水仙
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著者名:太宰治 

トニカク、カエリナサイ。
 カエレナイ。
ナゼ?
 カエルシカク、ナイ。
草田サンガ、マッテル。
 ウソ。
ホント。
 カエレナイノデス。ワタシ、アヤマチシタ。
バカダ。コレカラドウスル。
 スミマセン。ハタラクツモリ。
オ金、イルカ。
 ゴザイマス。
絵ヲ、ミセテクダサイ。
 ナイ。
イチマイモ?
 アリマセン。
 僕は急に、静子さんの絵を見たくなったのである。妙な予感がして来た。いい絵だ、すばらしくいい絵だ。きっと、そうだ。
絵ヲ、カイテユク気ナイカ。
 ハズカシイ。
アナタハ、キットウマイ。
 ナグサメナイデホシイ。
ホントニ、天才カモ知レナイ。
 ヨシテ下サイ。モウオカエリ下サイ。
 僕は苦笑して立ちあがった。帰るより他はない。静子夫人は僕を見送りもせず、坐ったままで、ぼんやり窓の外を眺めていた。
 その夜、僕は、中泉画伯のアトリエをおとずれた。
「静子さんの絵を見たいのですが、あなたのところにありませんか。」
「ない。」老画伯は、ひとの好さそうな笑顔で、「御自分で、全部破ってしまったそうじゃないですか。天才的だったのですがね。あんなに、わがままじゃいけません。」
「書き損じのデッサンでもなんでも、とにかく見たいのです。ありませんか。」
「待てよ。」老画伯は首をかたむけて、「デッサンが三枚ばかり、私のところに残っていたのですが、それを、あのひとが此の間やって来て、私の目の前で破ってしまいました。誰か、あの人の絵をこっぴどくやっつけたらしく、それからはもう、あ、そうだ、ありました、ありました、まだ一枚のこっています。うちの娘が、たしか水彩を一枚持っていた筈です。」
「見せて下さい。」
「ちょっとお待ち下さい。」
 老画伯は、奥へ行って、やがてにこにこ笑いながら一枚の水彩を持って出て来て、
「よかった、よかった。娘が秘蔵していたので助かりました。いま残っているのは、おそらく此の水彩いちまいだけでしょう。私は、もう、一万円でも手放しませんよ。」
「見せて下さい。」
 水仙の絵である。バケツに投げ入れられた二十本程の水仙の絵である。手にとってちらと見てビリビリと引き裂いた。
「なにをなさる!」老画伯は驚愕(きょうがく)した。
「つまらない絵じゃありませんか。あなた達は、お金持の奥さんに、おべっかを言っていただけなんだ。そうして奥さんの一生を台無しにしたのです。あの人をこっぴどくやっつけた男というのは僕です。」
「そんなに、つまらない絵でもないでしょう。」老画伯は、急に自信を失った様子で、「私には、いまの新しい人たちの画は、よくわかりませんけど。」
 僕はその絵を、さらにこまかに引き裂いて、ストーヴにくべた。僕には、絵がわかるつもりだ。草田氏にさえ、教える事が出来るくらいに、わかるつもりだ。水仙の絵は、断じて、つまらない絵ではなかった。美事だった。なぜそれを僕が引き裂いたのか。それは読者の推量にまかせる。静子夫人は、草田氏の手許に引きとられ、そのとしの暮に自殺した。僕の不安は増大する一方である。なんだか天才の絵のようだ。おのずから忠直卿の物語など思い出され、或(あ)る夜ふと、忠直卿も事実素晴らしい剣術の達人だったのではあるまいかと、奇妙な疑念にさえとらわれて、このごろは夜も眠られぬくらいに不安である。二十世紀にも、芸術の天才が生きているのかも知れぬ。




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