地図
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著者名:太宰治 

 そう思ひついた以上は彼はそれがどんな風にこの地図に記入されてあるかを知りたくてしやうがなかつた。謝源はその地図を蘭人に示して「もそつと、前に進んでこれを説明して呉れぬか」と言つた。両人は静かに前に進んで行つた。謝源は地図を下に置いて蘭人の説明を待つた。丈の高い方の蘭人はスラスラ説明をして行つた。「この青い所は海で……このとび色をして居る所が山で御座います。この地図は上の方は北で、下の方は南……」謝源はそんなことはどうでもよかつた。早く自分の領土がどこにあるかを知りたくてたまらなかつた。丈の高い蘭人は尚説明をし続けて行つた。「この北方の大きな国は夜国と申します。夜ばかり続くそうです。そのチヨツと下の大きな所はガルシヤと申します。ズーツとこつちに来ましてこの広い島はメリカンと申します……」謝源は可成失望をしてしまつた。目ぼしい大きい国は皆名さへ聞いたことのないものばかりであつたからだ。それでも彼は細いながらも望みをもつて居た。とうとう「ヨシヨシ。して、わしの領土は一体どこぢや」と聞いてしまつた。謝源はやがて蘭人が指さして呉れる大きな国を想像して居た。蘭人は少しためらつて居た。謝源はせきこんで「ウン一体どこぢや」と言つた。二人の蘭人は互に顔を見合せて何事かうなづき合つて居たが、やがて太つた方の蘭人がさも当惑したやうにして「サア、チヨツト見つかりませんやうです、この地図は大きい国ばかりを書いたものですから、あまり名の知れてない、こまかい国は記入してないかも知れません、現にこれには日本さへあるかなしのやうに、小さく書かれて居ますから……」とモヂモヂしながら言つた。
 謝源は「何ツ□」とたつた一こと低いが併し鋭く叫んだ。それきり呼吸が止つてしまつたやうな気がした。全身の血が一度に血管を破つて体外にほとばしり出たやうな感じがした。眼玉の上がズキンとなにかで、こ突かれたやうな気がした。全身がブルブル震つたことも意識した。彼はその蘭人の為に土足のまゝで鼻柱を挫かれたやうな思ひがした。今の蘭人の言葉は彼にとつては致命的な侮辱であつた。真赤な眼をして凍つたやうになつて、地図を穴のあく程みつめて居た。「名高くない小さい所は記入してないといふのか」彼はヤツとこれだけ言ふことが出来た。そしてキツト二人の蘭人を見つめた。蘭人達はあまりに変つた王の様子にタヾ恐ろしさの為に震つてばかり居た。そして「ハイ日本さへもこのやうに小さく出てるんですから」とやつと青くなりながら言つた。
 謝源はもうだまつて居ることが出来なくなつた。そして妙にフラフラになつて「郭光□ 酒だ□」といつた。郭光はあまりのことにボンヤリして「ハツ」と答へたが別に酒をついでやらうともしなかつた。「酒だといふに□」郭光はこの二度目の呼び声にハツと気がつき謝源のグツと差し出した大杯に少しく酒を注いだ。
 謝源はガブと一口飲んだ。濁酒の面には蝋燭の焔がチラホラとうつつて居た。実際それは彼にとつては火を飲むやうに苦しかつた。
 謝源は「ウーム」とうなつた。ホントに彼は今の所では唸るよりほかに、すべがなかつたのであらう。血ばしつたまなこで蘭人をヂツとにらめつけて居た。大広間の酔ぱらつて居る家来も流石に王のこの様子に気づいたのか急にヒツソリとなつた。殺気に満ちた静けさが長くつゞいた。やゝあつて謝源は何と思つたか丈の高い方の蘭人に彼の大杯をグイツと差しのべて「飲んで見ろ」と言つた。そして郭光に眼でついでやれと言ひつけた。その蘭人はさすがに狼狽した。そして「失礼でございませうが、私は日本の酒は飲めないんで……」と言つて、「イヒヽヽヽ」と追従笑ひをした。実際蘭人達は日本酒、殊にアルコール分の強い泡盛は飲めなかつたのである。
 謝源はカツとなつた。さつきのことばと言へ(ママ)、今の笑ひ声と言ひ明らかに自分を侮辱してると彼は一途に思ひつめた。「わしのやうな小国の王の杯は受けぬと言ふのか、恩知らず奴ツ」彼はこう叫ぶやいなや、その大杯を丈の高い蘭人の額にハツシとぶつけた。彼は何もかもわからなくなつた。傍にあつた刀をとり上げて鞘を払つた。立ち上つた。刀をめちやくちやに振り廻した。蘭人二人の首は飛んだ。これらのことは皆同時になつて表はれたと、いつてもいゝ程であつた。やゝあつて謝源はニヨツキリとつつ立つたまゝ「恩知らずツ馬鹿ツたわけめツ」とあらゆる罵声を首のない二人の死骸にあびせかけて居た。もう酒宴どころの騒ぎではなかつた。家来はたゞあはて、ふためいて居るばかりであつた。やゝあつて謝源の心は少しく落ちついて来た。彼は力なげに外をながめた。
 月が出たのかそれらは一面に白くあかるかつた。夜露にしめつた秋草の葉は月の光で青白くキラキラ光つて居た。
 虫の声さへ聞えて居た。
 謝源はもうシ(ママ)ツカリ自暴自棄に陥つて居た。
 地図にさへ出てない小さな島を五年もかゝつて、やつと占領した自分の力のふがひなさにはもう呆れ返つて居た。謝源は人が自分の力に全く愛想をつかした時程淋しいことはあるものでないと考へた。彼は男泣きに大声をあげて泣いてしまひたかつた。波の音がかすかにザザザと聞えて居た。裏の甘蔗畑が月に照らされて一枚一枚の甘蔗の葉影も鮮やかに数へることが出来た。そして謝源にはその青白い色をして居る畑が自分を冷笑して居るやうにも見えた。若しこの時謝源が空を見上げたならば、もう一つの気味の悪い大きな星が彼の丁度頭の上で、さつきと同じやうに長い尾を引いて流れたのを見たことであつたらう。
 彼は長い間ボンヤリ立つて居た……

 謝源の乱行は日増に甚だしくなつて行つた。
 飲酒、邪淫、殺生その他犯さぬ悪さとてなかつた。この時に於ける郭光の切腹して果てたことも謝源の心に何の反省も与へては呉れなかつた。
 中にも土民狩と言つて人民を小鳥か何かのやうに取扱ひ弓等で射殺し、今日は獲物が不足だつたとか、多かつたとかで喜んで居たりしたことは鬼と言つてもまだ言ひ足りない気がする位である。人民の呪詛もひどかつた。
 一人として王を恐れ且つ憎まぬ者はないやうになつた。そして人民は皆「王が石垣島を占領した功に誇り、慢心を起し遂にこんなになつてしまつたのだ」と口々に言つて居た。
 若し謝源がこれを聞いたならキツと心からの苦笑を洩らしてしまふにちがひない。

 こんなフウだつたからそれから一年もたゝぬ中に石垣島のもとの兵に首里が襲はれて易々と復讐されたのは言ふまでもないことである。併し謝源は少しも残念がる様子もなく或夜コツソリと一そうの小舟で首里からのがれて行つた。どこに行つたか一人も知つて居るものがなかつた。
 たゞ数ヶ月の後、石垣島の王のやしきの隅にその頃日本では、なかなか得ることの出来なかつた世界の地図が落ちてあるのを家来の一人が発見した。誰がどんな理由で持つて来てここのやしきの中に投げこんで行つたのか無論わからなかつた。そしてその地図の所々に薄い血痕のやうなものが付いて居た。石垣島の王はそれを、たいへん珍らしがつて保存して置いたことであらう。




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