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◇暇つぶし何某◇

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著者名:太宰治 

これは日本の東北地方の某村に開業している一老医師の手記である。


 先日、この地方の新聞社の記者だと称する不精鬚(ぶしょうひげ)をはやした顔色のわるい中年の男がやって来て、あなたは今の東北帝大医学部の前身の仙台医専を卒業したお方と聞いているが、それに違いないか、と問う。そのとおりだ、と私は答えた。
「明治三十七年の入学ではなかったかしら。」と記者は、胸のポケットから小さい手帖(てちょう)を出しながら、せっかちに尋ねる。
「たしか、その頃と記憶しています。」私は、記者のへんに落ちつかない態度に不安を感じた。はっきり言えば、私にはこの新聞記者との対談が、終始あまり愉快でなかったのである。
「そいつあ、よかった。」記者は蒼黒(あおぐろ)い頬(ほお)に薄笑いを浮かべて、「それじゃ、あなたは、たしかにこの人を知っている筈(はず)だ。」と呆(あき)れるくらいに強く、きめつけるような口調で言い、手帖をひらいて私の鼻先に突き出した。ひらかれたペエジには鉛筆で大きく、
 周樹人
と書かれてある。
「存じて居ります。」
「そうだろう。」とその記者はいかにも得意そうに、「あなたとは同級生だったわけだ。そうして、その人が、のちに、中国の大文豪、魯迅(ろじん)となって出現したのです。」と言って、自身の少し興奮したみたいな口調にてれて顔をいくぶん赤くした。
「そういう事も存じて居りますが、でも、あの周さんが、のちにあんな有名なお方にならなくても、ただ私たちと一緒に仙台で学び遊んでいた頃の周さんだけでも、私は尊敬して居ります。」
「へえ。」と記者は眼を丸くして驚いたようなふうをして、「若い頃から、そんなに偉かったのかねえ。やはり、天才的とでもいったような。」
「いいえ、そんな工合ではなくて、ありふれた言い方ですが、それこそ素直な、本当に、いい人でございました。」
「たとえば、どんなところが?」と、記者は一膝(ひざ)乗り出して、「いや、実はね、藤野先生という題の魯迅の随筆を読むと、魯迅が明治三十七、八年、日露戦争の頃、仙台医専にいて、そうして藤野厳九郎という先生にたいへん世話になった、と、まあ、そんな事が書かれているのですね、それで私は、この話をうちの新聞の正月の初刷りに、日支親善の美談、とでも言ったような記事にして発表しようと思っているのですがね、ちょうどあなたがそのころの、仙台医専の生徒だったのではあるまいかと睨(にら)んでやって来たようなわけです。いったい、どんな工合でした、そのころの魯迅は。やはりこの、青白い憂鬱(ゆううつ)そうな表情をしていたでしょうね。」
「いいえ、別にそう。」私のほうで、ひどく憂鬱になって来た。「変ったところもございませんでした。なんと申し上げたらいいのでしょうか、非常に聡明(そうめい)な、おとなしい、――」
「いや、そんなに用心しなくてもいいんだ。私は何も魯迅の悪口を書こうと思っているのじゃないし、いまも言ったように、東洋民族の総親和のために、これを新年の読物にしようと思っているのですからね、殊(こと)にこれはわが東北地方と関係のあることでもありますから、謂(い)わばまあ地方文化への一つの刺戟(しげき)になるのです。だから、あなたもわが東北文化のために大いに自由闊達(かったつ)に、当時の思い出話を語って下さい。あなたにご迷惑のかかるような事は絶対に無いのですから。」
「いいえ、決して、そんな、用心なんかしていませぬのですが。」その日は、なぜだか、気が重かった。「何せもう、四十年も昔の事で、決して、そんな、ごまかす積りはないのですけれども、私のような俗人のたわいない記憶など果してお役に立つものかどうか。――」
「いや、いまはそんな、つまらぬ謙遜(けんそん)なんかしている時代じゃありませんよ。それでは、私は少し質問しますが、記憶に残っているところだけでも答えて下さい。」
 それから記者は一時間ばかり、当時の事をいろいろ質問して、私のしどろもどろの答弁に頗(すこぶ)る失望の面持で帰って行ったが、それでも、ことしの正月にはその地方の新聞に、「日支親和の先駆」という題で私の懐古談の形式になっている読物が五、六日間連載された。さすがに商売柄、私のあんな不得要領の答弁をたくみに取捨して、かなり面白い読物にまとめている手腕には感心したが、けれども、そこに出ている周さんも、また恩師の藤野先生も、また私も、まるで私には他人のように思われた。私の事など、どんなに書かれたって何でも無いけれども、恩師の藤野先生や周さんが、私の胸底の画像とまるで違って書かれているので読んだ時には、かなりの苦痛を感じた。これもみな私の答弁の拙劣に原因しているのであろうが、でも、どうも、あんなに正面切って次々と質問されるとこちらは、しどろもどろにならざるを得ないのである。とっさに適切の形容等、私のような愚かな者にはとても思い浮かばず、まごついて、ふと呟(つぶや)いた無意味な形容詞一つが、妙に強く相手の耳にはいって自分の真意を曲解されてしまう事も少くないだろうし、どうも私は、この一問一答は、にがてなのだ。それで私は、こんどの記者の来訪には、非常に困惑し、自分のしどろもどろの答弁に自分で腹を立て、記者が帰ってからも二、三日、悲しい思いで暮したのだが、いよいよ正月になって、新聞に連載された懐古談なるものを読み、いまは、ただ藤野先生や、周さんに相すまない気持で一ぱいで、自分も既に六十の坂を越えて、もうそろそろこの世からおいとまをしてもよい年になっているし、いまのうちに、私の胸底の画像を、正しく書いて残して置くのも無意義なことではないと思い立ったのである。といっても私は、何もあの新聞に連載された「親和の先駆」という読物に、ケチを附けるつもりは無いのである。あのような社会的な、また政治的な意図をもった読物は、あのような書き方をせざるを得ないのであろう。私の胸底の画像と違うのも仕方の無いことで、私のは謂わばまあ、田舎(いなか)の耄碌(もうろく)医者が昔の恩師と旧友を慕う気持だけで書くのだから、社会的政治的の意図よりは、あの人たちの面影をただていねいに書きとめて置こうという祈念のほうが強いのは致し方の無い事だろう。けれども私は、それはまた、それで構わないと思っている。大善を称するよりは小善を積め、という言葉がある。恩師と旧友の面影を正すというのは、ささやかな仕事に似て、また確実に人倫の大道に通じているかも知れないのである。まあ、いまの老齢の私に出来る精一ぱいの仕事、というようなところであろう。このごろは、この東北地方にもしばしば空襲警報が鳴って、おどろかされているが、しかし、毎日よく晴れた上天気で、この私の南向きの書斎は火鉢(ひばち)が無くても春の如くあたたかく、私の仕事も、敵の空襲に妨げられ萎縮するなどの事なく順調に進んで行きそうな、楽しい予感もする。

 さて、私の胸底の画像と言っても、果して絶対に正確なものかどうか、それはどうも保証し難い。自分では事実そのままに語っているつもりでも、凡愚の印象というものは群盲象をさぐるの図に似て、どこかに非常な見落しがあるかも知れず、それに、もうこれは四十年も昔の事で、凡愚の印象さらにあいまいの度を加えて、ただいま恩師と旧友の肖像を正さんと意気込んで筆を執(と)っても、内心はなはだ心細いところが無いでもない。まあ、あまり大きい慾を起さず、せめて一面の真実だけでも書き残す事が出来たら満足という気持で書く事にしよう。どうも、としをとると、愚痴(ぐち)やら弁解やら、言う事が妙にしちくどくなっていけない。どうせ、私には名文も美文も書けやしないのだから、くどくどと未練がましい申しわけを言うのはもうやめて、ただ「辞ハ達スル而已(ノミ)矣」という事だけを心掛けて、左顧(さこ)も右眄(うべん)もせずに書いて行けばいいのであろう。「爾(ナンジ)ノ知ラザル所ハ、人ソレ諸(コレ)ヲ舎(ス)テンヤ」である。
 私が東北の片隅(かたすみ)のある小さい城下町の中学校を卒業して、それから、東北一の大都会といわれる仙台市に来て、仙台医学専門学校の生徒になったのは、明治三十七年の初秋で、そのとしの二月には露国に対し宣戦の詔勅(しょうちょく)が降り、私の仙台に来たころには遼陽(りょうよう)もろく陥落(かんらく)し、ついで旅順(りょじゅん)総攻撃が開始せられ、気早な人たちはもう、旅順陥落ちかしと叫び、その祝賀会の相談などしている有様。殊にも仙台の第二師団第四聯隊は、榴(つつじ)ヶ岡(おか)隊と称(とな)えられて黒木第一軍に属し、初陣の鴨緑江(おうりょっこう)の渡河戦に快勝し、つづいて遼陽戦に参加して大功を樹(た)て、仙台の新聞には「沈勇なる東北兵」などという見出しの特別読物が次々と連載せられ、森徳座という芝居小屋でも遼陽陥落万々歳というにわか仕立ての狂言を上場したりして、全市すこぶる活気横溢(おういつ)、私たちも医専の新しい制服制帽を身にまとい、何か世界の夜明けを期待するような胸のふくれる思いで、学校のすぐ近くを流れている広瀬川の対岸、伊達(だて)家三代の霊廟(れいびょう)のある瑞鳳殿(ずいほうでん)などにお参りして戦勝の祈願をしたものだ。上級生たちの大半の志望は軍医になっていますぐ出陣する事で、まことに当時の人の心は、単純とでも言おうか、生気溌剌(はつらつ)たるもので、学生たちは下宿で徹宵(てっしょう)、新兵器の発明に就(つ)いて議論をして、それもいま思うと噴(ふ)き出したくなるような、たとえば旧藩時代の鷹匠(たかじょう)に鷹の訓練をさせ、鷹の背中に爆裂弾をしばりつけて敵の火薬庫の屋根に舞い降りるようにするとか、または、砲丸に唐辛子(とうがらし)をつめ込んで之(これ)を敵陣の真上に於いて破裂させて全軍に目つぶしを喰わせるとか、どうも文明開化の学生にも似つかわしからざる原始的と言いたいくらいの珍妙な発明談に熱中して、そうしてこの唐辛子目つぶし弾の件は、医専の生徒二、三人の連名で、大本営に投書したとかいう話も聞いたが、さらに血の気の多い学生は、発明の議論も手ぬるしとして、深夜下宿の屋根に這(は)い上って、ラッパを吹いて、この軍隊ラッパがまたひどく仙台の学生間に流行して、輿論(よろん)は之を、うるさしやめろ、と怒るかと思えばまた一方に於いては、大いにやれ、ラッパ会を組織せよ、とおだてたり、とにかく開戦して未だ半箇年というに、国民の意気は既に敵を呑んで、どこかに陽気な可笑(おか)しみさえ漂っていて、そのころ周さんが「日本の愛国心は無邪気すぎる」と笑いながら言っていたが、そう言われても仕方の無いほど、当時は、学生ばかりでなく仙台市民こぞって邪心なく子供のように騒ぎまわっていた。
 それまで田舎の小さい城下町しか知らなかった私は、生れて初めて大都会らしいものを見て、それだけでも既に興奮していたのに、この全市にみなぎる異常の活況に接して、少しも勉強に手がつかず、毎日そわそわ仙台の街を歩きまわってばかりいた。
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