右大臣実朝
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著者名:太宰治 

 胤長さまのお屋敷は、さらに左衛門尉義盛さまからお取上げに相成り、相州さまがあづかる事になつて、和田さま御一族がそのお屋敷に移り住んで居られたのを、相州さまの御家来衆が力づくで追ひ立てたとか、左衛門尉義盛さまは悲憤の涙を流して、長生きはしたくないもの、さきに上総の国司挙任の事を再三お願ひ申し、しばらく待てとの将軍家よりの内々のお言葉もあり、慎んで吉報をお待ちしてゐたのに、一年待ち、二年待ち、三年待つても音沙汰無きゆゑ、さつぱりと諦らめて一昨年の暮、かの陳情書を御返却たまはるやう四郎兵衛尉をして大官令にお取りなしのほどをお願ひ申し上げさせたところ、将軍家に於いては、そのうち、よきに取りはからふつもりであつたのに、いままた勝手に款状の返却を乞ふとは、わがままの振舞ひ、と案外の御気色の仰せがあつたとか大官令よりの御返辞、思へばあの頃より、この左衛門尉のする事なす事くひちがひ、さきほどは一族九十八人、御ところの南庭に於いて未聞の大恥辱を受け、忍ぶべからざるを忍んでせめて一つ、胤長の屋敷なりともと望んで直ちに御聴許にあづかり、やれ有難や少しく面目をとりかへしたぞと胸撫でおろした途端に、このたびの慮外の仕打ち、あれと言ひ、これと言ひ、幕府に相州、大膳大夫の両奸蟠踞するがゆゑなり、将軍家の御素志いかに公正と雖も、左右に両奸の侍つてゐるうちは、われら御家人の不安、まさに深淵の薄氷を踏むが如きもの、相州の専横は言ふもさらなり、かの大膳大夫に於いても、相州または、さきの執権時政公のかずかずの悪事に加担せざるはなく、しかも世の誹謗は彼等父子にのみ集めさせておのれは涼しい善人の顔でもつぱら一家の隆盛をはかり、その柔佞多智、相州にまさるとも劣らぬ大奸物、両者を誅すべきはかねて天下の御家人のひとしくひそかに首肯してゐるところ、わが一族の若輩の切歯扼腕の情もいまは制すべきではない、老骨奮起一番して必ずこの幕府の奸を除かなければならぬ、といふやうな、悲壮にも、また一徹の、おそろしい御決意をここに於いて固められたのだと、のちのちの取沙汰でございました。

同年。同月。七日、戊寅、幕府に於て、女房等を聚めて御酒宴有り、時に山内左衛門尉、筑後四郎兵衛尉等、屏の中門の砌に徘徊す、将軍家簾中より御覧じ、両人を御前の縁に召して、盃酒を給はるの間、仰せられて曰く、二人共に命を殞すこと近きに在るか、一人は御敵たる可し、一人は御所に候す可き者なりと云ふ、各怖畏の気有りて、盃を懐中して早出すと云々。廿日、辛卯、南京十五大寺に於て、衆僧を供養し、非人に施行有る可きの由、将軍家年来の御素願なり、今日京畿内の御家人等に仰せらると云々。廿七日、戊寅、霽、宮内兵衛尉公氏、将軍家の御使として、和田左衛門尉の宅に向ふ、是義盛用意の事有るの由聞食すに依りて、真実否を尋ね仰せらるるの故なり、晩景、また刑部丞忠季を以て御使と為し、義盛の許に遣はさる、世を度り奉る可きの由、其聞有り、殊に驚き思食す所なり、先づ蜂起を止め、退いて恩裁を待ち奉る可きなりと云々。廿九日、庚辰、霽、相模次郎朝時主、駿河国より参上す、将軍家の御気色並びに厳閤の義絶にて、彼国に籠居するの処、御用心の間、飛脚を以て之を召さると云々。
同年。五月小。二日、壬□、陰、筑後左衛門尉朝重、義盛の近隣に在り、而るに義盛の館に軍兵競ひ集る、其粧を見、其音を聞きて戎服を備へ、使者を発して事の由を前大膳大夫に告ぐ、時に件の朝臣、賓客座に在りて、杯酒方に酣なり、亭主之を聞き、独り座を起ちて御所に奔り参ず、次に三浦平六左衛門尉義村、同弟九郎右衛門尉胤義等、始めは義盛と一諾を成し、北門を警固す可きの由、同心の起請文を書き乍ら、後には之を改変せしめ、兄弟各相議りて云ふ、早く先非を飜し、彼の内議の趣を告げ申す可しと、後悔に及びて、則ち相州御亭に参入し、義盛已に出軍の由を申す、時に相州囲碁の会有りて、此事を聞くと雖も、敢て以て驚動の気無く、心静に目算を加ふるの後起座し、折烏帽子を立烏帽子に改め、水干を装束きて幕府に参り給ふ、御所に於て敢て警衛の備無し、然れども両客の告に依りて、尼御台所並びに御台所等営中を去り、北の御門を出で、鶴岳の別当坊に渡御と云々、申刻、和田左衛門尉義盛、伴党を率ゐて、忽ち将軍の幕下を襲ふ、百五十の軍勢を三手に相分け、先づ幕府の南門並びに相州の御第、西北の両門を囲む、相州幕府に候せらると雖も、留守の壮士等義勢有りて、各夾板を切り、其隙を以て矢石の路と為して攻戦す、義兵多く以て傷死す、次に広元朝臣亭に、酒客座に在り、未だ去らざる砌に、義盛の大軍競ひ到りて、門前に進む、其名字を知らずと雖も、已に矢を発ちて攻め戦ふ、酉剋、賊徒遂に幕府の四面を囲み、旗を靡かし箭を飛ばす、朝夷名三郎義秀、惣門を敗り、南庭に乱れ入り、籠る所の御家人等を攻め撃ち、剰へ火を御所に放ち、郭内室屋一宇を残さず焼亡す、之に依りて将軍家、右大将軍家の法花堂に入御、火災を遁れ給ふ可きの故なり、相州、大官令御共に候せらる、凡そ義盛啻に大威を摂するのみに匪ず、其士率一以て千に当り、天地震怒して相戦ふ、今日の暮より終夜に及び、星を見るも未だ已まず、匠作全く彼の武勇を怖畏せず、且は身命を棄て、且は健士を勧めて、調禦するの間、暁更に臨みて、義盛漸く兵尽き箭窮まり、疲馬に策ちて、前浜辺に遁れ退く。三日、癸卯、小雨灑ぐ、義盛粮道を絶たれ、乗馬に疲るるの処、寅剋、横山馬允時兼、波多野三郎、横山五郎以下数十人の親昵従類等を引率し、腰越浦に馳せ来るの処、既に合戦の最中なり、仍つて其党類皆蓑笠を彼所に棄つ、積りて山を成すと云々、然る後、義盛の陣に加はる、義盛時兼の合力を待ち、新覇の馬に当るべし、彼是の軍兵三千騎、尚御家人等を追奔す、義盛重ねて御所を襲はんと擬す、然れども若宮大路は、匠作、武州防戦し給ひ、町大路は、上総三郎義氏、名越は、近江守頼茂、大倉は、佐々木五郎義清、結城左衛門尉朝光等、各陣を張るの間、通らんと擬するに拠無し、仍つて由比浦並びに若宮大路に於て、合戦時を移す、凡そ昨日より此昼に至るまで、攻戦已まず、軍士等各兵略を尽すと云々、酉剋、和田四郎左衛門尉義直、伊具馬太郎盛重の為に討取らる、父義盛殊に歎息す、年来義直を鍾愛せしむるに依り、義直に禄を願ふ所なり、今に於ては、合戦に励むも益無しと云々、声を揚げて悲哭し、東西に迷惑し、遂に江戸左衛門尉能範の所従に討たると云々、同男五郎兵衛尉義重、六郎兵衛尉義信、七郎秀盛以下の張本七人、共に誅に伏す、朝夷名三郎義秀、並びに数率等海浜に出で、船に掉して安房国に赴く、其勢五百騎、船六艘と云々、又新左衛門尉常盛、山内先次郎左衛門尉、岡崎余一左衛門尉、横山馬允、古郡左衛門尉、和田新兵衛入道、以上大将軍六人、戦揚を遁れて逐電すと云々、此輩悉く敗北するの間、世上無為に属す、其後、相州、行親、忠家を以て死骸等を実検せらる、仮屋を由比浦の汀に構へ、義盛以下の首を取聚む、昏黒に及ぶの間、各松明を取る、又相川、大官命仰を承り、飛脚を発せられ、御書を京都に遣はす。
 いきほひの赴くところ、まことに、やむを得ないものと見えます。五月二日の夕刻、和田左衛門尉義盛さまは一族郎党百五十騎を率ゐて反旗をひるがへし、故右大将家幕府御創業このかた三十年、この鎌倉の地にはじめての大兵乱が勃発いたしました。和田さまほどの御大身が、たつた百五十騎とは、案外の無勢と不審に思召されるかも知れませぬが、和田さま御謀叛の噂は、あの三月の胤長さまの配流、四月の荏柄のお屋敷の騒動以来、御ところの内にも、また鎌倉の里人の間にも、もつぱらでございまして、武勇に於いては、関東一の和田さま御一族も、はかりごとを密かに行ふといふ巧智には乏しかつた御様子で、大つぴらに兵具をととのへ、戦勝の祈願なども行ひ、さうしてそのやうな叛逆の動かぬ証拠を次々と御ところのお使ひの人に依つて糾明せられ、とても、たまらなくなりまして、有合せの軍兵をかき集めて気早やに烽火をお挙げになつてしまつたといふお工合のやうでございました。たのみにしてゐた御一族の三浦さまには裏切られ、翌朝、かねて打合せて置いたとほりに横山馬允時兼さまの三千余騎が腰越浦に馳せ参じて和田さまの陣に加はりましたが、もうその頃には、将軍家の御教書もひろく行きわたり、和田勢の逆賊たることが決定せられてしまつて居りましたから、それまで去就に迷つて拱手傍観してゐました諸将も続々と北条勢に来り投じ、つひに和田氏御一族全滅のむざんな結末と相成りました。その兵乱の一箇月ほど前、四月七日に、将軍家は何といふ理由も無く、女房等をお集めになつて華やかな御酒宴をひらかれ、之まで例のなかつたほどに、したたかにお酒を召され、女房等にもお気軽の御冗談を仰せになつて、
我宿ノマセノハタテニハフ瓜ノナリモナラズモ二人ネマホシ
 などといふ和歌を作られて一座を和やかに笑はせ、ふいと前庭を御覧になつて、お庭の門のあたりを山内左衛門尉さまと、筑後四郎兵衛尉さまが、御警護のためぶらぶら歩いて居られるのにお目をとめられ、あの二人の者をこれへ呼び寄せるやう仰せられ、やがて御縁ちかく伺候したお二人に御盃酒をたまはり、御機嫌よろしくにこにこお笑ひになりながら少しお首を傾け、そのお二人のお顔をつくづくと見まもり、いづれも近く命を失ふ、ひとりは敵方、ひとりは味方、と案外の不吉の御予言を、まるで御冗談みたいに事もなげにおつしやつて、平然として居られました。果して、それからひとつき経つて、山内左衛門尉さまは、和田勢に加はり、筑後四郎兵衛尉さまは御ところ方にて、敵味方にわかれて戦ひ、共に討死をなさいましたが、それにつけても思ひ出される事がございます。むかし、厩戸の皇子さまも、御二十一歳の折、大臣馬子の無道をお見事に御予言あそばしたとか、天壌と共に窮りの無き、伊勢大廟の尊き御嫡流の御方の御事は纔かに偲び奉るさへ、おそれおほい極みでございますが、将軍家に於いては、早くより厩戸の皇子さまに御心酔と申し上げてよろしいほどに強く傾倒なされ、私どもには、まるで何もわかりませぬけれど、かの、和を以て貴しと為すとかいふお言葉にはじまる十七箇条の御憲法など、まことに万代不易の赫奕たるおさとしで、海のかなたの国々の者たちにも知らせてやりたい、とおつしやつて居られた事もございまして、せめてその御錦袖の端にでも、おあやかり申したいと日頃、念じて居られた御様子で、そのせゐか、まあこれは愚かな私どもの推参な気の迷ひに違ひないのでございませうけれども、ほんの少し、相通ふやうな影が、感ぜられてなりませぬ。御予言とはいへ、ただ出鱈目に放言なさつたのがたまたま運よく的中したといふやうなものではなく、そこには、こまかな御明察もあり、必ずさうなるべき根拠をお見抜きなさつて仰出されるのに違ひございませぬが、けれども凡愚の者に於いては、明々白々の根拠をつかんでゐながらもなほ、予断を躊躇し、或いは間違ひかも知れぬ、途中でまたどのやうに風向きが変らぬものでもない、などと愚図愚図してあたりを見廻してゐるものでございまして、それが厩戸の皇子さま、または故右大臣さまのやうなお方になると、ためらはず鮮やかに断言なされて的中なさらぬといふ事はないのでございますから、これはやはり、御明察と申すよりは、御霊感と名づけたはうがよろしいやうに私たちには考へられます。相通ふとは申しても、もちろんその間には天地以上の絶対の御距離があり、このやうな事はすべて愚かな私どもの子供じみた夢に過ぎないのでございまして、厩戸の皇子さまもやはり御幼少の頃から御政務の御手助けをなされて居られた御様子で、まあそれ故にこそ故右大臣さまも、いつそう皇子さまをお慕ひなされたのでございませうが、共に崇仏の念篤く、また皇子さまのお傍には蘇我馬子といふけしからぬ大臣が居られたやうに、故右大臣さまには、相州さまといふ暗いお方が控へて居りまして、馬子といひ、またあの承久年間の相州さまといひ、まことに日本国はじまつて以来の二のみ三無き大悪事を行ひ、しかもその政治上の手腕はあなどりがたく、わけなく之をしりぞける事も出来なかつたといふところなど、いづれも、ほんの偶然の事にちがひないとは万々承知いたしながら、その、わづかに一小部分の相通ふ匂ひだけでも、あの私どものお可哀さうな右大臣さまへの、お手向の花としたいと思ふ無智な家来の一すぢの追慕の念を、どうぞお見のがし下さいまし。厩戸の皇子さまの御事は真におそれおほく、ただ烈日を仰ぐが如く眼つぶれる思ひにて、いかなる推察も叶ふものではございませぬが、故右大臣さまの場合だけを申し上げるならば、京都の御所に対してはあれほどの御赤心、また幕府の御政務に対してはあれほどの御英才と御手腕をお示しになりながら、あの承久の大悪事を犯すに至つた相州さまを、なぜ早くよりよろしく御教導出来なかつたかと、これも私どもの、慾の深すぎる話にきまつて居りますけれども、それだけがたつた一つの無念のところでございます。御政務に於いても、以前は、相州さまであらうが何であらうが、それが間違つて居りますならば、ひどく手きびしくはねつけたものでごさいましたが、この和田さまの事件あたりから、さすがの将軍家も、時々、とても、もの憂さうな御様子をお見せになりまして、
関東ハ源家ノ任地デシタガ、北条家ニトツテハ関東ハ代々ノ生地デス。気持ガチガヒマス。
 と、謎のやうなお言葉を私たちお傍の者におもらしなさつた事さへございました。さうして、その頃から、お酒の量も、めつきりふえたやうに拝されました。このとしの五月の兵乱も、すでに三年前の承元四年十一月二十一日にお夢のお告げに依つて察知なされてゐたといふ事はまへにも申し上げて置きましたけれども、その時のお夢は、ただ、合戦あるべしといふのみにて、どなたの反乱であるか、その主謀者の名まではおわかりになつてゐなかつたのではなからうかと思はれます。さうして一年経ち、二年経ちしてゐるうちに、勘のするどい将軍家のことでございますから、或いは和田氏あたりが老いの一徹から短慮の真似をしでかすのではあるまいか、との御懸念も生じてまゐりました御様子で、まさか、それだけの理由からでもございませんでせうけれども、この建保元年のまへのとしあたりから、急に目立つて和田氏御一族を御寵愛なされ、わけても左衛門尉義盛さまをば、いつもお傍からはなさずに何かとこの武骨の御老人をおいたはりなさるやうになりまして、それから建保元年の二月に、れいの泉小次郎親平の陰謀があらはれ、和田氏の御一族のお方たちもそれに加担して居られて、もうその時すでに、将軍家も、いまはこれまで、とお見極めをつけておしまひになつたのではないでせうか、あの頃から、御政務の御決裁に当つても以前ほどの御熱意は見受けられず、まるで御冗談のやうに矢鱈に謀逆の囚人たちを放免させてお笑ひになつてゐるかと思ふと、急にがくりとお疲れの御様子をお示しになつたり、それまで固く握りしめなされてゐた何物かを、その時からりと投げ出しておしまひなさつたやうな、ひどい御気抜けの態に拝されました。和田氏御一族九十八人の御請願の時にも、また胤長さまのお屋敷の処置の時にも、これまで見受けられなかつたやうな御気力の無いお弱い御態度で相州さまのおつしやるままになつて居られましたが、この前後に於いて将軍家の御心境に何か重大の転機がおありになつたのではなからうかと、下賤の臆測で失礼千万ながら、私たちには、どうもそのやうに思はれてなりませんでした。前にも申し上げましたやうに和田さま御一族のお方たちは揃つて武勇には勝れて居られましたが、陰謀の智略に於いては欠けてゐるところがおありの御様子で、その御謀叛も、すでに二箇月も三箇月も前から取沙汰せられて居りまして、御ところの人たちも前々から覚悟をきめて、各々ひそかに武具をととのへ、夜も安らかには眠らずに警衛をさをさ怠らず、異常の御緊張を以て一日一日を送り迎へして居りましたのに、将軍家に於いては、わけもない御酒宴などお開きになり、その四月七日には御警護の山内左衛門尉さまと筑後四郎兵衛尉さまをお召しになつて不思議の御予言をなされ、お二人とも、颯つとお顔色を変へて拝受の御酒盃を懐にねぢこみ早々に退出なされるのを、おだやかにお笑ひになりながら御目送あそばして、
浮キシヅミハテハ泡トゾ成リヌベキ瀬々ノ岩波身ヲクダキツツ
 といふ和歌を一首、いたづら書きのやうに懐紙に無雑作におしたためになり、またもお酒をおすごしなさるのでございました。またひきつづいて、十五日には、折からの名月に対して和歌の例会をおひらきになり、この頃すでに和田さま御一族の方は御ところに出仕なさる事も少くなつてゐたのでございますが、その夜、義盛さまの御嫡孫、和田新兵衛尉朝盛さまが、珍らしく、ひよつこり例会においでなさいましたので、将軍家はいたくお喜びなされ、もともとお気にいりの朝盛さまでもございましたので、その場に於いて地頭職をいくつもいくつも一枚の紙に列記なされて、直々にお下渡しになり、
行キメグリ又モ来テ見ンフルサトノ宿モル月ハ我ヲワスルナ
 といふお歌までお作りになつて朝盛さまに抜露なされ、朝盛さまはその御恩徳に涙を流して御退出なさいましたが、その夜、朝盛さまは出家なされたとか、さうして御父祖に宛て、叛逆のお企はおやめになりませぬか、一族に従つて主君に弓射る事も出来ず、また御ところ方に候して御父祖に敵する事も出来ず、やむなく出家いたしまする、といふ御書置を残して京都へその夜のうちに御発足になつたとか、翌る日その書置を御祖父の左衛門尉義盛さまが御覧になつて、激怒なされ、ただちに追手をさしむけ、朝盛さまを連れかへらせたとか、のちに人から承りましたが、将軍家はそのやうな騒ぎにも驚きなさる御様子はなく、連れかへられた朝盛さまが、十八日に墨染の衣の御出家のお姿のままで御ところへおわびに参りました時にも、深い仔細をお尋ねなさるでもなく、またその打つて変つた入道姿を珍らしがるわけでもなく、何もかも前から御見透しだつたやうな落ちついた御態度で、
歎キワビ世ヲソムクベキ方知ラズ吉野ノ奥モ住ミウシト云ヘリ
 といふ和歌をお下渡しになり、ただ静かにお笑ひになつて居られました。ついでながら、この将軍家の最も御寵愛なされてゐた新兵衛尉朝盛さまさへ、この五月の兵乱には、やつぱり和田氏御一族に従ひ、黒衣の入道の姿で御ところへ攻め入つたのでございました。さて、四囲の気配が、なんとなく刻一刻とけはしくなつてまゐりましても、将軍家おひとりは、平然たるもので、二十日には、非人に施行を仰出され、これ年来の御素願の由にて、また二十七日には、ふいと思ひ出されたやうに、ちかごろ和田が何かたくらんでゐるさうだが、どんな事をしてゐるのか見て来るやうに、といまさらの如くお使ひを和田左衛門尉さまのお宅にさしむけ、そのお使ひの帰つてまゐりまして、やはり謀叛の御様子に見受けられます、とはつきり言上いたしましても、将軍家はお顔色もお変へにならず、それはつまらぬ事だから、やめるやうに言つて来なさい、とさらに別のお使ひをなんの御熱意も無くお出しなされたりなど致しまして、お傍で拝見してゐてもはなはだ歯がゆく、まことに春風駘蕩とでも申しませうか、何事にもお気乗りしないらしく、失礼ながら、ただ、呆然として居られ、さうしていつも御酒気の御様子で、あの眼ざめるばかりの凜乎たる御裁断は、その時分には片鱗だも拝する事が出来ませんでした。相州さまも、どういふわけか、その頃の将軍家の御政務御怠慢をば見て見ぬ振りをなさつて、いや、それどころか、将軍家とお顔をお合せになるのを努めて避けていらつしやつたやうでございました。そのうちに五月二日、夕刻に至つて大膳大夫広元さまは、ころげるやうに御ところへ駈込んでまゐりまして、和田氏一族挙兵の由を御注進申し上げました。その時ちやうど広元入道さまは、お宅にお客さまがあつてお酒盛をはじめていらつしやつたところに、和田左衛門尉さまのお宅に軍兵競ひ集るといふ報がはひり、入道さまは、お客さまも何も打捨て、衣服も改めずに御ところへ馳せ参じたのださうで、やがて後から相州さまも、三浦さま御一族からの内報に依りただいま和田氏挙兵の事を聞き及びましたと言つて、実に落ちつき払つて御ところへ参入いたしましたが、御承知のとほり三浦さまは、もともと和田さまとは御一族で、このたびの和田氏の謀逆にも御一族のよしみを以て加盟を致し、起請文までお書きになりながら、この日にはかに和田氏を裏切り、こつそり相州さまのお宅へ行つて和田氏の今日の蜂起を言上いたしましたのださうで、この三浦氏御一族の裏切さへ無かつたならば、或いは、この合戦も和田氏の勝利となり北条氏全滅の憂目に逢つたかも知れず、それほど大事なところなのに、相州さまは、その時お宅でお客と囲碁の最中で、さうして三浦左衛門尉さまの手柄顔なる密告に接しても、ちよつと振り向いて軽く左衛門尉さまに会釈をしただけで一言のお礼もおつしやらなかつたさうで、やがて静かに立ち上りながらも碁盤からお眼をはなさず、ゆつくりと囲碁の御勝負の結果を目算なされ、どうやらこちらが二目の勝ちのやうです、と低く呟いて、それからお客に失礼を詫び、素早く衣服を着換へ、折烏帽子を立烏帽子に改めて、馬を飛ばして御ところに駈けつけたとか、入道さまの見苦しい狼狽振りと較べて、いかに相州さまが武人の故とは言へ、なかなか、ただものの出来る芸当ではないと、これはのちのちの評判でございました。とかくするうちに和田勢は御ところに押し寄せ、日没の頃には、はや四面賊兵、あまつさへ御ところに火を放つものがあつたのでたちまちめらめらと八方に燃えひろがり、将軍家は、相州さまや入道さま、それから私たちお傍の者数人を引連れて故右大将家の法華堂へ御避難あそばす事になりまして、その時も将軍家は、お酒を召し上つた御様子はございませんでしたのに、御酒気のやうに拝され、お顔も赤く光り、さうして絶えずにこにこお笑ひになつて、時々立ちどまつては、四方の兵火を物珍らしげにお眺めになつて、こんなところへもしも賊兵が、と思ふとお傍の私たちは本当に気が気でございませんでした。
将軍トハ、所詮、凡胎。厩戸ノ皇子ハ、寵臣ニソムカレタ事ハナカツタ。
 とおつしやつて、おひとりでひどく笑ひ咽ばれたのも、この時の事でございました。いつもお心にかけて居られるのは、遠い厩戸の皇子さまの御治蹟で、せめてその万分の一にでもおあやかり申したいとこれまで努めて来られたのに、いま和田氏御一族にそむかれて、厩戸の皇子さまにあやかる資格も何もない御自身の不徳をはつきり知つたとでもいふやうなお気持から、そんな事をおつしやつたのかも知れませぬが、そのお笑ひのお顔は、お痛はしいと申すよりは、もつたいない言草ながら、おそろしく異様奇怪のものでございまして、将軍家御発狂かと一瞬うたがはれましたほど、あやしく美しく、思はず人を慄然たらしむるものがございました。そのやうなうちにも御ところの周囲に於いては両軍乱れ戦ひ、中にも義盛さまの御三男朝夷名三郎義秀さま、九尺ばかりの鉄の棒を振りまはして阿修羅のやうに荒れ狂ひ、まさに鎮西八郎さまの再来の如く向ふところ敵なく、れいの相州さまの御次男朝時さまが、さきに好色の御失態から駿河に籠居なされてゐたのを、このたび鎌倉の風雲急なる由を聞いてどさくさまぎれに帰参なされて、ひとつ大きな手柄を立て以前の好色の汚名を雪がうとしてこの義秀さまの背後から組みつかれたさうですが、もとより義秀さまの相手ではなくたちまち鉄棒をくらつて大怪我をなされ、それでもお怪我くらゐですんで、いのちを落さぬところが何とも言へずお偉いところだと、奇妙なお世辞を申す者もあり、どうやら面目をほどこす事が出来ましたさうで、まことに和田勢はこの義秀さまばかりでなくその百五十騎ことごとく一騎当千の荒武者で、はじめは軍勢を三手にわけて第一は相州の宅、つぎは広元入道の宅、さうして一手は御ところに参入して将軍家を擁護し、大義名分の存するところを明かにして、奸賊相州ならびに入道を誅するといふ仕組みの筈でございましたのださうですが、相州さまも入道さまも逸早く御ところに駈込んでおしまひになりましたので、いまは詮方なしと三軍が力を合せて御ところに攻め入る事になつたとか、御ところ方に於いては匠作泰時さまが御大将となつて一族郎党を叱咤鞭撻なされ、みづからも身命を捨て防戦につとめて、終夜相戦ひ、暁に及んで無勢の和田方はさすがに疲労し、ひとまづ、さつと海辺まで軍を引き上げ、その頃から、小雨がしとしとと降り出しまして、恐ろしいうちにも、悲しく、あはれ深い合戦でございました。翌る三日の寅剋には、和田勢への援軍、横山馬允時兼さまの率ゐる三千余騎が腰越浦に駈けつけてまゐりまして、御ところ方は、にはかに心細く危く相成り、その時、間髪を入れず智者の相州さまは、諸方に将軍家の御教書を発した為に、それまで、どちらがいつたい賊軍なのか、わけがわからず待機中であつた諸国の軍勢も一度にどつと御ところ方について、ここに全く大勢が決せられた御様子でございましたが、法華堂に於いて相州さまから御教書の御判を請はれて、将軍家はその御教書の文章をざつと御一読なされ、声を立ててお笑ひになられ、
コレハ誰ノ文章デス
 と呆れなさつたやうにお眼を丸くして相州さまにお尋ねになりました。その時お傍の私たちも、それを拝見いたしましたが、いかにもひどい、たどたどしい御文脈で、そのくせ変に野暮つたい狡猾なところもあり、将軍家が無邪気にお笑ひなされたのも、もつともと思ひました。その時の文章をいまでも、うろ覚えに記憶いたして居りますが、なんでもこんな工合ひの御教書でございました。
きん辺のものに、このよしをふれて、めしぐすべきなり、わだのさゑもん、つちやのひやう衛、よこ山のものども、むほんをおこして、きみをいたてまつるといへども、べちの事なき也、かたきのちりぢりになりたるを、いそぎうちとりてまいらすへし、
  五月三日 巳剋大膳大夫相模守 けれども相州さまは、にこりともなさらず、
「いくさの最中には、これくらゐのもので、ちやうどいいのです。将軍家には、戦ふ者の心が、わかつて居られませぬ。」とかつて色をなしてお怒りの御様子をいちどもお見せにならなかつた相州さまも、この時ばかりは、大声で呶鳴るやうにおつしやいました。武人はやはり合戦となると、御平常とがらりと変つて、いかめしく猛り立つもののやうでございます。将軍家も流石に御不興気のお顔をなされ、何もおつしやらず、さつさと御判をたまはり、
相州ハ、マダ、死ニタクナイモノト見エル。
 とあとで、誰にとも無くおひとりで呟いて居られました。将軍家と相州さまが争論に似た事をなさいましたのは、あとにもさきにも、ただこの時いちどきりで、つねに御衝突が絶えなかつたらしいなどとれいの仔細らしい取沙汰はもとより根も葉も無い事でございまして、将軍家の御闊達と無類の御気品はもとよりの事、相州さまにしても当時抜群の大政治家でございますし、そのやうなお方たちが、決してあらはな御衝突をなさるわけはなく、それは前にも申し上げて置いたやうに思ひますが、いつも、お互ひの御胸中を素早くお見透しなさつて、瞬時に御首肯し合ひ、笑つておわかれになるといふやうな案配でございましたのに、この時に限つて、それは相州さまが合戦のためにお気が立つて居られたせゐかと思はれますが、少しおだやかならぬものがただよひ、相州さまはその頃すでに五十の坂を越して居られまして、なほまた北条家存亡の大合戦の最中の事でもございましたから、そんなのは、さしたる事でもなかつたやうに覚えて居られたかも知れませぬが、生れてこのかた御父母君にさへ、大声で叱られるなどといふことの無かつたお若い将軍家にとつては、なかなかに忘れられぬ思ひもおありではなからうかと、その日うす暗い御堂の隅に控へてゐた当時十七歳の私まで、胸苦しく拝察申し上げたことでございました。

同年。同月。四日、甲辰、小雨降る、古郡左衛門尉兄弟は、甲斐国坂東山波加利の東競石郷二木に於て自殺す矣、和田新左衛門尉常盛並びに横山右馬允時宗等は、坂東山償原別所に於て自殺すと云々、時兼は横山権守時広の嫡男なり、伯母は、義盛の妻となり、妹は又常盛に嫁す、故に今此謀叛に与同すと云々、件の両人の首今日到来す、凡そ固瀬河辺に梟する所の首二百三十四と云々、辰剋、将軍家法花堂より東御所に入御、其後西の御門に於て、両日合戦の間に、疵を被る軍士等を召聚められて、実検を加へらる、山城判官行村奉行たり、行親、忠家之に相副ふ、疵を被るの者凡そ九百八十八人なり。五日、乙巳、天霽、義盛、時兼以下の謀叛の輩の所領美作淡路等の国の守護職、横山庄以下の宗たるの所々、先づ以て之を収公し、勲功の賞に充てらる可しと云々、相州、大官命之を沙汰し申さる、次に侍別当の事、義盛の闕を以て相州に仰せらると云々。六日、丙午、天霽、申剋、将軍家前大膳大夫広元朝臣の亭に入御、是去る二日、御所焼失せるに依るなり、御台所、又南御堂より其所に入御、尼御台所、本所に渡御。九日、己酉、天晴、広元朝臣奉行として、御教書を在京の御家人の中に送らる、相州、大官命連署し、又御判を載せらると云々、是在京の武士参向す可からず、関東に於ては、静謐せしめ畢んぬ、早く院御所を守護す可し、又謀叛の輩西海に廻るの由其聞有り、用意致す可きの由なり、宗として佐々木左衛門尉広綱に仰せらると云々、又和田平太胤長、配所陸奥国岩瀬郡鏡沼の南辺に於て誅せらる。
 五月三日、酉剋に至つて和田四郎左衙門尉義直さまが討死をなされ、日頃この御四男の義直さまを何ものにも代へがたくお可愛がりになつてゐた老父義盛さまは、その悲報をお聞きになつて、落馬せんばかりに驚き、人まへもはばからず身を震はせて号泣し、あれが死んだのでは、もう、なんにもならぬ、合戦もいやになつた、と嬰児のむつかる如く泣きに泣いて戦場をさまよひ歩き、つひに江戸左衛門尉能範の所従に討たれ、つづいて御一族も或いは討死、或いは逐電、ここに鎌倉の天地震怒の和田合戦も、やうやくをさまり、その夜は由比浦の汀に仮屋を設け、波の音を聞きつつ、数百の松明の光のもとで左衛門尉義盛さま以下の御首を実検せられたとか、将軍家は首実検をおいとひなされ、私たち近習の者と共に御堂に籠つておいでなさいまして、少しくお酒などおあがりになつて、けれども流石にその夜はお気軽の御冗談もおつしやらず、うつむいて何やら御思案の御様子でございました。
焔ノミ虚空ニミテル阿鼻地獄ユクヘモナシトイフモハカナシ
カクテノミ有リテハカナキ世ノ中ヲウシトヤイハン哀トヤ云ハン
神トイヒ仏トイフモヨノナカノ人ノ心ノホカノモノカハ
 などといふ和歌のお出来になつたのもその夜の事でございまして、五月雨がやまず降り続き、どこからともなく屍臭がその御堂の奥にまで忍び込んでまゐりまして、それから二十数年経つた今でも私はその夜の淋しい御堂の有様をまざまざと夢に見るほどでございます。翌る四日には、将軍家は法華堂から、焼け残つた尼御台さまの御邸宅にお移りなされ、やがて西の御門に幔幕を曳いて将軍家のお座をまうけ、疵ついた軍士を召集めておいたはりの閲を給ふ事になりまして、手負ひの将士九百八十八人が続々と御前に集り、れいの相模次郎朝時さまも御兄君の匠作泰時さまに背負はれてその場に参りまして、あの時の朝夷名三郎義秀さまの大鉄棒がよほどこたへたと見え、その呻き声のお高いこと、ことさらに御苦痛をお装ひなのではなからうかと思はれたほどに大袈裟にお顔をゆがめ、無念、無念、とお叫びになるので、お庭のここかしこから軽い失笑の声さへ起りまして、けれども将軍家は終始、厳粛のお態度を変へず、いちいち重く御首肯なされて居られました。ついで将軍家は、このたびの合戦に於いて抜群の勲功をいたした者をお尋ねに相成り、諸将士はこれに対して異口同音に、敵方に於いては朝夷名三郎、御ところ方に於いては匠作泰時さまをお挙げになつて、匠作泰時さまはただちに御前ちかく召されておほめの御言葉を賜りましたが、その時、匠作さまは恥ぢらふ如く内気の笑ひをお顔に浮べ、勲功などとは、もつてのほか、匠作このたびの合戦に於いては、まことにぶざまの事ばかり多く、実はついたちの夜にばかな大酒をいたしまして、二日にはひどい宿酔、それ和田氏の御挙兵と聞きましても夢うつつ、ほとんど手さぐりにて、とにかく甲冑をつけ馬に乗つてはみましたが、西も東も心許なく、ああ大酒はいかん、もののお役に立ち申さぬ、爾後は禁酒だ、と固く心に誓ひ、なほも呆然たるうちに敵兵と逢ひ、数度戦つて居りまするうちに喉がかわいてたまらなくなり、水を、と士卒に言ひつけましたところ、こいつまた気をきかして小筒に酒をつめて差し出しまして、一口のんですぐに酒だと気がつきましたものの、酒飲みの意地汚なさ、捨てるには惜しく、ついさつきの禁酒の誓を破つてごくごくと一滴あまさず飲みほして、これからが本当の禁酒だなどと、まことにわれながらその薄志弱行にはあいそがつきまして、さう言ひながらも昨夜はまた戦勝の心祝ひなどと理窟をつけて少しやつてゐるやうな有様なのでございますから、まだまだ修行はいたらず、とても、おほめにあづかるほどの男ではございませぬ、この後は努めて、大酒をつつしむやうに致しまするから、どうか、このたびの失態は御寛恕のほどを願はしく存じます、としんから恐縮し切つて居られる御様子で汗を流して言上なさいましたが、将軍家をはじめ満座の諸将士ひとしく、この匠作さまの功にほこらぬ美しいお心に敬服なされたやうでございました。この匠作泰時さまは、その翌日、抜群の勲功により陸奥国遠田郡を賜りましたけれども、固く之を御辞退申し上げ、そもそもこの度の合戦は和田左衛門尉、将軍家に対して逆心をさしはさまず、ただ相州を討たんとして挙兵なされたのであつて、自分は相州の子として父の敵を迎へ撃つたまでの事、しかも自分の用兵拙劣にして多くの御ところの将士を失ひ罪万死に価すと雖も幕臣として一の勲功も無し、とおつしやつたとか、いよいよ匠作さまのお名があがつて、しばらくは、どこへまゐりましても匠作さまの御評判で持ち切りの有様でございました。さて、匠作さまの禁酒のしくじり話の御披露がございました四日の、手負ひの軍士の集りました席上で、裏切者の三浦左衛門尉義村さまが、またも御卑怯の振舞ひに及び、心ある将士にいたく顰蹙せられましたが、合戦の後にはとかくこのやうなごたごたが起るものと見えます。波多野中務丞忠綱さまの米町ならびに政所に於いて両度ともに、まつさきかけて進みましたといふ申立てに対して、三浦左衛門尉さまはやをら御前に進み出て、米町の先陣は知らず、政所に於いて先登を承つたのはこの左衛門尉義村にちがひございませぬ、と異議をさしはさみましたので、たちまち御前に於いてお二人の醜い激論が生じ、相州さまは、忠綱さまに耳打ちして幔幕の陰にお連れになつて、これは私も後で人からうかがつた話でございますが、なんでもその折、相州さまのおつしやるには、あなたも落ちついてお考へになつたらどうです、このたびの合戦が、まあまあ無事にをさまつたのも三浦氏の忠義な密告のおかげです、米町の先陣はあなたときまつてゐるのだから、その功一つで我慢なさつて、もう一つの政所のはうは三浦氏に潔くおゆづりになつたはうが御賢明かと思ひますが、どうでせう、また、あとあと、いい事もありますから、といふ事だつたさうで、忠綱さまはそれを承つてせせら笑ひ、冗談言つてはいけません、勇士の戦場に向ふに当つては、ただ先登に進まんと念ずるのみ、武人の栄誉これに過ぎたるはなく、忠綱いやしくも父祖代々の家業を継いで弓馬の事にたずさはる上は、たとひ十度、二十度の先陣も敢へて多しとせず、いよいよ万代に武名を輝かさんと志してゐるのに、一つでたくさん、もう一つのはうは三浦氏にゆづれなどと、あなたはそれでも武士か、忠綱は恩賞も何もほしくござらぬ、ただ先陣の誉れを得たいだけです、と見事に言ひ切つたので、さすがの相州さまも二の句が継げず、いよいよ忠綱さまと義村さまを藤御壺の内に於いて対決せしむる事に相成り、その場には将軍家と私たち少数の近習の他に、相州さま、入道さま、民部大夫行光さまだけが伺候して余人は遠ざけられ、将軍家御直々のお裁きが行はれました。忠綱さまと義村さまは、お庭の簀子の円座におすわりになつて、まづ義村さまが、このたび和田左衛門尉義盛の政所襲来と同時に、義村、政所の前の南側に馳せ向ひ、まつさきに敵勢に矢を射込みましたが、塵ひとつ義村の眼前を駈け行くものは見受けられませんでした、といかにも実直さうに申し述べました。忠綱さまはせき込んで、いやいや忠綱ひとり、忠綱ひとり先登に進みました、南側も北側もありません、まつさきかけて進みました、うしろには自分の子の経朝、朝定がつづき、三浦氏は、そのまたうしろではなかつたでせうか、あまりかけ離れてゐると塵ひとつも見えない道理で、或いはまた三浦氏も実は盲目なのかも知れず、盲目は相手になりませぬゆゑ、どうかあの場に居合せた士卒たちを捜し出してそれにお尋ねのほどをお願ひ申し上げまする、とお顔を真赤になさつてどもりどもりおつしやいましたが、あまりお口汚いので、相州さまは片手を挙げて忠綱さまを制し、将軍家にちらと目くばせをなさいました。忠綱さまを御譴責なさいませと将軍家におすすめなさるやうな目くばせの仕方でございましたが、将軍家はこのやうな御裁判には少しもお気がすすまぬらしく、先刻から時々わき見などなさつて、ひどくもの憂げの御様子で、相州さまの目くばせにも一向お感じなさらず、
士卒ヲ捜スガヨイ
 とおつしやつて平然たるものでございました。やがて士卒三人おそるおそるお庭の片隅にまかり出まして、そのうちの一人が少し進み出て、赤皮縅の鎧、葦毛の馬の武者一騎あざやかに先登かけて居られました、と申し述べ、たちまち義村さまは平伏なされ、忠綱さまは得々としてあたりを見廻しました。赤皮縅は忠綱さまの御鎧、またその葦毛の馬は、相州さまから拝領の片淵と号する忠綱さま御自慢の名馬に相違ないのでございますから、もはや争論の余地も無く、将軍家は、興覚め顔に何事もおつしやらず、ついとお座を立つておしまひになりました。けれども義村さまは、なんと言つてもこのたびは、裏切りの大功名を立てたお方でございますし、そこは相州さま、入道さま等のお取計ひもあつて、何のおかまひもなかつたばかりか、陸奥国名取郡をたまはり、かへつて忠綱さまは、いかに両度の先登の功があつたとはいへ、義村さまほどの名門の御重臣を、お調子に乗つて盲目だのなんだの勝手の悪口を致したのはけしからぬとあつて、なんの恩賞も無かつたとかいふ事でございましたが、それにつけても左衛門尉義村さまは御一族の和田氏を裏切り、しかもその上、他人の軍功まで奪はうとなさつたとは、いやはや、どうにも、きたなき振舞ひと、おのづから、匠作泰時さまの御謙遜の御態度とも比較せられ、匠作さまのお名はあがるばかりで、義村さまの御ところに於ける不評判はまことに絶頂を極めました。

同年。六月大。廿六日、乙未、大霽、相州、武州、大官命等参会し、御所新造の事群議に及ぶ、是去る五月合戦の時、焼失するに依りてなり。
同年。七月小。七日、丙午、霽、今日御所に於て和歌例会有り、相州、修理亮、東平太重胤等其座に候する所なり。九日、戊申、陰、御所の造営、重ねて其沙汰有り。廿日、己未、故和田左衛門尉義盛の妻、厚免を蒙る、是豊受太神宮七社禰宜度会康高の女子なり、夫謀叛の科に依りて、所領を召放たるるの上、其身又囚人と為る、而して件の領所と謂ふは、神宮一円の御厨たるの間、禰宜等子細を申すに依り、唯に所を本宮に返付せらるるのみならず、剰へ恩赦に預る、是御敬神の他に異るの故なり。廿三日、壬戌、新造の御所の事、其沙汰有り、今日御前に於て、指図少々改めらるるの所々有り、今度中門を立てらる可きの由と云々。
同年。八月小。三日、辛未、天晴、風静なり、今日申剋、御所の上棟なり、相州以下諸人群参す。六日、甲戌、新造の御所の御障子の画図の風情の事、先々の絵御意に相叶はず。十七日、乙酉、京極侍従三位、二条中将雅経朝臣に付し、和歌文書等を将軍家に献ず、御入興の外他無しと云々。十八日、丙戌、霽、子剋、将軍家南面に出御、時に灯消え、人定まりて、悄然として音無し、只月色蛬思心を傷むる計なり、御歌数首、御独吟有り、丑剋に及びて、夢の如くして青女一人前庭を奔り通る、頻りに問はしめ給ふと雖も、遂に名乗らず、而して漸く門外に至るの程、俄かに光物有り、頗る松明の光の如し。廿日、戊子、天晴風静なり、将軍家新御所に移徒なり、御車京都より遅く到るの間、御輿を用ひらる、酉刻、前大膳大夫広元朝臣の第より、新御所に入御、大須賀太郎道信黄牛を牽く。廿二日、庚寅、天晴、未剋、鶴岳上宮の宝殿に、黄蝶大小群集す、人之を怪しむ。
同年。九月大。廿二日、戊午、将軍家火取沢辺に逍遙せしめ給ふ、是草花秋興を覧るに依りてなり、武蔵守、修理亮、出雲守、三浦左衛門尉、結城左衛門尉、内藤右馬允等供奉せしむ、皆歌道に携はるの輩なり。
同年。十月大。三日、己亥、今日御書を以て、大宮大納言殿の方に仰せらるる事有り、公家より西国の御領等の臨時の公事を課せらるるなり、一切御沙汰に及ぶ可からざるの由、広元朝臣の如き、之を申すと雖も、仰せて曰く、一向停止の儀に於ては、然る可からず。十三日、己酉、天晴、夜に入つて雷鳴、同時に御所の南庭に、狐鳴くこと度々に及ぶと云々。
同年。十一月大。廿三日、己丑、天晴、京極侍従三位、相伝の私本万葉集一部を将軍家に献ず、御賞翫他無し、重宝何物か之に過ぎん乎の由、仰有りと云々。
同年。十二月大。三日、己亥、将軍家寿福寺に御参、仏事を修せしめ給ふ、是左衛門尉義盛以下の亡卒得脱の為と云々。七日、癸卯、鷹狩を停止す可きの旨、諸国の守護人等に仰せらる、事度々厳命有りと雖も、放逸の輩、動もすれば違犯有るの旨、聞食し及ぶに依りて、此の如しと云々、但し所処の神社の貢税の事に於ては、制するの限に非ずと云々。
 五月六日には将軍家は、広元入道さまの御邸宅にお移りになり、しばらくここを仮の御ところに定め、つづいて御台所さまも御入りあそばされ、けれども鎌倉近辺の人心はなかなかに静まらぬ様子で、五月、六月、ふたつきは何やら御ところの内外もざわめいて、御ところの人たちすべて落ちつかず、安からぬ気持でございました。相州さまひとりは、朝早くから夜おそくまで、ひどくおいそがしさうに御ところのあちこちを走りまはつて居られましたが、将軍家は相変らず、ぼんやりなされて、一日ぢゆうお奥でお草子などごらんになつて居られる事もございました。その頃は、御政務の御決裁にもほとんど御興味を失はれたやうに見受けられ、相州さまと入道さまに一切おまかせの御様子でございました。けれども、さすがに、御朝廷に対し奉る御忠誠だけは、いつ、いかなる場合も曇ることなく、この合戦直後の九日にも在京の御家人に宛て、関東はすでに平穏に帰したから、誰ひとり鎌倉へ馳せ参ずるには及ばぬ、それよりも、謀叛の残党が西方に遁走したとの説もあることゆゑ、専心、院御所を御守護まゐらすべし、との御教書を広元入道さまにお言ひつけになつて送付せしめられ、また、このとしの十月三日に、京の御所より幕府に対し臨時の公事を課せられ、幕府もその頃は兵火の災厄をかうむつた後ではあり、御ところの新造なども行ひ、だいぶお懐がお苦しかつたらしく、広元入道さまなどは、とんでもない、とても応じ切れるものでない、まつぴらごめん、とただひたすらに幕府大事の心から浅墓にもお断りしようとして、入道さま御一存でもつてしかるべく御返辞のお手続きにとりかかつて居られるとの事の由を、お聞きになつた将軍家は、お眠りから覚めてむつくり起き上られたお人のやうに全く別人の如き峻厳のお態度をお示しになり、入道さまを召して、かたじけなくも御公家より御徴収の御沙汰を拝し、逡巡するとは大不忠、どのやうな場合に於いても、必ず、すみやかに応ずべきです、今後も同様、と激しい御口調で仰せられ、入道さまは手続きのやり直しに大まごつきにまごついた御様子でございました。まことにこの京都の御所に対し奉る御赤心と、それから敬神崇仏のお心の深さは、その御一生をつらぬいて不変のもののやうでございました。その時分から少しづつ御政務をお怠りなさるやうになつたとはいふものの、事、御朝廷に関するとお眠りから覚めたやうにおなりになると同様に、神仏に関してもまた、必ず、すすんで独自の御決裁をなさいましたやうでございます。そのとしの七月二十日に、故左衛門尉義盛さまの御内室が所領も没収され囚人として押し込められて居りましたのを、その身は御赦免にあづかり、あまつさへ領地もお返しに相成るといふ重なる御恩徳に浴しまして、それは勿論、将軍家がかねがね和田氏御一族を御憐憫なされてゐたからでもございませうが、さらに重大の理由としては、その御内室は豊受太神宮七社の禰宜のお娘で、その御領地といふのも太神宮七社の御経営に当てられてゐて、それを没収せられては神宮一円の維持も困難になりますといふ禰宜等の訴へがございましたので、将軍家に於いては一議に及ばず所領返付を仰出され、事のついでに、御内室のお身柄をも御放免なされたといふ御事情のやうでございました。また、将軍家は鷹狩のむごたらしい遊戯を極度にお厭ひなされ、建暦二年の八月にも、またその後にもたびたび之の禁止すべき旨を仰出されて居りましたが、このとしの十二月七日には、さらに厳重に鷹狩停止の事を諸国の守護人に御発令なされ、但し全国の神社がその貢税のために鷹狩を行ふのは一向さしつかへない、と神社の御儀式を重んじ、貢税の便宜をはからしむる思召しから、特別に御除外の例をお設けになつたほどでございました。このやうに、京都の御所や、諸国の神社仏閣の事になるとお眠りからお覚めになるのでごさいましたが、あとはもう、相州さまや入道さまにお任せ切りで、御自身は、ただ、のんびりと遊び暮して居られたやうなお工合でございました。五月の合戦で御ところが全焼いたしまして、六月、七月、八月の三箇月間は、将軍家に於いては、もつぱら新造の御ところの御設計に夢中の御様子でございまして、実にしばしば工事の現場に御渡りなされ、ああでもない、かうでもないとさまざまに御工夫あそばされて、せつかく出来上りかけてゐる門を、またはじめから作り直させたり、お襖の絵のお好みもむづかしく、わざわざお使ひを京都に送り、したしく京風の襖絵を調べて来させたり、なかなかの凝り様で、相州さまも今は何事もさからはず、将軍家の御設計のとほりに新しい御ところの工事を督促なされ、その京風の御新築をかへつて物珍らしげに拝見してゐるといふやうなふうでございました。相州さまも、その頃は故左衛門尉義盛さまのお跡を襲つてこのたびは侍別当をも兼ね、いきほひ隆々たるもので、けれども決してあらはには高ぶらず、かへつて頭を低くなされて、私ども下々の者にも如才なく御愛嬌を振撒き、将軍家に対しては、また別段と、不自然に見えるくらゐに慇懃鄭重の物腰で御挨拶をなされ、将軍家もまた、以前にくらべると何かと遠慮の、お優しいお言葉で相州さまに応対なさるやうになり、うはべだけを拝見するとお二人の間は、まへにもまして御円満、お互ひにおいたはりなされ、お睦げでございまして、そのとしの七月七日に、仮御ところに於いて、合戦以来はじめての和歌御会がひらかれました時にも、めづらしく相州さまがその御会に御出席なされ、松風は水の音に似てゐるとか何とかいふ、ほんの間に合せ程度の和歌を二つ三つお作りなさつたりなど致しまして、どなたも感服なさいませんでしたが、将軍家だけはそのやうなお歌をもいちいちお取上げになり、さすがに人間の出来てゐるお方はお歌もしつかりして居られる、とまんざら御嘲弄でもなささうな真面目の御口調でおほめになりまして、なるほどさうおつしやられて見ると、相州さまのお歌は、松風は水の音にしても、また鶉が鳴いて月が傾いたとかいふ歌にしても、なんでもない景物なのに相州さまがおよみになると、奇妙に凄いものが感ぜられない事もないやうな気もいたしまして、まことに相州さまといふお人は、あやしいお人柄の方でございます。将軍家のお歌も、このとしあたりが最も真剣に御労作なされた御時期でございまして、その翌年あたりからは、御歌道にもおこたり、時たま御酒宴の御座興にたはむれのお歌をおよみになるくらゐのもので、まじめに御思案なされてお作りになる事は年に二度か三度、ほとんど数へるくらゐに少くなつてしまひました。
何事モ十年デス。アトハ、余生ト言ツテヨイ。
 その頃しきりに、おつしやつて居られまして、それは或いは御政務の事に就いておつしやつて居られたのかも知れませぬが、けれどもまた歌道に於いても、その建保元年あたりには、もうそろそろ将軍家の和歌の御研鑽も十年ちかくなつてゐたのではないでせうか。御幼少の頃より和歌に親しみ、古写本の断片などに依り少しづつ本格のお手習ひをはじめ、十四歳の頃にはすでにお傍の人たちを瞠若たらしむるほどの秀歌をおよみになつて、さらにそのとし、内藤兵衛尉朝親さまが京都よりの御土産として新古今和歌集一巻を献上なされ、しかもその和歌集には御父君、右大将家のお歌も撰載せられて居りましたので、御感激もひとしほ強く、その和歌集に就いていよいよ歌道にはげみ、御ところの風流人を召集めて和歌の御会などもおひらきになり、たまたま御気色を蒙つた御家人が、和歌一首たてまつつたところ、たちまち御宥免になつたとかいふ事さへあつたほどで、承元二年、十七歳の御時に清綱さまから相伝の古今和歌集の献上があり、末代までの重宝とおよろこびになつたのは前にも申し上げました事で、その翌年には御夢想に依つて住吉社に二十首の御詠歌を奉り、事のついでに、京極中将定家朝臣に御初学以来のお歌の中から三十首を選んで送り、ほどなく、定家卿からその三十首のお歌にそれぞれお点をつけて返進してまゐりまして、それ以来、定家卿について更に熱心に歌道にはげまれ、「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め、及ばぬまでも高き姿を願ひて、」などといふ定家卿のお教へに従ひ、翌々年の七月には、時ニヨリ過グレバ民ノ歎キナリ八大竜王雨止メ給ヘといふ堂々たるお歌をお作りになられ、もはや押しも押されもせぬ古今独歩の大歌人たる御品格をお示しになり、さうして、その十月には鴨の長明入道さまにお逢ひになり、稲妻の胸にひらめくが如く一瞬にして和歌の奥儀を感得なされ、それ以後のお歌はことごとく珠玉ならざるはなく、いまは、はや御年二十二歳、御自身も、このとしをもつて、わが歌の絶頂とお見極めをつけられた御様子でございまして、御詠歌の数もおびただしく、深夜、子の剋、丑の剋まで御寝なさらずにお歌を御労作なさつて居られる事も珍らしくはなく、そのやうな折にはお顔の色も蒼ざめ、おからだも透きとほるやうなこの世のお方でない不思議の精霊を拝する思ひが致しまして、精霊が精霊を呼ぶとでも申すのでございませうか、御苦吟の将軍家のお目の前に、寒々した女がすつと夢のやうに立つて、私もそれは見ました、まざまざと見ました、あなやの声を発するいとまもなく、矢のやうに飛んで消え去りましたが、天稟の歌人の御苦吟の折には、このやうな不思議も敢へて異とするに足らぬのではなからうかと、身の毛もよだつ思ひに震へながらも私はそのやうに考へ直した事でございました。このとしの暮に将軍家は、あの、のちに鎌倉右大臣家集または金槐和歌集と呼ばれた古今に比類なく美しい御和歌集を御自身のお手によつて御編纂なされたのでございますが、御師匠の定家卿もその前後には、この尊くすぐれた御弟子に対してひとかたならず御助勢を申し、前年の建暦二年の九月にも筑後前司頼時さまに託して御消息ならびに和歌の御文書を将軍家に送りまゐらせ、またこのとしには、八月にいちど、十一月にいちど和歌の文書を数々御献上に相成り、殊にも十一月の御文籍は、相伝の私本の万葉集だつたので、あの承元二年に清綱さまから相伝の古今和歌集を献上せられた時よりも更に深くおよろこびの御様子に拝され、将軍家にとつては、古今和歌集も、また万葉集も、まさかはじめてお手にせられたといふわけはなく、不完全ながら写本の二、三は御所持になつて居られて前々からそのだいたいを熟知なされ、万葉集の歌に劣らぬ高い調べのお歌もずいぶん早くよりお作りになつていらつしやつたのでございますが、五月の和田合戦で御ところの文庫の書籍も大半は焼失し、お心淋しく存じて居られた折も折、定家卿から相伝の私本の万葉集が一部送られてまゐりましたのでございますから、そのおよろこびの深さもお察し出来るやうな気が致します。新しい御ところも御落成いたし、八月二十日にさかんな御儀式を以て御入りなされ、御ところの御設計に就いての御熱中も一段落と思ふと、こんどはこの和歌に最後の異常の御傾倒がはじまりまして、御政務は、やはりひと任せ、日夜、お歌の事ばかり御案じなされて居られる御様子で、お奥の女房たちを召集めて和歌の勝負をお言ひつけになるとすぐにまた、女人には和歌がわからぬ、とおつしやつて、武州さま、修理亮さま、出雲守さま、三浦左衛門尉さま、結城左衛門尉さま、内藤右馬允さま等のれいの風流武者の面々を引連れて火取沢辺に秋草を御興覧においでになり、たいへんの御機嫌で御連歌などをなされ、相州さまこそ、何もおつしやらない御様子でごさいましたが、数ある御家人の中には、その頃の将軍家の御行状に眉をひそめて居られたお方もあつた御様子で、たうとうそのとしの九月二十六日には、短慮一徹の長沼五郎宗政さまが、御ところに於いて大声を張り挙げ思ふさま将軍家の悪口を申し上げたといふ、まことに気まづい事さへ起つてしまひました。故畠山次郎重忠さまの御末子、阿闍梨重慶さまが、日光山の麓に於いて浮浪の徒を集めて、謀叛をたくらんでゐるといふ知らせが九月の十九日にございまして、御ところに於いてはその日のうちに長沼五郎宗政さまを鎮圧のために御差遣に相成りましたやうで、宗政さまは、ただちに下野国さして御進発、二十六日に、重慶さまのお首をさげて御意気揚々と帰つてまゐりました。将軍家はその折すこしく御酒気だつたのでございますが、宗政さまがお首をひつさげて御参着の事をちらと小耳にはさんで御眉をひそめられ、殺せとは誰の言ひつけ、畠山重忠は、このたびの和田左衛門尉とひとしく、もともと罪なくして誅せられたる幕府の忠臣、その末子がいささか恨みを含んで陰謀をたくらんだとて、何事か有らんや、よつて先づ其身を生虜らしめ、重慶より親しく事情を聴取いたし、しかるのちに沙汰あるべきを、いきなり殺して首をひつさげて帰るとは、なんたる粗忽者、神仏も怒り給はん、出仕をさしとめるやう、と案外の御気色で仲兼さまに仰せつけに相成り、仲兼さまはそのお叱りのお言葉をそのまま宗政さまにお伝へ申しましたところが、宗政さまは、きりりと眦を決し、おそれながら、たはけたお言葉、かの法師を生虜り召連れまゐるは最も易き事なりしかど、すでに叛逆の証拠歴然、もしこの者を生虜つて鎌倉に連れ帰らば、もろもろの女房、比丘尼なんど高尚の憂ひ顔にて御宥免を願ひ出づるは必定、将軍家に於いても、ただちにれいの御慈悲とやらのお心を用ゐてかかる女性の出しやばりの歎願を御聴許なさるは、もはや疑ひも無きところ、かくては謀逆もさしたる重き犯罪にあらず、ひいては幕府の前途も危ふからんかと推量仕つて、かくの如くその場を去らしめず天誅を加へてまゐりましたのに、お叱りとは、なあんだ、こんなふうでは今後、身命を捨て忠節を尽す者が幕府にひとりもゐなくなります、ばかばかしいにも程がある、そもそも当将軍家は、故右大将家の質素を旨とし武備を重んじ、勇士を愛し給ひし御気風には似もやらず、やれお花見、やれお月見、女房どもにとりまかれ、あさはかのお世辞に酔ひしれて和歌が大の御自慢とはまた笑止の沙汰、没収の地は勲功の族に当てられず、多く以て美人に賜はる、たとへば、榛谷四郎重朝の遺跡を五条の局にたまはり、中山四郎重政の跡を以て、下総の局にたまはるとは、恥づかし、恥づかし、いまにみるみる武芸は廃れ、異形の風流武者のみ氾濫し、真の勇士は全く影をひそめる事必至なり、御気色を蒙り、出仕をさしとめられて、かへつて心がせいせい致しました、と日頃の鬱憤をここぞと口汚く吐きちらし、肩をゆすつて御退出なさいましたさうで、お部屋が離れてゐるとはいへ、たいへんな蛮声でございましたから、将軍家のお耳元にも響かぬ筈はなく、お傍の私たちはひとしく座にゐたたまらぬ思ひではらはら致して居りましたが、さすがに将軍家の御度量は非凡でございました。
武将ハ、アレデヨイノデス。
 とまじめなお顔でおつしやつて、さうして何事もなかつたやうに静かに御酒盃をおふくみになられました。その後まもなく、宗政さまの御出仕をもお許しに相成りましたが、けれども、将軍家に於いては以前と少しも変らず、やつぱり和歌管絃に御耽溺なされ、宗政さまの身命を賭しての罵言も、一向にお気にとめていらつしやらない御様子で、ただ、御朝廷と神仏に関する事になると、にはかに別人の如く凜乎たる御態度をお示しになり、それからもう一つ、あの、さみだれの降る日に、つぎつぎと討たれて消えた和田氏御一族郎党の事は、さめても寝ても、瞬時もお心から離れなかつたらしく、そのとしの十二月三日には、たうとう将軍家御自身で寿福寺へお参りになり、故左衛門尉義盛さまをはじめその御一族郎党の御冥福をお祈りになつたほどでございました。

建保二年甲戌。二月大。一日、丙申、晴、亥刻地震。四日、己亥、晴、将軍家聊か御病悩、諸人奔走す、但し殊なる御事無し、是若し去夜御淵酔の余気か、爰に葉上僧正御加持に候するの処、此事を聞き、良薬と称して、本寺より茶一盞を召進ず、而して一巻の書を相副へ、之を献ぜしむ、茶徳を誉むる所の書なり、将軍家御感悦に及ぶと云々。七日、壬寅、晴、寅剋大地震。十四日、己酉、霽、将軍家烟霞の興を催され、杜戸浦に出でしめ給ふ、漸く黄昏に及びて、明月の光を待ち、孤舟に棹して、由比浜より還御と云々。
同年。三月小。九日、甲辰、晴、晩に及びて、将軍家俄かに永福寺に御出、桜花を御覧ぜんが為なり。
同年。四月大。三日、丁酉、晴、亥剋大地震。
同年。六月大。三日、丙申、霽、諸国炎旱を愁ふ、仍つて将軍家、祈雨の為に八戒を保ち、法花経を転読し給ふ。五日、戊戌、甘雨降る、是偏に将軍家御懇祈の致す所か。十三日、丙午、関東の諸御領の乃貢の事、来秋より三分の二を免ぜらる可し、仮令ば毎年一所づつ、次第に巡儀たる可きの由、仰出さると云々。
同年。八月小。七日、己亥、甚雨洪水。廿九日、辛酉、陰、去る十六日、仙洞秋十首の歌合、二条中将雅経朝臣写し進ず、将軍家殊に之を賞翫せしめ給ふと云々。
同年。九月大。廿二日、癸未、霽、丑剋大地震。
同年。十月小。六日、丁酉、晴、亥剋大地震。十日、辛丑、霽、申刻甚雨雷鳴。
同年。十一月大。
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