虚構の春
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著者名:太宰治 

たらいの中には桜貝(さくらがい)の櫛(くし)と笄(こうがい)が浮んでいるだけであった。雪女、お湯に溶けてしまった、という物語。私は尚も言葉をつづけて、私、考えますに葛(くず)の葉の如く、この雪女郎のお嫁が懐妊(かいにん)し、そのお腹をいためて生んだ子があったとしたなら、そうして子供が成長して、雪の降る季節になれば、雪の野山、母をあこがれ歩くものとしたなら、この物語、世界の人、ことごとくを充分にうっとりさせ得ると、信じて居る。そう言いむすんだとき、見よ、世界の人の中のひとり、私の先輩も、頬を染めて浮かれだし、サロンの空気がたいへんパッショネエトにされてしまって、いつしか、私のひめにひめたるお湯にも溶けぬ雪女について問われるがままに語って聞かせて居たのである。
 ――年齢。
 ――十九です。やくどしです。女、このとしには必ず何かあるようです。不思議のことに思われます。
 ――小柄だね?
 ――ええ、でもマネキン嬢にもなれるのです。
 ――というと?
 ――全部が一まわり小さいので、写真ひきのばせば、ほとんど完璧(かんぺき)の調和を表現し得るでしょう。両脚がしなやかに伸びて草花の茎のようで、皮膚が、ほどよく冷い。
 ――どうかね。
 ――誇張じゃないんです。私、あのひとに関しては、どうしても嘘をつけない。
 ――あんまり、ひどくだましたからだ。
 ――おどろいたな。けれども、全く、そうなんです。私、二十一歳の冬に角帯(かくおび)しめて銀座へ遊びにいって、その晩、女が私の部屋までついて来て、あなたの名まえなんていうの? と聞くから、ちょうど、そこに海野三千雄、ね、あの人の創作集がころがっていて、私は、海野三千雄、と答えてしまった。女は、私を三十一、二歳と思っているらしく、もすこし有名の人かと思った、とほっと肩を落して溜息をついて、私は、あのときぐらい有名になりたく思ったことございませぬ。のどが、からから枯渇(こかつ)して、くろい煙をあげて焼けるほどに有名を欲しました。海野三千雄といえば、ひところ文壇でいちばん若くて、いい小説もかいていました。その夜から、私、学生服を着ている時のほかには、どこへ行っても、海野三千雄で、押しとおさなければならなくなった。いちど、にせものをつとめると、不安で不安で夜のめも眠れず、それでいて、そのにせもの勤めをよそうとはせず、かえって完璧の一点のすきのないにせものになろうと、そのほうにだけ心をくだくものです。不思議なものです。
 ――面白いね。つづけたまえ。
 ――たった一度きりの女なら、海野三千雄もよろしゅうございましょうが、二度、三度逢(あ)っているうちに、窮屈になって、ひとりで悶悶転転いたしました。女は、その後、新聞の学芸欄などに眼をとおす様子で、きょう、あなたの写真が出ていた。ちっとも似ていない。どうして、あんなに顔をしかめるの? 私、お友達に笑われちゃった。
 ――君は、むかし、なにか政治運動していたとか、そのころのことかね?
 ――は、そうです。私、文化運動は性に合わず、殊(こと)にもプロレタリヤ小説ほど、おめでたいものはないと思っていましたから、学生とは、離れて、穴蔵の仕事ばかりをしていました。いつか、私の高等学校時代からの友人が、おっかなびっくり、或る会合の末席に列していて、いまにこの辺、全部の地区のキャップが来るぞと、まえぶれがあって、その会合に出ているアルバイタアたちでさえ、少し興奮して、ざわめきわたって、或る小地区の代表者として出席していた私のその友人は、もう夢みるような心地(ここち)で、やがて時間に一秒の狂いもなく、みしみし階段の足音が聞えて、やあ、といいながらはいって来たひょろ長い男の顔が、はじめは、まぶしくて、はっきり見えなかったが、よく見ると、その金ぶち眼鏡のにやけた男が、まごうかたなき、私、ええ、この私だったので、かれ、あのときのうれしさは忘(ぼう)じがたいと、いまでもよく申しています。天にも昇るうれしさだったそうです。もちろんそのときには、ちらと瞳で笑い合ったきりで、お互い知らんふりをしていました。あんな運動をして、毎日追われてくらしていて、ふと、こちらの陣営に、思いがけない旧友の顔を見つけたときほど、うれしいことがございませぬ。
 ――よく、つかまらなかったね。
 ――ばかだから、つかまるのです。また、つかまっても、一週間やそこらで助かる手もあるのです。そのうちに私、スパイだと言われたり何かして、いやになって、仲間から、逃げることだけ考えていました。そのころは、毎夜、帝国ホテルにとまっていました。やはり作家、海野三千雄の名前で。名刺(めいし)もつくらせ、それからホテルの海野先生へ、ゲンコウタノムの電報、速達、電話、すべて私自身で発して居りました。
 ――不愉快なことをしたものだね。
 ――厳粛なるべき生活を、茶化して、もてあそびものにしているのが、不愉快なのでしょう。ごもっともでございますが、当時、そんなことでもしなければ、私、おそらくは三十種類以上の原因で、自殺してしまっています。
 ――でも、そのときだって、やっぱり、情死おこなったんだろう。
 ――ええ、女が帝国ホテルへ遊びに来て、僕がボオイに五円やって、その晩、女は私の部屋へ宿泊しました。そうして、その夜ふけに、私は、死ぬるよりほかに行くところがない、と何かの拍子に、ふと口から滑り出て、その一言が、とても女の心にきいたらしく、あたしも死ぬる、と申しました。
 ――それじゃあ、あなたと呼べば死のうよと答える、そんなところだ。極端にわかりが早くなってしまっている。君たちだけじゃないようだぜ。
 ――そうらしいのです。私の解放運動など、先覚者として一身の名誉のためのものと言って言えないこともなく、そのほうで、どんどん出世しているうちは、面白く、張り合いもございましたが、スパイ説など出て来たんでは、遠からず失脚ですし、とにかく、いやでした。
 ――女は、その後、どうなったね?
 ――女は、その帝国ホテルのあくる日に死にました。
 ――あ、そうか。
 ――そうなんです。鎌倉の海に薬品を呑んで飛びこみました。言い忘れましたが、この女は、なかなかの知識人で、似顔絵がたいへん巧(うま)かった。心が高潔だったので、実物よりも何層倍となく美しい顔を画き、しかもその画には秋風のような断腸(だんちょう)のわびしさがにじみ出て居りました。画はたいへん実物の特徴をとらえていて、しかもノオブルなのです。どうも、ことしの正月あたりから、こう、泣癖がついてしまって、困って居ります。先日も、佐渡情話とか言う浪花節(なにわぶし)のキネマを見て、どうしてもがまんができず、とうとう大声をはなって泣きだして、そのあくる朝、厠(かわや)で、そのキネマの新聞広告を見ていたら、また嗚咽(おえつ)が出て来て、家人に怪しまれ、はては大笑いになって、もはや二度と、キネマへ連れて行けぬという家人の意見でございました。もう、いいのです。つづきを申しましょう。十年まえの話です。なぜ、あのとき、私が鎌倉をえらんだのか、長いこと私の疑問でございましたが、きのう、ほんの、きのう、やっと思い当りました。私、小学生のころ、学芸大会に、鎌倉名所の朗読したことがございまして、その折、練習に練習を重ねて、ほとんど諳誦できるくらいになってしまいました。七里ヶ浜の磯(いそ)づたい、という、あの文章です。きっと子供ながら、その風景にあこがれ、それがしみついて離れず、潜在意識として残っていて、それが、その鎌倉行になってあらわれたのではなかろうかと考え、わが身を、いじらしく存じました。鎌倉に下車してから私は、女にお金を財布(さいふ)ぐるみ渡してしまいましたが、女は、私の豪華な三徳(さんとく)の中を覗(のぞ)いて、あら、たった一枚? と小声で呟(つぶや)き、私は身を切られるほど恥かしく思ったのを忘れずに居る。私は、少しめちゃめちゃになって、おれはほんとうは二十六歳だ、とそれでも、まだ五歳も多く告白してみせましたが、女は、たった二十六? といって黒めがちの眼をくるっと大きく開いて、それから指折りかぞえ、たいへん、たいへん、と笑いながら言って、首をちぢめて見せましたが、なんの意味だったのかしら、いまさら尋ねる便りもございませんが、たいへん気にかかります。
 ――あかるいうちに飛び込んだのかね?
 ――いいえ。それでも名所をあるきまわって、はちまん様のまえで、飴(あめ)を買って食べましたが、私、そのとき右の奥歯の金冠二本をだめにしてしまって、いまでもそのままにして放って置いてあるのですが、時々、しくしくいたみます。
 ――ふっと思い出したが、ヴェルレエヌ、ね、あの人、一日、教会へ韋駄天走(いだてんばし)りに走っていって、さあ私は、ざんげする、告白する、何もかも白状する、ざんげ聴聞僧(ちょうもんそう)は、どこに居られる、さあ、さあ私は言ってしまう、とたいへんな意気込で、ざんげをはじめたそうですが、聴聞僧は、清浄の眉をそよとも動(そよ)がすことなく、窓のそとの噴水を見ていて、ヴェルレエヌの泣きわめきつつ語りつづけるめんめんの犯罪史の、一瞬の切れ目に、すぽんと投入した言葉は、『あなたはけものと交った経験をお持ちですか?』ヴェル氏、仰天して、ころげるようにして廊下へ飛び出し、命からがら逃げかえったそうで、僕は、どうも、人のざんげを聞くことが得手(えて)じゃないのです。いまはやりの言葉で言えば心臓が弱いのです。かの勇猛果敢なざんげ聴聞僧の爪のあかでも、せんじて呑みたいほうで、ね。
 ――ざんげじゃない。のろけじゃない。救いを求めているのでもない。私は、女の美しさを主張しているのです。それだけの事です。こうなって来ると、お仕舞いまで申しあげます。女は、歩きながら、ずいぶん思いつめたような口調で、かえらない? と小声で言った。あたしは、あなたのおめかけになります。家から一歩も外へ出るな、とあれば、じっとして、うちに隠れて居ります。一生涯、日かげ者でもいいの。私は、鼻で笑った。人の誠実を到底理解できず、おのれの自尊心を満足させるためには、万骨を枯らして、尚、平然たる姿の二十一歳、自矜(じきょう)の怪物、骨のずいからの虚栄の子、女のひとの久遠の宝石、真珠の塔、二つなく尊い贈りものを、ろくろく見もせず、ぽんと路のかたわらのどぶに投げ捨て、いまの私のかたちは、果して軽快そのものであったろうか、などそんなことだけを気にしている。
 ――はははは。今夜はなかなか能弁だね。
 ――笑いごとではないのです。そのような奇妙な、『ヴァイオリンよりは、ケエスが大事式』の、その方面に於ける最もきびしい反省をしてみるのでした。江の島の橋のたもとに、新宿へ三十分、渋谷へ三十八分と、一字一字二尺平方くらいの大きさで書かれて居る私設電車の絵看板、ちらと見て、さっさと橋をわたりはじめた。からころと駒下駄(こまげた)の音が私を追いかけ、私のすぐ背後まで来てから、ゆっくりあるいて、あたし、きめてしまいました。もう、大丈夫よ、先刻までの私は、軽蔑されてもしかたがないんだ。
 ――非常に素直な人なんだね。
 ――そうです、そうです。判って呉れましたね? やっぱり、お話し申しあげてよかった。もっと、もっと聞いて下さい。
 ――よし。ぜひとも、聞かせて下さい。竹や、お茶。
 ――飛びこむよりさきにまず薬を呑んだのです。私が呑んで、それから私が微笑(ほほえ)みながら、姫や、敵のひげむじゃに抱かれるよりは、父と一緒に死にたまえ。少しも早う、この毒を呑んで死んでお呉れ。そんなたわむれの言葉を交(かわ)しながら、ゆとりある態度で呑みおわって、それから、大きいひらたい岩にふたりならんで腰かけて、両脚をぶらぶらうごかしながら、静かに薬のきく時を待って居ました。私はいま、徹頭徹尾、死なねばならぬ。きのう、きょう、二日あそんで、それがため、すでに、かの穴蔵の仕事の十指にあまる連絡の線を切断。組織は、ふたたび収拾し能(あた)わぬほどの大混乱、火事よりも雷よりも、くらべものにならぬほどの一種凄烈(せいれつ)のごったがえし。それらの光景は、私にとって、手にのせて見るよりも確実であった。キャップの裏切。逃走。そのうえに、海野三千雄のにせ者の一件が大手をひろげて立っていた。女に告白できるくらいなら、それができるたちの男であったなら二十一歳、すでにこれほど傷だらけにならずにすんで居たにちがいない。やがて女は、帯をほどいて、このけしの花模様の帯は、あたしのフレンドからの借りものゆえ、ここへこうかけて置こうと、よどみなく告白しながら、その帯をきちんと畳んで、背後の樹木に垂れかけ、私たちは、たいへんやわらかな、おっとりした気持ちで、おとなしく話し合い、それから、城ヶ島とおぼしきあたり、明滅する燈台の灯を眺めていました。どんな話をしたでしょうか。自分でも忘却してしまいましたが、私自身が、女に好かれて好かれて困るという嘘言を節度もなしに、だらだら並べて、この女難の系統は、私の祖父から発していて、祖父が若いとき、女の綱渡り名人が、村にやって来て、三人の女綱渡りすべて、祖父が頬被(ほおかぶ)りとったら、その顔に見とれて、傘かた手に、はっと掛声かけて、また祖父を見おろし、するする渡りかけては、すとんすとんと墜落するので、一座のかしらから苦情が出て、はては村中の大けんかになったとさ等、大嘘を物語ってやって、事実の祖父の赤黒く、全く気品のない羅漢(らかん)様に似た四角の顔を思い出し、危く吹き出すところであった。女は、信じて、それでは、私は、八人の女のひとにうらまれる訳なのね。(ひとりもいやしない)ああ、私は仕合せだ。『勝利者』と、うっとりつぶやいて星空を見あげていました。突然、くすりがきいてきて、女は、ひゅう、ひゅう、と草笛の音に似た声を発して、くるしい、くるしい、と水のようなものを吐いて、岩のうえを這(は)いずりまわっていた様子で、私は、その吐瀉物(としゃぶつ)をあとへ汚くのこして死ぬのは、なんとしても、心残りであったから、マントの袖(そで)で拭いてまわって、いつしか、私にも、薬がきいて、ぬらぬら濡れている岩の上を踏みぬめらかし踏みすべり、まっくろぐろの四足獣、のどに赤熱(しゃくねつ)の鉄火箸(かなひばし)を、五寸も六寸も突き通され、やがて、その鬼の鉄棒は胸に到り、腹にいたり、そのころには、もはや二つの動くむくろ、黒い四足獣がゆらゆらあるいた。折りかさなって岩からてんらく、ざぶと浪(なみ)をかぶって、はじめ引き寄せ、一瞬後は、お互いぐんと相手を蹴飛ばし、たちまち離れて、謂(い)わば蚊(か)よりも弱い声、『海野さあん。』私の名ではなかった。十年まえの師走(しわす)、ちょうどいまごろの季節の出来ごとです。
 ――なるほど、なるほど、おい、竹や。ウオトカ。
 ――太宰さん。白ばくれちゃいけない。私のこの話を、どう結んでくれるのです。これは勿論、あなたの身の上じゃない。みんな私の身の上だ。けれども、私はこれを発表するときに、雑誌社だって考えます。どこの鰯(いわし)の頭か知れない男の告白よりは、ぱっとしないが、とにかく新進の小説家、太宰さんの、ざんげ話として広告したいところです。この私の苦心の創作を買って下さい。同文の予備役、なお、こちらに三冊ございます。その三冊とも、五十円は、安い。太宰さん。おどろいたでしょう? みんなウソ。おどかしてみたのさ。おどろいた? ずっとまえに、君が私とお酒のみながら、この話、教えて呉れたじゃないか。きょう、日曜の雨、たいくつでたまらぬが、お金はなし、君のとこへも行けず、天候の不満を君に向けて爆破、どうだ、すこしは、ぎょっとしたか。このぶんでは、僕も小説家になれそうだね。はじめの感想文は、あれは、支那のブルジョア雑誌から盗んだものだが、岩の上の場面などは僕が書いた。息もつかせぬ名文章だったろう。これから、一時間、文士になろうかどうか思い迷ってみることにする。失礼。おからだ気をつけて。こんどの日曜日に行く。うちから林檎(りんご)が来ているが、取りに来て下さい。清水忠治。叔父上様。」

 月日。
「謹啓。文学の道あせる事無用と確信致し居る者に候(そうろう)。空を見、雑念せず。陽と遊び、短慮せず。健康第一と愚考致し候。ゆるゆる御精進おたのみ申し上候。昨日は又、創作、『ほっとした話』一篇、御恵送被下(くだされ)厚く御礼申上候。来月号を飾らせていただきたく、お礼如此(かくのごとくに)御座候。諷刺文芸編輯部、五郎、合掌。」

 月日。
「お手紙さしあげます。べつに申しあげることもないのでペンもしぶりますが読んでいただければ、うれしいと思います。自分勝手なことで大へんはずかしく思いますがおゆるしください。御記憶がうすくなって居られると考えますが、二月頃、新宿のモナミで同人雑誌『青い鞭(むち)』のことでおめにかかり、そしてその時のわかれ方が非常に本意なく思われて、いつもすまなく感じていて、自分ひとりでわるびれた気持になっています。いつかお詫(わ)びの手紙を出そうと念じながらも、ひとりぎめの間のわるさの為(ため)に、出しそびれて、何かのきっかけをと思い、あなたの『晩年』とかいうのが出たら、そのときのことにしようと最近心にきめていましたところ、今日、本屋であなたの一文を拝見して、無しょうにかなしくなり、話しかけたくなりました。それでも、心のどこかで、びくびくしていて、こまります。あの夜、僕はとりみだし荒(すさ)んだ歩調で階段を降りました。そしてそのとりみだし方も純粋でなかったようではずかしく、思いだしては、首をちぢめています。その夜、斎藤君はおもわせぶりであるとあなたにいわれたために心がうつろになり、さびしくなっていて、それだけですでにおろおろして居たのです。僕が帰ることになったとき、先に払った同人費を還(かえ)すからというとき、僕は心の中で、五円儲(もう)かった、と叫んだのです。そして、何か云われたのに、二円五十銭ずつ二回に払ったのですが、と答えたときの自分自身の見えすいた狡(ずる)さのために、自らをひくくしたはずかしさと棄鉢(すてばち)をおぼえました。そればかりでなく、五円儲かったということばは、その二三日前によんだ貴作『逆行』の中にあることばがそのままにうかんだしろものに過ぎず、新宿駅のまえでぼんやりして居りました。あのはげしかった会合のことがらをはっきりと掴(つか)めもせずに、自分の去就(きょしゅう)についてどうしたら下手(へた)をやらずにすむかを考えていたようでした。駅のまえで、しばらく、白犬のようにうろうろして、このまま下宿へ帰ろうかと考えましたが、これきりあなた達と別れてしまうのかと思われてさびしくなりました。今すぐ会場へ引返してみたところで、(充分の考慮もせず、ただ、足手まといになるつもりか、)と叱られるくらいがおちであろうと、永いことさまよいました。人に甘え、世に甘え、自分にないものを、何かしらん、かくし持ってあるが如くに見せかける、その思わせぶりを、人もあろうに、あなたに指さされ、かなしかった。ああ、めそめそしたことを書いて御免下さい。私は、その夜の五円を、極めて有効に、一点濁らず、使用いたしました。生涯の記念として、いまなお、その折のメモを失くさず、『青い鞭』のペエジの間にはさんで蔵して在るのです。三銭切手十枚、三十銭。南京豆(ナンキンまめ)、十銭。チェリイ、十銭。みのり、十五銭。椿(つばき)の切枝二本、十五銭。眼医者、八十銭。ゲエテとクライスト、プロレゴーメナ、歌行燈(うたあんどん)、三冊、七十銭。鴨肉(かもにく)百目、七十銭。ねぎ、五銭。サッポロ黒ビイル一本、三十五銭。シトロン、十五銭。銭湯、五銭。六年ぶりで、ゆたかでした。使い切れず、ポケットには、まだ充分に。それから一年ちかく、二三度会った太宰治のおもかげを忘じがたく、こくめいに頭へ影をおとしている面接の記憶を、いとおしみながら、何十回かの立読みをつづけて来た。一言半句、こころにきざまれているような気がしています。本屋から千葉の住所を諳記して来てかきとって置いたのが去年の八月である。それを役立てることが今迄できなかったけれども。『太宰どん! 白十字にてまつ。クロダ。』大学の黒板にかかれてあったのは、先日であったろうか。『右者事務室に出頭すべし、津島修治。』文学部事務所にその掲示は久しくかけられてあった。僕は太宰治を友人であるごとくに語り、そして、さびしいおもいをした。太宰治は芸術賞をもらわなかった。僕は藤田大吉という人の作品を決して読むまいと心にちかった。僕は、そんなに他人の文章を読まないけれども、道化の華(はな)、ダス・ゲマイネ、理解できないのではなく、けれども満足ができなかった。之(これ)は、書くぞ、書くぞという気合と気魄(きはく)の小説である。本物の予告篇だと思っていた。そして今に本物があらわれるかと、思っていると、その日その日が晩年であった、ということばがほんとうなのかとうたがわれて来た。健康をそこね、写真はすきとおってやせていた。そして、太宰治は有名になり、僕は近づけない気がした。僕には、道化の華が理解できないのだと思った。僕は太宰治に、ヴァイオリンのようなせつなさを感ずるのは、そのリリシズムに於てであった。太宰治の本質はそこにあるのだと、僕は思っている。それが間違いであるといわれても、僕はなかなか、この考えを捨てまいと思っている。リリシズムの野を出でて、いばらに裂(さ)かれた傷口に布をあてずに、あらわに、陽にさらしている、痛々しさを感じてならない。二月の事件の日、女の寝巻について語っていたと小説にかかれているけれども、青年将校たちと同じような壮烈なものを、そういう筆者自身へ感じられてならない。それは、うらやましさよりも、いたましさに胸がつまる。僕は、何ごとも、どっちつかずにして来て、この二年間で法科の課程を三分の一、それも不充分にしか卒(お)えていない。しかも、他に、なにもできないのであった。そういった、アマツール的な気持からは、ただ、太宰治のくるしみを、肉体的に感じてくるばかりで、傍観者として呆然(ぼうぜん)としているばかりである。僕自身へ巣くう生半可な態度は、おそらくいつまでもつづくことと思われます。僕の健康は、人に思われてるほど、わるくはないと思うけれども、何事にも、本気になれない。二三日、何事かへ本気になったならば、僕自身をほろぼしてしまいそうでならない。本気になれぬ。そういうことで、勿論(もちろん)、何事も出来る筈はないけれども、それで、ごく、満足しています。『ユーモアについて。』と題し、中学時代のあなたの演説を、ぼくは、中学校一の秀才というささやきと、それから、あなたの大人びたゼスチュア以外におもいだせないけれども、多くの人達は、太宰治をしらずに、青森中学校の先輩津島修治の噂(うわさ)をします。青森の新町の北谷の書店の前で、高等学校の帽子をかぶっていたのへ、中学生がお辞儀した。あなたはやはり会釈(えしゃく)を返したとき、こちらが知っているのに、むこうが知らないことはさびしいと思ったが、あなたに返礼されただけでそれでもいささか満足であった。僕は、今年で大学を終らなければならないけれども、出来るかどうかあやぶまれますけれども、卒業することにきめて居ります。文学といえばじつのあることは少しも出来るはずなく、風景や女の人にみとれてくらしています。『双葉』という少女雑誌で僕の皿絵という小説がおめにふれたとすればと汗するおもいがしました。(岩切)という人にあって聞きました。トラホームだの頸腺腫(けいせんしゅ)だのX彎曲(わんきょく)だの、というくだりは、あなたに、いい、といわれたばかりに、どこへでも持って歩いていたのです。『新ロマン派』で追記風にある同人雑誌(名だかくない)のある人をほめていたことばを見て、ねたましく思ったこともあります。何をかいたか、自信がありません。これだけでもうヘトヘトです。毎日毎日つかれている。何ごとをするのでもなく。
 ほとんど休んでばかり居れば日曜もたのしくなく、夜ねても、一日がおわったといういこいではなくて、あしたがあるというつかれを覚えています。健康をねがって終日をくらす。今は、弱いというだけで病気はありません。老人のごとき皮膚をあわれみ、夜裸身に牛乳をあびる。青春を得るみちなきかと。非常に、失礼な手紙だと思います。文体もあやふやで申しわけありません。でもほっとしています。明日の朝になれば、だせなくなるといけませんから、すぐだします。おひまのときに、おたより、いただけたらと思います。おからだお大事にねがいます。斎藤武夫拝。太宰治様。」
「御手紙拝見。お金の件、お願いに背(そむ)いて申し訳ないが、とても急には出来ない。実は昨年、県会議員選挙に立候補してお蔭で借金へ毎月可成(かなり)とられるので閉口。選挙のとき小泉邦録君から五十円送って貰った。これだけでも早くお返ししたいと思い乍(なが)ら未(いま)だにお返し出来ずにいる始末。五十円位の金が出来ないのは何んとも羞(はずか)しいがさりとて、その辺を借金に廻るのは小生には、ちょっと出来ない。貴兄が小生の友情を信じて寄せた申越しに対し重ね重ねすまない。しかし出来ないことをねちねちしているのも嫌だから早速(さっそく)この手紙を書いた次第。悪く思わないでくれ。小生昨今、文学にしばらく遠ざかっているので、貴兄の活躍ぶりも詳しくは接していないが、貴兄の力には期待して居りますので必ずや相当以上の活動をしていることと思って居ります。返す返す済まないが、右の事情を御賢察のうえ御寛恕(かんじょ)下さい。しかし貴兄から、こう頼まれたが、工面出来ないかと友達連に相談をかけても良いものならばまた可能性の生れて来る余地あるやも知れぬが、これは貴兄に対する礼儀でないと思うので……右とり急ぎ。辻田吉太郎。太宰兄。」
「手紙など書き、もの言わんとすれば君ぞありぬる。ああ、よき友よ。家内にせんには、ちと、ま心たらわず、愛人とせんには縹緻(きりょう)わるく、妻妾(さいしょう)となさんとすれば、もの腰粗雑にして鴉声(あせい)なり。ああ、不足なり。不足なり。月よ。汝、天地の美人よ。月やはものを思わする。吉田潔。」

 月日。
「太宰治さん。再々悪筆をお目にかける失礼、お許し下さいまし。一つには私たちの同人雑誌『春服』が、目茶苦茶になりかかった、わびしさから、二つには、ぼく自身のステールネスから、最後に、あなたがぼく如きものに好意をお持ち下され居る由、昨晩の松村と云う『春服』同人の手紙が伝えてくれたので、加うるに性来の図々(ずうずう)しさを以(もっ)て、御迷惑を省みず、狎書(こうしょ)を差し上げる次第です。友人の松村と言う男が、塩田カジョー、関タッチイ、大庄司清喜、この三人そろって船橋のお宅へお邪魔した際の拙作に関するあなたの御意見、あとでその三人から又聞きしたのを、そのまま私へ知らせてよこしました。亦(また)、『新ロマン派』十二月号にも拙作に関する感想をお洩(もら)しになったこと、『新潮』一月号掲載の貴作中、一少女に『春服』を携えさせたこと等、あなたの御心づかいを伝えてくれました。早速、今日、街の五六軒の本屋をまわって、二誌を探したのですが、『新潮』はどこでも売切れてばかりいましたし、『新ロマン派』は来ていない模様でした。ぼくはあなたに御礼を書くのではないのです。御礼だけかいて、済まして居られる身分になれたら、それはすがすがしいことです。が、きいて頂きたいことがあるのだ、相談にのって頂きたい、力になって貰いたい、と手前勝手な台辞(せりふ)ばかりならべるのは、なんとも恥しい話です。あなたはカジョーに、ぼくの、経歴人物について、きいて下さったかも知れません。が、カジョーは多分、あいつは宣伝の好きな男だから……けれども、これはカジョーへの悪意ではありません。ぼくの自己弁解です。ぼくは幼年時、身体が弱くてジフテリヤや赤痢で二三度昏絶(こんぜつ)致しました。八つのとき『毛谷村六助』を買って貰ったのが、文学青年になりそめです。親爺(おやじ)はその頃妾(めかけ)を持っていたようです。いまぼくの愛しているお袋は男に脅迫されて箱根に駈落(かけおち)しました。お袋は新子と名を改めて復帰致しました。ぼくの物心ついた頃、親爺は貧乏官吏から一先ず息をつけていたのですが、肺病になり、一家を挙げて鎌倉に移りました。父はその昔、一世を驚倒(きょうとう)せしめた、歴史家です。二十四歳にして新聞社長になり、株ですって、陋巷(ろうこう)に史書をあさり、ペン一本の生活もしました。小説も書いたようです。大町桂月(けいげつ)、福本日南等と交友あり、桂月を罵(ののし)って、仙をてらう、と云いつつ、おのれも某伯、某男、某子等の知遇を受け、熱烈な皇室中心主義者、いっこくな官吏、孤高狷介(けんかい)、読書、追及、倦(う)まざる史家、癇癪持(かんしゃくもち)の父親として一生を終りました。十三歳の時です。その二年前、小学六年の時、ぼくの受持教師は鎌倉大仏殿の坊主でした。その影響で、ぼくは別荘の坊ちゃんとしての我儘(わがまま)なしたいほうだいを止めて、執偏奇的な宗教家、神秘家になりました。ぼくは現実に神をみたのです。一方、豆本熱は病こうこうに入って、蒐集(しゅうしゅう)した長篇講談はぼくの背を越しました。作文の時間には指名されて朗読しました。『新聞』と云う題で夕刊売の話を書き級中を泣かせました。俳句を地方新聞にも出されました。ぼくは幼ないジレッタント同志で廻覧雑誌を作りました。当時、歌人を志していた高校生の兄が大学に入る為(ため)帰省し、ぼくの美文的フォルマリズムの非を説いて、子規の『竹の里歌話』をすすめ、『赤い鳥』に自由詩を書かせました。当時作る所の『波』一篇は、白秋(はくしゅう)氏に激賞され、後選ばれて、アルス社『日本児童詩集』にのりました。父が死んだ年、兄は某中学校に教べんを取りました。父の死は肺病の為でもあったのですが、震災で土佐国から連れてきた祖父を死なし、又祖父を連れてくる際の、口論の為、叔父の首をくくらし、また叔父の死の一因であった従弟(いとこ)の狂気等も原因して居たかも知れません。加えて、兄のソシャリストになった心痛もあったでしょう。事実兄は、ぼくを中学の寄宿舎に置くと、一家を連れて上京、自分は××組合の書記長になり、学校にストライキを起しくびになり、お袋達が鎌倉に逃げかえった後も、豚箱から、インテリに活動しました。同志の一人はうちに来て、寄宿から帰ったぼくと姉を兄貴への心服の上に感化しました。三・一五が起り、兄は転向、結婚、嫁と母の仲悪るく、兄夫婦はぼく達を置いて東京で暮していました。人道主義的なマルキストであり、感傷的な文学少年、数学の出来なかったぼくは、ひどい自涜(じとく)の為もあったのでしょう、学校に友達なく、全く一人で、姉、近所のW大生、小学時代の親友、兄夫婦も加えて、プリント雑誌『素描』を二年続けました。兄の運動の為、父の財産はなくなり、鎌倉の別荘は人に貸し、一家は東京に舞い戻り、兄夫婦も一緒になりました。中学の終りからテニスを始めていたぼくは、テニスのおかげで一夜に二寸ずつ伸びる思いで、長身、肥満、W高等学院、自涜の一年を消費した後、W大学ボート部に入りました。一年後ぼくはレギュラーになり、二年後、第十回オリンピック選手としてアメリカに行きました。当時二十歳、六尺、十九貫五百、紅顔の少年であります。ボートは大変下手(へた)でした。先輩ばかりでちいさくなっていました。往復の船中の恋愛、帰ってきたぼくは歓迎会ずくめの有頂天さのあまり、多少神経衰弱だったのです。ぼくが帰国したとき、前年義姉を失った兄は、家に帰り、コンムニュスト、党資金局の一員でした。あにを熱愛していたぼくは、マルキシズムの理論的影響失せなかったぼくは、直に共鳴して、鎌倉の別荘を売ったぼくの学費を盗みだして兄に渡し、自分も学内にR・Sを作りました。関タッチイはそのメンバーであり、彼の下宿はアジトでした。その頃、自殺を企て、実行もした元気のない塩田カジョーと知り合ったのです。タッチイがへまをしてつかまりました。タッチイは頑張(がんば)ってくれたのでしたが、ぼくは、その前から家を飛びだしもぐっていた兄にならって、殆(ほと)んど狂気しかかっているヒステリイの母をみすてて、ぼくも一週間、逃げ歩きました。家の様子をみにきたぼくは姉に掴りました。学資がなく学校も止めさせられ、ぼくは義兄の世話で月給十八円で或る写真工場につとめに出ました。母と共に二間の長屋に住んで。――ぼくは直ちに職場に組織を作り、キャップとなり、仕事を終えると、街で上の線と逢い、きっ茶店で、顔をこわばらせて、秘密書類を交換しました。その内、僅(わず)か四五カ月。間もなく、プロバカートル事件が起り、逃げてきて転向し、再び経済記者に返った兄の働きで、ぼくも学校に戻れました。転向後だったので、兄は二カ月、ぼくは大した事もなかったので半日、豚箱に置かれました。職場にいた頃、機関雑誌に僕はミューレンの焼き直し童話や、片岡鉄兵氏ばりのプロレタリア小説を書いていました。十銭で買った『カラマゾーフの兄弟』の感激もありましたろう。貧乏大学生の話、殊(こと)に嫁を貰ってからの兄との遠慮は、ぼくにまた幼年時からの理想、小説家を希望させたのです。最初の一年はぼくは無我夢中で訳の分らぬ小説を書き、投書しました。急にスポーツをやめた故か、人の顔をみると涙がでる、生つばがわく、少しほてる。からだが松葉で一面に痛がゆくなる。『芸術博士』に応募して落ちた時など帯を首にまきつけました。ドストエフスキイ流行直前、彼にこって、タッチイを臭い文学理論でなやまし、そのほかの友人すべてをもひんしゅくさせたことと思います。兄の新妻の弟、山口定雄がワセダ独文で『鼻』という同人雑誌を出していましたので、彼に頼み、鼻の一員にして貰い、一作を載せたのが、昨年の暮なのです。『鼻』に嫌気(いやき)がさしていた山口を誘い、彼の親友、岡田と大体の計画をきめてから、ぼくは先ず神崎、森の同感を得、次に関タッチイを口説(くど)きに小日向に上りました。タッチイを強引に加入させると、カジョー、神戸がついてきてくれました。かくして、タッチイの命名になる『春服』が生れました。タッチイは顔がひろくて、山村、カツ西、豊野を加え、カジョーもまた努力してくれて、伊牟田氏を入れてくれました。カジョーとは段々仲が良くなり、ぼくの臭さも彼、許してくれてきましたようです。『春服』創刊から二号にかけて、ぼくは昨年暮から今年の三月頃まで就職に狂奔(きょうほん)しました。幸い、ぼくは母方の祖父の友人の世話で現在の会社に入れて貰いました。その頃から益々(ますます)兄と仲が悪く、蔵書一切を売って旅に出ようと決心したりしました。兄はぼくが文学をやめるのを極度に軽べつします。兄貴に食わして貰うのは卒業後不可能です。母の悲歎を思えば神崎の如き文学青年の生活も出来ないし、一つには会社員と云う生活もしてみたかったのです。会社に入って一月半、君は肉体が良いから、朝鮮か満洲に行って貰いたいと頼まれました。母や兄と一緒の窮屈なる生活に嫌気がさし、また新しい生活もしたさに、ぼくは朝鮮に来ました。満洲より朝鮮が小説になる気もしたのですが、これは会社員になったのと同様、色々な自分の意見からより、色々な必然の為でしょう。『青年の思想はおのれの行動の弁解に過ぎぬ。』H先生の言葉みたいなものです。ぼくはここ迄を昨夜、女郎にショールを買えないと云い訳に行き、ちょいの間を行き、婆さんの借金を三円払ってやり、正月に連れだして、やる約束を迫(せが)まれ……所で、今月は師走です。洋服屋がきて虎の子の十円を持って行きました。未だ一円残っていますがこれで散髪屋に行き、――後五十銭残りますが、これもいっそ費(つか)って、宵越(よいごし)のぜにア持たねエ、クリスマスを迎えようかと愚考しています。ぼくはここ迄昨夜二時帰宅後、五時まで書きました。今、同じ部屋に居る会社の給仕君と床屋に行って来ました。加藤咄堂(とつどう)氏のラジオを聞いてきました。帰りに菓子四十銭、ピジョン一箱で、完全に文無しになりました。今シェストフ『自明の超克』『虚無の創造』を読んでいます。彼は云います、『一般に伝記というものは何でも語っているが、只(ただ)我々にとって重要なことは除外しているものだ。』ぼくは前の饒舌(じょうぜつ)を読み返して、イヤになる。差し上げまいかとも思ったのですが、一遍書いたものは、もう僕と異(ちが)ったものですから、虚飾にみちた自家広告も愛嬌(あいきょう)だと思い、続けて自己嫌悪を連ねようと考えたのですが、シェストフで、誤魔化(ごまか)して置きます。御免なさい。さて、現在のぼくの生活ですが、会社は朝の九時半から六、七時頃迄です。ぼくの仕事は机上事務もありますが、本来は外交員です。自動車屋、会社の購買、商店等をまわり、一種の御用聞きをつとめるのです。大抵は鼻先で追い返されますし、ヘイヘイもみ手で行かねばならないので、意気地ない話ですが、イヤでたまりません。それだけならいいんですが、地方の出張所にいる連中、夫婦ものばかりですし、小姑(こじゅうと)根性というのか、蔭口、皮肉、殊に自分のお得意先をとられたくないようで、雑用ばかりさせるし、悪口ついでにうんとならべると、女の腐ったような、本社の御機嫌とりに忙しい、くびの心配ばかりしている。他人の月給をそねみ、生活を批評し、自分の不平、例えば出張旅費の計算で陰で悪口の云い合い、出張成金(なりきん)めとか、奥さんがかおを歪(ゆが)めて、何々さんは出張ばかりで、――うちなんか三日の出張で三十円ためてかえりましたよ。すると一方の奥さんは、うちは出張しても、まア、それだけ下の人達にするからよ。けれども主任さんは、二等旅費で三等にばかり乗るのですよ。けちねエ……。然(しか)し、奥さん出張すると、靴は痛む洋服は切れる、Yシャツは汚れる……随分煩(うる)さいのです。殊に小人数ですから家族的気分でいいとかいいながら、それだけ競争もはげしく、ぼくなど御意見を伺わされに四六時中、ですから――それに商売の性質から客の接待、休日、日曜出勤、居残り等多く、勉強する閑(ひま)はありません。気をつかうのでつかれます。月給六十五円、それと加俸五割で計九十七円五十銭の給金です。金というものの正体不明で相手に出来ないので、損ばかりしています。もう大分借金が出来ました。もう他人の悪口を云い、他人に同情する年でもありますまい、止めます。もう給仕君床に入りました。ぼくに盛んに英語を聞くので閉口です。所でぼくは語学がなにも出来ないのです。所でぼくも床に入って書いています。給仕君煩さいので、寝てからにしましょう。ラジオのアナウンスみたいな手紙の書き方をお許し下さい。ぼくにはこの方が純粋なような気がするのです。亦(また)、シェストフを写します、『チエホフの作品の独創性や意義はそこにある。例えば喜劇「かもめ」を挙げよう。そこではあらゆる文学上の原理に反して、作品の基礎をなすものは、諸々の情熱の機構でも、出来事の必然的な継続でもなく、裸形にされた純粋の偶然というものなのである。此(こ)の喜劇を読んでゆくと、秩序も構図もなく寄せ集められた「雑多な事実」に満ちている新聞にでも眼を通してゆくような印象を受ける。ここに支配しているものは偶然であり、偶然があらゆる一般的な概念に抗して戦っているのである。』これを写しながら、給仕君におとぎばなし、紫式部、清少納言、日本霊異記(にほんりょういき)とせがまれ、話しているうち、彼氏恐怖のあまり、歯をがつ、がつ、がつ、三度、音たてて鳴らしてふるえました。太宰さん。もう、ねましょう。にやにや薄笑いしていい加減の合槌(あいづち)をうつのは、やめて下さい。――なあんてね。きょうは会社に出勤、忘年会とか、いちいち社員から会費を集めている。酒盛り。ぼくは酒ぐせ悪いとの理由で、禁酒を命じられ、つまらないので、三時間位、白い壁の天井を眺めながら、皆の馬鹿話を聞いていました。それから御得意に挨拶に行き、会員、主任のうちに呼ばれて御馳走になり、カルタをとり、いま帰って、これを書いているのが夜十時です。気がつかれて、手紙を書くのがイヤです。簡単にあとかきます。会社を二月休んだ原因は、或る事から、酔の上、職人九人を相手にして、喧嘩(けんか)をし、ぼくは、十月二十九日、腕を剃刀(かみそり)でわられたのです。その傷が丹毒になり、二月入院しました。喧嘩しながら居眠るほど、酔っていた男を正気の相手が刃物で、而(しか)も多人数で切ったのですから、ぼくの運がわるく、而も丹毒で苦しみ、病院費の為、……おやじの残したいまは只一軒のうちを高利貸に抵当(ていとう)にして母は、兄と争い乍(なが)ら金を送ってくれました。会社は病気ではなく私傷による事故だからといって、十一月は給料をくれませんでした。また会社の人達は、ぼくをまるで無頼漢扱いにして皮肉をいう。まア止(や)めましょう。いっそ、桜の花の刺青(いれずみ)をしようかと思って居ります。私は子供じゃないんだ。所で、あなたに手紙を書きたかったのは、ぼくはもう文学を止めたいとおもう。それもなんら思想上のものではなしに、単に生活上の不便からです。京城(けいじょう)にいるとか会社員をしている事は、いままで、なんら、悪条件と感じませんでしたが、こんどの事件があってからは、急にイヤになったのです。今日でも会社にでると殆(ほと)んど、もう自分の時間がありません。負傷前は五六時間睡眠平均、または時に徹夜で読書、著述、(いやはや)また会社で小品みたいなものは書いたりしましたが、これからはイヤです。太宰さん、ぼくは東京に帰って、文学青年の生活をしてみたいのです。会社員生活をしているから社会がみえたり、心境が広くなるわけではなく、却(かえ)って月給日と上役の顔以外にはなんにもみえません。大学でつめこんだ少量の経済学も忘れてしまいました。勉強のできなくなる事、前から余り好きませんが、一層ひどいです。ぼくは東京で文学で生活するか、さもなければ死ぬか。例えば鏡花(きょうか)氏が紅葉山人(こうようさんじん)の書生であったような形式をとるか、ドストエフスキイ式に水と米、ベリンスキイが現われるまで待つか、なにかしたいと思っています。然し、ぼくは汚(きた)ならしい野郎ですから、東京に帰ってどんなに堕ちても、かまいませんが、おふくろが、――たまらんです。と、いって、こっちの空気もたまらんです。恐らく、ぼくの願いは自利的な支離滅裂な、ぜいたくなものでしょう。而し、いまのまま一月も同じ商人暮しがつづいたら、ぼくは自殺するか、文学をやめるか、のほかにない気がするのです。或(ある)いは続けるかも知れません。続けはしたい――然し、今書いているのは、我慢できない気持です。息がつまりそうです。つまった息を風船に入れて、青空をとびまわれ、あきらめよ、わが心とは思います。然し、ぼくはなんとか生活をかえたい。これに対するあなたの御意見をききたく思います。ぼくなんて駄目です。ぼくは東京に帰っても、とても文学だけでは食って行けない。いっそ、チンドン屋になったり、ルンペンになれば、生活経験が豊富になっていいかも知れません。が、おふくろが嫁さんの候補の写真を四枚も送ってきてますからねエ。いまは『春服』をぼくの足場にする希望もない。十月頃送った百枚位の小説はどうなっておるか。いっそ、破ったほうがいい。いっそ、懸賞募集を狙(ねら)いましょうか。黙ってる方がかしこいでしょう。然し、太宰治さん、できたら、ぼくに激励のお手紙を下さい。もう四日出勤して五日も経てば、ぼくは腐りの絶頂でしょう。今晩は手紙を書くのがイヤです。明晩明後日と益々イヤになるでしょう。虫の好い事を云いつづけに、思いきり云います。一つ叱(しか)って下さい。ああ。ぼくに東京に帰ってこい、といって下さい。嘘! ぼくをぼくの好きな作家、尾崎士郎、横光利一、小林秀雄氏に紹介して下さい。嘘! ぼくは、今月中から、自伝を覚えたままに書いて行きたいと思うのです。が、『春服』が目茶苦茶なので悲観しているのです。『春服』が立ち直る迄なりと、一つ、月々五十枚位載せて貰える、あなたの知っている同人雑誌に紹介してくれませんか。同人費は払います。余計な事を! 書きためて、懸賞当選を狙う手もあるのですが、あれには運が多い気がしてイヤです。それに、こんな汚ない字の原稿なんか読んではくれますまい。また薄志弱行のぼくは活字にならぬ作品がどんどん殖(ふ)えて行くとどうしても我慢できず、最初のから破ってしまうので――嘘、嘘。なんでもいいんです。この手紙をここ迄読んで下さったなら、それだけでも、ありがたい。御手紙、下さい。そしたらまた、書き直します。この手紙は破って捨てて下さい。どうぞどうぞ許して下さい。これとそっくり同文の手紙、六通書いて六人の作家へ送った。なんといおうと、あなたは御自分の世界をもっている作家です。はっきり云うと、生意気で、ぼくは薄馬鹿ですね。あなたの世界をぼくは熱愛できないのです。あなたが利巧だとは思わない。然し、あなたは近代インテリゲンチャ、不安の相貌(そうぼう)を具(そな)えている。余りでたらめは書きますまい。あなたは黄表紙の作者でもあれば、ユリイカの著者でもある。『殴(なぐ)られる彼奴(あいつ)』とはあなたにとって薄笑いにすぎない。あなたがあやつる人生切り紙細工は大南北(なんぼく)のものの大芝居の如く血をしたたらせている。あまり、煩(うる)さい無駄口はききますまい。ヴァレリイが俗っぽくみえるのはあなたの『逆行』『ダス・ゲマイネ』読後感でした。然(しか)し、ここには近代青年の『失われたる青春に関する一片の抒情、吾々の実在環境の亡霊に関する、自己証明』があります。然し、ぼくは薄暗く、荒れ果てた広い草原です。ここかしこ日は照ってはいましょう。緑色に生々と、が、なかには菁々(せいせい)たる雑草が、乱雑に生えています。どっから刈りこんでいいか、ぼくは無茶苦茶に足の向いた所から分け入り、歩けた所だけ歩いて、報告する――てやがんだい。ぼくは薄野呂(うすのろ)です。そんなんじゃあない。然し、ぼくは野蛮でたくましくありたいのです。現在ぼくの熱愛している世界はどの作家にもありません。ドストエフスキイが一番好きです。ぼくのこのみの平凡さを軽ベツしないで下さい。ぼくは今年こそ、なにか、書きたいと思っています。だが、小説に、人生に、なんの意義がありましょう。意義なんてない。飯を食うように、小説を書く。あんなに、実務的精神をにくんだシェストフでさえ、全集を残している。だから、力んでもいいでしょう。僕は誰にでも、有名な人から手紙を貰うと、斯(こ)んな訳の分らぬ図々(ずうずう)しい宣伝文を書く癖があるのでしょう。いや、この前、北川冬彦氏から五六行の葉書を貰った時だけです。然し、ほんとうは、生れてはじめて、こんな長い手紙かいた。もう、ねましょう。シェストフでも読みましょう。どうか/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\/\どうか、どうか、御手紙下さい。でないと、ぼくはつまんないんです。この甘ったれ根性め。ぼくはこの手紙をかいたぼくを余り好きません。あなたはどうですか? 僕の少年時の貧しき自慢に、これをつけ加えて下さい。ぼくは少年時十三四頃、絵が大変、下手でしたが、帝展の深沢省三氏(紅子氏の夫)が好いてくれまして、美術に入れとすすめたりしました。歌がうまかった、詩も得意だ――それこそバカメですね。こう言うのが、――カジョーはきらいなんです。ぼくも人の自慢は、きらいですが、自分のはまア書きました。御免なさい。不愉快にならないで下さい――いや、第一そんな、不愉快になるなんてわけがわからぬ。私は下劣の少年である。けれども、――否! やっぱり下劣である。むりのオネガイ。手紙くれやがれと。サラバ、サラバ、鶴首(かくしゅ)。待て! あくびをした奴がある。しかも見よ。あ、あ、あ、と傍若無人、細長き両の腕を天井やぶれよ、とばかりに突き出して、しかもその口の大きさ、歯の白さ、さながら、馬の顔であった。われに策あり、太宰治さん。自分について、色んなことを書きたくなりました。もう二、三十ペエジ読んで下されば幸甚(こうじん)です。第一、ぼくが全く無意義な存在であること、例え、マルクスが商事会社――ブローカー――広告業――外交販売員が社会にとって有害であると説かぬにしろ、ぼくは自分の商売が憎らしいのに決っています。曾(か)つて、主任から、個性を殺せと説教されました。そうして個性は主任を殺せと説教しました。集金に行ってコップ酒を無理強(むりじ)いにするトラック屋の親爺などに逢えば面白いが、机の前に冷然としている、どじょう髭(ひげ)の御役人に向って、『今日は、御用はありませんか。』『ない。』『へい、ではまたどうぞ。』とか、『商人は外で待ってろ。』とか、『一厘(りん)』の負け合いで、御百度を踏んで二、三十円の註文を貰ったり……。否、愚痴はいいますまい。つらつら、考えてみますと好き嫌いが先に定って、理窟(りくつ)が後になる事実ほど恐しく、嫌なものはありません。お好き? お嫌い? それで一瞬は過ぎて、今は嫌いなのです。だから世の中の言葉はひとの感情をあやつるに過ぎない気がします。ぼくにもそろそろマスクが必要な気がします。メリメのマスクが一番好いでしょう。ボクはもう他人に向って好き、嫌いを云々(うんぬん)しますまい。好きだから好きと、云ったのに、嫌いになったら、嫌いになったと云えない。ぼくはある娘に、そんな責任が出来て、嫌いになったのに、別れようと云えず、困っています。嫌いでも好きになりたいと努力するのは不可能です。ぼくは嫌いなまま愛さなければ不可(いけ)ないのでしょうか。なんにも云いたくない。ぼくは余り多くの人々を憎んでいます。あ、ああ君も、お前も、キサマも、俺がこんなに苦しんでいるのにシャアシャアとして生きていやがる。」
「近頃の君の葉書に一つとして見るべきものがない。非常に惰弱になって巧言令色である。少からず遺憾に思っている。吉田生。」

 月日。
「一言。(一行あき。)僕は、僕もバイロンに化け損(そこ)ねた一匹の泥狐(どろぎつね)であることを、教えられ、化けていることに嫌気が出て、恋の相手に絶交状を書いた。自分の生活は、すべて嘘であり、偽(にせ)であり、もう、何ごとも信ぜず、絶望の(銀行も、よす。)穴に落ち入る。きょうより以後、あなたの文学をみとめない。さようなら。御写真ください。道化の華は人殺し文学であるか。(銀行はよさない。けれども……)いや、ざっと、ウォーミングアップ。太宰さん、どうやらひっかかったらしい。手ごたえあり。私に興味を感じたら、お仕舞(しまい)までお読み下さい。僕はまだ二十歳の少年なので、貴重なお時間を割(さ)いて戴(いただ)くのも、心苦しいまでに有難く存じます。(この私の、いのちこめたる誠実の言葉をさえ、鼻で笑ったら、貴下を、ほんとうに、刺し殺そうと思っています。ああ、ぼんくらな事を言った。)まず、僕が、どの程度に少年であるか、自己紹介させて下さい。十五、六歳の頃、佐藤春夫先生と、芥川龍之介先生に心酔しました。十七歳の頃、マルクスとレエニンに心酔しました。(命を賭(と)して。)……ところが、十八歳になると、また『芥川』に逆戻りして、辻潤氏に心酔しました。(太宰って、なあんて張り合いのない野郎だろう。聞いているのか、ダルマ、こちらむけ、われも淋(さび)しい秋の暮、とは如何(いかが)? お助け下さい。くず籠(かご)へ投げこまないで下さい。せいぜい面白くかきますから。)『芥川』を透して、アナトール・フランス(敬語は不用でしょう)を、ボードレエルを、E・A・ポーを、愛読しました。それから文学を留守にして、幻燈の街に出かけたり、とやかくやして、現在の僕になりました。僕は文学をやるのに、語学の必要を感じつつ、外国語はさておき、日本語の勉強をすらやらないで、(面白くない? もう少しですから、辛抱たのむ。)便便として過してます。自分の生活を盲動だと思って、然し、人生そのものが盲動さ、と自問自答しています。(秋の夜や、自問自答の気の弱り。これは二百年まえの翁の句です。)二十歳の少年の分際で、これはあまり諦めがよすぎるかも知れません。……シェストフ的不安とは何であるか、僕は知りません。ジッドは『狭き門』を読んだ切りで、純情な青年の恋物語であり、シンセリティの尊さを感じたくらいで、……とにかく、浅学菲才(ひさい)の僕であります。これで失礼申します。私は、とんでもない無礼をいたしました。私の身のほどを、只今、はっと知りました。候文(そうろうぶん)なら、いくらでもなんでも。他人からの借衣なら、たとい五つ紋の紋附(もんつ)きでも、すまして着て居られる。あれですね。それでは、唄わせて、(ふびんなことを言うなよ。)いや、書かせていただきます。拝啓。小生儀、異性の一友人にすすめられ、『めくら草紙』を読み、それから『ダス・ゲマイネ』を読み、たちどころに、太宰治ファンに相成(あいなり)候(そうろう)ものにして、これは、ファン・レターと御承知被下度(くだされたく)候。『新ロマン派』も十月号より購読致し、『もの想う葦』を読ませて戴き居候。知性の極というものは、……の馬場の言葉に、小生……いや、何も言うことは無之(これなき)候。映画ファンならば、この辺でプロマイドサインを願う可きと存候(ぞんじそうら)え共、そして小生も何か太宰治さま、よりの『サイン』に似たもの、欲しとは存じ候え共、いけませんでしょうか。御伺い申上候。かかる原稿用紙様の手紙にて、礼を失し候段、甚謝(じんしゃ)仕候。敬具。十二月二十二日。太宰治様。わが名は、なでしことやら、夕顔とやら、あざみとやら。追伸(ついしん)、この手紙に、僕は、言い足りない、或(あるい)は言い過ぎた、ことの自己嫌悪を感じ、『ダス・ゲマイネ』のうちの言葉、『しどろもどろの看板』を感じる。(いや、ばかなことを言った。)太宰さん、これは、だめです。だいいち私に、異性の友人など、いつできたのだろう。全部ウソです。サインなんか不要です。私は、貴下の、――いや、むずかしくなって来ました。御返事かならず不要です。そんなもの、いやです。おかしくって。私たちの作家が出たというのは、うれしいことです。苦しくとも、生きて下さい。あなたのうしろには、ものが言えない自己喪失の亡者が、十万、うようよして居ります。日本文学史に、私たちの選手を出し得たということは、うれしい。雲霞(うんか)のごときわれわれに、表現を与えて呉れた作家の出現をよろこぶ者でございます。(涙が出て、出て、しようがない)私たち、十万の青年、実社会に出て、果して生きとおせるか否か、厳粛の実験が、貴下の一身に於いて、黙々と行われて居ります。以上、書いたことで、私は、まだ少年の域を脱せず、『高所の空気、強い空気』である、あなたに、手紙を書いたり、逢ったりすることに依(よ)りて、『凍える危険』を感ずる者である。まことに敬畏(けいい)する態度で、私は、この手紙一本きりで、あなたから逃げ出す。めくら蜘蛛(ぐも)、願わくば、小雀(こすずめ)に対して、寛大であられんことを。勿論お作は、誰よりも熱心に愛読します心算(つもり)、もう一言。――君に黄昏(たそがれ)が来はじめたのだ……君は稲妻(いなずま)を弄(もてあそ)んだ。あまり深く太陽を見つめすぎた。それではたまらない……(一行あき。)めくら草紙の作者に、この言葉あてはまるや否や、――ストリンドベルグの『ダマスクスへ』よりの言葉である。と、ああ、気取った書き方をして了(しま)った。もう、これ以上、書かないけれども、太宰治様。僕は、あなたの処へ飛んで行って暗いところで話し度(た)い。改造にあなたが書けば改造を買い、中公にあなたが書けば中公を買う。そして、わざと三円の借金をかえさざる。頓首(とんしゅ)。私は女です。」
「拝復。君ガ自重ト自愛トヲ祈ル。高邁(こうまい)ノ精神ヲ喚起シ兄ガ天稟(てんぴん)ノ才能ヲ完成スルハ君ガ天ト人トヨリ賦与サレタル天職ナルヲ自覚サレヨ。徒(いたず)ラニ夢ニ悲泣スル勿(なか)レ。努メテ厳粛ナル五十枚ヲ完成サレヨ。金五百円ハヤガテ君ガモノタルベシトゾ。八拾円ニテ、マント新調、二百円ニテ衣服ト袴(はかま)ト白足袋(たび)ト一揃イ御新調ノ由、二百八拾円ノ豪華版ノ御慶客。早朝、門ニ立チテオ待チ申シテイマス。太宰治様。深沢太郎。」
「謹啓。其の後御無沙汰いたして居りますが、御健勝ですか。御伺い申しあげます。二三日前から太宰君に原稿料として二十円を送るように、たびたびハガキや電報を貰っているのですが、社の稿料は六円五十銭(二枚半)しかあげられず、小生ただいま、金がなく漸(ようや)く十円だけ友人に本日借りることができました。四度も書き直してくれて、お気の毒千万なのですが計十五円だけお送りいたします。おおみそかを控え、それでも平気でぱっぱっ使ってしまいますゆえ、あなたの方で保管、適当にお渡し下さいまし。もっと送ってあげたく思いましたが、僕もいっぱいの生活でどうにもできません。麹町区内幸町武蔵野新聞社文芸部、長沢伝六。太宰治様、令閨(れいけい)様。」

 月日。
「師走厳冬の夜半、はね起きて、しるせる。一、私は、下劣でない。二、私は、けれども、独(ひと)りで創った。三、誰か見ている。四、『あたしも、すっかり貧乏してしまって、ね。』五、こんな筈ではなかった。六、蛇身清姫(じゃしんきよひめ)。七、『おまえをちらと見たのが不幸のはじめ。』八、いまごろ太宰、寝てか起きてか。九、『あたら、才能を!』十、筋骨質。十一、かんなん汝を玉にせむ。(ぞろぞろぞろぞろ、思念の行列、千紫万紅百面億態)一箇条つかんでノオトしている間に三十倍四十倍、百千ほども言葉を逃がす。S。」

 月日。
「前略。その後いよいよ御静養のことと思い安心しておりましたところ、風のたよりにきけば貴兄このごろ薬品注射によって束(つか)の間(ま)の安穏(あんのん)を願っていらるる由。甚(はなは)だもっていかがわしきことと思います。薬品注射の末おそろしさに関しては、貴兄すでに御存じ寄りのことと思いますので、今はくり返し申しません。しかしそれは恋人を思いあきらめるがごとき大発心にて、どうか思いあきらめて下さるよう切望いたします。仏典に申す『勇猛精進』とはこのあたりの決心をうながす意味の言葉かと思います。実は参上して申述べ度きところでありますが、貴兄も一家の主人で子供ではなし、手紙で申してもききわけて頂けると信じ手紙で申します。どこか温(あたたか)い土地か温泉に行って静かに思索してはいかがでしょう。青森の兄さんとも相談して、よろしくとりはからわれるよう老婆心(ろうばしん)までに申し上げます。或いは最早(もは)や温泉行きの手筈(てはず)もついていることかと思います。温泉に引越したら御様子願い上げます。
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