った嫂(あによめ)と一番の仲よしだった。
「天下筋の通っている手相までが、そっくりなんだわよ!」
 俊は、嫂を去(い)なしてしまったことに不服を持っていた。その不服の対照は母だった。母は最初だけ、珍らしい内は、下にも置かないマゼ方をする。が、暫らくして、アラが見え出すと、それからは、徹底的にクサスのだ。俊は、それが大嫌いだった。
 彼女は、編んでやった一郎の毛糸のドレスの藁ゴミを指頭でツマミ取った。そして、倒れないように、肩を支えて子供を歩かしながら、兄の方へつれて行った。
 母は、工場が引けて帰る幹太郎を待ちかねていた。すゞがいないことは彼女を淋しがらせた。
「何ですか?」
 母の顔はそわ/\していた。
「一寸、油断しとったら、早や、王(ワン)が黙って、『快上快(クワイシャンクワイ)』を、持ち出して売ってるんだよ。」
「ふむ。」
「こないだだって、靴直しに三円持って行って、あれで、一円くらいあまっとる筈だのに自分で取りこんどるんだよ。」
「ま、ま、知らん顔をして黙っときなさい。」と、幹太郎は言った。「抽出しへは鍵をかけとかなけゃ!」
 第三号に侵され切った、竹三郎は、もうそんなことに神経が行き届かなくなってしまった。快い薬の匂いが体中に浸みこんでくる。彼は、毛のすり切れた、そして、いくらか、白らけた赤毛布の上に高い枕で横たわって、とけるように、まどろんだ。たゞ、自分の恍惚状態を夢のようにむさぼるばかりだ。ほかの一切にかゝずらわなかった。
 幹太郎は、俊が歩かして来た一郎を抱き上げた。
「こないだ、土匪が三人、捕まったんだってよ。」
「じゃ、また、さらし頸ね。」
 俊は嬉しげに笑った。彼女は徳川時代に於けるような、この野蛮なやり方に興味を持っていた。
「ところが、その土匪の一人は、もと愧樹(クワイシェ)の兵営に居った山東兵の中士だそうだよ。そいつが四人分の弾丸や鉄砲を持ち逃げして土匪の仲間入りをしていたのを捕まえて来たんだって。」
「愉快ね、軍曹が銃を持ってって土匪になるって、愉快ね。――面白いじゃないの、気みたいがいゝじゃないの。」
「たいがい、毎日、何か、乱が起るなア。」母は形だけの仏壇へ、燈明(とうみょう)をあげていた。
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