道化の華
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著者名:太宰治 

「私が三つのとき、」なにげなく語らうとしたらしかつたが、しくじつた。聲が喉へひつからまる。「ランプをひつくりかへして、やけどしたんですつて。ずゐぶん、ひがんだものでございますのよ。小學校へあがつてゐたじぶんには、この傷、もつともつと大きかつたんですの。學校のお友だちは私を、ほたる、ほたる。」すこしとぎれた。「さう呼ぶんです。私、そのたんびに、きつとかたきを討たうと思ひましたわ。ええ、ほんたうにさう思つたわ。えらくならうと思ひましたの。」ひとりで笑ひだした。「をかしいですのねえ。えらくなれるもんですか。眼鏡かけませうかしら。眼鏡かけたら、この傷がすこしかくれるんぢやないかしら。」
「よせよ。かへつてをかしい。」葉藏は怒つてでもゐるやうに、だしぬけに口を挾んだ。女に愛情を感じたとき、わざとじやけんにしてやる古風さを、彼もやはり持つてゐるのであらう。「そのままでいいのだ。目立ちはしないよ。もう眠つたらどうだらう。あしたは早いのだよ。」
 眞野は、だまつた。あした別れてしまふのだ。おや、他人だつたのだ。恥を知れ。恥を知れ。私は私なりに誇りを持たう。せきをしたり溜息ついたり、それからばたんばたんと亂暴に寢返りをうつたりした。
 葉藏は素知らぬふりをしてゐた。なにを案じつつあるかは、言へぬ。
 僕たちはそれより、浪の音や鴎の聲に耳傾けよう。そしてこの四日間の生活をはじめから思ひ起さう。みづからを現實主義者と稱してゐる人は言ふかも知れぬ。この四日間はポンチに滿ちてゐたと。それならば答へよう。おのれの原稿が、編輯者の机のうへでおほかた土瓶敷の役目をしてくれたらしく、黒い大きな燒跡をつけられて送り返されたこともポンチ。おのれの妻のくらい過去をせめ、一喜一憂したこともポンチ。質屋の暖簾をくぐるのに、それでも襟元を掻き合せ、おのれのおちぶれを見せまいと風采ただしたこともポンチ。僕たち自身、ポンチの生活を送つてゐる。そのやうな現實にひしがれた男のむりに示す我慢の態度。君はそれを理解できぬならば、僕は君とは永遠に他人である。どうせポンチならよいポンチ。ほんたうの生活。ああ、それは遠いことだ。僕は、せめて、人の情にみちみちたこの四日間をゆつくりゆつくりなつかしまう。たつた四日の思ひ出の、五年十年の暮しにまさることがある。たつた四日の思ひ出の、ああ、一生涯にまさることがある。
 眞野のおだやかな寢息が聞えた。葉藏は沸きかへる思ひに堪へかねた。眞野のはうへ寢がへりを打たうとして、長いからだをくねらせたら、はげしい聲を耳もとへささやかれた。
 やめろ! ほたるの信頼を裏切るな。

 夜のしらじらと明けはなれたころ、二人はもう起きてしまつた。葉藏はけふ退院するのである。僕は、この日の近づくことを恐れてゐた。それは愚作者のだらしない感傷であらう。この小説を書きながら僕は、葉藏を救ひたかつた。いや、このバイロンに化け損ねた一匹の泥狐を許してもらひたかつた。それだけが苦しいなかの、ひそかな祈願であつた。しかしこの日の近づくにつれ、僕は前にもまして荒涼たる氣配のふたたび葉藏を、僕をしづかに襲うて來たのを覺えるのだ。この小説は失敗である。なんの飛躍もない、なんの解脱もない。僕はスタイルをあまり氣にしすぎたやうである。そのためにこの小説は下品にさへなつてゐる。たくさんの言はでものことを述べた。しかも、もつと重要なことがらをたくさん言ひ落したやうな氣がする。これはきざな言ひかたであるが、僕が長生きして、幾年かのちにこの小説を手に取るやうなことでもあるならば、僕はどんなにみじめだらう。おそらくは一頁も讀まぬうちに僕は堪へがたい自己嫌惡にをののいて、卷を伏せるにきまつてゐる。いまでさへ、僕は、まへを讀みかへす氣力がないのだ。ああ、作家は、おのれのすがたをむき出しにしてはいけない。それは作家の敗北である。美しい感情を以て、人は、惡い文學を作る。僕は三度この言葉を繰りかへす。そして、承認を與へよう。
 僕は文學を知らぬ。もいちど始めから、やり直さうか。君、どこから手をつけていつたらよいやら。
 僕こそ、渾沌と自尊心とのかたまりでなかつたらうか。この小説も、ただそれだけのものでなかつたらうか。ああ、なぜ僕はすべてに斷定をいそぐのだ。すべての思念にまとまりをつけなければ生きて行けない、そんなけちな根性をいつたい誰から教はつた?
 書かうか。青松園の最後の朝を書かう。なるやうにしかならぬのだ。
 眞野は裏山へ景色を見に葉藏を誘つた。
「とても景色がいいんですのよ。いまならきつと富士が見えます。」
 葉藏はまつくろい羊毛の襟卷を首に纏ひ、眞野は看護服のうへに松葉の模樣のある羽織を着込み、赤い毛絲のシヨオルを顏がうづまるほどぐるぐる卷いて、いつしよに療養院の裏庭へ下駄はいて出た。庭のすぐ北方には、赭土のたかい崖がそそり立つてゐて、それへせまい鐵の梯子がいつぽんかかつてゐるのであつた。眞野がさきに、その梯子をすばしこい足どりでするするのぼつた。
 裏山には枯草が深くしげつてゐて、霜がいちめんにおりてゐた。
 眞野は兩手の指先へ白い息を吐きかけて温めつつ、はしるやうにして山路をのぼつていつた。山路はゆるい傾斜をもつてくねくねと曲つてゐた。葉藏も、霜を踏み踏みそのあとを追つた。凍つた空氣へたのしげに口笛を吹きこんだ。誰ひとりゐない山。どんなことでもできるのだ。眞野にそんなわるい懸念を持たせたくなかつたのである。
 窪地へ降りた。ここにも枯れた茅がしげつてゐた。眞野は立ちどまつた。葉藏も五六歩はなれて立ちどまつた。すぐわきに白いテントの小屋があるのだ。
 眞野はその小屋を指さして言つた。
「これ、日光浴場。輕症の患者さんたちが、はだかでここへ集るのよ。ええ、いまでも。」
 テントにも霜がひかつてゐた。
「登らう。」
 なぜとは知らず氣がせくのだ。
 眞野は、また駈け出した。葉藏もつづいた。落葉松の細い並木路へさしかかつた。ふたりはつかれて、ぶらぶらと歩きはじめた。
 葉藏は肩であらく息をしながら、大聲で話かけた。
「君、お正月はここでするのか。」
 振りむきもせず、やはり大聲で答へてよこした。
「いいえ。東京へ歸らうと思ひます。」
「ぢや、僕のとこへ遊びに來たまへ。飛騨も小菅も毎日のやうに僕のとこへ來てゐるのだ。まさか牢屋でお正月を送るやうなこともあるまい。きつとうまく行くだらうと思ふよ。」
 まだ見ぬ檢事のすがすがしい笑ひ顏をさへ、胸に畫いてゐたのである。
 ここで結べたら! 古い大家はこのやうなところで、意味ありげに結ぶ。しかし、葉藏も僕も、おそらくは諸君も、このやうなごまかしの慰めに、もはや厭きてゐる。お正月も牢屋も檢事も、僕たちにはどうでもよいことなのだ。僕たちはいつたい、檢事のことなどをはじめから氣にかけてゐたのだらうか。僕たちはただ、山の頂上に行きついてみたいのだ。そこに何がある。何があらう。いささかの期待をそれにのみつないでゐる。
 やうやう頂上にたどりつく。頂上は簡單に地ならしされ、十坪ほどの赭土がむきだされてゐた。まんなかに丸太のひくいあづまやがあり、庭石のやうなものまで、あちこちに据ゑられてゐた。すべて霜をかぶつてゐる。
「駄目。富士が見えないわ。」
 眞野は鼻さきをまつかにして叫んだ。
「この邊に、くつきり見えますのよ。」
 東の曇つた空を指さした。朝日はまだ出てゐないのである。不思議な色をしたきれぎれの雲が、沸きたつては澱み、澱んではまたゆるゆると流れてゐた。
「いや、いいよ。」
 そよ風が頬を切る。
 葉藏は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから三十丈もの斷崖になつてゐて、江の島が眞下に小さく見えた。ふかい朝霧の奧底に、海水がゆらゆらうごいてゐた。
 そして、否、それだけのことである。




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