津軽
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著者名:太宰治 

私はその吹出物を欲情の象徴と考へて眼の先が暗くなるほど恥しかつた。いつそ死んでやつたらと思ふことさへあつた。私の顔に就いてのうちの人たちの不評判も絶頂に達してゐた。他家へとついでゐた私のいちばん上の姉は、治のところへは嫁に来るひとがあるまい、とまで言つてゐたさうである。私はせつせと薬をつけた。
 弟も私の吹出物を心配して、なんべんとなく私の代りに薬を買ひに行つて呉れた。私と弟とは子供のときから仲がわるくて、弟が中学へ受験する折にも、私は彼の失敗を願つたほどであつたけれど、かうしてふたりで故郷から離れて見ると、私にも弟のよい気質がだんだん判つて来たのである。弟は大きくなるにつれて無口で内気になつてゐた。私たちの同人雑誌にもときどき小品文を出してゐたが、みんな気の弱々した文章であつた。私にくらべて学校の成績がよくないのを絶えず苦にしてゐて、私がなぐさめでもするとかへつて不気嫌になつた。また、自分の額の生えぎはが富士のかたちになつて女みたいなのをいまいましがつてゐた。額がせまいから頭がこんなに悪いのだと固く信じてゐたのである。私はこの弟にだけはなにもかも許した。私はその頃、人と対するときには、みんな押し隠して了ふか、みんなさらけ出して了ふか、どちらかであつたのである。私たちはなんでも打ち明けて話した。
 秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話合つた。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである。ふたりがどんなに離れてゐてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとひ往来で逢つても、その糸はこんぐらかることがない、さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。お前のワイフは今ごろどうしてるべなあ、と弟に聞いたら、弟は桟橋のらんかんを二三度両手でゆりうごかしてから、庭あるいてる、ときまり悪げに言つた。大きい庭下駄をはいて、団扇をもつて、月見草を眺めてゐる少女は、いかにも弟と似つかはしく思はれた。私のを語る番であつたが、私は真暗い海に眼をやつたまま、赤い帯しめての、とだけ言つて口を噤んだ。海峡を渡つて来る連絡船が、大きい宿屋みたいにたくさんの部屋部屋へ黄色いあかりをともして、ゆらゆらと水平線から浮んで出た。」
 この弟は、それから二、三年後に死んだが、当時、私たちは、この桟橋に行く事を好んだ。冬、雪の降る夜も、傘をさして弟と二人でこの桟橋に行つた。深い港の海に、雪がひそひそ降つてゐるのはいいものだ。最近は青森港も船舶輻湊して、この桟橋も船で埋つて景色どころではない。それから、隅田川に似た広い川といふのは、青森市の東部を流れる堤川の事である。すぐに青森湾に注ぐ。川といふものは、海に流れ込む直前の一箇所で、奇妙に躊躇して逆流するかのやうに流れが鈍くなるものである。私はその鈍い流れを眺めて放心した。きざな譬へ方をすれば、私の青春も川から海へ流れ込む直前であつたのであらう。青森に於ける四年間は、その故に、私にとつて忘れがたい期間であつたとも言へるであらう。青森に就いての思ひ出は、だいたいそんなものだが、この青森市から三里ほど東の浅虫といふ海岸の温泉も、私には忘れられない土地である。やはりその「思ひ出」といふ小説の中に次のやうな一節がある。
「秋になつて、私はその都会から汽車で三十分くらゐかかつて行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治してゐたのだ。私はずつとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才といふぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へはひつて見せなければならなかつたのである。私の学校ぎらひはその頃になつて、いつそうひどかつたのであるが、何かに追はれてゐる私は、それでも一途に勉強してゐた。私はそこから汽車で学校へかよつた。日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私は友人たちと必ずピクニックにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさへ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知つてゐたから、私たちはそれらを弟に教へてもらつて、声をそろへて歌つた。遊びつかれてその岩の上で眠つて、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだつた筈のその岩が、いつか離れ島になつてゐるので、私たちはまだ夢から醒めないでゐるやうな気がするのである。」
 いよいよ青春が海に注ぎ込んだね、と冗談を言つてやりたいところでもあらうか。この浅虫の海は清冽で悪くは無いが、しかし、旅館は、必ずしもよいとは言へない。寒々した東北の漁村の趣は、それは当然の事で、決してとがむべきではないが、それでゐて、井の中の蛙が大海を知らないみたいな小さい妙な高慢を感じて閉口したのは私だけであらうか。自分の故郷の温泉であるから、思ひ切つて悪口を言ふのであるが、田舎のくせに、どこか、すれてゐるやうな、妙な不安が感ぜられてならない。私は最近、この温泉地に泊つた事はないけれども、宿賃が、おやと思ふほど高くなかつたら幸ひである。これは明らかに私の言ひすぎで、私は最近に於いてここに宿泊した事は無く、ただ汽車の窓からこの温泉町の家々を眺め、さうして貧しい芸術家の小さい勘(かん)でものを言つてゐるだけで、他には何の根拠も無いのであるから、私は自分のこの直覚を読者に押しつけたくはないのである。むしろ読者は、私の直覚など信じないはうがいいかも知れない。浅虫も、いまは、つつましい保養の町として出発し直してゐるに違ひないと思はれる。ただ、青森市の血気さかんな粋客たちが、或る時期に於いて、この寒々した温泉地を奇怪に高ぶらせ、宿の女将をして、熱海、湯河原の宿もまたまさにかくの如きかと、茅屋にゐて浅墓の幻影に酔はせた事があるのではあるまいかといふ疑惑がちらと脳裡をかすめて、旅のひねくれた貧乏文士は、最近たびたび、この思ひ出の温泉地を汽車で通過しながら、敢へて下車しなかつたといふだけの話なのである。
 津軽に於いては、浅虫温泉は最も有名で、つぎは大鰐温泉といふ事になるのかも知れない。大鰐は、津軽の南端に近く、秋田との県境に近いところに在つて、温泉よりも、スキイ場のために日本中に知れ渡つてゐるやうである。山麓の温泉である。ここには、津軽藩の歴史のにほひが幽かに残つてゐた。私の肉親たちは、この温泉地へも、しばしば湯治に来たので、私も少年の頃あそびに行つたが、浅虫ほど鮮明な思ひ出は残つてゐない。けれども、浅虫のかずかずの思ひ出は、鮮やかであると同時に、その思ひ出のことごとくが必ずしも愉快とは言へないのに較べて、大鰐の思ひ出は霞んではゐても懐しい。海と山の差異であらうか。私はもう、二十年ちかくも大鰐温泉を見ないが、いま見ると、やはり浅虫のやうに都会の残杯冷炙に宿酔してあれてゐる感じがするであらうか。私には、それは、あきらめ切れない。ここは浅虫に較べて、東京方面との交通の便は甚だ悪い。そこが、まづ、私にとつてたのみの綱である。また、この温泉のすぐ近くに碇ヶ関といふところがあつて、そこは旧藩時代の津軽秋田間の関所で、したがつてこの辺には史蹟も多く、昔の津軽人の生活が根強く残つてゐるに相違ないのだから、そんなに易々と都会の風に席巻されようとは思はれぬ。さらにまた、最後のたのみの大綱は、ここから三里北方に弘前城が、いまもなほ天守閣をそつくり残して、年々歳々、陽春には桜花に包まれその健在を誇つてゐる事である。この弘前城が控へてゐる限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔ひするなどの事はあるまいと私は思ひ込んでゐたいのである。
 弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、慶長八年、徳川家康将軍宣下と共に、徳川幕下の四万七千石の一侯伯となり、ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に到り、やうやく完成を見たのが、この弘前城であるといふ。それより代々の藩主この弘前城に拠り、四代信政の時、一族の信英を黒石に分家させて、弘前、黒石の二藩にわかれて津軽を支配し、元禄七名君の中の巨擘とまでうたはれた信政の善政は大いに津軽の面目をあらたにしたけれども、七代信寧の宝暦ならびに天明の大飢饉は津軽一円を凄惨な地獄と化せしめ、藩の財政もまた窮乏の極度に達し、前途暗澹たるうちにも、八代信明、九代寧親は必死に藩勢の回復をはかり、十一代順承の時代に到つてからくも危機を脱し、つづいて十二代承昭の時代に、めでたく藩籍を奉還し、ここに現在の青森県が誕生したといふ経緯は、弘前城の歴史であると共にまた、津軽の歴史の大略でもある。津軽の歴史に就いては、また後のペエジに於いて詳述するつもりであるが、いまは、弘前に就いての私の昔の思ひ出を少し書いて、この津軽の序編を結ぶ事にする。
 私は、この弘前の城下に三年ゐたのである。弘前高等学校の文科に三年ゐたのであるが、その頃、私は大いに義太夫に凝つてゐた。甚だ異様なものであつた。学校からの帰りには、義太夫の女師匠の家へ立寄つて、さいしよは朝顔日記であつたらうか、何が何やら、いまはことごとく忘れてしまつたけれども、野崎村、壺坂、それから紙治など一とほり当時は覚え込んでゐたのである。どうしてそんな、がらにも無い奇怪な事をはじめたのか。私はその責任の全部を、この弘前市に負はせようとは思はないが、しかし、その責任の一斑は弘前市に引受けていただきたいと思つてゐる。義太夫が、不思議にさかんなまちなのである。ときどき素人の義太夫発表会が、まちの劇場でひらかれる。私も、いちど聞きに行つたが、まちの旦那たちが、ちやんと裃(かみしも)を着て、真面目に義太夫を唸つてゐる。いづれもあまり、上手ではなかつたが、少しも気障(きざ)なところが無く、頗る良心的な語り方で、大真面目に唸つてゐる。青森市にも昔から粋人が少くなかつたやうであるが、芸者たちから、兄さんうまいわね、と言はれたいばかりの端唄の稽古、または、自分の粋人振りを政策やら商策やらの武器として用ゐてゐる抜け目のない人さへあるらしく、つまらない芸事に何といふ事もなく馬鹿な大汗をかいて勉強致してゐるこの様な可憐な旦那は、弘前市の方に多く見かけられるやうに思はれる。つまり、この弘前市には、未だに、ほんものの馬鹿者が残つてゐるらしいのである。永慶軍記といふ古書にも、「奥羽両州の人の心、愚にして、威強き者にも随ふ事を知らず、彼は先祖の敵なるぞ、是は賤しきものなるぞ、ただ時の武運つよくして、威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はず。」といふ言葉が記されてゐるさうだが、弘前の人には、そのやうな、ほんものの馬鹿意地があつて、負けても負けても強者にお辞儀をする事を知らず、自矜の孤高を固守して世のもの笑ひになるといふ傾向があるやうだ。私もまた、ここに三年ゐたおかげで、ひどく懐古的になつて、義太夫に熱中してみたり、また、次のやうな浪曼性を発揮するやうな男になつた。次の文章は、私の昔の小説の一節であつて、やはりおどけた虚構には違ひないのであるが、しかし、凡その雰囲気に於いては、まづこんなものであつた、と苦笑しながら白状せざるを得ないのである。
「喫茶店で、葡萄酒飲んでゐるうちは、よかつたのですが、そのうちに割烹店へ、のこのこはひつていつて芸者と一緒に、ごはんを食べることなど覚えたのです。少年はそれを別段、わるいこととも思ひませんでした。粋な、やくざなふるまひは、つねに最も高尚な趣味であると信じてゐました。城下まちの、古い静かな割烹店へ、二度、三度、ごはんを食べに行つてゐるうちに、少年のお洒落の本能はまたもむつくり頭をもたげ、こんどは、それこそ大変なことになりました。芝居で見た『め組の喧嘩』の鳶の者の服装して、割烹店の奥庭に面したお座敷で大あぐらかき、おう、ねえさん、けふはめつぽふ、きれえぢやねえか、などと言つてみたく、ワクワクしなが.ら、その服装の準備にとりかかりました。紺の腹掛。あれは、すぐ手にはひりました。あの腹掛のドンブリに、古風な財布をいれて、かう懐手して歩くと、いつぱしの、やくざに見えます。角帯も買ひました。締め上げるときゆつと鳴る博多の帯です。唐桟(たうざん)の単衣を一まい呉服屋さんにたのんで、こしらへてもらひました。鳶の者だか、ばくち打ちだか、お店(たな)ものだか、わけのわからぬ服装になつてしまひました。統一が無いのです。とにかく、芝居に出て来る人物の印象を与へるやうな服装だつたら、少年はそれで満足なのでした。初夏のころで、少年は素足に麻裏草履をはきました。そこまではよかつたのですが、ふと少年は妙なことを考へました。それは股引に就いてでありました。紺の木綿のピッチリした長股引を、芝居の鳶の者が、はいてゐるやうですけれど、あれを欲しいと思ひました。ひよつとこめ、と言つて、ぱつと裾をさばいて、くるりと尻をまくる。あのときに紺の股引が眼にしみるほど引き立ちます。さるまた一つでは、いけません。少年は、その股引を買ひ求めようと、城下まちを端から端まで走り廻りました。どこも無いのです。あのね、ほら、あの左官屋さんなんか、はいてゐるぢやないか、ぴちつとした紺の股引さ、あんなの無いかしら、ね、と懸命に説明して、呉服屋さん、足袋屋さんに聞いて歩いたのですが、さあ、あれは、いま、と店の人たち笑ひながら首を振るのでした。もう、だいぶ暑いころで、少年は、汗だくで捜し廻り、たうとう或る店の主人から、それは、うちにはございませぬが、横丁まがると消防のもの専門の家がありますから、そこへ行つてお聞きになると、ひよつとしたらわかるかも知れません、といいこと教へられ、なるほど消防とは気がつかなかつた。鳶の者と言へば、火消しのことで、いまで言へば消防だ、なるほど道理だ、と勢ひ附いて、その教へられた横丁の店に飛び込みました。店には大小の消火ポンプが並べられてありました。纏(まとひ)もあります。なんだか心細くなつて、それでも勇気を鼓舞して、股引ありますか、と尋ねたら、あります、と即座に答へて持つて来たものは、紺の木綿の股引には、ちがひ無いけれども、股引の両外側に太く消防のしるしの赤線が縦にずんと引かれてゐました。流石にそれをはいて歩く勇気も無く、少年は淋しく股引をあきらめる他なかつたのです。」
 さすがの馬鹿の本場に於いても、これくらゐの馬鹿は少かつたかも知れない。書き写しながら作者自身、すこし憂鬱になつた。この、芸者たちと一緒にごはんを食べた割烹店の在る花街を、榎(えのき)小路、とは言はなかつたかしら。何しろ二十年ちかく昔の事であるから、記憶も薄くなつてはつきりしないが、お宮の坂の下の、榎(えのき)小路、といふところだつたと覚えてゐる。また、紺の股引を買ひに汗だくで歩き廻つたところは、土手(どて)町といふ城下に於いて最も繁華な商店街である。それらに較べると、青森の花街の名は、浜町である。その名に個性がないやうに思はれる。弘前の土手町に相当する青森の商店街は、大町と呼ばれてゐる。これも同様のやうに思はれる。ついでだから、弘前の町名と、青森の町名とを次に列記してみよう。この二つの小都会の性格の相違が案外はつきりして来るかも知れない。本町、在府町、土手町、住吉町、桶屋町、銅屋町、茶畑町、代官町、萱町、百石町、上鞘師町、下鞘師町、鉄砲町、若党町、小人町、鷹匠町、五十石町、紺屋町、などといふのが弘前市の街の名である。それに較べて、青森市の街々の名は、次のやうなものである。浜町、新浜町、大町、米町、新町、柳町、寺町、堤町、塩町、蜆貝町、新蜆貝町、浦町、浪打、栄町。
 けれども私は、弘前市を上等のまち、青森市を下等の町だと思つてゐるのでは決してない。鷹匠町、紺屋町などの懐古的な名前は何も弘前市にだけ限つた町名ではなく、日本全国の城下まちに必ず、そんな名前の町があるものだ。なるほど弘前市の岩木山は、青森市の八甲田山よりも秀麗である。けれども、津軽出身の小説の名手、葛西善蔵氏は、郷土の後輩にかう言つて教へてゐる。「自惚れちやいけないぜ。岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山が無いからだ。他の国に行つてみろ。あれくらゐの山は、ざらにあら。周囲に高い山がないから、あんなに有難く見えるんだ。自惚れちやいけないぜ。」
 歴史を有する城下町は、日本全国に無数と言つてよいくらゐにたくさんあるのに、どうして弘前の城下町の人たちは、あんなに依怙地にその封建性を自慢みたいにしてゐるのだらう。ひらき直つて言ふまでも無い事だが、九州、西国、大和などに較べると、この津軽地方などは、ほとんど一様に新開地と言つてもいいくらゐのものなのだ。全国に誇り得るどのやうな歴史を有してゐるのか。近くは明治御維新の時だつて、この藩からどのやうな勤皇家が出たか。藩の態度はどうであつたか。露骨に言へば、ただ、他藩の驥尾に附して進退しただけの事ではなかつたか。どこにいつたい誇るべき伝統があるのだ。けれども弘前人は頑固に何やら肩をそびやかしてゐる。さうして、どんなに勢強きものに対しても、かれは賤しきものなるぞ、ただ時の運つよくして威勢にほこる事にこそあれ、とて、随はぬのである。この地方出身の陸軍大将一戸兵衛閣下は、帰郷の時には必ず、和服にセルの袴であつたといふ話を聞いてゐる。将星の軍装で帰郷するならば、郷里の者たちはすくさま目をむき肘を張り、彼なにほどの者ならん、ただ時の運つよくして、などと言ふのがわかつてゐたから、賢明に、帰郷の時は和服にセルの袴ときめて居られたといふやうな話を聞いたが、全部が事実で無いとしても、このやうな伝説が起るのも無理がないと思はれるほど、弘前の城下の人たちには何が何やらわからぬ稜々たる反骨があるやうだ。何を隠さう、実は、私にもそんな仕末のわるい骨が一本あつて、そのためばかりでもなからうが、まあ、おかげで未だにその日暮しの長屋住居から浮かび上る事が出来ずにゐるのだ。数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、
 汝を愛し、汝を憎む。
 だいぶ弘前の悪口を言つたが、これは弘前に対する憎悪ではなく、作者自身の反省である。私は津軽の人である。私の先祖は代々、津軽藩の百姓であつた。謂はば純血種の津軽人である。だから少しも遠慮無く、このやうに津軽の悪口を言ふのである。他国の人が、もし私のこのやうな悪口を聞いて、さうして安易に津軽を見くびつたら、私はやつぱり不愉快に思ふだらう。なんと言つても、私は津軽を愛してゐるのだから。
 弘前市。現在の戸数は一万、人口は五万余。弘前城と、最勝院の五重塔とは、国宝に指定せられてゐる。桜の頃の弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙をつけてくれてゐるさうだ。弘前師団の司令部がある。お山参詣と言つて、毎年陰暦七月二十八日より八月一日に到る三日間、津軽の霊峰岩木山の山頂奥宮に於けるお祭りに参詣する人、数万、参詣の行き帰り躍りながらこのまちを通過し、まちは殷賑を極める。旅行案内記には、まづざつとそのやうな事が書かれてある。けれども私は、弘前市を説明するに当つて、それだけでは、どうしても不服なのである。それゆゑ、あれこれと年少の頃の記憶をたどり、何か一つ、弘前の面目を躍如たらしむるものを描写したかつたのであるが、どれもこれも、たわい無い思ひ出ばかりで、うまくゆかず、たうとう自分にも思ひがけなかつたひどい悪口など出て来て、作者みづから途方に暮れるばかりである。私はこの旧津軽藩の城下まちに、こだはりすぎてゐるのだ。ここは私たち津軽人の窮極の魂の拠りどころでなければならぬ筈なのに、どうも、それにしては、私のこれまでの説明だけでは、この城下まちの性格が、まだまだあいまいである。桜花に包まれた天守閣は、何も弘前城に限つた事ではない。日本全国たいていのお城は桜花に包まれてゐるではないか。その桜花に包まれた天守閣が傍に控へてゐるからとて、大鰐温泉が津軽の匂ひを保守できるとは、きまつてゐないではないか。弘前城が控へてゐる限り、大鰐温泉は都会の残瀝をすすり悪酔するなどの事はあるまい、とついさつき、ばかに調子づいて書いた筈だが、いろいろ考へて、考へつめて行くと、それもただ、作者の美文調のだらしない感傷にすぎないやうな気がして来て、何もかも、たよりにならず、心細くなるばかりである。いつたいこの城下まちは、だらしないのだ。旧藩主の代々のお城がありながら、県庁を他の新興のまちに奪はれてゐる。日本全国、たいていの県庁所在地は、旧藩の城下まちである。青森県の県庁を、弘前市でなく、青森市に持つて行かざるを得なかつたところに、青森県の不幸があつたとさへ私は思つてゐる。私は決して青森市を特にきらつてゐるわけではない。新興のまちの繁栄を見るのも、また爽快である。私は、ただ、この弘前市の負けてゐながら、のほほん顔でゐるのが歯がゆいのである。負けてゐるものに、加勢したいのは自然の人情である。私は何とかして弘前市の肩を持つてやりたく、まつたく下手な文章ながら、あれこれと工夫して努めて書いて来たのであるが、弘前市の決定的な美点、弘前城の独得の強さを描写する事はつひに出来なかつた。重ねて言ふ。ここは津軽人の魂の拠りどころである。何かある筈である。日本全国、どこを捜しても見つからぬ特異の見事な伝統がある筈である。私はそれを、たしかに予感してゐるのであるが、それが何であるか、形にあらはして、はつきりこれと読者に誇示できないのが、くやしくてたまらない。この、もどかしさ。
 あれは春の夕暮だつたと記憶してゐるが、弘前高等学校の文科生だつた私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立つて、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひつそりと展開してゐるのに気がつき、ぞつとした事がある。私はそれまで、この弘前城を、弘前のまちのはづれに孤立してゐるものだとばかり思つてゐたのだ。けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひつそりうずくまつてゐたのだ。ああ、こんなところにも町があつた。年少の私は夢を見るやうな気持で思はず深い溜息をもらしたのである。万葉集などによく出て来る「隠沼(こもりぬ)」といふやうな感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したやうな気がした。この町の在る限り、弘前は決して凡庸のまちでは無いと思つた。とは言つても、これもまた私の、いい気な独り合点で、読者には何の事やらおわかりにならぬかも知れないが、弘前城はこの隠沼を持つてゐるから稀代の名城なのだ、といまになつては私も強引に押切るより他はない。隠沼のほとりに万朶の花が咲いて、さうして白壁の天守閣が無言で立つてゐるとしたら、その城は必ず天下の名城にちがひない。さうして、その名城の傍の温泉も、永遠に淳朴の気風を失ふ事は無いであらうと、ちかごろの言葉で言へば「希望的観測」を試みて、私はこの愛する弘前城と訣別する事にしよう。思へば、おのれの肉親を語る事が至難な業であると同様に、故郷の核心を語る事も容易に出来る業ではない。ほめていいのか、けなしていいのか、わからない。私はこの津軽の序編に於いて、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐に就いて、私の年少の頃の思ひ出を展開しながら、また、身のほど知らぬ冒涜の批評の蕪辞をつらねたが、果して私はこの六つの町を的確に語り得たか、どうか、それを考へると、おのづから憂鬱にならざるを得ない。罪万死に当るべき暴言を吐いてゐるかも知れない。この六つの町は、私の過去に於いて最も私と親しく、私の性格を創成し、私の宿命を規定した町であるから、かへつて私はこれらの町に就いて盲目なところがあるかも知れない。これらの町を語るに当つて、私は決して適任者ではなかつたといふ事を、いま、はつきり自覚した。以下、本編に於いて私は、この六つの町に就いて語る事は努めて避けたい気持である。私は、他の津軽の町を語らう。
 或るとしの春、私は、生れてはじめて本州北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、といふ序編の冒頭の文章に、いよいよこれから引返して行くわけであるが、私はこの旅行に依つて、まつたく生れてはじめて他の津軽の町村を見たのである。それまでは私は、本当に、あの六つの町の他は知らなかつたのである。小学校の頃、遠足に行つたり何かして、金木の近くの幾つかの部落を見た事はあつたが、それは現在の私に、なつかしい思ひ出として色濃く残つてはゐないのである。中学時代の暑中休暇には、金木の生家に帰つても、二階の洋室の長椅子に寝ころび、サイダーをがぶがぶラツパ飲みしながら、兄たちの蔵書を手当り次第に読み散らして暮し、どこへも旅行に出なかつたし、高等学校時代には、休暇になると必ず東京の、すぐ上の兄(この兄は彫刻を学んでゐたが、二十七歳で死んだ)その兄の家へ遊びに行つたし、高等学校を卒業と同時に東京の大学へ来て、それつきり十年も故郷へ帰らなかつたのであるから、このたびの津軽旅行は、私にとつて、なかなか重大の事件であつたと言はざるを得ない。
 私はこのたびの旅行で見て来た町村の、地勢、地質、天文、財政、沿革、教育、衛生などに就いて、専門家みたいな知つたかぶりの意見は避けたいと思ふ。私がそれを言つたところで、所詮は、一夜勉強の恥づかしい軽薄の鍍金(めつき)である。それらに就いて、くはしく知りたい人は、その地方の専門の研究家に聞くがよい。私には、また別の専門科目があるのだ。世人は仮りにその科目を愛と呼んでゐる。人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目である。私はこのたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追及した。どの部門から追及しても、結局は、津軽の現在生きてゐる姿を、そのまま読者に伝へる事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まづまあ、及第ではなからうかと私は思つてゐるのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。
[#改丁]

本編


     一 巡礼

「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」
「あなたの(苦しい)は、おきまりで、ちつとも信用できません。」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでゐる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとつて、これくらゐの年齢の時が、一ばん大事で、」
「さうして、苦しい時なの?」
「何を言つてやがる。ふざけちやいけない。お前にだつて、少しは、わかつてゐる筈たがね。もう、これ以上は言はん。言ふと、気障(きざ)になる。おい、おれは旅に出るよ。」
 私もいい加減にとしをとつたせゐか、自分の気持の説明などは、気障な事のやうに思はれて、(しかも、それは、たいていありふれた文学的な虚飾なのだから)何も言ひたくないのである。
 津軽の事を書いてみないか、と或る出版社の親しい編輯者に前から言はれてゐたし、私も生きてゐるうちに、いちど、自分の生れた地方の隅々まで見て置きたくて、或る年の春、乞食のやうな姿で東京を出発した。
 五月中旬の事である。乞食のやうな、といふ形容は、多分に主観的の意味で使用したのであるが、しかし、客観的に言つたつて、あまり立派な姿ではなかつた。私には背広服が一着も無い。勤労奉仕の作業服があるだけである。それも仕立屋に特別に注文して作らせたものではなかつた。有り合せの木綿の布切を、家の者が紺色に染めて、ジヤンパーみたいなものと、ズボンみたいなものにでつち上げた何だか合点のゆかない見馴れぬ型の作業服なのである。染めた直後は、布地の色もたしかに紺であつた筈だが、一、二度着て外へ出たら、たちまち変色して、むらさきみたいな妙な色になつた。むらさきの洋装は、女でも、よほどの美人でなければ似合はない。私はそのむらさきの作業服に緑色のスフのゲートルをつけて、ゴム底の白いズツクの靴をはいた。帽子は、スフのテニス帽。あの洒落者が、こんな姿で旅に出るのは、生れてはじめての事であつた。けれども流石に背中のリユツクサツクには、母の形見を縫ひ直して仕立てた縫紋の一重羽織と大島の袷、それから仙台平の袴を忍ばせてゐた。いつ、どんな事があるかもわからない。
 十七時三十分上野発の急行列車に乗つたのだが、夜のふけると共に、ひどく寒くなつて来た。私は、そのジヤンパーみたいなものの下に、薄いシヤツを二枚着てゐるだけなのである。ズボンの下には、パンツだけだ。冬の外套を着て、膝掛けなどを用意して来てゐる人さへ、寒い、今夜はまたどうしたのかへんに寒い、と騒いでゐる。私にも、この寒さは意外であつた。東京ではその頃すでに、セルの単衣を着て歩いてゐる気早やな人もあつたのである。私は、東北の寒さを失念してゐた。私は手足を出来るだけ小さくちぢめて、それこそ全く亀縮の形で、ここだ、心頭滅却の修行はここだ、と自分に言ひ聞かせてみたけれども、暁に及んでいよいよ寒く、心頭滅却の修行もいまはあきらめて、ああ早く青森に着いて、どこかの宿で炉辺に大あぐらをかき、熱燗のお酒を飲みたい、と頗る現実的な事を一心に念ずる下品な有様となつた。青森には、朝の八時に着いた。T君が駅に迎へに来てゐた。私が前もつて手紙で知らせて置いたのである。
「和服でおいでになると思つてゐました。」
「そんな時代ぢやありません。」私は努めて冗談めかしてさう言つた。
 T君は、女のお子さんを連れて来てゐた。ああ、このお子さんにお土産を持つて来ればよかつたと、その時すぐに思つた。
「とにかく、私の家へちよつとお寄りになつてお休みになつたら?」
「ありがたう。けふおひる頃までに、蟹田のN君のところへ行かうと思つてゐるんだけど。」
「存じて居ります。Nさんから聞きました。Nさんも、お待ちになつてゐるやうです。とにかく、蟹田行のバスが出るまで、私の家で一休みしたらいかがです。」
 炉辺に大あぐらをかき熱燗のお酒を、といふ私のけしからぬ俗な念願は、奇蹟的に実現せられた。T君の家では囲炉裏にかんかん炭火がおこつて、さうして鉄瓶には一本お銚子がいれられてゐた。
「このたびは御苦労さまでした。」とT君は、あらたまつて私にお辞儀をして、「ビールのはうが、いいんでしたかしら。」
「いや、お酒が。」私は低く咳ばらひした。
 T君は昔、私の家にゐた事がある。おもに鶏舎の世話をしてゐた。私と同じとしだつたので、仲良く遊んだ。「女中たちを呶鳴り散らすところが、あれの悪いやうな善いやうなところだ。」とその頃、祖母がT君を批評して言つたのを私は聞いて覚えてゐる。のちT君は青森に出て来て勉強して、それから青森市の或る病院に勤めて、患者からも、また病院の職員たちからも、かなり信頼されてゐた様子である。先年出征して、南方の孤島で戦ひ、病気になつて昨年帰還し、病気をなほしてまた以前の病院につとめてゐるのである。
「戦地で一ばん、うれしかつた事は何かね。」
「それは、」T君は言下に答へた。「戦地で配給のビールをコツプに一ぱい飲んだ時です。大事に大事に少しづつ吸ひ込んで、途中でコツプを唇から離して一息つかうと思つたのですが、どうしてもコツプが唇から離れないのですね。どうしても離れないのです。」
 T君もお酒の好きな人であつた。けれども、いまは、少しも飲まない。さうして時々、軽く咳をしてゐる。
「どうだね、からだのはうは。」T君はずつと以前に一度、肋膜を病んだ事があつて、こんどそれが戦地で再発したのである。
「こんどは銃後の奉公です。病院で病人の世話をするには、自分でも病気でいちど苦しんでみなければ、わからないところがあります。こんどは、いい体験を得ました。」
「さすがに人間ができて来たやうだね。じつさい、胸の病気なんてものは、」と私は、少し酔つて来たので、おくめんも無く医者に医学を説きはじめた。「精神の病気なんだ。忘れちまへば、なほるもんだ。たまには大いに酒でも飲むさ。」
「ええ、まあ、ほどよくやつてゐます。」と言つて、笑つた。私の乱暴な医学は、本職にはあまり信用されないやうであつた。
「何か召上りませんか。青森にも、このごろは、おいしいおさかなが少くなつて。」
「いや、ありがたう。」私は傍のお膳をぼんやり眺めながら、「おいしさうなものばかりぢやないか。手数をかけるね。でも、僕は、そんなにたべたくないんだ。」
 こんど津軽へ出掛けるに当つて、心にきめた事が一つあつた。それは、食ひ物に淡泊なれ、といふ事であつた。私は別に聖者でもなし、こんな事を言ふのは甚だてれくさいのであるが、東京の人は、どうも食ひ物をほしがりすぎる。私は自身古くさい人間のせゐか、武士は食はねど高楊枝などといふ、ちよつとやけくそにも似たあの馬鹿々々しい痩せ我慢の姿を滑稽に思ひながらも愛してゐるのである。何もことさらに楊枝まで使つてみせなくてもよささうに思はれるのだが、そこが男の意地である。男の意地といふものは、とかく滑稽な形であらはれがちのものである。東京の人の中には、意地も張りも無く、地方へ行つて、自分たちはいまほとんど餓死せんばかりの状態なのです、とひどく大袈裟に窮状を訴へ、さうして田舎の人の差し出す白米のごはんなどを拝んで食べて、お追従たらたら、何かもつと食べるものはありませんか、おいもですか、そいつは有難い、幾月ぶりでこんなおいしいおいもを食べる事でせう、ついでに少し家へ持つて帰りたいのですけれども、わけていただけませんでせうかしら、などと満面に卑屈の笑ひを浮べて歎願する人がたまにあるとかいふ噂を聞いた。東京の人みなが、確実に同量の食料の配給を受けてゐる筈である。その人ひとりが、特別に餓死せんばかりの状態なのは奇怪である。或いは胃拡張なのかも知れないが、とにかく食べ物の哀訴歎願は、みつともない。お国のため、などと開き直つた事は言はずとも、いつの世だつて、人間としての誇りは持ち堪へてゐたいものだ。東京の少数の例外者が、地方へ行つて、ひどく出鱈目に帝都の食料不足を訴へるので、地方の人たちは、東京から来た客人を、すべて食べものをあさりに来たものとして軽蔑して取扱ふやうになつたといふ噂も聞いた。私は津軽へ、食べものをあさりに来たのではない。姿こそ、むらさき色の乞食にも似てゐるが、私は真理と愛情の乞食だ、白米の乞食ではない! と東京の人全部の名誉のためにも、演説口調できざな大見得を切つてやりたいくらゐの決意をひめて津軽へ来たのだ。もし、誰か私に向つて、さあさ、このごはんは白米です、おなかが破れるほど食べて下さい、東京はひどいつて話ぢやありませんか、としんからの好意を以て言つてくれても、私は軽く一ぱいだけ食べて、さうしてかう言はうと思つてゐた。「なれたせゐか、東京のごはんのはうがおいしい。副食物だつて、ちやうど無くなつたと思つた頃に、ちやんと配給があります。いつのまにやら胃腑が撤収して小さくなつてゐるので、少したべると満腹します。よくしたもんですよ。」
 けれども私のそんなひねくれた用心は、まつたく無駄であつた。私は津軽のあちこちの知合ひの家を訪れたが、一人として私に、白いごはんですよ、腹の破れるほど食ひ溜めなさいなどと言つてくれた人は無かつた。殊にも、私の生家の八十八歳の祖母などに至つては、「東京は、おいしいものが何でもあるところだから、お前に、何かおいしいものを食べさせようと思つても困つてしまふな。瓜の粕漬でも食べさせたいが、どうしたわけだか、このごろ酒粕もとんと無いてば。」と面目なささうに言ふので、私は実に幸福な気がした。謂はば私は、食べ物などの事にはあまり敏感でないおつとりした人たちとばかり逢つたのである。私は自分の幸運を神に感謝した。あれも持つて行け、これも持つて行け、と私に食料品のお土産をしつこく押しつけた人も無かつた。おかげで私は軽いリユツクサツクを背負つて気楽に旅をつづける事が出来たのであるが、けれども帰京してみると、私の家には、それぞれの旅先の優しい人たちからの小包が、私よりもさきに一ぱいとどいてゐたので呆然とした。それは余談だが、とにかく、T君もそれ以上私に食べものをすすめはしなかつたし、東京の食べ物はどんな工合であるかなどといふ事は、一ぺんも話題にのぼらなかつた、おもな話題は、やはり、むかし二人が金木の家で一緒に遊んだ頃の思ひ出であつた。
「僕は、しかし君を、親友だと思つてゐるんだぜ。」実に乱暴な、失敬な、いやみつたらしく気障(きざ)つたらしい芝居気たつぷりの、思ひ上つた言葉である。私は言つてしまつて身悶えした。他に言ひかたが無いものか。
「それは、かへつて愉快ぢやないんです。」T君も敏感に察したやうである。「私は金木のあなたの家に仕へた者です。さうして、あなたは御主人です。さう思つていただかないと、私は、うれしくないんです。へんなものですね。あれから二十年も経つてゐますけれども、いまでもしよつちゆう金木のあなたの家の夢を見るんです。戦地でも見ました。鶏に餌をやる事を忘れた、しまつた! と思つて、はつと夢から醒める事があります。」
 バスの時間が来た。私はT君と一緒に外へ出た。もう寒くはない。お天気はいいし、それに、熱燗のお酒も飲んだし、寒いどころか、額に汗がにじみ出て来た。合浦公園の桜は、いま、満開だといふ話であつた。青森市の街路は白つぽく乾いて、いや、酔眼に映つた出鱈目な印象を述べる事は慎しまう。青森市は、いま造船で懸命なのだ。途中、中学時代に私がお世話になつた豊田のお父さんのお墓におまゐりして、バスの発着所にいそいだ。どうだね、君も一緒に蟹田へ行かないか、と昔の私ならば、気軽に言へたのでもあらうが、私も流石にとしをとつて少しは遠慮といふ事を覚えて来たせゐか、それとも、いや、気持のややこしい説明はよさう。つまり、お互ひ、大人(おとな)になつたのであらう。大人(おとな)といふものは侘しいものだ。愛し合つてゐても、用心して、他人行儀を守らなければならぬ。なぜ、用心深くしなければならぬのだらう。その答は、なんでもない。見事に裏切られて、赤恥をかいた事が多すぎたからである。人は、あてにならない、といふ発見は、青年の大人に移行する第一課である。大人とは、裏切られた青年の姿である。私は黙つて歩いてゐた。突然、T君のはうから言ひ出した。
「私は、あした蟹田へ行きます。あしたの朝、一番のバスで行きます。Nさんの家で逢ひませう。」
「病院のはうは?」
「あしたは日曜です。」
「なあんだ、さうか。早く言へばいいのに。」
 私たちには、まだ、たわいない少年の部分も残つてゐた。

     二 蟹田

 津軽半島の東海岸は、昔から外ヶ浜と呼ばれて船舶の往来の繁盛だつたところである。青森市からバスに乗つて、この東海岸を北上すると、後潟(うしろがた)、蓬田(よもぎた)、蟹田、平館(たひらだて)、一本木、今別(いまべつ)、等の町村を通過し、義経の伝説で名高い三厩(みまや)に到着する。所要時間、約四時間である。三厩はバスの終点である。三厩から波打際の心細い路を歩いて、三時間ほど北上すると、竜飛(たつぴ)の部落にたどりつく。文字どほり、路の尽きる個所である。ここの岬は、それこそ、ぎりぎりの本州の北端である。けれども、この辺は最近、国防上なかなか大事なところであるから、里数その他、具体的な事に就いての記述は、いつさい避けなければならぬ。とにかく、この外ヶ浜一帯は、津軽地方に於いて、最も古い歴史の存するところなのである。さうして蟹田町は、その外ヶ浜に於いて最も大きい部落なのだ。青森市からバスで、後潟、蓬田を通り、約一時間半、とは言つてもまあ二時間ちかくで、この町に到着する。所謂、外ヶ浜の中央部である。戸数は一千に近く、人口は五千をはるかに越えてゐる様子である。ちかごろ新築したばかりらしい蟹田警察署は、外ヶ浜全線を通じていちばん堂々として目立つ建築物の一つであらう。蟹田、蓬田、平館、一本木、今別、三厩、つまり外ヶ浜の部落全部が、ここの警察署の管轄区域になつてゐる。竹内運平といふ弘前の人の著した「青森県通史」に依れば、この蟹田の浜は、昔は砂鉄の産地であつたとか、いまは全く産しないが、慶長年間、弘前城築城の際には、この浜の砂鉄を精錬して用ゐたさうで、また、寛文九年の蝦夷蜂起の時には、その鎮圧のための大船五艘を、この蟹田浜で新造した事もあり、また、四代藩主信政の、元禄年間には、津軽九浦の一つに指定せられ、ここに町奉行を置き、主として木材輸出の事を管せしめた由であるが、これらの事は、すべて私があとで調べて知つた事で、それまでは私は、蟹田は蟹の名産地、さうして私の中学時代の唯一の友人のN君がゐるといふ事だけしか知らなかつたのである。私がこんど津軽を行脚するに当つて、N君のところへも立寄つてごやくかいになりたく、前もつてN君に手紙を差し上げたが、その手紙にも、「なんにも、おかまひ下さるな。あなたは、知らん振りをしてゐて下さい。お出迎へなどは、決して、しないで下さい。でも、リンゴ酒と、それから蟹だけは。」といふやうな事を書いてやつた筈で、食べものには淡泊なれ、といふ私の自戒も、蟹だけには除外例を認めてゐたわけである。私は蟹が好きなのである。どうしてだか好きなのである。蟹、蝦、しやこ、何の養分にもならないやうな食べものばかり好きなのである。それから好むものは、酒である。飲食に於いては何の関心も無かつた筈の、愛情と真理の使徒も、話ここに到つて、はしなくも生来の貪婪性の一端を暴露しちやつた。
 蟹田のN君の家では、赤い猫脚の大きいお膳に蟹を小山のやうに積み上げて私を待ち受けてくれてゐた。
「リンゴ酒でなくちやいけないかね。日本酒も、ビールも駄目かね。」と、N君は、言ひにくさうにして言ふのである。
 駄目どころか、それはリンゴ酒よりいいにきまつてゐるのであるが、しかし、日本酒やビールの貴重な事は「大人(おとな)」の私は知つてゐるので、遠慮して、リンゴ酒と手紙に書いたのである。津軽地方には、このごろ、甲州に於ける葡萄酒のやうに、リンゴ酒が割合ひ豊富だといふ噂を聞いてゐたのだ。
「それあ、どちらでも。」私は複雑な微笑をもらした。
 N君は、ほつとした面持で、
「いや、それを聞いて安心した。僕は、どうも、リンゴ酒は好きぢやないんだ。実はね、女房の奴が、君の手紙を見て、これは太宰が東京で日本酒やビールを飲みあきて、故郷の匂ひのするリンゴ酒を一つ飲んでみたくて、かう手紙にも書いてゐるのに相違ないから、リンゴ酒を出しませうと言ふのだが、僕はそんな筈は無い、あいつがビールや日本酒をきらひになつた筈は無い、あいつは、がらにも無く遠慮をしてゐるのに違ひないと言つたんだ。」
「でも、奥さんの言も当つてゐない事はないんだ。」
「何を言つてる。もう、よせ。日本酒をさきにしますか? ビール?」
「ビールは、あとのはうがいい。」私も少し図々しくなつて来た。
「僕もそのはうがいい。おうい、お酒だ。お燗がぬるくてもかまはないから、すぐ持つて来てくれ。」
何れの処か酒を忘れ難き。天涯旧情を話す。
青雲倶に達せず、白髪逓(たがひ)に相驚く。
二十年前に別れ、三千里外に行く。
此時一盞(いつさん)無くんば、何を以てか平生を叙せん。  (白居易)
 私は、中学時代には、よその家へ遊びに行つた事は絶無であつたが、どういふわけか、同じクラスのN君のところへは、実にしばしば遊びに行つた。N君はその頃、寺町の大きい酒屋の二階に下宿してゐた。私たちは毎朝、誘ひ合つて一緒に登校した。さうして、帰りには裏路の、海岸伝ひにぶらぶら歩いて、雨が降つても、あわてて走つたりなどはせず、全身濡れ鼠になつても平気で、ゆつくり歩いた。いま思へば二人とも、頗る鷹揚に、抜けたやうなところのある子であつた。そこが二人の友情の鍵かも知れなかつた。私たちはお寺の前の広場で、ランニングをしたり、テニスをしたり、また日曜には弁当を持つて近くの山へ遊びに行つた。「思ひ出」といふ私の初期の小説の中に出て来る「友人」といふのはたいていこのN君の事なのである。N君は中学校を卒業してから、東京へ出て、或る雑誌社に勤めたやうである。私はN君よりも二、三年おくれて東京へ出て、大学に籍を置いたが、その時からまた二人の交遊は復活した。N君の当時の下宿は池袋で、私の下宿は高田馬場であつたが、しかし、私たちはほとんど毎日のやうに逢つて遊んだ。こんどの遊びは、テニスやランニングではなかつた。N君は、雑誌社をよして、保険会社に勤めたが、何せ鷹揚な性質なので、私と同様、いつも人にだまされてばかりゐたやうである。けれども私は、人にだまされる度毎に少しづつ暗い卑屈な男になつて行つたが、N君はそれと反対に、いくらだまされても、いよいよのんきに、明るい性格の男になつて行くのである。N君は不思議な男だ、ひがまないのが感心だ、あの点は祖先の遺徳と思ふより他はない、と口の悪い遊び仲間も、その素直さには一様に敬服してゐた。N君は、中学時代にも金木の私の生家に遊びに来た事はあるが、東京に来てからも、戸塚の私のすぐの兄の家へ、ちよいちよい遊びに来て、さうして、この兄が二十七で死んだ時には、勤めを休んでいろいろの用事をしてくれて、私の肉親たち皆に感謝された。そのうちにN君は、田舎の家の精米業を継がなければならなくなつて帰郷した。家業を継いでからも、その不思議な人徳に依り、町の青年たちの信頼を得て、二、三年前、蟹田の町会議員に選ばれ、また青年団の分団長だの、何とか会の幹事だのいろいろな役を引き受けて、今では蟹田の町になくてならぬ男の一人になつてゐる模様なのである。その夜も、N君の家へこの地方の若い顔役が二、三人あそびに来て一緒にお酒やビールを飲んだけれども、N君の人気はなかなかのものらしく、やはり一座の花形であつた。芭蕉翁の行脚掟として世に伝へられてゐるものの中に、一、好みて酒を飲むべからず、饗応により固辞しがたくとも微醺にして止むべし、乱に及ばずの禁あり、といふ一箇条があつたやうであるが、あの、論語の酒無量不及乱といふ言葉は、酒はいくら飲んでもいいが失礼な振舞ひをするな、といふ意味に私は解してゐるので、敢へて翁の教へに従はうともしないのである。泥酔などして礼を失しない程度ならば、いいのである。当り前の話ではないか。私はアルコールには強いのである。芭蕉翁の数倍強いのではあるまいかと思はれる。よその家でごちそうになつて、さうして乱に及ぶなどといふ、それほどの馬鹿ではないつもりだ。此時一盞無くんば、何を以てか平生を叙せん、である。私は大いに飲んだ。なほまた翁の、あの行脚掟の中には、一、俳諧の外、雑話すべからず、雑話出づれば居眠りして労を養ふべし、といふ条項もあつたやうであるが、私はこの掟にも従はなかつた。芭蕉翁の行脚は、私たち俗人から見れば、ほとんど蕉風宣伝のための地方御出張ではあるまいかと疑ひたくなるほど、旅の行く先々に於いて句会をひらき蕉風地方支部をこしらへて歩いてゐる。俳諸の聴講生に取りまかれてゐる講師ならば、それは俳諸の他の雑話を避けて、さうして雑話が出たら狸寝入りをしようが何をしようが勝手であらうが、私の旅は、何も太宰風の地方支部をこしらへるための旅ではなし、N君だつてまさか私から、文学の講義を聞かうと思つて酒席をまうけたわけぢやあるまいし、また、その夜、N君のお家へ遊びに来られた顔役の人たちだつて、私がN君の昔からの親友であるといふ理由で私にも多少の親しみを感じてくれて、盃の献酬をしてゐるといふやうな実情なのだから、私が開き直つて、文学精神の在りどころを説き来り説き去り、しかうして、雑談いづれば床柱を背にして狸寝入りをするといふのは、あまりおだやかな仕草ではないやうに思はれる。私はその夜、文学の事は一言も語らなかつた。東京の言葉さへ使はなかつた。かへつて気障なくらゐに努力して、純粋の津軽弁で話をした。さうして日常瑣事の世俗の雑談ばかりした。そんなにまでして勤めなくともいいのにと、酒席の誰かひとりが感じたに違ひないと思はれるほど、私は津軽の津島のオズカスとして人に対した。(津島修治といふのは、私の生れた時からの戸籍名であつて、また、オズカスといふのは叔父糟といふ漢字でもあてはめたらいいのであらうか、三男坊や四男坊をいやしめて言ふ時に、この地方ではその言葉を使ふのである。)こんどの旅に依つて、私をもういちど、その津島のオズカスに還元させようといふ企画も、私に無いわけではなかつたのである。都会人としての私に不安を感じて、津軽人としての私をつかまうとする念願である。言ひかたを変へれば、津軽人とは、どんなものであつたか、それを見極めたくて旅に出たのだ。私の生きかたの手本とすべき純粋の津軽人を捜し当てたくて津軽へ来たのだ。さうして私は、実に容易に、随所に於いてそれを発見した。誰がどうといふのではない。乞食姿の貧しい旅人には、そんな思ひ上つた批評はゆるされない。それこそ、失礼きはまる事である。私はまさか個人々々の言動、または私に対するもてなしの中に、それを発見してゐるのではない。そんな探偵みたいな油断のならぬ眼つきをして私は旅をしてゐなかつたつもりだ。私はたいていうなだれて、自分の足もとばかり見て歩いてゐた。けれども自分の耳にひそひそと宿命とでもいふべきものを囁かれる事が実にしばしばあつたのである。私はそれを信じた。私の発見といふのは、そのやうに、理由も形も何も無い、ひどく主観的なものなのである。誰がどうしたとか、どなたが何とおつしやつたとか、私はそれには、ほとんど何もこだはるところが無かつたのである。それは当然の事で、私などには、それにこだはる資格も何も無いのであるが、とにかく、現実は、私の眼中に無かつた。「信じるところに現実はあるのであつて、現実は決して人を信じさせる事が出来ない。」といふ妙な言葉を、私は旅の手帖に、二度も繰り返して書いてゐた。
 慎しまうと思ひながら、つい、下手な感懐を述べた。私の理論はしどろもどろで、自分でも、何を言つてゐるのか、わからない場合が多い。嘘を言つてゐる事さへある。だから、気持の説明は、いやなのだ。何だかどうも、見え透いたまづい虚飾を行つてゐるやうで、慚愧赤面するばかりだ。かならず後悔ほぞを噛むと知つてゐながら、興奮するとつい、それこそ「廻らぬ舌に鞭打ち鞭打ち」口をとがらせて呶々と支離滅裂の事を言ひ出し、相手の心に軽蔑どころか、憐憫の情をさへ起させてしまふのは、これも私の哀しい宿命の一つらしい。
 その夜は、しかし、私はそのやうな下手な感懐をもらす事はせず、芭蕉翁の遺訓にはそむいてゐるやうだつたけれども、居眠りもせず大いに雑談にのみ打興じ、眼前に好物の蟹の山を眺めて夜の更けるまで飲みつづけた。N君の小柄でハキハキした奥さんは、私が蟹の山を眺めて楽しんでゐるばかりで一向に手を出さないのを見てとり、これは蟹をむいてたべるのを大儀がつてゐるのに違ひないとお思ひになつた様子で、ご自分でせつせと蟹を器用にむいて、その白い美しい肉をそれぞれの蟹の甲羅につめて、フルウツ何とかといふ、あの、果物の原形を保持したままの香り高い涼しげな水菓子みたいな体裁にして、いくつもいくつも私にすすめた。おそらくは、けさ、この蟹田浜からあがつたばかりの蟹なのであらう。もぎたての果実のやうに新鮮な軽い味である。私は、食べ物に無関心たれといふ自戒を平気で破つて、三つも四つも食べた。この夜、奥さんは、来る人来る人みんなにお膳を差し上げて、この土地の人でさへ、そのお膳の料理の豊潤に驚いてゐたくらゐであつた。顔役のお客さんたちが帰つてしまふと、私とN君は奥の座敷から茶の間へ酒席を移して、アトフキをはじめた。アトフキといふのは、この津軽地方に於いて、祝言か何か家に人寄せがあつた場合、お客が皆かへつた後で、身内の少数の者だけが、その残肴を集めてささやかにひらく慰労の宴の事であつて、或いは「後引(あとひ)き」の訛かも知れない。N君は私よりも更にアルコールには強いたちなので、私たちは共に、乱に及ぶ憂ひは無かつたが、
「しかし、君も、」と私は、深い溜息をついて、「相変らず、飲むなあ。何せ僕の先生なんだから、無理もないけど。」
 僕に酒を教へたのは、実に、このN君なのである。それは、たしかに、さうなのである。
「うむ。」とN君は盃を手にしたままで、真面目に首肯き、「僕だつて、ずいぶんその事に就いては考へてゐるんだぜ。君が酒で何か失敗みたいな事をやらかすたんびに、僕は責任を感じて、つらかつたよ。でもね、このごろは、かう考へ直さうと努めてゐるんだ。あいつは、僕が教へなくたつて、ひとりで、酒飲みになつた奴に違ひない。僕の知つた事ではないと。」
「ああ、さうなんだ。そのとほりなんだ。君に責任なんかありやしないよ。全く、そのとほりなんだ。」
 やがて奥さんも加り、お互ひの子供の事など語り合つて、しんみり、アトフキをやつてゐるうちに、突如、鶏鳴あかつきを告げたので、大いに驚いて私は寝所へ引上げた。
 翌る朝、眼をさますと、青森市のT君の声が聞えた。約束どほり、朝の一番のバスでやつて来てくれたのだ。私はすぐにはね起きた。T君がゐてくれると、私は、何だか安心で、気強いのである。T君は、青森の病院の、小説の好きな同僚の人をひとり連れて来てゐた。また、その病院の蟹田分院の事務長をしてゐるSさんといふ人も一緒に来てゐた。私が顔を洗つてゐる間に、三厩の近くの今別から、Mさんといふ小説の好きな若い人も、私が蟹田に来る事をN君からでも聞いてゐたらしく、はにかんで笑ひながらやつて来られた。Mさんは、N君とも、またT君とも、Sさんとも旧知の間柄のやうである。これから、すぐ皆で、蟹田の山へ花見に行かうといふ相談が、まとまつた様子である。
 観瀾山(くわんらんざん)。私はれいのむらさきのジヤンパーを着て、緑色のゲートルをつけて出掛けたのであるが、そのやうなものものしい身支度をする必要は全然なかつた。その山は、蟹田の町はづれにあつて、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかつた。その日は、まぶしいくらゐの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。東北の海と言へば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、この蟹田あたりの海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似てゐる。深さなどに就いては、国防上、言はぬはうがいいかも知れないが、浪は優しく砂浜を嬲つてゐる。さうして海浜のすぐ近くに網がいくつも立てられてゐて、蟹をはじめ、イカ、カレヒ、サバ、イワシ、鱈、アンカウ、さまざまの魚が四季を通じて容易に捕獲できる様子である。この町では、いまも昔と変らず、毎朝、さかなやがリヤカーにさかなを一ぱい積んで、イカにサバだぢやあ、アンカウにアオバだぢやあ、スズキにホツケだぢやあ、と怒つてゐるやうな大声で叫んで、売り歩いてゐるのである。さうして、この辺のさかなやは、その日にとれたさかなばかりを売り歩いて、前日の売れ残りは一さい取扱はないやうである。よそへ送つてしまふのかも知れない。だから、この町の人たちは、その日にとれた生きたさかなばかり食べてゐるわけであるが、しかし、海が荒れたりなどしてたつた一日でも漁の無かつた時には、町中に一尾のなまざかなも見当らず、町の人たちは、干物と山菜で食事をしてゐる。これは、蟹田に限らず、外ヶ浜一帯のどの漁村でも、また、外ヶ浜だけとも限らず、津軽の西海岸の漁村に於いても、全く同様である。蟹田はまた、頗る山菜にめぐまれてゐるところのやうである。蟹田は海岸の町ではあるが、また、平野もあれば、山もある。津軽半島の東海岸は、山がすぐ海岸に迫つてゐるので、平野は乏しく、山の斜面に田や畑を開墾してゐるところも少くない状態なので、山を越えて津軽半島西部の広い津軽平野に住んでゐる人たちは、この外ヶ浜地方を、カゲ(山の陰(かげ)の意)と呼んで、多少、あはれんでゐる傾向が無いわけでもないやうに思はれる。けれども、この蟹田地方だけは、決して西部に劣らぬ見事な沃野を持つてゐるのだ。西部の人たちに、あはれまれてゐると知つたら、蟹田の人たちは、くすぐつたく思ふだらう。蟹田地方には、蟹田川といふ水量ゆたかな温和な川がゆるゆると流れてゐて、その流域に田畑が広く展開してゐるのである。ただこの地方には、東風も、西風も強く当るので不作のとしも少くないやうであるが、しかし、西部の人たちが想像してゐるほど、土地が痩せてはゐないのである。観瀾山から見下すと、水量たつぷりの蟹田川が長蛇の如くうねつて、その両側に一番打のすんだ水田が落ちつき払つて控へてゐて、ゆたかな、たのもしい景観をなしてゐる。山は奥羽山脈の支脈の梵珠(ぼんじゆ)山脈である。この山脈は津軽半島の根元(ねもと)から起つてまつすぐに北進して半島の突端の竜飛岬まで走つて海にころげ落ちる。二百メートルから三、四百メートルくらゐの低い山々が並んで、観瀾山からほぼまつすぐ西に青く聳えてゐる大倉岳は、この山脈に於いて増川岳などと共に最高の山の一つなのであるが、それとて、七百メートルあるかないかくらゐのものなのである。けれども、山高きが故に貴からず、樹木あるが故に貴し、とか、いやに興覚めなハツキリした事を断言してはばからぬ実利主義者もあるのだから、津軽の人たちは、敢へてその山脈の低きを恥ぢる必要もあるまい。この山脈は、全国有数の扁柏(ひば)の産地である。その古い伝統を誇つてよい津軽の産物は、扁柏である。林檎なんかぢやないんだ。林檎なんてのは、明治初年にアメリカ人から種をもらつて試植し、それから明治二十年代に到つてフランスの宣教師からフランス流の剪定法を教はつて、俄然、成績を挙げ、それから地方の人たちもこの林檎栽培にむきになりはじめて、青森名産として全国に知られたのは、大正にはひつてからの事で、まさか、東京の雷おこし、桑名の焼はまぐりほど軽薄な「産物」でも無いが、紀州の蜜柑などに較べると、はるかに歴史は浅いのである。関東、関西の人たちは、津軽と言へばすぐに林檎を思ひ出し、さうしてこの扁柏林に就いては、あまり知らないやうに見受けられる。青森県といふ名もそこから起つたのではないかと思はれるほど、津軽の山々には樹木が枝々をからませ合つて冬もなほ青く繁つてゐる。
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