右大臣実朝
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:太宰治 

三浦ガワルイ。牧士ナドニ反抗サレルヤウデハ奉行ノ威徳ガナイノデス。奉行ヲヤメサセナサイ。
 例の平然たる御態度で、さりげなくおつしやるのでした。その時は、末座に控へてゐる私まで、ひやりと致しました。真に思ひ切つたる豪胆無比の御裁決、三浦さまほどの御大身も何もかも、いつさい、御眼中に無く、謂はば天理の指示のままに、さらりと御申渡しなさる御有様は、毎度の事とは申しながら、ただもう瞠若、感嘆のほかございませんでした。なるほど、そのお代官が牧士などの地下職人を相手に喧嘩をはじめるとは奉行としても気のきかない話で、将軍家からさうおつしやられてみると、いかにも、もつとも、理の当然の御裁決には違ひございませぬが、でもまた、私たち凡俗のものにとつては、いやしくも三浦平六兵衛尉義村さまともあらうお人を、このやうに無造作に、しかもやや苛酷と思はれるほどに御処置なされては、あとでどんな事になるだらうかとそれが心がかりでないこともございませんでした。さらにまた、六月のはじめ、和田左衛門尉さまが三味庄の地頭代を捕縛なされ、それに就いて少しややこしい事が起りました。越後国三味庄の領家の雑掌が盗賊の為に殺害せられ、その盗賊は逐電して何者とも判明しなかつたので、左衛門尉さまは、とにかくその庄の地頭代を召取らせ詮議を加える事に相成つたところが、その地頭代の親戚の者たちが不服を称へ、内々手をまはして尼御台さまに訴へ申し上げたので妙に気まづい事になつてしまひました。その頃、将軍家は御病後の、まだお床につかれて居られましたが、たとひ御病床にあつても、まつりごとを怠るやうな事の決して無いお方でございましたので、その日もおやすみのままで相州さまから、諸国の訴訟の事など、さまざま御聴取になつて居られましたが、そのところへ、おつきの女房の駿河の局さまが口を引きしめてそろそろと進み出て、改めて一礼の後、
「申し上げます。罪無き者が召取られて居りまする。越後国は三味庄の、――」と言びかけたら、相州さまは、ちえと小さい舌打ちをなさつて、
「なんだ、それか。あれは、もう、すみました。左衛門尉どのの処置至当なりとの将軍家の仰せがございました。あなたはまた、なんだつて、あんな事件に。」とおつしやつて、少し不機嫌になられた御様子でお眉をひそめ、お口をちよつと尖らせました。
「尼御台さまのお口添もございまする。」と駿河の局さまは、負けずに声をふるはせて申し上げました。つねから、お気性の勝つたお局さまでございました。「いまいちどお取調のほど、ひとへにお願ひ申し上げまする。このたびの和田左衛門尉さまの御処置は、まつたくもつて道理にはづれ、無実の罪に泣く地頭代をはじめその親類縁者一同の身の上、見るに忍びざるものございまするに依つて、尼御台さまにもいたく御懸念の御様子にございまする。」
 尼御台さま、と聞いて相州さまは幽かにお笑ひになられました。さうして、ふいと何か考へ直したやうな御様子で、御病床の将軍家のお顔をちらりとお伺ひなさつた間一髪をいれず、
事ノ正邪デハナイ
 お眼を軽くつぶつたままで、お口早におつしやいました。
 さすがの相州さまも虚をつかれたやうに、ただお眼を丸くして将軍家のお顔を見つめて居られました。
和田ノ詮議モ終ラヌサキカラ、ソノヤウニ騒ギタテテハ、モノノ順序ガドウナリマス。ツマラヌ取次ハスルモノデナイ。
 駿河の局さまは、一瞬醜い泣顔になり、それから胸に片手をあて、突き刺された人のやうに悶えながら平伏いたしました。決してお怒りの御口調ではなかつたのですが、けれどもその澱みなくさらりとおつしやるお言葉の底には、御母君の尼御台さまをも恐れぬ、この世ならぬ冷厳な孤独の御決意が湛へられてゐるやうな気が致しまして、幼心の私まで等しく戦慄を覚えました。幼心とは言つても、もう私もその頃は十五歳になつてゐまして、あのお方のお歌のお相手くらゐは勤まるやうになつてゐましたが、それにしてもあのお方の、よろづに大人びたお心持に較べると、実にその間に天地の差がございまして、あのお方はこの建暦元年にはまだ二十歳におなりになつたばかりでございましたのに、このとしの七月、関東一帯大洪水の折、既にあの御立派な、
時ニヨリ過グレバ民ノ歎キナリ八大竜王雨止メ給ヘ
 といふ和歌などもお作りになられ、名実ともに関東の大長者たる堂々の御貫禄をお示しになつて居られたのでございます。まことに、お生れつきとは申しながら、何事によらず、どこまで高く美事にお出来になるお方であつたか、私たち凡俗の者には、まるで推量も及びませぬ。
 お歌の事などは、またのちほどお話申し上げることと致しまして、さて、もうそろそろ、あの、若い禅師さまに就いてお話する事にいたしませう。誰しもご存じの事に違ひございませぬが、故右大将さまには、お二人の男のお子さまがございまして、お兄君は頼家公すなはち後の二品禅室さま、お弟君は千幡君すなはち後の右大臣さま、この他にも御同胞がございましたやうですが、皆お早くおなくなりになられ、故右大将さまが正治元年正月十三日、御年五十三を以て御他界なされた後は、源家嫡々のお兄君、当時十八歳の頼家公が御父君の御遺跡をお襲ぎになられましたが、このお方に就いては私などは、殆ど何も存じませぬ。御病身で、癇癖がお強く、御鞠の御名人で、しかも世に例のなかつたほどの美貌でいらつしやつたとか、そんな事くらゐを人から聞かされてゐる程度でございますが、いづれは非凡の御手腕もおありになつたお方に違ひございません。けれどもその頃は御時勢が悪かつたとでも申しませうか、鎌倉にも、また地方にも反徒が続出して諸事このお方の意のままにならず、また、例の御癇癖から、いくぶん御思慮の浅い御行状にも及んだ御様子で、御身内からの非難もあり、天もこのお方をお見捨てになつたか、御病気も次第に重くおなりになつて、建仁三年の八月つひに御危篤に陥り、ここに二代将軍頼家公も御決意なされ、御家督をその御長子一幡さまと定め、これに総守護職及び関東二十八ヶ国の地頭職をお譲りになり、また頼家公のお弟君の千幡さまには関西三十八ヶ国の地頭職をお譲りになられたのですが、これが、ごたごたの原因になりまして、たちまち一幡さまの外祖にあたる比企氏と千幡さまの外祖の北条氏との間に争端が生じ、比企氏は全滅、そのとき一幡さまもわづか御六歳で殺されました。御病床の左金吾将軍頼家公はそれをお聞きになつてお怒りになり、ただちに北条氏の討伐を和田氏、仁田氏などに書面を以てお言ひつけなさつたけれども、それも北条氏の逸早く知るところとなり、かへつて頼家公の御身辺さへ危くなつてまゐりましたので御母君の尼御台さまは、頼家公の御身に危害の及ばぬやう無理矢理出家せしめ、一方お弟君の千幡さまの将軍職たるべき宣旨を乞ひ、頼家公はその御病状のやや快方に向はれしと同時に伊豆国修善寺に下向なされ、さしもの大騒動も尼御台さまのお働きにてまづは一段落となつたとか、人から聞いた事がございます。左金吾禅室さまは、修善寺に於いて鬱々の日々をお送りになり、つひに翌年の元久元年七月十八日に御年二十三歳でおなくなりになられました。おなくなりになつた事に就いて、これも北条氏の手に依つて殺害せられたのだといふ不気味な噂が立つたさうでございますが、それは私がやつと七つか八つになつたばかりの頃の事でございますし、またそのやうな事に就いての穿鑿は気の重いことで、まあ、そんな事はございますまいと私は打ち消したい気持でございます。さてその二代将軍頼家公すなはち後に出家して二品禅室さまには、一幡、善哉、千寿などのお子がございましたが、御長子の一幡さまは、例の比企氏の乱の折に比企氏の御一族と共に北条氏に殺され、御三男の千寿さまも、のちに信濃国の住人泉小次郎親平などの叛謀に巻き込まれ、まもなく出家し栄実と号して京都に居られましたが、またもや謀反の噂を立てられ、京の御宿舎に於いて自殺をなさいまして、御次男の善哉さまはそのやうな御難儀にも遭はず、すくすく御成長なさつてゐたといふわけになるのでございますが、この善哉さまは、元久二年十二月、六歳の暮に、御祖母の尼御台さまの御指図に依り鶴岳八幡宮寺別当尊暁さまの御門弟として僧院におはひりになり、翌る建永元年に、やはり尼御台さまのお計ひに依り、将軍家の御猶子にならせられたのださうでございます。さうして、この建暦元年には、やうやく十二歳になられ、その時の別当定暁僧都さまの御室に於いて落飾なされて、その法名を公暁と定められたのでございます。それは九月の十五日の事でございましたが、御落飾がおすみになつてから尼御台さまに連れられて将軍家へ御挨拶に見えられ、私はその時始めてこの若い禅師さまにお目にかかつたといふわけでございましたが、一口に申せば、たいへん愛嬌のいいお方でございました。幼い頃から世の辛酸を嘗めて来た人に特有の、磊落のやうに見えながらも、その笑顔には、どこか卑屈な気弱い影のある、あの、はにかむやうな笑顔でもつて、お傍の私たちにまでいちいち叮嚀にお辞儀をお返しなさるのでした。無理に明るく、無邪気に振舞はうと努めてゐるやうなところが、そのたつた十二歳のお子の御態度の中にちらりと見えて、私は、おいたはしく思ひ、また暗い気持にもなりました。けれども流石に源家の御直系たる優れたお血筋は争はれず、おからだも大きくたくましく、お顔は、将軍家の重厚なお顔だちに較べると少し華奢に過ぎてたよりない感じも致しましたが、やつぱり貴公子らしいなつかしい品位がございました。尼御台さまに甘えるやうに、ぴつたり寄り添つてお坐りになり、さうして将軍家のお顔を仰ぎ見てただにこにこ笑つて居られます。
 そのとき将軍家は、私の気のせゐか幽かに御不快のやうに見受けられました。しばらくは何もおつしやらず、例の如く少しお背中を丸くなさつて伏目のまま、身動きもせず坐つて居られましたが、やがてお顔を、もの憂さうにお挙げになり、
学問ハオ好キデスカ
 と、ちよつと案外のお尋ねをなさいました。
「はい。」と尼御台さまは、かはつてお答へになりました。「このごろは神妙のやうでございます。」
無理カモ知レマセヌガ
 とまた、うつむいて、低く呟くやうにおつしやつて、
ソレダケガ生キル道デス
 尼御台さまは、すつと細い頸をお伸ばしになり素早くあたりを見廻しました。なんのためにお見廻しなさつたのか、私などに分らぬのは勿論の事でございますが、尼御台さま御自身にしてもなんの為ともわからず、ただふいと、あたりを見廻したいやうなお気持になつたのではないでせうか。御落飾の後は、御学問または御読経に専心なさつて、それだけが禅師たるお方の生きる道と心掛けること、それは当然すぎるほど当然のことで、将軍家のお言葉には何の奇も無いやうに私たちにはその時、感ぜられたのでございますが、でも後になつて、将軍家と禅師さまとの間にあのやうな悲しい事が起つて見ると、その日の将軍家の何気なささうなお諭しも、なんだか天のお声のやうな気がして来るのでございます。

同年。十月大。十三日、辛卯、鴨社の氏人菊大夫長明入道、雅経朝臣の挙に依りて、此間下向し、将軍家に謁し奉ること度々に及ぶと云々、而るに今日幕下将軍の御忌日に当り、彼の法花堂に参り、念誦読経の間、懐旧の涙頻りに相催し、一首の和歌を堂の柱に注す、草モ木モ靡シ秋ノ霜消テ空キ苔ヲ払フ山風
同年。十一月大。廿日、戊辰、将軍家貞観政要の談議、今日其篇を終へらる、去る七月四日之を始めらる。
同年。十二月大。十日、戊午、和漢の間、武将の名誉有るの分御尋ね有るに就いて、仲章朝臣之を注し出して献覧せしむ、今日、善信、広元等、御前に於て読み申す、又御不審を尋ね仰せられ、再三御問答の後、頗る御感に及ぶと云々。
 また、そのとしの秋、当時の蹴鞠の大家でもあり、京の和歌所の寄人でもあつた参議、明日香井雅経さまが、同じお歌仲間の、あの、鴨の長明入道さまを京の草庵より連れ出して、共に鎌倉へ下向し、さうして長明入道さまを将軍家のお歌のお相手として御推挙申し上げたのでございましたが、この雅経さまの思ひつきは、あまり成功でなかつたやうに私たちには見受けられました。入道さまは法名を蓮胤と申して居られましたが、その蓮胤さまが、けふ御ところにおいでになるといふので私たちも緊張し、また将軍家に於いても、その日は朝からお待ちかねの御様子でございました。なにしろ、鴨の長明さまと言へば、京に於いても屈指の高名の歌人で、かしこくも仙洞御所の御寵愛ただならぬものがあつたとか、御身分は中宮叙爵の従五位下といふむしろ低位のお方なのに、四十七歳の時には摂政左大臣良経さま、内大臣通雅さま、従三位定家卿などと共に和歌所の寄人に選ばれるといふ破格の栄光にも浴し、その後、思ふところあつて出家し、大原に隠棲なされて、さらに庵を日野外山に移し、その鎌倉下向の建暦元年には既におとしも六十歳ちかく、全くの世を捨人の御境涯であつたとは申しながら、隠す名はあらはれるの譬で、そのお歌は新古今和歌集にもいくつか載つてゐる事でございますし、やはり当代の風流人としてそのお名は鎌倉の里にも広く聞えて居りました。その日、入道さまは、参議雅経さまの御案内で、御ところへまゐり将軍家へ御挨拶をなさいまして、それからすぐに御酒宴がひらかれましたが、入道さまは、ただ、きよとんとなされて、将軍家からのお盃にも、ちよつと口をおつけになつ
ただけで、お盃を下にさし置き、さうしてやつぱり、きよとんとして、あらぬ方を見廻したりなどして居られます。あのやうに高名なお方でございますから、さだめし眼光も鋭く、人品いやしからず、御態度も堂々として居られるに違ひないと私などは他愛ない想像をめぐらしてゐたのでございましたが、まことに案外な、ぽつちやりと太つて小さい、見どころもない下品の田舎ぢいさんで、お顔色はお猿のやうに赤くて、鼻は低く、お頭は禿げて居られるし、お歯も抜け落ちてしまつてゐる御様子で、さうして御態度はどこやら軽々しく落ちつきがございませんし、このやうなお方がどうしてあの尊い仙洞御所の御寵愛など得られたのかと私にはそれが不思議でなりませんでした。さうしてまた将軍家に於いても、どこやら緊張した御鄭重のおもてなし振りで、
チト、都ノ話デモ
 と入道さまに向つては、ほとんど御老師にでも対するやうに口ごもりながら御遠慮がちにおつしやるので、私たちには一層奇異な感じが致しました。入道さまは、
「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、「いや、この頃は、さつぱり何事も存じませぬ。」と低いお声で言つてお首を傾け、きよとんとしていらつしやるのでした。けれども将軍家は、例のあの、何もかも御洞察なさつて居られるやうな、また、なんにもご存じなさらぬやうな、ゆつたりした御態度で、すこしお笑ひになつて、
世ヲ捨テタ人ノオ気持ハ
 と更にお尋ねになりました。入道さまはやつぱり、
「は?」とおつしやつて聞き耳を立て、それから、がくりと項垂れて何か口の中で烈しくぶつぶつ言つて居られたやうでしたが、ひよいと顔をお挙げになつて、「おそれながら申し上げまする。魚の心は、水の底に住んでみなければわかりませぬ。鳥の心も樹上の巣に生涯を託してみなければ、わかりませぬ。閑居の気持も全く同様、一切を放下し、方丈の庵にあけくれ起居してみなければ、わかるものではござりませぬ。そこの妙諦を、私が口で何と申し上げても、おそらく御理解は、難からうかと存じまする。」さらさらと申し上げました。けれども将軍家は、一向に平気でございました。
一切ノ放下
 と微笑んで御首肯なされ、
デキマシタカ
 ややお口早におつしやいました。
「されば、」と入道さまも、こんどは、例の、は? と聞き耳を立てることも無く、言下に応ぜられました。「物慾を去る事は、むしろ容易に出来もしまするが、名誉を求むる心を棄て去る事は、なかなかの難事でござりました。瑜伽論にも『出世ノ名声ハ譬ヘバ血ヲ以テ血ヲ洗フガ如シ』とございまするやうに、この名誉心といふものは、金を欲しがる心よりも、さらに醜く奇怪にして、まことにやり切れぬものでござりました。ただいまの御賢明のお尋ねに依り、蓮胤日頃の感懐をまつすぐに申し述べまするが、蓮胤、世捨人とは言ひながらも、この名誉の慾を未だ全く捨て去る事が出来ずに居りまする。姿は聖人に似たりといへども心は不平に濁りて騒ぎ、すみかを山中に営むといへども人を恋はざる一夜も無く、これ貧賤の報のみづから悩ますところか、はたまた妄心のいたりて狂せるかと、われとわが心に問ひかけてみましても更に答へはござりませぬ。御念仏ばかりが救ひでござりまする。」けれどもお顔には、いささかも動揺の影なく、澱みなく言ひ終つて、やつぱりきよとんとして居られました。
遁世ノ動機ハ
 と軽くお尋ねになる将軍家の御態度も、また、まことに鷹揚なものでございました。
「おのが血族との争ひでござります。」
 とおつしやつた、その時、入道さまの皺苦茶の赤いお顔に奇妙な笑ひがちらと浮んだやうに私には思はれたのですが、或いは、それは、私の気のせゐだつたかも知れませぬ。
ドノヤウナ和歌ガヨイカ
 将軍家は相変らず物静かな御口調で、ちがふ方面の事をお尋ねになりました。
「いまはただ、大仰でない歌だけが好ましく存ぜられます。和歌といふものは、人の耳をよろこばしめ、素直に人の共感をそそつたら、それで充分のもので、高く気取つた意味など持たせるものでないやうな気も致しまする。」あらぬ方を見ながら入道さまは、そのやうな事を独り言のやうにおつしやつて、それから何か思ひ出されたやうに、うん、とうなづき、「さきごろ参議雅経どのより御垂教を得て、当将軍家のお歌数十首を拝読いたしましたところ、これこそ蓮胤日頃あこがれ求めて居りました和歌の姿ぞ、とまことに夜の明けたるやうな気が致しまして、雅経どのからのお誘ひもあり、老齢を忘れて日野外山の草庵より浮かれ出て、はるばる、あづまへまかり出ましたといふ言葉に嘘はござりませぬが、また一つには、これほど秀抜の歌人の御身辺に、恐れながら、直言を奉るほどの和歌のお仲間がおひとりもございませぬ御様子が心許なく、かくては真珠も曇るべしと老人のおせつかいではございまするが、やもたてもたまらぬ気持で、このやうに見苦しいざまをもかへりみず、まかり出ましたやうなわけもござりまする。」と意外な事を言ひ出されました。
ヲサナイ歌モ多カラウ
「いいえ、すがたは爽やか、しらべは天然の妙音、まことに眼のさめる思ひのお歌ばかりでございまするが、おゆるし下さりませ、無頼の世捨人の言葉でございます、嘘をおよみにならぬやうに願ひまする。」
ウソトハ、ドノヤウナ事デス。
「真似事でございます。たとへば、恋のお歌など。将軍家には、恐れながら未だ、真の恋のこころがおわかりなさらぬ。都の真似をなさらぬやう。これが蓮胤の命にかけても申し上げて置きたいところでござります。世にも優れた歌人にまします故にこそ、あたら惜しさに、居たたまらずこのやうに申し上げるのでござります。雁によする恋、雲によする恋、または、衣によする恋、このやうな題はいまでは、もはや都の冗談に過ぎぬのでござりまして、その洒落の手振りをただ形だけ真似てもつともらしくお作りになつては、とんだあづまの片田舎の、いや、お聞き捨て願ひ上げます。あづまには、あづまの情がある筈でござります。それだけをまつすぐにおよみ下さいませ。ユヒソメテ馴レシタブサノ濃紫オモハズ今ニアサカリキトハ、といふお歌など、これがあの天才将軍のお歌かと蓮胤はいぶかしく存じました。御身辺に、お仲間がいらつしやりませぬから、いいえ、たくさんいらつしやつても、この蓮胤の如く、」と言ひかけた時に、将軍家は笑ひながらお立ちになり、
モウヨイ。ソノ深イ慾モ捨テルトヨイノニ。
 とおつしやつて、お奥へお引き上げになられました。私もそのお後につき従つてお奥へまゐりましたが、お奥の人たちは口々に、入道さまのぶしつけな御態度を非難なさつて居られました。けれども将軍家はおだやかに、
ナカナカ、世捨人デハナイ。
 とおつしやつただけで、何事もお気にとめて居られない御様子でございました。
 その翌日、参議雅経さまが少し恐縮の態で御ところへおいでになられましたが、その時も、将軍家はこころよくお逢ひになつて、種々御歓談の末、長明入道さまにも、まだまだ尋ねたい事もあるゆゑ遠慮なく御ところへ参るやうにとのお言伝さへございました御様子でした。けれども長明入道さまのはうで、何か心にこだはるものがお出来になつたか、その後両三度、御ところへお見えになられましたけれど、いつも御挨拶のみにて早々御退出なされ、将軍家もまた、無理におとめなさらなかつたやうでございました。
信仰ノ無イ人ラシイ
 そのやうな事を呟やかれて居られた事もございました。とにかく私たちから見ると、まだまだ強い野心をお持ちのお方のやうで、ただ将軍家の和歌のお相手になるべく、それだけの目的にて鎌倉へ下向したとは受け取りかねる節もないわけではございませんでしたが、あのやうにお偉いお方のお心持は私たちにはどうもよくわかりませぬ。このお方は十月の十三日、すなはち故右大将家の御忌日に法華堂へお参りして、読経なされ、しきりに涙をお流しになり御堂のお柱に、革モ木モ靡キシ秋ノ霜消エテ空キ苔ヲ払フ山風、といふ和歌をしるして、その後まもなく、あづまを発足して帰洛なさつた御様子でございますが、わざわざ故右大将さまの御堂にお参りして涙を流され和歌などおしるしになつて、なんだかそれが、当将軍家への、俗に申すあてつけのやうで、私たちには、あまり快いことではございませんでした。あのひねくれ切つたやうな御老人から見ると、当将軍家のお心があまりにお若く無邪気すぎるやうに思はれ、それがあの御老人に物足りなかつたといふわけだつたのでございませうか、なんだか、ひどくわがままな、わけのわからぬお方でございましたが、それから二、三箇月経つか経たぬかのうちに「方丈記」とかいふ天下の名文をお書き上げになつたさうで、その評判は遠く鎌倉にも響いてまゐりました。まことに油断のならぬ世捨人で、あのやうに浅間しく、いやしげな風態をしてゐながら、どこにそれ程の力がひそんでゐたのでございませうか、私の案ずるところでは、当将軍家とお逢ひになつて、その時お二人の間に、私たちには覬覦を許さぬ何か尊い火花のやうなものが発して、それがあの「方丈記」とかいふものをお書きにならうと思ひ立つた端緒になつたのではあるまいか、ひよつとしたら、さすがの御老人も、天衣無縫の将軍家に、その急所弱所を見破られて謂はば奮起一番、筆を洗つてその名文をお書きはじめになつたのではあるまいか、などと、俗な身贔屓すぎてお笑ひなさるかも知れませんが私などには、どうも、そのやうな気がしてなりませぬのでございます。とにかく、あの長明入道さまにしても、六十ちかい老齢を以て京の草庵からわざわざあづまの鎌倉までまかり越したといふのには、何かよほどの御決意のひそんでゐなければなりませぬところで、この捨てた憂き世に、けれどもたつたお一人、お逢ひしたいお方がある、もうそのお方は最後の望みの綱といふやうなお気持で、将軍家にお目にかかりにやつて来られたらしいといふのは、私どもにも察しのつく事でございますが、けれども、永く鎌倉に御滞在もなさらず、故右大将さまの御堂で涙をお流しになつたりなどして、早々に帰洛なされ、すぐさま「方丈記」といふ一代の名作とやらを書き上げられ、それから四年目になくなられた、といふ経緯には、いづれその道の名人達人にのみ解し得る機微の事情もあつたのでございませう。不風流の私たちの野暮な詮議は、まあこれくらゐのところで、やめた方がよささうに思はれます。
 鴨の長明入道さまの事ばかり、ついながながと申し上げてしまひましたが、あの小さくて貧相な、きよとんとなされて居られた御老人の事は、私どもにとつても奇妙に思ひ出が色濃く、生涯忘れられぬお方のひとりになりまして、しかもそれは、私たちばかりではなく、もつたいなくも将軍家に於いてまで、あの御老人にお逢ひになつてから、或いは之は私の愚かな気の迷ひかも知れませぬが、何だか少し、ほんの少し、お変りになつたやうに、私には見受けられてなりませんでした。あのやうな、名人と申しませうか、奇人と申しませうか、その悪業深い体臭は、まことに強く、おそるべき力を持つてゐるもののやうに思はれます。将軍家は、恋のお歌を、そのころから、あまりお作りにならぬやうになりました。また、ほかのお歌も、以前のやうに興の湧くままにさらさらと事もなげにお作りなさるといふやうなことは、少くなりまして、さうして、たまには、紙に上の句をお書きになつただけで物案じなされ、筆をお置きになり、その紙を破り棄てなさる事さへ見受けられるやうになりました。破り棄てなさるなど、それまで一度も無かつた事でございましたので、お傍の私たちはその度毎に、ひやりとして、手に汗を握る思ひが致しました。けれども将軍家は、お破りになりながらも別段けはしいお顔をなさるわけではなく、例のやうに、白く光るお歯をちらと覗かせて美しくお笑ひになり、
コノゴロ和歌ガワカツテ来マシタ
 などとおつしやつて、またぼんやり物案じにふけるのでございました。この頃から御学問にもいよいよおはげみの御様子で、問註所入道さま、大官令さま、武州さま、修理亮さま、そのほか御家人衆を御前にお集めなされ、さまざまの和漢の古文籍を皆さま御一緒にお読みになり熱心に御討議なされ、その御人格には更に鬱然たる強さをもお加へなさつた御様子で、末は故右大将家にまさるとも劣らぬ大将軍と、御ところの人々ひとしく讚仰して、それは、たのもしき限りに拝されました。

建暦二年壬申。二月大。三日、庚辰、晴、辰刻、将軍家並びに尼御台所、二所に御進発、相州、武州、修理亮以下扈従すと云々。八日、乙酉、将軍家以下二所より御帰著。十九日、丙申、京都の大番、懈緩の国々の事、之を尋ね聞召さるるの後に就いて、今日其沙汰有り、向後に於ては、一ヶ月も故無くして不参せしめば、三ヶ月懃め加ふ可きの由、諸国の守護人等に仰せらる、義盛、義村、盛時之を奉行す。廿八日、乙巳、相模国相漠河の橋数ヶ間朽ち損ず、修理を加へらる可きの由、義村之を申す、相州、広元朝臣、善信の如き群議有り、去る建久九年、重成法師之を新造して供養を遂ぐるの日、結縁の為に、故将軍家渡御、還路に及びて御落馬有り、幾程を経ずして薨じ給ひ畢んぬ、重成法師又殃に逢ふ、旁吉事に非ず、今更強ち再興有らずと雖も、何事の有らんやの趣、一同するの旨、御前に申すの処、仰せて云ふ、故将軍の薨去は、武家の権柄を執ること二十年、官位を極めしめ給ふ後の御事なり、重成法師は、己の不義に依りて、天譴を蒙るか、全く橋建立の過に非ず、此上は一切不吉と称す可からず、彼橋有ること、二所御参詣の要路として、民庶往反の煩無し、其利一に非ず、顛倒せざる以前に、早く修復を加ふ可きの旨、仰出さると云々。
同年。五月小。七日、辛酉、相模次郎朝時主、女事に依りて御気色を蒙る、厳閤又義絶するの間、駿河国富士郡に下向す、彼の傾公は、去年京都より下向す、佐渡守親康の女なり、御台所の官女たり、而るに朝時好色に耽り、艶書を通ずと雖も、許容せざるに依り、去夜深更に及びて、潜かに彼局に到りて誘ひ出すの故なりと云々。
 あくる建暦二年の二月に、私は、はじめて二所詣のお供をさせていただきました。承元元年正月以来五年振りのお詣りでございましたが、承元元年には将軍家は十六歳、その時には私はまだ御ところの御奉公にあがつてゐませんでしたので、このたびはそれこそ本当に、生れてはじめてのお供でございました。将軍家はこのとしから、ほとんど毎年、欠かさず二所詣をなさいまして、建保二年には正月と九月と二度もお参り致しました程で、その敬神のお心の深さは故右大将さまにもまさつて居られるやうに思はれました。故右大将さまも、なかなかに御信心深く、敬神崇仏をその御政綱の第一に置かれて、挙兵なされて間もない寿永元年には、その重だつた御家来たちに御慫憑なさつて、おのおの神馬砂金を伊勢の大廟に奉献せさせ、また伊勢別宮たる鎌倉の甘縄神社にはそれから程なく御自身、御台所さまと共に御参詣なされたとか、そのうへ、御幼時から観音経や法華経を御日課として読誦なされて居られたお方だつたさうで、その御信心の深さのほどに就いては、いろいろと承つて居りますけれども、当将軍家もまた御襲職以来、伊勢内外宮を始め鶴岳、二所、三嶋、日光その他あまたの神社に神馬を奉納仕り、御参拝も怠らず、またその伊勢の大神の御嫡流たる京都御所のかしこき御方々に対する忠誠の念も巌の如く不動のものに見受けられました。この事に就いてはまたのちほども申し上げたいと存じて居りますが、このとしの二月、二所詣からお帰りになつて間もなくのこと、京都を守護し奉つてゐる諸国の侍たちがこのごろ役目を怠りがちだといふ事をお聞きになつて、大いに恐懼なされ、もつてのほかの事、今後は、一箇月間つとめを休んだ者にはさらに三箇月勤務を強ひるやう、と諸国の守護人にきつく申し渡されたやうな事もございました。もはや将軍家も御年二十一、次第に、荘厳と申してよいほどの陰影の深い尊さがその御言動にあらはれるやうになつて居りまして、同じ月の二十八日にも、実にお見事なる御裁決をなさいました。二所詣の途次、相模川の橋がところどころ破損してゐて、私たちが渡る時にもひどく危い思ひを致しまして、その時、将軍家はお傍の人に、多くの人が難儀をするから早く修理させたらよからうとおつしやつて居られましたが、そのお言ひつけに就いて、けふ三浦兵衛尉さまからお話が出て、相州さま、前大膳大夫さま、善信入道さまなど打寄つて協議なさいましたところ、なかなか御意見がまとまらず、数剋後、その修理はしばらく見合せませうといふ事に落ちついた模様でございました。その理由としては、どうもあまり、おとなげのない話でございますが、その橋には気味の悪い因縁があるのださうで、もともとその橋はあの稲毛の三郎重成入道さまが新造なされましたものださうで、その橋の出来た時に故右大将家が供養に出むかれ橋をお渡りになつて、それが例の建久九年の十二月、その供養がおすみになつてお帰りの途中で御落馬なされ、それがもとで御病床におつきになつて翌年の正治元年の正月に御年五十三でおなくなりになられたのはどなたもご存じの事でございませう、その因縁がある上に、橋の本願人の重成入道さまは、すぐ後に牧の方さま等と悪逆の陰謀をたくらみ、これまたかんばしからぬ死に方をなさいましたし、あれと言ひこれと言ひ、どうも不吉だ、あの橋には、まことにいやな怨霊がつきまとつてゐるといふ事が主なる理由で、修理見合せと衆議一決いたしまして、それを将軍家の御前に於いて披露いたしましたところが、将軍家はその時には、あのいつものお優しい御微笑もなさらず、一座の者に襟を正さしむるほどの厳粛なお態度で、それは違ひます、故将軍の薨去は、武家の権柄を執ること二十年、官位を極めしめ給うて後の御事にして謂はば天寿、それとも何か、あの橋のために奇々怪々の御災厄に逢ひあさましき御最期をとげられたとでも申すのか、まさかさうとも思はれませぬ、また重成法師の事などは論外、あのやうな愚かしき罪をなして殃に逢ふは当然、すなはち天罰、いづれも橋建立のためのわざはひではありませぬ。以後、不吉などといふ軽々しき言葉は一切用ゐぬやう、あの橋を修理すれば往来の旅人ども、どのやうに助かるかわかりませぬ、何事も多くの庶民のためといふ、この心掛けを失つてはならぬ、一刻も早く橋の修理に取りかかるやう、とそれまで例のなかつた幾分はげしいくらゐの御口調で、はつきり御申渡しになりました。御重臣たちは色を失ひ、こそこそ御退出なさいましたが、相州さまだけは御退出の際もにこにこ笑つて、さうして舌をお出しなさいました。けれども、それは決して将軍家を侮蔑なさるやうな失礼なお気持からではなく、やられたわい、と御自身にてれて、そのやうな仕草をなさつたやうに見受けられ、私もつられて、つい微笑んでしまひました。ずいぶんお意地がお悪いといふ評判が、専らでございましたけれど、その相州さまにも、またこんな明るい気さくな一面があつたのでございます。いつたいこの相州さまは、故右大臣さまのお小さい御時分から、どういふものか右大臣さまを贔屓で、俗にいふ虫が好いたとでもいふのでございませうか、なんでもかでも、千幡さまにかぎるといふお工合のお熱のあげかたでございまして、この千幡さまに将軍家をお襲がせ申したいばかりに、御父君の時政公とお力を合せて御政敵の比企氏と争ひこれを倒し、建仁三年、千幡さまはそのお蔭か首尾よく征夷大将軍の宣旨を賜り、実朝といふ諱もこのとき御朝廷からいただいたのださうでございますが、それからすぐに御父君の時政公が、牧の方さまにそそのかされ、このお幼い将軍家を弑し奉らんと計つた時には、相州さまは逸早くその御異図を感知なされ、こんどはみづからの御父母君とさへ争ひ、将軍家を御自身のお宅にお迎へ申し、御家来衆と共に厳重に護衛いたし、御義母の牧の方さまには御自害を強ひ、御実父の時政公には出家をすすめて、幼い将軍家をからくも御災厄からお救ひ申し上げたといふ大手柄もございましたさうで、それから後も相州さまは蔭になりひなたになり当将軍家の御育成にのみお心を用ゐ、自らは執権として御政務の第一の後見者となり、今に故右大将家をも凌ぐ大将軍になし奉らんとそれを楽しみにして朝夕怠らずお仕へ申して居られたやうにも見受けられましたが、どうしたものか、さらに後にいたつては少し御様子がお変りになりましたやうでございます。一つには、当将軍家の比類を絶した天稟の御風格が、さすがの相州さまのお手にもあまるやうになつて来たからではないかと、まあ、下賤の愚かな思案でございますが、なんだかそんな事も、後のさまざまの御不幸の原因になつてゐるやうな気が私には致しますのでございます。まことにその建暦二年の頃から、将軍家に於いては、ひとしほ森厳の大きい御風格をお示しなさるやうになつて、相模川の橋の件では居並ぶ御重臣たちの顔色を失はしめ、また政務の方面ばかりではなく、れいの和歌の方面に於いても、このとしあたりから更に異常の御上達をなされた御様子で、ほとんど神品に近いお歌が続々とお出来になつたのでございました。そのとしの三月九日に、将軍家は、尼御台さま、御台所さま、それから相州さまや武州さま、前夫膳大夫広元さま、鶴岳の別当さま、私たちまでお連れになつて、三浦三崎の御屋敷にお渡りになりまして、一日、船遊びに打興じましたが、その時、将軍家のおよみになつたお歌は、ほとんど人間業ではなく、あまりの美事に、お心のお優しい御台所さまなどは、両三遍拝誦してお涙を御頬に走らせて居られました。
 アラ磯ニ浪ノヨルヲ見テヨメル
大海ノ磯モトドロニヨスル波ワレテクダケテサケテ散ルカモ
 一言の説明も不要かと存じます。
 御台所さまの御事でも申し上げませう。前にもちよつと申し上げましたが、この御台所さまは、かしこきあたりとも御姻戚関係がおありになる京の御名家、坊門信清さまの御女子にて、元久元年、御年十三にして当将軍家へ御輿入に相成りました由にございます。人の話に依りますと、そのとしの十月十四日には関東切つての名門の中から特に選び出された容儀華麗、血気の若侍のみ二十人、花嫁さまをお迎へに京都へ出向かれ、その若侍のうち正使の左馬の介政範さまが京都へ着くと同時に御病気でおなくなりになられ、また畠山の六郎重保さまは京の宿舎の御亭主たる平賀の右衛門朝雅さまとささいの事から大喧嘩をはじめてそれが畠山御一族滅亡の遠因になつたなどの騒ぎもございましたが、まあ、それでもどうやら大過なく十二月十日、姫さまの関東御下向の御行列を警衛なさつて、その時の御行列の美々しかつたこと、今でも人の語り草になつてゐるやうでございます。京を御進発の十二月十日は、一天晴れて雲なく、かしこくも上皇さまは法勝寺の西の小路に御桟敷を作らせそれへおのぼりになつて、その御行列を御見送りあそばしたとか、まづ先頭は、例の関東切つての名門の若侍九人、錦繍の衣まばゆく、いづれ劣らぬあつぱれの美丈夫、次には騎馬の者二人、次に雑仕二人、次にムシ笠の女房六人、それから姫さまの御輿、次に力士十六人、次に仲国さま、秀康さま、いづれも侍のこしらへ、次に少将忠清さまの私兵十人、その次がまた、例の関東切つての美男若君十人、それから女房の御輿が六つもつづいて、衣服調度ことごとく金銀錦繍に非ざる無く、陽を受けて燦然と輝き、拝する者みな、うつとりと夢見るやうな心地になつてしまひましたさうで、けれども花嫁さまの御輿から幽かに、すすり泣きのお声のもれたのを、たしかに聞いたと言ひ張る人もございましたさうで、まさか、そのやうな事のあるべき筈はございませぬが、でも御年わづか十三歳、見知らぬ遠いあづまの国へ御下向なさるのでございますから、ずいぶんお心許なく思召したに違ひございませぬ。将軍家に於いても、それを御明察なさらぬわけはなく、何かと優しくおいたはりになつた事と存ぜられます。私が御ところへあがつた時には、御台所さまもすでに御年十七歳、あづまの水にも言葉にも、すつかりお馴れの御様子で、京をお恋ひなさるやうな御気色はみぢんもお見せになりませんでした。さうして故右大臣さま御在世中は、ただの一度も京へおいでになられた事もなく、しんから鎌倉のお人になり切つて居られて、右大臣さまがあのやうな御最期なされたその翌日、荘厳房律師行勇さまの御戒師にて、ほとんど御家人のどなたよりもさきに御剃髪なさいました。風にも堪へぬやうな、弱々しく臈たけたお方ではごさいましたが、やはり尊いお生れつきのお方はなんといつても違ふもので、征夷大将軍源実朝公の御台所に恥ぢぬ凜乎たる御自負と御決意とをつねにそのお胸の内にお収めなさつて居られたやうに日頃、私たちにも拝されました。そのやうにお心ばえのうるはしい御台所さまでございましたから、あのお強い御気性の尼御台さまも、この御台所さまをお可愛がりなさる事ひとかたでなく、どこへおいでになるにもお連れになつて、お互ひ実の御親子以上にお打解けられ末しじゆう御睦じくして居られたやうでございました。将軍家の御台所さまを御大切になさることもまた、それに劣らず、承元四年の六月の事でございましたが、御台所さまのおつきの女房丹後局さまが、京都へまゐりまして鎌倉への帰途、駿河国宇都山に於いて群盗に逢ひ、所持の財宝ならびに、御台所さまの御実家、坊門さまより整へ下された御台所さまへの御土産の御晴衣など悉く盗み取られたといふ事件がございまして、将軍家はそれをお聞きになり、御台所さまをお気の毒に思召したからでもございませう、直ちに駿河以西の海道の駅々に夜番を立たせ、これからも厳重に旅人の警固につとめさせるやう幕府の守護人にお言ひつけになり、またそのお土産の御晴衣なども必ず尋ね出させるやう手配なすべし、と仰出されました。将軍家のこのやうな深い御愛情には、御台所さまも、さだめし蔭でお泣きなされた事と存じます。お揃ひで社寺へお詣りなさる事も度々ございましたし、またお花見や、お月見、また船遊びなどには、いつも御台所さまをお誘ひになり、殊にも和歌会や絵合せの折には、御台所さまは、それこそ、なくてかなはぬお方で、将軍家に京風の粋をお教へ申し上げるお優しい御指南役のやうにさへ見受けられました。このやうに御仲御綺麗に、いつも変らず御円満でございましたが、たつた一つお淋しげなところは、つひにお子さまがお出来にならなかつた事で、このやうにお二人とも何から何まで美事に卓絶なさつて居られる御夫婦には天の御配慮によつて、お子の出来ないといふ事は、ままございますことで、私どもには少しも不思議ではないのでございますけれども、それをまた、例のせんさく好きが、何かと下司無礼の当推量などいたしまして、あのやうなけがらはしい事を口にして、よくその口が腐らぬものだと、私どもにはかへつてそのはうが不思議なくらゐでございます。それは私も、はつきり申し上げる事が出来るのですが、故右大臣さまは、お酒を飲み、花や月に浮かれてお歩きになつた事はございますけれども、お奥の女房たちに対して、とやかくの事は、その御生涯を通じて一度もございませんでした。恋のお歌だけは、あまり御上手でないと、あの鴨の長明入道さまもおつしやいましたが、忍ビテイヒワタル人アリキなどとお歌の端にはお書き込みになつて居られるものの、それこそまるで絵そらごと、長明入道さまの言ひ方に従へば、ウソでございます。考へてみると、あの入道さまの御眼力は、まことに恐るべきもので、将軍家は恋といふものをご存じなさらぬ、とためらはず御断言なさいましたが、和歌は心の鏡とか、そのお歌を拝読しただけで将軍家のあまりにも淡泊の御性情を底まで見抜いてしまつたのかも知れませぬ。それは永い間に二人、三人、ほのかな御贔屓にあづかつた女房もございませうが、けれどもあんな、下劣な取沙汰のやうな事実は、決して、一度もございませんでした。まづ御自身からそのやうに御清潔になさつて居られましたので、御ところの人たちに対しても、お酒をのんで乱酔に及んだりなどの失態は笑つてお許しもなさいましたが、好色のあやまちには、つねに厳罰をもつておのぞみになられました。その建暦二年の五月にも、執権相州さまの御次男朝時さま、このお方は色の白い、立派に御肥満の美男でございましたが、御兄君の修理亮泰時さまのあの御発明に似ず、どうも何事もあまりお出来にならないやうでございました。日頃、色を好まれるお方らしく、私もくはしい事は存じませぬが、なんでも御台所さまの女房の、その前年京都より下向したばかりの、氏育ち共にいやしからぬ一美形に、思ひを寄せた、とでも申すのでございませうか、その辺の機微は武骨の私どもにはわかりませぬ、とにかく艶書などの御工夫もあれこれなさいました御様子で、まことに、ばからしいお話で恐縮でございます。その艶書も極めてお手際のまづいものだつたのでございませう、一向にききめが無く、いまはこれまでと滅茶苦茶におなりになつて風流の御工夫も何もお棄てになり、深夜、その女房どののお局に忍び込み、ぐいぐいひつぱり出したとか、どうとか、それもまたお手際の極めてまづいところがございましたやうで大騒ぎになりまして、たちまち近習に召捕られてしまひました。御運のお悪いお方でございます。けれども、いまをときめく執権相州さまの次男若君の事でございますし、またその罪も、まあどちらかと言へば、御ところのお笑ひ草の程度で、そんなに憎むべき大悪業でもないやうに私たちには思はれて、翌日早々お許しの出る事と噂をして居りましたところが、その翌日、将軍家は事のあらましをお聞きになり一議に及ばず、鎌倉追放を御申渡しになりました。
仕へル者ノハリツメタ心モ知ラヌ。親ニモ同胞ニモワカレテ仕ヘテヰルノデス。
 と、お顔を横に向けて中庭の樹々の青葉にお眼をそそぎながら静かにおつしやいました。その両親とも兄弟姉妹ともわかれて、ひとり御ところに奉公してゐる者の朝夕ひたすら緊張してゐる心も知らず、おのれの色慾の工夫ばかりしてゐる人の愚かしさを、つよくおとがめになつたのだといふ御深慮の程が、私たちにもはじめて納得出来ました。相州さまも、その場に控へて居られましたが、さすがに御賢明の御人物だけあつて、この正しい道理に今は抗すべからずと即座に御観念なさつた御様子で、次郎朝時をただいまより勘当いたすべき旨、未練気もなく将軍家に言上なさいましたので、朝時さまも、あてがはづれて泣きながら駿河国富士郡の片田舎に落ちて行かれた由にございます。好色の念のつつしむべきはさる事ながら、将軍家が、御ところに奉公してゐる女房、童たちを、どのやうに慎重に正しくいつくしんで居られたか、このやうなお笑ひ草にも似た小さい例証に依つても明々白々におわかりの事と存じます。かへすがへす無礼千万の、あの憎むべき下賤の取沙汰の如き事実は、まことに、みぢんも見受けられなかつたといふ事をここに繰り返して申し上げて置く次第でございます。

同年。六月大。廿二日、丙申、御持仏堂に於て、聖徳太子の聖霊会を行はる、荘厳房以下、請僧七人と云々。廿四日、戊戌、将軍家和田左衛門尉義盛の家に入御、御儲基だ丁寧なり、和漢の将軍の影十二鋪を以て、御引物と為すと云々。
同年。七月小。九日、癸卯、賀茂河堤の事、難儀たりと雖も、勅諚の上は、早く彼の所々を除く可きの由、仰出さる。
同年。八月大。十八日、辛卯、伊賀前司朝光、和田左衛門尉義盛、北面の三間所に候す可きの由、今日武州伝へ仰せらる、彼所は、近習の壮士等を撰びて結番祗候せしむと云々、而るに件の両人は、宿老たりと雖も、古物語を聞召されんが為、之に加へらるる所なり。十九日、壬辰、鷹狩を禁断す可き事、守護地頭等に仰せらる、但し信濃国諏訪大明神御贄の鷹に於ては、免ぜらるるの由と云々。
同年。九月小。二日、乙巳、晴、筑後前司頼時、去夜京都より下向す、定家朝臣消息並びに和歌の文書等を進ず。
同年。十月大。廿日、壬辰、午剋、鶴岳上宮の宝前に羽蟻飛散す、幾千万なるかを知らず。廿二日、甲午、奉行人等を、関東御分の国々に下し遣はし、其国に於て、民庶の愁訴を成敗す可きの由、其沙汰有り、参訴の煩を止められんが為なり。
同年。十一月大。八日、庚戌、御所に於て、絵合せの儀有り、男女老若を以て、左右に相分ち、其勝負を決せらる、此事、八月上旬より沙汰有るの間、面々に結構尤も甚し、或は京都より之を尋ね、或は態と風情を図せしむ、広元朝臣献覧の絵は、小野小町の一期の盛衰の事を図す、朝光の分の絵は、吾朝の四大師の伝なり、数巻の中、此両部頻りに御自愛に及ぶ、仍つて左方勝ち訖んぬと云々。十四日、丙辰、去る八日の絵合の事、負方所課を献ず、又遊女等を召し進ず、是皆児童の形を摸し、評文の水干に紅葉菊花等を付けて、之を著し、各郢律の曲を尽す、此上芸に堪ふる若少の類延年に及ぶと云々。
同年。十二月大。廿一日、癸巳、陰、京都の使者、去る十日の除目の聞書を持参す、将軍家従二位に叙せられ給ふ。廿八日、庚子、晴、戌剋、鎌倉中聊か騒動す、道路其故無くして鼓騒す、是歳末の□劇に非ず、謀叛を発すの輩有るかの由、其疑有りと云々。
 女房、童の端々にまで、そのやうに人知れぬ厳粛のお心づかひをなさつて居られたほどのお方でございますから、幕府の御重臣や御家人を大事になさることもまた、ひとかたでなく、諸人ひとしくその厚いお恵みに浴し、このお若い将軍家になびきしたがふこと、萱野の風になびくさまにも似て、まことに山よりも高く海よりも深き御恩徳の然らしむるところとは言へ、その御勢力の隆々たるさまは、御父君右大将さまにもまさる心地が致しました。まさにこの御年二十一歳、さらに翌年の御年二十二歳の頃が、将軍家御一身に於かれましても最もお得意の御時期ではなかつたらうかと、私には思はれてなりませぬ。甚だ失礼の推量で、まことに申し上げにくい事でございます。けれども、どうも、それから後は、暗い、と申しても言ひ過ぎで、御ところには陽気な笑声も起り、御酒宴、お花見、お歌会など絶える事もなく行はれて居りましたが、どこやら奇妙な、おそろしいものの気配が、何一つ実体はないのに、それでもなんだか、いやな、灰色のものの影が、御ところの内外にうろついてゐるやうに思はれて、時々ゆゑ知らず、ぞつとする事などもございまして、その不透明な、いまはしい、不安な物の影が年一年と、色濃くなつてまゐりまして、建保五、六年あたりから、あの悲しい承久元年にかけては、もうその訳のわからぬ不安の影が鎌倉中に充満して不快な悪臭みたいなものさへ感ぜられ、これは何か起らずにはすまぬ、驚天動地の大不祥事が起る、と御ところの人たちひとしく、口には言ひませぬけれども暗黙の裡にうなづき合つてゐたほどでございまして、人の心も解け合はず、お互ひ、これといふ理由もなしに、よそよそしく、疑ひおびえ、とてもこの建暦二年の御時勢の華やかさとは較べものにも何もならぬものでございました。この建暦二年の頃には、まだまだ人の心も、なごやかに睦み合ひ、上のお好みになるところ、下も無邪気にそれを習ひ、れいのお歌も、はじめのうちこそ東国武士の硬骨から、頗るけむつたく思ひ、相州さまなど遠まはしに御注意申し上げたものでございましたが、この頃にいたつては、まづ入道広元さま、相州さまの御弟君武州時房さま、御長子泰時さま、それから三浦の義村さま、結城の三郎朝光さま、和田の朝盛さま、内藤知親さま、東の重胤さまなどといふ猛将お武骨の面々が、いつのまにやらいつぱしのお歌人になり澄まし、仔細らしく三十一文字を案じて、赤焼けた太いお首をひねりながら御廊下をお歩きになつて居られるお姿などわけもなく微笑しい感じがいたしました。なんでもかでもお歌さへ作れば、よほどの過失があつても、おゆるし下さるさうだなどといふ物欲しげなお気持から、三十一文字を習ひはじめる御家人衆も多く出て来て、御ところのお歌会はお盛んになる一方で、またこのとしには非常に大がかりの絵合せも興行され、お奥の女房、近習にまじつて、れいの猛将御歌人連もそろつて御参加なされ、かへつて武骨の朝光さまのお絵が抜群の御勝利を得られたなどの大番狂せもございまして、さうして数日後にはその絵合せに負けたお方たちから御馳走が出まして御酒宴になり、遊女を御ところにお召しになつて舞へ歌への大陽気で末座の私たちまで芸を強ひられ、真に駘蕩たるものがございました。けれども将軍家はいつもかうして遊び呆けて居られるといふわけでは決して無く、御政務のはうもいよいよあざやかに決裁なされ、また、かねて御尊崇の厩戸の皇子さまの御治蹟に就いては、その頃さらに深く御究明なされたところもございました御様子で、ほとんど御心酔に近いほどの御傾倒振りでございまして、そのとしの六月二十二日にも御持仏堂に於いて、皇子さまの御聖霊会をねんごろに取り行はせられました。厩戸の皇子さまに対する御心酔振りには、また他にいろいろと御理由もございました事と存じますが、もともと御皇室のお方々に対しては、誰から教へられるともなく謂はば自然の御本能に依り恭謙の赤心をお持ちになつて居られましたお方で、仙洞御所への絶対の御心服のほども、事あるごとにいよいよ歴然としてまゐりまして、そのとしも御朝廷からの御言ひ附けにより京の賀茂川堤の修築に取りかかりましたが、七月に幕府のその賦役の割当に就いてごたごたが起り、そのとき御朝廷のはうで新しく割当を定められ、それを幕府にお示しになりましたところ、こんどはその新しい割当に対して、これでは幕府のはうが非常な難儀な事になる、とただもう幕府大事の相州さまなど御ところへまゐつて苦情を申し上げる始末で、またもや紛糾しかけた時に、俗にいふ鶴の一声とでも申すものでございませうか、
叡慮ハ是非ヲ越エタモノデス
 一座はしんとなりました。謂はば天意、いかなる難儀があらうとも必ず速かに勅諚の御旨を奉ずべきものであると、威儀を正してお諭しになられました。決して和歌管絃にのみお心を奪はれてゐたお方ではございませぬ。やつぱり相州さまなどとは、そのお心の御誠実と言ひ、御視界の広さと言ひ、御着想の高さと言ひ、御気品と言ひ、まるで数十段のお差があると私たちには拝せられました。絵合せ、御酒宴に打ち興ぜられると共に、このやうな厳たる御決裁もなさいますし、また、御自身は風流をお好みなされても、それを御家臣にやたらにお強ひなさつて、和歌を作る者だけを特に御寵愛なされ、さうして和歌も出来ず絵合せも不調法といふ根つからの武骨者をうとんじなされたかといふと、全くそのやうな依怙の御沙汰はなさらず、たとへば和田左衛門尉義盛さま、このお方こそ鎌倉一の大武骨者、和歌は閉口、絵合せはまつぴら、管絃はうんざり、ほととぎすの声も浮かぬお顔で聞いて、ただ侍所別当のお役目お大事、忠義一徹の御老人でございましたが、将軍家にはこの野暮の和田さまが大の御贔屓で、御父君右大将さま御挙兵以来の至誠の御勇士いまに生き残れる者わづかに義盛、朝光と数へて五指にも足らぬ有様、殊にも元久二年、将軍家御年十四歳の折に、誠忠廉直の畠山父子が時政公の奸策により、むじつの罪にて悲壮の最期をとげられて以来、いよいよこのやうな残存の御老臣を御大切になされ、大野暮の和田さまをもいろいろとおいたはりになつて、この和田左衛門尉さまの居られる前では、和歌のお話などあまりなさらず、もつぱら故右大将家幕府御創設までの御苦心、または義盛さま十数度の合戦の模様など熱心にあれこれとお尋ねになり、左衛門尉さまも白髪のお頭を振つて訥々と当時の有様を言上し、天晴れ御宿老たるのお面目をほどこして御退出なさるのが常のことでございました。しかもこの建暦二年の頃から、さらにひとしほ此の老忠臣に対する御愛顧が深まつた御様子で、六月の二十四日には義盛さまのお宅へわざわざお遊びに出むかれましたほどで、和田氏御一門にとつては無上の光栄、またその折の将軍家のお手土産は、そこは御如才もなく、老勇士の一ばん喜びさうな和漢の猛将軍たちの肖像画といふわけでございまして、左衛門尉さまのその日のお喜びは、どのやうに深いものでございましたでせう。御ところの人々も、ひとりのこらず御老人のまさに末代までの御面目を慶賀し、かつは、おうらやみ申しました。光栄はそればかりでなく、八月十八日には、さらにこの義盛さまへ、同じ御気に入りの老勇士、結城の朝光さまと共に北の三間所、すなはち将軍家の御身辺ちかくに、いつも伺候してゐるやう仰出されまして、この三間所は、私たちのやうな若年の近習がほんの少数、かはり番に伺候してゐるところで、謂はば御ところのお奥でございまして、失礼ながら野暮のむさくるしい御老体など、まごつく場所ではないのでございますが、古いお物語なども随時聞きたいから、との仰せで特に三間所伺候に、さし加へられる事になつたのでございます。老いの面目これに過ぎたるは無く、そのお優しくこまかい、おいたはりには、他人の私どもでさへ、涙ぐましい思ひが致しました程でございます。老齢と雖もさらに奮起一番して粉骨砕身いよいよ御忠勤をはげみ、余栄を御子孫に残すべきところでございましたのに、まことに生憎のもので、この御寵愛最も繁かりしその翌年、あの大騒動にて御一族全滅に相成りました。或いは四月に御ところの御部屋の丸柱から、ひこばえが萌え出て、小さい白い花が咲いたり、或いは十月、鶴岳上宮に幾千万とも知れぬ羽蟻の大群が襲来したり、或いは歳末、鎌倉中の道路が異様の響きで鳴り出したり、この建暦二年といふとしは御ところ太平とは申しながら、その底には、どこやら、やつぱり不吉な鬼気がただよひ、おそろしい天災地変でも起るのではなからうかと、ひそかに懸念してゐた苦労性の人も無いわけではなかつたのでございますが、まさか、あの和田さまが。

建暦三年癸酉。正月小。十六日、戊午、天晴、将軍家二所の御精進始なり。廿二日、甲子、天晴、二所に御進発、相州、武州等供奉し給ふ。廿六日、戊辰、晴、将軍家二所より御帰著と云々。
同年。二月大。一日、壬申、幕府に於て和歌御会有り、題は梅花万春を契る、武州、修理亮、伊賀次郎兵衛尉、和田新兵衛尉等参入す、女房相まじる、披講の後、御連歌有りと云々。二日、癸酉、昵近の祗候人の中、芸能の輩を撰びて結番せらる、学問所番と号す、各当番の日は、御学問所を去らず参候せしめ、面々に時の御要に随ふ、又和漢の古事を語り申す可きの由と云々。十五日、丙戌、天霽、千葉介成胤、法師一人を生虜りて、相州に進ず、是叛逆の輩の中使なり、相州即ち此子細を上啓せらる。十六日、丁亥、天晴、安念法師の白状に依りて、謀叛の輩を、所々に於て生虜らる、凡そ張本百三十余人、伴類二百人に及ぶと云々、此事、濫觴を尋ぬれば、信濃国の住人泉小次郎親平、去々年以後謀逆を企て、輩を相語らひ、故左衛門督殿の若君を以て大将軍と為し、相州を度り奉らんと欲すと云々。
同年。三月大。二日、癸卯、天晴、今度叛逆の張本泉小次郎親平、建橋に隠れ居るの由、其聞有るに依りて、工藤十郎を遣はして召さるる処、親平左右無く合戦を企て、工藤並びに郎従数輩を殺戮し、則ち逐電するの間、彼の前途を遮らんが為、鎌倉中騒動す、然れども、遂に以て其行方を知らずと云々。六日、丁未、天霽、弾正大弼仲章朝臣の使者、京都より到来す、去月廿七日閑院遷幸、今夜即ち造営の賞を行はる、将軍家正二位に叙し給ふ、仍つて其除書を送り進ず。八日、己酉、大霽、鎌倉中に兵起るの由、諸国に風聞するの間、遠近の御家人群参すること、幾千万なるかを知らず、和田左衛門尉義盛は、日来上総国伊北庄に在り、此事に依りて馳せ参じ、今日御所に参上し、御対面有り、其次を以て、且は累日の労功を考へ、且は子息義直、義重等勘発の事を愁ふ、仍つて今更御感有りて、沙汰を経らるるに及ばず、父の数度の勲功に募り、彼の両息の罪名を除かる、義盛老後の眉目を施して退出すと云々。
 さて、つづく建暦三年、このとしは十二月六日に建保と改元になりましたが、なにしろ、事の多いとしでございました。正月一日から地震がございまして、はなはだ縁起の悪い気持が致しましたが、果して陰謀やら兵乱やら、御ところの炎上、また大地震、落雷など、鎌倉中がひつくり返るやうな騒ぎばかりが続きました。けれども将軍家の御一身上に於いては、御難儀、御心痛の事もそれは少からずございましたでせうが、それと同時に、このとしあたりが最も張り合ひのございました時代のやうに見受けられぬ事もないわけではございませんでした。神品に近い秀抜のお歌も、このとしには続々とお出来になりました御様子でございますし、のちに鎌倉右大臣家集とも呼ばれ、または金槐和歌集とも称せられた千古不滅の尊くもなつかしい名歌集も、このとしの暮にひそかに御自身お編みになられたものらしく、鎌倉右大臣家集或いは金槐和歌集といふ名前などは、もちろん将軍家のおなくなりになつて後に附せられたものでございませうが、ついでながら、金槐の金は鎌倉の鎌の偏をとつたものの由で、槐は御承知のとほり大臣を意味する言葉ゆゑ、金槐とは鎌倉右大臣の事でございますさうで、私たちには思ひ出も悲しくさうして今ではあのお方の御俤をしのぶ唯一のお形見ともなつたあの御歌集が、御年わづか二十二歳で完成せられたとは、あのお方の、やつぱり、ただ人でないといふ事の何よりの証拠ともならうかと存ぜられます。そのとしのお正月にも、例の二所詣をなさいまして、私などもお供の端に加へていただき、御出発して程なく、ひどい吹き降りになつて難儀をいたしましたが、将軍家はお気軽なもので、
春雨ニウチソボチツツアシビキノヤマ路ユクラム山人ヤ誰
 などといふおたはむれのお歌をおよみになつて、お供の人たちを大笑ひさせて居られました。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:227 KB

担当:undef