道化の華
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著者名:太宰治 

 兄は歩きまはるのをやめて、葉藏のまへの火鉢に立ちはだかり、おほきい兩手を炭火のうへにかざした。葉藏はその手のこまかくふるへてゐるのをぼんやり見てゐた。
「女のひとのことも聞かれた。全然知りません、と言つて置いた。飛騨もだいたい同じことを訊問されたさうだ。私の答辯と符合したらしいよ。お前も、ありのままを言へばいい。」
 葉藏には兄の言葉の裏が判つてゐた。しかし、そしらぬふりをしてゐた。
「要らないことは言はなくていい。聞かれたことだけをはつきり答へるのだ。」
「起訴されるのかな。」葉藏はトランプの札の縁を右手のひとさし指で撫でまはしながらひくく呟いた。
「判らん。それは判らん。」語調をつよめてさう言つた。「どうせ四五日は警察へとめられると思ふから、その用意をして行け。あさつての朝、私はここへ迎へに來る。一緒に警察へ行くんだ。」
 兄は、炭火へ瞳をおとして、しばらく默つた。雪解けの雫のおとが浪の響にまじつて聞えた。
「こんどの事件は事件として、」だしぬけに兄はぽつんと言ひだした。それから、なにげなささうな口調ですらすら言ひつづけた。「お前も、ずつと將來のことを考へて見ないといけないよ。家にだつて、さうさう金があるわけでないからな。ことしは、ひどい不作だよ。お前に知らせたつてなんにもならぬだらうが、うちの銀行もいま危くなつてゐるし、たいへんな騷ぎだよ。お前は笑ふかも知れないが、藝術家でもなんでも、だいいちばんに生活のことを考へなければいけないと思ふな。まあ、これから生れ變つたつもりで、ひとふんぱつしてみるといい。私は、もう歸らう。飛騨も小菅も、私の旅籠へ泊めるやうにしたはうがいい。ここで毎晩さわいでゐては、まづいことがある。」

「僕の友だちはみんなよいだらう?」
 葉藏は、わざと眞野のはうへ脊をむけて寢てゐた。その夜から、眞野がもとのやうに、ソフアのベツドへ寢ることになつたのである。
「ええ。――小菅さんとおつしやるかた、」しづかに寢がへりを打つた。「面白いかたですわねえ。」
「ああ。あれで、まだ若いのだよ。僕と三つちがふのだから、二十二だ。僕の死んだ弟と同じとしだ。あいつ、僕のわるいとこばかり眞似してゐやがる。飛騨はえらいのだ。もうひとりまへだよ。しつかりしてゐる。」しばらく間を置いて、小聲で附け加へた。「僕がこんなことをやらかすたんびに一生懸命で僕をいたはるのだ。僕たちにむりして調子を合せてゐるのだよ。ほかのことにはつよいが僕たちにだけおどおどするのだ。だめだ。」
 眞野は答へなかつた。
「あの女のことを話してあげようか。」
 やはり眞野へ脊をむけたまま、つとめてのろのろとさう言つた。なにか氣まづい思ひをしたときに、それを避ける法を知らず、がむしやらにその氣まづさを徹底させてしまはなければかなはぬ悲しい習性を葉藏は持つてゐた。
「くだらん話なんだよ。」眞野がなんとも言はぬさきから葉藏は語りはじめた。「もう誰かから聞いただらう。園といふのだ。銀座のバアにつとめてゐたのさ。ほんたうに、僕はそこのバアへ三度、いや四度しか行かなかつたよ。飛騨も小菅もこの女のことだけは知らなかつたのだからな。僕も教へなかつたし。」よさうか。「くだらない話だよ。女は生活の苦のために死んだのだ。死ぬる間際まで、僕たちは、お互ひにまつたくちがつたことを考へてゐたらしい。園は海へ飛び込むまへに、あなたはうちの先生に似てゐるなあ、なんて言ひやがつた。内縁の夫があつたのだよ。二三年まへまで小學校の先生をしてゐたのだつて。僕は、どうして、あのひとと死なうとしたのかなあ。やつぱり好きだつたのだらうね。」もう彼の言葉を信じてはいけない。彼等は、どうしてこんなに自分を語るのが下手なのだらう。「僕は、これでも左翼の仕事をしてゐたのだよ。ビラを撒いたり、デモをやつたり、柄にないことをしてゐたのさ。滑稽だ。でも、ずゐぶんつらかつたよ。われは先覺者なりといふ榮光にそそのかされただけのことだ。柄ぢやないのだ。どんなにもがいても、崩れて行くだけぢやないか。僕なんかは、いまに乞食になるかも知れないね。家が破産でもしたら、その日から食ふに困るのだもの。なにひとつ仕事ができないし、まあ、乞食だらうな。」ああ、言へば言ふほどおのれが嘘つきで不正直な氣がして來るこの大きな不幸! 「僕は宿命を信じるよ。じたばたしない。ほんたうは僕、畫をかきたいのだ。むしやうにかきたいよ。」頭をごしごし掻いて、笑つた。「よい畫がかけたらねえ。」
 よい畫がかけたらねえ、と言つた。しかも笑つてそれを言つた。青年たちは、むきになつては、何も言へない。ことに本音を、笑ひでごまかす。

 夜が明けた。空に一抹の雲もなかつた。きのふの雪はあらかた消えて、松のしたかげや石の段々の隅にだけ、鼠いろして少しづつのこつてゐた。海には靄がいつぱい立ちこめ、その靄の奧のあちこちから漁船の發動機の音が聞えた。
 院長は朝はやく葉藏の病室を見舞つた。葉藏のからだをていねいに診察してから、眼鏡の底の小さい眼をぱちぱちさせて言つた。
「たいていだいぢやうぶでせう。でも、お氣をつけてね。警察のはうへは私からもよく申して置きます。まだまだ、ほんたうのからだではないのですから。眞野君、顏の絆創膏は剥いでいいだらう。」
 眞野はすぐ、葉藏のガアゼを剥ぎとつた。傷はなほつてゐた。かさぶたさへとれて、ただ赤白い斑點になつてゐた。
「こんなことを申しあげると失禮でせうけれど、これからはほんたうに御勉強なさるやうに。」
 院長はさう言つて、はにかんだやうな眼を海へむけた。
 葉藏もなにやらばつの惡い思ひをした。ベツドのうへに坐つたまま、脱いだ着物をまた着なほしながら默つてゐた。
 そのとき高い笑い聲とともにドアがあき、飛騨と小菅が病室へころげこむやうにしてはひつて來た。みんなおはやうを言ひ交した。院長もこのふたりに、朝の挨拶をして、それから口ごもりつつ言葉を掛けた。
「けふいちにちです。お名殘りをしいですな。」
 院長が去つてから、小菅がいちばんさきに口を切つた。
「如才がないな。蛸みたいなつらだ。」彼等はひとの顏に興味を持つ。顏でもつて、そのひとの全部の價値をきめたがる。「食堂にあのひとの畫があるよ。勳章をつけてゐるんだ。」
「まづい畫だよ。」
 飛騨は、さう言ひ捨ててヴエランダへ出た。けふは兄の着物を借りて着てゐた。茶色のどつしりした布地であつた。襟もとを氣にしいしいヴエランダの椅子に腰かけた。
「飛騨もかうして見ると、大家の風貌があるな。」小菅もヴエランダへ出た。「葉ちやん。トランプしないか。」
 ヴエランダへ椅子をもち出して三人は、わけのわからぬゲエムを始めたのである。
 勝負のなかば、小菅は眞面目に呟いた。
「飛騨は氣取つてるねえ。」
「馬鹿。君こそ。なんだその手つきは。」
 三人はくつくつ笑ひだし、いつせいにそつと隣りのヴエランダを盜み見た。い號室の患者も、ろ號室の患者も、日光浴用の寢臺に横はつてゐて、三人の樣子に顏をあかくして笑つてゐた。
「大失敗。知つてゐたのか。」
 小菅は口を大きくあけて、葉藏へ目くばせした。三人は、思ひきり聲をたてて笑ひ崩れた。彼等は、しばしばこのやうな道化を演ずる。トランプしないか、と小菅が言ひ出すと、もはや葉藏も飛騨もそのかくされたもくろみをのみこむのだ。幕切れまでのあらすぢをちやんと心得てゐるのである。彼等は天然の美しい舞臺裝置を見つけると、なぜか芝居をしたがるのだ。それは、紀念の意味かも知れない。この場合、舞臺の背景は、朝の海である。けれども、このときの笑ひ聲は、彼等にさへ思ひ及ばなかつたほどの大事件を生んだ。眞野がその療養院の看護婦長に叱られたのである。笑ひ聲が起つて五分も經たぬうちに眞野が看護婦長の部屋に呼ばれ、お靜かになさいとずゐぶんひどく叱られた。泣きだしさうにしてその部屋から飛び出し、トランプよして病室でごろごろしてゐる三人へ、このことを知らせた。
 三人は、痛いほどしたたかにしよげて、しばらくただ顏を見合せてゐた。彼等の有頂天な狂言を、現實の呼びごゑが、よせやいとせせら笑つてぶちこはしたのだ。これは、ほとんど致命的でさへあり得る。
「いいえ、なんでもないんです。」眞野は、かへつてはげますやうにして言つた。「この病棟には、重症患者がひとりもゐないのですし、それにきのふも、ろ號室のお母さまが私と廊下で逢つたとき、賑やかでいいとおつしやつて、喜んで居られましたのよ。毎日、私たちはあなたがたのお話を聞いて笑はされてばかりゐるつて、さうおつしやつたわ。いいんですのよ。かまひません。」
「いや、」小菅はソフアから立ちあがつた。「よくないよ。僕たちのおかげで君が恥かいたんだ。婦長のやつ、なぜ僕たちに直接言はないのだ。ここへ連れて來いよ。僕たちをそんなにきらひなら、いますぐにでも退院させればいい。いつでも退院してやる。」
 三人とも、このとつさの間に、本氣で退院の腹をきめた。殊にも葉藏は、自動車に乘つて海濱づたひに遁走して行くはればれしき四人のすがたをはるかに思つた。
 飛騨もソフアから立ちあがつて、笑ひながら言つた。「やらうか。みんなで婦長のところへ押しかけて行かうか。僕たちを叱るなんて、馬鹿だ。」
「退院しようよ。」小菅はドアをそつと蹴つた。「こんなけちな病院は、面白くないや。叱るのは構はないよ。しかし、叱る以前の心持ちがいやなんだ。僕たちをなにか不良少年みたいに考へてゐたにちがひないのさ。頭がわるくてブルジヨア臭いぺらぺらしたふつうのモダンボーイだと思つてゐるんだ。」
 言ひ終へて、またドアをまへよりすこし強く蹴つてやつた。それから、堪へかねたやうにして噴きだした。
 葉藏はベツドへどしんと音たてて寢ころがつた。「それぢや、僕なんかは、さしづめ色白な戀愛至上主義者といふやうなところだ。もう、いかん。」
 彼等は、この野蠻人の侮辱に、尚もはらわたの煮えくりかへる思ひをしてゐるのだが、さびしく思ひ直して、それをよい加減に茶化さうと試みる。彼等はいつもさうなのだ。
 けれども眞野は率直だつた。ドアのわきの壁に、兩腕をうしろへまはしてよりかかり、めくれあがつた上唇をことさらにきゆつと尖らせて言ふのであつた。
「さうなんでございますのよ。ずゐぶんですわ。ゆうべだつて、婦長室へ看護婦をおほぜいあつめて、歌留多なんかして大さわぎだつたくせに。」
「さうだ。十二時すぎまできやつきやつ言つてゐたよ。ちよつと馬鹿だな。」
 葉藏はさう呟きつつ、枕元に散らばつてある木炭紙をいちまい拾ひあげ、仰向に寢たままでそれへ落書をはじめた。
「ご自分がよくないことをしてゐるから、ひとのよいところがわからないんだわ。噂ですけれど、婦長さんは院長さんのおめかけなんですつて。」
「さうか。いいところがある。」小菅は大喜びであつた。彼等はひとの醜聞を美徳のやうに考へる。たのもしいと思ふのである。「勳章がめかけを持つたか。いいところがあるよ。」
「ほんたうに、みなさん、罪のないことをおつしやつては、お笑ひになつていらつしやるのに、判らないのかしら。お氣になさらず、うんとおさわぎになつたはうが、ようございますわ。かまひませんとも。けふ一日ですものねえ。ほんたうに誰にだつてお叱られになつたことのない、よい育ちのかたばかりなのに。」片手を顏へあてて急にひくく泣き出した。泣きながらドアをあけた。
 飛騨はひきとめて囁いた。「婦長のとこへ行つたつて駄目だよ。よし給へ。なんでもないぢやないか。」
 顏を兩手で覆つたまま、二三度つづけさまにうなづいて廊下へ出た。
「正義派だ。」眞野が去つてから、小菅はにやにや笑つてソフアへ坐つた。「泣き出しちやつた。自分の言葉に醉つてしまつたんだよ。ふだんは大人くさいことを言つてゐても、やつぱり女だな。」
「變つてるよ。」飛騨は、せまい病室をのしのし歩きまはつた。「はじめから僕、變つてると思つてゐたんだよ。をかしいなあ。泣いて飛び出さうとするんだから、おどろいたよ。まさか婦長のとこへ行つたんぢやないだらうな。」
「そんなことはないよ。」葉藏は平氣なおももちを裝つてさう答へ、落書した木炭紙を小菅のはうへ投げてやつた。
「婦長の肖像畫か。」小菅はげらげら笑ひこけた。
「どれどれ。」飛騨も立つたままで木炭紙を覗きこんだ。「女怪だね。けつさくだよ。これあ。似てゐるのか。」
「そつくりだ。いちど院長について、この病室へも來たことがあるんだ。うまいもんだなあ。鉛筆を貸せよ。」小菅は、葉藏から鉛筆を借りて、木炭紙へ書き加へた。「これへかう角を生やすのだ。いよいよ似て來たな。婦長室のドアへ貼つてやらうか。」
「そとへ散歩に出てみようよ。」葉藏はベツドから降りて脊のびした。脊のびしながら、こつそり呟いてみた。「ポンチ畫の大家。」

 ポンチ畫の大家。そろそろ僕も厭きて來た。これは通俗小説でなからうか。ともすれば硬直したがる僕の神經に對しても、また、おそらくはおなじやうな諸君の神經に對しても、いささか毒消しの意義あれかし、と取りかかつた一齣であつたが、どうやら、これは甘すぎた。僕の小説が古典になれば、――ああ、僕は氣が狂つたのかしら、――諸君は、かへつて僕のこんな註釋を邪魔にするだらう。作家の思ひも及ばなかつたところにまで、勝手な推察をしてあげて、その傑作である所以を大聲で叫ぶだらう。ああ、死んだ大作家は仕合せだ。生きながらへてゐる愚作者は、おのれの作品をひとりでも多くのひとに愛されようと、汗を流して見當はづれの註釋ばかりつけてゐる。そして、まづまづ註釋だらけのうるさい駄作をつくるのだ。勝手にしろ、とつつぱなす、そんな剛毅な精神が僕にはないのだ。よい作家になれないな。やつぱり甘ちやんだ。さうだ。大發見をしたわい。しん底からの甘ちやんだ。甘さのなかでこそ、僕は暫時の憩ひをしてゐる。ああ、もうどうでもよい。ほつて置いて呉れ。道化の華とやらも、どうやらここでしぼんだやうだ。しかも、さもしく醜くきたなくしぼんだ。完璧へのあこがれ。傑作へのさそひ。「もう澤山だ。奇蹟の創造主(つくりぬし)。おのれ!」
 眞野は洗面所へ忍びこんだ。心ゆくまで泣かうと思つた。しかし、そんなにも泣けなかつたのである。洗面所の鏡を覗いて、涙を拭き、髮をなほしてから、食堂へおそい朝食をとりに出掛けた。
 食堂の入口ちかくのテエブルにへ號室の大學生が、からになつたスウプの皿をまへに置き、ひとりくつたくげに坐つてゐた。
 眞野を見て微笑みかけた。「患者さんは、お元氣のやうですね。」
 眞野は立ちどまつて、そのテエブルの端を固くつかまへながら答へた。
「ええ、もう罪のないことばかりおつしやつて、私たちを笑はせていらつしやいます。」
「そんならいい。畫家ですつて?」
「ええ。立派な畫をかきたいつて、しよつちゆうおつしやつて居られますの。」言ひかけて耳まで赤くした。「眞面目なんですのよ。眞面目でございますから、眞面目でございますからお苦しいこともおこるわけね。」
「さうです。さうです。」大學生も顏をあからめつつ、心から同意した。
 大學生はちかく退院できることにきまつたので、いよいよ寛大になつてゐたのである。
 この甘さはどうだ。諸君は、このやうな女をきらひであらうか。畜生! 古めかしいと笑ひ給へ。ああ、もはや憩ひも、僕にはてれくさくなつてゐる。僕は、ひとりの女をさへ、註釋なしには愛することができぬのだ。おろかな男は、やすむのにさへ、へまをする。

「あそこだよ。あの岩だよ。」
 葉藏は梨の木の枯枝のあひだからちらちら見える大きなひらたい岩を指さした。岩のくぼみにはところどころ、きのふの雪がのこつてゐた。
「あそこから、はねたのだ。」葉藏は、おどけものらしく眼をくるくると丸くして言ふのである。
 小菅は、だまつてゐた。ほんたうに平氣で言つてゐるのかしら、と葉藏のこころを忖度してゐた。葉藏も平氣で言つてゐるのではなかつたが、しかしそれを不自然でなく言へるほどの伎倆をもつてゐたのである。
「かへらうか。」飛騨は、着物の裾を兩手でぱつとはしよつた。
 三人は、砂濱をひつかへしてあるきだした。海は凪いでゐた。まひるの日を受けて、白く光つてゐた。
 葉藏は、海へ石をひとつ抛つた。
「ほつとするよ。いま飛びこめば、もうなにもかも問題でない。借金も、アカデミイも、故郷も、後悔も、傑作も、恥も、マルキシズムも、それから友だちも、森も花も、もうどうだつていいのだ。それに氣がついたときは、僕はあの岩のうへで笑つたな。ほつとするよ。」
 小菅は、昂奮をかくさうとして、やたらに貝を拾ひはじめた。
「誘惑するなよ。」飛騨はむりに笑ひだした。「わるい趣味だ。」
 葉藏も笑ひだした。三人の足音がさくさくと氣持ちよく皆の耳へひびく。
「怒るなよ。いまのはちよつと誇張があつたな。」葉藏は飛騨と肩をふれ合せながらあるいた。「けれども、これだけは、ほんたうだ。女がねえ、飛び込むまへにどんなことを囁いたか。」
 小菅は好奇心に燃えた眼をずるさうに細め、わざと二人から離れて歩いてゐた。
「まだ耳についてゐる。田舍の言葉で話がしたいな、と言ふのだ。女の國は南のはづれだよ。」
「いけない! 僕にはよすぎる。」
「ほんと。君、ほんたうだよ。ははん。それだけの女だ。」
 大きい漁船が砂濱にあげられてやすんでゐた。その傍に直徑七八尺もあるやうな美事な魚籃が二つころがつてゐた。小菅は、その船のくろい横腹へ、拾つた貝を、力いつぱいに投げつけた。
 三人は、窒息するほど氣まづい思ひをしてゐた。もし、この沈默が、もう一分間つづいたなら、彼等はいつそ氣輕げに海へ身を躍らせたかも知れぬ。
 小菅がだしぬけに叫んだ。
「見ろ、見ろ。」前方の渚を指さしたのである。「い號室とろ號室だ!」
 季節はづれの白いパラソルをさして、二人の娘がこつちへそろそろ歩いて來た。
「發見だな。」葉藏も蘇生の思ひであつた。
「話かけようか。」小菅は、片足あげて靴の砂をふり落し、葉藏の顏を覗きこんだ。命令一下、駈けださうといふのである。
「よせ、よせ。」飛騨は、きびしい顏をして小菅の肩をおさへた。
 パラソルは立ちどまつた。しばらく何か話合つてゐたが、それからくるつとこつちへ背をむけて、またしづかに歩きだした。
「追ひかけようか。」こんどは葉藏がはしやぎだした。飛騨のうつむいてゐる顏をちらと見た。「よさう。」
 飛騨はわびしくてならぬ。この二人の友だちからだんだん遠のいて行くおのれのしなびた血を、いまはつきりと感じたのだ。生活からであらうか、と考へた。飛騨の生活はややまづしかつたのである。
「だけど、いいなあ。」小菅は西洋ふうに肩をすくめた。なんとかしてこの場をうまく取りつくろつてやらうと努めるのである。「僕たちの散歩してゐるのを見て、そそられたんだよ。若いんだものな。可愛さうだなあ。へんな心地になつちやつた。おや、貝をひろつてるよ。僕の眞似をしてゐやがる。」
 飛騨は思ひ直して微笑んだ。葉藏のわびるやうな瞳とぶつかつた。二人ながら頬をあからめた。判つてゐる。お互ひがいたはりたい心でいつぱいなんだ。彼等は弱きをいつくしむ。
 三人は、ほの温い海風に吹かれ、遠くのパラソルを眺めつつあるいた。
 はるか療養院の白い建物のしたには、眞野が彼等の歸りを待つて立つてゐる。ひくい門柱によりかかり、まぶしさうに右手を額へかざしてゐる。

 最後の夜に、眞野は浮かれてゐた。寢てからも、おのれのつつましい家族のことや、立派な祖先のことをながながとしやべつた。葉藏は夜のふけるとともに、むつつりして來た。やはり、眞野のはうへ背をむけて、氣のない返事をしながらほかのことを思つてゐた。
 眞野は、やがておのれの眼のうへの傷について話だしたのである。
「私が三つのとき、」なにげなく語らうとしたらしかつたが、しくじつた。聲が喉へひつからまる。「ランプをひつくりかへして、やけどしたんですつて。ずゐぶん、ひがんだものでございますのよ。小學校へあがつてゐたじぶんには、この傷、もつともつと大きかつたんですの。學校のお友だちは私を、ほたる、ほたる。」すこしとぎれた。「さう呼ぶんです。私、そのたんびに、きつとかたきを討たうと思ひましたわ。ええ、ほんたうにさう思つたわ。えらくならうと思ひましたの。」ひとりで笑ひだした。「をかしいですのねえ。えらくなれるもんですか。眼鏡かけませうかしら。眼鏡かけたら、この傷がすこしかくれるんぢやないかしら。」
「よせよ。かへつてをかしい。」葉藏は怒つてでもゐるやうに、だしぬけに口を挾んだ。女に愛情を感じたとき、わざとじやけんにしてやる古風さを、彼もやはり持つてゐるのであらう。「そのままでいいのだ。目立ちはしないよ。もう眠つたらどうだらう。あしたは早いのだよ。」
 眞野は、だまつた。あした別れてしまふのだ。おや、他人だつたのだ。恥を知れ。恥を知れ。私は私なりに誇りを持たう。せきをしたり溜息ついたり、それからばたんばたんと亂暴に寢返りをうつたりした。
 葉藏は素知らぬふりをしてゐた。なにを案じつつあるかは、言へぬ。
 僕たちはそれより、浪の音や鴎の聲に耳傾けよう。そしてこの四日間の生活をはじめから思ひ起さう。みづからを現實主義者と稱してゐる人は言ふかも知れぬ。この四日間はポンチに滿ちてゐたと。それならば答へよう。おのれの原稿が、編輯者の机のうへでおほかた土瓶敷の役目をしてくれたらしく、黒い大きな燒跡をつけられて送り返されたこともポンチ。おのれの妻のくらい過去をせめ、一喜一憂したこともポンチ。質屋の暖簾をくぐるのに、それでも襟元を掻き合せ、おのれのおちぶれを見せまいと風采ただしたこともポンチ。僕たち自身、ポンチの生活を送つてゐる。そのやうな現實にひしがれた男のむりに示す我慢の態度。君はそれを理解できぬならば、僕は君とは永遠に他人である。どうせポンチならよいポンチ。ほんたうの生活。ああ、それは遠いことだ。僕は、せめて、人の情にみちみちたこの四日間をゆつくりゆつくりなつかしまう。たつた四日の思ひ出の、五年十年の暮しにまさることがある。たつた四日の思ひ出の、ああ、一生涯にまさることがある。
 眞野のおだやかな寢息が聞えた。葉藏は沸きかへる思ひに堪へかねた。眞野のはうへ寢がへりを打たうとして、長いからだをくねらせたら、はげしい聲を耳もとへささやかれた。
 やめろ! ほたるの信頼を裏切るな。

 夜のしらじらと明けはなれたころ、二人はもう起きてしまつた。葉藏はけふ退院するのである。僕は、この日の近づくことを恐れてゐた。それは愚作者のだらしない感傷であらう。この小説を書きながら僕は、葉藏を救ひたかつた。いや、このバイロンに化け損ねた一匹の泥狐を許してもらひたかつた。それだけが苦しいなかの、ひそかな祈願であつた。しかしこの日の近づくにつれ、僕は前にもまして荒涼たる氣配のふたたび葉藏を、僕をしづかに襲うて來たのを覺えるのだ。この小説は失敗である。なんの飛躍もない、なんの解脱もない。僕はスタイルをあまり氣にしすぎたやうである。そのためにこの小説は下品にさへなつてゐる。たくさんの言はでものことを述べた。しかも、もつと重要なことがらをたくさん言ひ落したやうな氣がする。これはきざな言ひかたであるが、僕が長生きして、幾年かのちにこの小説を手に取るやうなことでもあるならば、僕はどんなにみじめだらう。おそらくは一頁も讀まぬうちに僕は堪へがたい自己嫌惡にをののいて、卷を伏せるにきまつてゐる。いまでさへ、僕は、まへを讀みかへす氣力がないのだ。ああ、作家は、おのれのすがたをむき出しにしてはいけない。それは作家の敗北である。美しい感情を以て、人は、惡い文學を作る。僕は三度この言葉を繰りかへす。そして、承認を與へよう。
 僕は文學を知らぬ。もいちど始めから、やり直さうか。君、どこから手をつけていつたらよいやら。
 僕こそ、渾沌と自尊心とのかたまりでなかつたらうか。この小説も、ただそれだけのものでなかつたらうか。ああ、なぜ僕はすべてに斷定をいそぐのだ。すべての思念にまとまりをつけなければ生きて行けない、そんなけちな根性をいつたい誰から教はつた?
 書かうか。青松園の最後の朝を書かう。なるやうにしかならぬのだ。
 眞野は裏山へ景色を見に葉藏を誘つた。
「とても景色がいいんですのよ。いまならきつと富士が見えます。」
 葉藏はまつくろい羊毛の襟卷を首に纏ひ、眞野は看護服のうへに松葉の模樣のある羽織を着込み、赤い毛絲のシヨオルを顏がうづまるほどぐるぐる卷いて、いつしよに療養院の裏庭へ下駄はいて出た。庭のすぐ北方には、赭土のたかい崖がそそり立つてゐて、それへせまい鐵の梯子がいつぽんかかつてゐるのであつた。眞野がさきに、その梯子をすばしこい足どりでするするのぼつた。
 裏山には枯草が深くしげつてゐて、霜がいちめんにおりてゐた。
 眞野は兩手の指先へ白い息を吐きかけて温めつつ、はしるやうにして山路をのぼつていつた。山路はゆるい傾斜をもつてくねくねと曲つてゐた。葉藏も、霜を踏み踏みそのあとを追つた。凍つた空氣へたのしげに口笛を吹きこんだ。誰ひとりゐない山。どんなことでもできるのだ。眞野にそんなわるい懸念を持たせたくなかつたのである。
 窪地へ降りた。ここにも枯れた茅がしげつてゐた。眞野は立ちどまつた。葉藏も五六歩はなれて立ちどまつた。すぐわきに白いテントの小屋があるのだ。
 眞野はその小屋を指さして言つた。
「これ、日光浴場。輕症の患者さんたちが、はだかでここへ集るのよ。ええ、いまでも。」
 テントにも霜がひかつてゐた。
「登らう。」
 なぜとは知らず氣がせくのだ。
 眞野は、また駈け出した。葉藏もつづいた。落葉松の細い並木路へさしかかつた。ふたりはつかれて、ぶらぶらと歩きはじめた。
 葉藏は肩であらく息をしながら、大聲で話かけた。
「君、お正月はここでするのか。」
 振りむきもせず、やはり大聲で答へてよこした。
「いいえ。東京へ歸らうと思ひます。」
「ぢや、僕のとこへ遊びに來たまへ。飛騨も小菅も毎日のやうに僕のとこへ來てゐるのだ。まさか牢屋でお正月を送るやうなこともあるまい。きつとうまく行くだらうと思ふよ。」
 まだ見ぬ檢事のすがすがしい笑ひ顏をさへ、胸に畫いてゐたのである。
 ここで結べたら! 古い大家はこのやうなところで、意味ありげに結ぶ。しかし、葉藏も僕も、おそらくは諸君も、このやうなごまかしの慰めに、もはや厭きてゐる。お正月も牢屋も檢事も、僕たちにはどうでもよいことなのだ。僕たちはいつたい、檢事のことなどをはじめから氣にかけてゐたのだらうか。僕たちはただ、山の頂上に行きついてみたいのだ。そこに何がある。何があらう。いささかの期待をそれにのみつないでゐる。
 やうやう頂上にたどりつく。頂上は簡單に地ならしされ、十坪ほどの赭土がむきだされてゐた。まんなかに丸太のひくいあづまやがあり、庭石のやうなものまで、あちこちに据ゑられてゐた。すべて霜をかぶつてゐる。
「駄目。富士が見えないわ。」
 眞野は鼻さきをまつかにして叫んだ。
「この邊に、くつきり見えますのよ。」
 東の曇つた空を指さした。朝日はまだ出てゐないのである。不思議な色をしたきれぎれの雲が、沸きたつては澱み、澱んではまたゆるゆると流れてゐた。
「いや、いいよ。」
 そよ風が頬を切る。
 葉藏は、はるかに海を見おろした。すぐ足もとから三十丈もの斷崖になつてゐて、江の島が眞下に小さく見えた。ふかい朝霧の奧底に、海水がゆらゆらうごいてゐた。
 そして、否、それだけのことである。




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