右大臣実朝
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著者名:太宰治 

 五月三日、酉剋に至つて和田四郎左衙門尉義直さまが討死をなされ、日頃この御四男の義直さまを何ものにも代へがたくお可愛がりになつてゐた老父義盛さまは、その悲報をお聞きになつて、落馬せんばかりに驚き、人まへもはばからず身を震はせて号泣し、あれが死んだのでは、もう、なんにもならぬ、合戦もいやになつた、と嬰児のむつかる如く泣きに泣いて戦場をさまよひ歩き、つひに江戸左衛門尉能範の所従に討たれ、つづいて御一族も或いは討死、或いは逐電、ここに鎌倉の天地震怒の和田合戦も、やうやくをさまり、その夜は由比浦の汀に仮屋を設け、波の音を聞きつつ、数百の松明の光のもとで左衛門尉義盛さま以下の御首を実検せられたとか、将軍家は首実検をおいとひなされ、私たち近習の者と共に御堂に籠つておいでなさいまして、少しくお酒などおあがりになつて、けれども流石にその夜はお気軽の御冗談もおつしやらず、うつむいて何やら御思案の御様子でございました。
焔ノミ虚空ニミテル阿鼻地獄ユクヘモナシトイフモハカナシ
カクテノミ有リテハカナキ世ノ中ヲウシトヤイハン哀トヤ云ハン
神トイヒ仏トイフモヨノナカノ人ノ心ノホカノモノカハ
 などといふ和歌のお出来になつたのもその夜の事でございまして、五月雨がやまず降り続き、どこからともなく屍臭がその御堂の奥にまで忍び込んでまゐりまして、それから二十数年経つた今でも私はその夜の淋しい御堂の有様をまざまざと夢に見るほどでございます。翌る四日には、将軍家は法華堂から、焼け残つた尼御台さまの御邸宅にお移りなされ、やがて西の御門に幔幕を曳いて将軍家のお座をまうけ、疵ついた軍士を召集めておいたはりの閲を給ふ事になりまして、手負ひの将士九百八十八人が続々と御前に集り、れいの相模次郎朝時さまも御兄君の匠作泰時さまに背負はれてその場に参りまして、あの時の朝夷名三郎義秀さまの大鉄棒がよほどこたへたと見え、その呻き声のお高いこと、ことさらに御苦痛をお装ひなのではなからうかと思はれたほどに大袈裟にお顔をゆがめ、無念、無念、とお叫びになるので、お庭のここかしこから軽い失笑の声さへ起りまして、けれども将軍家は終始、厳粛のお態度を変へず、いちいち重く御首肯なされて居られました。ついで将軍家は、このたびの合戦に於いて抜群の勲功をいたした者をお尋ねに相成り、諸将士はこれに対して異口同音に、敵方に於いては朝夷名三郎、御ところ方に於いては匠作泰時さまをお挙げになつて、匠作泰時さまはただちに御前ちかく召されておほめの御言葉を賜りましたが、その時、匠作さまは恥ぢらふ如く内気の笑ひをお顔に浮べ、勲功などとは、もつてのほか、匠作このたびの合戦に於いては、まことにぶざまの事ばかり多く、実はついたちの夜にばかな大酒をいたしまして、二日にはひどい宿酔、それ和田氏の御挙兵と聞きましても夢うつつ、ほとんど手さぐりにて、とにかく甲冑をつけ馬に乗つてはみましたが、西も東も心許なく、ああ大酒はいかん、もののお役に立ち申さぬ、爾後は禁酒だ、と固く心に誓ひ、なほも呆然たるうちに敵兵と逢ひ、数度戦つて居りまするうちに喉がかわいてたまらなくなり、水を、と士卒に言ひつけましたところ、こいつまた気をきかして小筒に酒をつめて差し出しまして、一口のんですぐに酒だと気がつきましたものの、酒飲みの意地汚なさ、捨てるには惜しく、ついさつきの禁酒の誓を破つてごくごくと一滴あまさず飲みほして、これからが本当の禁酒だなどと、まことにわれながらその薄志弱行にはあいそがつきまして、さう言ひながらも昨夜はまた戦勝の心祝ひなどと理窟をつけて少しやつてゐるやうな有様なのでございますから、まだまだ修行はいたらず、とても、おほめにあづかるほどの男ではございませぬ、この後は努めて、大酒をつつしむやうに致しまするから、どうか、このたびの失態は御寛恕のほどを願はしく存じます、としんから恐縮し切つて居られる御様子で汗を流して言上なさいましたが、将軍家をはじめ満座の諸将士ひとしく、この匠作さまの功にほこらぬ美しいお心に敬服なされたやうでございました。この匠作泰時さまは、その翌日、抜群の勲功により陸奥国遠田郡を賜りましたけれども、固く之を御辞退申し上げ、そもそもこの度の合戦は和田左衛門尉、将軍家に対して逆心をさしはさまず、ただ相州を討たんとして挙兵なされたのであつて、自分は相州の子として父の敵を迎へ撃つたまでの事、しかも自分の用兵拙劣にして多くの御ところの将士を失ひ罪万死に価すと雖も幕臣として一の勲功も無し、とおつしやつたとか、いよいよ匠作さまのお名があがつて、しばらくは、どこへまゐりましても匠作さまの御評判で持ち切りの有様でございました。さて、匠作さまの禁酒のしくじり話の御披露がございました四日の、手負ひの軍士の集りました席上で、裏切者の三浦左衛門尉義村さまが、またも御卑怯の振舞ひに及び、心ある将士にいたく顰蹙せられましたが、合戦の後にはとかくこのやうなごたごたが起るものと見えます。波多野中務丞忠綱さまの米町ならびに政所に於いて両度ともに、まつさきかけて進みましたといふ申立てに対して、三浦左衛門尉さまはやをら御前に進み出て、米町の先陣は知らず、政所に於いて先登を承つたのはこの左衛門尉義村にちがひございませぬ、と異議をさしはさみましたので、たちまち御前に於いてお二人の醜い激論が生じ、相州さまは、忠綱さまに耳打ちして幔幕の陰にお連れになつて、これは私も後で人からうかがつた話でございますが、なんでもその折、相州さまのおつしやるには、あなたも落ちついてお考へになつたらどうです、このたびの合戦が、まあまあ無事にをさまつたのも三浦氏の忠義な密告のおかげです、米町の先陣はあなたときまつてゐるのだから、その功一つで我慢なさつて、もう一つの政所のはうは三浦氏に潔くおゆづりになつたはうが御賢明かと思ひますが、どうでせう、また、あとあと、いい事もありますから、といふ事だつたさうで、忠綱さまはそれを承つてせせら笑ひ、冗談言つてはいけません、勇士の戦場に向ふに当つては、ただ先登に進まんと念ずるのみ、武人の栄誉これに過ぎたるはなく、忠綱いやしくも父祖代々の家業を継いで弓馬の事にたずさはる上は、たとひ十度、二十度の先陣も敢へて多しとせず、いよいよ万代に武名を輝かさんと志してゐるのに、一つでたくさん、もう一つのはうは三浦氏にゆづれなどと、あなたはそれでも武士か、忠綱は恩賞も何もほしくござらぬ、ただ先陣の誉れを得たいだけです、と見事に言ひ切つたので、さすがの相州さまも二の句が継げず、いよいよ忠綱さまと義村さまを藤御壺の内に於いて対決せしむる事に相成り、その場には将軍家と私たち少数の近習の他に、相州さま、入道さま、民部大夫行光さまだけが伺候して余人は遠ざけられ、将軍家御直々のお裁きが行はれました。忠綱さまと義村さまは、お庭の簀子の円座におすわりになつて、まづ義村さまが、このたび和田左衛門尉義盛の政所襲来と同時に、義村、政所の前の南側に馳せ向ひ、まつさきに敵勢に矢を射込みましたが、塵ひとつ義村の眼前を駈け行くものは見受けられませんでした、といかにも実直さうに申し述べました。忠綱さまはせき込んで、いやいや忠綱ひとり、忠綱ひとり先登に進みました、南側も北側もありません、まつさきかけて進みました、うしろには自分の子の経朝、朝定がつづき、三浦氏は、そのまたうしろではなかつたでせうか、あまりかけ離れてゐると塵ひとつも見えない道理で、或いはまた三浦氏も実は盲目なのかも知れず、盲目は相手になりませぬゆゑ、どうかあの場に居合せた士卒たちを捜し出してそれにお尋ねのほどをお願ひ申し上げまする、とお顔を真赤になさつてどもりどもりおつしやいましたが、あまりお口汚いので、相州さまは片手を挙げて忠綱さまを制し、将軍家にちらと目くばせをなさいました。忠綱さまを御譴責なさいませと将軍家におすすめなさるやうな目くばせの仕方でございましたが、将軍家はこのやうな御裁判には少しもお気がすすまぬらしく、先刻から時々わき見などなさつて、ひどくもの憂げの御様子で、相州さまの目くばせにも一向お感じなさらず、
士卒ヲ捜スガヨイ
 とおつしやつて平然たるものでございました。やがて士卒三人おそるおそるお庭の片隅にまかり出まして、そのうちの一人が少し進み出て、赤皮縅の鎧、葦毛の馬の武者一騎あざやかに先登かけて居られました、と申し述べ、たちまち義村さまは平伏なされ、忠綱さまは得々としてあたりを見廻しました。赤皮縅は忠綱さまの御鎧、またその葦毛の馬は、相州さまから拝領の片淵と号する忠綱さま御自慢の名馬に相違ないのでございますから、もはや争論の余地も無く、将軍家は、興覚め顔に何事もおつしやらず、ついとお座を立つておしまひになりました。けれども義村さまは、なんと言つてもこのたびは、裏切りの大功名を立てたお方でございますし、そこは相州さま、入道さま等のお取計ひもあつて、何のおかまひもなかつたばかりか、陸奥国名取郡をたまはり、かへつて忠綱さまは、いかに両度の先登の功があつたとはいへ、義村さまほどの名門の御重臣を、お調子に乗つて盲目だのなんだの勝手の悪口を致したのはけしからぬとあつて、なんの恩賞も無かつたとかいふ事でございましたが、それにつけても左衛門尉義村さまは御一族の和田氏を裏切り、しかもその上、他人の軍功まで奪はうとなさつたとは、いやはや、どうにも、きたなき振舞ひと、おのづから、匠作泰時さまの御謙遜の御態度とも比較せられ、匠作さまのお名はあがるばかりで、義村さまの御ところに於ける不評判はまことに絶頂を極めました。

同年。六月大。廿六日、乙未、大霽、相州、武州、大官命等参会し、御所新造の事群議に及ぶ、是去る五月合戦の時、焼失するに依りてなり。
同年。七月小。七日、丙午、霽、今日御所に於て和歌例会有り、相州、修理亮、東平太重胤等其座に候する所なり。九日、戊申、陰、御所の造営、重ねて其沙汰有り。廿日、己未、故和田左衛門尉義盛の妻、厚免を蒙る、是豊受太神宮七社禰宜度会康高の女子なり、夫謀叛の科に依りて、所領を召放たるるの上、其身又囚人と為る、而して件の領所と謂ふは、神宮一円の御厨たるの間、禰宜等子細を申すに依り、唯に所を本宮に返付せらるるのみならず、剰へ恩赦に預る、是御敬神の他に異るの故なり。廿三日、壬戌、新造の御所の事、其沙汰有り、今日御前に於て、指図少々改めらるるの所々有り、今度中門を立てらる可きの由と云々。
同年。八月小。三日、辛未、天晴、風静なり、今日申剋、御所の上棟なり、相州以下諸人群参す。六日、甲戌、新造の御所の御障子の画図の風情の事、先々の絵御意に相叶はず。十七日、乙酉、京極侍従三位、二条中将雅経朝臣に付し、和歌文書等を将軍家に献ず、御入興の外他無しと云々。十八日、丙戌、霽、子剋、将軍家南面に出御、時に灯消え、人定まりて、悄然として音無し、只月色蛬思心を傷むる計なり、御歌数首、御独吟有り、丑剋に及びて、夢の如くして青女一人前庭を奔り通る、頻りに問はしめ給ふと雖も、遂に名乗らず、而して漸く門外に至るの程、俄かに光物有り、頗る松明の光の如し。廿日、戊子、天晴風静なり、将軍家新御所に移徒なり、御車京都より遅く到るの間、御輿を用ひらる、酉刻、前大膳大夫広元朝臣の第より、新御所に入御、大須賀太郎道信黄牛を牽く。廿二日、庚寅、天晴、未剋、鶴岳上宮の宝殿に、黄蝶大小群集す、人之を怪しむ。
同年。九月大。廿二日、戊午、将軍家火取沢辺に逍遙せしめ給ふ、是草花秋興を覧るに依りてなり、武蔵守、修理亮、出雲守、三浦左衛門尉、結城左衛門尉、内藤右馬允等供奉せしむ、皆歌道に携はるの輩なり。
同年。十月大。三日、己亥、今日御書を以て、大宮大納言殿の方に仰せらるる事有り、公家より西国の御領等の臨時の公事を課せらるるなり、一切御沙汰に及ぶ可からざるの由、広元朝臣の如き、之を申すと雖も、仰せて曰く、一向停止の儀に於ては、然る可からず。十三日、己酉、天晴、夜に入つて雷鳴、同時に御所の南庭に、狐鳴くこと度々に及ぶと云々。
同年。十一月大。廿三日、己丑、天晴、京極侍従三位、相伝の私本万葉集一部を将軍家に献ず、御賞翫他無し、重宝何物か之に過ぎん乎の由、仰有りと云々。
同年。十二月大。三日、己亥、将軍家寿福寺に御参、仏事を修せしめ給ふ、是左衛門尉義盛以下の亡卒得脱の為と云々。七日、癸卯、鷹狩を停止す可きの旨、諸国の守護人等に仰せらる、事度々厳命有りと雖も、放逸の輩、動もすれば違犯有るの旨、聞食し及ぶに依りて、此の如しと云々、但し所処の神社の貢税の事に於ては、制するの限に非ずと云々。
 五月六日には将軍家は、広元入道さまの御邸宅にお移りになり、しばらくここを仮の御ところに定め、つづいて御台所さまも御入りあそばされ、けれども鎌倉近辺の人心はなかなかに静まらぬ様子で、五月、六月、ふたつきは何やら御ところの内外もざわめいて、御ところの人たちすべて落ちつかず、安からぬ気持でございました。相州さまひとりは、朝早くから夜おそくまで、ひどくおいそがしさうに御ところのあちこちを走りまはつて居られましたが、将軍家は相変らず、ぼんやりなされて、一日ぢゆうお奥でお草子などごらんになつて居られる事もございました。その頃は、御政務の御決裁にもほとんど御興味を失はれたやうに見受けられ、相州さまと入道さまに一切おまかせの御様子でございました。けれども、さすがに、御朝廷に対し奉る御忠誠だけは、いつ、いかなる場合も曇ることなく、この合戦直後の九日にも在京の御家人に宛て、関東はすでに平穏に帰したから、誰ひとり鎌倉へ馳せ参ずるには及ばぬ、それよりも、謀叛の残党が西方に遁走したとの説もあることゆゑ、専心、院御所を御守護まゐらすべし、との御教書を広元入道さまにお言ひつけになつて送付せしめられ、また、このとしの十月三日に、京の御所より幕府に対し臨時の公事を課せられ、幕府もその頃は兵火の災厄をかうむつた後ではあり、御ところの新造なども行ひ、だいぶお懐がお苦しかつたらしく、広元入道さまなどは、とんでもない、とても応じ切れるものでない、まつぴらごめん、とただひたすらに幕府大事の心から浅墓にもお断りしようとして、入道さま御一存でもつてしかるべく御返辞のお手続きにとりかかつて居られるとの事の由を、お聞きになつた将軍家は、お眠りから覚めてむつくり起き上られたお人のやうに全く別人の如き峻厳のお態度をお示しになり、入道さまを召して、かたじけなくも御公家より御徴収の御沙汰を拝し、逡巡するとは大不忠、どのやうな場合に於いても、必ず、すみやかに応ずべきです、今後も同様、と激しい御口調で仰せられ、入道さまは手続きのやり直しに大まごつきにまごついた御様子でございました。まことにこの京都の御所に対し奉る御赤心と、それから敬神崇仏のお心の深さは、その御一生をつらぬいて不変のもののやうでございました。その時分から少しづつ御政務をお怠りなさるやうになつたとはいふものの、事、御朝廷に関するとお眠りから覚めたやうにおなりになると同様に、神仏に関してもまた、必ず、すすんで独自の御決裁をなさいましたやうでございます。そのとしの七月二十日に、故左衛門尉義盛さまの御内室が所領も没収され囚人として押し込められて居りましたのを、その身は御赦免にあづかり、あまつさへ領地もお返しに相成るといふ重なる御恩徳に浴しまして、それは勿論、将軍家がかねがね和田氏御一族を御憐憫なされてゐたからでもございませうが、さらに重大の理由としては、その御内室は豊受太神宮七社の禰宜のお娘で、その御領地といふのも太神宮七社の御経営に当てられてゐて、それを没収せられては神宮一円の維持も困難になりますといふ禰宜等の訴へがございましたので、将軍家に於いては一議に及ばず所領返付を仰出され、事のついでに、御内室のお身柄をも御放免なされたといふ御事情のやうでございました。また、将軍家は鷹狩のむごたらしい遊戯を極度にお厭ひなされ、建暦二年の八月にも、またその後にもたびたび之の禁止すべき旨を仰出されて居りましたが、このとしの十二月七日には、さらに厳重に鷹狩停止の事を諸国の守護人に御発令なされ、但し全国の神社がその貢税のために鷹狩を行ふのは一向さしつかへない、と神社の御儀式を重んじ、貢税の便宜をはからしむる思召しから、特別に御除外の例をお設けになつたほどでございました。このやうに、京都の御所や、諸国の神社仏閣の事になるとお眠りからお覚めになるのでごさいましたが、あとはもう、相州さまや入道さまにお任せ切りで、御自身は、ただ、のんびりと遊び暮して居られたやうなお工合でございました。五月の合戦で御ところが全焼いたしまして、六月、七月、八月の三箇月間は、将軍家に於いては、もつぱら新造の御ところの御設計に夢中の御様子でございまして、実にしばしば工事の現場に御渡りなされ、ああでもない、かうでもないとさまざまに御工夫あそばされて、せつかく出来上りかけてゐる門を、またはじめから作り直させたり、お襖の絵のお好みもむづかしく、わざわざお使ひを京都に送り、したしく京風の襖絵を調べて来させたり、なかなかの凝り様で、相州さまも今は何事もさからはず、将軍家の御設計のとほりに新しい御ところの工事を督促なされ、その京風の御新築をかへつて物珍らしげに拝見してゐるといふやうなふうでございました。相州さまも、その頃は故左衛門尉義盛さまのお跡を襲つてこのたびは侍別当をも兼ね、いきほひ隆々たるもので、けれども決してあらはには高ぶらず、かへつて頭を低くなされて、私ども下々の者にも如才なく御愛嬌を振撒き、将軍家に対しては、また別段と、不自然に見えるくらゐに慇懃鄭重の物腰で御挨拶をなされ、将軍家もまた、以前にくらべると何かと遠慮の、お優しいお言葉で相州さまに応対なさるやうになり、うはべだけを拝見するとお二人の間は、まへにもまして御円満、お互ひにおいたはりなされ、お睦げでございまして、そのとしの七月七日に、仮御ところに於いて、合戦以来はじめての和歌御会がひらかれました時にも、めづらしく相州さまがその御会に御出席なされ、松風は水の音に似てゐるとか何とかいふ、ほんの間に合せ程度の和歌を二つ三つお作りなさつたりなど致しまして、どなたも感服なさいませんでしたが、将軍家だけはそのやうなお歌をもいちいちお取上げになり、さすがに人間の出来てゐるお方はお歌もしつかりして居られる、とまんざら御嘲弄でもなささうな真面目の御口調でおほめになりまして、なるほどさうおつしやられて見ると、相州さまのお歌は、松風は水の音にしても、また鶉が鳴いて月が傾いたとかいふ歌にしても、なんでもない景物なのに相州さまがおよみになると、奇妙に凄いものが感ぜられない事もないやうな気もいたしまして、まことに相州さまといふお人は、あやしいお人柄の方でございます。将軍家のお歌も、このとしあたりが最も真剣に御労作なされた御時期でございまして、その翌年あたりからは、御歌道にもおこたり、時たま御酒宴の御座興にたはむれのお歌をおよみになるくらゐのもので、まじめに御思案なされてお作りになる事は年に二度か三度、ほとんど数へるくらゐに少くなつてしまひました。
何事モ十年デス。アトハ、余生ト言ツテヨイ。
 その頃しきりに、おつしやつて居られまして、それは或いは御政務の事に就いておつしやつて居られたのかも知れませぬが、けれどもまた歌道に於いても、その建保元年あたりには、もうそろそろ将軍家の和歌の御研鑽も十年ちかくなつてゐたのではないでせうか。御幼少の頃より和歌に親しみ、古写本の断片などに依り少しづつ本格のお手習ひをはじめ、十四歳の頃にはすでにお傍の人たちを瞠若たらしむるほどの秀歌をおよみになつて、さらにそのとし、内藤兵衛尉朝親さまが京都よりの御土産として新古今和歌集一巻を献上なされ、しかもその和歌集には御父君、右大将家のお歌も撰載せられて居りましたので、御感激もひとしほ強く、その和歌集に就いていよいよ歌道にはげみ、御ところの風流人を召集めて和歌の御会などもおひらきになり、たまたま御気色を蒙つた御家人が、和歌一首たてまつつたところ、たちまち御宥免になつたとかいふ事さへあつたほどで、承元二年、十七歳の御時に清綱さまから相伝の古今和歌集の献上があり、末代までの重宝とおよろこびになつたのは前にも申し上げました事で、その翌年には御夢想に依つて住吉社に二十首の御詠歌を奉り、事のついでに、京極中将定家朝臣に御初学以来のお歌の中から三十首を選んで送り、ほどなく、定家卿からその三十首のお歌にそれぞれお点をつけて返進してまゐりまして、それ以来、定家卿について更に熱心に歌道にはげまれ、「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬまでも高き姿を願ひて、」などといふ定家卿のお教へに従ひ、翌々年の七月には、時ニヨリ過グレバ民ノ歎キナリ八大竜王雨止メ給ヘといふ堂々たるお歌をお作りになられ、もはや押しも押されもせぬ古今独歩の大歌人たる御品格をお示しになり、さうして、その十月には鴨の長明入道さまにお逢ひになり、稲妻の胸にひらめくが如く一瞬にして和歌の奥儀を感得なされ、それ以後のお歌はことごとく珠玉ならざるはなく、いまは、はや御年二十二歳、御自身も、このとしをもつて、わが歌の絶頂とお見極めをつけられた御様子でございまして、御詠歌の数もおびただしく、深夜、子の剋、丑の剋まで御寝なさらずにお歌を御労作なさつて居られる事も珍らしくはなく、そのやうな折にはお顔の色も蒼ざめ、おからだも透きとほるやうなこの世のお方でない不思議の精霊を拝する思ひが致しまして、精霊が精霊を呼ぶとでも申すのでございませうか、御苦吟の将軍家のお目の前に、寒々した女がすつと夢のやうに立つて、私もそれは見ました、まざまざと見ました、あなやの声を発するいとまもなく、矢のやうに飛んで消え去りましたが、天稟の歌人の御苦吟の折には、このやうな不思議も敢へて異とするに足らぬのではなからうかと、身の毛もよだつ思ひに震へながらも私はそのやうに考へ直した事でございました。このとしの暮に将軍家は、あの、のちに鎌倉右大臣家集または金槐和歌集と呼ばれた古今に比類なく美しい御和歌集を御自身のお手によつて御編纂なされたのでございますが、御師匠の定家卿もその前後には、この尊くすぐれた御弟子に対してひとかたならず御助勢を申し、前年の建暦二年の九月にも筑後前司頼時さまに託して御消息ならびに和歌の御文書を将軍家に送りまゐらせ、またこのとしには、八月にいちど、十一月にいちど和歌の文書を数々御献上に相成り、殊にも十一月の御文籍は、相伝の私本の万葉集だつたので、あの承元二年に清綱さまから相伝の古今和歌集を献上せられた時よりも更に深くおよろこびの御様子に拝され、将軍家にとつては、古今和歌集も、また万葉集も、まさかはじめてお手にせられたといふわけはなく、不完全ながら写本の二、三は御所持になつて居られて前々からそのだいたいを熟知なされ、万葉集の歌に劣らぬ高い調べのお歌もずいぶん早くよりお作りになつていらつしやつたのでございますが、五月の和田合戦で御ところの文庫の書籍も大半は焼失し、お心淋しく存じて居られた折も折、定家卿から相伝の私本の万葉集が一部送られてまゐりましたのでございますから、そのおよろこびの深さもお察し出来るやうな気が致します。新しい御ところも御落成いたし、八月二十日にさかんな御儀式を以て御入りなされ、御ところの御設計に就いての御熱中も一段落と思ふと、こんどはこの和歌に最後の異常の御傾倒がはじまりまして、御政務は、やはりひと任せ、日夜、お歌の事ばかり御案じなされて居られる御様子で、お奥の女房たちを召集めて和歌の勝負をお言ひつけになるとすぐにまた、女人には和歌がわからぬ、とおつしやつて、武州さま、修理亮さま、出雲守さま、三浦左衛門尉さま、結城左衛門尉さま、内藤右馬允さま等のれいの風流武者の面々を引連れて火取沢辺に秋草を御興覧においでになり、たいへんの御機嫌で御連歌などをなされ、相州さまこそ、何もおつしやらない御様子でごさいましたが、数ある御家人の中には、その頃の将軍家の御行状に眉をひそめて居られたお方もあつた御様子で、たうとうそのとしの九月二十六日には、短慮一徹の長沼五郎宗政さまが、御ところに於いて大声を張り挙げ思ふさま将軍家の悪口を申し上げたといふ、まことに気まづい事さへ起つてしまひました。故畠山次郎重忠さまの御末子、阿闍梨重慶さまが、日光山の麓に於いて浮浪の徒を集めて、謀叛をたくらんでゐるといふ知らせが九月の十九日にございまして、御ところに於いてはその日のうちに長沼五郎宗政さまを鎮圧のために御差遣に相成りましたやうで、宗政さまは、ただちに下野国さして御進発、二十六日に、重慶さまのお首をさげて御意気揚々と帰つてまゐりました。将軍家はその折すこしく御酒気だつたのでございますが、宗政さまがお首をひつさげて御参着の事をちらと小耳にはさんで御眉をひそめられ、殺せとは誰の言ひつけ、畠山重忠は、このたびの和田左衛門尉とひとしく、もともと罪なくして誅せられたる幕府の忠臣、その末子がいささか恨みを含んで陰謀をたくらんだとて、何事か有らんや、よつて先づ其身を生虜らしめ、重慶より親しく事情を聴取いたし、しかるのちに沙汰あるべきを、いきなり殺して首をひつさげて帰るとは、なんたる粗忽者、神仏も怒り給はん、出仕をさしとめるやう、と案外の御気色で仲兼さまに仰せつけに相成り、仲兼さまはそのお叱りのお言葉をそのまま宗政さまにお伝へ申しましたところが、宗政さまは、きりりと眦を決し、おそれながら、たはけたお言葉、かの法師を生虜り召連れまゐるは最も易き事なりしかど、すでに叛逆の証拠歴然、もしこの者を生虜つて鎌倉に連れ帰らば、もろもろの女房、比丘尼なんど高尚の憂ひ顔にて御宥免を願ひ出づるは必定、将軍家に於いても、ただちにれいの御慈悲とやらのお心を用ゐてかかる女性の出しやばりの歎願を御聴許なさるは、もはや疑ひも無きところ、かくては謀逆もさしたる重き犯罪にあらず、ひいては幕府の前途も危ふからんかと推量仕つて、かくの如くその場を去らしめず天誅を加へてまゐりましたのに、お叱りとは、なあんだ、こんなふうでは今後、身命を捨て忠節を尽す者が幕府にひとりもゐなくなります、ばかばかしいにも程がある、そもそも当将軍家は、故右大将家の質素を旨とし武備を重んじ、勇士を愛し給ひし御気風には似もやらず、やれお花見、やれお月見、女房どもにとりまかれ、あさはかのお世辞に酔ひしれて和歌が大の御自慢とはまた笑止の沙汰、没収の地は勲功の族に当てられず、多く以て美人に賜はる、たとへば、榛谷四郎重朝の遺跡を五条の局にたまはり、中山四郎重政の跡を以て、下総の局にたまはるとは、恥づかし、恥づかし、いまにみるみる武芸は廃れ、異形の風流武者のみ氾濫し、真の勇士は全く影をひそめる事必至なり、御気色を蒙り、出仕をさしとめられて、かへつて心がせいせい致しました、と日頃の鬱憤をここぞと口汚く吐きちらし、肩をゆすつて御退出なさいましたさうで、お部屋が離れてゐるとはいへ、たいへんな蛮声でございましたから、将軍家のお耳元にも響かぬ筈はなく、お傍の私たちはひとしく座にゐたたまらぬ思ひではらはら致して居りましたが、さすがに将軍家の御度量は非凡でございました。
武将ハ、アレデヨイノデス。
 とまじめなお顔でおつしやつて、さうして何事もなかつたやうに静かに御酒盃をおふくみになられました。その後まもなく、宗政さまの御出仕をもお許しに相成りましたが、けれども、将軍家に於いては以前と少しも変らず、やつぱり和歌管絃に御耽溺なされ、宗政さまの身命を賭しての罵言も、一向にお気にとめていらつしやらない御様子で、ただ、御朝廷と神仏に関する事になると、にはかに別人の如く凜乎たる御態度をお示しになり、それからもう一つ、あの、さみだれの降る日に、つぎつぎと討たれて消えた和田氏御一族郎党の事は、さめても寝ても、瞬時もお心から離れなかつたらしく、そのとしの十二月三日には、たうとう将軍家御自身で寿福寺へお参りになり、故左衛門尉義盛さまをはじめその御一族郎党の御冥福をお祈りになつたほどでございました。

建保二年甲戌。二月大。一日、丙申、晴、亥刻地震。四日、己亥、晴、将軍家聊か御病悩、諸人奔走す、但し殊なる御事無し、是若し去夜御淵酔の余気か、爰に葉上僧正御加持に候するの処、此事を聞き、良薬と称して、本寺より茶一盞を召進ず、而して一巻の書を相副へ、之を献ぜしむ、茶徳を誉むる所の書なり、将軍家御感悦に及ぶと云々。七日、壬寅、晴、寅剋大地震。十四日、己酉、霽、将軍家烟霞の興を催され、杜戸浦に出でしめ給ふ、漸く黄昏に及びて、明月の光を待ち、孤舟に棹して、由比浜より還御と云々。
同年。三月小。九日、甲辰、晴、晩に及びて、将軍家俄かに永福寺に御出、桜花を御覧ぜんが為なり。
同年。四月大。三日、丁酉、晴、亥剋大地震。
同年。六月大。三日、丙申、霽、諸国炎旱を愁ふ、仍つて将軍家、祈雨の為に八戒を保ち、法花経を転読し給ふ。五日、戊戌、甘雨降る、是偏に将軍家御懇祈の致す所か。十三日、丙午、関東の諸御領の乃貢の事、来秋より三分の二を免ぜらる可し、仮令ば毎年一所づつ、次第に巡儀たる可きの由、仰出さると云々。
同年。八月小。七日、己亥、甚雨洪水。廿九日、辛酉、陰、去る十六日、仙洞秋十首の歌合、二条中将雅経朝臣写し進ず、将軍家殊に之を賞翫せしめ給ふと云々。
同年。九月大。廿二日、癸未、霽、丑剋大地震。
同年。十月小。六日、丁酉、晴、亥剋大地震。十日、辛丑、霽、申刻甚雨雷鳴。
同年。十一月大。廿五日、乙酉、晴、六波羅の飛脚到著して申して云ふ、和田左衛門尉義盛、大学助義清等の余類洛陽に住し、故金吾将軍家の御息を以て大将軍と為し、叛逆を巧むの由、其聞有るに依りて、去る十三日、前大膳大夫の在京の家人等、件の旅亭を襲ふの処、禅師忽ち自殺す、伴党又逃亡すと云々。
同年。十二月大。四日、甲午、晴、亥剋、由比浜辺焼亡す、南風烈しきの間、若宮大路数町に及ぶ、其中間の人家皆以て災す。
建保三年乙亥。正月小。八日、戊辰、霽、伊豆国の飛御参ず、申して云ふ、去る六日、戌剋、入道遠江守時政、北条郡に於て卒去す、日来腫物を煩ひ給ふと云々。十一日、辛未、晴、若宮辻の人家焼亡す、酉戌両時の間、廿余町悉く灰燼と為る。
同年。二月大。廿四日、癸丑、晴、戌刻、雷電数声。
同年。三月大。五日、甲子、快霽、将軍家、花を覧んが為、三浦の横須賀に御出。廿日、己卯、今日仰下されて云ふ、京進の貢馬のことは、其役人面々に、逸物三疋を以て、兼日用意せしめ、見参に入る可し、選び定むることは、御計ひ有る可きなりと云々。
同年。六月小。廿日、戊寅、今夜子剋、御霊社鳴動す、両三度に及ぶと云々。
同年。七月大。六日、癸巳、晴、坊門黄門、去る六月二日仙洞歌合の一巻を将軍家に進ぜらる、是内々の勅諚に依りてなりと云々。
同年。八月小。十八日、乙巳、甚雨、午剋大風、鶴岳[#「鶴岳」は底本では「鶴岡」]八幡宮の鳥居顛倒す。十九日、丙午、陰、地震矣。廿一日、戊申、晴、巳剋、鷺、御所の西侍の上に集る、未剋地震と云々。廿二日、己酉、霽、地震、鷺の怪の事、御占を行はるるの処、重変の由之を申す、仍つて御所を去つて、相州の御亭に入御、亭主は他所に移らると云々。
同年。九月小。六日、壬戌、晴、丑刻大地震。八日、甲子、陰、寅刻大地震。十一日、丁卯、晴、寅刻大地震、未剋又少し動ず。十三日、己巳、晴、未剋地震。十四日、庚午、晴、酉剋地震、戌剋地震、同時に雷鳴す。十六日、壬申、晴、卯剋地震。十七日、癸酉、晴、戌剋三度地震。廿一日、丁丑、晴、連々の地震に依りて、御祈を行はる。廿六日、壬午、亥刻、雷鳴数声、降雹の大なること李子の如し。
同年。十月大。二日、丁亥、晴、寅刻地震。
同年。十一月小。八日、癸亥、快晴、将軍家相州御亭より御所に還御、鷺の怪に依りて、御旅宿已に七十五日を経訖んぬ。廿五日、庚辰、幕府に於て、俄かに仏事を行はしめ給ふ、導師は行勇律師と云々、是将軍家去夜御夢想有り、義盛已下の亡卒御前に群参すと云々。
同年。十二月大。十五日、己亥、晴、亥刻地震。十六日、庚子、霽、終日風烈し、連々の天変等の事、将軍家殊に御謹慎有る可きの変なりと云々。
建保四年丙子。正月小。十七日、辛未、霽、将軍家の御持仏堂の御本尊、運慶造り奉り、京都より渡し奉らる、開眼供養の事有る可し、信濃守行光奉行として其沙汰有り。廿八日、壬午、晴、姶めて御本尊を御持仏堂に安置す、即ち供養の儀有り。
同年。三月大。七日、庚申、海水色を変ず、赤きこと紅を浸せるが如しと云々。廿五日、戊□、御台所厳閤の薨去に依りて、信濃守行光の山庄に渡御、密儀なりと云々。
同年。四月小。九日、壬辰、常の御所の南面に於て、終日諸人の愁訴を聴断し給ふ、各藤の御壺に候して、子細を言上す。
同年。五月大。廿四日、丙子、将軍家山内辺を歴覧せしめ給ふ、期せざるの間、諸人追つて馳せ参ると云々。
同年。六月大。八日、庚□、晴、陳和卿参著す、是東大寺の大仏を造れる宋人なり、彼寺供養の日、右大将家結縁し給ふの次に、対面を遂げらる可きの由、頻りに以て命ぜらると雖も、和卿云ふ、貴客は多く人命を断たしめ給ふの間、罪業惟重し、値遇し奉ること其憚有りと云々、仍つて遂に謁し申さず、而るに当将軍家に於ては、権化の再誕なり、恩顔を拝せんが為に参上を企つるの由、之を申す、即ち筑後左衛門尉朝重の宅を点ぜられ、和卿の旅宿と為す、先づ広元朝臣をして子細を問はしめ給ふ。十五日、丁酉、晴、和卿を御所に召して、御対面有り、和卿三反拝し奉り、頗る涕泣す、将軍家其礼を憚り給ふの処、和卿申して云ふ、貴客は、昔宋朝医王山の長老たり、時に吾其門弟に列すと云々、此事、去る建暦元年六月三日丑剋、将軍家御寝の際、高僧一人御夢の中に入りて、此趣を告げ奉る、而して御夢想の事、敢て以て御詞を出されざるの処、六ヶ年に及びて、忽ち以て和卿の申状に符合す、仍つて御信仰の外他事無しと云々。
同年。閏六月小。十四日、丙寅、広元朝臣、今月一日大江姓に遷り訖んぬ。
同年。九月小。十八日、戊戌、相州広元朝臣を招請して仰せられて云ふ、将軍家大将に任ずる事、内々思食し立つと云々、右大将家は、官位の事宣下の毎度、之を固辞し給ふ、是佳運を後胤に及ばしめ給はんが為なり、而るに今御年齢未だ成立に満たず、壮年にして御昇進、太だ以て早速なり、御家人等亦京都に候せずして、面々に顕要の官班に補任すること、頗る過分と謂ひつ可きか、尤も歎息する所なり、下官愚昧短慮を以て、縦ひ傾け申すと雖も、還つて其責を蒙る可し、貴殿盍ぞ之を申されざる哉と云々、広元朝臣答申して云ふ、日来此の事を思ひて、丹府を悩ますと雖も、右大将家の御時は、事に於て下問有り、当時は其儀無きの間、独り腸を断つて、微言を出すに及ばす、今密談に預ること、尤も以て大幸たり、凡そ本文の訓する所、臣は己を量りて職を受くと云々、今先君の遺跡を継ぎ給ふ計なり、当代に於ては、指せる勲功無し、而るに啻に諸国を管領し給ふのみに匪ず、中納言中将に昇り給ふ、摂関の御息子に非ずば、凡人に於ては、此儀有る可からず、争か嬰害積殃の両篇を遁れ給はんか、早く御使として、愚存の趣を申し試む可しと云々。廿日、己亥、晴、広元朝臣御所に参じ、相州の中使と称して、御昇進の間の事、諷諫し申す、須らく御子孫の繁栄を乞願はしめ給ふ可くば、御当官等を辞し、只征夷将軍として漸く御高年に及びて、大将を兼ねしめ給ふ可きかと云々、仰せて云ふ、諫諍の趣、尤も甘心すと雖も、源氏の正統此時に縮まり畢んぬ、子孫敢て之を相継ぐ可からず、然らば飽くまで官職を帯し、家名を挙げんと欲すと云々、広元朝臣重ねて是非を申す能はず、即ち退出して、此由を相州に申さると云々。
同年。十月大。五日、甲□、将軍家、諸人の庭中に言上する事を聞かしめ給ふ。
同年。十一月小。廿四日、癸卯、晴、将軍家先生の御住所医王山を拝し給はんが為、渡唐せしめ給ふ可きの由、思食し立つに依りて、唐船を修造す可きの由、宋人和卿に仰す、又扈従の人六十余輩を定めらる、朝光之を奉行す、相州、奥州頻りに以て之を諫め申さると雖も、御許容に能はず、造船の沙汰に及ぶと云々。
同年。十二月大。一日、己酉、諸人の愁訴相積るの由、聞食すに依りて、年内に是非せしむ可きの旨、奉行人等に仰せらると云々。
 御耽溺とは申しても、下衆の者たちのやうに正体を失ふほどに酔ひつぶれ、奇妙な事ばかり大声でわめきちらし、婦女子をとらへてどうかうといふやうな、あんなものかとお思ひになると、とんでもない間違ひでございまして、将軍家に於いては、その頃お酒の量が多くなつたとは申しながら、いつも微醺の程度で、それ以上に乱酔なさるやうな事は決して無く、お膝さへお崩しにならず、さうして、女房たちを召集めておからかひになるとは言つても、ただ御上品の御冗談をおつしやつて一座を陽気に笑はせるといふくらゐのもので、あさましい御享楽をなさつて居られたわけでもないのでございますが、いやしくも征夷大将軍、武門の総本家のお方が、武芸を怠り和歌にのみ熱中し、わけもない御酒宴をおひらきになり婦女子にたはむれていらつしやる時には、御身分が御身分でもあり、ひどく目立つ事でもございますから、やつぱり御耽溺と申し上げなければならぬやうな結果になり、私たちお傍の者も、終始変らず将軍家を御信頼申し、お慕ひ申してゐながら、それでも、時たま、ふいと何とも知れず心細くなる事がございました。あくる建保二年のお正月には、れいの二所詣に御進発になり、私たちもお供を致しましたが、二月三日には、御一行無事に鎌倉へ御帰着に相成り、その夜は、お供の者のこらず御ところに参候して御盃酒を賜り、たいへん結構の御馳走ばかりつぎつぎと出て、夜の更けるにつれて飲めや歌への大騒ぎになり、将軍家も、夜明け近くまで皆におつき合ひ下され、その時ばかりは、さすがに御正座も困難に見受けられたほどにいたくお酔ひの御様子でございました。さうして、その翌る日は、お床におつきになられたきりで、ひどくお苦しみの御模様に拝され、大勢の御家人たちが続々とお見舞ひに駈けつけて、御ところにただならぬ不安の気がただよひ、けれどもその折ちやうど御加持に伺候して居られた葉上僧正さまが、その御容態の御宿酔に過ぎざる事を見てとり、お寺から或る種の名薬を取りよせて一盞献じましたところが、たちまち御悩も薄らぎ、僧正さまは頗る面目をほどこしましたが、その名薬といふのは、ただのお茶でございましたさうで、もつともその頃は、鎌倉に於いてお茶といふものは未だほとんど用ゐられてゐなかつたし、全く、珍らしかつた時代でございまして、僧正さまは、その場に於いて、その名薬のお茶である事をお明し申し、お茶の徳をほめたたへるところの書一巻をついでに献上なさいました。それは、僧正さまが御坐禅の余暇に御自身でお書きになつた御本だとか、めづらしい本をお書きになつたものだと、けげんさうにお首を傾けて居られたお方もございました。この葉上僧正栄西さまは、御承知のとほり、天平のころからの二大宗教、すなはち伝教大師このかたの天台宗と弘法大師を御祖師とする真言宗と、この二つが、だんだんと御開祖のお気持から離れて御加持御祈祷専門の俗宗になつてしまつたのにあきたらず思召され、再度の御渡宋より御帰朝以来、達磨宗すなはち禅宗といふ新宗派を御開立しようとなされて諸方を奔走し、一方、黒谷の御上人が念仏宗すなはち浄土宗を称へられたのもその頃の事でございましたが、両宗派ともそれぞれ上下の信仰を得て、たうとう南都北嶺の嫉視を招き、共にさまざまの迫害を受けられたやうでございまして、栄西さまは、鎌倉へのがれてまゐり、寿福寺を御草創なされ、建保三年六月に痢病でおなくなりなさるまで、ほとんどそこに居られまして、往年に新宗派を称へ、新智識を以て片端から論敵を説破なされた御元気は、その御晩年には、片鱗だも見受けられず、さらに大きくお悟りになつたところでもあつたのでございませうか、別段、御宗派にこだはるやうなところも無く、御加持御祈祷もすすんでなさいましたし、おひまの折には、お茶のお徳をほめたたへる御本などと、珍奇なものまでお書きあらはしになるくらゐでございましたから、私たちの眼には、ただおずるいやうな飄逸の僧正さまとしか見えませんでした。さて、将軍家に於いては、僧正さまの所謂お茶のお徳によつて、御病気がおなほりになると、すぐに、れいの風流武士の面々を召集めて、お船遊びやらお花見やらにおでかけになり、たまには、おひとりでこつそり御ところを脱け出し裏山などにおいでになつて、あとで大騒ぎをしてお捜し申す事もございましたほどで、この建保二年から三年にかけて、ほとんど連日の大地震、それに火事やら、大風やら、或いは旱魃に悩むかと思ふと、こんどは大雨洪水、また実に物凄い雷鳴もしばしばございまして、天体に於いてさへ日蝕、月蝕の異変があり、関東の人心恟々たるもので、それにつけても将軍家のそのやうな御風流の御遊興は非難せられ、この天変地異は、すべて将軍家御謹慎有るべしとの神々のお告げなりと御占ひを立てるものさへ出てまゐりまして、或いはまた、御ところのお屋根におびただしい鷺の群が降り立つたのを見て、これただ事に非ず、御ところに重変起るの兆なりといふおそろしい予言をする者もございまして、その時には、将軍家は相州さまにすすめられて御ところをのがれ、相州さまのお宅にお移りになり、それから七十五日間も相州さまのお宅で窮屈な御暮しをなさつたのでございましたが、重変も何も起りませんでしたので、また御ところへお帰りになつたなどといふ、何がなんだか、わけのわからぬ騒ぎもございましたほどで、これといふのも、すべて、将軍家の御趣味に御惑溺の御日常が、ひどく皆の目ざはりになつてゐるせゐではなからうかとお傍の私たちにも思はれました。けれども、呆けてお遊びになつてゐるやうでも、やはり、将軍家のお力でなければ、どうしても出来ない事もございまして、建保二年の五月から六月にかけての大旱魃の折には、鶴岳宮に於いて諸僧が大勢で連日雨乞の御祈を致しましたが、わづかに白雲が流れて幽かな遠雷が聞えただけで、一滴の雨も降りませんでしたのに、六月三日、将軍家が御精進御潔斎なされて法華経を一心に読誦いたしましたところが、翌朝から、しとしとと慈雨が降りはじめまして、むかし皇極女帝の御時、天下炎旱に悩み、諸方に於いて雨乞の祈祷があつたけれども何の験も無きゆゑ、時の大臣、蘇我蝦夷みづから香炉を捧げて祈念いたしましたさうで、それでも空はからりと晴れ渡つたままで、一片の白雲もあらはれず、蝦夷は大いに恥ぢて、至尊に御祈念下されるやうお願ひ申しましたので、すなはち玉歩を河辺に運ばせられ、四方を御拝なされるや、たちまち雷電、沛然と大雨あり、ために国土の百穀豊稔に帰したとか、一臣下たる将軍家の事などは、もちろんその尊い御治蹟とは較べものにも何も、もつたいなくて出来るものでございませぬが、純正無染の心で祈願いたしたならば必ずや天に通ずるものがあるらしく、それは不徳の僧侶や蝦夷大臣などには出来ぬ道理で、風流の御遊興に身をやつして居られても、やはり将軍家には高い御品性がそなはつていらつしやるのだらうと、急に御評判がよろしくなつて、同じ月の十三日には、将軍家がその頃の頻々たる天変地異に依る関東一帯の不作をお見越しなされて、年貢の減免を仰出され、いよいよ御高徳を讃嘆せられ、また、時々は、ふいと思ひ出されたやうに前庭に面してお出ましなされ、さまざまの下民の直訴に、終日、黙々とお耳を傾けて居られる事などもございましたけれども、しかし、すぐにまたお遊びの御計画をおはじめになり、もとはお口の重いお方でございましたのに、やや御多弁になられたやうでもあり、お顔も以前にくらべてすこしお若くなつたやうにさへ見受けられました。いつかお傍の者が、このごろめつきりお太りになられたやうに拝せられますが、と申し上げたら、
男ハ苦悩ニヨツテ太リマス。ヤツレルノハ、女性ノ苦悩デス。
 と御冗談めかしておつしやいましたけれども、或いは、御陽気に見えながらその御胸中には深い御憂悶を人知れず蔵して居られたのでもございませうか、その辺の事は私どもには推量も及ばぬところでございまして、
ナンニモ、スルコトガナイ。
 と幽かにお笑ひになつておつしやつて居られた事もございますし、また、
政所、侍所ナドト等シク、都所トイフモノヲ設ケタラドウカ。ソノ都所ノ別当ニダケハ、ナツテモヨイ。
 とお酒のお席で誰にともなくおつしやつて、おひとりで大笑ひなさつて居られた事もございました。派手な京風ばかりを真似るゆゑ、都所別当が御適任といふ御自身をおからかひの意味でおつしやつたのかも知れませぬが、私たちの日常拝しましたところでは、決してそんな事だけではなく、別のもつと厳粛な意味に於いても、その都所別当が首肯できる気持でございました。まことに、当時、御朝廷との御交通は、ただこの御方おひとりに依つてのみなされてゐたやうな御有様でございまして、建保三年の七月には、おそれおほくも仙洞御所より内々の御勅諚に依つて、仙洞歌合一巻が将軍家に下し送られ、将軍家もまた、そのとしには、京都の御所へ御進上仕るべき名馬の撰定に当つて、お役人の面々に、それぞれ逸物三匹づつを用意せしめ、御自身いやしき伯楽の如くお手づから馬の口の中まで綿密にお調べになつたくらゐで、建保五年の七月から八月にかけての仙洞御所の御悩の折には、すぐさまお見舞ひの使節を上洛せしめ、荒駒三百三十頭を献上いたし、また御修法を仰出され院の御悩御平癒を祈念なされるなど、その御朝廷に対し奉る恭順の御態度は、万民の手本とも申し上げたいほどで、鎌倉に御下向の御勅使をおもてなしなさるに当つても、誠心敬意を表し、莫大の贈物を捧げ、ひたすら忠君の御赤心を披露なされ、かの御母君尼御台所さまが、建保六年に二度目の熊野詣をなさつてそのついでに京都にもお立寄りになり、しばらく京に御滞在中、院の特別のお思召しにより尼御台さまを従三位に叙せしむべき由の宣下がその御旅亭に達し、さらに、かしこくも仙洞御所御直々の御対面をも賜ふべき由仰下され、その破格の御朝恩に感泣いたすべきところを尼御台さまは、田舎の薄汚い老尼でございます、竜顔に咫尺し奉るなど、とんでもない、どうかその儀はおゆるし下されと申して、京都の諸寺参拝のおつもりも何も打棄て、即時に鎌倉さして御発足になつたとか、そのやうな依怙地な不敬の御態度などに較べると、実の御母子でありながら、まさに雲泥の差がございまして、院も、このお若い将軍家の一途に素直な忠誠の念をおいつくしみ下され、官位の陞叙もすみやかに、建仁三年九月七日叙従五位下、任征夷大将軍、同十月二十四日任右兵衛佐、元久元年正月七日叙従五位上、三月六日任右近少将、同二年正月五日正五下、同二十九日任右中将、兼加賀介、建永元年二月二十二日叙従四下、承元々年正月五日従四上、同二年十二月九日正四下、同三年四月十日叙従三位、五月二十六日更任右中将、建暦元年正月五日正三位、同二年十二月十日従二位、建保元年二月二十七日正二位、このころから将軍家に於いても官位の御昇進を無邪気にお楽しみなされて除書をお待兼ねのあまり京都へ御催促なされる事さへございまして、同じく建保四年の六月二十日には、わづか御二十五歳のお若さを以て権中納言に任ぜられ、七月二十日には左近中将を兼ね、同六年正月十三日には任権大納言、三月六日にいたつて左近大将、十月九日、内大臣、十二月二日、右大臣。然して、左近大将の時、ならびに右大臣の時にはその拝賀の御儀式に用ゐるべき御装束御車以下さまざまの御調度一切、仙洞御所より鎌倉へ送り下され、その御寵恩のほどはまことに量り知るべからざるもので、下司無礼の輩は之に就いてもまた、けしからぬ取沙汰を行ひ、院に於かせられては将軍家を官打ちに致される御所存ではなかつたらうか、と愚かしき疑ひなどをさしはさみまして、御承知でもございませうが、もともとそれに価せぬ身分のものが、にはかに高位高官に昇ると、その官位に負けて命を失ふとも言はれて居りますから、憎むべき者の官位を急速に進めてその一命を奪はんと図る事を官打ちと申しますのださうで、その官打ちの御所存ではなかつたらうかといふつまらぬ疑ひを抱いて心配顔をしてゐた人も無いわけではなかつたのでございまして、けれどもそれは、仙洞御所と将軍家との間に於いて、つねに天真爛漫の麗はしい君臣の情が交流してゐたといふ事実をご存じないからであつて、共にすぐれた御歌人ではあり、承久元年の正月に将軍家があのやうな御最期を遂げられ、院におかれては内蔵頭忠綱さまを御使として鎌倉へ御差遣に相成り、御叡慮殊のほか御歎息の由を申伝へしめあそばしましたさうで、しかも将軍家がおなくなりになると直ちに、あの不吉の兵乱がはじまりましたところから考へても、将軍家が御風流にのみ身をおやつしになつて居られるやうに見えながら、つねに御朝廷と幕府の間に立つて、いかにお心をくだかれて居られたか、真に都所の大別当であらせられたといふ事が、更にはつきりとわかつて来るやうな気が致します。けれども、当時、将軍家に対する御ところ内外の誤解は甚しく、建保四年の九月に、広元入道さまは、しさいらしく将軍家に御諫言を試み、かへつて大いに恥をおかきになつたなどといふ事もございました。九月十八日に、相州さまがそのお宅に広元入道さまをこつそりお招きになり、どうも困りました、いや将軍家の事ですが、和歌管絃の御風流にも、もういい加減厭きて来たと見えて、このごろはまた、官位の御陞進に御熱中で、しばしば京都へ除書の御催促さへなさいますやうで、実にどうも、みつともなく、あれでは京都の御所のお方たちも呆れてゐるでせう、幕府の威信を保つ上からも、面白くない事です、故右大将家はさすがに御聡明で官位の宣下のある度毎に固く御辞退申上げたもので、これはここだけの話ですが、正二位も大納言も、幕府の私どもにはいそいで頂戴の必要もなく、名よりは実ですから、征夷大将軍一つでたくさんな筈なのに、どういふものですか、当代は、むやみに京都をお慕ひになつて、以前はこれほどでも無かつたのですが、京都の御所の事となると何でもかでも有難くてたまらない様子で、こんな工合では必ず御所のお方たちに足もとを見すかされ、結局、幕府があなどられ、たいへんな事になります、どうもこのたびの御道楽は、たちが悪い、私から将軍家に申し上げてもいいのですが、どうも私は口不調法の短気者と来てゐるので、まづい事を言つて、ただ将軍家を怒らせてしまつてもつまらないし、ここは一つ、あなたのれいの上品な遠廻しの御弁舌におたよりしたいところのやうです、とにこりともせず、広元入道さまのお顔を射るやうにまつすぐに見つめながら申しまして、入道さまは狼狽の気味、いや恐縮です、とおつしやつて二つ三つ空咳をなさつて、その事に就いては、と大袈裟に膝をすすめ、私も日頃ひとしれず悩んでゐない訳ではございませんでした、とやつぱり煮え切らないやうな言ひ方で、まことに之は困つたやうな事でございまして、故右大将家に於いては、いやしくも京都に関する事ならば、この京育ちの私にいちいち御下問がございまして、私も及ばずながら何かと愚見を開陳いたしたものでございましたが、当代に於いては、さつぱり私に御下問なさいません、さうして御自分のお考へだけでどしどし京と御交通なさいますので、私は、ただお傍ではらはらして拝見してゐるばかりでございましたところへ持つて来て、今日のあなたのお言葉、いや有難う存じました、よろしうございます、必ずおいさめ申しませう、ただし之は、とふいとお声を落して、お首を傾け、どうしたものでございませう、あなたの御使として御諫言申し上げた方が、ききめもよろしいかと存ぜられますが、とれいの御責任をおのがれになる御工夫、相州さまは、平気でうなづき、ここに御密談がまとまつたやうな次第で、もちろん之は私が、のちにいろいろの人から聞いて、たぶんかうでもあつたらうかと思はれるままにお話申し上げたのでございますから、その辺はよろしく御斟酌の程をお願ひ申し上げます。さて、その翌々日、入道さまは相州さまからの御使として御前に参り、いたづらに官位をお望みなさる事のよろしからざる理由を、なかなか美事に御申述べに相成りました。日頃あいまいの言ひ方ばかりしていらつしやる入道さまには似合はず、堂々たる御言論で、まづ故右大将家が、あれほどの大功をお立てになりながらも佳運を子孫に残さうといふ思召しからその御一代に於いては官位を望まず、ただ征夷大将軍たるを以て満足して居られたといふ事から説き起し、当代に於いては、さしたる勲功も無くして既に中納言中将に昇り給ふ、かかる事例は摂関の御子息の場合に於いてのみ見受けられる事で、それ以外の者には許されるものではないのでございます、このやうな無理をあくまでも押して行きましたならば、或いは、わざはひその身に及ぶかも知れない、もし御子孫の余栄を願ふおつもりがあつたならば、須らく御当官を辞し、御父君の如くただ征夷大将軍を以て足れりとなし、漸く御高年に及びて然るべき官位を拝受なされたはうがよろしいかと存じます、と淀みなく巧みに諷諫申しましたけれども、将軍家は爽やかに御微笑なされ、
官位ヲ望ンデワルイ理由ハ他ニモアラウ。子孫ノタメトハ唐突デス。子孫ハ、ドコニモ居リマセヌ。
 とれいの御冗談めかしておつしやいましたので、入道さまも拍子抜けがした様子で、ぼんやり将軍家のお顔を見上げて、何もおつしやらずに、やがて静かに一礼して、そのままあつけなく御退出に相成りました。けれども、この時の将軍家の、子孫は無い、といふお言葉が、それは別段あやしむにも足らぬ事で、将軍家にはお子さまも無いし、軽く入道さまをおからかひになつたお言葉にちがひないのでございますが、それでも、どうも奇妙に私どもの胸に悲しく響いて、めつさうもない不吉な御予言のやうにさへ感ぜられ、すべて私たちの愚かな気の迷ひにきまつてゐるとは知りながらも、それから三年目のお正月に、あんな恐しい事が起つてみますると、やつぱり、この時の将軍家のお言葉をも不思議の一つに数へ上げたいやうな気がしてまゐりますのでございます。渡宋の御計画を仰出されたのも、このとしの事でございまして、この御計画も将軍家にとつては別に深い意味も無く、たまたまその頃、宋人の陳和卿が鎌倉へまゐつて居りまして、陳和卿は造船も巧みとお聞及びになつて、ふいと渡宋を思ひ立つた御様子で、私ども貧しい身上の者にとつてこそ大船を作り宋に渡るといふのは、とても企て及ばぬ事でございますが、いやしくも関東の大長者とも言はれる御身分のお方にとつては、別段、不自然の御計画ではなく、おとしのお若いうちに変つた土地を御覧になつて来るのも、なかなか有益の事とも思はれますし、かねがね将軍家の御傾倒申上げてゐる、あの厩戸の皇子さまなどは、その六百年も前にもう、隋と御交通なさつて居られた程でございまして、また鎌倉の寿福寺の僧正さまだつて二度も宋へ行つて来られたお方ですし、無学の田舎者が、ただ遠い遠い唐天竺を夢見てゐるのとは違つて、将軍家のやうに広く御学問なさつて居られると、渡宋もさしたる難事でないと御明察なされ、お気軽に御計画なされたのではなからうかと、私などには思はれましたが、これがまた、幕府の御視界の狭いお方たちには、ほとんど気違ひ沙汰と思はれたらしく、実に烈しい反対がございまして、或る者は、将軍家が北条家の圧迫に堪へかねて鎌倉からのがれて、さうしてあてもなく海上をさまよひ歩き果ては自殺でもなさる気であらうと言ひ、或る者は、宋に渡ると見せて実は京都へ行き上皇さまの御軍勢をこの大船にお乗せ申して北条家討伐のために再び鎌倉へひきかへして来るおつもりに違ひ無いと言ふし、また或る者は、こんな事をして幕府にむだなお金を使はせ幕府も将軍家も北条家も何もかもみんな一緒に倒れるやうに仕組んで、以て上皇さまへの最後の忠誠の置土産になさらうといふ深いお考へがあるのかも知れないと言ひ、また或る者は、なあに、すねてゐるのさ、渡宋なんて、でたらめだよと言ひ、また、いやいや、そのやうにただ悪くばかり推量するものではない、これはやはり、かねてあこがれの宋の医王山に御参詣なさるための渡宋で、その他には何の御異図もないのだ、まことに将軍家の御信仰の篤いこと、恐れいるばかりだ、などと妙な感懐をもらす者もありまして、その評定のうるさかつたこと、まるで、近日また鎌倉に大合戦でも起るやうな騒ぎ方でございました。けれども、さすがに相州さま、入道さま、また尼御台さまに於いてはお考へも慎重で、同じ反対をするにしても、そのやうな紛々たる諸説の如く浅はかな疑念を抱いて反対なさるのではなく、尼御台さまは、やつぱり生みの母御らしく、だいいちに将軍家の御健康を御案じなされて、この御計画はおやめになるやう仰出され、将軍家はそれにお答して、なに、永くてたつた一年で帰つて来ます、六百年もむかしの厩戸の皇子さまの頃だつて気楽に隋と往来をしてゐたものです、御心配には及びません、と事もなげにおつしやつてお聞きいれの色は無く、また相州さま、入道さまがそろつてお諫め申し、
「たとひ一年間でも、将軍家が幕府をお留守になさるとは、先例の無い事で、おだやかでございません。」
タツタ一年ノオ留守番モデキヌヤウデハ、重臣ノ甲斐ガアリマセヌ。
「どのやうな御資格で御渡宋なさるのでございませうか。」
日本ノ旅人デス
「案内役が陳和卿では不安でございます。」
知ツテヰマス。異人ハタヨルベカラズ、就イテ少シク学ブダケデス。
 取りつくしまも無く、相州さまと入道さまは互ひにお顔を見合せて溜息をおつきになるばかりのやうでございました。将軍家も未だ二十五歳、前にも申上げたとほり、お若いうちに異国に渡り、その御見聞をおひろめになられるのは決して悪い事ではなく、たつた半歳か一箇年のお留守番は相州さまにしても入道さまにしても出来ぬといふわけはございませんし、それは京都へおいでになり一年も二年も御滞在になつて京都の御所のお方たちと共鳴なさつたりなどするよりは、幕府にとつても安全の事ではあり、相州さまたちは、このたびの外遊の御計画は、あの官位陞進の御道楽に較べると、まだしも、たちがいいとお思ひになつてゐたやうでもございましたが、しかし、あの陳和卿といふ人物を信頼する気にはどうしてもなれなかつた御様子で、あの者が案内役をつとめるといふならば、この御計画にはあくまでも反対しなければならぬ、といふお考へのやうに見受けられました。この陳和卿といふのは甚だ不思議な人物で、異国の人の気持といふものは、私どもにはなかなかわかりにくいものでございますが、この人は建保四年の六月にひよつこり鎌倉へまゐりまして、当将軍家は御仏のお生れ変りでいらつしやると奇妙な事を言ひふらして歩きましたさうで、やがて将軍家のお耳にもはひり、かねて将軍家御尊崇の厩戸の皇子さまは、たしかに御神仏の御化身だつたさうでございますし、そのやうな事からも興をお覚えになつたのでございませうか、十五日には、和卿を御ところに召して御対面に相成りました。
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