道化の華
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著者名:太宰治 

 振りむきもせず、やはり大聲で答へてよこした。
「いいえ。東京へ歸らうと思ひます。」
「ぢや、僕のとこへ遊びに來たまへ。飛騨も小菅も毎日のやうに僕のとこへ來てゐるのだ。まさか牢屋でお正月を送るやうなこともあるまい。きつとうまく行くだらうと思ふよ。」
 まだ見ぬ檢事のすがすがしい笑ひ顏をさへ、胸に畫いてゐたのである。
 ここで結べたら! 古い大家はこのやうなところで、意味ありげに結ぶ。しかし、葉藏も僕も、おそらくは諸君も、このやうなごまかしの慰めに、もはや厭きてゐる。お正月も牢屋も檢事も、僕たちにはどうでもよいことなのだ。僕たちはいつたい、檢事のことなどをはじめから氣にかけてゐたのだらうか。僕たちはただ、山の頂上に行きついてみたいのだ。そこに何がある。何があらう。いささかの期待をそれにのみつないでゐる。
 やうやう頂上にたどりつく。頂上は簡單に地ならしされ、十坪ほどの赭土がむきだされてゐた。まんなかに丸太のひくいあづまやがあり、庭石のやうなものまで、あちこちに据ゑられてゐた。すべて霜をかぶつてゐる。
「駄目。富士が見えないわ。」
 眞野は鼻さきをまつかにして叫んだ。
「この邊に、くつきり見えますのよ。」
 東の曇つた空を指さした。朝日はまだ出てゐないのである。不思議な色をしたきれぎれの雲が、沸きたつては澱み、澱んではまたゆるゆると流れてゐた。
「いや、いいよ。」
 そよ風が頬を切る。
 葉藏は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから三十丈もの斷崖になつてゐて、江の島が眞下に小さく見えた。ふかい朝霧の奧底に、海水がゆらゆらうごいてゐた。
 そして、否、それだけのことである。




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