右大臣実朝
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著者名:太宰治 

大海ノ磯モトドロニヨスル波ワレテクダケテサケテ散ルカモ
 一言の説明も不要かと存じます。
 御台所さまの御事でも申し上げませう。前にもちよつと申し上げましたが、この御台所さまは、かしこきあたりとも御姻戚関係がおありになる京の御名家、坊門信清さまの御女子にて、元久元年、御年十三にして当将軍家へ御輿入に相成りました由にございます。人の話に依りますと、そのとしの十月十四日には関東切つての名門の中から特に選び出された容儀華麗、血気の若侍のみ二十人、花嫁さまをお迎へに京都へ出向かれ、その若侍のうち正使の左馬の介政範さまが京都へ着くと同時に御病気でおなくなりになられ、また畠山の六郎重保さまは京の宿舎の御亭主たる平賀の右衛門朝雅さまとささいの事から大喧嘩をはじめてそれが畠山御一族滅亡の遠因になつたなどの騒ぎもございましたが、まあ、それでもどうやら大過なく十二月十日、姫さまの関東御下向の御行列を警衛なさつて、その時の御行列の美々しかつたこと、今でも人の語り草になつてゐるやうでございます。京を御進発の十二月十日は、一天晴れて雲なく、かしこくも上皇さまは法勝寺の西の小路に御桟敷を作らせそれへおのぼりになつて、その御行列を御見送りあそばしたとか、まづ先頭は、例の関東切つての名門の若侍九人、錦繍の衣まばゆく、いづれ劣らぬあつぱれの美丈夫、次には騎馬の者二人、次に雑仕二人、次にムシ笠の女房六人、それから姫さまの御輿、次に力士十六人、次に仲国さま、秀康さま、いづれも侍のこしらへ、次に少将忠清さまの私兵十人、その次がまた、例の関東切つての美男若君十人、それから女房の御輿が六つもつづいて、衣服調度ことごとく金銀錦繍に非ざる無く、陽を受けて燦然と輝き、拝する者みな、うつとりと夢見るやうな心地になつてしまひましたさうで、けれども花嫁さまの御輿から幽かに、すすり泣きのお声のもれたのを、たしかに聞いたと言ひ張る人もございましたさうで、まさか、そのやうな事のあるべき筈はございませぬが、でも御年わづか十三歳、見知らぬ遠いあづまの国へ御下向なさるのでございますから、ずいぶんお心許なく思召したに違ひございませぬ。将軍家に於いても、それを御明察なさらぬわけはなく、何かと優しくおいたはりになつた事と存ぜられます。私が御ところへあがつた時には、御台所さまもすでに御年十七歳、あづまの水にも言葉にも、すつかりお馴れの御様子で、京をお恋ひなさるやうな御気色はみぢんもお見せになりませんでした。さうして故右大臣さま御在世中は、ただの一度も京へおいでになられた事もなく、しんから鎌倉のお人になり切つて居られて、右大臣さまがあのやうな御最期なされたその翌日、荘厳房律師行勇さまの御戒師にて、ほとんど御家人のどなたよりもさきに御剃髪なさいました。風にも堪へぬやうな、弱々しく臈たけたお方ではごさいましたが、やはり尊いお生れつきのお方はなんといつても違ふもので、征夷大将軍源実朝公の御台所に恥ぢぬ凜乎たる御自負と御決意とをつねにそのお胸の内にお収めなさつて居られたやうに日頃、私たちにも拝されました。そのやうにお心ばえのうるはしい御台所さまでございましたから、あのお強い御気性の尼御台さまも、この御台所さまをお可愛がりなさる事ひとかたでなく、どこへおいでになるにもお連れになつて、お互ひ実の御親子以上にお打解けられ末しじゆう御睦じくして居られたやうでございました。将軍家の御台所さまを御大切になさることもまた、それに劣らず、承元四年の六月の事でございましたが、御台所さまのおつきの女房丹後局さまが、京都へまゐりまして鎌倉への帰途、駿河国宇都山に於いて群盗に逢ひ、所持の財宝ならびに、御台所さまの御実家、坊門さまより整へ下された御台所さまへの御土産の御晴衣など悉く盗み取られたといふ事件がございまして、将軍家はそれをお聞きになり、御台所さまをお気の毒に思召したからでもございませう、直ちに駿河以西の海道の駅々に夜番を立たせ、これからも厳重に旅人の警固につとめさせるやう幕府の守護人にお言ひつけになり、またそのお土産の御晴衣なども必ず尋ね出させるやう手配なすべし、と仰出されました。将軍家のこのやうな深い御愛情には、御台所さまも、さだめし蔭でお泣きなされた事と存じます。お揃ひで社寺へお詣りなさる事も度々ございましたし、またお花見や、お月見、また船遊びなどには、いつも御台所さまをお誘ひになり、殊にも和歌会や絵合せの折には、御台所さまは、それこそ、なくてかなはぬお方で、将軍家に京風の粋をお教へ申し上げるお優しい御指南役のやうにさへ見受けられました。このやうに御仲御綺麗に、いつも変らず御円満でございましたが、たつた一つお淋しげなところは、つひにお子さまがお出来にならなかつた事で、このやうにお二人とも何から何まで美事に卓絶なさつて居られる御夫婦には天の御配慮によつて、お子の出来ないといふ事は、ままございますことで、私どもには少しも不思議ではないのでございますけれども、それをまた、例のせんさく好きが、何かと下司無礼の当推量などいたしまして、あのやうなけがらはしい事を口にして、よくその口が腐らぬものだと、私どもにはかへつてそのはうが不思議なくらゐでございます。それは私も、はつきり申し上げる事が出来るのですが、故右大臣さまは、お酒を飲み、花や月に浮かれてお歩きになつた事はございますけれども、お奥の女房たちに対して、とやかくの事は、その御生涯を通じて一度もございませんでした。恋のお歌だけは、あまり御上手でないと、あの鴨の長明入道さまもおつしやいましたが、忍ビテイヒワタル人アリキなどとお歌の端にはお書き込みになつて居られるものの、それこそまるで絵そらごと、長明入道さまの言ひ方に従へば、ウソでございます。考へてみると、あの入道さまの御眼力は、まことに恐るべきもので、将軍家は恋といふものをご存じなさらぬ、とためらはず御断言なさいましたが、和歌は心の鏡とか、そのお歌を拝読しただけで将軍家のあまりにも淡泊の御性情を底まで見抜いてしまつたのかも知れませぬ。それは永い間に二人、三人、ほのかな御贔屓にあづかつた女房もございませうが、けれどもあんな、下劣な取沙汰のやうな事実は、決して、一度もございませんでした。まづ御自身からそのやうに御清潔になさつて居られましたので、御ところの人たちに対しても、お酒をのんで乱酔に及んだりなどの失態は笑つてお許しもなさいましたが、好色のあやまちには、つねに厳罰をもつておのぞみになられました。その建暦二年の五月にも、執権相州さまの御次男朝時さま、このお方は色の白い、立派に御肥満の美男でございましたが、御兄君の修理亮泰時さまのあの御発明に似ず、どうも何事もあまりお出来にならないやうでございました。日頃、色を好まれるお方らしく、私もくはしい事は存じませぬが、なんでも御台所さまの女房の、その前年京都より下向したばかりの、氏育ち共にいやしからぬ一美形に、思ひを寄せた、とでも申すのでございませうか、その辺の機微は武骨の私どもにはわかりませぬ、とにかく艶書などの御工夫もあれこれなさいました御様子で、まことに、ばからしいお話で恐縮でございます。その艶書も極めてお手際のまづいものだつたのでございませう、一向にききめが無く、いまはこれまでと滅茶苦茶におなりになつて風流の御工夫も何もお棄てになり、深夜、その女房どののお局に忍び込み、ぐいぐいひつぱり出したとか、どうとか、それもまたお手際の極めてまづいところがございましたやうで大騒ぎになりまして、たちまち近習に召捕られてしまひました。御運のお悪いお方でございます。けれども、いまをときめく執権相州さまの次男若君の事でございますし、またその罪も、まあどちらかと言へば、御ところのお笑ひ草の程度で、そんなに憎むべき大悪業でもないやうに私たちには思はれて、翌日早々お許しの出る事と噂をして居りましたところが、その翌日、将軍家は事のあらましをお聞きになり一議に及ばず、鎌倉追放を御申渡しになりました。
仕へル者ノハリツメタ心モ知ラヌ。親ニモ同胞ニモワカレテ仕ヘテヰルノデス。
 と、お顔を横に向けて中庭の樹々の青葉にお眼をそそぎながら静かにおつしやいました。その両親とも兄弟姉妹ともわかれて、ひとり御ところに奉公してゐる者の朝夕ひたすら緊張してゐる心も知らず、おのれの色慾の工夫ばかりしてゐる人の愚かしさを、つよくおとがめになつたのだといふ御深慮の程が、私たちにもはじめて納得出来ました。相州さまも、その場に控へて居られましたが、さすがに御賢明の御人物だけあつて、この正しい道理に今は抗すべからずと即座に御観念なさつた御様子で、次郎朝時をただいまより勘当いたすべき旨、未練気もなく将軍家に言上なさいましたので、朝時さまも、あてがはづれて泣きながら駿河国富士郡の片田舎に落ちて行かれた由にございます。好色の念のつつしむべきはさる事ながら、将軍家が、御ところに奉公してゐる女房、童たちを、どのやうに慎重に正しくいつくしんで居られたか、このやうなお笑ひ草にも似た小さい例証に依つても明々白々におわかりの事と存じます。かへすがへす無礼千万の、あの憎むべき下賤の取沙汰の如き事実は、まことに、みぢんも見受けられなかつたといふ事をここに繰り返して申し上げて置く次第でございます。

同年。六月大。廿二日、丙申、御持仏堂に於て、聖徳太子の聖霊会を行はる、荘厳房以下、請僧七人と云々。廿四日、戊戌、将軍家和田左衛門尉義盛の家に入御、御儲基だ丁寧なり、和漢の将軍の影十二鋪を以て、御引物と為すと云々。
同年。七月小。九日、癸卯、賀茂河堤の事、難儀たりと雖も、勅諚の上は、早く彼の所々を除く可きの由、仰出さる。
同年。八月大。十八日、辛卯、伊賀前司朝光、和田左衛門尉義盛、北面の三間所に候す可きの由、今日武州伝へ仰せらる、彼所は、近習の壮士等を撰びて結番祗候せしむと云々、而るに件の両人は、宿老たりと雖も、古物語を聞召されんが為、之に加へらるる所なり。十九日、壬辰、鷹狩を禁断す可き事、守護地頭等に仰せらる、但し信濃国諏訪大明神御贄の鷹に於ては、免ぜらるるの由と云々。
同年。九月小。二日、乙巳、晴、筑後前司頼時、去夜京都より下向す、定家朝臣消息並びに和歌の文書等を進ず。
同年。十月大。廿日、壬辰、午剋、鶴岳上宮の宝前に羽蟻飛散す、幾千万なるかを知らず。廿二日、甲午、奉行人等を、関東御分の国々に下し遣はし、其国に於て、民庶の愁訴を成敗す可きの由、其沙汰有り、参訴の煩を止められんが為なり。
同年。十一月大。八日、庚戌、御所に於て、絵合せの儀有り、男女老若を以て、左右に相分ち、其勝負を決せらる、此事、八月上旬より沙汰有るの間、面々に結構尤も甚し、或は京都より之を尋ね、或は態と風情を図せしむ、広元朝臣献覧の絵は、小野小町の一期の盛衰の事を図す、朝光の分の絵は、吾朝の四大師の伝なり、数巻の中、此両部頻りに御自愛に及ぶ、仍つて左方勝ち訖んぬと云々。十四日、丙辰、去る八日の絵合の事、負方所課を献ず、又遊女等を召し進ず、是皆児童の形を摸し、評文の水干に紅葉菊花等を付けて、之を著し、各郢律の曲を尽す、此上芸に堪ふる若少の類延年に及ぶと云々。
同年。十二月大。廿一日、癸巳、陰、京都の使者、去る十日の除目の聞書を持参す、将軍家従二位に叙せられ給ふ。廿八日、庚子、晴、戌剋、鎌倉中聊か騒動す、道路其故無くして鼓騒す、是歳末の□劇に非ず、謀叛を発すの輩有るかの由、其疑有りと云々。
 女房、童の端々にまで、そのやうに人知れぬ厳粛のお心づかひをなさつて居られたほどのお方でございますから、幕府の御重臣や御家人を大事になさることもまた、ひとかたでなく、諸人ひとしくその厚いお恵みに浴し、このお若い将軍家になびきしたがふこと、萱野の風になびくさまにも似て、まことに山よりも高く海よりも深き御恩徳の然らしむるところとは言へ、その御勢力の隆々たるさまは、御父君右大将さまにもまさる心地が致しました。まさにこの御年二十一歳、さらに翌年の御年二十二歳の頃が、将軍家御一身に於かれましても最もお得意の御時期ではなかつたらうかと、私には思はれてなりませぬ。甚だ失礼の推量で、まことに申し上げにくい事でございます。けれども、どうも、それから後は、暗い、と申しても言ひ過ぎで、御ところには陽気な笑声も起り、御酒宴、お花見、お歌会など絶える事もなく行はれて居りましたが、どこやら奇妙な、おそろしいものの気配が、何一つ実体はないのに、それでもなんだか、いやな、灰色のものの影が、御ところの内外にうろついてゐるやうに思はれて、時々ゆゑ知らず、ぞつとする事などもございまして、その不透明な、いまはしい、不安な物の影が年一年と、色濃くなつてまゐりまして、建保五、六年あたりから、あの悲しい承久元年にかけては、もうその訳のわからぬ不安の影が鎌倉中に充満して不快な悪臭みたいなものさへ感ぜられ、これは何か起らずにはすまぬ、驚天動地の大不祥事が起る、と御ところの人たちひとしく、口には言ひませぬけれども暗黙の裡にうなづき合つてゐたほどでございまして、人の心も解け合はず、お互ひ、これといふ理由もなしに、よそよそしく、疑ひおびえ、とてもこの建暦二年の御時勢の華やかさとは較べものにも何もならぬものでございました。この建暦二年の頃には、まだまだ人の心も、なごやかに睦み合ひ、上のお好みになるところ、下も無邪気にそれを習ひ、れいのお歌も、はじめのうちこそ東国武士の硬骨から、頗るけむつたく思ひ、相州さまなど遠まはしに御注意申し上げたものでございましたが、この頃にいたつては、まづ入道広元さま、相州さまの御弟君武州時房さま、御長子泰時さま、それから三浦の義村さま、結城の三郎朝光さま、和田の朝盛さま、内藤知親さま、東の重胤さまなどといふ猛将お武骨の面々が、いつのまにやらいつぱしのお歌人になり澄まし、仔細らしく三十一文字を案じて、赤焼けた太いお首をひねりながら御廊下をお歩きになつて居られるお姿などわけもなく微笑しい感じがいたしました。なんでもかでもお歌さへ作れば、よほどの過失があつても、おゆるし下さるさうだなどといふ物欲しげなお気持から、三十一文字を習ひはじめる御家人衆も多く出て来て、御ところのお歌会はお盛んになる一方で、またこのとしには非常に大がかりの絵合せも興行され、お奥の女房、近習にまじつて、れいの猛将御歌人連もそろつて御参加なされ、かへつて武骨の朝光さまのお絵が抜群の御勝利を得られたなどの大番狂せもございまして、さうして数日後にはその絵合せに負けたお方たちから御馳走が出まして御酒宴になり、遊女を御ところにお召しになつて舞へ歌への大陽気で末座の私たちまで芸を強ひられ、真に駘蕩たるものがございました。けれども将軍家はいつもかうして遊び呆けて居られるといふわけでは決して無く、御政務のはうもいよいよあざやかに決裁なされ、また、かねて御尊崇の厩戸の皇子さまの御治蹟に就いては、その頃さらに深く御究明なされたところもございました御様子で、ほとんど御心酔に近いほどの御傾倒振りでございまして、そのとしの六月二十二日にも御持仏堂に於いて、皇子さまの御聖霊会をねんごろに取り行はせられました。厩戸の皇子さまに対する御心酔振りには、また他にいろいろと御理由もございました事と存じますが、もともと御皇室のお方々に対しては、誰から教へられるともなく謂はば自然の御本能に依り恭謙の赤心をお持ちになつて居られましたお方で、仙洞御所への絶対の御心服のほども、事あるごとにいよいよ歴然としてまゐりまして、そのとしも御朝廷からの御言ひ附けにより京の賀茂川堤の修築に取りかかりましたが、七月に幕府のその賦役の割当に就いてごたごたが起り、そのとき御朝廷のはうで新しく割当を定められ、それを幕府にお示しになりましたところ、こんどはその新しい割当に対して、これでは幕府のはうが非常な難儀な事になる、とただもう幕府大事の相州さまなど御ところへまゐつて苦情を申し上げる始末で、またもや紛糾しかけた時に、俗にいふ鶴の一声とでも申すものでございませうか、
叡慮ハ是非ヲ越エタモノデス
 一座はしんとなりました。謂はば天意、いかなる難儀があらうとも必ず速かに勅諚の御旨を奉ずべきものであると、威儀を正してお諭しになられました。決して和歌管絃にのみお心を奪はれてゐたお方ではございませぬ。やつぱり相州さまなどとは、そのお心の御誠実と言ひ、御視界の広さと言ひ、御着想の高さと言ひ、御気品と言ひ、まるで数十段のお差があると私たちには拝せられました。絵合せ、御酒宴に打ち興ぜられると共に、このやうな厳たる御決裁もなさいますし、また、御自身は風流をお好みなされても、それを御家臣にやたらにお強ひなさつて、和歌を作る者だけを特に御寵愛なされ、さうして和歌も出来ず絵合せも不調法といふ根つからの武骨者をうとんじなされたかといふと、全くそのやうな依怙の御沙汰はなさらず、たとへば和田左衛門尉義盛さま、このお方こそ鎌倉一の大武骨者、和歌は閉口、絵合せはまつぴら、管絃はうんざり、ほととぎすの声も浮かぬお顔で聞いて、ただ侍所別当のお役目お大事、忠義一徹の御老人でございましたが、将軍家にはこの野暮の和田さまが大の御贔屓で、御父君右大将さま御挙兵以来の至誠の御勇士いまに生き残れる者わづかに義盛、朝光と数へて五指にも足らぬ有様、殊にも元久二年、将軍家御年十四歳の折に、誠忠廉直の畠山父子が時政公の奸策により、むじつの罪にて悲壮の最期をとげられて以来、いよいよこのやうな残存の御老臣を御大切になされ、大野暮の和田さまをもいろいろとおいたはりになつて、この和田左衛門尉さまの居られる前では、和歌のお話などあまりなさらず、もつぱら故右大将家幕府御創設までの御苦心、または義盛さま十数度の合戦の模様など熱心にあれこれとお尋ねになり、左衛門尉さまも白髪のお頭を振つて訥々と当時の有様を言上し、天晴れ御宿老たるのお面目をほどこして御退出なさるのが常のことでございました。しかもこの建暦二年の頃から、さらにひとしほ此の老忠臣に対する御愛顧が深まつた御様子で、六月の二十四日には義盛さまのお宅へわざわざお遊びに出むかれましたほどで、和田氏御一門にとつては無上の光栄、またその折の将軍家のお手土産は、そこは御如才もなく、老勇士の一ばん喜びさうな和漢の猛将軍たちの肖像画といふわけでございまして、左衛門尉さまのその日のお喜びは、どのやうに深いものでございましたでせう。御ところの人々も、ひとりのこらず御老人のまさに末代までの御面目を慶賀し、かつは、おうらやみ申しました。光栄はそればかりでなく、八月十八日には、さらにこの義盛さまへ、同じ御気に入りの老勇士、結城の朝光さまと共に北の三間所、すなはち将軍家の御身辺ちかくに、いつも伺候してゐるやう仰出されまして、この三間所は、私たちのやうな若年の近習がほんの少数、かはり番に伺候してゐるところで、謂はば御ところのお奥でございまして、失礼ながら野暮のむさくるしい御老体など、まごつく場所ではないのでございますが、古いお物語なども随時聞きたいから、との仰せで特に三間所伺候に、さし加へられる事になつたのでございます。老いの面目これに過ぎたるは無く、そのお優しくこまかい、おいたはりには、他人の私どもでさへ、涙ぐましい思ひが致しました程でございます。老齢と雖もさらに奮起一番して粉骨砕身いよいよ御忠勤をはげみ、余栄を御子孫に残すべきところでございましたのに、まことに生憎のもので、この御寵愛最も繁かりしその翌年、あの大騒動にて御一族全滅に相成りました。或いは四月に御ところの御部屋の丸柱から、ひこばえが萌え出て、小さい白い花が咲いたり、或いは十月、鶴岳上宮に幾千万とも知れぬ羽蟻の大群が襲来したり、或いは歳末、鎌倉中の道路が異様の響きで鳴り出したり、この建暦二年といふとしは御ところ太平とは申しながら、その底には、どこやら、やつぱり不吉な鬼気がただよひ、おそろしい天災地変でも起るのではなからうかと、ひそかに懸念してゐた苦労性の人も無いわけではなかつたのでございますが、まさか、あの和田さまが。

建暦三年癸酉。正月小。十六日、戊午、天晴、将軍家二所の御精進始なり。廿二日、甲子、天晴、二所に御進発、相州、武州等供奉し給ふ。廿六日、戊辰、晴、将軍家二所より御帰著と云々。
同年。二月大。一日、壬申、幕府に於て和歌御会有り、題は梅花万春を契る、武州、修理亮、伊賀次郎兵衛尉、和田新兵衛尉等参入す、女房相まじる、披講の後、御連歌有りと云々。二日、癸酉、昵近の祗候人の中、芸能の輩を撰びて結番せらる、学問所番と号す、各当番の日は、御学問所を去らず参候せしめ、面々に時の御要に随ふ、又和漢の古事を語り申す可きの由と云々。十五日、丙戌、天霽、千葉介成胤、法師一人を生虜りて、相州に進ず、是叛逆の輩の中使なり、相州即ち此子細を上啓せらる。十六日、丁亥、天晴、安念法師の白状に依りて、謀叛の輩を、所々に於て生虜らる、凡そ張本百三十余人、伴類二百人に及ぶと云々、此事、濫觴を尋ぬれば、信濃国の住人泉小次郎親平、去々年以後謀逆を企て、輩を相語らひ、故左衛門督殿の若君を以て大将軍と為し、相州を度り奉らんと欲すと云々。
同年。三月大。二日、癸卯、天晴、今度叛逆の張本泉小次郎親平、建橋に隠れ居るの由、其聞有るに依りて、工藤十郎を遣はして召さるる処、親平左右無く合戦を企て、工藤並びに郎従数輩を殺戮し、則ち逐電するの間、彼の前途を遮らんが為、鎌倉中騒動す、然れども、遂に以て其行方を知らずと云々。六日、丁未、天霽、弾正大弼仲章朝臣の使者、京都より到来す、去月廿七日閑院遷幸、今夜即ち造営の賞を行はる、将軍家正二位に叙し給ふ、仍つて其除書を送り進ず。八日、己酉、大霽、鎌倉中に兵起るの由、諸国に風聞するの間、遠近の御家人群参すること、幾千万なるかを知らず、和田左衛門尉義盛は、日来上総国伊北庄に在り、此事に依りて馳せ参じ、今日御所に参上し、御対面有り、其次を以て、且は累日の労功を考へ、且は子息義直、義重等勘発の事を愁ふ、仍つて今更御感有りて、沙汰を経らるるに及ばず、父の数度の勲功に募り、彼の両息の罪名を除かる、義盛老後の眉目を施して退出すと云々。
 さて、つづく建暦三年、このとしは十二月六日に建保と改元になりましたが、なにしろ、事の多いとしでございました。正月一日から地震がございまして、はなはだ縁起の悪い気持が致しましたが、果して陰謀やら兵乱やら、御ところの炎上、また大地震、落雷など、鎌倉中がひつくり返るやうな騒ぎばかりが続きました。けれども将軍家の御一身上に於いては、御難儀、御心痛の事もそれは少からずございましたでせうが、それと同時に、このとしあたりが最も張り合ひのございました時代のやうに見受けられぬ事もないわけではございませんでした。神品に近い秀抜のお歌も、このとしには続々とお出来になりました御様子でございますし、のちに鎌倉右大臣家集とも呼ばれ、または金槐和歌集とも称せられた千古不滅の尊くもなつかしい名歌集も、このとしの暮にひそかに御自身お編みになられたものらしく、鎌倉右大臣家集或いは金槐和歌集といふ名前などは、もちろん将軍家のおなくなりになつて後に附せられたものでございませうが、ついでながら、金槐の金は鎌倉の鎌の偏をとつたものの由で、槐は御承知のとほり大臣を意味する言葉ゆゑ、金槐とは鎌倉右大臣の事でございますさうで、私たちには思ひ出も悲しくさうして今ではあのお方の御俤をしのぶ唯一のお形見ともなつたあの御歌集が、御年わづか二十二歳で完成せられたとは、あのお方の、やつぱり、ただ人でないといふ事の何よりの証拠ともならうかと存ぜられます。そのとしのお正月にも、例の二所詣をなさいまして、私などもお供の端に加へていただき、御出発して程なく、ひどい吹き降りになつて難儀をいたしましたが、将軍家はお気軽なもので、
春雨ニウチソボチツツアシビキノヤマ路ユクラム山人ヤ誰
 などといふおたはむれのお歌をおよみになつて、お供の人たちを大笑ひさせて居られました。本当に、この毎年の二所詣は、将軍家の深い御敬神のお心から取行はせられたとは言へ、滅多に遠く御他出などなさらなかつた将軍家にとつては、これが唯一のお気晴しの御遊山であつたのかも知れませぬ。まづ箱根権現に参籠して謹んで祈誓の誠を致され、それから伊豆山権現に向つて出発いたしましたが、その前日あたりから一片の雲もなく清澄に晴れて、あたたかい日が続き、申しぶんの無いたのしい旅が出来ました。箱根を進発してすぐに峠にさしかかり、振りかへつてみると箱根の湖は樹間に小さくいぢらしげに碧水を湛へてゐるのが眼下に見えました。
タマクシゲ箱根ノ水海ケケレアレヤ二クニカケテ中ニタユタフ
 と将軍家のおよみなされたのもこの時でございまして、間然するところなき名描写のやうに私たちには思はれました。既にご存じでございませうが、心のことを東言葉でケケレと申す事もございまして、また二クニといふのは相模と伊豆の事かと存ぜられます。相模伊豆の国ざかひに、感じ易いものの姿で蒼くたゆたうてゐるさまが、毎度の事でございますが、不思議なくらゐそのまんま出てゐるやうに思はれます。将軍家のお歌は、どれも皆さうでございますが、隠れた意味だの、あて附けだの、そんな下品な御工夫などは一つも無く、すべてただそのお言葉のとほり、それだけの事で、明々白々、それがまたこの世に得がたく尊い所以で、つまりは和歌の妙訣も、ただこの、姿の正しさ、といふ一事に尽きるのではなからうかとさへ、愚かな私も日頃ひそかに案じてゐるのでございますが、あまり出すぎたことを申しあげて、当世の和歌のお名人たちのお叱りを受けてもつまりませぬゆゑ、もうこれ以上は申し上げませぬけれど、とにかく、この箱根ノミウミのお歌なども、人によつては、このお歌にこそ隠された意味がある、将軍家が京都か鎌倉か、朝廷か幕府かと思ひまどつてゐる事を箱根ノミウミに事よせておよみになつたやうでもあり、あるいは例の下司無礼の推量から、御台所さまと、それから或る若い女人といづれにしようか、などとばからしい、いろいろの詮議をなさるお人もあつたやうでございましたが、私たちにはそれが何としても無念で私自身の無智浅学もかへりみず、ついこんな不要の説明も致したくなつてまゐりますやうなわけで、私たちは現に将軍家と共にそのとしの二所詣の途次ふと振りかへつてみたあの箱根の湖は、まことにお歌のままの姿で、生きて心のあるもののやうにたゆたうて居りまして、御一行の人たちひとりのこらず、すぐに気を取り直して発足できかねる思ひの様子に見受けられました、ただ、その思ひだけでございます、見事に将軍家はお歌にお現しになつて居られます。箱根の湖を振りかへり振りかへり峠をのぼり、頂上にたどりつきましたら、前方の眼界がからりとひらけて、
箱根ノ山ヲウチ出デテ見レバ浪ノヨル小島アリ供ノ者ニ此ウミノ名ヲ知ルヤト尋ネシカバ伊豆ノ海卜ナン申スト答へ侍リシヲ聞キテ
箱根路ヲ我コエクレバ伊豆ノ海ヤ沖ノ小島ニ浪ノヨル見ユ
 まことに神品とは、かくの如きものと思ひます。あづまには、あづまの情がある筈でござりますなどと、ぶしつけな事を申し上げたあの鴨の長明入道さまも、この名歌に対しては言葉もなくただ低頭なさるに違ひございませぬ。ついでながら、このとしの三月、弾正大弼仲章さまの御使者が、京都より到着なさいまして、去月二十七日京都の御所に於いて、このたび閑院内裏御竣工につきその造営の賞が行はれ、将軍家正二位に陞叙せられた事の知らせがございまして、昨年の暮、従二位に叙せられたばかりのところ、今また重なる御朝恩に浴し、これすでに無上の光栄、かたじけなさにお心をののいて居られる御様子に拝されましたが、さらにその除書に添へられ、かしこくも仙洞御所より、いよいよ忠君の誠を致すべし、との御親書さへ賜りました御気配で、その夜は前庭に面してお出ましのまま、深更まで御寝なさらず、はるかに西の、京の方の空を拝し、しきりに御落涙なさつて居られました。
百ノ霹靂一時ニ落ツトモ、カクバカリ心ニ強ク響クマイ。
 と蒼ざめたお顔で、誰に言ふともなく低く呻かれるやうにおつしやつて、その夜、三首のお歌を謹しみ慎しみお作りになられました。
 太上天皇御書下預時歌
オホキミノ勅ヲカシコミ千々ワクニ心ハワクトモ人ニイハメヤモ
ヒンガシノ国ニワガヲレバ朝日サスハコヤノ山ノカゲトナリニキ
山ハサケ海ハアセナム世ナリトモ君ニフタ心ワガアラメヤモ
 御説明もおそれおほい事でございますが、ハコヤノ山とは藐姑射之山、仙洞と同義で、すなはち仙洞御所をそのやうに称し奉る御ならはしのやうでございます。このお歌に就いても、いつたいその時の御書の御内容はどういふものであつたのか、さうして将軍家はそれに依つて如何なる決意をなさつたのか、などと要らぬ不敬の探索をなさるお方もございますやうですが、別にそのやうな御苦労の御詮議をなさるまでもなく、何もかもそつくり明白にそのお歌に出てゐるではございませぬか。かたじけなくも御親書を賜り百雷一時に落ちる以上の強い衝動を覚えられ、その素直なる御返答として、大君への純乎たる絶対の恭順のお心をお歌におよみになつたのでございますから、御書の御内容もおのづから推量できる筈でございます。すなはち将軍家に対して、さらに朝廷への忠勤をはげむやう、との極めて御当然の御勅諚であられたといふより他には何も考へられないではございませぬか。前にもくどいくらゐ申し上げましたが、将軍家のお歌はいつも、あからさまなほど素直で、俗にいふ奥歯に物のはさまつたやうな濁つた言ひあらはし方などをなさる事は一度もなかつたのでございます。この時お二方の間に、何か御密約が成立したのではなからうか、などとひどく凝つた推察をなさるお人さへあつたやうでございますけれど、それなら、将軍家の方からも機を見てひそかに御返書を奉るべきでございまして、何もことさらに堂々とお歌を作り、御身辺の者にも見せてまはるなどは、とんでもない愚かな事で、ばからしいにも程がございます。そのやうな、ややこしい理由など、一つも無いのでございます。大君への忠義の赤心に、理由はございません。将軍家に於いても、ただ二念なく大君の御鴻恩に感泣し、ひたすら忠義の赤誠を披露し奉らん純真無垢のお心から、このやうなお歌をお作りになつたので、なんの御他意も無かつたものと私どもには信ぜられるのでございます。御胸中にたとひ幽かにでも御他意の影があつたら、とても、このやうに高潔清澄の調べが出るものではございませぬ。将軍家はこの時は御年わづかに二十二歳でごさいましたが、このとしの暮に、例の、鎌倉右大臣家集または金槐和歌集とのちに称せられた御自身の和歌集を御みづからお編みになつてその折に、この三首のお歌を和歌集の巻軸として最後のとどめの場所にお据ゑになり、やがてその御歌集を仙洞御所へも捧げたてまつつた御様子でございました。私どもの日常拝しましたところでは、あの将軍家でさへ、決して普通のお生れつきではなく、ただ有難く尊く目のくらむ思ひがするばかりでございましたのに、その将軍家を御一枚の御親書によつて百の霹靂に逢ひし時よりも強く震撼せしめ恐懼せしめ感泣せしめるお方の御威徳の高さのほどは、私ども虫けらの者には推しはかり奉る事も何も出来ず、ただ、そのやうに雲表はるかに高く巍然燦然と聳えて居られる至尊のお方のおはしますこの日本国に生れた事の有難さに、自づから涙が湧いて出るばかりの事でございます。ただもう幕府大事であくせくしてゐるあの相州さまなど、少しは将軍家を見習ひ、この御皇室の洪大の御恩徳の端にでも浴するやうに心掛けてゐたならば、後のさまざまの悲惨も起らずにすんだのでございませうが、そこは将軍家と根本から違つて、胆力もあり手腕もあり押しも押されもせぬ大政治家でございましたのに、御自身御一家の利害のみを考へ、高潔の献身を知らぬお方でございましたので、次第に人から憎まれるやうになり、つひには御自分から下品の御本性を暴露なさるやうにさへなりました。このとしの二月にも信濃国の住人、泉小次郎親平といふ人が、相州さまを憎んで亡きものにしようと内々謀逆を企ててゐたのが、未然に露顕して鎌倉中が大騒動になつたといふ事件がございました。この泉小次郎親平といふ人は、前将軍左金吾禅室さまの三男若君、千寿さまを大将軍に擁立して、いまは時を得顔の北条一族を殲滅せんとの大陰謀を企て、建暦元年頃よりひそかに同志を募つて居りましたのださうで、直接、当将軍家に対しては逆意がなかつたやうでございますが、何せそのお傍に控へて権力を振ふ相州さまが憎くて、それにまたこの泉親平に劣らず、かねてより相州さまをこころよからず思つてゐた御家人もなかなか多かつた様子で、たちまち同志がふえて一大勢力になりかけた時、二月十五日、千葉介成胤さまが、安念坊といふ挙動あやしき法師を捕へて、相州さまのお手許に差し出しました。これが大陰謀露顕の端緒で、その安念坊といふ法師は、謀逆の遊説使のやうなものでございましたさうですから、大いにその法師は責めたてられ、つひにその自白に依り、同志百三十余人、伴類二百人ことごとく召しとられ、相州さまの下知で、ただちに断罪あるいは流罪に処せられた様子でございますが、叛逆の張本人たる泉小次郎親平だけは、いづかたへともなく逃れ去つておしまひになつたさうで、相当の豪傑でしかも機敏のお方だつたらしく思はれます。将軍家に於いては、この異変をお耳になさつても別にお驚きになるやうな御様子も無く、ずつと以前からご存じのやうなお落ちつき振りで、ただその、泉親平といふ人の氏素性をずいぶんこまかにお尋ねになつて居られました。反徒たちに対してお怒りになつて居られるやうな御様子も見受けられず、反徒のひとり、薗田七郎成朝といふ人が召しとられて北条三郎時綱さまのお宅に預けられてゐたのを、まんまと脱走して、知人の敬音とかいふお坊さんのところへ行き、そのお坊さんが成朝に出家をすすめたところが、冗談言つてはこまる、私はこれからまた出直して大いに出世をするんだ、と放言して酒をのんで、それではまた、と言ひ残して行方知れずになつたとか、二、三日後にその坊さんは召し出されて、逐一その夜のことを陳述いたしましたが、あとで将軍家はそれをお聞きになつて声を立ててお笑ひになり、それは感心なこころがけだ、早くその者を見つけ出してゆるしておやりなさい、とおつしやつたのでございます。それからまた同じ囚人の渋河刑部六郎兼守といふ人が、断罪に処せられる前日に、十首の和歌を荏柄の聖廟に進じたとか、それをまた物好きにも御ところへ持つて来たお方がありまして、将軍家は、それを御覧になり、なかなか上手な歌です、この者をもゆるしておやりなさい、と気軽にお言ひつけになりました。すべてこのやうな調子で、このたびの異変に就いては一向になんともお感じになつて居られない御様子でございました。お傍で渋いお顔をなさつてゐる相州さまに対してお気がねなさるやうな事もなく、まことに天衣無縫、その御度量のほどは私どもにはただ不思議と申すより他はございませんでした。またこの陰謀の伴類の中に和田さまの御子息、四郎義直さま、五郎義重さまも、甚だまづい事でございましたが、はひつて居りまして、おのおのお預けの身になつてゐたのでございます。御父、和田左衛門尉義盛さまは、その頃、上総国伊北庄に御滞在でございましたさうで、鎌倉に兵起るの風聞に接しとるものも取りあへず鎌倉に駈けつけてみたら、御子息お二人捕へられてゐるので仰天して、ただちに御ところへ参り、拝謁のほどを願ひいれましたところ、御機嫌よくお許しに相成りすぐに御対面なさいました。その時、和田左衛門尉さまは、はつと平伏なさいましたきりで、額の皺に汗をにじませ、しばらくは何も言上できぬ御様子でございましたが、やがて、例の訥々たる御口調で、甚だ唐突に、故右大将家御挙兵以来の義盛さま御自身の十数度にわたる軍功を一つ一つならべ立てたのでございます。それも、考へ考へぽつりぽつりと申し上げるのでございますから、その長つたらしい事、将軍家もたうとう途中に於いてお笑ひになり、
ワカリマシタ。子息ハ宥免ノツモリデヰマシタ。
「身に余る面目。義盛づれの老骨を、――」と言ひかけて、たまらづわつと手放しでお泣きになつてしまひましたが、この主、この臣、まことにお二方の間の御情愛は、はたで見る眼にも美しい限りのものでございました。

同年。三月大。九日、庚戌、晴、義盛今日又御所に参ず、一族九十八人を引率して南庭に列座す、是囚人胤長を厚免せらる可きの由、申請ふに依りてなり、広元朝臣申次たり、而るに彼の胤長は、今度の張本として、殊に計略を廻らすの旨、聞食すの間、御許容に能はず、即ち行親、忠家等の手より、山城判官行村の方に召渡さる、重ねて禁遏を加ふ可きの由、相州御旨を伝へらる、此間、胤長の身を面縛し、一族の座前を渡し、行村に之を請取らしむ、義盛の逆心職として之に由ると云々。十七日、戊午、陰、和田平太胤長、陸奥国岩瀬郡に配流せらると云々。廿一日、和田平太胤長の女子、父の遠向を悲しむの余、此間病悩、頗る其恃少し、而るに新兵衛尉朝盛、其聞甚だ胤長に相似たり、仍つて父帰来の由を称して訪ひ到る、少生聊か擡頭して一瞬之を見、遂に閉眼すと云々、同夜火葬す、母則ち素懐を遂ぐ、西谷の和泉阿闍梨戒師たりと云々。廿五日、丙寅、和田平太胤長の屋地、荏柄の前に在り、御所の東隣たるに依りて、昵近の士、面々に頻りに之を望み申す、而るに今日、左衛門義盛、女房五条局に属して、愁へ申して云ふ、彼地は適宿直祗候の便有り、之を拝領せしむ可きかと云々、忽ち之を達せしむ、殊に喜悦の思を成すと云々。
同年。四月小。二日、癸酉、相州、胤長の荏柄の前の屋地を拝領せられ、則ち行親、忠家に分ち給ふの間、前給の人を追ひ出す、和田左衛門尉義盛、代官久野谷弥次郎、各卜居する所なり、義盛鬱陶を含むと雖も、勝劣を論ずれば、已に虎鼠の如し、仍つて再び子細を申す能はずと云々、先日一類を相率ゐて、胤長の事を参訴するの時、敢て恩許の沙汰無く、剰へ其身を面縛し、一族の眼前を渡し、判官に下さるること、列参の眉目を失ふと称し、彼日より悉く出仕を止め畢んぬ、其後、義盛件の屋地を給はり、聊か怨念を慰せんと欲するの処、事を問はず替へらる、逆心弥止まずして起ると云々。
 いつたいにあの相州さまは、奇妙に人に憎まれるお方でございました。右大臣さまがおなくなりになられ、私ども百余人は出家をいたし、その翌年、承久の乱とやらにて北条氏は気が狂つてさへ企て及ばぬほどの大逆の罪を犯しましたさうで、本当にどうしてまたそんな愚かしい暴虐をなさつたのか、乱臣逆賊と言つてもまだ足りぬ、まことに言語に絶した日本一の大たはけのなり下つた御様子でございますが、それまでには別に、これといふ目立つた悪業のなかつたお方でしたのに、それでも、どういふものか、人にはけむつたがられ、評判のよろしくないお方でございました。はじめにもちよつと申し上げて置きましたやうに、私たちの見たところでは、人の言ふほど陰険なお方のやうでもなく、気さくでへうきんなところもあり、さつぱりしたお方のやうにさへ見受けられましたが、けれども、どこやら、とても下品な、いやな匂ひがそのお人柄の底にふいと感ぜられて、幼心の私どもでさへ、ぞつとするやうなものが確かにございまして、あのお方がお部屋にはひつて来ると、さつと暗い、とても興覚めの気配が一座にただよひ、たまらぬほどに、いやでした。よく人は、源家は暗いと申してゐるやうでございますが、それは源家のお方たちの暗さではなく、この相模守義時さまおひとりの暗さが、四方にひろがつてゐる故ではなからうかとさへ私たちには思はれました。父君の時政公でさへ、この相州さまに較べると、まだしもお無邪気な放胆の明るさがあつたやうでございます。それほどの陰気なにほひが、いつたい、相州さまのどこから発してゐるのか、それはわかりませぬが、きつと人間として一ばん大事な何かの徳に欠けてゐたのに違ひございませぬ。その生れつき不具のお心が、あの承久の乱などで、はしなくも暴露してしまつたのでございませうが、そのやうな大逆にいたらぬ前には、あのお方のそのおそろしい不具のお心をはつきり看破する事も出来ず、或いは将軍家だけはお気づきになつて居られたかと思はれるふしもないわけではございませぬけれども、当時はただ、あのお方を、なんとなく毛嫌ひして、けむつたがつてゐたといふのが鎌倉の大半の人の心情でございました。なんでもない事でも、あのお方がなさると、なんとも言へず、いやしげに見えるのでございますから、それはむしろ、あのお方にとつても不仕合せなところかも知れませぬ。以前はそれほどでもなかつたのでございますが、将軍家が立派に御成人なされ、政務の御決裁もおひとりで見事にお出来になるやうになつてから、目立つて下品に陰気くさくなりました。それまでは何一つ御失態もなく、故右大将家の頃から、それこそコツンと音のするほど生真面目に御主人大事に勤めて来られたお方のやうで、これは古老から聞いたお話でございますが、故右大将家御壮年の頃、その嬖姫の事から御台所の政子さまとごたごたが起り、御台所は牧のお方の御父、牧三郎宗親さまにお言ひつけになり、姫の寄寓して居られる家をどしどし取毀させてしまつたので姫は驚き、大多和義久とかいふ人のお家へ逃げて行かれて、その時には右大将家も御自身のお立場があまり有利ではございませんでしたので黙つて何事もおつしやらず、やがて、御用事にかこつけなされて、何気ないお顔で義久のお宅へ姫をお見舞ひにおいでになり、ただちに牧の宗親さまをお召しになつて、なぜあのやうな乱暴を働いたか、ばか者め、と大いに罵倒なされ、むずと宗親さまの髻をお掴みになり、お刀でその髻を切り落して坊主にしておしまひになりましたさうで、そのお噂が御台所のお耳にはひつて御台所はいよいよ怒りかつは泣き、牧のお方まで、共にわめきなされ、御台所の父君の時政公も、娘たちには同情したいが、将軍家にも恐縮ですし、閉口し切つて、右大将家には何も告げずに一族を連れて北条の里へ帰つておしまひになつて、その時、右大将家は梶原の景季さまに向つておつしやるには、たかが婦女子の事から一族を引き連れてその里に帰り謹慎するなどとは、時政も大袈裟な男だ、けれども江馬だけはあの一族でもそんな馬鹿な事はしない、父に従はず鎌倉の家にひとり残つてゐるにちがひないから見て来なさい、とおつしやつたとか。江馬とは時政公の嫡子、すなはちのちの相州さまのことで、梶原の景季さまはさつそく様子を見にまゐりまして、やがてにこにこ笑ひながら帰つて来て、仰せのとほり、義時ひとりぽつんと家に残つて居りました、と申し上げたさうで、右大将家もよろこび、すぐさまお若い義時さまを御前にお召しになつて、汝はわが子孫を託すべき者、と仰せられたとか、この時はその義時さまの実直なお態度のおかげで、すぐに四方八方円満にをさまつたのださうでございますが、お若い時からこのやうに妙にまじめな、お調子には絶対に乗らぬお方であつたやうでございます。またあの元久二年に、時政公は牧の方さまにそそのかされ、重成入道などと謀り、当時の名門、畠山御一族に逆臣の汚名を着せ、之を誅戮しようとなさつた時にも、相州さまは、平気な顔をして御父君に対し、およしなさい、あれは逆臣ではありません、と興覚めな事を言つて、少しも動かうとなさらず、父君や牧の方さまが何かと猛り立つて興奮すればするほどいよいよ冷静におなりになつて、あれは逆臣でありません、畠山父子は共に得がたい忠臣ですよ、ばかな真似はおやめなさい、何をそんなに血相をかへて騒いでゐるのです、みつともない、などとづけづけいやな事を申すので、牧の方さまはたうとう泣き出して、なんぼう私が継母だからとてそんなに私をいぢめなくてもいいではないか、継母といふものはそんなに憎いものですか、いや、憎いだらう、憎いであらう、これまでも何かにつけて私ひとりを悪者にして、いつたいどこまで私を苦しめるおつもりか、たまには私にも親孝行の真似事でもいいから見せておくれ、と変な事を口走る始末になつたので、若い相州さまは、苦笑して立ち上り、ぢやまあ、こんど一度きりですよ、と言つて畠山御一族討伐に参加なされたとかいふお話でございます。普通のお人の場合では、一度きりですよ、とは言つても、またさらにもう一度と押してたのまれると、だから前に一度きりと断つて置きましたのに、仕様がないな、などと言ひながらも渋々また応ずるものでございますが、相州さまの場合には決してそのやうな事はなく、一度きりと言へばまさにそのとほりに一度きり、冗談も何もなく、あとはぴたりとお断りになるのでございます。その証拠には、すぐつづいて時政公が、またも牧の方さまにそそのかされ、当時将軍家弑逆の大それた陰謀をたくらんだ時には、もうはじめつから父君、義母君を敵として戦ひ、少しの情容赦もなくそのお二人の御異図を微塵に粉砕し、父君をば鎌倉より追放なされ、継母の牧の方さまには自害をすすめて一命をいただいておしまひになりました。その御性格には優柔不断なところが少しもなく、こはいくらゐに真面目に正確に御処理なさつてしまふのでございます。故右大将家のあの時に、ひとりぽつんとお家に残つて居られたといふ事も、また畠山御一族を逆臣に非ずと事もなげに言ひ切つて、さうして御継母に泣きつかれて、この度いちど限りとおつしやつて立ち上り、その次の御父母の悪逆の陰謀には、はつきり対立して将軍家を御守護申し上げたといふ事も、少しも間違つた御態度ではなく、間違ひどころか、まことに御立派な、忠義一途の正しい御挙止のやうに見えながらも、なんだか、そこにいやな陰気の影があるやうな心地がいたしまして、正しさとは、そんなものでない、はつきり言へませぬが、本当の正しさと似てゐながら、どこか全く違ふらしい、ひどく気味の悪いものがあるやうな気がするのは、私だけでございませうか。その頃、鎌倉の諸処に於いて、北条家横暴といふ声が次第に高くなつて来て居りましたのは、事実でございますが、それでは北条家のどなたがどのやうな専権を用ゐたかといふ事になると、まことに朦朧としてまゐりまして、尼御台さまだつて、将軍家が立派に御成人されてすべてあざやかに御政務を決裁なさつて居られるのにいちいちお口出しをなさる必要もなく、その頃はもつぱら故二品禅室さまの御遺児のお世話やら、また北条家御一族間の御交際、または御台所さまと連れ立つて鶴岳御参宮、将軍家の船遊び等にもお気軽にお供をなさるし、どこにもそんな専横の影は見受けられませんでした。相州さまはまた、ひたすらお役目お大事で、朝から晩まで幕府のこまごましたお仕事に追はれて、例の異常の正しさを以て怠らず律儀にお働きになり、その頃は将軍家の御意にさからふやうな事もほとんどなく、いまさら御一族と謀つて何かたくらむなどそんなおひまも野心もお持ち合せにならぬやうな御様子でございました。また御長子の修理亮泰時さまは、あのやうに御品性高く、将軍家のお覚えもめでたく、この建暦三年の二月に芸能の際立つてすぐれた近侍のお方たちばかりを集めて学問番所といふものをお作りになつた時にも、この修理亮泰時さまは、その御首席に選定せられたほどで、御ところの人気をおひとりで背負つて居られたやうな有様で、まさかあの、次男若君の朝時さまが専横といふわけでもございませんでせうし、専横どころか好色のあやまちのため御勘当になつたりなどしたのですからこれは問題外、ほかに相州さまの御弟の武州時房さまも居られますが、このお方はただ温厚のお方のやうで二念なく御実兄の相州さまのお下に控へていらつしやいましたし、結局、誰がどのやうに横暴なのか、どんな工合に出しやばるのか甚だ漠然たるものになつてしまふのでございます。相州さまが執権として幕府の首座に居られるのが気に食はぬとは言つても、それは無理な話で、故右大将家をまづまつさきにお助け申したのはこの北条家でございまして、和田左衛門尉義盛さまなど、よく御挙兵以来の御自身の軍功を御自慢なさいますが、伊豆の流人の頼朝公を、一目見てその非凡の御人物たることを察知いたし、わが長女との御親交をもあらはに怒り、ひそかに許容し、今を時めく平家の御威勢も恐れずこれをかくまひ申し、百人にも足らぬ一族郎党をことごとく献じて、伊豆の片隅に敢然と源家の旗をひるがへさせたお方は、余人ではございませぬ、この相州さまのお父君時政公でございました。その頃の北条氏には、たいした勢力もございませんでしたでせうに、いくら故将軍家の御人物を見込んだとて、時政公もまことに無謀な御決意をなさいましたもので、治承四年、以仁王よりの平家討伐の御令旨を賜つて勇気百倍、まづ戦の門出に伊豆の目代、平の兼隆を血祭りにあげようといふ事になり、お若いながらも御如才のない故将軍家は、出発に先立ち北条氏の一族郎党を煩をいとはずひとりひとり順々に別室へお招きになつて、汝ひとりが頼みだ、とおつしやいましたさうで、おのおのご自分ひとりが特に頼朝公の御信任を得てゐるのだと思ひ込み士気大いにあがり、けれども、たつた八十五騎とは心細いやうなもので、馬は毛深いよぼよぼの百姓馬、鎧は色あせて片袖の無いのがあつたり、毛沓は虫に食はれて毛が脱落いたし、いづれを見ても満足の武装ではなく、中には頬被りするものなどもあつて、ひどい軍勢でございましたさうですが、時政公の乾坤一擲の御意気ものすごく、すすめやすすめと戦法も何もあつたものでなく、ただどやどやと目代のお宅にあがり込み、寄つてたかつて兼隆の首級を挙げ、さいさきよしと喜び合つたこれこそ、そもそもの真の御挙兵とも申すべきで、和田左衛門尉さまなどは、その後、時政公からの使者を受けて三浦さま御一族と共にこれに御助勢申し上げたので、あの畠山御一族などはそのころは平家方にお仕へしてゐて、その三浦和田の軍勢と一合戦なさつた事さへあるさうで、はじめの八十五騎の心細くもあり、またけなげの御挙兵はただ北条家御一族にのみよつてなされたといふのは、たしかな事のやうでございまして、それ以来、故将軍家幕府御創設までの北条家御一族のお働きは、ご存じないお方など、ひとりも無い筈でございます。また当将軍家に対しては、ちやうど時政公が故右大将家をひとめで見込んだやうに、その御嫡子の義時さまが非常な力のいれ方で、前にも申し上げましたが当将軍家御襲職のために比企氏と戦ひこれを倒し、またのちに実の御父君と争つてまで当将軍家のお身を御守護なされ、それからも蔭になり日向になりお世話申してまゐりました、謂はばこれも当将軍家にとつては第一の功臣、先代の時政公は故右大将家の第一の功臣、このやうに親子二代つづいてそれぞれの将軍家におつくしなさつたのでございますから、外戚とか何かの御縁を求めなくとも当然、執権におなりになるべき御人物で、そこに不思議は無い筈でございますが、けれども、どういふものか北条氏専横の不平の声が御ところの内にも巷にも絶えませんでした。なにもかも、あの相州さまの奇妙な律儀が、いけないので、あれが人の心にいやな暗い疑ひや憎しみを抱かせるのではないかと私には思はれてなりませぬ。正しい事をすればするほど、そこになんとも不快な悪臭が湧いて出るとは、まことに不思議な御人柄のお方もあつたものでございます。そのとしの三月にも相州さまは極めて当然の或る御処置をなさつたにもかかはらず、それが他人の私共にさへ、なんだかむごく、憎らしく思はれ、たうとう和田さま御一族を激怒させ、鎌倉中が修羅の巷に化するほどの大騒動が起つてしまひました。泉小次郎親平の異変のあと始末もすんで、和田左衛門尉さまのお二人の御子息もめでたく御赦免にあづかり、これで一段落かと思つて居りましたところが、三月九日、すなはち和田左衛門尉さまがお二人の御子息の宥免のお沙汰に感泣なさいましたそのすぐ翌日、こんどは義盛さまの甥の和田平太胤長さまが、やはりこのたびの陰謀に加はり捕へられてお預けの身になつてゐるのを御赦し下さるやう、義盛さまからの重ねての御歎願がございました。私はその時お奥に伺候して居りましたので、その有様を拝見できませんでしたが、なんでも、義盛さまは木蘭地の水干に葛袴といふ御立派のいでたちで、御一族九十八人を引き連れ、みんな御一緒にずらりと南庭に列座して、胤長さま御放免の事をひとへに御歎願あそばしたとか、あまりのものものしさに、広元入道さまはお顔色を変へてお奥へ御注進にまゐりました。この広元さまは、建保五年に出家なされて法名覚阿と申し上げる事になりましたのでございますけれども、そのずつと前からもお頭のお禿げ工合ひなどで、御出家さまのやうな感じが致して居りまして、大官令さま、大膳大夫さま、または陸奥守さまなどとお呼びするよりも、入道さまとお呼びするのが今の私には一ばんぴつたりしてゐるやうな気が致しまして、また、ついでながら、相州さまの事をお呼び申し上げるにしても、相州さまはその後に右京権大夫にもおなりになるし、また陸奥守をもお兼ねになつたのでございますから、右京兆さまとか奥州さまとお呼び申さなければならぬ場合もございますのですが、どうも、相州さまとお呼びするはうが、自然の気持が致しますので、まあ、こまかい事にはあまりこだはらず、入道さま、相州さま、とお呼びしてお話をすすめることがございましても、そこはおとがめなく、お聞き捨て下さるやうお願ひ申し上げます。さて、その時に、広元入道さまの息せき切つての御注進を将軍家は静かに御聴取になり、うつむいてしばらくお考への御様子でございましたが、やがて、ふいとお顔を挙げ何か言ひ出さうとなされた途端、
「おゆるしなさいますか。」
 とお傍に居合せた相州さまが、軽く無雑作におつしやつたのでございます。その一言には微塵も邪念がなく、ただぼんやりおつしやつただけの言葉のやうでありながらも、末座の私どもまで、なぜだか、どきんとしたほどに、無限に深い底意が感ぜられ、将軍家に於いてもその一言のために、くるりとお考へが変つた御様子で、幽かにお首を横にお振りになつてしまひました。
「なにしろ、」と広元入道さまは、将軍家のお心のきまつたらしいのを見とどけて、ほつとした御様子で、つるりとお顔を撫で、それから仔細らしく眉をひそめて言ひ出しました。この広元入道さまは、まことに御用心深いお方で、何事につけても決して強く出しやばるやうな真似はなさらず、私どもにはなんの事やらわけのわからぬくらゐ甚だ遠まはしのあいまいな言ひかたばかりなさつて、四囲の大勢が決すると、はじめて、思案深げにその大勢に合槌を打つといふのが、いつものならはしでございまして、私どもにはそのお態度がどうにも歯がゆくてたまりませんでしたけれど、それがまた入道さまの大人物たる所以で、故右大将家幕府御創設このかた、人にうらまれるやうな事もなく、これといふ御失態もなさらず、つねに鎌倉一の大政治家たるの栄誉を持ちつづけることの出来た原因の一つでございましたのかも知れませぬ。「あの和田平太胤長といふのは、このたびの陰謀の張本人のひとりでございますから、御子息の義直、義重などの伴類のものと同様に御赦免は、むづかしからうとは存じましたが、一族九十八人がずらりと居並んでの歎願には、いや驚きまして、一応お取次ぎだけは致して置かうと存じましてただいま申し上げてみたやうな次第でございますが、和田氏もきのふ御子息の御宥免にあづかつたばかりなのに、さらに今日は主謀者たる甥の御赦免まで願ひ出るとは、ちと虫がよすぎるとは思ひましたものの、なにしろあの頑固の老人の事でございますから、是が非でもこの懇願一つはお聞きいれ賜りたしと、ぴたりと坐つて動きませんので、いや、とにかく、これは、――」などと、おつしやる事がやつぱり少しも要領を得ませんでした。広元さまは、大事な時には、いつでもこのやうなお態度をおとりになるのでございます。その時にも、将軍家に於いては既に御許容相成らずと決裁がすんでゐるのに、その御決裁を和田氏一族に申渡す憎まれ役だけはごめんなので、かうして何かとつまらぬ事をくどくどとおつしやつて、そのうち誰か、申渡しの役を引受けてくれるだらうとお心待ちになつて居られたのに違ひございませぬ。まいどの事なので相州さまにもそれがわからぬ筈はなく、まじめなお顔で、「それでは私が申渡してまゐりませう。」と気軽くおつしやつて立ち上りかけ、ふと考へて、将軍家のはうに向き直り、「今後の事もありますから、少しきびしく申渡してやらうと存じますが、いかがです。」
 将軍家は、その日どこやらお疲れになつて居られるやうな御様子でございまして、黙つてお首肯きになられただけでした。とにかくこれで広元入道さまは、れいの如くまんまと憎まれ役からのがれ、さうしてまた、相州さまは平気でそのいやな役を引受けて、いかにまいどの事とは言ひながら、相州さまはそんな時ちつともいやな顔をなさらぬのが、私たちには、なんとも不思議な事でございました。その日の相州さまの御申渡しの有様を、私はお奥に居りましたので拝見出来ませんでしたけれど、これがまたひどく峻烈なものだつたさうで、相州さまにとつては、それくらゐの事は当然の、それこそ「正しい」御処置のつもりでおやりになつたのでもございませうが、どうも相州さまがなさると何事によらず、深い意趣が含まれてゐるやうに見えて来るものですから、つひにその日は和田さま御一族九十八人を激昂させ、のちの鎌倉大騒擾が、ここに端を発したと言はれてゐるやうでございます。相州さまは南庭に列座してゐる御一族の者に向ひ、ただ一言、「御申請の件、御許容に能はず。」と事もなげに御申渡しになり、和田左衛門尉さまが何か言はうとなさつて進み出て威儀をとりつくろつてゐる間に、相州さまは、腹心の行親、忠家の両人に、それと目くばせして、囚人胤長さまを次の間より連れ出させ、義盛さまはじめ御一族が、これは不審、と思ふまもなくかの両人に命じて胤長さまを高手小手に縛り上げさせ、一族九十八人この意外の仕打に仰天して声もなくただ見まもつてゐるうちに相州さまは判官行村さまをお呼びになり、更に厳重に警固するやう言ひつけて囚人を手渡し、さつさと奥へお引き上げになつたさうで、それが叛逆の主謀者に対する正しい御処置なのかも知れませんが、わざわざ和田さまほどの名門の御一族大勢の面前で胤長さまを高手小手に縛りあげ、お役人に手渡して見せなくてもよささうなもので、それがまた相州さまのあの冷静で生真面目なお態度でもつて味もそつけも無くさつさと取行はれた事でございませうし、私ども他人でさへそれを聞いて、なんだか、いやな気が致しましたほどでございますから、当の和田左衛門尉さまをはじめ御一族の方々の御痛憤はいかばかりか、お察し出来るやうな気がいたします。和田平太胤長さまは、その月の十七日に陸奥国岩瀬郡に配流せられまして、それに就いてもまた、あはれな話がございました。
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