惜別
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著者名:太宰治 

「まあ、こんなところかな?」と私はその生徒と並んで立ったまま眼下の日本一の風景を眺め、「僕はどうも、景色にイムポテンツなのか、この松島のどこがいいのか、さっぱり見当がつかなくて、さっきからこの山をうろうろしていたのです。」
「僕にも、わかりません。」とその生徒は、いかにもたどたどしい東京言葉で、「しかし、だいたいわかるような気がします。この、しずかさ、いや、しずけさ、」と言い澱(よど)んで苦笑して、「Silentium,」と独逸(ドイツ)語で言い、「あまりに静かで、不安なので、唱歌を声高く歌ってみましたが、だめでした。」
 いや、あの歌だったら松島も動揺したでしょう、と言ってやろうと思ったが、それは遠慮した。
「静かすぎます。何か、もう一つ、ほしい。」とその生徒は、まじめに言い、「春は、どうでしょうか。海岸の、あのあたりに桜の木でもあって、花びらが波の上に散っているとか、または、雨。」
「なるほど、それだったらわかります。」なかなか面白い事を言うひとだ、と私はひそかに感心し、「どうも、この景色は老人むきですな。あんまり色気が無さすぎる。」調子に乗ってつまらぬ事を言った。
 その生徒は、あいまいな微笑を頬に浮かべて煙草に火をつけ、
「いや、これが日本の色気でしょう。何か、もう一つ欲しいと思わせて、沈黙。Sittsamkeit, 本当にいい芸術というのも、こんな感じのものかも知れませんね。しかし、僕には、まだよくわかりません。僕はただ、こんな静かな景色を日本三景の一つとして選んだ昔の日本の人に、驚歎しているのです。この景色には、少しも人間の匂いが無い。僕たちの国の者には、この淋(さび)しさはとても我慢できぬでしょう。」
「お国はどちらです。」私は余念なく尋ねた。
 相手は奇妙な笑い方をして、私の顔を黙って見ている。私は幾分まごつきながら、重ねて尋ねた。
「東北じゃありませんか。そうでしょう?」
 相手は急に不機嫌(ふきげん)な顔になって、
「僕は支那(しな)です。知らない筈(はず)はない。」
「ああ。」
 とっさのうちに了解した。ことし仙台医専に清国(しんこく)留学生が一名、私たちと同時に入学したという話は聞いていたが、それでは、この人がそうなのだ。唱歌の下手くそなのも無理がない。言葉が妙に、苦しくて演説口調なのも無理がない。そうか。そうか。
「失礼しました。いや、本当に知らなかったのです。僕は東北の片田舎から出て来て、友達も無いし、どうも学校が面白くなくて、実は新学期の授業にもちょいちょい欠席している程で、学校の事に就いては、まだなんにも知らないのです。僕は、アインザームの烏なんです。」自分でも意外なほど、軽くすらすらと思っている事が言えた。
 あとで考えた事だが、東京や大阪などからやって来た生徒たちを、あんなに恐れ、また下宿屋の家族たちにさえ打ち解けず、人間ぎらいという程ではなくても、人みしりをするという点では決して人後に落ちない私が、京、大阪どころか、海のかなたの遠い異国からやって来た留学生と、何のこだわりも無く親しく交際をはじめる事が出来たのは、それは勿論、あの周さんの大きい人格の然(しか)らしめたところであろうが、他にもう一つ、周さんと話をしている時だけは、私は自分の田舎者の憂鬱から完全に解放されるというまことに卑近な原因もあったようである。事実、私は周さんと話している時には、自分の言葉の田舎訛りが少しも苦にならず、自分でも不思議なくらい気軽に洒落(しゃれ)や冗談を飛ばす事が出来た。私がひそかに図に乗り、まわらぬ舌に鞭(むち)打って、江戸っ子のべらんめえ口調を使ってみても、その相手が日本人ならば、あいつ田舎者のくせに奇怪な巻舌を使っていやがるとかつは呆(あき)れ、かつは大笑いするところでもあったろうが、この異国の友は流石(さすが)にそこまでは気附かぬ様子で、かつて一度も私の言葉を嘲笑(ちょうしょう)した事が無かったばかりか、私のほうから周さんに、「僕の言葉、何だか、へんじゃないですか。」と尋ねてみた事さえあったが、その時、周さんは、きょとんとした顔をして、「いや、あなたの言葉の抑揚は、強くてたいへんわかり易(やす)い。」と答えたほどであった。之(これ)を要するに、何の事は無い、私より以上に東京言葉を使うのに苦労している人を見つけて私が大いに気をよくしたという事が、私と周さんとの親交の端緒になったと言ってよいかも知れないのである。可笑(おか)しな言い方であるが、私には、この清国留学生よりは、たしかに日本語がうまいという自信があったのである。それで私は、その松島の丘の上でも、相手が支那の人と知ってからは、大いに勇気を得て頗(すこぶ)る気楽に語り、かれが独逸語ならばこちらも、という意気込みで、アインザームの烏などという、ぞっとするほどキザな事まで口走ったのであるが、かの留学生には、その孤独(アインザーム)という言葉がかなり気に入った様子で、
「Einsam,」とゆっくり呟(つぶや)いて、遠くを見ながら何か考え、それから突然、「しかし僕は、Wandervogel でしょう。故郷が無いのです。」
 渡り鳥。なるほど、うまい事を言う。どうも独逸語は、私よりもはるかに上手なようだ。もう独逸語を使う事はよそう、と私はとっさに戦法をかえて、
「でも、支那にお帰りになったら、立派なお家があるのでしょう。」とたいへん俗な質問を発した。
 相手はそれに答えず、
「これから親しくしましょうね。支那人は、いやですか?」と少し顔を赤くして、笑いながら言った。
「けっこうですな。」ああ、なぜ私はあの時、あんな誠意のない、軽薄きわまる答え方をしたのであろう。あとで考え合わせると、あのとき周さんは、自分の身の上の孤独寂寥(せきりょう)に堪えかねて、周さんの故郷の近くの西湖に似たと言われる松島の風景を慕って、ひとりでこっそりやって来て、それでもやっぱり憂愁をまぎらす事が出来ず、やけになって大声で下手な唱歌などを歌って、そうして、そこに不意にあらわれたヘマな日本の医学生に、真剣に友交を求めたのに違いないのだ。けれども私は、かねてから実は内心あこがれていないわけでもなかったところの江戸っ子弁という奴(やつ)をはばからず自由に試みられる恰好(かっこう)の相手が見つかって有頂天になっていたので、そんな相手の気持など何もわからず、ただもうのぼせて、「大いに、けっこうです。」と上(うわ)の空で言い、「僕は支那の人は大好きなんです。」とふだん心に思ってもいない事まで口走る始末であった。
「ありがとう。あなたは、失礼ですが、僕の弟によく似ているのです。」
「光栄です。」と私は、ほとんど生粋(きっすい)の都会人の如き浅墓(あさはか)な社交振りを示して、「その弟さんは、しかし、あなたに似て頭がいいのでしょう? その点は僕と違うようですね。」
「どうですか。」とくったく無げに笑いながら、「あなたがお金持で、弟は貧乏だというところも違います。」
「まさか。」さすがの社交家も、之には応対の仕様が無かった。
「本当です。父が死んでから、一家はバラバラに離散しました。故郷があって、無いようなものです。相当な暮しの家に育った子供が、急にその家を失った場合、世間というものの本当の姿を見せつけられます。僕は親戚(しんせき)の家に寄寓(きぐう)して、乞食(こじき)、と言われた事があります。しかし、僕は、負けませんでした。いや、負けたのかも知れない。der Bettler,」と小声で言って煙草を捨て、靴の先で踏みにじりながら、「支那ではね、乞食の事をホワツと言うのです。花子(はなこ)と書きます。乞食でいながら、Blume を anmassen しようとするのは、Humor にもなりません。それは、愚かな Eitelkeit です。そうです。僕のからだにも、その虚栄(アイテルカイト)の Blut が流れているのかも知れない。いや、現在の清国の姿が、ganz それです。いま世界中で、あわれなアイテルカイトで生きているのは、あの Dame だけです。あの Gans だけです。」
 熱して来るとひとしお独逸語が連発するので、にわか仕立ての社交家もこれには少なからず閉口した。私には江戸っ子弁よりも、さらにさらに独逸語が苦手なのである。窮した揚句(あげく)、
「あなたは、お国の言葉よりも、独逸語のほうがお得意のようですね。」と一矢を報いてやった。何とかして、あの独逸語を封じなければならぬ。
「そうではありません。」と相手は、私の皮肉がわからなかったらしく、まじめに首を振って、「僕の日本語が、おわかりにならぬかと思って。」
「いや、いや。」私はここぞと乗り出し、「あなたの日本語は、たいへん上手です。どうか、日本語だけで話して下さい。僕は、まだ独逸語は、どうも。」
「やめましょう。」と向うも、急にはにかんで、おだやかな口調にかえり、「僕は、馬鹿な事ばかり言いました。しかし、独逸語は、これからも、うんと勉強しようと思っています。日本の医学の先駆者、杉田玄白(げんぱく)も、まず語学の勉強からはじめたようです。藤野先生も最初の授業の時に、杉田玄白の蘭学(らんがく)の苦心を教えてくれましたが、あなたは、あの時、――」と言いかけて、私の顔をのぞいてへんに笑った。
「欠席しました。」
「そうでしょう。どうもあの時、あなたの顔は見かけなかった。僕は、本当は、あなたを入学式の日から知っているのです。あなたは、入学式の時、制帽をかぶって来ませんでしたね。」
「ええ、何だかどうも、角帽が恥かしくて。」
「きっと、そうだろうと思っていました。あの日、制帽をかぶって来ない新入生が二人いました。ひとりは、あなたで、もうひとりは、僕でした。」と言って、にやりと笑った。
「そうでしたか。」と私も笑った。「それでは、あなたも、やはり、――」
「そうです。恥かしかったのです。この帽子は、音楽隊の帽子に似ていますからね。それから、僕は、学校へ出るたびに、あなたの姿を捜していました。けさ、船で一緒になって、うれしかったのです。しかし、あなたは僕を避けていました。船から降りたら、もういなくなっていました。でも、やっぱり、ここで逢いました。」
「風が、寒くなりましたね。下へ降りましょうか。」妙に、てれくさくなって来たので、私は話頭を転じた。
「そうね。」と彼は、やさしく首肯(うなず)いた。
 私は、しんみりした気持で周さんの後について山を降りた。何か、このひとが、自分の肉親のような気がして来た。うしろの松林から松籟(しょうらい)が起った。
「ああ。」と周さんは振りかえって、「これで完成しました。何か、もう一つ欲しいと思っていたら、この松の枝を吹く風の音で、松島も完成されました。やっぱり、松島は、日本一ですね。」
「そう言われると、そんな気もしますが、しかし僕には、まだ何だか物足りない。西行(さいぎょう)の戻り松というのが、このへんの山にあると聞いていますが、西行はその山の中の一本松の姿が気に入って立ち戻って枝ぶりを眺めたというのではなく、西行も松島へ来て、何か物足りなく、浮かぬ気持で帰る途々(みちみち)、何か大事なものを見落したような不安を感じ、その松のところからまた松島に引返したというのじゃないかとさえ考えられます。」
「それは、あなたがこの国土を愛し過ぎているから、そんな不満を感じるのです。僕は浙江省(せっこうしょう)の紹興(しょうこう)に生れ、あの辺は東洋のヴェニスと呼ばれて、近くには有名な西湖もあり、外国の人がたいへん多くやって来て、口々に絶讃するのですが、僕たちから見ると、あの風景には、生活の粉飾が多すぎて感心しません。人間の歴史の粉飾、と言ったらいいでしょうか。西湖などは、清国政府の庭園です。西湖十景だの三十六名蹟(めいせき)だの、七十二勝だのと、人間の手垢(てあか)をベタベタ附けて得意がっています。松島には、それがありません。人間の歴史と隔絶されています。文人、墨客(ぼっかく)も之(これ)を犯す事が出来ません。天才芭蕉も、この松島を詩にする事が出来なかったそうじゃありませんか。」
「でも、芭蕉は、この松島を西湖にたとえていたようですよ。」
「それは、芭蕉が西湖の風景を見た事が無いからです。本当に見たら、そんな事を言う筈(はず)はありません。まるで、違うものです。むしろ舟山列島に似ているかも知れません。しかし、浙江海は、こんなに静かではありません。」
「そうですかねえ。日本の文人、墨客たちは、昔から、ずいぶんお国の西湖を慕っていて、この松島も西湖にそっくりだというので、遠くから見物に来るのです。」
「僕も、それは聞いていました。そう聞いていたから、見に来たのです。しかし、少しも似ていませんでした。お国の文人も、早く西湖の夢から醒(さ)めなければいけませんね。」
「しかし、西湖だって、きっといいところがあるのでしょう。あなたもやはり、故郷を愛しすぎて、それで点数がからくなっているのでしょう。」
「そうかも知れません。真の愛国者は、かえって国の悪口を言うものですからね。しかし、僕は所謂(いわゆる)西湖十景よりは、浙江の田舎(いなか)の平凡な運河の風景を、ずっと愛しています。僕には、わが国の文人墨客たちの騒ぐ名所が、一つとしていいと思われないのです。銭塘(せんとう)の大潮は、さすがに少し興奮しますが、あとは、だめです。僕は、あの人たちを信用していないのです。あの人たちは、あなたの国でいう道楽者と同じです。彼等は、文章を現実から遊離させて、堕落させてしまいました。」
 山から降りて海岸に出た。海は斜陽に赤く輝いていた。
「わるくないです。」と周さんは微笑(ほほえ)んで、両手をうしろに組み、「月夜は、どうだろう。今夜は、十三夜の筈だが、あなたは、これからすぐお帰りですか。」
「きめていないんです。学校はあしたも休みですね。」
「そうです。僕は、月夜の松島も見たくなりました。つき合いませんか。」
「けっこうです。」
 僕は、まったく、どうでもよかったのである。学校が休みでなくっても、それまでちょいちょい勝手に欠席していたのだし、二日つづきの休暇を利用するというのも下宿の家族の者たちへの手前、あまり怠惰な学生と見られても工合が悪いので、几帳面(きちょうめん)にそんな日を選んだというだけの話で、実際は、二日つづきの休暇も三日つづきの休暇も、問題でなかったのである。
 私があまりに唯々諾々(いいだくだく)と従ったら、周さんは敏感に察したらしく、声を挙げて笑い、
「しかし、あさってからは学校へ出て、僕と一緒に講義のノオトをとりましょう。僕のノオトは、たいへん下手ですが、ノオトは僕たち学生の、」と言って、少しとぎれて、「Preiszettel のようなものです。」とまた私の苦手の独逸語を使い、「何円何十銭という札(ふだ)です。これが無いと、人は僕たちを信用しません。学生の宿命です。面白くなくても、ノオトをとらなければいけません。しかし、藤野先生の講義は、面白いですよ。」
 この、私たちがはじめて言葉を交(かわ)した日から周さんは、藤野先生のお名前をしばしば口にしていたのである。
 その日、私は周さんと一緒に松島の海浜の旅館に泊った。いま考えると、当時の私の無警戒は、不思議なような気もするが、しかし、正しい人というものは、何か安心感を与えてくれるもののようである。私はもう、その清国留学生に、すっかり安心してしまっていた。周さんは、宿のどてらに着換えたら、まるで商家の若旦那(わかだんな)の如く小粋(こいき)であった。言葉も、私より東京弁が上手(じょうず)なくらいで、ただ宿の女中に向って使う言葉が、そうして頂戴(ちょうだい)、すこし寒いのよ、などとさながら女性の言葉づかいなのが、私に落ちつかぬ感じを与えた。たまりかねて私は、それだけはやめてくれ、と口をとがらして抗議したら、周さんはけげんな面持ちで、だって日本では、子供に向っては、子供の言葉で、おてて、だの、あんよだの、そうでチュか、そうでチュか、と言うでしょう、それゆえ女性に対した時にも女性の言葉で言うのが正しいのでしょう、と答えた。私は、でも、それはキザで、聞いて居られません、と言ったら、周さんは、その「キザ」という言葉に、ひどく感心して、日本の美学は実にきびしい、キザという戒律は、世界のどこにもないであろう、いまの清国の文明は、たいへんキザです、と言った。その夜、私たちは宿で少し酒を飲み、深更(しんこう)まで談笑し、月下の松島を眺める事を忘れてしまったほどであったのである。周さんもあとで私に、日本へ来てあんなにおしゃべりした夜は無いと言っていた。周さんはその夜、自分の生立(おいた)ちやら、希望やら、清国の現状やらを、呆(あき)れるくらいの熱情を以(もっ)て語った。東洋当面の問題は、科学だと何度も繰りかえして言っていた。日本の飛躍も、一群の蘭医に依(よ)って口火を切られたのだと言っていた。一日も早く西洋の科学を消化して列国に拮抗(きっこう)しなければ、支那もまた、いたずらに老大国の自讃に酔いながら、みるみるお隣りの印度(インド)の運命を追うばかりであろう。東洋は古来、精神界においては、西洋と較べものにならぬほど深く見事に完成せられていて、西洋の最もすぐれた哲学者たちが時たま、それをわずかに覬覦(きゆ)しては仰天しているという事も聞いているが、西洋はそんな精神界の貧困を、科学によって補強しようとした。科学の応用は、人間の現実生活の享楽に直接役立つので、この世の生命に対する執着力の旺盛(おうせい)な紅毛人たちの間に於いて異常の進歩をとげ、東洋の精神界にまで浸透して来た。日本はいち早く科学の暴力を察して、進んで之(これ)を学び取り、以て自国を防衛し、国風を混乱せしめる事なく、之の消化に成功し、東洋における最も聡明な独立国家としての面目を発揮する事が出来た。科学は必ずしも人間最高の徳ではないが、しかし片手に幽玄の思想の玉を載せ、片手に溌剌(はつらつ)たる科学の剣を握っていたならば、列国も之には一指もふれる事が出来ず、世界に冠絶した理想国家となるに違いない。清国政府は、この科学の猛威に対して何のなすところも無く、列国の侵略を受けながらも、大川は細流に汚されずとでもいうような自信を装って敗北を糊塗(こと)し、ひたすら老大国の表面の体裁のみを弥縫(びほう)するに急がしく、西洋文明の本質たる科学を正視し究明する勇気無く、学生には相も変らず八股文(はっこぶん)など所謂(いわゆる)繁文縟礼(はんぶんじょくれい)の学問を奨励して、列国には沐猴而冠(もっこうにしてかんす)の滑稽(こっけい)なる自尊の国とひそかに冷笑される状態に到らしめた。自分は支那を誰にも負けぬくらいに愛している。愛しているから、不満も大きい。いまの清国は、一言で言えば、怠惰だ。わけのわからぬ自負心に酔っている。古い文明の歴史は、何も支那だけが持っているとは限らない。印度はどうだ、埃及(エジプト)はどうだ。そうしてその国の現状はどうだ。支那は慄然(りつぜん)とすべきである。このままでいいという自負心は、支那を必ず自壊に導く。支那には、いま余裕も何も有るはずはないのだ。自惚(うぬぼ)れを捨てて、まず西洋の科学の暴力と戦わなければならぬ。これと戦うには、彼の虎穴に敢然と飛び込んで、一日も早くその粋を学び取るより他は無い。日本の徳川幕府の鎖国政策に向って最初に警鐘を乱打したのは、蘭学という西洋科学であったという話を聞いている。自分は支那の杉田玄白になりたい。科学の中でも自分は、西洋医学に最も心をひかれている。なぜ西洋科学の中で、自分がこのように特に医学に注目するようになったか、その原因の一つは、自分の幼少のころの悲しい経験の中にもひそんでいる。自分の家には昔から多少の田地も有り、まあ相当の家庭と人にも言われていたのだが、自分が十三の時、祖父が或るややこしい問題に首を突込んで獄につながれ、一家はそのため、にわかに親戚(しんせき)、近隣の迫害を受けるようになり、その上、父が重病で寝込んでしまったので、自分たちの家族は忽(たちま)ち暮しに窮し、自分は弟と共に親戚の家に預けられた。けれども自分はその家の者たちから、乞食と言われて憤然、自分の生家に帰ったが、それから三年間、自分は毎日のように、質屋と薬屋に通わなければならなかった。父の病気がいっこうに快(よ)くならなかったのだ。薬屋の店台は自分と同じくらいの高さで、質屋の店台はさらにその倍くらいの高さであった。自分は質屋の高い台の上に、着物や首飾を差し上げ、なんだこんなガラクタ、と質屋の番頭に嘲弄(ちょうろう)されながら、わずかの銭を受けとり、すぐその足で薬屋に走るのだ。家に帰ると、また別の事でいそがしかった。父のかかりつけの医者は、その地方で名医と言われている人であったが、その処方は、甚(はなは)だ奇怪なもので、蘆(あし)の根だの、三年霜に打たれた甘蔗(かんしょ)だのを必要とした。自分は毎朝、河原へ蘆の根を掘りに行き、また、三年霜に打たれた甘蔗を捜しまわらなければいけなかった。この医者には二年かかったが、父の病気はいよいよ重くなるばかりであった。それから医者をかえて、さらに有名な大先生にかかったが、こんどは、蘆の根や、三年霜に打たれた甘蔗のかわりに、蟋蟀(しっしゅつ)一つがい、平地木十株、敗鼓皮丸(はいこひがん)などという不思議なものが必要だった。蟋蟀一対には註が附いていて、「原配、すなわち、生涯同棲(どうせい)していたものに限る」とあった。昆虫(こんちゅう)も貞節でなければものの役には立たぬと見えて、後妻を娶(めと)ったり再嫁したやつは、薬になる資格さえ無いというわけである。けれども、それを捜すのに、自分はそんなに骨を折らなくてすんだ。自分の家の裏庭は百草園と呼ばれて、雑草の生い繁った非常に広大な庭で、自分の幼少の頃の楽園であったが、そこへ行けば、蟋蟀の穴がいくつでも見つかり、自分は同じ穴に二匹棲(す)んでいる蟋蟀を勝手に所謂「原配」ときめて、二匹一緒に糸でしばって、生きているのをそのまま薬鑵(やかん)の熱湯に投げ込めばそれでよかった。しかし「平地木十株」というのには、ひどくまごついた。それがどんなものだか、誰も知らなかったのだ。薬店に聞いても、お百姓に聞いても、薬草取りに聞いても、年寄りに聞いても、読書人に聞いても、大工に聞いても、みな一様に頭を振るだけであった。最後に、祖父の弟で昔から植木の好きな老人のことを思い出し、そこへ行って尋ねてみたら、さすがに彼だけは知っていた。それは、山中の樹の下に生える一種のひょろひょろした樹で小さな珊瑚珠(さんごじゅ)みたいな紅(あか)い実がなる、普通みな「老弗大」と呼んでいるものだ、と教えてくれた。こうして「平地木十株」のほうも、どうやら解決できたが、もう一つ、敗鼓皮丸という難物があった。この丸薬は、大先生の自慢の処方で、特に父のような水腫(すいしゅ)のある病人に卓効を奏するということであった。この神薬を売っている店は、この地方にたった一軒あるきりで、そうして、その店は自分の家と五里もはなれていた。それに、その神薬は破れた古太鼓の皮で作ったものだという。水腫は一に鼓脹(こちょう)ともいうところから、破れた太鼓の皮を服用すればたちどころにその病気を克服できるという理窟(りくつ)らしい。自分は子供心にも、破れた古太鼓の皮などの効(き)き目(め)を信じる事が出来ず、その丸薬を求めに五里の路を往復するのが、ひとしお苦痛であった。自分のそのような努力は、やっぱり全部むだな事であった。父の病気は日一日と重くなるばかりで、ほとんど虫の息になったが、かの大先生は泰然(たいぜん)たるもので、瀕死(ひんし)の父の枕元で、これは前世の何かの業(ごう)です、医は能(よ)く病を癒(いや)すも、命を癒す能(あた)わず、と古人の言にもあります、しかし、手段はまだ一つ残っています、それは家伝の秘法になっているのですが、一種の霊丹を病者の舌に載せるのです、舌は心の霊苗なり、と古人の言にあります、この霊丹は、いまはなかなか得難いものですが、お望みとあらばお譲りしてあげてもよい、値段も特別に安くしてあげます、一箱わずか二元という事にしましょう、いかがです、と自分に尋ねた。自分は思い惑って即答しかねていると、病床の父が自分の顔を見て幽(かす)かに頭を振って見せた。父もやはり自分と同様に、この大先生の処方に絶望している様子であった。自分は途方に暮れて、ただ父の枕元に坐って、父の死を待っていなければならなくなった。父の容態が愈(いよいよ)だめと思われた朝、近所の衍(えん)という世話好きの奥さんがやって来て、父の様子を一目見て驚き、あなたはまあ、何をぼんやりしているのです、お父さんの魂は鬼界に飛んで行こうとしているではありませんか、早く呼び戻しなさい、大声で、お父さんお父さん、と呼びなさい、呼ばないとお父さんは死んでしまいます、と真顔で自分を叱(しか)ったのである。自分は、そんなおまじないの如きものを信じなかったが、しかしいまは、溺(おぼ)れる者の藁(わら)をつかむ気持で、お父さん! と叫んだ。衍奥さんは、もっと大きい声で呼ばなければだめです、と言う。自分はさらに大きい声で、お父さん! お父さん! と連呼した。もっと、もっと、と傍で衍奥さんがせき立てる。自分は、喉(のど)から血が出そうになるまで叫びつづけた。しかし、父の霊魂を引きとめる事が出来なかったと見えて、父は自分に呼びつづけられながら、冷たくなった。父は三十七歳、自分は十六歳の初秋の事である。自分は今でもあの時の自分の声を記憶している。忘れる事が出来ない。あの時の自分の声を思い出すと、自分は抑え切れない激怒を感ずる。自分の少年の頃の無智に対する腹立たしさでもあり、また支那の現状に対する大きい忿懣(ふんまん)でもある。三年霜に打(うた)れた甘蔗、原配の蟋蟀、敗鼓皮丸、そんなものはなんだ。悪辣(あくらつ)なる詐欺(さぎ)と言ってよかろう。また、瀕死の病人の魂を大声で呼びとめるというのも、恥かしいみじめな思想だ。さらにまた、医は能く病いを癒すも、命を癒す能わず、とは何という暴論だ。恐るべき鉄面皮の遁辞(とんじ)に過ぎないではないか。舌は心の霊苗なり、とはどんな聖人君子の言葉か知らないが、何の事やらわけがわからぬ。完全な死語である。見るべし、支那の君子の言葉もいまは、詐欺師の韜晦(とうかい)の利器として使用されているではないか。自分たちは幼少の頃から、ただもう聖賢の言葉ばかりを暗誦(あんしょう)させられて育って来たが、この東洋の誇りの所謂(いわゆる)「古人の言」は、既に社交の詭辞(きじ)に堕し、憎むべき偽善と愚かな迷信とのみを□醸(うんじょう)させて、その思想の発生当初の面目をいつのまにやら全く喪失してしまっているのだ。どんな偉大な思想でも、それが客間の歓談の装飾に利用されるようになった時には、その命が死滅する。それはもう、思想でない。言葉の遊戯だ。西洋のそれと比較にならぬほど卓越していた筈の、東洋の精神界も、永年の怠惰な自讃に酔って、その本来の豊穣(ほうじょう)もほとんど枯渇(こかつ)しかかっている。このままでは、だめだ。自分は父に死なれて以来、いよいよ周囲の生活に懐疑と反感を抱き、懊悩(おうのう)焦慮の揚句(あげく)、ついに家郷を捨て、南京(ナンキン)に出た。何でもかまわぬ、新しい学問をしたかったのである。母は泣いて別れを惜しみ、八元の金を工面(くめん)して自分に手渡した。自分はその八元の金を持って異路に走り、異地に逃(のが)れ、別種の人生を探し、求めようとしたのである。南京に出て、どのような学校にはいるか。第一の条件は、学費の要らない学校でなければいけなかった。江南水師学堂は、その条件にだけは、かなっていた。自分はまずそこへ入学した。そこは海軍の学校で、自分はさっそく帆柱に登る練習などさせられたが、しかし新しい学問はあまり教えてくれなかった。わずかに It is a cat, Is it a rat ? など初歩の英語の手ほどきを受けただけであった。ちょうどその頃だ。かの康有為(こうゆうい)が、日本の維新に則(のっと)り、旧弊を打破し大いに世界の新知識を採り、以(もっ)て国力回復の策を立てよと叫び、所謂「変法自強の説」を帝にすすめ、いれられて国政の大改革に着手したが、アイテルカイトの Dame ならびにその周囲の旧勢力の権変に遭(あ)い、新政は百日にして破れ、帝は幽閉され、康有為は同志の梁啓超(りょうけいちょう)らと共に危く殺害からのがれて、日本に亡命した。この戊戌(ぼじゅつ)政変の悲劇をよそにして、It is a cat を大声で読み上げているのは、甚だ落ちつかない気持であった。自分も既に十八歳である。ぐずぐずしては居られぬ。早く新知識の中核に触れてみたい。自分は転校を決意した。つぎに選んだのは、南京の礦路学堂である。ここも学費は要らなかった。鉱山の学校であって、地学、金石学のほかに、物理、化学、博物学など、新鮮な洋学の課目があったので、どうやら少し落ちつく事が出来た。語学も、It is a cat, ではなくて、der Man, die Frau, das Kind, という事になった。自分には独逸(ドイツ)語のほうが、英語よりも洋学の中核に近いように漠然と感じられていたので、それもまたうれしい事の一つであった。校長も一個の新党で、梁啓超の主筆の雑誌「時務報」などの愛読者だったらしく、「変法自強の説」にもひそかに肯定を与えていたようで、漢文の試験にも他の儒者先生のように古聖賢の言を用いず、「華盛頓(ワシントン)論」というハイカラな問題を出したりして、儒者先生たちはその問題を見て、かえって自分たち生徒に、華盛頓って、どんな事だい、とこっそり尋ねる始末であった。生徒たちの間でも、新書を読む気風が流行して、中でも厳復の漢訳した「天演論」が圧倒的な人気を得ていた。博物学者 Thomas Huxley の Evolution and Ethics を漢文に訳したもので、自分も或る日曜日に城南へ買いに出かけた。厚い一冊の石印の白紙本で、値段はちょうど五百文だった。自分は之を一気に読了した。いまでも、その冒頭の数ペエジの文章をそっくりそのまま暗記している。いろいろの訳本が、続々と出版せられていた。自分たちの語学の力が、未だ原書を読みこなすまでに到ってはいなかったので、いきおい漢訳の新本にたよらざるを得なかった。「物競」も出た。「天択」も出た。蘇格拉第(ソクラテス)を知った。柏拉図(プラトー)を知った。斯多□(ストイック)を知った。自分たちは手当り次第に何でも読んだ。当時、このような新書を手にする事は、霊魂を毛唐に売り渡す破廉恥(はれんち)至極の所業であるとされて、社会のはげしい侮蔑(ぶべつ)と排斥を受けなければならなかったが、自分たちは、てんで気にせず、平然とその悪魔の洞穴(どうけつ)探検を続けた。学校では、生理の課目は無かったが、木版刷の「全体新論」や「化学衛生論」を読んでみて、支那の医術は、意識的もしくは無意識的な騙(かた)りに過ぎない、という事をいよいよ明確に知らされた。このように、自分の心に嵐が起っているのと同様に、支那の知識層にも維新救国の思想が颱風(たいふう)の如く巻き起っていた。その頃すでに、独逸の膠州湾(こうしゅうわん)租借(そしゃく)を始めとして、露西亜(ロシア)は関東州、英吉利(イギリス)はその対岸の威海衛、仏蘭西(フランス)は南方の広州湾を各々租借し、次第にまたこれらの諸国は、支那に於いて鉄道、鉱山などに関する多くの利権を得て、亜米利加(アメリカ)も、かねて東洋に進み出る時機をうかがっていたが、遂にその頃、布哇(ハワイ)を得て、さらに長駆東洋侵略の歩をすすめて西班牙(イスパニヤ)と戦い比律賓(フィリッピン)を取り、そこを足がかりにしてそろそろ支那に対して無気味な干渉を開始していた。もう、支那の独立性も、風前の燈火のように見えて来た。救国の叫びが、国内に充満するのも当然の事のように思われた。しかし、支那にとって不吉の事件が相ついで起った。戊戌(ぼじゅつ)の政変がその一つであり、さらに、その二年後に起った北清事変は、いよいよ支那の無能を全世界に暴露した致命的な乱であった。自分は翌年の十二月、礦路学堂を卒業したが、鉱山技師として金銀銅鉄の鉱脈を捜し出せる自信は無かった。自分がこの学校に入学したのは、鉱山技師になりたいからでは無かったのだ。現在の支那を少しでもよくしたいために、何か新しい学問を究(きわ)めてみたかったのだ。そうしてこの三年間、自分はこの学校において、鉱山の勉強よりも、西洋科学の本質を知ろうとして、そのほうの勉強ばかりして来たのだ。だからその時の自分には、卒業とは名ばかりで、実際は、鉱山技師の資格など全く無かったのである。自分も既に二十一歳になっていた。早く人生の進路を決定しなければならぬ。義和団(ぎわだん)の乱に依って清朝の無力が、列国だけでなく、支那の民衆にも看破せられ、支那の独立性を保持するには打清興漢の大革命こそ喫緊(きっきん)なれとの思想が澎湃(ほうはい)として起り、さきに海外に亡命していた孫文(そんぶん)は、すでにその政治綱領「三民主義」を完成し、之(これ)を支那革命の旗幟(きし)として国内の同志を指導し、自分たち洋学派の学生も大半はその「三民主義」の熱烈な信奉者となって、老憊(ろうぱい)の清国政府を打倒し漢民族の新国家を創造し、以(もっ)て列国の侵略に抗してその独立性を保全すべしと叫んで学業を放擲(ほうてき)し、直接革命運動に身を投ずる者も少くなかった。自分も、その風潮に刺戟せられて、支那の危急を救うためには、必ず或る種の革命が断行せられなければならぬと察照するに到ってはいたが、しかし、それには、列国の文明の本質をさらにもっと深く究明するのが何よりも緊急の事のように思われた。自分の知識は未だ幼稚である。ほとんど何も知らないと言ってよい。学業を捨て、いますぐ政治運動に身を投ずる者の憂国の至情もわかるが、しかし、究極の目標は同じであっても、自分の目下の情熱は、政治の実際運動よりも、列国の富強の原動力に対する探究に在った。それが科学であるとは、その頃、はっきり断定するに到ってはいなかったが、しかし、西洋文明の粋は、独逸国に行けば、最も確実に把握(はあく)出来るのではあるまいかという、おぼろげな見当をつけて、自分の生涯の方針も、独逸に留学する事に依って解決されるのかも知れないと考えた。しかし、自分は貧乏である。故郷を捨て、南京に出て来た事さえ精一ぱいであった自分が、さらに万里を踏破(とうは)して独逸国に留学するにはどうしたらよいか、まるで雲上の楼閣を望見するが如き思いであった。独逸国へ留学する事が絶望だとしたら、あますところは、もう一つの道しか無かった。日本へ行く事だ。その頃、政府が費用を出して、年々すこしずつの清国留学生を日本に送りはじめていたのである。その二、三年前に張之洞(ちょうしどう)の著した有名な勧学篇などにも、大いに日本留学の必要が力説されていて、日本は小国のみ、しかるに何ぞ興(おこ)るのにわかなるや、伊藤、山県(やまがた)、榎本(えのもと)、陸奥(むつ)の諸人は、みな二十年前、出洋の学生なり、その国、西洋のためにおびやかさるるを憤り、その徒百余人をひきい、わかれて独逸、仏蘭西、英吉利にいたり、あるいは政治工商を学び、あるいは水陸兵法を学び、学成りて帰り、もって将相となり、政事一変し、東方に雄視す、などという論調でもって日本を讃美し、そうして結論は、「遊学の国にいたりては、西洋は日本に如(し)かず」という事になっているが、しかし、その理由としては、
一、路(みち)近くして費をはぶき、多くの学生を派遣し得べし。一、日本文は漢文に近くして、通暁し易し。一、西学は甚だ繁、およそ西学の切要ならざるものは、日本人すでに刪節(さんせつ)して之を酌改す。一、日支の情勢、風俗相近く、順(したが)い易し。事なかばにして功倍する事、之にすぐるものなし。 という工合のものであって、決して日本固有の国風を慕っているのでは無く、やはり学ぶべきは西洋の文明ではあるが、日本はすでに西洋の文明の粋を刪節して用いるのに成功しているのであるから、わざわざ遠い西洋まで行かずともすぐ近くの日本国で学んだほうが安直に西洋の文明を吸収できるという一時の便宜主義から日本留学を勧奨していた、といっても過言では無かろうと思う。当時、日本に留学する学生が年々増加していたが、ほとんどその全部が、この勧学篇に依ってあらわされている思想と大同小異の、へんに曲折された意図を以て、日本留学に出かけて行くような状態であって、自分もまた、その例にもれず、独逸行きを不可能と見て、その代りに日本留学を志望するに到ったという事実を告白しなければならぬ。自分は政府の留学生の試験に応じて、パスした。日本は、どんなところか。自分には、それに就(つ)いての予備知識は何も無かった。かつて日本を遊歴した事のある礦路学堂の先輩の許(もと)をおとずれて、日本遊学の心得を尋ねた。その先輩の言うには、日本へ行って最も困るのは足袋(たび)だ、日本の足袋は、てんで穿(は)けやしないから、支那(しな)の足袋を思い切ってたくさん持って行くがいい、それから紙幣は不自由な時があるから、全部、日本の現銀に換えて持って行った方がいい、まあ、そんなものだ、ということだったので、自分は早速(さっそく)、支那の足袋を十足買って、それから所持金を全部、日本の一円銀貨に換え、ひどく重くなった財布(さいふ)を気にしながら、上海(シャンハイ)で船に乗って横浜に向った。しかしその先輩の遊学心得は少し古すぎたようである。日本では、学生は制服を着て、靴と靴下を穿かなければいけなかった。足袋の必要は全然なかった。また、あの恥かしいくらい大きな一円銀貨は、日本でとうの昔に廃止されていて、それをまた日本の紙幣に換えてもらうのに、たいへんな苦労をした。それは後の話だが、自分がその明治三十五年、二十二歳の二月、無事横浜に上陸して、日本だ、これが日本だ、自分もいよいよこの先進国で、あたらしい学問に専念できるのだ、と思った時には、自分のそれまで一度も味(あじわ)った事の無かった言うに言われぬほのぼのした悦(よろこ)びが胸に込み上げて来て、独逸行きの志望も何も綺麗(きれい)に霧散してしまったほどで、本当に、あのような不思議な解放のよろこびは、これからの自分の生涯において、支那の再建が成就した日ならともかく、その他にはおそらく再び経験することが出来ないのではなかろうかと思われる。自分はそれから新橋行きの汽車に乗ったが、窓外の風景をひとめ見て、日本は世界のどこにも無い独自の清潔感を持っていることを直感した。田畑は、おそらく無意識にであろう、美しくきちんと整理されている。それに続く工場街は、黒煙濛々(もうもう)と空を覆(おお)いながら、その一つ一つの工場の間を爽(さわや)かな風が吹き抜けている感じで、その新鮮な秩序と緊張の気配は、支那において全く見かけられなかったもので、自分はその後、東京の街(まち)を朝早く散歩する度毎に、どの家でも女の人が真新しい手拭(てぬぐい)を頭にかぶって、襷(たすき)をかけて、いそがしげに障子(しょうじ)にはたきをかける姿を見て、その朝日を浴びて可憐(かれん)に緊張している姿こそ、日本の象徴のように思われて神の国の本質をちらと理解できたような気さえしたものだが、それに似たけなげな清潔感を、自分の最初の横浜新橋間の瞥見(べっけん)に依っても容易に看取し得たのである。要するに、過剰が無いのである。倦怠(けんたい)の影が、どこにも澱(よど)んでいないのである。日本に来てよかった、と胸が高鳴り、興奮のため坐っていられず、充分に座席があったのに横浜から新橋まで一時間、自分は殆(ほとん)ど立ったままであった。東京に着いて、先輩の留学生の世話で下宿がきまって、それから上野公園、浅草公園、芝公園、隅田堤(すみだづつみ)、飛鳥山(あすかやま)公園、帝室博物館、東京教育博物館、動物園、帝国大学植物園、帝国図書館、まるでもう無我夢中で、それこそあなたがさっきお話したような、あなたが仙台をはじめて見た時の興奮と同様の、いや、おそらくはそれの十倍くらいの有頂天で、ただ、やたらに東京の市中を歩きまわったものだが、しかし、やがて牛込の弘文学院に入学して勉強するに及んで、この甘い陶酔から次第に醒めて、ややもするとまた昔の懐疑と憂鬱(ゆううつ)に襲われる事が多くなった。自分が東京に来たこの明治三十五年前後から、清国留学生の数も急激に増加し、わずか二、三年のうちに、もう支那からの留学生が二千人以上も東京に集って来て、これを迎えて、まず日本語を教え、また地理、歴史、数学などの大体の基本知識を与える学校も東京に続々と出来て、中には怪しげな速成教育を施して、ひともうけをたくらむ悪質の学校さえ出現した様子で、しかし、そのたくさんの学校の中で、自分たちの入学した弘文学院は、留日学生の、まあ、総本山とでもいうような格らしく、学校の規模も大きく設備もととのい、教師も学生もまじめなほうであったが、それでも、自分は日一日と浮かぬ気持になって行くのを、どうする事も出来なかった。一つには、あなたがさっき言ったように、おなじ羽色の烏(からす)が数百羽集ると猥雑(わいざつ)に見えて来るので同類たがいに顰蹙(ひんしゅく)し合うに到る、という可笑(おか)しい心理に依るのかも知れないが、自分もやはり清国留学生、いわば支那から特に選ばれて派遣されて来た秀才というような誇りを持っていたいと努力してみるものの、どうも、その、選ばれた秀才が多すぎて、東京中いたるところに徘徊(はいかい)しているので、拍子抜けのする気分にならざるを得ないのである。春になれば、上野公園の桜が万朶(ばんだ)の花をひらいて、確かにくれないの軽雲の如く見えたが、しかし花の下には、きまってその選ばれた秀才たちの一団が寝そべって談笑しているので、自分はその桜花爛漫(らんまん)を落ちついた気持で鑑賞することが出来なくなってしまうのである。その秀才たちは、辮髪(べんぱつ)を頭のてっぺんにぐるぐる巻にして、その上に制帽をかぶっているので、制帽が異様にもりあがって富士山の如き形になっていて、甚だ滑稽(こっけい)と申し上げるより他は無かった。中にちょっとお洒落(しゃれ)なのもいて、制帽のいただきが尖(とが)らないように辮髪を後頭部の方に平たく巻いて油でぴったり押えつけるという新工夫を案出して、その御苦心は察するにあまりあったが、帽子を脱ぐと、男だか女だかわからない奇怪な感じで、うしろ姿などいやになまめかしくて、思わずぞっとする体のものであった。そうしてかえって、自分のように辮髪を切り落している者を、へんに軽蔑の眼で見るのだからたまらない。また、その選ばれた秀才の一団が、市街鉄道などにどやどや乗り込んだ時には、礼譲の国から来た人間の面目を発揮するのはここだとでもいうつもりか、互いに座席の譲り合いで大騒ぎをはじめる。甲が乙に掛けろと言えば乙は辞退して丙に掛けろと言う。丙は固辞して丁にすすめる。丁はさらに鞠躬如(きっきゅうじょ)として甲にお掛けなさいと言う。日本の老若男女の乗客があっけにとられて見ている中で、大声でわめいて互いに揖譲(ゆうじょう)して終らぬうちに、がたんと車体が動くと同時に、その一団は折りかさなって倒れる。自分は片隅(かたすみ)でかくれるようにしてそれを眺めて、恥かしいとも何とも言いようない気持になったものだ。しかし、それはまだ深くとがむべきではなかった。そのような同胞の無邪気な努力を情なく思う自分の気取った心に罪があるのかも知れない。自分の憂鬱の原因は他にもう一つあった。それは学生たちの不勉強であった。支那の革命運動の現状に就いて、自分はまだはっきりした事はわからぬが、三合会、哥老会、興中会などの革命党の秘密結社は、孫文を盟主として、もうとっくに大同団結を遂(と)げている様子で、さきに日本に亡命して来た康有為一派の改善主義は、孫文一派の民族革命の思想と相容(あいい)れず、康有為はひそかに日本を去って欧洲に旅立ったらしく、いまは孫文の所謂(いわゆる)三民五憲の説が圧倒的に優勢になって、その確立せられた主義綱領に基づいて、いよいよ活溌な実際行動の季節に突入した状態のように見受けられ孫文ご自身も、東京にあらわれて日本の志士の応援を得て種々画策し、このごろでは東京が支那革命運動の本拠になっているような工合らしいので、留日学生の興奮もすさまじく、寄るとさわると打清興漢の気勢を挙げ、学業も何も投げ棄ててしまっている有様である。しかし、それも憂国の至情の発するところ、無理もないと思われるのであるが、中にはこのどさくさにまぎれて自身の出世を計画している者もあり、ひどいのは、れいの速成教育で石鹸(せっけん)製造法など学び、わずか一箇月の留学であやしげな卒業証書を得て、これからすぐ帰国して石鹸を製造し、大もうけをするのだ、と大威張りで吹聴(ふいちょう)して歩いている風変りの学生さえあったほどで、自分が時たま、神田駿河台(するがだい)の清国留学生会館に用事があって出かけて行くと、その度毎に二階で、どしんどしんと物凄(ものすご)い大乱闘でも行われているような音が聞えて、そのために階下の部屋の天井板が振動し、天井の塵(ちり)が落ちて階下はいつも濛々(もうもう)としていた。その変異が、あまり度重なるので、或る日、自分は事務所の人に二階ではどのような騒動が演じられているのかと尋ねたらその事務所の日本人のじいさんは苦笑しながら、あれは学生さんたちがダンスの稽古(けいこ)をしていらっしゃるのですと教えてくれた。もう自分には、このような秀才たちと一緒にいるのがとても堪え切れなくなって来た。いまは支那にとって、新しい学問が絶対に必要な時なのだ。列国の猛威に対抗するためには、打清興漢の政治運動も勿論(もちろん)急務に違いないが、しかし、新しい学問に依って、列国の威力の本質を追求する事も自分たち学生に負わされた職業ではなかろうか。もとより自分は孫先生を尊敬し、その三民五憲の説に共感している事においてもあえて人後に落ちぬつもりであるが、しかし、その三民主義の民族、民権、民生の説の中で、自分には民生の箇条が最も理解が容易であった。いつも自分の目先にちらついているものは、少年の頃、三春秋、父の病気をなおそうとして質屋の店台と薬屋の店台の間を毎日のように往復し、名医と称せられる詐欺師の言を信じて、平地木やら原配の蟋蟀(しっしゅつ)やらをうろうろ捜し廻っている自分の悲惨な姿であった。また眠られぬ夜など、自分の耳にひそひそ入って来る声は、愚(おろか)な迷信にたより、父の霊魂を引きとめようとして瀕死(ひんし)の父の枕元(まくらもと)で喉(のど)も破れよと父の名を呼んだ、あのあさましい自分の喚(わめ)き声である。あれが支那の民衆の姿だ。いまだって、少しも変ってはいないのだ。聖賢の言は、生活の虚飾として用いられ、いたずらに神仙の迷信のみ流行し、病人は高価な敗鼓皮丸(はいこひがん)を押し売りされて、日増(ひまし)に衰弱するばかりなのだ。この支那の民衆の現状をどうする。この惨めな現状に対する忿懣(ふんまん)から、自分は魂を毛唐に一時ゆだねて進んで洋学に志したのだ。母にそむいて故郷を捨てたのだ。自分の念願は一つしか無い。曰(いわ)く、同胞の新生である。民衆の教化なくして、何の改革ぞや、維新ぞや。然(しか)も、この民衆の教化は、自分たち学生の手に依らずして、誰がよく為(な)し得るところか。勉強しなければならぬ。もっと、もっと、勉強しなければならぬ。自分はその折、漢訳の明治維新史を読んでみた。そうして日本の維新の思想が、日本の一群の蘭学者に依って、絶大の刺戟を受けたという事実を知った。これだと思った。これだからこそ日本の維新も、あのように輝かしい成功を収めることが出来たのだと思った。何よりもまず、科学の威力に依って民衆を覚醒(かくせい)させ、之(これ)を導いて維新の信仰にまで高めるのでなければ、いかなる手段の革命も困難を極めるに違いない。まず科学だ、と自分はその維新史を読んで、はじめて自分の生涯の方針をさぐり当てたような気がした。支那はいまこの科学の力に依って、大にしては列国の侵略と戦い、その独立性を保全し、小にしては民衆個々の日常生活を潤(うるお)し新生の希望と努力をうながすべきである。これは自分のあまい夢であろうか。夢でもよい。自分はその夢の実現のために、生涯を捧げ切る。自分のこれからの生涯はおそらく少しも派手なところの無い、ひどく地味なものになるだろう。しかし、自分は民衆のひとりひとりに新生の活力を与え、次第に革命の信仰にまで導いて行くのだ。愛国の至情の発現は、多種多様であるべきだ。必ずしもいますぐ政治の直接行動に身を投ずる必要は無い。自分は、いまもっと勉強しなければならぬ。まず科学の中の、医学を修めよう。自分に新しい学問の必要を教えてくれたのは、あの少年の頃の医者の欺瞞(ぎまん)だ。あの時の憤怒(ふんぬ)が、自分に故郷を捨てさせたのだ。自分の新しい学問への志願は、初めから医術とつながっていたとも言える。瀕死の父の枕元で、父の名を絶叫したあの時の悲惨な声が、いつでも自分の耳朶(じだ)を撃って、自分を奮激させて来たではないか。医者になろう。明治維新史に依ると、当時の蘭学者の大部分も医者であった。いや、西洋の医術を学び取るために、蘭語の勉強を始めた者も多かった。それほど、日本に於(おい)ても、更に進歩した医術が他のどんな科学よりもさきに、民衆に依って渇望されていたのだ。医学は、民衆の日常生活に最も近い結びつきを持っているものだ。病いをなおしてやるというのは、民衆の教化の第一歩だ。自分はまず、日本に於いて医学を修め、帰国して自分の父のように医者にあざむかれてただ死を待つばかりのような病人を片端から全治させて、科学の威力を知らせ、愚な迷信から一日も早く覚醒させるよう民衆の教化に全力を尽し、そうして、もし支那が外国と干戈(かんか)を交えた時には軍医として出征し、新しい支那の建設のため骨身を惜しまず働こう、とここに自分の生涯の進路がはじめて具体的に確定せられたわけであったが、ひるがえって、自分の周囲を見渡すと、富士山の形に尖(とが)った制帽であり、市街鉄道の中の過度の礼譲の美徳であり、石鹸製造であり、大乱闘の如きダンスの練習である。そうしてことしの二月、日本は北方の強大国露西亜に対して堂々と戦を宣し、日本の青年たちは勇躍して戦場に赴き、議会は満場一致で尨大(ぼうだい)の戦費を可決し、国民はあらゆる犠牲を忍んで毎日の号外の鈴の音に湧き立っている。自分は、この戦争は大丈夫、日本が勝つと思う。このように国内が活気汪溢(おういつ)していて、負ける筈はない。それは自分の直感であるが、同時に、自分はこの戦争が勃発(ぼっぱつ)して以来、非常に恥かしい気分に襲われた。この戦争は、人に依っていろいろの見方もあるであろうが、自分はこの戦争も支那の無力が基因であると考えている。支那に自国統治の実力さえあったなら、こんどの戦争も起らなくてすんだであろうに、これではまるで支那の独立保全のために日本に戦争してもらっているようにも見えて、考え様に依っては、支那にとってはまことに不面目な戦争ではあるまいか。日本の青年達が支那の国土で勇敢に戦い、貴重な血を流しているのに、まるで対岸の火事のように平然と傍観している同胞の心裡(しんり)は自分に解しかねるところであった。しかも同じ年配の支那の青年たちが、奮起するどころか、相も変らず清国留学生会館でダンスの稽古にふけっているのを見るに及んで、自分もようやく決意した。しばらく、この留学生の群と別れて生活しよう。自己嫌悪、とでもいうのであろうか、自分の同胞たちの、のほほん顔を見ると、恥かしくいまいましく、いたたまらなくなるのだ。ああ、支那の留学生がひとりもいない土地に行きたい。しばらく東京から遠く離れて、何事も忘れ、ひとりで医学の研究に出精したい。もはや躊躇(ちゅうちょ)している時では無い。自分は麹町(こうじまち)区永田町の清国公使館に行き、地方の医学校へ入学の志望を述べ、やがて、この仙台医専に編入されることにきまった。東京よ、さらば。選ばれた秀才たちよ、さらば。いよいよお別れとなると、さすがに淋(さび)しかった。汽車で上野を出発して、日暮里(にっぽり)という駅を通過し、その「日暮里」という字が、自分のその時の憂愁にぴったり合って、もう少しで落涙しそうになった。それからしばらくして水戸という駅を通過し、これは明末の義臣朱舜水(しゅしゅんすい)先生の客死されたところ、Wandervogel の大先輩の悲壮の心事を偲(しの)び、少しく勇気を得て仙台に着いた。仙台は日本の東北で最も大きい都であると聞いていたが、来て見ると、東京の十分の一にも足りないくらいの狭い都会であった。まちの人の言葉も、まさか鴃舌(げきぜつ)というほどではなかったが、東京の人の言葉にくらべて、へんに語勢が強く、わかりにくいところが多かった。まちの中心は流石(さすが)に繁華で、東京の神楽坂(かぐらざか)くらいの趣きはあったが、しかし、まち全体としては、どこか、軽い感じで、日本の東北地方の重鎮(じゅうちん)としてのどっしりした実力は稀薄(きはく)のように思われた。かえってもっと北方の盛岡、秋田などというあたりに、この東北地方の豊潤な実勢力が鬱積(うっせき)されているのだが、仙台は所謂(いわゆる)文明開化の表面の威力でそれをおさえつけ、びくびくしながら君臨しているというような感じがした。ここは伊達政宗(だてまさむね)という大名の開いたまちだそうであるが、日本で、der Stutzer の気取屋のことを「伊達者」といっているのは、案外、仙台のこんな気風をからかったことから始ったのではないかしらと思われるほど、意味も無く都会風に気取っているまちであった。要するに、自信も何も無いくせに東北地方第一という沽券(こけん)にこだわり、つんと澄ましているだけの「伊達のまち」のように自分には思われたのだが、しかし、あなたがさっき話してくれたように北方の奥地からいきなりこの仙台に出て来た人にとっては、この土地の文明開化も豪華絢爛(けんらん)たるものに見えて、これに素直に驚歎し、順服するというのは自然の事で、これこそ仙台の開祖政宗公が東北地方全体を圧倒雄視するために用いた政策の狙(ねら)いで、それが伝統的な気風になり、維新後三十七年を経過したいまでも、その内容空疎に多少おどおどしながらやっぱり田舎紳士(いなかしんし)の気取りを捨て切れないでいるのである。しかし、こんな悪口を言っても、自分はこの仙台のまちに特に敵意を抱(いだ)いているというわけでは決してない。地方の、産業の乏しい都会は、たいていこんな悲しい気取りで生きているものだ。これから自分は一生涯の、おそらくは最も重大な時期を、仙台のまちに委(ゆだ)ねてしまうのだから、つい念入りにこのまちの性格に就いて考え、あれこれと不満を並べてみたくなっただけの事で、こんな気風のまちは、学問するにはかえって好適の土地なのかも知れない。事実、このまちへ来てから、自分の学習は順調である。多分、物は希(ま)れなるを以て貴(とうと)しとするからであろう、自分は、この仙台のまちにとって、最初の、また唯(ただ)一人の清国留学生だというので、非常に珍重がられ、それこそあなたの言うように、何の見どころのない烏(からす)でも、ただ一羽枯枝にとまっているとその姿もまんざらでなく、漆黒(しっこく)の翼(つばさ)も輝いて見えるらしく、学校の先生たちもまるで大事なお客様か何かのように自分を親切にあつかってくれるので、自分はかえってまごついているくらいである。自分にとって、こんなに皆から温情を示されるのは、生れてはじめてのことである。きっと枯枝の烏を、買いかぶっているのに違いない。有難く思うと同時に、また、あの人たちの好意を裏切ったら相すまぬという不安も自分は持っている。同級生たちも、おそらくは物珍らしさからであろう、朝、教室で顔を見合わせると、たいてい、向うから微笑(ほほえ)みかけてくれるし、また、隣りの席に坐った生徒は、進んで自分にナイフや消ゴムを貸してくれて、中でも津田憲治とかいう東京の府立一中から来たのを少し自慢にしている背の高い生徒は最も熱烈な関心を持っているようで、何かと自分にこまかい指図(さしず)をしてくれて、カラアがよごれていますよ、クリイニングに出しなさい、とか、雨降りの時の長靴を一足買いなさい、とか、服装の事まで世話を焼き、とうとう自分の下宿まで出張して来て、これはいかん、すぐここから引越して僕の下宿へおいでなさい、と言う。自分の下宿は、米(こめ)ヶ袋(ぶくろ)鍛冶屋前丁(かじやまえちょう)の宮城監獄署の前にあって、学校にも近いし食事も上等だし自分には大いに気にいっていたのだが、その津田さんの言によれば、この下宿屋は、監獄の囚人の食事の差入屋を兼ねているからいかん、という事であって、いやしくも清国留学生の秀才が、囚人と同じ鍋のめしを食っているというのは、君一個人の面目問題ばかりでなく、ひいては貴国の体面にも傷をつける事になるから早く引越さなければいけない、と幾度も幾度も忠告してくれて、自分は笑いながら、そんなことは自分はちっとも気にしていない、と言っても、いやいや君は遠慮して嘘(うそ)をついているのだろう、支那の人は何よりも体面ということを重んずるということだ、囚人と同じめしを食っても気にならんというのは嘘でしょう、早くこの不吉な宿を引上げて僕の下宿へ来たまえ、と執拗(しつよう)にすすめる。ひどくまじめな顔をして、そんなことを言うのだが、あれで内心は自分をからかっているのかも知れない。どうだか、わかったものではないが、とにかく友の好意を無下(むげ)にしりぞけて怒られてもつまらないから、自分は仕方なく、その津田さんの荒町の下宿に引越した。こんどは監獄からは遠くなったけれども、食事が以前のようにいいとは言えない。毎朝のお膳(ぜん)に、なまの里芋を擂(す)りつぶしてどろりとさせたものが出て、これにはどうにも箸(はし)をつけかねて非常に困惑したが、れいの津田さんは、或る朝、自分の部屋をのぞいて、それをなぜたべないのかと、すぐに見とがめて、それはなかなか養分の多いものだから必ずたべなければいけない、それを、おみおつけにまぜて充分に掻(か)きまわすと、おいしいとろろ汁が出来上るから、そのとろろ汁をごはんにかけて食べるといい、と教えてくれて、それから自分は毎朝、おみおつけにまぜて掻きまわしてごはんにかけてたべなければならなくなった。あのひとも、決して悪い人間ではないらしいが、どうもあの過度の親切には、閉口している。しかしまあ、いまのところ、津田さんのこんなおせっかいが少し苦痛なだけで、あとは、自分には何の不服も無い。全部、順調である。幸福な身の上と言っていいのかも知れない。学校の講義はどれもこれも新鮮で、自分の永年の志望も、ここへ来て、やっとかなえてもらえたような気がしている。中でも、解剖学の藤野先生の講義は面白い。
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