新ハムレット
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:太宰治 

せっかく一生懸命努力しているところなのに、そんな噂を立てられちゃ、台無しだ。ひど過ぎる。不愉快だ。僕が直接、叔父さんに尋ねてやる。何か根拠を、突きとめてやらなくちゃ気がすまん。ホレーショー、手伝ってくれるね?」
 ホレ。「そんなら、責任は、僕にあります。ああ。僕に任せて下さいませんか。ハムレットさま、失礼ですが、あなたは少し、すねています。僕には、あなたが悪くすねて居られるのだとしか思われない。あなたは、さっきあれほど濁りなくお笑いになっていらっしゃったじゃありませんか。もとより根も葉も無い不埒な噂なのです。王さまに、ぶしつけにお尋ねになるなんて、とんでもない事です。いたずらに王さまを、お苦しめなさるだけです。僕は、あなたの先刻(さっき)の明快な御判断を、あくまでも信じたい。あなたは、もう、お忘れになったのですか。王さまを、信頼なさっているとおっしゃったじゃありませんか。あれは、出鱈目(でたらめ)だったのですか?」
 ハム。「程度があるよ。侮辱にも、程度があるよ。僕の父が、幽霊になってそんな、不潔な無智(むち)な事をおっしゃるようなお方だと思っているのか。わあ、何もかも馬鹿げている。そんならいっそ、僕も本当に乱心してやろうか。よろこぶだろう。ホレーショー、僕は、すねた。すねてやるとも。わからん、君には、わからん。」
 ホレ。「あとで、ゆっくり御相談申したいと思います。臣ホレーショー、一代の失態でした。こんなに興奮なさるとは、思いも寄りませんでした。ハムレットさま、相変らずですね。」
 ハム。「ああ、相変らずだよ。相変らずのお天気屋だよ。おっちょこちょいは、僕のほうでもらってもいいぜ。僕は、修養が足りんよ。こんなに馬鹿にされてまで、にこにこ笑って居れるほどの大人物じゃないんだ。ホレーショー、その外套(がいとう)を返しておくれ。こんどは、僕のほうで寒くなった。」
 ホレ。「お返し致(いた)します。ハムレットさま、いずれ明日、ゆっくりお話いたしたいと存じますが。」
 ハム。「望むところだ。ホレーショー、怒ったのかい? ああ、浪(なみ)の音が聞えるね。ホレーショー、僕は今夜、もっと大事の秘密も君に聞いてもらいたいと思っていたんだけど、も少し、つき合ってくれないか? 今の噂に就(つ)いても、もっと話合ってみたいし、それから、も一つ僕には苦しい秘密があるんだよ。」
 ホレ。「いずれ、明日、お互いに落ちついてからにしていただきたく存じます。今夜は、おゆるし下さい。僕も、ゆっくり考えてみたいと思っています。僕は、何せ、ジャケツを着て居りませんので。」
 ハム。「勝手にし給え。君は人の興奮の純粋性を信じないから駄目(だめ)だ。じゃ、まあ、ゆっくりお休み。ホレーショー、僕は不仕合せな子だね。」
 ホレ。「存じて居ります。ホレーショーは、いつでも、あなたの味方です。」

   四 王妃の居間

 王妃。ホレーショー。

 王妃。「私が、王にお願いして、あなたをウイッタンバーグからお呼びするように致しました。ハムレットには、ゆうべ、もう逢(あ)いましたでしょうね。どうでしたか? まるで、だめだったでしょう? どうして急に、あんなになったのでしょう。言う事は、少しも取りとめがなく、すぐ、ぷんと怒るかと思えば、矢鱈(やたら)に笑ったり、そうかと思えば大勢の臣下のいる前で、しくしく泣いて見せたり、また、あらぬ事を口走って王に、あなた、食ってかかったりするのです。あの子ひとりの為(ため)に、私は、どんなにつらい思いをするかわかりません。以前も、気の弱い、どこか、いじけたところのある子でしたが、でも、あれ程ではありませんでした。気がむくと、とても奇抜なお道化(どけ)を発明して、私たちを笑わせてくれたものでした。たいへん無邪気なところもありました。なくなった父の、としとってからの子ですから、父も、ずいぶん可愛(かわい)がって、私も、大事な一人きりの子ですし、なんでもあの子の好きなようにさせて育てましたが、それが、あの子の為に、よくなかったようでした。どうも、両親の、としとってからの子は、劣るようです。いつまでも両親を頼りにして、甘えていけません。あの子は、なくなった父を好きでして、大学へはいるようになっても、休暇でお城へ帰ると、もう朝から晩まで父のお居間にいりびたりでした。子供の頃(ころ)には、尚(なお)ひどくて、ちょっとでも父が見えなくなると、もう不機嫌(ふきげん)で、どこへいらっしゃったかと、みんなに尋ね廻って閉口でした。その父が、あんな不慮の心臓病とやらで、突然おなくなりになったものですから、あの子は、もう、どうしていいか、わからなくなったのでしょう。先王が、おなくなりになってから、急に目立っていけなくなりました。それに私が、まあ、みっともない事ですが、此(こ)のデンマークの為とあって、クローヂヤスどのと、名目ばかりですが、夫婦になったという事も、あの子にとっては意外な事件で、よっぽど気持を暗くさせたのではないかと思います。いろいろ考えてみると、あの子が可哀(かわい)そうにもなります。無理もないとも思います。でも、あの子だって、デンマーク国の王子ハムレットです。やがては位を継がなければならぬ人です。父や母が、一時に身辺から去ったといって、いつまでも、泣いたり、すねたりしていると、第一、臣下に見くびられます。いまは大事なところだと思います。私がクローヂヤスどのと結婚したとは言っても、別段よそのお城へ行くわけでなし、今までどおりに、やっぱりハムレットの実母として、一緒に暮して行く筈(はず)ですし、また、現在の王も、もともと他人ではなし、ハムレットとあんなに仲のよかった叔父上なのですから、ハムレットさえこの頃のひがんだ気持を、ちょっと持ち直してくれたら、すべてが円満に、おだやかに行くものと、私は思います。クローヂヤスどのも、昔のような軽薄の行状をつつしみ、いまは、先王に劣らぬ立派な業績を挙げようとして一生懸命なのです。ハムレットの事も、ずいぶん心配して居(お)られます。義理ある仲ですから、いろいろ遠慮もある事でしょう。私が、その二人の仲にはいって、いつも、はらはらしています。ハムレットは、てんで、もう叔父上を、ばかにしているのですもの。あれでは、いけません。かりにも父となり、子となったからには、ハムレットも、も少し礼儀を弁(わきま)えなければいけません。もう昔の、山羊のおじさんではないのですものね。デンマークは今、あぶない時なのだそうです。ノーウエーでは、もう国境に兵隊を繰り出しているという噂(うわさ)さえあるじゃありませんか。本当に、そんな大事な時に、なんという事でしょう。ハムレットさえ、機嫌よく私たちに、なついてくれたら、このエルシノア王城の人心も治り、王も意を強うして外国との交渉に専心出来ますのに。ばかな子ですよ。デンマーク国の王子だという、自覚が足りないと思います。二十三にもなって、女の子のように、いつまでも、先王や母の後を追っています。ホレーショー、あなたは、ことしいくつになります。」
 ホレ。「はい、おかげさまで、二十二歳になりました。」
 王妃。「そうでしょう。ハムレットは、あなたより一つ兄の筈だと思っていました。まるで逆です。あなたのほうが、五つも年上のように見えます。おからだも御丈夫のようだし、学校の成績もいいそうですし、何よりも態度が落ちついていらっしゃる。お父さんも、お母さんも変りなく、お達者でいますか?」
 ホレ。「ありがとう存じます。相かわらず田舎の城で、のんきに暮して居ります。御仁政のおかげでございます。」
 王妃。「私は、あなたのお母さんを、うらやましく思います。こんな立派なお子さんがおありだと、どんなに楽しみな事でしょう。それに較(くら)べてハムレットは、もう私は、あんな具合だと末の見込みも無いような気がします。ささいな悲しみにも動転して、泣くやら、ふてくされるやら、――」
 ホレ。「お言葉に逆らうようですが、ハムレットさまは、いや王子さまは、いや、ハムレットさまは、決して、そのように劣ったお方ではございません。僕の尊敬している唯一(ゆいいつ)のお方です。僕こそ、つまらぬ、おっちょこちょいなのです。僕は、いつでも、ハムレットさまに叱(しか)られてばかりいるのです。僕は、ハムレットさまを大好きです。だから僕は、ハムレットさまの前に立つと、いつも、しどろもどろになります。ハムレットさまは、とても頭がいいから、僕の言おうとしている事は、言わないさきから御承知になっています。やりきれないくらいです。」
 王妃。「それは何も、あの子の美点ではありません。あなたが、親友をかばう気持も、わかりますが、何も、あの子の欠点を特に挙げて褒(ほ)めるには及びません。あの子は、小さい時から、人の顔いろを読みとるのが素早かったのです。それは、かえって性質のいじけている証拠なのです。立派な男子には、不必要な事です。」
 ホレ。「お言葉に逆らうようですが、そんなにいちいち、ハムレットさまを悪くおっしゃるのは、いけないと思います。僕の母は、僕より先に寝室へひっこんだ事は、一度もありませんでした。僕が寝るまでは、起きていました。さきに寝よ、と僕が言っても、お前は私ひとりの子ではない、いまに、王さまの立派なお家来になるべき人です。私はお前を王さまからお預り申しているのです、失礼な事があってはならぬ、と言って、決してさきに寝ませんでした。僕のような取り柄(え)のない子供でも、そんなに、まともに敬愛されると、それでは、しっかりやろうと思うようになります。王妃さまは、あんまりハムレットさまを悪く言いすぎます。それでは、ハムレットさまの立つ瀬が無くなります。王妃さまだって、さきほど、おっしゃったではございませんか。ハムレットさまは、デンマーク国の王子だ、とおっしゃったのをお忘れでございますか。ハムレットさまは、デンマーク国の王子です。王妃さまおひとりのお子ではございません。また、僕たちがこれから身命を献(ささ)げてお守り申すべき御主人です。ハムレットさまを、もっと大事にしてあげて下さい。」
 王妃。「おやおや、あなたから逆に頼まれるとは思い掛けない事でした。ハムレットへの一途(いちず)の忠誠の気持は、わかりますが、やはり子供ですね。そんな思い上ったものの言いかたは、これからは、許しませんよ。実の親子の真情は、他(ほか)のものには、わからぬ場合が多いものです。決して、とやかく口出ししてはならぬものです。あなたのお母さんも、本当に賢母のようで、私と流儀が違うようですが、けれどもそれは、私でさえ、とやかく言ってはならぬ事です。親子の事は、親子に任せるのがいいのです。臣下の場合と、王家の場合とでは、ずいぶん事情もちがいますから、一時の熱狂から無礼の指図は、これからは、許しませんよ。時に、ハムレットは、あなたに何か申しましたか。」
 ホレ。「はい、別に何も、――」
 王妃。「急に、そんなに固くならなくてもいいのです。さっきの元気は、どうしました。ハムレットに似ていると言われますよ。男の子なら男らしく、叱られても悪びれず、はっきり応答するものです。ハムレットは、また、私たちの悪口を言っていたでしょう? そうですね?」
 ホレ。「お言葉に逆らう、いや、お言葉に、お言葉に、――お逆らい、――」
 王妃。「何を言っているのです。男は、あんまり、びくびくするのも、みっともないものです。無闇(むやみ)な指図の他は、お逆らいでも何でも許してあげますから、男らしく、もっとはっきり言いなさい。ハムレットは、私たちの事を何と言っていました。」
 ホレ。「お気の毒だと、御同情申して居られました。」
 王妃。「御同情? お気の毒? へんですね。あなたは、また、かばっているのですね? ハムレットから、いろいろ口どめされたのでしょう。」
 ホレ。「いいえ、お言葉に逆らうようですが、ハムレットさまは、口どめなどと、そんな卑怯(ひきょう)な事をなさるお方ではありません。ハムレットさまは、その人に面(めん)とむかって言えない事は、陰でも決して申しません。言いたい事があると、必ず、面と向って申します。大学時代もそうだったし、いまだってそうです。だから、ハムレットさまは、いつも、そんばかりしています。」
 王妃。「あなたは、ハムレットの事になると、すぐそんなに口をとがらせて、大声になりますが、よっぽど気が合っているものと見える。ハムレットは、身分を忘れ、もの惜しみという事も知らない質(たち)だから、目下(めした)の者には人気があるようですね。」
 ホレ。「王妃さま。何をか言わむです。僕は、もうお答え致しません。」
 王妃。「あなたの事を言ったのではありません。あなたは、ハムレットの親友じゃありませんか。ハムレットだけでなく、私だって、あなたを頼りにしています。こうしてお話を伺っているうちに、いろいろ私にもわかって来る事があるのです。そんなにすぐ怒るところなど、本当にハムレットそっくりです。いまの若い人たちは、少しずつ、どこか似ていますね。そんなに蒼(あお)い顔をなさらず、もっと打ち解けて私になんでも話して聞かせて下さい。ハムレットが他人の陰口を言わない子だという事も、あなたから伺ってはじめて知りました。もし、それが本当なら、私だってうれしく思います。あの子にも案外、いいところがあったのかも知れません。」
 ホレ。「だから、僕がさっき、――」
 王妃。「もうよい。ぶんを越えた、指図はゆるしません。あなたたちは、興奮し易(やす)くていけません。ハムレットはまた、何だって私たちを、気の毒だの何だのと、殊勝な事を言っているんでしょう。ふだんの、あの子らしくも無いじゃありませんか。本当かしら。」
 ホレ。「王妃さま。僕でさえ、王妃さまをお気の毒に思います。」
 王妃。「また、そんな事を言う。としよりをからかうのは、あなたたちの悪い癖です。私が、どうして気の毒なのです。さ、はっきり言ってみて下さい。私は、そんな、思わせぶりの言いかたは大きらいなのです。」
 ホレ。「申し上げます。王妃さまは、ハムレットさまのお心を、何もご存じないからです。ハムレットさまは、ゆうべホレーショーに、こう言いました。僕がこのように若冠ゆえ、叔父上にも母上にも御迷惑をおかけする事が多くて、お気の毒だ、としみじみ申して居りました。叔父上が位に即(つ)いて下さって、僕はどんなに助かるかわからない、とも申して居りました。ハムレットさまは、現王の愛情を信じていらっしゃるのです。或(ある)いは、わがままを申し、或いは、いやがらせをおっしゃる事がありましても、それは叔父上と甥(おい)の間の愛情に安心して居られるからであります。一ばん近い肉親じゃないか、なんでもないんだ、僕は、甘えているのかも知れないが、でも叔父上だってわかって下さってもいいものを、愛情が憎悪(ぞうお)に変ったなどと叔父上はおひとりで、ひがんでおいでになるのだから可笑(おか)しいと申して居られたくらいです。僕は叔父上を本当は好きなんだ、とも申していました。それを伺ってホレーショーは、泣くほど嬉(うれ)しく有難く思いました。デンマーク万歳(ばんざい)を、心の中で叫びました。ハムレットさまは、立派な王子です。みだりに人を疑いません。御判断は麦畑を吹く春の風のように温く、爽(さわ)やかであります。一点の凝滞もありません。王妃さまの事は、もちろん生みの御母上として絶対の信頼と誇りとを以(もっ)てホレーショーに語って下さいます。この度の御結婚に就いても、人の子としてとやかくそれを下劣に批判申し上げるのは最大の悪徳、人間の仲間いりが出来ないと申して居ります。」
 王妃。「誰が? 誰が、人間の仲間いりが出来ないのです。はっきり、もう一度、言ってみて下さい。」
 ホレ。「はっきり申し上げている筈でございます。王妃の御結婚を、人の子として、とやかく卑(いや)しく想像するような下等な奴は、死んだほうがいいという意味であります。ハムレットさまの御気質は高潔です。明快であります。山中の湖水のように澄んで居ります。ホレーショーは、ゆうべはハムレットさまから数々の尊い御教訓を得たのであります。ハムレットさまは、僕たち学友一同の手本であります。」
 王妃。「たいへんですね。ハムレットを、そんなに褒めていただいては、私まで顔が赤くなります。あなたの尊敬している子は、あの子ではなくて、どこかよその、ハムレットという名前の、立派な子なのでしょう。私には、あの子が、そんな男らしい口をきける子だとは、どうしても思えません。あなたは、どうしてそんなに言い繕うのですか。生みの母ほど、子の性質を、いいえ、子の弱点を、知っているものはありません。それは、そのまま母の弱点でもあるからです。私だって欠点の無い人間じゃないのです。私の人間としての到(いた)らなさは、可哀そうにあの子にも伝わっているのです。私は、あの子の事に就いては、あの子の、右足の小指の黒い片端爪(かたわづめ)まで知り抜いているのです。あなたが私を、うまく言いくるめようたって、それは出来ません。もっと打ち明けた話を聞かせて下さい。あなたは何か隠して居られる。ハムレットが、いまのあなたのおっしゃったように、ものわかりのいい素直な子だったら、私も心配はありません。けれども私には信じられないのです。あなたが私に、まるっきり嘘(うそ)をついていると思いません。あなたは、嘘の不得手な純真なお子です。また、あの子にも、いまあなたのおっしゃったような、あっさりした一面がたしかにある事も、私はとうから存じて居ります。ゆうべは、あなたに、そのいい一面も見せたのでしょう。けれども、あなたは他に、何か隠して居られる。あの子の此の頃の様子を見たって、すぐにわかる事ですが、あの子の本心は決して、いまのあなたのお言葉どおりに曇りなく割り切れているようでないのです。ただ、肉親という事実に安心し、甘えて駄々(だだ)をこねているのだとは、どうしても私には思われません。ホレーショー、どうですか。本当のところを知らせて下さい。母としての愛ゆえに、疑い深くなるのです。あなたが、懸命にハムレットを弁護して下さるのは、私も内心は嬉しく思っているのです。なんで嬉しくない事がありましょう。ハムレットは、いいお友達を持って仕合せです。でも、私の心配は、もっと深いところにあるのです。あの子が、何か苦しい事でもあるならば、率直に此の母に打ち明けてくれたらいいと私ひとりは、はらはらしているのに、ハムレットは、言を左右にして、ごまかしてばかりいるのです。ハムレットの今の難儀に、母も一緒に飛び込んで、誰にも知られず解決したいと念じているのです。わかりますか? 母は、おろかなものです。さっきから、あなたに意地の悪いような事ばかり申しましたが、決してハムレットを憎くて言っているのではないのです。こんな事は、あんまり当り前すぎて、言うのも恥ずかしいのですが、私が、此の世で一ばん愛しているのは、あの子です。やっぱり、ハムレットです。愛しすぎているほどです。あの子が、ひとりで悶(もだ)えているさまを、私は見て居られないのです。お願いです。ホレーショー、私の力になって下さい。ハムレットは、どんな事でくるしんでいるのですか。あなたは、ご存じない筈がありません。」
 ホレ。「王妃さま。僕は、存じていないのです。」
 王妃。「まだ、そんな、――」
 ホレ。「いいえ、残念ながら、僕は、本当に知らないのです。ゆうべ、実は、僕、大失態を致(いた)しました。たしかに、ハムレットさまには、王妃さまのおっしゃるように特別な内心の苦悩がおありのようでした。それを僕に、たいへん聞かせたい御様子でありましたが、僕はジャケツを着て居りませんでしたので、非常に寒く、落ちついて承る事が出来ませんでした。僕は、馬鹿であります。なんのお役にも立ちません。お役に立たないばかりか、ゆうべは、かえって罪をさえ犯しました。王妃さま、とんでもない事になってしまいました。僕はウイッタンバーグから、わざわざ放火をしにやって来たようなものでした。ゆうべは僕は、ベッドの中で唸(うな)りました。少しも眠られませんでした。責任は、すべて僕にあるのです。此の始末は、なんとしても、僕が必ず致します。きょうは、これからハムレットさまと、ゆっくり話合うつもりであります。」
 王妃。「何をおっしゃる事やら。私には、ちっともわかりません。あなたたちのおっしゃる話は、まるで、雲からレエスが降って来るような、わけのわからない事ばかりで、何が何やら、さっぱり見当もつきません。それは一体、どんな意味なのです? 何かハムレットと言い争いでもしたのですか。それならば、私が仲裁をしてあげてもいいのです。わけもない、哲学の議論でもはじめたのでしょう。そんなに心配する事は、ありません。」
 ホレ。「王妃さま。僕たちは、子供ではありません。そんな単純な事ではないのです。僕は、平和な御家庭に火を放(つ)けました。僕は、ユダです。ユダより劣った男です。僕は、愛している人たち全部を裏切ってしまいました。」
 王妃。「急に泣き出したりして、立派な男の子が、みっともない。どうしたらいいのです。あなたたちは、いつでも、そんなユダが火を放けたのなんのとお芝居のような大袈裟(おおげさ)な、きざな事を言い合って、そうして泣いたり笑ったりして遊んでいるのですか? けっこうな遊戯です。たのもしい事です。ホレーショー、おさがりなさい。きょうは許してあげますが、これからは気をつけて下さい。」

 王。王妃。ホレーショー。

 王。「ここにいたのか。ずいぶん捜しました。おお、ホレーショーも。ちょうどよい。けさ挨拶(あいさつ)に来てくれた時には、わしは、いそがしくて、ろくに話も出来ませんでしたが、いろいろ君に相談をしたい事もあったのです。元気が無いじゃないか。どうかしたのですか?」
 王妃。「ホレーショーは、もう、おさがり。ユダが火を放けたのなんのと言って、大の男が、泣いて見せるのですもの。なんの役にも立ちやしません。」
 王。「ユダが火を放けた? 初耳です。何か、わけがあるのでしょう。王妃は、すぐ怒るからいけません。ホレーショーは、まじめな人物です。あとで、ゆっくり話してみましょう。」
 ホレ。「失礼いたしました。実に、不覚でありました。王妃さまから、子の母として御真情を承り、つい胸が一ぱいになって、あらぬ事まで口走りました。お許し願いたく存じます。見苦しい姿を、お目にかけました。」
 王。「ホレーショー、お待ちなさい。退出せずともよい。ここにいなさい。君にも聞かせて置きたい事があります。もっと、こっちへ来なさい。大きい声では言えない事です。ガーツルード、わしは驚いたよ。わかったのです。ハムレットの、いらいらしているわけが、やっと、わかりました。」
 王妃。「そう。やはり私たちの事で?」
 ホレ。「いいえ、責任は、すべて僕にあるのです。僕は、必ずや、――」
 王。「二人とも、何を言っているのです。まあ、落ちつきましょう。わしも、ここへ坐(すわ)ります。ホレーショー、おかけなさい。君にも、相談に乗ってもらいたいのです。わしはいま、ポローニヤスから聞いて、驚いたのです。まったく、思いも寄らぬ事でした。ポローニヤスはわしに、辞表を提出しました。わしは、とにかく一応はお預りして置く事にしましたが、王妃、おどろいてはいけませんよ。落ちついて聞いて下さい。困った事です。オフィリヤが、――」
 王妃。「オフィリヤが? そうですか。一度、私も疑ってみた事がありました。」
 王。「まあ、立たずに、ガーツルード、お坐りなさい。坐って落ちついて、ゆっくり考えてみて下さい。ホレーショー、お聞きのとおり、面目次第も無い事です。」
 ホレ。「そうでしたか。やっぱり張本人がいたのですね。オフィリヤといえば、ポローニヤスどのの娘さんですね。あんな美しい顔をしていながら、この平和なハムレット王家に対して、根も葉も無い不埒(ふらち)の中傷を捏造(ねつぞう)し、デンマーク一国はおろか、ウイッタンバーグの大学まで噂(うわさ)を撒(ま)きちらすとは、油断のならぬものですね。で、原因は何でしょう。やはり、かなわぬ恋の恨みとか、または、――」
 王妃。「ホレーショー、あなたは、やはり、おさがり下さい。何もわかってやしません。夢のような事ばかり言っています。オフィリヤは、妊娠したというのです。」
 王。「王妃! つつしみなさい。わしは、まだ、そこまでは言っていません。男として、言いにくい事でした。はっきり言うのは残酷です。」
 王妃。「女は、女のからだには敏感です。オフィリヤの此(こ)の頃(ごろ)の不快の様子を見れば誰だって、一度は疑ってみます。ばからしい。ホレーショー、眼(め)が醒(さ)めましたか?」
 ホレ。「夢のようです。」
 王。「無理もない。わしだって、夢のようです。でも、これは、このまま溜息(ためいき)ついて見ているわけに行きません。それで、ホレーショー、君に一つお願いがあります。君は、ハムレットの親友の筈(はず)ですね。これまで何でも、互いに打ち明けて語り合っていた仲でしたね。」
 ホレ。「はい、きのうまでは、そのつもりで居(お)りましたが、いまは、もう自信がなくなりました。」
 王。「そんなに、しょげて見せる必要はありません。落ちついて考えてみると、そんなに意外な大きい事件でもありません。この二箇月間、故王のお葬(とむら)いやら、わしが位を継いだお祝いやら、また婚儀やらで、城中は、ごったがえしの大騒ぎでした。その混乱の中にハムレットひとりは、故王になくなられた悲しみに堪え得ず、優しい慰めの言葉を或(あ)る人に求めたのです。オフィリヤです。悲しみと恋が倒錯したのだと思います。ハムレットだって、いまは、オフィリヤにどんな気持を抱いているか、それはわかりません。おそらく、今は、少し冷くなりかけているのではないかと思う。それだったら簡単です。オフィリヤが、しばらく田舎へ引き籠(こも)ったら、それで万事が解決します。城中には、すでに噂もひろまっているようで、ポローニヤスもその事を、いたく恐縮していましたが、どんなひどい噂だって、六箇月経(た)ったら忘れられます。オフィリヤの事は、ポローニヤスが巧みに処理してくれるでしょうし、わしとしても出来るだけの事は、してあげるつもりでいます。それは、わしたちに任せて置いていいのです。オフィリヤの生涯(しょうがい)が、台無しになるような、まずい事は決してしません。そこは安心するように。とにかく君から、ハムレットに、よく話してみてくれませんか。ハムレットの、心の底の、いつわりの無いところも、よく聞き訊(ただ)してみて下さい。決して悪いようには、しないつもりです。」
 王妃。「ホレーショー、いやな役ですねえ。私だったら、断ります。ハムレットが、し出かした事ですもの、ハムレットに責任を負ってもらって、一切あの子ひとりにやらせてみたらいいのに。王は、ハムレットに御理解がありすぎるようですね。王のお若い頃お遊びなされた時のお気持と、いまの男の子の気持とは、また違うところもございますからねえ。」
 王。「なに、男の気持というものは、昔も今も変りはありません。ハムレットは、いまに此のわしに、心から頭をさげるようになるでしょう。ホレーショー、どう思います。」
 ホレ。「僕は、僕は、ハムレットさまに聞いてみたい事があります。」
 王。「おお、それがよい。よく、しんそこの、いつわらぬところを聞き訊し、わしたちの意向も、おだやかに伝えてやって下さい。君を見込んで、お願いします。ハムレットは、イギリスから姫を迎える事になっているのですから。」
 王妃。「私は、オフィリヤに聞いてみたい事があります。」

   五 廊下

 ポローニヤス。ハムレット。

 ポロ。「ハムレットさま!」
 ハム。「ああ、びっくりした。なんだ、ポローニヤスじゃないか。そんな薄暗いところに立って、何をなさっているのです。」
 ポロ。「あなたを、お待ち申していました。ハムレットさま!」
 ハム。「なんです。気味の悪い。放して下さい。僕は、いま、ホレーショーを捜しているのです。ホレーショーが、どこにいるか、知りませんか?」
 ポロ。「他所話(よそばなし)は、およし下さい。ハムレットさま。わしは、けさ辞表を提出しました。」
 ハム。「辞表を? なぜです。何か、問題が起ったのですか? 軽率ですね。あなたは、いまのエルシノア王城に無くてはかなわぬ人です。」
 ポロ。「何をおっしゃる。あなたの、その無心なお顔に、ポローニヤスは、いま迄(まで)だまされて来ました。わしは城中の残念な噂を、やっと、きのう耳にしました。」
 ハム。「噂を? なあんだ、その事か。でも、あれは重大です。僕だって、あなたをだましていたわけではないのです。あんないやな噂を聞かされて、それでも知らぬ振りしてとぼけている事など、とても僕には出来ません。本当に、僕も知らなかったのです。実は、ゆうべ或る人から、はじめて聞かされ、おどろいたのです。けれども、あなたが今まで、ご存じなかったとは意外です。日頃のあなたらしくも無いじゃありませんか。ちょっと、迂濶(うかつ)でしたね。本当に、ご存じなかったのですか? そんな事は無いでしょう。もし、本当に、ご存じなかったとしたら、それは、引責辞職の問題も起るでしょうけど、でも、あなたほどの人が、ご存じなかったという筈は無い。」
 ポロ。「ハムレットさま、失礼ながら、正気でいらっしゃいますか?」
 ハム。「なんですって? ばかにしないで下さい。見ればわかるじゃないですか。まさか、あなたまで、あの噂を信じていらっしゃるわけじゃないでしょうね。」
 ポロ。「嘘の天才! よくもそんな、白々しい口がきけるものだ。ハムレットさま、そんな浅墓(あさはか)な韜晦(とうかい)は、やめて下さい。若い者なら若い者らしく、もっと素直におっしゃったら、いかがです。とても隠し切れるものでは、ありません。わしは、きのう直接、当人から聞いてしまいました。」
 ハム。「なんです、いったい、なんの事を言っているのです。ポローニヤス、言葉が過ぎやしませんか? 僕は、あなたの主人だとか何とか、そんな事は考えていませんが、あなたの言葉は、たとい親しい友人同志の間であっても笑っては済まされん。僕は、御推量のとおり、だらしのない、弱虫の、道楽者です。何一つ、あなた達のお手伝いが出来ません。けれども、僕だってデンマーク国の為(ため)には、いつでも命を捨てるつもりなのだ。ハムレット王家の将来に就(つ)いても、心をくだいている筈だ。ポローニヤス、言葉が過ぎます。何をそんなにこわい顔をして怒っているのです。失敬ですよ。」
 ポロ。「見上げたものです。涙も出ません。これが、わしの二十年間、手塩にかけてお育て申したお子さまか。ハムレットさま、ポローニヤスは夢のようです。」
 ハム。「困りますね。ポローニヤスも、おとしをとられたようですね。往年の智慧者(ちえしゃ)も、僕の乱心などを信じるようじゃ、おしまいだ。」 
 ポロ。「乱心? そうです、あなたは、たしかに気が狂って居られる。むかしのハムレットさまは、なんぼなんでも、これほどじゃなかった。」
 ハム。「寄ってたかって、僕を本物の気違いにしようとしている。それではポローニヤス、あなた迄が、あの噂を本当に全部、信じているのですね?」
 ポロ。「信じるも何も。いまさら、何をおっしゃる。もういい加減に、そんな卑怯(ひきょう)な言いかたは、およしなさい。」
 ハム。「卑怯だと? 何が卑怯だ。僕は、どうして卑怯なのだ。あなたこそ失敬至極じゃないか。僕にはあなたに、おわびしなければならぬ事もあるのだし、これまでずいぶん、あなたには遠慮して来た。いまだって、殴りつけてもやりたい気持を何度も抑えて、あなたと話しているのです。するとあなたは、いよいよ僕を見くびって、聞き捨てならぬ悪口雑言を並べたてる。僕も、もう容赦しません。ポローニヤス、僕は、はっきり言います。あなたは、不忠の臣だ。叔父上の悪事の噂を信じ、母上を嘲笑(ちょうしょう)し、僕を本物の気違いにしようとしている。ハムレット王家の、おそるべき裏切者だ。辞表を提出するまでも無い。即刻、姿を消してもらいたい。」
 ポロ。「なるほど、いろいろの手があるものだ。そういう出方(でかた)をなさろうとは、智慧者のポローニヤスにも考え及ばぬ事でした。ポローニヤスも、お言葉のように、としをとったものと見えます。なるほど、いやな噂が、もう一つあった。此の際に、そのほうだけを騒ぎ立て、ご自分の不仕鱈(ふしだら)な噂のほうは二の次にしようとなさる。ご自分の悪事を言われたくないばかりに、やたらに他人の噂を大事件のように言いふらし、困ったことさ等(など)と言って思案投首(なげくび)、なるほど聡明(そうめい)な御態度です。醜聞の風向を、ちょいと変える。クローヂヤスさまこそ、いい迷惑だ。あ、痛い! ハムレットさま、ひどい、何をなさる。殴りましたね。おう痛い。気違いにあっちゃ、かなわない。」
 ハム。「もう一方の頬(ほお)を殴ってやろうか。あなたの頬は、ひどく油切っているから、殴り甲斐(がい)があります。僕は、あなたと、これ以上話をしたくない。」
 ポロ。「お待ちなさい。逃げようたって、逃がしません。ハムレットさま、あなたは卑怯です。あなたのおかげで、わしの一家は滅茶滅茶(めちゃめちゃ)です。わしは田舎にひっこんで貧乏な百姓親爺(おやじ)として余生を送らなければならなくなりました。レヤチーズも、可哀想(かわいそう)に。いさんでフランスへ出かけていったのに、呼び戻さなければなりますまい。あの子の将来も、まっくら闇(やみ)です。それから、あの、――」
 ハム。「オフィリヤは、僕と結婚します。御心配に及びません。ポローニヤス、あなたがそれほどまで僕を憎んでいるんだったら、僕も、はっきり申しましょう。僕はあなたを、もっと濶達(かったつ)な文化人だと思っていた。もっと軽快な、ものわかりのいい人だと思っていました。やがては僕の味方になってくれる人だろうとさえ思っていました。あなたには、おわびしなければならぬ事がありました。その事に就いては、いずれゆっくり相談をするつもりで居りました。あなたに、力になっていただきたいと思っていました。ご存じのように僕は今、叔父上とも母上とも、どうしても、うまく折合いが附かず困って居ります。僕だって何も、好きこのんで、あの人たちと気まずくしているわけではないのですが、どうも、いけないのです。こだわりを感じるのです。しっくり行かないのです。僕は、あの人たちに、僕のくるしい秘密を打ち明ける事が、どうしても出来ず、夜も眠られぬ程ひとりで悶(もだ)えていました。何としても、あの人たちを、信頼する事が出来ぬのです。打ち明けて相談すると、かえって、ひどく悪い結果になるような気がして、僕は此の頃あの人たちと逢(あ)うのを、避けるようにさえなりました。こわいのです。なんだか、とても暗い、いやな気がするのです。あの人たちと顔を合せると、僕は、ただ、おどおどするばかりです。なんにも言えなくなるのです。あの人たちだって、悪い人ではない。いつも僕の事を、心配してくれています。それは、わかっている。あるいは深く愛していて下さるのかも知れないが、けれども、僕はいやなんだ。相談するのがいやなんだ。ポローニヤス、僕は、あなたを最後の力とたのんでいました。どうにも仕様が無くなれば、あなたに何もかも打ち明けて、おゆるしを願い、今後の事も相談しようと思っていました。あなたは、きっと僕たちの事を、ゆるして下さるだろうと、なぜだか、そんな気がしていたのです。さっき、あなたに呼びとめられ、ひやっとしました。来たな、と思いました。ちょうどよい機会だ、こちらから全部、打ち明けてやろうと覚悟して、あなたの顔を見ると真蒼(まっさお)で、ひどく取乱して居られる様子なので、急にいやになり、逃げようとしたら、あなたが僕の腕をつかんで辞表を出したのなんのと、大変な事を言うので僕は、他にも何か事件が起きたのかしらんと思い、あなたに尋ねたら、あなたは城中の噂、とおっしゃったので、ああ、あれか、と早合点してしまったわけなのです。決して、故意にはぐらかしたのではありません。僕は卑怯な男ではないのです。」
 ポロ。「御弁舌さわやかでございます。なかなか、たくみに言いのがれをなさる。けれども、ポローニヤスは、もう、だまされません。何も、今さらそんなにクローヂヤスさまや、王妃さまの事を、出し抜けに問題になさる必要が無いじゃありませんか。あなたは、それを、てれ隠しの道具に使っていらっしゃるのだ。こじつけです。やはり、なんだか、ごまかそうとしていらっしゃる。もっと、当面の問題を、はっきりお伺いしたいのです。」
 ハム。「疑い深いね。そんなに、しつっこく追及されると、僕も開き直って、もっと馬鹿正直に言ってやりたくなります。きのう迄は、僕の悩みは一つしか無かった。オフィリヤ。それだけです。けれどもゆうべ、僕は、もう一つの不愉快極まる話を聞いてしまったのです。もうオフィリヤどころでは無い、と言えば、あなたはすぐに醜聞の風向きを変えるの、てれ隠しの道具に使うのと冷笑しますが、決して、そんなことはない。僕は、ゆうべは、くるしみましたよ。淋(さび)しかった。たまらなく淋しかった。ベッドの中で泣きました。何もかも、ばからしく、腹立たしく、やり切れない思いでした。二つの問題が、異様にからみ合って、手がつけられない。オフィリヤどころでは無い、というのは言いかたが、まずいので、オフィリヤの事も念頭より離れず、それに今度の恐ろしい疑惑が覆(おお)いかぶさり、乱雲が、もくもく湧(わ)き立ち、流れ、かさなり、僕の苦しみが三倍にも五倍にも、ふくれあがって、ゆうべは、本当に、一睡も出来ませんでした。発狂したら、いっそ気楽だ。ポローニヤス、わかりますか? あなたから、城中の残念な噂、と言われて、オフィリヤの事か? とちらと考えてもみたのですが、僕には、その事よりも、もっと色濃く、もう一つの噂のほうが問題だったので、ついそのほうに話を持って行きましたが、決して故意に、そらとぼけたわけではないのです。そんな出方(でかた)もあったか、などと言われると、僕は実に、どうにも不愉快だ。殴ったのは、僕の失態でした。ごめんなさい。かっとしちゃったのです。でも、あなたも、これからは、あんな不愉快な言いかたは、しないで下さい。オフィリヤの事なら、心配は要りません。結婚します。あたり前の事です。どんな障害があっても、結婚しなければいけません。僕は、オフィリヤを愛しています。ただ、僕のくるしんでいるのは、王と王妃に僕たちの事を告白し、そのおゆるしを得る事です。僕は、あの人たちに打ち明けて、お願いするのは、なんとしても、いやなのです。死んだほうがいい。ことにも、ゆうべ、あんな噂を耳にしたので、なおさら打ち明けるのが苦痛になった。僕は、とにかく、あの噂の根元(こんげん)を、突きとめてみたい。何か、ある。きっと、ある。僕には、そんな予感がする。根も葉も無い噂だとしたなら、僕は幸福だ。かえって、それを機会に、あの人たちに僕の日頃の無礼を素直に詫(わ)びて釈然と笑い合う事が出来るようになるかも知れない。とにかく僕は、あの噂の真偽を、もっと追及してみたい。すべては、それからだ。ポローニヤス、わかりますか? オフィリヤの事は、しばらく、そっとして置いて下さい。無責任な事は、致(いた)しません。ああ、ポローニヤス、僕もなんだか勇気を得ました。きょうから僕は、勇気のある男になるんだ。くるしさの、とても逃げられぬどん底まで落ちると、人は新しい勇気を得るものだね。」
 ポロ。「どうだか、あぶないものです。ハムレットさま、あなたは、お若い。あなた達のおっしゃる事は、なんだか、わしには信用できない。新しい勇気、とおっしゃるけれど、勇気ばかりで、もの事が、うまく行くものではありません。また、勇気を得たのなんのと、その場かぎりの興奮から軽薄な大袈裟(おおげさ)な事ばかりを言い散らす人は、昔から、なまけものの、お体裁屋(ていさいや)にきまって居ります。くるしいの、淋しいの、乱雲が湧き立ったのという気障(きざ)な言葉は、見どころのある男子の口にせぬものです。とても本気では聞いて居られぬ言葉です。もう薄鬚(うすひげ)も生えているのに、情無い。いつまで、いい気な夢を見ているのでしょう。もっと、しっかりして下さい。いまのあなたのお話で、とにかく、オフィリヤを一時のなぐさみものになさるおつもりでは、無かったという事だけは、わかりました。あなたを、お痛わしく思います。けれども、真の難関は、これからです。及ばずながら、ポローニヤスも御助勢申し上げますが、あなたも、もっと、しっかりして下さらなければ困ります。本当に、お願い致します。乱雲がもくもく湧き立ったのなんのという言葉は、これからは、なるべくおっしゃらないように。とても、まともには聞いて居られません。なんという、まずい事ばかりおっしゃるのでしょう。あなたも、そろそろ子供の父になるのですよ。」
 ハム。「だから、だから、それだから僕は、くるしんでいるのです。くるしい時に、くるしいと言ってはいけないのですか? なぜですか? 僕は、いつでも、思っていることをそのまま言っているだけです。素直に言っているのです。本当に、淋しいから、淋しいと言うのです。勇気を得たから、勇気を得たと言うのです。なんの駈(か)け引(ひ)きも、間隙(かんげき)も無いのです。精一ぱいの言葉です。乱雲が覆いかぶさったという言葉も、あなたには、大袈裟な下手な形容のように聞えるかも知れませんが、僕にとっては、そのまま、目に見えるような事実なのです。皮膚感触なのです。真実、といっていいかも知れない。僕は、あなたを、オフィリヤとの血のつながりに依(よ)って、やっぱり愛しているのだから、それで安心して、僕の真実をそのままお伝えしようと思っているのだ。ちぇっ! 僕は、どうも、人を信頼し過ぎる。愛に夢中になりすぎる。」
 ポロ。「どうだっていいじゃありませんか、ハムレットさま。世の中は、哲学の教室でもなし、あなただって、失礼ながら聖人賢者におなりになるおつもりでもございますまい。愛だの真実だの乱雲だのと、賢者の口真似(くちまね)をなさっている間にも、オフィリヤのおなかが、刻一刻と大きくなります。それだけは、たしかに、目に見える事実です。わしは、いまあなたに愛されたって、安心されたって、ちっとも有難い事は、ありません。かえって迷惑ですよ。いまは、ただ、オフィリヤの事が、――」
 ハム。「だから、それだから、ああ、わからん、あなたには、わからん。それは安心していても、いいのですよ。ただ、僕のくるしさは、――」
 ポロ。「くるしさという言葉は、ない事にしましょう。脊中がぞくぞくする。あなたは、さっきからその言葉を、もう百回は、おっしゃっています。くるしいのは、あなただけでは、ありません。わしの一家だって、あなたのおかげで滅茶滅茶なのですよ。わしは、もう辞表を提出しました。あすにも此(こ)の王城から出て行かなければなりません。事態は切迫しているのです。ハムレットさま、お力を貸していただきとう存じます。第一に、あなたのため、それからポローニヤス一家のために、執るべき手段は、ひとつしかありません。わしも、ゆうべ、眠らずに考えました。執るべき手段を考えました。ハムレットさま、お力を貸していただきとう存じます。」
 ハム。「ポローニヤス、急にあらたまって、どうしたのです。僕みたいな若輩が、あなたの力になるなんて、とんでもない。からかわないで下さい。あなたこそ夢でも見ているのでは、ありませんか?」
 ポロ。「ゆめ? そう、夢かも知れません。けれども、これこそは窮余の一策だ。ハムレットさま、ポローニヤスの忠誠を信じますか? いや、そんな事は、どうでもいい。つまらぬ事を言いました。ハムレットさま、あなたは正義を愛しますか?」
 ハム。「気味が悪い。急にロマンチストになりましたね。まるで逆になった。こんどは僕が現実主義者になりそうだ。あなたの口から、正義だの忠誠だのという言葉を伺えるとは思いませんでした。いったい、どうしたのです。そんなに、うなだれてしまって、どうしたのです。何を考えているのです。」
 ポロ。「ハムレットさま、わしは悪い人間ですねえ。おそろしい事を考えていました。娘の幸福のためには、王をさえ裏切ろうとする人間です。全部、打ち明けて申し上げます。ああ、いけない、ホレーショーがやって来ました。」

 ホレーショー。ハムレット。ポローニヤス。

 ホレ。「ハムレットさま、ひどい、ひどいなあ。僕は、大恥をかきましたよ。だまっているのだから、ひどいよ。もっとも、ゆうべは僕もいけませんでした。僕が要らない事ばかりおしゃべりして、それに何せ寒かったものですから、あなたのお話をよく聞こうとしなかったのが、失敗のもとでした。でも、もう、わかりました。ポローニヤスどの、このたびは、どうもとんだ事でしたねえ。御心配でしょう。それで? ハムレットさまは、いったい、どういう御意向なのですか? 此の際、ハムレットさまの御意向が、一ばん問題になると思うのですがね。」
 ハム。「ひとりで何を早合点しているのだ。相変らず、そそっかしいねえ、君は。何をそんなに騒いでいるのだ。僕が君に恥をかかせた覚えは、無いよ。」
 ホレ。「だめ、だめ。とぼけたって駄目(だめ)です。僕は、いま王さまから一切を聞いて来たのですからね。いや、笑い事じゃない。慎重に考えなければ、いけない事です。」
 ハム。「そういう君こそ、なんだか、にやにや笑っているじゃないか。ひやかしちゃ、だめだよ。いったい何を、聞いて来たのさ。」
 ホレ。「なあんだ、そんなにお顔を赤くなさっている癖に、まだ、とぼけようとしている。かえって僕のほうで、てれくさくって、くすぐったくて、つい、笑わざるを得ざる有様でございます。」
 ハム。「畜生め。とうとう、見破りやがったな。畜生め、行くぞ!」
 ホレ。「よし来た、組打ちならば、負けやしません。さあ、どうだ! これでもか。」
 ハム。「平気、平気。畜生め、一ひねりだ。おっちょこちょいの、此の咽(のど)を、こんな具合にしめつけると、ぴいと鳴るから奇妙なものさ。」
 ポロ。「およしなさい、およしなさい。なんです。こんな廊下でいきなり組打ちをはじめるなんて、乱暴じゃありませんか。お二人とも、悪ふざけは、およしなさい。わけがわからん。そんなに、お二人とも、げらげら笑って、掴(つか)み合いして、いったい、どうしたのです。よして下さい。いまは、そんな悪ふざけをしている場合ではありません。お互いに、も少し緊張する事にしましょうよ。さあさ、もういい加減におよしなさい。ホレーショーどのも、いったい、どうしたのです。ここは、大学と違うのですよ。」
 ハム。「ポローニヤス、あなたには、わからんよ。僕たちは、ひどく、てれくさい時には、こうして滅茶な組打ちをする事にしているんだ。こうでもしなけれあ、おさまりがつかんじゃないか。」
 ホレ。「まったくですよ。僕は、まんまと、だまされていたのだからなあ。ハムレットさま、ひどいよ。」
 ハム。「そんなでもないさ。これにも、いろいろ、わけがありましてね。へッへ。」
 ポロ。「ああ、そんな下品な笑いかたをなさって、なんという事です。わけもなんにもありゃしない。事件は、実に単純です。ホレーショーどの、まあ、もっとこっちへおいでなさい。おやおや、あなたの上衣(うわぎ)の裾(すそ)は破れたじゃありませんか。どうも、あなたがたは乱暴でいけません。うちのレヤチーズも、ずいぶん乱暴者のようですが、でも、あなたがた程ではありませんよ。まあ、ハムレットさまも落ちつきなさい。いまは、重大な時です。笑って、ふざけている場合ではありません。ホレーショーどのも、これからは、わしたちの力になって下さらなければいけません。これからは、此の三人で、さまざま相談も致したいと思います。それで? ホレーショーどのは、いま王さまから、どんな事を伺って来たのです。聞かせて下さい。わしは、きょうからハムレットさまのお味方なのですから、信頼して、なんでも知らせて下さい。王さまは、あなたに、なんとおっしゃったのですか?」
 ホレ。「おどろいた、夢のようだと、おっしゃっていましたよ。」
 ハム。「それから、僕の悪口も言っていたろう。」
 ホレ。「ひがんじゃ、いけません。王さまは、なかなか、わかっていらっしゃる。いや、どうだかな? とにかく、おどろいていらっしゃる。」
 ポロ。「要領を得ない。もっと、はっきりおっしゃって下さい。王さまの御意見は、どうなんですか?」
 ホレ。「いや、それが、その、いや、実に古くさい。ばかばかしい。僕は、あきれましたよ。僕には、ハムレットさまのお気持は、わかっているんだ。けれども王さまは、ひどい勘違いをなさっているので、僕は呆(あき)れました。おそれつつしんで退出したのですけれど、いや、ひどいなあ。」
 ハム。「わかったよ。とても許されぬ、と言うんだろう? イギリスから姫を迎える、と言うんだろう? わかっているよ。」
 ホレ。「そのとおり。いや、まだひどい。ハムレットさまのお気持も、そろそろ冷くなっている筈(はず)だと思う、とおっしゃっておいででした。だから、オフィリヤさんを、しばらく田舎へ引き籠(こも)らせて、それで万事を解決させる。人の噂(うわさ)も、二箇月だとか、五箇月だとか、いや六箇月だったかな? とにかくそんな具合の御意見でした。悪いようにはしないそうです。王さまも、決して悪意でおっしゃっているのではないのです。それだけは、誤解なさらぬように。ただ、王さまは、勘違いなさって居られるだけなんだ。僕は、とにかく、ハムレットさまに、王さまの御厚志をお伝えするように言いつかったというわけなのです。王妃さまは、なんだか、ひとりで笑って居られました。ハムレットさまのお気持を、よくわかっておいでの御様子でありました。だから決して、絶望というわけではないのです。此の際、王妃さまにお願いするのですね。王さまは、だめです。根っから、いけません。つまり、古いという事になりますかねえ。」
 ハム。「ホレーショー、いい加減の事を言うのは、よせよ。古い、新しいの問題じゃない。現世主義者は、いつでもそうなんだ。叔父さんは、現世の幸福を信じているんだ。叔父さんとしては当然の意見だ。僕だって、それくらいの事は、はじめっから知っていたさ。問題は、そこだよ。そこが苦しいところなんだ。忍従か、脱走か、正々堂々の戦闘か、あるいはまた、いつわりの妥協か、欺瞞(ぎまん)か、懐柔か、to be, or not to be, どっちがいいのか、僕には、わからん。わからないから、くるしいのだ。」
 ポロ。「二度! くるしいという言葉を、二度もおっしゃいました。あなたは、すぐにそんな大袈裟な哲学めいた事を、口走って意味も無い溜息(ためいき)ばかり吐(つ)いて、まるで下手な役者の真似みたいな表情をなさいますが、実にみっともない。王さまのお言葉は、わしだって覚悟していました。これしきの事で、取乱してはいけません。ポローニヤスには、王さまの御処置がわかっていました。だから、わしも、辞表を提出したのです。いまは、たのみとすべきは、ハムレットさま、あなただけです。わしには、わしの考えがあります。ホレーショーどのも、御助勢下さい。すべて、ハムレットさまのためです。さあ、ホレーショーどの、誓って下さい。わしの、これから言う事を必ず他言しないと誓って下さい。」
 ホレ。「どうしたのです。ポローニヤスどの、急に鹿爪(しかつめ)らしくなってしまいましたね。」
 ポロ。「ハムレットさまのためです。誓言は、おいやなのですか?」
 ホレ。「誓いますよ、誓いますよ。なんだか、木に竹を継いだみたいに唐突なので、めんくらったのです。誓いますよ。ハムレットさまのためなら、どんないやな事だって致します。」
 ポロ。「あなたを信頼します。それでは、申し上げます。ハムレットさま、さっき、ちょっと言いかけて、ホレーショーどのが来たので止(よ)しましたが、実は、このごろの城中の、もう一つの暗い噂、あれを、ポローニヤスは信じています。」
 ハム。「なに? 信じている? ばかめ! あなたこそ気が狂った。さもなくば、あなたこそ、いやな噂を種(たね)に王をおどかし、無理矢理オフィリヤを僕の妃に押しつけようとする卑劣下賤(げせん)の魂胆なのだ。きたない、きたない。ポローニヤス、あなたは、さっき言いましたね。わしは娘の幸福のためには、王をさえ裏切ろうとする人間だ、わしは悪い人間だ、と呟(つぶや)いていましたね。僕は、あの時は、なんの事やらわけがわからなかったが、もう、はっきりわかりました。ポローニヤス、あなたは、おそろしい人だ。」
 ポロ。「ちがう! ちがいます。わしの気持が変ったのです。はじめから、全部、申し上げましょう。わしが先王の幽霊の噂を耳にしたのは、ごく最近の事でした。困った事だと思っていました。そのうち王にも御相談申し上げ、適当の対策を講ずるつもりで居(お)りましたが、このごろ、王の御様子を窺(うかが)うと、なんだか曇りがあるのです。わしは、相談を躊躇(ちゅうちょ)しました。なぜだか、相談しにくいのです。はっきり申し上げましょう。わしは、少しずつ王さまを疑うようになって来たのでした。まさか、と思いながらも、王の御様子を拝見していると、なんだか、いやな、暗い気持がして来るのです。わしは、その気持を、いままで誰にも打ち明けず、自分ひとりの胸に畳んで、おのずから明朗に解決される日を待っていました。杞憂(きゆう)であってくれたらいいと、ひそかに念じていたのです。けれども、さっき、娘が不憫(ふびん)のあまり、ふいと恐ろしい手段を考えました。ただいまハムレットさまのおっしゃったような陋劣(ろうれつ)な事を考えました。けれども、ポローニヤスは、不忠の臣ではありません。それは、信じて下さい。ほんの一瞬、ちらと考えてみただけです。ゆうべ一晩、眠らずに考えたというのは嘘(うそ)でした。つい興奮して、心にも無い虚飾を申しました。としは、とっても、子供の事になると、わしもハムレットさまのように大袈裟な言葉を、つい言いたくなります。一瞬、ほんの一瞬だけ考えて、すぐにその陋劣に身震いし、こんどは逆に、猛烈に、正義という魂魄(こんぱく)を好きになりました。たまらなく好きになりました。オフィリヤの事よりも、まず、あの不吉な噂の真偽をたしかめる。その事こそ、臣下の義務、いや人間の義務だと気が附きました。ハムレットさま、いまでは、わしは、あなた達の味方です。きょうからは、わしも青年の仲間に入れていただくつもりなのです。青年の正義。世の中に、信頼できるものは、それだけです。」
 ハム。「へんですねえ。こっちが、てれてしまいます。なんだか、へんだ。ホレーショー、人生には、予期せぬ事ばかり起るものだねえ。」
 ホレ。「僕は、信じます。ポローニヤスどの、ありがとう。僕は、信じますよ。感激しました。でも、なんだか、へんだなあ。唐突すぎる。」
 ポロ。「へんな事はありません。あなた達こそ、臆病(おくびょう)なのです。わしは、もう、破れかぶれなのかも知れません。いや、ちがう。正義だ。正義! いい言葉だ。わしは、突貫しますよ。お力を貸して下さい。三人で、まず王さまを、ためしてみましょう。失礼な事かも知れないが、何も皆、正義のためだ。王さまの顔色を探ってみましょう。たしかな証拠をつきとめましょう。いかがです。わしには、一つ、いい考えがあるのです。相談に乗って下さい。何も皆、正義のためです。わしの行くべき路(みち)は、それだけです。」
 ハム。「正義のほうで、顔負けしますよ。ポローニヤス、あなたは錯乱しています。いいとしをして、みっともない。落ちつきなさい。あなたは、いったい、あのばかな噂を本気に信じているのですか? 嘘でしょう? なんだか、底に魂胆がありそうですね。」
 ポロ。「情無い事を、おっしゃる。ハムレットさま、あなたは、可哀想(かわいそう)なお子です。なんにも御存じないのです。」
 ホレ。「ああ、いけない。ポローニヤスどの、もう、およし下さい。王さまは、いいお方です。ハムレットさまだって、心の底では王さまを、お慕い申しているのですよ。いまさら、そんな、薄気味わるい事は、おっしゃらないで下さい。いけない、いけない、ああ、僕は、また寒くなって来ました。震える。全身が、震える。」
 ハム。「ポローニヤス、重大な事ですよ。浮薄な言動は、つつしみなさい。たしかに、信ずべき節(ふし)が、あるのですか?」
 ポロ。「残念ながら、――ございます。」
 ハム。「ははん、ホレーショー、僕たちが冗談に疑って遊んでいたら、それが、本当だってさ。なんて事だい。馬鹿笑いが出るよ。」

   六 庭園

 王妃。オフィリヤ。

 王妃。「あたたかになりましたね。ことしは、いつもより、春が早く来そうな気がします。芝生も、こころもち、薄みどり色になって来た様じゃありませんか。早く、春が来ればよい。冬は、もう、たくさんです。ごらん、小川の氷も溶けてしまった。柳の芽というものは、やわらかくて、本当に可愛(かわい)いものですね。あの芽がのびて風に吹かれ、白い葉裏をちらちら見せながらそよぐ頃(ころ)には、この辺いっぱいに様々の草花も乱れ咲きます。金鳳花(きんぽうげ)、いらくさ、雛菊(ひなぎく)、それから紫蘭(しらん)、あの、紫蘭の花のことを、しもじもの者たちは、なんと呼んでいるか、オフィリヤは、ご存じかな? 顔を赤くしたところを見ると、ご存じのようですね。あの人たちは、どんな、みだらな言葉でも、気軽に口にするので、私には、かえって羨(うら)やましい。オフィリヤたちは、あの、紫蘭の花を何と呼んでいるのですか? まさか、あの露骨な名前で呼んでいるわけでもないでしょう。」
 オフ。「いいえ、王妃さま、あたしたちだって、やっぱり、同じ事でございます。幼い時に無心に呼び馴(な)れてしまいましたので、つい、いまでも口から滑って出るのです。あたしばかりではなく、よそのお嬢さん達だって、みんな平気で、あの露骨な名を言って澄まして居ります。」
 王妃。「おやおや、そうですか。いまの娘さん達の、あけっぱなしなのには、驚きます。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:195 KB

担当:undef