春の枯葉
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著者名:太宰治 

ない
あなたを
待って
いたのじゃない
という歌を知っているかね。これはね、「ドアをひらけば」というこの頃の流行歌だがね、知らんのか、君は。聞いた事が無いのかね。これは意外だ。怠慢の二字に尽きる。フランス革命史なんかよりは、現代の流行歌のほうが、少くとも我々にとっては重大ではないか。いやしくも君、国民学校の教師でありながら、君、(言いながら、また酒を注いで飲んで)現代の流行歌一つご存じないとは、君。
(奥田) 大丈夫ですか? そんなに飲んで。(野中) 大丈夫、だいじょうぶ。これは君、サントリイウイスキイという高級品じゃないか。馬鹿にするな。君もそんなに気取ってないで一口(ひとくち)まあ、こころみてごらん。あなたじゃ
ないのよ
あなたじゃ
ない
あなたを
待って
いたのじゃない
ちょっといいね、これは。失恋の歌だそうだよ。あわれじゃないか。まあ一つ飲め。(一升瓶を持ち上げる)
(奥田)(それを制して)いや、僕のはまだここに一ぱいあります。(苦笑しながら、申しわけみたいにちょっと自分の茶碗に口をつけ、すぐまたそれを卓の上に置き)どうも、これは。(野中) いのちが惜しいか。(笑う)
上手(かみて)の襖しずかにあく。
野中の妻、節子、大きいお皿二つを捧げてはいって来る。一つのお皿には刺身、一つのお皿には焼(や)き肴(ざかな)。

(野中) やあ、来た、来た。おう、こりゃまた豪華だね。多すぎるぞ、これあ。(節子)(にこりともせず、食卓の上を片づけて、その二つの皿を置き)これで、全部でございます。(野中) 全部? (顔を挙げて、節子の顔を見る)お母さんは? 食べないのか?(節子)(まじめに)あの、わたくしどもは、ごはんはもう、すみました。(野中)(憤然と)そうか。(矢庭(やにわ)に食卓をひっくりかえす)久しぶりの平目(ひらめ)じゃないか。お母さんにも、お前にも、みんなに食べてもらいたくて買って来たんだ。それを、なんだ。きたないものみたいにして、気味(きび)のわるいものみたいにして、一口も食べてくれないとは、あまり、あんまり、ひどいじゃないか。(泣き声になる)
節子、無言で、その辺に散らばった肴を皿の上に拾い集める。

(野中) やめろ! 拾うのは、やめてくれ。それは皆、捨てちまえ! 拾い集めてもらって、また食べるなんて、あまり惨(みじ)めだ。惨めすぎる。少しは、こっちの気持も察してくれよ。(上衣の内ポケットから、白い角封筒を出し、節子の手もとにほうってやって)まだ、七、八百円は残っている筈(はず)だ。新円だぞ。それで肴を買って来い。たったいま買って来い。ケチケチするな。鯛(たい)でも鮪(まぐろ)でも、漁師の家にあるものを全部を買って来い。ついでに甚兵衛(じんべえ)のところへ寄って、このサントリイウイスキイがまだ残っていたら、もう一升ゆずってもらって来い。これからまた僕は飲み直すんだ。そうして、ぜひとも、お母さんとお前に、肴を食べてもらうんだ。(節子)(角封筒のほうには目もくれず、黙ってうなだれている。やがて静かに面を挙げて)あの、お伺(うかが)いしたい事がございます。(野中)(たじろぎ)何だ。何か文句があるのか。(節子)(緊張した声で)あなたは、いったい、……。
この時、舞台下手(しもて)より庭先へ、学童二名駈(か)け込み、「先生! 奥田先生!」と叫ぶ。
奥田教師、縁側に出る。学童二名、息せき切って何やら奥田教師に囁(ささや)く。

(奥田)(それを聞いて)そうか、よし。すぐ行く。(部屋へはいって、壁にかけてある自身の上衣をとって着ながら野中に)妹が警察に挙げられました。ばくちです。麻雀賭博(マージャンとばく)を学校の子供たちに教えてやっていたのです。たぶん、そんな事じゃないかと思っていました。ちょっと警察に行って来ます。(会釈(えしゃく)して、縁側に出て、はきものを捜す)(野中)(蹌踉(そうろう)と立ち上り)僕も行く。(奥田)(靴をはきながら)だめ、だめ。あなたはもう、どだい、歩けやしませんよ。(学童たちに向い)さ、行こう。
奥田教師、学童二名と共に舞台下手(しもて)に走り去る。

(野中)(夢遊病者の如くほとんど無表情で歩き、縁側から足袋(たび)はだしで降りて)僕も行く。
野中教師、ほとんど歩行困難の様子だが、よろめき、よろめき、足袋はだしのまま奥田教師たちのあとを追い下手に向う。
節子、冷然と坐ったままでいたのであるが、ふと、膝元(ひざもと)の白い角封筒に眼をとめ、取りあげて立ち、縁側に出てはきものを捜し、野中のサンダルをつっかけ、無言で皆のあとを追う。
――舞台、廻る。
     第三場

舞台は、月下の海浜。砂浜に漁船が三艘あげられている。そのあたりに、一むらがりの枯れた葦(あし)が立っている。
背景は、青森湾。

舞台とまる。

一陣の風が吹いて、漁船のあたりからおびただしく春の枯葉舞い立つ。

いつのまにやら、前場の姿のままの野中教師、音も無く花道より登場。
すこし離れて、その影の如く、妻節子、うなだれてつき従う。

(野中)(舞台中央まで来て、疲れ果てたる者の如く、かたわらの漁師に倒れるように寄りかかり)ああ、頭が痛い。これあ、ひどい。
節子、無言で野中に寄り添い、あたりを見廻し、それから白い角封筒をそっと野中に差し出す。角封筒は月光を受けて、鋭く光る。

(野中)(力弱くそれを片手で払いのけるようにして)それは、お前から、菊代さんにやってくれ。
節子、そのままの形で、黙って野中の顔を見つめている。

(野中) いやなら、いい。(節子の手から封筒をひったくり、自身の上衣のポケットにねじ込み)僕から、返してやる。(急にまた、ぐたりとなって)しかし、お前は、強いなあ。……負けた、負けた。僕は、負けたよ。お前たちのこんな強さは、いったい、何から来ているのだろうなあ。男女同権どころじゃない。これじゃ、あべこべに男のほうからお助けを乞(こ)わなくちゃいけねえ。いったい、なんだい? お前たちのその強さの本質は、さ。封建、といったってはじまらねえ。保守、といってみたってばかげている。どだいそんな、歴史的なものじゃあ無えような気がする。有史以前から、お前たちには、そんな強さがあったんだ。そうしてまた、これから、この地球に人類の存在するかぎり、いや、動物の存続する限り、お前たちは、永久に強いんだ。(節子)(落ちついて)あなたは、はずかしくないのですか?(野中)(呻(うめ)く)ううむ、ちえっ、ちくしょう! (顔を挙げて)全人類を代表してお前に言う。お前は、悪魔だ!(節子)(冷く)なぜですか!(野中) わからんのか? 人が死ぬほど恥かしがっているその現場に平気で乗り込んで来て、恥かしくありませんかと聞ける奴(やつ)あ悪魔だ。(節子) あなたは、はずかしがっていません。(野中) どうしてわかる? どうして、それがわかるんだ。(節子)(無言)(野中) イエス答をなし給わず、か。お前のその、何も物を言わぬという武器は、強いねえ。あんまり、いじめないでくれよ。ああ、頭が痛い。(節子) これから、どうなさるのですか?(野中) 死ぬんだ。死にゃあいいんだろう? どうせ僕は、野中家(け)の面(つら)よごしなんだから、死んで申しわけを致しますですよ。(崩れるように、砂の上にあぐらを掻(か)き)ああ、頭が痛い。切腹だ。切腹をして死んでしまうんだ。(節子) ふざけている時ではございません。菊代さんを、あなたは、どうなさるおつもりです。(野中) どうもこうも出来やしねえ。ああ、頭が痛い。(頭をかかえ込んで、砂の上に寝ころび)負けたんだよ、僕たちは。僕と菊代さんは、お前たちに叛逆(はんぎゃく)をたくらんだが、お前たちは意外に強くて、僕たちは惨敗を喫したんだ。押せども、引けども、お前たちは、びくともしねえ。(節子) だって、あなたたちは、間違った事をしているのですもの。(野中) 聖書にこれあり。赦(ゆる)さるる事の少き者は、その愛する事もまた少し。この意味がわかるか。間違いをした事がないという自信を持っている奴(やつ)に限って薄情だという事さ。罪多き者は、その愛深し。(節子) 詭弁(きべん)ですわ。それでは、人間は、努めてたくさんの悪い事をしたほうがいいのですか?(野中) そこだ! 問題は。(笑う)何が、そこだ! だ。僕はいま罪人なんだ。人を教える資格なんか無いのに、どうも、永く教員なんかしていると、教壇意識がつきまとっていけねえ。いったい、この国民学校の教員というものの正体は何だ。だいいち、どだい、学問が無い。外国語を自由に読める先生が、この津軽地方には、ひとりもいない。外国語どころか、源氏物語だって読めやしない。なんにも知らねえ癖(くせ)に、それでも、教壇に立って、自信ありげに何か教えていやがる。学問が無くても、人格が立派とでもいうんならまだしも、毎日の自分の食べものに追われて走り廻っている有様で、人格もクソもあるもんか。学童を愛する点に於いては、学童たちの父母(ちちはは)に及びもつかぬし、子供の遊び相手、として見ても、幼稚園の保姆(ほぼ)にはるかに劣る。校舎の番人としては、小使いのほうが先生よりも、ずっと役に立つし、そもそもこの、先生という言葉には、全然何も意味が無い。むしろ、軽蔑感を含んでいる言葉だ。どうせからかうつもりなら、いっそもう、閣下(かっか)とでも呼んでもらいたい。僕たちの社会的の地位たるや、ほとんどまるで乞食坊主と同じくらいのものなんだ。国民学校の先生になるという事はもう、世の中の廃残者、失敗者、落伍者(らくごしゃ)、変人(へんじん)、無能力者、そんなものでしか無い証拠だという事になっているんだ。僕たちは、乞食だ。先生という綽名(あだな)を附けられて、からかわれている乞食だ。おい、奥田先生だって、やっぱり同じ事なんだぜ。あきらめろ、あきらめろ。(節子)(鋭く)なんですの? (幽(かす)かに笑い)へんな事をおっしゃいますわね。(野中) 知ってるよ。お前のあこがれのひとは、誰だか。(節子) まあ! そんな。よして下さい! 下劣ですわ。(野中) なんでも無いじゃないか。人間は皆、あこがれのひとを二人や三人持っているものだ。で、どうなんだい? その後の進行状態は。(節子) わたくしには、あなたのおっしゃる事が、ちっともわかりません。(野中) よし、それじゃ、わかるように言ってやろう。お前は、きょう僕の帰る前に、奥田先生の部屋に行っていたね。(節子)(はっきり)ええ、まいりました。奥田先生がおひとりで晩ごはんのお仕度(したく)をしていらっしゃるという事を母から聞いて、何かお手伝いでもしようかと思ってお部屋をのぞいてみました。(野中) それは、ご親切な事だ。お前にもそれだけの愛情があるとは妙だ。いいことだ。美談だ。しかし、僕が外から声をかけたとたんに、お前はふっと姿をかき消したが、あれは、どういうご親切からなんだい?(節子) いやだったからです。(野中) へんだね。(節子)(泣き声になり)いったい、なんとお答えしたらいいのです。(野中) まあ、いいや。よそう。つまらん。どうせお前には、かないっこないんだ。ああ、あ。世は滔々(とうとう)として民主革命の行われつつあり、同胞ひとしく祖国再建のため、新しいスタートラインに並んで立って勇んでいるのに、僕ひとりは、なんという事だ。相も変らず酔いどれて、女房に焼きもちを焼いて、破廉恥(はれんち)の口争いをしたりして、まるで地獄だ。しかし、これもまた僕の現実。ああ、眠い。このまま眠って、永遠に眼が覚めなかったら、僕もたすかるのだがなあ。(眠った様子)(節子)(野中の肩に手をかけて)もし、もし。(肩をゆすぶる)(野中)(なかば、うわごとの如く)殺せ! うるさい! あっちへ行け!
奥田教師、上手(かみて)より、うろうろ登場。

(奥田) あ、おくさん! (寝ている野中を見ていよいよ驚き)どうしたんです、これあ。(節子) あなたの後を追ってここまで来て、寝てしまいました。それよりも、菊代さんは? いかがでしたの?(奥田) いや、それがね、あの子供たちを途中で見失ってしまいましてね。とにかく、僕ひとり警察の前まで行って、それとなく中の様子をうかがって見たんですが、ばかに静かで、べつに変った事も無いようなんです。へたに騒ぎ立てて恥をかいてもつまりませんし、さっきの生徒たちを捜して、もういちどよく聞きただそうと思って、引返して来たところなんです。ことによったら、あいつ、……。(節子) え?(奥田) いや、べつに、……。(節子) 奥田先生! わたくしどもは、菊代さんに何か悪い事でもしたのでしょうか。(奥田)(あらたまって)なぜですか?(節子) ばくちで警察に挙げられたなんて、嘘(うそ)です。わたくしには、もうみな、わかりました。(急に泣き出す)あんまりですわ。あんまりですわ。なぜ、わたくしどもはこんなに、菊代さんにからかわれなければならないのです。(奥田) すみません。実は、僕も、警察の前まで行って、すぐこれあ菊代に一ぱい食わされたなと思ったのですが、しかし、もしそうだとしても、なんのために、子供たちまで使って、こんな、ばからしい狂言を、……。(節子) それは、わかっています。菊代さんは、野中をけしかけて酒や肴(さかな)を買わせて、そうしてわたくしや母にまでごちそうさせて、それから、そのお金は実は菊代さんがばくちでもうけたお金だという事を知らせて、いい気持でごちそうになっている母やわたくしがみっともなく狼狽(ろうばい)するさまを、かげでごらんになってあざ笑うつもりだったのでしょうけれど、でも、それにしても、策略があくどすぎます。あんまり、意地がわるすぎます。(奥田) すると? あの金は?(節子) ご存じじゃなかったのですか? 菊代さんのお金です。(奥田) そうですか。いや、いかにも、あいつのやりそうないたずらだ。(笑う)(節子) まだあります。野中にたきつけて、わたくしとあなたと、……。(奥田)(まじめになり)しかし、おくさん。妹はばかな奴(やつ)ですが、そんな、くだらない事は言わない筈(はず)です。(節子) でも、野中はさっき、わたくしを疑っているような、いやな事を言いました。(奥田) それじゃあ、それは野中先生ひとりの空想です。野中先生は少しロマンチストですからね。いつか僕と議論した事がありました。野中先生のおっしゃるには、この世の中にいかにおびただしく裏切りが行われているか、おそらくは想像を絶するものだ、いかに近い肉親でも友人でも、かげでは必ず裏切って悪口や何かを言っているものだ、人間がもし自分の周囲に絶えず行われている自分に対する裏切りの実相を一つ残らず全部知ったならば、その人間は発狂するだろう、という事でした。しかし僕はそれに反対して、人間は現実よりも、その現実にからまる空想のために悩まされているものだ。空想は限りなくひろがるけれども、しかし、現実は案外たやすく処理できる小さい問題に過ぎないのだ。この世の中は、決して美しいところではないけれども、しかし、そんな無限に醜悪なところではない。おそろしいのは、空想の世界だ、とまあ言ったのですが、どうも、野中先生の空想には困ります。(節子)(変った声で)でも、それが本当だったら?(奥田)(どぎまぎして)え? 何がですか?(節子) 野中のその空想が。(奥田) おくさん! (怒ったように)何をおっしゃるのです。(節子)(声を挙げて泣き)わたくしは今まで何一つ悪い事をした覚えがありません。それなのに、なぜみなさんがわたくしをこんなにいじめるのでしょう。わたくしは自身の楽しみは一つもせずに、野中の家のために努めて来ました。家の名誉を大事に守るというのは悪い事ですか? 教えて下さい。あすの生活の不安の無いように、辛抱してむだ遣(づか)いをつつしむというのは悪い事ですか? 田舎女は田舎女らしく、音楽会や映画にも行かず家(うち)の中で黙って針仕事をしている事は、わるい事ですか? 小説も読まず酒も飲まず行儀をよくして男のひとと間違いを起さないというのは、悪い事ですか? 野中が先刻、間違いをしない人間は薄情だと言いましたが、そんなら人間は間違いをしたほうが正しいのですか? 先生、わたくしは田舎くさくて頭の悪い女です。何もわかりません。教えて下さい。わたくしが先生を好きだったとしたら、かりにそうだったとしたら、かえってわたくしが正しいのですか? わたくしは口が下手(へた)です。よく言えないんです。わたくしは、言葉を知らないのです。ただ、わたくしは、こらえて来ました。辛抱して来ました。自分で自分のすきな事を言ったりおこなったりするのは悪い事だと思って来ました。先生、教えて下さい。わたくしはもう、何がどうなのか、わからなくなって来たのです。わたくしのどこがいけなくて、みんながわたくしをこんなにいじめるのですか。(奥田) おくさん。善悪の彼岸という言葉がありますね。善と悪との向う岸です。倫理には、正しい事と正しくない事と、それからもう一つ何かあるんじゃないでしょうかね。おくさんのように、ただもう、物事を正、不正と二つにわけようとしても、わけ切れるものではないんじゃないですか?(節子) よくわかりませんけれど、それでは、わたくしが何か間違いを起しても?(奥田)(笑って)それあいけません。どだい、不自然ですよ。それこそ、おくさんの空想の領域です。おくさんは、野中先生をずいぶん大事にしていらっしゃる。それがまた、おくさんの生き甲斐(がい)なのでしょう? ばかばかしい空想はやめましょう。おくさん、今夜は、どうかしていますね。現実の問題にかえりましょう。(語調をあらためて)僕たちは、お宅から引越します。問題は、それだけです。僕は学校の宿直室へ行きますし、妹は、あれは、東京へまた帰ったほうがいいだろうと思います。
遠くから、はる、こうろうの花のえん、の合唱が聞える。学童たちの声にまじって、菊代らしき女の声もまじる。

間。

(節子)(冷静になり、顔を挙げて、はっきり)そうお願い致します。(奥田)(かえってまごつき)なんですか?(節子)(それにかまわず、遠くの歌声に耳を傾け)ああやって歌をうたって遊ぶのが、都会ふうで、そうして文化的とかいうもので、日本はこれから、男も女もみんな、菊代さんのようにならなければならないのでしょうか。わたくしのような、旧式な田舎女は、もう、だめなのでしょうか。わたくしには、やっぱりどうしても、わかりませんわ。なぜ、人間は、都会ふうでなければいけないのです。なぜ、田舎くさいのは、だめなんです。(奥田) 人間がだめになったんですよ。張り合いが無くなったんですよ。大理想も大思潮も、タカが知れてる。そんな時代になったんですよ。僕は、いまでは、エゴイストです。いつのまにやら、そうなって来ました。菊代の事は、菊代自身が処理するでしょう。僕たち二十代の者は、或る点では、あなたたちよりもずっと大人(おとな)かも知れません。自己に就(つ)いての空想は、少しも持っていません。(節子)(しずかに)それは、どんな意味ですの?(奥田) 妹は妹、僕は僕、という事です。いや、人は人、僕は僕、と言ってもいいかも知れない。おくさん、あんまり他人の事は気にしないほうがいいですよ。(節子) でも、菊代さんは、わたくしどもをいじめます。野中をそそのかして、わたくしどもの家庭を、……。(奥田)(笑って)引越しますよ、すぐに。(節子)(にくしみを含めて)たすかりますわ。
歌声すこしずつ近くなる。
風吹く。枯葉舞う。

(奥田) 寒くなりましたね。(寝ている野中のほうを顎(あご)でしゃくって)どうしますか? ずいぶん今夜は飲んだからなあ。(節子) 悪いお酒じゃないんですか? 頭が痛い痛いと言っていましたけど。(奥田) だいじょうぶでしょう。あれと同じ酒を、漁師たちが朝から飲んでいて、それでなんとも無いようですから。(節子) でも、あの人たちと野中とでは、からだがまるで違いますもの。(奥田) 試験台にはなりませんか。(笑う)どれ、僕が背負って行ってやろうかな?(節子)(それをさえぎって、鋭く)いいえ。わたくしが致します。もう、お手数(てすう)はかけません。(奥田) 他人は他人、旦那(だんな)は旦那ですか。(いや味なく笑う)そのほうがいいんです。それじゃ僕はちょっと、あの(と歌声のほうを指さし)チンピラの音楽団のほうへ行って、妹をつかまえて、事の真相を問いただしてみましょう。つまらない悪戯(いたずら)をしやがって。(言いながら気軽に上手(かみて)より退場)
風さらに強く吹く。
歌声いよいよ近づく。

(節子)(奥田を見送り、それから、しゃがんで野中の肩をゆすぶる)もし、もし。風邪(かぜ)をひきますよ。さ、一緒に帰りましょうね。(野中の手をとり)まあ、こんなに冷くなって。すみませんでしたわね。わたくしが悪かったのよ。あなた、どうなさったの? (顔を近寄せる)あなた! (狂乱の如く野中の顔、胸、脚など撫(な)でまわし)もし、あなた! (突然立ち上って上手に走り)奥田先生! 奥田せんせい! (また馳(は)せかえり、野中の死体に武者振りついて泣く)すみません、すみません。あなた、もういちど眼をあいて。わたくしは、心をいれかえたのよ。これからはお酒のお相手でも何でもしようと思っていましたのに、あなた! (号泣する)
風。枯葉。歌声。
――幕。



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