花火
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著者名:太宰治 

 箪笥を調べ、押入れに頭をつっこんで捜してみても、お金になりそうな品物は、もはや一つも無かった。思い余って、母に打ち明け、懇願した。
 母は驚愕(きょうがく)した。ひきとめる節子をつきとばし、思慮を失った者の如く、あああと叫びながら父のアトリエに駈け込み、ぺたりと板の間(ま)に坐った。父の画伯は、画筆を捨てて立ち上った。
「なんだ。」
 母はどもりながらも電話の内容の一切を告げた。聞き終った父は、しゃがんで画筆を拾い上げ、再び画布の前に腰をおろして、
「お前たちも、馬鹿だ。あの男の事は、あの男ひとりに始末させたらいい。懲役なんて、嘘(うそ)です。」
 母は、顔を伏せて退出した。
 夕方まで、家の中には、重苦しい沈黙が続いた。電話も、あれっきりかかって来ない。節子には、それがかえって不安であった。堪えかねて、母に言った。
「お母さん!」小さい声だったけれど、その呼び掛けは母の胸を突き刺した。
 母は、うろうろしはじめた。
「改心すると言ったのだね? きっと、改心すると、そう言ったのだね?」
 母は小さく折り畳んだ百円紙幣を節子に手渡した。
「行っておくれ。」
 節子はうなずいて身支度をはじめた。節子はそのとしの春に、女学校を卒業していた。粗末なワンピースを着て、少しお化粧して、こっそり家を出た。
 井の頭。もう日が暮れかけていた。公園にはいると、カナカナ蝉(ぜみ)の声が、降るようだった。御殿山。宝亭は、すぐにわかった。料亭と旅館を兼ねた家であって、老杉に囲まれ、古びて堂々たる構えであった。出て来た女中に、鶴見がいますか、妹が来たと申し伝えて下さい、と怯(お)じずに言った。やがて廊下に、どたばた足音がして、
「や、図星なり、図星なり。」勝治の大きな声が聞えた。ひどく酔っているらしい。「白状すれば、妹には非ず。恋人なり。」まずい冗談である。
 節子は、あさましく思った。このまま帰ろうかと思った。
 ランニングシャツにパンツという姿で、女中の肩にしなだれかかりながら勝治は玄関にあらわれた。
「よう、わが恋人。逢(あ)いたかった。いざ、まず。いざ、まず。」
 なんという不器用な、しつっこいお芝居なんだろう。節子は顔を赤くして、そうして仕方なしに笑った。靴を脱ぎながら、堪えられぬ迄(まで)に悲しかった。こんどもまた、兄に、だまされてしまったのではなかろうかと、ふと思った。
 けれども二人ならんで廊下を歩きながら、
「持って来たか。」と小声で言われて、すぐに、れいの紙幣を手渡した。
「一枚か。」兇暴な表情に変った。
「ええ。」声を出して泣きたくなった。
「仕様がねえ。」太い溜息をついて、「ま、なんとかしよう。節子、きょうはゆっくりして行けよ。泊って行ってもいいぜ。淋しいんだ。」
 勝治の部屋は、それこそ杯盤狼藉(はいばんろうぜき)だった。隅に男がひとりいた。節子は立ちすくんだ。
「メッチェンの来訪です。わが愛人。」と勝治はその男に言った。
「妹さんだろう?」相手の男は勘がよかった。有原である。「僕は、失敬しよう。」
「いいじゃないですか。もっとビイルを飲んで下さい。いいじゃないですか。軍資金は、たっぷりです。あ、ちょっと失礼。」勝治は、れいの紙幣を右手に握ったままで姿を消した。
 節子は、壁際に、からだを固くして坐った。節子は知りたかった。兄がいったい、どのような危い瀬戸際に立っているのか、それを聞かぬうちは帰られないと思っていた。有原は、節子を無視して、黙ってビイルを飲んでいる。
「何か、」節子は、意を決して尋ねた。「起ったのでしょうか。」
「え?」振り向いて、「知りません。」平然たるものだった。
 しばらくして、
「あ、そうですか。」うなずいて、「そう言えば、きょうのチルチルは少し様子が違いますね。僕は、本当に、何もわからんのです。この家は、僕たちがちょいちょい遊びにやって来るところなのですが、さっき僕がふらとここへ立ち寄ったら、かれはひとりでもうひどく酔っぱらっていたのです。二、三日前からここに泊り込んでいたらしいですね。僕は、きょうは、偶然だったのです。本当に、何も知らないのです。でも、何かあるようですね。」にこりともせず、落ちつき払ってそういう言葉には、嘘があるようにも思えなかった。
「やあ、失敬、失敬。」勝治は帰って来た。れいの紙幣が、もう右手に無いのを見て、節子には何か、わかったような気がした。
「兄さん!」いい顔は、出来なかった。「帰るわ。」
「散歩でもしてみますか。」有原は澄ました顔で立ち上った。
 月夜だった。半虧(はんかけ)の月が、東の空に浮んでいた。薄い霧が、杉林の中に充満していた。三人は、その下を縫って歩いた。勝治は、相変らずランニングシャツにパンツという姿で、月夜ってのは、つまらねえものだ、夜明けだか、夕方だか、真夜中だか、わかりやしねえ、などと呟(つぶや)き、昔コイシイ銀座ノ柳イ、と呶鳴(どな)るようにして歌った。有原と節子は、黙ってついて歩いて行く。有原も、その夜は、勝治をれいのように揶揄(やゆ)する事もせず、妙に考え込んで歩いていた。
 老杉の陰から白い浴衣を着た小さい人が、ひょいとあらわれた。
「あ、お父さん!」節子は、戦慄(せんりつ)した。
「へええ。」勝治も唸(うな)った。
「散歩だ。」父は少し笑いながら言った。それから、ちょっと有原のほうへ会釈(えしゃく)をして、「むかしは僕たちも、よくこの辺に遊びに来たものです。久しぶりで散歩に来てみたが、昔とそんなに変ってもいないようだね。」
 けれども、気まずいものだった。それっきり言葉もなく、四人は、あてもなくそろそろと歩きはじめた。沼のほとりに来た。数日前の雨のために、沼の水量は増していた。水面はコールタールみたいに黒く光って、波一つ立たずひっそりと静まりかえっている。岸にボートが一つ乗り捨てられてあった。
「乗ろう!」勝治は、わめいた。てれかくしに似ていた。「先生、乗ろう!」
「ごめんだ。」有原は、沈んだ声で断った。
「ようし、それでは拙者(せっしゃ)がひとりで。」と言いながら危い足どりでその舟に乗り込み、「ちゃんとオールもございます。沼を一まわりして来るぜ。」騎虎(きこ)の勢(いきお)いである。
「僕も乗ろう。」動きはじめたボートに、ひらりと父が飛び乗った。
「光栄です。」と勝治が言って、ピチャとオールで水面をたたいた。すっとボートが岸をはなれた。また、ピチャとオールの音。舟はするする滑って、そのまま小島の陰の暗闇に吸い込まれて行った。トトサン、御無事デ、エエ、マタア、カカサンモ。勝治の酔いどれた歌声が聞えた。
 節子と有原は、ならんで水面を見つめていた。
「また兄さんに、だまされたような気が致します。七度(ななたび)の七十倍、というと、――」
「四百九十回です。」だしぬけに有原が、言い継いだ。「まず、五百回です。おわびをしなければ、いけません。僕たちも悪かったのです。鶴見君を、いいおもちゃにしていました。お互い尊敬し合っていない交友は、罪悪だ。僕はお約束できると思うんだ。鶴見君を、いい兄さんにして、あなたへお返し致します。」
 信じていい、生真面目(きまじめ)な口調であった。
 パチャとオールの音がして、舟は小島の陰からあらわれた。舟には父がひとり、するする水面を滑って、コトンと岸に突き当った。
「兄さんは?」
「橋のところで上陸しちゃった。ひどく酔っているらしいね。」父は静かに言って、岸に上った。「帰ろう。」
 節子はうなずいた。
 翌朝、勝治の死体は、橋の杙(くい)の間から発見せられた。
 勝治の父、母、妹、みんな一応取り調べを受けた。有原も証人として召喚せられた。勝治の泥酔の果(はて)の墜落か、または自殺か、いずれにしても、事件は簡単に片づくように見えた。けれども、決着の土壇場に、保険会社から横槍が出た。事件の再調査を申請して来たのである。その二年前に、勝治は生命保険に加入していた。受取人は仙之助氏になっていて、額は二万円を越えていた。この事実は、仙之助氏の立場を甚(はなは)だ不利にした。検事局は再調査を開始した。世人はひとしく仙之助氏の無辜(むこ)を信じていたし、当局でも、まさか、鶴見仙之助氏ほどの名士が、愚かな無法の罪を犯したとは思っていなかったようであるが、ひとり保険会社の態度が頗(すこぶ)る強硬だったので、とにかく、再び、綿密な調査を開始したのである。
 父、母、妹、有原、共に再び呼び出されて、こんどは警察に留置せられた。取調べの進行と共に、松やも召喚せられた。風間七郎は、その大勢の子分と一緒に検挙せられた。杉浦透馬も、T大学の正門前で逮捕せられた。仙之助氏の陳述も乱れはじめた。事件は、意外にも複雑におそろしくなって来たのである。けれども、この不愉快な事件の顛末(てんまつ)を語るのが、作者の本意ではなかったのである。作者はただ、次のような一少女の不思議な言葉を、読者にお伝えしたかったのである。
 節子は、誰よりも先きに、まず釈放せられた。検事は、おわかれに際して、しんみりした口調で言った。
「それではお大事に。悪い兄さんでも、あんな死にかたをしたとなると、やっぱり肉親の情だ、君も悲しいだろうが、元気を出して。」
 少女は眼を挙げて答えた。その言葉は、エホバをさえ沈思させたにちがいない。もちろん世界の文学にも、未だかつて出現したことがなかった程の新しい言葉であった。
「いいえ、」少女は眼を挙げて答えた。「兄さんが死んだので、私たちは幸福になりました。」




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