津軽
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著者名:太宰治 

旭(あさひ)座といふ名前が『火(ひ)』の字に関係があるから焼けたのだといふ噂も聞きました。二十年も前の事です。
 七つか、八つの頃、五所川原の賑やかな通りを歩いて、どぶに落ちました。かなり深くて、水が顎のあたりまでありました。三尺ちかくあつたのかも知れません。夜でした。上から男の人が手を差し出してくれたので、それにつかまりました。ひき上げられて衆人環視の中で裸にされたので、実に困りました。ちやうど古着屋のまへでしたので、その店の古着を早速着せられました。女の子の浴衣でした。帯も、緑色の兵児帯でした。ひどく恥かしく思ひました。叔母が顔色を変へて走つて来ました。私は叔母に可愛がられて育ちました。私は、男ぶりが悪いので、何かと人にからかはれて、ひとりでひがんでゐましたが、叔母だけは、私を、いい男だと言つてくれました。他の人が、私の器量の悪口を言ふと、叔母は、本気に怒りました。みんな、遠い思ひ出になりました。」
 中畑さんのひとり娘のけいちやんと一緒に中畑さんの家を出て、
「僕は岩木川を、ちよつと見たいんだけどな。ここから遠いか。」
 すぐそこだといふ。
「それぢや、連れて行つて。」
 けいちやんの案内で町を五分も歩いたかと思ふと、もう大川である。子供の頃、叔母に連れられて、この河原に何度も来た記憶があるが、もつと町から遠かつたやうに覚えてゐる。子供の足には、これくらゐの道のりでも、ひどく遠く感ぜられたのであらう。それに私は、家の中にばかりゐて、外へ出るのがおつかなくて、外出の時には目まひするほど緊張してゐたものだから、なほさら遠く思はれたのだらう。橋がある。これは、記憶とそんなに違はず、いま見てもやつぱり同じ様に、長い橋だ。
「いぬゐばし、と言つたかしら。」
「ええ、さう。」
「いぬゐ、つて、どんな字だつたかしら。方角の乾(いぬゐ)だつたかな?」
「さあ、さうでせう。」笑つてゐる。
「自信無し、か。どうでもいいや。渡つてみよう。」
 私は片手で欄干を撫でながらゆつくり橋を渡つて行つた。いい景色だ。東京近郊の川では、荒川放水路が一ばん似てゐる。河原一面の緑の草から陽炎がのぼつて、何だか眼がくるめくやうだ。さうして岩木川が、両岸のその緑の草を舐めながら、白く光つて流れてゐる。
「夏には、ここへみんな夕涼みにまゐります。他に行くところもないし。」
 五所川原の人たちは遊び好きだから、それはずいぶん賑はふ事だらうと思つた。
「あれが、こんど出来た招魂堂です。」けいちやんは、川の上流のはうを指差して教へて、「父の自慢の招魂堂。」と笑ひながら小声で言ひ添へた。
 なかなか立派な建築物のやうに見えた。中畑さんは在郷軍人の幹部なのである。この招魂堂改築に就いても、れいの侠気を発揮して大いに奔走したに違ひない。橋を渡りつくしたので、私たちは橋の袂に立つて、しばらく話をした。
「林檎はもう、間伐(かんばつ)といふのか、少しづつ伐つて、伐つたあとに馬鈴薯だか何だか植ゑるつて話を聞いたけど。」
「土地によるのぢやないんですか。この辺では、まだ、そんな話は。」
 大川の土手の陰に、林檎畑があつて、白い粉つぽい花が満開である。私は林檎の花を見ると、おしろいの匂ひを感ずる。
「けいちやんからも、ずいぶん林檎を送つていただいたね。こんど、おむこさんをもらふんだつて?」
「ええ。」少しもわるびれず、真面目に首肯いた。
「いつ? もう近いの?」
「あさつてよ。」
「へえ?」私は驚いた。けれども、けいちやんは、まるでひと事のやうに、けろりとしてゐる。「帰らう。いそがしいんだらう?」
「いいえ、ちつとも。」ひどく落ちついてゐる。ひとり娘で、さうして養子を迎へ、家系を嗣がうとしてゐるひとは、十九や二十の若さでも、やつぱりどこか違つてゐる、と私はひそかに感心した。
「あした小沼へ行つて、」引返して、また長い橋を渡りながら、私は他の事を言つた。「たけに逢はうと思つてゐるんだ。」
「たけ。あの、小説に出て来るたけですか。」
「うん。さう。」
「よろこぶでせうねえ。」
「どうだか。逢へるといいけど。」
 このたび私が津軽へ来て、ぜひとも、逢つてみたいひとがゐた。私はその人を、自分の母だと思つてゐるのだ。三十年ちかくも逢はないでゐるのだが、私は、そのひとの顔を忘れない。私の一生は、その人に依つて確定されたといつていいかも知れない。以下は、自作「思ひ出」の中の文章である。
「六つ七つになると思ひ出もはつきりしてゐる。私がたけといふ女中から本を読むことを教へられ二人で様々の本を読み合つた。たけは私の教育に夢中であつた。私は病身だつたので、寝ながらたくさん本を読んだ。読む本がなくなれば、たけは村の日曜学校などから子供の本をどしどし借りて来て私に読ませた。私は黙読することを覚えてゐたので、いくら本を読んでも疲れないのだ。たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、地獄極楽の御絵掛地を見せて説明した。火を放(つ)けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を背負はされ、めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを巻かれて、せつながつてゐた。血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を抜かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。
 そのお寺の裏は小高い墓地になつてゐて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒塔婆が林のやうに立つてゐた。卒塔婆には、満月ほどの大きさで車のやうな黒い鉄の輪のついてゐるのがあつて、その輪をからから廻して、やがて、そのまま止つてじつと動かないならその廻した人は極楽へ行き、一旦とまりさうになつてから、又からんと逆に廻れば地獄へ落ちる、とたけは言つた。たけが廻すと、いい音をたててひとしきり廻つて、かならずひつそりと止るのだけれど、私が廻すと後戻りすることがたまたまあるのだ。秋のころと記憶するが、私がひとりでお寺へ行つてその金輪のどれを廻して見ても皆言ひ合せたやうにからんからんと逆廻りした日があつたのである。私は破れかけるかんしやくだまを抑へつつ何十回となく執拗に廻しつづけた。日が暮れかけて来たので、私は絶望してその墓地から立ち去つた。(中略)やがて私は故郷の小学校へ入つたが、追憶もそれと共に一変する。たけは、いつの間にかゐなくなつてゐた。或漁村へ嫁に行つたのであるが、私がそのあとを追ふだらうといふ懸念からか、私には何も言はずに突然ゐなくなつた。その翌年だかのお盆のとき、たけは私のうちへ遊びに来たが、なんだかよそよそしくしてゐた。私に学校の成績を聞いた。私は答へなかつた。ほかの誰かが代つて知らせたやうだ。たけは、油断大敵でせえ、と言つただけで格別ほめもしなかつた。」
 私の母は病身だつたので、私は母の乳は一滴も飲まず、生れるとすぐ乳母に抱かれ、三つになつてふらふら立つて歩けるやうになつた頃、乳母にわかれて、その乳母の代りに子守としてやとはれたのが、たけである。私は夜は叔母に抱かれて寝たが、その他はいつも、たけと一緒に暮したのである。三つから八つまで、私はたけに教育された。さうして、或る朝、ふと眼をさまして、たけを呼んだが、たけは来ない。はつと思つた。何か、直感で察したのだ。私は大声挙げて泣いた。たけゐない、たけゐない、と断腸の思ひで泣いて、それから、二、三日、私はしやくり上げてばかりゐた。いまでも、その折の苦しさを、忘れてはゐない。それから、一年ほど経つて、ひよつくりたけと逢つたが、たけは、へんによそよそしくしてゐるので、私にはひどく怨めしかつた。それつきり、たけと逢つてゐない。四、五年前、私は「故郷に寄せる言葉」のラジオ放送を依頼されて、その時、あの「思ひ出」の中のたけの箇所を朗読した。故郷といへば、たけを思ひ出すのである。たけは、あの時の私の朗読放送を聞かなかつたのであらう。何のたよりも無かつた。そのまま今日に到つてゐるのであるが、こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ逢ひたいと切に念願をしてゐたのだ。いいところは後廻しといふ、自制をひそかにたのしむ趣味が私にある。私はたけのゐる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。いや、小泊へ行く前に、五所川原からすぐ弘前へ行き、弘前の街を歩いてそれから大鰐温泉へでも行つて一泊して、さうして、それから最後に小泊へ行かうと思つてゐたのだが、東京からわづかしか持つて来ない私の旅費も、そろそろ心細くなつてゐたし、それに、さすがに旅の疲れも出て来たのか、これからまたあちこち廻つて歩くのも大儀になつて来て、大鰐温泉はあきらめ、弘前市には、いよいよ東京へ帰る時に途中でちよつと立寄らうといふ具合に予定を変更して、けふは五所川原の叔母の家に一泊させてもらつて、あす、五所川原からまつすぐに、小泊へ行つてしまはうと思ひ立つたのである。けいちやんと一緒にハイカラ町の叔母の家へ行つてみると、叔母は不在であつた。叔母のお孫さんが病気で弘前の病院に入院してゐるので、それの附添に行つてゐるといふのである。
「あなたが、こつちへ来てゐるといふ事を、母はもう知つて、ぜひ逢ひたいから弘前へ寄こしてくれつて電話がありましたよ。」と従姉(いとこ)が笑ひながら言つた。叔母はこの従姉にお医者さんの養子をとつて家を嗣がせてゐるのである。
「あ、弘前には、東京へ帰る時に、ちよつと立ち寄らうと思つてゐますから、病院にもきつと行きます。」
「あすは小泊の、たけに逢ひに行くんださうです。」けいちやんは、何かとご自分の支度でいそがしいだらうに、家へ帰らず、のんきに私たちと遊んでゐる。
「たけに。」従姉は、真面目な顔になり、「それは、いい事です。たけも、なんぼう、よろこぶか、わかりません。」従姉は、私がたけを、どんなにいままで慕つてゐたか知つてゐるやうであつた。
「でも、逢へるかどうか。」私には、それが心配であつた。もちろん打合せも何もしてゐるわけではない。小泊の越野たけ。ただそれだけをたよりに、私はたづねて行くのである。
「小泊行きのバスは、一日に一回とか聞いてゐましたけど、」とけいちやんは立つて、台所に貼りつけられてある時間表を調べ、「あしたの一番の汽車でここをお立ちにならないと、中里からのバスに間に合ひませんよ。大事な日に、朝寝坊をなさらないやうに。」ご自分の大事な日をまるで忘れてゐるみたいであつた。一番の八時の汽車で五所川原を立つて、津軽鉄道を北上し、金木を素通りして、津軽鉄道の終点の中里に九時に着いて、それから小泊行きのバスに乗つて約二時間。あすのお昼頃までには小泊へ着けるといふ見込みがついた。日が暮れて、けいちやんがやつとお家へ帰つたのと入違ひに、先生(お医者さんの養子を、私たちは昔から固有名詞みたいに、さう呼んでゐた)が病院を引上げて来られ、それからお酒を飲んで、私は何だかたわいない話ばかりして夜を更かした。
 翌る朝、従姉に起こされ、大急ぎでごはんを食べて停車場に駈けつけ、やつと一番の汽車に間に合つた。けふもまた、よいお天気である。私の頭は朦朧としてゐる。二日酔ひの気味である。ハイカラ町の家には、こはい人もゐないので、前夜、少し飲みすぎたのである。脂汗が、じつとりと額に涌いて出る。爽かな朝日が汽車の中に射込んで、私ひとりが濁つて汚れて腐敗してゐるやうで、どうにも、かなはない気持である。このやうな自己嫌悪を、お酒を飲みすぎた後には必ず、おそらくは数千回、繰り返して経験しながら、未だに酒を断然廃す気持にはなれないのである。この酒飲みといふ弱点のゆゑに、私はとかく人から軽んぜられる。世の中に、酒といふものさへなかつたら、私は或いは聖人にでもなれたのではなからうか、と馬鹿らしい事を大真面目で考へて、ぼんやり窓外の津軽平野を眺め、やがて金木を過ぎ、芦野公園といふ踏切番の小屋くらゐの小さい駅に着いて、金木の町長が東京からの帰りに上野で芦野公園の切符を求め、そんな駅は無いと言はれ憤然として、津軽鉄道の芦野公園を知らんかと言ひ、駅員に三十分も調べさせ、たうとう芦野公園の切符をせしめたといふ昔の逸事を思ひ出し、窓から首を出してその小さい駅を見ると、いましも久留米絣の着物に同じ布地のモンペをはいた若い娘さんが、大きい風呂敷包みを二つ両手にさげて切符を口に咥へたまま改札口に走つて来て、眼を軽くつぶつて改札の美少年の駅員に顔をそつと差し出し、美少年も心得て、その真白い歯列の間にはさまれてある赤い切符に、まるで熟練の歯科医が前歯を抜くやうな手つきで、器用にぱちんと鋏を入れた。少女も美少年も、ちつとも笑はぬ。当り前の事のやうに平然としてゐる。少女が汽車に乗つたとたんに、ごとんと発車だ。まるで、機関手がその娘さんの乗るのを待つてゐたやうに思はれた。こんなのどかな駅は、全国にもあまり類例が無いに違ひない。金木町長は、こんどまた上野駅で、もつと大声で、芦野公園と叫んでもいいと思つた。汽車は、落葉松の林の中を走る。この辺は、金木の公園になつてゐる。沼が見える。芦の湖といふ名前である。この沼に兄は、むかし遊覧のボートを一艘寄贈した筈である。すぐに、中里に着く。人口、四千くらゐの小邑である。この辺から津軽平野も狭小になり、この北の内潟(うちがた)、相内(あひうち)、脇元(わきもと)などの部落に到ると水田もめつきり少くなるので、まあ、ここは津軽平野の北門と言つていいかも知れない。私は幼年時代に、ここの金丸(かなまる)といふ親戚の呉服屋さんへ遊びに来た事があるが、四つくらゐの時であらうか、村のはづれの滝の他には、何も記憶に残つてゐない。
「修つちやあ。」と呼ばれて、振り向くと、その金丸の娘さんが笑ひながら立つてゐる。私より一つ二つ年上だつた筈であるが、あまり老けてゐない。
「久し振りだなう。どこへ。」
「いや、小泊だ。」私はもう、早くたけに逢ひたくて、他の事はみな上の空である。「このバスで行くんだ。それぢやあ、失敬。」
「さう。帰りには、うちへも寄つて下さいよ。こんどあの山の上に、あたらしい家を建てましたから。」
 指差された方角を見ると、駅から右手の緑の小山の上に新しい家が一軒立つてゐる。たけの事さへ無かつたら、私はこの幼馴染との奇遇をよろこび、あの新宅にもきつと立寄らせていただき、ゆつくり中里の話でも伺つたのに違ひないが、何せ一刻を争ふみたいに意味も無く気がせいてゐたので、
「ぢや、また。」などと、いい加減なわかれかたをして、さつさとバスに乗つてしまつた。バスは、かなり込んでゐた。私は小泊まで約二時間、立つたままであつた。中里から以北は、全く私の生れてはじめて見る土地だ。津軽の遠祖と言はれる安東氏一族は、この辺に住んでゐて、十三港の繁栄などに就いては前にも述べたが、津軽平野の歴史の中心は、この中里から小泊までの間に在つたものらしい。バスは山路をのぼつて北に進む。路が悪いと見えて、かなり激しくゆれる。私は網棚の横の棒にしつかりつかまり、背中を丸めてバスの窓から外の風景を覗き見る。やつぱり、北津軽だ。深浦などの風景に較べて、どこやら荒い。人の肌の匂ひが無いのである。山の樹木も、いばらも、笹も、人間と全く無関係に生きてゐる。東海岸の竜飛などに較べると、ずつと優しいけれど、でも、この辺の草木も、やはり「風景」の一歩手前のもので、少しも旅人と会話をしない。やがて、十三湖が冷え冷えと白く目前に展開する。浅い真珠貝に水を盛つたやうな、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮んでゐない。ひつそりしてゐて、さうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬといふやうな感じだ。十三湖を過ぎると、まもなく日本海の海岸に出る。この辺からそろそろ国防上たいせつな箇所になるので、れいに依つて以後は、こまかい描写を避けよう。お昼すこし前に、私は小泊港に着いた。ここは、本州の西海岸の最北端の港である。この北は、山を越えてすぐ東海岸の竜飛である。西海岸の部落は、ここでおしまひになつてゐるのだ。つまり私は、五所川原あたりを中心にして、柱時計の振子のやうに、旧津軽領の西海岸南端の深浦港からふらりと舞ひもどつてこんどは一気に同じ海岸の北端の小泊港まで来てしまつたといふわけなのである。ここは人口二千五百くらゐのささやかな漁村であるが、中古の頃から既に他国の船舶の出入があり、殊に蝦夷通ひの船が、強い東風を避ける時には必ずこの港にはひつて仮泊する事になつてゐたといふ。江戸時代には、近くの十三港と共に米や木材の積出しがさかんに行はれた事など、前にもしばしば書いて置いたつもりだ。いまでも、この村の築港だけは、村に不似合ひなくらゐ立派である。水田は、村のはづれに、ほんの少しあるだけだが、水産物は相当豊富なやうで、ソイ、アブラメ、イカ、イワシなどの魚類の他に、コンブ、ワカメの類の海草もたくさんとれるらしい。
「越野たけ、といふ人を知りませんか。」私はバスから降りて、その辺を歩いてゐる人をつかまへ、すぐに聞いた。
「こしの、たけ、ですか。」国民服を着た、役場の人か何かではなからうかと思はれるやうな中年の男が、首をかしげ、「この村には、越野といふ苗字の家がたくさんあるので。」
「前に金木にゐた事があるんです。さうして、いまは、五十くらゐのひとなんです。」私は懸命である。
「ああ、わかりました。その人なら居ります。」
「ゐますか。どこにゐます。家はどの辺です。」
 私は教へられたとほりに歩いて、たけの家を見つけた。間口三間くらゐの小ぢんまりした金物屋である。東京の私の草屋よりも十倍も立派だ。店先にカアテンがおろされてある。いけない、と思つて入口のガラス戸に走り寄つたら、果して、その戸に小さい南京錠が、ぴちりとかかつてゐるのである。他のガラス戸にも手をかけてみたが、いづれも固くしまつてゐる。留守だ。私は途方にくれて、汗を拭つた。引越した、なんて事は無からう。どこかへ、ちよつと外出したのか。いや、東京と違つて、田舎ではちよつとの外出に、店にカアテンをおろし、戸じまりをするなどといふ事は無い。二、三日あるいはもつと永い他出か。こいつあ、だめだ。たけは、どこか他の部落へ出かけたのだ。あり得る事だ。家さへわかつたら、もう大丈夫と思つてゐた僕は馬鹿であつた。私は、ガラス戸をたたき、越野さん、越野さん、と呼んでみたが、もとより返事のある筈は無かつた。溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋向ひの煙草屋にはひり、越野さんの家には誰もゐないやうですが、行先きをご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけたおばあさんは、運動会へ行つたんだらう、と事もなげに答へた。私は勢ひ込んで、
「それで、その運動会は、どこでやつてゐるのです。この近くですか、それとも。」
 すぐそこだといふ。この路をまつすぐに行くと田圃に出て、それから学校があつて、運動会はその学校の裏でやつてゐるといふ。
「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ。」
「さうですか。ありがたう。」
 教へられたとほりに行くと、なるほど田圃があつて、その畦道を伝つて行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立つてゐる。その学校の裏に廻つてみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るやうな気持といふのであらう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行はれてゐるのだ。まづ、万国旗。着飾つた娘たち。あちこちに白昼の酔つぱらひ。さうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎつしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなつたと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで筵(むしろ)で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、さうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑つてゐるのである。日本は、ありがたい国だと、つくづく思つた。たしかに、日出づる国だと思つた。国運を賭しての大戦争のさいちゆうでも、本州の北端の寒村で、このやうに明るい不思議な大宴会が催されて居る。古代の神々の豪放な笑ひと闊達な舞踏をこの本州の僻陬に於いて直接に見聞する思ひであつた。海を越え山を越え、母を捜して三千里歩いて、行き着いた国の果の砂丘の上に、華麗なお神楽が催されてゐたといふやうなお伽噺の主人公に私はなつたやうな気がした。さて、私は、この陽気なお神楽の群集の中から、私の育ての親を捜し出さなければならぬ。わかれてから、もはや三十年近くなるのである。眼の大きい頬ぺたの赤いひとであつた。右か、左の眼蓋の上に、小さい赤いほくろがあつた。私はそれだけしか覚えてゐないのである。逢へば、わかる。その自信はあつたが、この群集の中から捜し出す事は、むづかしいなあ、と私は運動場を見廻してべそをかいた。どうにも、手の下しやうが無いのである。私はただ、運動場のまはりを、うろうろ歩くばかりである。
「越野たけといふひと、どこにゐるか、ご存じぢやありませんか。」私は勇気を出して、ひとりの青年にたづねた。「五十くらゐのひとで、金物屋の越野ですが。」それが私のたけに就いての知識の全部なのだ。
「金物屋の越野。」青年は考へて、「あ、向うのあのへんの小屋にゐたやうな気がするな。」
「さうですか。あのへんですか?」
「さあ、はつきりは、わからない。何だか、見かけたやうな気がするんだが、まあ、捜してごらん。」
 その捜すのが大仕事なのだ。まさか、三十年振りで云々と、青年にきざつたらしく打明け話をするわけにも行かぬ。私は青年にお礼を言ひ、その漠然と指差された方角へ行つてまごまごしてみたが、そんな事でわかる筈は無かつた。たうとう私は、昼食さいちゆうの団欒の掛小屋の中に、ぬつと顔を突き入れ、
「おそれいります。あの、失礼ですが、越野たけ、あの、金物屋の越野さんは、こちらぢやございませんか。」
「ちがひますよ。」ふとつたおかみさんは不機嫌さうに眉をひそめて言ふ。
「さうですか。失礼しました。どこか、この辺で見かけなかつたでせうか。」
「さあ、わかりませんねえ。何せ、おほぜいの人ですから。」
 私は更にまた別の小屋を覗いて聞いた。わからない。更にまた別の小屋。まるで何かに憑かれたみたいに、たけはゐませんか、金物屋のたけはゐませんか、と尋ね歩いて、運動場を二度もまはつたが、わからなかつた。二日酔ひの気味なので、のどがかわいてたまらなくなり、学校の井戸へ行つて水を飲み、それからまた運動場へ引返して、砂の上に腰をおろし、ジヤンパーを脱いで汗を拭き、老若男女の幸福さうな賑はひを、ぼんやり眺めた。この中に、ゐるのだ。たしかに、ゐるのだ。いまごろは、私のこんな苦労も何も知らず、重箱をひろげて子供たちに食べさせてゐるのであらう。いつそ、学校の先生にたのんで、メガホンで「越野たけさん、御面会。」とでも叫んでもらはうかしら、とも思つたが、そんな暴力的な手段は何としてもイヤだつた。そんな大袈裟な悪ふざけみたいな事までして無理に自分の喜びをでつち上げるのはイヤだつた。縁が無いのだ。神様が逢ふなとおつしやつてゐるのだ。帰らう。私は、ジヤンパーを着て立ち上つた。また畦道を伝つて歩き、村へ出た。運動会のすむのは四時頃か。もう四時間、その辺の宿屋で寝ころんで、たけの帰宅を待つてゐたつていいぢやないか。さうも思つたが、その四時間、宿屋の汚い一室でしよんぼり待つてゐるうちに、もう、たけなんかどうでもいいやうな、腹立たしい気持になりやしないだらうか。私は、いまのこの気持のままでたけに逢ひたいのだ。しかし、どうしても逢ふ事が出来ない。つまり、縁が無いのだ。はるばるここまでたづねて来て、すぐそこに、いまゐるといふ事がちやんとわかつてゐながら、逢へずに帰るといふのも、私のこれまでの要領の悪かつた生涯にふさはしい出来事なのかも知れない。私が有頂天で立てた計画は、いつでもこのやうに、かならず、ちぐはぐな結果になるのだ。私には、そんな具合のわるい宿命があるのだ。帰らう。考へてみると、いかに育ての親とはいつても、露骨に言へば使用人だ。女中ぢやないか。お前は、女中の子か。男が、いいとしをして、昔の女中を慕つて、ひとめ逢ひたいだのなんだの、それだからお前はだめだといふのだ。兄たちがお前を、下品なめめしい奴と情無く思ふのも無理がないのだ。お前は兄弟中でも、ひとり違つて、どうしてこんなにだらしなく、きたならしく、いやしいのだらう。しつかりせんかい。私はバスの発着所へ行き、バスの出発する時間を聞いた。一時三十分に中里行きが出る。もう、それつきりで、あとは無いといふ事であつた。一時三十分のバスで帰る事にきめた。もう三十分くらゐあひだがある。少しおなかもすいて来てゐる。私は発着所の近くの薄暗い宿屋へ這入つて、「大急ぎでひるめしを食べたいのですが。」と言ひ、また内心は、やつぱり未練のやうなものがあつて、もしこの宿が感じがよかつたら、ここで四時頃まで休ませてもらつて、などと考へてもゐたのであるが、断られた。けふは内の者がみな運動会へ行つてゐるので、何も出来ませんと病人らしいおかみさんが、奥の方からちらと顔をのぞかせて冷い返辞をしたのである。いよいよ帰ることにきめて、バスの発着所のベンチに腰をおろし、十分くらゐ休んでまた立ち上り、ぶらぶらその辺を歩いて、それぢやあ、もういちど、たけの留守宅の前まで行つて、ひと知れず今生(こんじやう)のいとま乞ひでもして来ようと苦笑しながら、金物屋の前まで行き、ふと見ると、入口の南京錠がはづれてゐる。さうして戸が二、三寸あいてゐる。天のたすけ! と勇気百倍、グワラリといふ品の悪い形容でも使はなければ間に合はないほど勢ひ込んでガラス戸を押しあげ、
「ごめん下さい、ごめん下さい。」
「はい。」と奥から返事があつて、十四、五の水兵服を着た女の子が顔を出した。私は、その子の顔によつて、たけの顔をはつきり思ひ出した。もはや遠慮をせず、土間の奥のその子のそばまで寄つて行つて、
「金木の津島です。」と名乗つた。
 少女は、あ、と言つて笑つた。津島の子供を育てたといふ事を、たけは、自分の子供たちにもかねがね言つて聞かせてゐたのかも知れない。もうそれだけで、私とその少女の間に、一切の他人行儀が無くなつた。ありがたいものだと思つた。私は、たけの子だ。女中の子だつて何だつてかまはない。私は大声で言へる。私は、たけの子だ。兄たちに軽蔑されたつていい。私は、この少女ときやうだいだ。
「ああ、よかつた。」私は思はずさう口走つて、「たけは? まだ、運動会?」
「さう。」少女も私に対しては毫末の警戒も含羞もなく、落ちついて首肯き、「私は腹がいたくて、いま、薬をとりに帰つたの。」気の毒だが、その腹いたが、よかつたのだ。腹いたに感謝だ。この子をつかまへたからには、もう安心。大丈夫たけに逢へる。もう何が何でもこの子に縋つて、離れなけれやいいのだ。
「ずいぶん運動場を捜し廻つたんだが、見つからなかつた。」
「さう。」と言つてかすかに首肯き、おなかをおさへた。
「まだ痛いか。」
「すこし。」と言つた。
「薬を飲んだか。」
 黙つて首肯く。
「ひどく痛いか。」
 笑つて、かぶりを振つた。
「それぢやあ、たのむ。僕を、これから、たけのところへ連れて行つてくれよ。お前もおなかが痛いだらうが、僕だつて、遠くから来たんだ。歩けるか。」
「うん。」と大きく首肯いた。
「偉い、偉い。ぢやあ一つたのむよ。」
 うん、うんと二度続けて首肯き、すぐ土間へ降りて下駄をつつかけ、おなかをおさへて、からだをくの字に曲げながら家を出た。
「運動会で走つたか。」
「走つた。」
「賞品をもらつたか。」
「もらはない。」
 おなかをおさへながら、とつとと私の先に立つて歩く。また畦道をとほり、砂丘に出て、学校の裏へまはり、運動場のまんなかを横切つて、それから少女は小走りになり、一つの掛小屋へはひり、すぐそれと入違ひに、たけが出て来た。たけは、うつろな眼をして私を見た。
「修治だ。」私は笑つて帽子をとつた。
「あらあ。」それだけだつた。笑ひもしない。まじめな表情である。でも、すぐにその硬直の姿勢を崩して、さりげないやうな、へんに、あきらめたやうな弱い口調で、「さ、はひつて運動会を。」と言つて、たけの小屋に連れて行き、「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。もう、何がどうなつてもいいんだ、といふやうな全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持の事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生れてはじめて心の平和を体験したと言つてもよい。先年なくなつた私の生みの母は、気品高くおだやかな立派な母であつたが、このやうな不思議な安堵感を私に与へてはくれなかつた。世の中の母といふものは、皆、その子にこのやうな甘い放心の憩ひを与へてやつてゐるものなのだらうか。さうだつたら、これは、何を置いても親孝行をしたくなるにきまつてゐる。そんな有難い母といふものがありながら、病気になつたり、なまけたりしてゐるやつの気が知れない。親孝行は自然の情だ。倫理ではなかつた。
 たけの頬は、やつぱり赤くて、さうして、右の眼蓋の上には、小さい罌粟粒ほどの赤いほくろが、ちやんとある。髪には白髪もまじつてゐるが、でも、いま私のわきにきちんと坐つてゐるたけは、私の幼い頃の思ひ出のたけと、少しも変つてゐない。あとで聞いたが、たけが私の家へ奉公に来て、私をおぶつたのは、私が三つで、たけが十四の時だつたといふ。それから六年間ばかり私は、たけに育てられ教へられたのであるが、けれども、私の思ひ出の中のたけは、決してそんな、若い娘ではなく、いま眼の前に見るこのたけと寸分もちがはない老成した人であつた。これもあとで、たけから聞いた事だが、その日、たけの締めてゐたアヤメの模様の紺色の帯は、私の家に奉公してゐた頃にも締めてゐたもので、また、薄い紫色の半襟も、やはり同じ頃、私の家からもらつたものだといふ事である。そのせゐもあつたのかも知れないが、たけは、私の思ひ出とそつくり同じ匂ひで坐つてゐる。だぶん贔屓目であらうが、たけはこの漁村の他のアバ(アヤの Femme)たちとは、まるで違つた気位を持つてゐるやうに感ぜられた。着物は、縞の新しい手織木綿であるが、それと同じ布地のモンペをはき、その縞柄は、まさか、いきではないが、でも、選択がしつかりしてゐる。おろかしくない。全体に、何か、強い雰囲気を持つてゐる。私も、いつまでも黙つてゐたら、しばらく経つてたけは、まつすぐ運動会を見ながら、肩に波を打たせて深い長い溜息をもらした。たけも平気ではないのだな、と私にはその時はじめてわかつた。でも、やはり黙つてゐた。
 たけは、ふと気がついたやうにして、
「何か、たべないか。」と私に言つた。
「要らない。」と答へた。本当に、何もたべたくなかつた。
「餅があるよ。」たけは、小屋の隅に片づけられてある重箱に手をかけた。
「いいんだ。食ひたくないんだ。」
 たけは軽く首肯いてそれ以上すすめようともせず、
「餅のはうでないんだものな。」と小声で言つて微笑んだ。三十年ちかく互ひに消息が無くても、私の酒飲みをちやんと察してゐるやうである。不思議なものだ。私がにやにやしてゐたら、たけは眉をひそめ、
「たばこも飲むなう。さつきから、立てつづけにふかしてゐる。たけは、お前に本を読む事だば教へたけれども、たばこだの酒だのは、教へねきやなう。」と言つた。油断大敵のれいである。私は笑ひを収めた。
 私が真面目な顔になつてしまつたら、こんどは、たけのはうで笑ひ、立ち上つて、
「竜神様(りゆうじんさま)の桜でも見に行くか。どう?」と私を誘つた。
「ああ、行かう。」
 私は、たけの後について掛小屋のうしろの砂山に登つた。砂山には、スミレが咲いてゐた。背の低い藤の蔓も、這ひ拡がつてゐる。たけは黙つてのぼつて行く。私も何も言はず、ぶらぶら歩いてついて行つた。砂山を登り切つて、だらだら降りると竜神様の森があつて、その森の小路のところどころに八重桜が咲いてゐる。たけは、突然、ぐいと片手をのばして八重桜の小枝を折り取つて、歩きながらその枝の花をむしつて地べたに投げ捨て、それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛(め)ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。
「子供は?」たうとうその小枝もへし折つて捨て、両肘を張つてモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人」
 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。
「男? 女?」
「女だ。」
「いくつ?」
 次から次と矢継早に質問を発する。私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思つた。きやうだい中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。私は、この時はじめて、私の育ちの本質をはつきり知らされた。私は断じて、上品な育ちの男ではない。だうりで、金持ちの子供らしくないところがあつた。見よ、私の忘れ得ぬ人は、青森に於けるT君であり、五所川原に於ける中畑さんであり、金木に於けるアヤであり、さうして小泊に於けるたけである。アヤは現在も私の家に仕へてゐるが、他の人たちも、そのむかし一度は、私の家にゐた事がある人だ。私は、これらの人と友である。
 さて、古聖人の獲麟を気取るわけでもないけれど、聖戦下の新津軽風土記も、作者のこの獲友の告白を以て、ひとまづペンをとどめて大過ないかと思はれる。まだまだ書きたい事が、あれこれとあつたのだが、津軽の生きてゐる雰囲気は、以上でだいたい語り尽したやうにも思はれる。私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた。さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行かう。絶望するな。では、失敬。




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