新ハムレット
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著者名:太宰治 

   はしがき

 こんなものが出来ました、というより他(ほか)に仕様が無い。ただ、読者にお断りして置きたいのは、この作品が、沙翁(さおう)の「ハムレット」の註釈書でもなし、または、新解釈の書でも決してないという事である。これは、やはり作者の勝手な、創造の遊戯に過ぎないのである。人物の名前と、だいたいの環境だけを、沙翁の「ハムレット」から拝借して、一つの不幸な家庭を書いた。それ以上の、学問的、または政治的な意味は、みじんも無い。狭い、心理の実験である。
 過去の或(あ)る時代に於(お)ける、一群の青年の、典型を書いた、とは言えるかも知れない。その、始末に困る青年をめぐって、一家庭の、(厳密に言えば、二家庭の、)たった三日間の出来事を書いたのである。いちどお読みになっただけでは、見落し易(やす)い心理の経緯もあるように、思われるのだが、そんな、二度も三度も読むひまなんか無いよ、と言われると、それっきりである。おひまのある読者だけ、なるべくなら再読してみて下さい。また、ひまで困るというような読者は、此(こ)の機会に、もういちど、沙翁の「ハムレット」を読み返し、此の「新ハムレット」と比較してみると、なお、面白い発見をするかも知れない。
 作者も、此の作品を書くに当り、坪内博士訳の「ハムレット」と、それから、浦口文治氏著の「新評註ハムレット」だけを、一とおり読んでみた。浦口氏の「新評註ハムレット」には、原文も全部載っているので、辞書を片手に、大骨折りで読んでみた。いろいろの新知識を得たような気もするが、いまそれを、ここでいちいち報告する必要も無い。
 なお、作中第二節に、ちょっと坪内博士の訳文を、からかっているような数行があるけれども、作者は軽い気持で書いたのだから、博士のお弟子(でし)も怒ってはいけない。このたび、坪内博士訳の「ハムレット」を通読して、沙翁の「ハムレット」のような芝居は、やはり博士のように大時代な、歌舞伎(かぶき)調で飜訳(ほんやく)せざるを得ないのではないかという気もしているのである。
 沙翁の「ハムレット」を読むと、やはり天才の巨腕を感ずる。情熱の火柱が太いのである。登場人物の足音が大きいのである。なかなかのものだと思った。この「新ハムレット」などは、かすかな室内楽に過ぎない。
 なおまた、作中第七節、朗読劇の台本は、クリスチナ・ロセチの「時と亡霊」を、作者が少しあくどく潤色してつくり上げた。ロセチの霊にも、お詫(わ)びしなければならぬ。
 最後に、此の作品の形式は、やや戯曲にも似ているが、作者は、決して戯曲のつもりで書いたのではないという事を、お断りして置きたい。作者は、もとより小説家である。戯曲作法に就(つ)いては、ほとんど知るところが無い。これは、謂(い)わば LESEDRAMA ふうの、小説だと思っていただきたい。
 二月、三月、四月、五月。四箇月間かかって、やっと書き上げたわけである。読み返してみると、淋(さび)しい気もする。けれども、これ以上の作品も、いまのところ、書けそうもない。作者の力量が、これだけしか無いのだ。じたばた自己弁解をしてみたところで、はじまらぬ。
昭和十六年、初夏。



  人物。

クローヂヤス。(デンマーク国王。)
ハムレット。(先王の子にして現王の甥(おい)。)
ポローニヤス。(侍従長。)
レヤチーズ。(ポローニヤスの息。)
ホレーショー。(ハムレットの学友。)

ガーツルード。(デンマーク王妃。ハムレットの母。)
オフィリヤ。(ポローニヤスの娘。)

その他。

  場所。

デンマークの首府、エルシノア。


[#改ページ]



   一 エルシノア王城 城内の大広間

 王。王妃。ハムレット。侍従長ポローニヤス。その息レヤチーズ。他に侍者多勢。

 王。「皆も疲れたろうね。御苦労でした。先王が、まことに突然、亡(な)くなって、その涙も乾かぬうちに、わしのような者が位を継ぎ、また此(こ)の度はガーツルードと新婚の式を行い、わしとしても具合の悪い事でしたが、すべて此のデンマークの為(ため)です。皆とも充分に相談の上で、いろいろ取りきめた事ですから、地下の兄、先王も、皆の私心無き憂国の情にめんじて、わしたちを許してくれるだろうと思う。まことに此の頃(ごろ)のデンマークは、ノーウエーとも不仲であり、いつ戦争が起るかも知れず、王位は、一日も空けて置く事が出来なかったのです。王子ハムレットは若冠ゆえ、皆のすすめに依(よ)って、わしが王位にのぼったのですが、わしとても先王ほどの手腕は無し、徳望も無ければ、また、ごらんのとおり風采(ふうさい)もあがらず、血をわけた実の兄弟とも思われぬくらいに不敏の弟なのですから、果して此の重責に堪え得るかどうか、外国の侮(あなど)りを受けずにすむかどうか頗(すこぶ)る不安に思って居(お)りましたところ、かねて令徳の誉(ほまれ)高いガーツルードどのが、一生わしの傍にいて、国の為、わしの力になってくれる事になりましたので、もはや王城の基礎も確固たり、デンマークも安泰と思います。皆も御苦労でした。先王が亡くなられてから今日まで、もう二箇月にもなりますが、わしには何もかも夢のようです。でも皆の聡明(そうめい)な助言に依って、どうやら大過なく、ここまでは、やって来ました。いかにも未熟の者ですから、皆も、今日以後、変らず忠勤の程を見せ、わしを安心させて下さい。ああ、忘れていた。レヤチーズが、わしに何か願いがあるとか言っていましたね。なんですか?」
 レヤ。「はい。実は、フランスへ、もう一度遊学に行かせていただきたいと思っているのでございますが。」
 王。「その事でしたら、かまいません。君にも此の二箇月間、ずいぶん働いてもらいました。もう、こちらは、どうやら一段落ですから、ゆっくり勉強しておいでなさい。」
 レヤ。「恐れいります。」
 王。「君の父にも相談した上の事でしょうね。ポローニヤス、どうですか?」
 ポロ。「はい。どうにも、うるさく頼みますので、とうとう昨夜、私も根負け致(いた)しまして、それでは王さまにお願いして見よと申し聞かせた次第でございます。ヘッヘ、どうも若いものには、フランスの味が忘れかねるようでございます。」
 王。「無理もない。レヤチーズ、子供にとっては、王の裁可よりも、父の許しのほうが大事です。一家の和合は、そのまま王への忠義です。父の許しがあったならば、それでよい。からだを損わぬ程度に、遊んでおいで。若い時には、遊ぶのにも張り合いがあるから、うらやましい。ハムレットは、このごろ元気が無いようですが、君もフランスへ行きたいのですか?」
 ハム。「僕ですか? からかわないで下さい。僕は地獄へ行くんです。」
 王。「何を、ぷんぷんしているのです。あ、そうか。君は、ウイッタンバーグの大学へ、また行きたいと言っていましたね。でも、それは怺(こら)えて下さい。わしからお願いします。君は、もうすぐ此のデンマークの王位を継がなければならぬ人です。今は国も、めんどうな時ですから、わしが仮に王位に即(つ)きましたが、此の危機が去って、人々の心も落ちつけば、わしは君に跡を継いでもらって、ゆっくり休息したいと思って居ります。それゆえ君は、いまからわしの傍にいて、少しずつ政治を見習うように心掛けなければいけません。いや、わしを助けてもらいたいのです。どうか、大学へ行くのは、あきらめて下さい。これは、父としての願いでもあるのです。君が、いなくなると、王妃だって淋(さび)しがるでしょう。君は、このごろ健康を害しているようにも見えます。」
 ハム。「レヤチーズ、――」
 レヤ。「はい。」
 ハム。「君は、いい父を持って仕合せだね。」
 王妃。「ハムレット、なんという事を、おっしゃるのです。私には、あなたが、ふてくされているようにしか思われません。そんな厭味(いやみ)な、気障(きざ)な態度は、およしなさい。不満があるなら男らしく、はっきりおっしゃって下さい。私は、そんな言いかたは、きらいです。」
 ハム。「はっきり言いましょうか。」
 王。「わかっています。わしは此の機会に、君と二人きりでゆっくり話してみたい。王妃も、そんなに怒るものではありません。若い者には、若い者の正当な言いぶんがある筈(はず)です。わしにも、反省しなければならぬ事が、まだまだ、あるように思われます。ハムレット、泣かずともよい。」
 王妃。「なに、そら涙ですよ。この子は、小さい時から、つくり泣きが上手だったのです。あまり、いたわらずに、うんとお叱(しか)りになって下さい。」
 王。「ガーツルード、言葉をつつしみなさい。ハムレットは、あなたひとりの子ではありません。ハムレットは、デンマーク国の王子です。」
 王妃。「それだから私も言うのです。ハムレットだって、もう二十三になります。いつまで、甘えているのでしょう。私は生みの母として此の子を恥ずかしく思います。ごらん下さい。きょうは王の初謁見式(えっけんしき)だというのに、この子ばかりは、わざと不吉な喪服なんかを着て、自分では悲壮のつもりで居るのでしょうが、それがどんなに私たちを苦しめる事なのか、この子は思ってもみないのです。私には、この子の考えている事くらい、なんでもわかります。この喪服だって、私たちへのいやがらせです。先王の死を、もはや忘れたのかという、当てつけのつもりなのでしょう。誰も忘れてやしません。心の中では誰だって、深く悲しんでいるのですが、いまは、その悲しみに沈んでばかりも居られません。私たちは、デンマークの国を思わなければいけません。デンマークの民を思わなければいけません。私たちには、悲しむ事さえ自由ではないのです。自分の身であって、自分のものではないのです。ハムレットには、それが、ちっともわかっていないのです。」
 王。「いや、それは酷だ。そんな、追いつめるような言いかたをしては、いけません。人を無益に傷つけるだけの事です。王妃には、生みの母という安心があって、その愛情を頼みすぎて、そんな事を言うのでしょうが、若い者にとっては、陰の愛情よりも、あらわれた言葉のほうが重大なのです。わしにも、覚えがあります。言葉に拠(よ)って、自分の全部が決定されるような気がするものです。王妃も、きょうは、どうかしていますよ。ハムレットが喪服を着ていたって、少しも差しつかえ無いと思います。少年の感傷は純粋なものです。それを、わしたちの生活に無理に同化させようとするのは、罪悪です。大事にしてやらなければいけません。わしたちこそ、この少年の純粋を学ばなければいけないのかも知れません。わかるとは思っていながら、いつのまにやら、わしたちは大事なものを失っている場合もあるのです。とにかく、わしはハムレットと二人きりで、ゆっくり話してみたいと思いますから、みんなは暫(しばら)く向うへ行っていて下さい。」
 王妃。「そんなら、お願い致します。私も少し言いすぎたようですが、でも、あなたも義理ある仲だと思って、此の子に優しくしすぎるようです。それでは、いつまで経(た)っても、この子は立派になりません。先王がおいでになったとしても、きょうの此の子の態度には、きっとお怒りになり、此の子をお打ちになったでしょう。」
 ハム。「打ったらいいんだ。」
 王妃。「また、何をおっしゃる。もっと素直におなりなさい。」

 王。ハムレット。

 王。「ハムレット、ここへお坐(すわ)りなさい。厭なら、そのままでいい。わしも立って話しましょう。ハムレット、大きくなったね。もう、わしと脊丈(せたけ)が同じくらいだ。これからも、どんどん大人になるでしょう。でも、も少し太らなければいけませんね。ずいぶん痩(や)せている。顔色も、このごろ、よくないようです。自重して下さいよ。君の将来の重大な責務を考えて下さい。きょうはここで、二人きりで、ゆっくり話してみましょう。わしは前から、二人きりになれる機会を待っていたのです。わしも、思っているところを虚心坦懐(たんかい)に申しますから、君も、遠慮なさらず率直に、なんでも言って下さい。どんなに愛し合っていても、口に出してそれと言わなければ、その愛が互いにわからないでいる事だって、世の中には、ままあるのです。人類は言葉の動物、という哲学者の意見も、わしには、わかるような気がします。きょうは、よく二人で話合ってみましょう。わしも此の二箇月間は、いそがしく、君と落ちついて話をする機会もなかった。全く、そのひまが無かったのです。ゆるして下さい。君のほうでもまた、なんだか、わしと顔を合せるのを避けてばかりいましたね。わしが部屋へはいると、君は、いつでもぷいと部屋から出て行きます。わしは、その度毎(たびごと)に、どんなに淋しかったか。ハムレット! 顔を挙げなさい。そうして、わしの問いに、はっきり、まじめに答えて下さい。わしは、君に聞きたい事がある。君は、わしを、きらいなのですか? わしは、いまでは君の父です。君は、わしのような父を軽蔑(けいべつ)しているのですか? 憎んでいるのですか? さ、はっきりと答えて下さい。一言でいい。聞かせて下さい。」
 ハム。「A little more than kin, and less than kind.」
 王。「なんだって? よく聞きとれなかった。ふざけては、いけません。わしは、まじめに尋ねているのです。語呂(ごろ)合せのような、しゃれた答えかたはしないで下さい。人生は、芝居ではないのです。」
 ハム。「はっきり言っている筈です。叔父さん! あなたは、いい叔父さんだったけど、――」
 王。「いやな父だというのですね?」
 ハム。「実感は、いつわれませんからね。」
 王。「いや有難う。よく言ってくれました。そのように、いつでも、はっきり言ってくれるといいのです。真実の言葉に対しては、わしは、決して怒りません。実は、わしも、君とそっくりな実感を持っているのです。何も君、そんなに顔色を変えて、わしを睨(にら)む事は無いじゃないか。君は少し表情が大袈裟(おおげさ)ですね。わかい頃(ころ)は誰しもそうなんだが、君は、自分ではずいぶん手ひどい事を他人に言っていながら、自分が何か一言でも他人から言われると飛び上って騒ぎたてる。君が他人から言われて手痛いように、他人だって君にずけずけ言われて、どんなに手痛いか、君はそんな事は思ってもみないのですからね。」
 ハム。「そんな、決してそんな、――ばからしい。僕はいつでも、せっぱつまって、くるしまぎれに言ってるのです。ずけずけなんて言った覚えは、ありません。」
 王。「だから、それが君だけでは無いと言うのです。わしたちだって、いつでも、せっぱつまって言っているのです。精一ぱいで生きているのです。わしたちには、何か力の余裕と自信が満ちているように君たちには見えるのかも知れないが、同じ事です。君たちと、ほとんど同じ事なのです。一日を息災に暮し得ては、ほっとして神にお礼を申している有様なのです。ことにも、わしはハムレット王家の血を受けて生れて来た男です。君もご存じのように、ハムレット王家の血の中には、優柔不断な、弱い気質が流れて居ります。先王も、わしも、幼い時から泣き虫でした。わしたち二人が庭で遊んでいるのを他国の使臣などが見て、女の子と間違ったものです。二人そろって病弱でした。侍医も、二人の完全な成長を疑っていたようでした。けれども先王は、その後の修養に依って、あのように立派な賢王になられました。宿命を、意志でもって変革する事が出来ると、わしは今では信じて居ります。先王が、そのよいお手本です。わしは今、懸命に努力しています。何とかして、此のデンマークの為に、強い支柱になってやりたいと思っています。本当に、精一ぱいなのです。けれども、いま、わしを一ばん苦しめているものは、ハムレット、ご存じですか、君です。君は、さっき、実感はあらそわれないとか言いましたが、わしも、そのとおり、君を我が子と思えないのです。もっと、はっきり言いましょう。君は可愛(かわい)い甥でした。わしは君を、利巧な甥としてしんから愛して来ました。君だって、先王がおいでの頃は、この山羊(やぎ)のおじさんに、なついていました。わしの顔が山羊に似ているのを、一ばんさきに見つけたのは、わしの可愛い甥でした。叔父さんも、よろこんで山羊のおじさんになっていました。あの頃が、なつかしいね。いまでは、わしと君は、親子です。そうして心は、千里も万里も離れました。むかしの二人の愛情が、そのまま憎悪(ぞうお)に変ってしまった。わしたちが親子になったのが、不仕合せのもとでした。でも、これは、このままにしては置けません。ハムレット、わしには一つお願いがあります。あざむいて下さい。せめて臣下の見ている前だけでも、君の実感をあざむいて下さい。わしと仲の良い振りをしていて下さい。いやな事でしょう。くるしい事です。でも、その他(ほか)に方法がありません。王家の不和は、臣下の信頼を失い、民の心を暗くし、ついには外国に侮られます。さっき、王妃も言いましたが、わしたちの場合は、自分のからだであって、自分のものではないのです。すべて、此のデンマークの為に、父祖の土の為に、自分の感情は捨てなければなりません。此のデンマークの土も、海も、民も、やがては君の掌(て)に渡されるのです。わしたちは、いま協力しなければいけません。わしを愛してくれとは申しません。わしだって君を、心の底から我が子と呼んで抱きしめる程の愛情は、打ち明けたところ、どうしても感ぜられない状態なのですから、君にだけ、無理に愛せよ等(など)とは言えません。ただ、人の見ている前だけでいいのです。それがお互いのくるしい義務です。天意だと思います。これには従わなければいけません。愛への潔癖よりも、義務への忍従のほうが、神の悦(よろこ)び賞するところだと信じます。また、はじめは身振りだけの愛の挨拶(あいさつ)であっても、次第に、そこから本当の愛が滲(にじ)んで湧(わ)いて来る事だってあると思います。」
 ハム。「わかりました。それくらいの事は、僕にだって、わかっています。僕は、めんどうくさいんです。僕を、も少し遊ばせて置いて下さい。叔父さん、僕から一つお願いします。僕を、また、ウイッタンバーグの大学へ行かせて下さい。」
 王。「二人だけの時は、叔父と呼んでも一向かまいませんが、王妃や臣下のいる前では、必ず父と呼ぶことを約束しなければなりません。こんな、つまらぬ事を、とがめだてするのは、わしは、つらくて恥ずかしいのですが、そんな些細(ささい)の形式が、デンマーク国の運命にさえ影響します。わしは、此の事を、さっきから君にたのんでいるのです。」
 ハム。「そうですか。どうも。」
 王。「君は、どうしてそうなんでしょう。わしが、ちょっとでも、むきになって何か言うと、すぐ、ぷんとして、そんな軽薄な返事をして、わしの言葉をはぐらかしてしまいます。」
 ハム。「叔父さん、いや、王こそ、僕のお願いを、はぐらかします。僕は、ウイッタンバーグへ行きたいんです。それだけなんです。」
 王。「本当ですか? わしは、それを嘘(うそ)だと思っています。だから、聞えぬ振りをしようと思っていたのです。大学へ、また行きたいというのは、君の本心ではありません。それは、口実にすぎません。君は、そんな事を言って、ただわしに反抗してみているだけなのです。わしだって知っています。若いころの驕慢(きょうまん)の翼は、ただ意味も無くはばたいてみたいものです。やたらに、もがきたいのです。わしはそれを動物的な本能だと思っています。その動物的な本能に、さまざま理想や正義の理窟(りくつ)を結びつけて、呻(うめ)いているのです。わしは断言できる。君は、よし先王が生きておいでになっても、きっと、いまごろは先王に反抗している。そうして、先王を軽蔑し、憎み、わからずやだと陰口をきき、先王を手こずらせているでしょう。そんな年ごろなのです。君の反抗は肉体的なものです。精神的なものではありません。いま君は、ウイッタンバーグへ行っても、その結果が、わしには、眼(め)に見えるようです。君は大学の友人たちから英雄のように迎えられるでしょう。旧弊な家風に反抗し、頑迷(がんめい)冷酷な義父と戦い、自由を求めて再び大学へ帰って来た、真実の友、正義潔白の王子として接吻(せっぷん)、乾盃(かんぱい)の雨を浴びるでしょう。でも、そのような異様の感激は、なんであろう。わしは、それを生理的感傷と呼びたいのです。犬が芝生に半狂乱でからだをこすりつけている有様と、よく似ていると思います。少し言いすぎました。わしは、その若い感激を、全部否定しようとは思いません。それは神から与えられた一つの時期です。必ずとおらなければならぬ火の海です。けれども人は一日も早く、そこから這(は)いあがらなければいけません。当りまえの事です。充分に狂い、焦(こ)げつき、そうして一刻も早く目ざめる。それが最上の道です。わしだって、君も知っているように決して聡明(そうめい)な人間ではありませんでした。いや、実に劣った馬鹿でした。いまでも、わしは、はっきり目ざめているとは言えません。けれども、わしは、君にだけは失敗させたくないと思っています。君は学友たちの、その場かぎりの喝采(かっさい)の本質を、調べてみた事がありますか。あれは、ふしだらの先輩を得たという安堵(あんど)です。お互いに悪徳と冒険を誇り合い、やがて薄汚い無能の老いぼれに墜落させ合うばかりです。わしは、わしの愚かな経験から君に言い聞かせているのです。わしは、永いあいだ放埒(ほうらつ)な大学生々活をして来ました。そうして、いまに残っているものは何でしょう。何もありません。ただ、いやらしい思い出です。呻くばかりの慚愧(ざんき)です。惰性の官能です。わしは、その悪習慣をもてあましました。いまだって、なおその処理にくるしんで居(お)ります。レヤチーズの場合は、ちがいます。あれには、出世という希望があります。出世という希望のあるうちは、人はデカダンスに落ちいる事はありません。君には、その希望がありません。落ちてみたい情熱だけです。君は既に三箇年間、大学の生活をして来ました。もう充分なのです。再び昔の学友たちと、あの熱狂を繰り返したら、こんどは取りかえしのつかぬ事になるかも知れません。少年の頃の不名誉の傷は、皆の大笑いのうちに容易になおりますが、二十三歳の一個の男子の失態の傷は、なまぐさく、なかなか拭(ふ)き取り難いものです。自重して下さい。大学生たちは、無責任な強烈な言葉で、君をそそのかすだけです。わしには、よくわかっています。さっき臣下の前では、わしは、他の理由で君の大学行きを止(と)めましたが、いや、たしかに、あの時申した事も重要な理由でしたが、それよりも、わしには、君のいまの驕慢の翼が心配だったのです。その翼の情熱の行方が心配だったのです。さっき臣下の前で申した事も、君には心掛けて置いてもらいたい、すなわち、わしの傍にいて実際の政治を見習うようにしてもらいたい、けれども、そんな政治上の思惑の他に、わしは君の父として、いや、愚かな先輩の義務として、君の冒険に忠告したかったのです。わしは君に、まことの父としての愛情が実感せられないとも言いましたが、けれども人間の義務感は、また別のものです。わしは、君の役に立ちたい。わしの愚かな経験から、やっと得た結論を、君に教えて、君を守りたいと思っているのです。君を立派に育てたいと念じているのです。それを疑っては、いけません。君は、デンマーク国の王子です。二無き大事な身の上です。もっと自覚を深めて下さい。レヤチーズなどと一緒にして考えてはいけません。レヤチーズは、君の一臣下に過ぎません。フランスへ行くのも、将来その身に箔(はく)をつけたい為(ため)です。だから、あの抜け目の無い、ポローニヤスだって、ゆるしたのです。君には、そんな必要がありません。どうか、ウイッタンバーグへ行くのは、怺(こら)えて下さい。これは、もうお願いではありません。命令です。わしには、君を立派な王に育て上げる義務があります。この王城にとどまり、間もなく佳(よ)い姫を迎える事にしようではないか、ハムレット。」
 ハム。「僕は何も、レヤチーズの真似(まね)をしようとは思っていません。なんでもないんです。僕は、ただ、――」
 王。「よし、よし、わかっています。昔の学友たちと逢(あ)いたくなったのでしょう。わしにも打ち明けられぬ事が出来たのでしょう。そんならウイッタンバーグまで行く必要は、いよいよありません。ホレーショーを、わしが呼んで置きました。」
 ハム。「ホレーショーを!」
 王。「うれしそうですね。あれは、君の一ばんの親友でしたね。わしも、あれの誠実な性格を高く評価して居ります。もう、ウイッタンバーグを出発した筈(はず)です。」
 ハム。「ありがとう。」
 王。「それでは握手しましょう。話合ってみると、なんでもない。これから、だんだん仲良くなるでしょう。どうも、きょうは、君にも失礼な事を言いましたが、悪く思わないで下さい。饗宴(きょうえん)の合図の大砲が鳴っています。皆も待ちかねている事でしょう。一緒にまいりましょう。」
 ハム。「あの、僕は、も少しここで、ひとりで考えていたいんです。どうぞ、おさきに。」

 ハムレットひとり。

 ハム。「わあ、退屈した。くどくどと同じ事ばかり言っていやがる。このごろ急に、もっともらしい顔になって、神妙な事を言っているが、何を言ったって駄目(だめ)さ。自己弁解ばかりじゃないか。もとをただせば、山羊のおじさんさ。お酒を飲んで酔っぱらって、しょっちゅうお父さんに叱(しか)られてばかりいたじゃないか。僕をそそのかして、お城の外の女のところへ遊びに連れていったのも、あの山羊のおじさんじゃないか。あそこの女は叔父さんの事を、豚のおばけだと言っていたんだ。山羊なら、まだしも上品な名前だ。がらでないんだ。がらでないんだ。可哀(かわい)そうなくらいだ。資格がないのさ。王さまの資格がないんだ。山羊の王さまなんて、僕には滑稽(こっけい)で仕方が無い。でも、叔父さんは、油断がならん。見抜いていやがった。僕が本当は、ウイッタンバーグなんかに行く気が無いという事を知っていやがった。油断がならん。蛇(じゃ)の路(みち)は、へびか。ああ、ホレーショーに逢いたい。誰でもいい。昔の友人に逢いたい。聞いてもらいたい事があるんだ。相談したい事があるのだ! ホレーショーを呼んでくれたとは、山羊のおじさん大出来だ。道楽した者には、また、へんな勘のよさがある。いったい山羊め、どこまで知っているものかな? ああ、僕も堕落した。堕落しちゃった。お父さんが、なくなってからは、僕の生活も滅茶滅茶(めちゃめちゃ)だ。お母さんは僕よりも、山羊のおじさんのほうに味方して、すっかり他人になってしまったし、僕は狂ってしまったんだ。僕は誇りの高い男だ。僕は自分の、このごろの恥知らずの行為を思えば、たまらない。僕は、いまでは誰の悪口も言えないような男になってしまった。卑劣だ。誰に逢っても、おどおどする。ああ、どうすればいいんだ。ホレーショー。父は死に、母は奪われ、おまけにあの山羊のおばけが、いやにもったいぶって僕にお説教ばかりする。いやらしい。きたならしい。ああ、でも、それよりも、僕には、もっと苦しい焼ける思いのものがあるのだ。いや、何もかもだ。みんな苦しい。いろんな事が此(こ)の二箇月間、ごちゃまぜになって僕を襲った。くるしい事が、こんなに一緒に次から次と起るものだとは知らなかった。苦しみが苦しみを生み、悲しみが悲しみを生み、溜息(ためいき)が溜息をふやす。自殺。のがれる法は、それだけだ。」

   二 ポローニヤス邸の一室

 レヤチーズ。オフィリヤ。

 レヤ。「荷作りくらいは、おまえがしてくれたっていいじゃないか。ああ、いそがしい。船は、もう帆に風をはらんで待っているのだ。おい、その哲学小辞典を持って来ておくれ。これを忘れちゃ一大事だ。フランスの貴婦人たちは、哲学めいた言葉がお好きなんだ。おい、このトランクの中に香水をちょっと振り撒(ま)いておくれ。紳士の高尚(こうしょう)な心構えだ。よし、これで荷作りが出来た。さあ、出発だ。オフィリヤ、留守(るす)中はお父さんのお世話を、よくたのんだぞ。何を、ぼんやりしているのさ。此の頃なんだか眠たそうな顔ばかりしているようだが、思春期は、眠いものと見えるね。あたしにも苦しい事があるのよと思う宵(よい)にもぐうぐうと寝るという小唄(こうた)があるけど、そっくりお前みたいだ。あんまり居眠りばかりしてないで、たまにはフランスの兄さんに、音信をしろよ。」
 オフ。「すまいとばし思うて?」
 レヤ。「なんだい、それあ。へんな言葉だ。いやになるね。」
 オフ。「だって、坪内さまが、――」
 レヤ。「ああ、そうか。坪内さんも、東洋一の大学者だが、少し言葉に凝り過ぎる。すまいとばし思うて? とは、ひどいなあ。媚(こ)びてるよ。いやいや、坪内さんのせいだけじゃない。お前自身が、このごろ少しいやらしくなっているのだ。気をつけなさい。兄さんには、なんでもわかる。口紅を、そんなに赤く塗ったりして、げびてるじゃないか。不潔だ。なんだい、いやに、なまめきやがって。」
 オフ。「ごめんなさい。」
 レヤ。「ちぇっ! すぐ泣きやがる。兄さんには、なんでも、全部わかっているのだぞ。いままで、わざと知らぬ振りしていたのだが、それでも、遠まわしにそれとなくお前の反省をうながして来た筈なのに、お前は、てんで気にもとめない。のぼせあがっているんだから仕様が無い。僕は、なるべくならば、こんな、くだらない事には口を出したくなかったんだ。けがらわしい。でも、きょうは、どうにも僕の留守の間の事が心配になって、つい言い出してしまったのだが、こうなれば、いっそ全部お前に言って置いたほうがよいかも知れない。いいか、あの人の事は、あきらめろ。馬鹿な事だ。わかり切った事だ。あの人が、どんな身分の方(かた)か、それを考えたら、わかる事だ。出来ない相談だよ。断々乎(だんだんこ)として僕は反対だ。いま、はっきり言って置く。お前のたった一人の兄として、また、なくなられたお母さんの身代りとして、僕は、断然不承知だ。お父さんは、のんきだからまだ御存じないようだが、もしお父さんに知られたら、どんな事になるか。お父さんは責任上、いまの重職を辞さなければならぬ。僕の前途も、まっくらやみだ。お前は、てて無し子を抱えて乞食(こじき)にでもなるさ。いいか、あの人に、こう言ってくれ、レヤチーズの妹を、なぐさみものにしたならば、どいつこいつの容赦は無い、どのようなお身分の方であっても生かして置けぬと、レヤチーズが鬼神に誓って言っていました、とそう伝えてくれ。」
 オフ。「兄さん! そんなひどい事を、おっしゃってはいけません。あの方は、――」
 レヤ。「馬鹿野郎。まだそんな寝言を言っていやがる。薄汚い。それでは、もっとはっきり言ってあげる。僕の反対するのは、何もあの人のお身分のせいばかりではないのだ。僕は、あの人を、きらいなのだ。大きらいだ。あの人は、ニヒリストだ。道楽者だ。僕は小さい時から、あの人の遊び相手を勤めて来たから、よく知っている。あの人は、とても利巧だった。ませていた。なんにでも直ぐに上達した。弓、剣術、乗馬、それに詩やら、劇やら、僕には不思議でならぬくらいによく出来た。けれども少しも熱が無い。一とおり上達すると、すぐにやめてしまうのだ。あきっぽいのだ。僕には、あんな性格の人は、いやだ。他人の心の裏を覗(のぞ)くのが素早くて、自分ひとり心得顔してにやにやしている。いやな人だよ。僕たちの懸命の努力を笑っているのだ。あんなのを軽薄才士というのだ。いやに様子ぶっていやがる。その癖、王さまや王妃さまに何か言われると大勢の臣下の前もはばからず、めそめそ泣き出す。女の腐ったみたいな奴(やつ)だ。オフィリヤ、お前は何も知らない。けれども、僕は知っている。あの人は、全然たのみにならぬ人だ。男は、此のデンマークに、森の木の葉の数よりも多く居るのだ。兄さんは、その中でも一ばん強い、一ばん優しい、一ばん誠実な、そして誰よりも綺麗(きれい)な顔の青年を、お前の為に見つけてあげる。ね、兄さんを信じておくれ。お前は今まで、兄さんの言う事なら何でも信じてくれたじゃないか。そうして兄さんは、お前を一度も、だました事は無かったね? そうだろう? よし、わかったね? お願いだから、あの人の事は、もうきょう限り、あきらめろ。こんど、あの人が何かお前に、うるさく言ったら、レヤチーズが生かして置けぬと怒っていました、と知らせてやれ。あの人は意気地が無いから、蒼(あお)くなって震え上るに相違ない。わかったね? もし万一、まあ、そんな事もあるまいけれど、お前が僕の留守中に、何か恥知らずの無分別でも起したなら、兄さんは、お前たち二人を、本当にそのままでは置かぬぞ。怒ったら、誰よりもこわい兄さんだという事を、お前は知っているね? では、さあ、笑って別れよう。兄さんは、本当は、お前を信頼しているのだよ。」
 オフ。「さようなら。兄さんもお元気で。」
 レヤ。「ありがとう。留守中は、よろしく頼むよ。なんだか心配だな。そうだ、一つ、神さまの前で兄さんに誓言してくれ。どうも、気がかりだ。」
 オフ。「兄さん、まだお疑いになるの?」
 レヤ。「いや、そんなわけじゃないけど。じゃ、まあ、いいや。大丈夫だね? 安心していいね? 僕は、こんな問題には、あまり、しつこく口出ししたくないんだ。兄として、みっともない事だからね。」

 ポローニヤス。レヤチーズ。オフィリヤ。

 ポロ。「なんだ、まだこんなところにいたのか。さっき、いとま乞(ご)いに来たから、もうとっくに出発したものとばかり思っていた。さあ、さあ出発。おっと待て、待て。わかれるに当って、もう一度、遊学の心得を申し聞かせよう。」
 レヤ。「ああ、それは、すでに三度、いや、たしかに四回うかがいましたけど。」
 ポロ。「何度だっていい。十度くりかえしても不足でない。いいか、まず第一に、学校の成績を気にかけるな。学友が五十人あったら、その中で四十番くらいの成績が最もよろしい。間違っても、一番になろうなどと思うな。ポローニヤスの子供なら、そんなに頭のいい筈がない。自分の力の限度を知り、あきらめて、謙譲に学ぶ事。これが第一。つぎには、落第せぬ事。カンニングしても、かまわないから、落第だけは、せぬ事。落第は、一生お前の傷になります。としとって、お前が然(しか)るべき重職に就(つ)いた時、人はお前の昔のカンニングは忘れても、落第の事は忘れず、何かと目まぜ袖引(そでひ)き、うしろ指さして笑います。学校は、もともと落第させないように出来ているものです。それを落第するのは、必ず学生のほうから、無理に好んで志願する結果なのです。感傷だね。教師に対する反抗だね。見栄(みえ)だね。くだらない正義感だね。かえって落第を名誉のように思って両親を泣かせている学生もあるが、あれは、としとって出世しかけた時に後悔します。学生の頃(ころ)は、カンニングは最大の不名誉、落第こそは英雄の仕業と信じているものだが、実社会に出ると、それは逆だった事に気がつきます。カンニングは不名誉に非(あら)ず、落第こそは敗北の基と心掛ける事。なあに、学校を出て、後でその頃の学友と思い出話をしてごらん。たいていカンニングしているものだよ。そうしてそれをお互いに告白しても、肩を叩(たた)き合って大笑いして、それっきりです。後々の傷にはなりません。けれども落第は、ちがいますよ。それを告白しても、人はそんなに無邪気に笑って聞きのがしては、くれません。お前は、どこやら、軽蔑(けいべつ)されてしまいます。出世のさまたげ、卑屈の基。人生は、学生々活にだけあると思うと、とんだ間違い。よくよく気をつけて、抜け目なくやっておくれ。ポローニヤスの子じゃないか。つぎに、学友の選びかたに就いて。これもまた重大です。一学年上の学生を、必ずひとり、友人にして置かなければならぬ。試験の要領を聞くためだ。試験官の採点の癖を教えてもらえる。さらに、もうひとり、同学年の秀才と必ず親交を結ばなければならぬ。ノオトを貸してもらい、また試験の時には、お前の座席のすぐ隣りに坐ってもらうためであります。学友は、その二人だけで充分です。不要の交友は、不要の出費。さて、次は、金銭に就いて。これは、とりわけ注意を要する。金銭の貸借、一切、まかりならん。借りる事は、もとより不埒(ふらち)、貸す事もならん。餓死するとも借金はするな。世の中は、人を餓死させないように出来ています。うき世の人は、娘を嫁にやった事は忘れても、一両を他人に貸してやった事は忘れません。一両を十両にして返されても、やはり自分の貸してやった一両の事だけは忘れません。これまた永く出世のさまたげ。大望を抱く男は、一厘の借金もせぬものです。貸す事もならん。お前から借りた男は、必ずお前の悪口を言うだろう。自分で借りて肩身が狭く、お前をけむったいものだから、必ずどこかで、お前の陰口をたたきます。すなわち、やがて不和の基。お互いの友情に傷つくような事があっては残念ですから、わざとお貸し致しません、とはっきり言って相手の申し込みを断われるくらいの男でなければ、将来の大成は、まずむずかしいね。よいか? 金銭の取りあつかいには気をつけるのですよ。借りても駄目。貸しても駄目。つぎに飲酒。適度に行え。けれども必ず、ひとりで飲むな。ひとりの飲酒は妄想(もうそう)の発端、気鬱(きうつ)の拍車。飲めども飲めども気の晴れるものではない。一週一回、学友と飲め。それも、こちらから誘うのは、まずい。向うから誘われ、渋々応じるように心掛けるのが利巧者だ。意気込んで応じるのは、馬鹿のあわて者です。飲酒の作法は、むずかしい。泥酔(でいすい)して、へどを吐くは禁物。すべての人に侮(あなど)られる。大声でわめいて誰かれの差別なく喧嘩(けんか)口論を吹っ掛けるのも、人に敬遠されるばかりで、何一ついい事が無い。なるべくなら末席に坐り、周囲の議論を、熱心に拝聴し、いちいち深く首肯している姿こそ最も望ましいのだが、つい酒を過した時には、それもむずかしくなる。その時には、突然立ち上って、のども破れよとばかり、大学の歌を歌え。歌い終ったら、にこにこ笑って、また酒を飲むべし。相手から、あまりしつこく口論を吹っかけられた場合には、屹(き)っとなって相手の顔を見つめ、やがて静かに、君も淋(さび)しい男だね、とこう言え。いかな論客でも、ぐにゃぐにゃになる。けれども、なるべくならば笑って柳に風と受け流すが上乗。宴が甚(はなは)だ乱れかけて来たならば、躊躇(ちゅうちょ)せず、そっと立って宿へ帰るという癖をつけなさい。何かいい事があるかと、いつまでも宴席に愚図愚図とどまっているような決断の乏しい男では、立身出世の望みが全くないね。帰る時には、たしかな学友を選んでその者に、充分の会費を手渡す事を忘れるな。三両の会費であったら、五両。五両の会費であったら十両、置いてさっと引き上げるのが、いい男です。人を傷つけず、またお前も傷つかず、そうしてお前の評判は自然と高くなるだろう。ああ、それから飲酒に於(お)いて最も注意を要する事が、もう一つあります。それは、酒の席に於いては、いかなる約束もせぬ事。これは、よくよく気をつけぬと、とんだ事になる。飲酒は感激を呼び、気宇(きう)も高大になる。いきおい、自分の力の限度以上の事を、うかと引き受け、酔いが醒(さ)めて蒼くなって後悔しても、もう及ばぬ。これは、破滅の第一歩。酔って約束をしてはならぬ。つぎには、女。これもまた、やむを得ない。ただ、あの、自惚(うぬぼ)れだけは警戒しなさい。お前は、ポローニヤスの子だ。父と同様に、女に惚(ほ)れられる柄(がら)でない。お前は、小さい時から大鼾(おおいび)きをかく子であった事を忘れてはいけない。あのような大鼾きでは、女房以外の女なら必ず閉口します。女の誘惑に逢(あ)った時、お前は、きっとあの大鼾きを思い出す事にしなさい。いいか? フランスできらわれても、デンマークには、お前でなければいけないという綺麗な娘もいるんだから、そこはお父さんにまかせて、向うでは、あまり自惚れないほうがよい。若い時の女遊びは、女を買うのではなく、自分の男を見せびらかしに行くんだから、自惚れこそは最大の敵と思っていなさい。さて、次は、――」
 レヤ。「賭博(とばく)です。五両だけ損して笑って帰る事です。儲(もう)けては、いけませんのです。」
 ポロ。「その次は、――」
 レヤ。「服装の事です。いいシャツを着て、目立たぬ上衣(うわぎ)を着るのです。」
 ポロ。「その次は、――」
 レヤ。「宿のおばさんに手土産を忘れぬ事です。あまり親しくしてもいけないのです。」
 ポロ。「その次は、――」
 レヤ。「日記をつける事と、固パンを買って置く事と、鼻毛を時々はさむ事と、ああ、もう船が出ます。お父さん、お達者で。むこうに着いたら、ゆっくりお便りを差し上げます。オフィリヤ、さようなら、さっき兄さんの言った事を忘れちゃいかんよ。」
 ポロ。「あ、もう行ってしまった。なんて素早い奴だ。でも、まあ、あれくらい言って置いたらいいだろう。送金の限度に就いて言うのを忘れたが、あ、散策の必要も言い忘れたが、まあ、また後で手紙で言ってやる事にしよう。おや、オフィリヤ、顔色がよくないよ。兄さんが何かお前に無理な事を言ったんだね。わかっていますよ。お前にお小使い銭をねだったのでしょう? お父さんから貰(もら)うだけでは不足だから、これからも毎月こっそり何程かずつ送るようにお前をおどかして命令したんだ。いや、それに違いない。わるい奴さ。」
 オフ。「いいえ、お父さんちがいます。兄さんは、そんな、つまらないお方じゃないわ。大丈夫よ。いまのような、こまかい御注意などなさらなくても、兄さんは、みんな心得ていらっしゃるのに。」
 ポロ。「それあ、そうさ。当り前の事だ。二十三にもなって、あれくらいの事を心得ていないで、どうする。同じ年齢でも、ハムレットさまなどに較(くら)べると三倍も大人だ。レヤチーズは、此の親爺(おやじ)よりも偉くなる子です。でも、あんなにやかましく、こまごま言ってやるのは、わしの、深く考えた上での計略なんだ。あの子だって、うるさいとは思っていながら、自分に何かとやかましく言ってくれる者が在るという思いは、また、あれにとって生きて行く張り合いになるのです。あれの行末を、ずいぶん心配している者が、ここに一人いるという事を、あれに知ってもらったら、わしはそれで満足なのだ。いろいろ、うるさい注意も与えてやりましたが、なに、みな出鱈目(でたらめ)ですよ。どうだっていい事ばかりです。レヤチーズには、レヤチーズの生活流儀があるでしょう。時代も、かわっているでしょう。レヤチーズは、自由にやって行っていいのです。ただ一つ、わしが心配して気をもんでいるのだという事実だけを、知ってもらえたらいいのです。それを覚えている限り、あれは決して堕落しません。わしは、なくなったお母さんと二人分、気をもんでいるのだ。それを、あの子に知ってもらいたかったのです。あの子は、それさえ覚えていたら、それを覚えている限りは、ああ、わしは、同じ事ばかり言っている。老いの繰り言という奴だ。わしも、いつの間にか、としをとったよ。オフィリヤ、ここへお坐(すわ)り、さあ、お父さんと並んで坐ろう。これで、よし。まあ、もう少しお父さんの愚痴も聞いておくれ。お前は、このごろ、だんだんお母さんに似て来たね。わしは、なんだか、お前のお母さんと話をしているような気がするよ。お母さんも、草葉の蔭(かげ)で喜んでいるだろう。レヤチーズは、あのように丈夫に育ったし、お前も優しく、おとなしくて、わしの身のまわりの世話をよくしてくれる。お前の事は、お城の外の人たちまで褒(ほ)めちぎっているそうだ。ポローニヤスのような親から、よくもあんな器量よしが生れたものだと、けしからぬ、が、まあいい、そんな噂(うわさ)さえ、わしは聞いている。本当に、お父さんは、いまは仕合せな筈(はず)だ。何ひとつ不足は無い筈なんだが、オフィリヤ、聞いておくれ、お父さんは、このごろ、なんだか、ふっと、とても心細くなる時があるのだ。お父さんは、もう、死ぬんじゃないか。いや、おどろく事は無い。何も、無理に死のうと言うのではない。お父さんは、いつも、百歳、いや百九歳くらいまで、なんとかして生きていたいと大真面目(おおまじめ)に考えていたものです。レヤチーズの立派に出世した姿を見て、大いに褒めて、これでわしも全く安心したと断言して、それから死にたいと思っていました。慾(よく)の深い話さ。でも、お父さんは、本気にそれを念じていました。わしには、いま、わし自身の楽しみというものは何もない。ただ、お前たちのために、生きていなければならぬと思っていたのだ。母のない子というものは、どんなに可愛(かわい)いものか、レヤチーズだって、お前だって知るまい。わしは、子供のためには、どんな、つらい事だってします。お父さんはね、こんな事まで考えていた。つまり、人生には、最後の褒め役が一人いなければならん。たとえばレヤチーズの場合、レヤチーズも、これから、人に褒められたいばかりに、さまざま努力するだろうが、そんな時に、世の中の人、全部があれを軽薄に褒めても、わしだけは、仲々に褒めてやるまい。早く褒められると、早く満足してしまう。わしだけは、いつまでも気むずかしい顔をしていよう。かえって侮辱をしてやろう。しかし、最後には必ず褒めます。謂(い)わば、最高の褒め役になろう。大いに褒める。天に聞えるほどの大声で褒める。その時あれは、いままで努力して来てよかったと思うだろう。生きている事を神さまに感謝するだろう。わしは、その、最後に褒める大声になりたくて、どうしても百九歳、いや百八歳でもよい、それまで生きているように心掛けて来たものだが、このごろ、それが、ひどくばからしくなって来た。褒めたくても怺(こら)えて小言(こごと)をいうのは、怒りたいところを我慢するのと、同じくらいに、つらいものです。そんなつらい役は、お父さんでなければ引き受ける人はあるまい。親馬鹿というんだね。親の慾だ。お父さんは、レヤチーズを、うんと、もっと立派にさせたくて、そんなつらい役をも引き受けようと、思っていたんだが、なんだか、このごろ、淋しくなった。いや、お父さんは、まだまだ、これからもお前たちには、こごとを言いますよ。さっきも、レヤチーズには、あんなに口うるさく、こごとを言いました。けれども、言った後で、お父さんは、ふっと心細くなるのです。つまりね、教育というものは、そんな、お父さんの考えているような、心の駈引(かけひ)きだけのものじゃないという事が、ぼんやりわかって来たのです。子供は親の、そんな駈引きを、いつの間にか見破ってしまいます。どうだい、わしにしては、たいへんな進歩だろう。レヤチーズは、しっかりしているけれども、やっぱり男だけに、まだ単純なところがあります。お父さんの巧妙な駈引きに乗せられて、むきになって努力するところがあります。それは、あれの、いいところだ。それを知っているから、お父さんも、レヤチーズには時々、駈引きをして、しかも成功しています。さっきお父さんが、大声でさまざまの注意を与えてやりましたが、レヤチーズは、うるさいと思っていながら、やっぱりお父さんの気をもんでいる事を知って、心底に生き甲斐(がい)を感じて出発したのです。けれども、オフィリヤ、ねえ、オフィリヤ、もっと、こっちへお寄り。お父さんが、さっきから、何を言いたがっているのか、わかりますか?」
 オフ。「あたしを、叱(しか)っていらっしゃるのです。」
 ポロ。「それだ。すぐ、それだ。お父さんはね、それだから、お前がこわいのです。このごろ、めっきり、こわくなった。お前には、わしの駈引きが通じない。すぐ見破ってしまう。以前は、そうでもなかったがねえ。オフィリヤ。――そうです。さっきからお父さんは、お前の事ばかり言っていたのです。本当に、お前の事ばかり心配して言っていたのです。叱ってやしない。叱ってやしないけれど、なぜ、お父さんに、もっとはっきり言ってくれないのですか? お父さんには、それが淋しいのだ。レヤチーズの事なんか、わしは、そんなに心配していません。あれは大声で叱ってやると、いつでも、しゃんとなる子です。けれども、オフィリヤ、わしは、このごろ、お前を叱る事が出来ない。強い口調で、ものを言いつける事も出来ない。お父さんが、ふっと心細くなるのも、そのためです。百九歳まで生きるのが、いやになって来たのも、そのためです。教育は心の駈引きでないという事がわかって来たのも、そのためです。最高の褒め役なんてものが、ばからしくなったのも、そのためです。もう、死ぬんじゃないかという気がして来たのも、オフィリヤ、何もかも、お前のためです。オフィリヤ、泣く事は無い。さあ、お父さんに、お前の苦しいと思っている事をなんでも言って聞かせなさい。さっきから、お父さんは、お前が言い出すのを今か今かと待っていたのだ。だから、あんな意味もない愚痴めいた事を矢鱈(やたら)に述べて、お前のほうからも気軽く言い出せるようにしてやっていたのだが、どうも、お父さんは、やっぱり駈引きが多くていけないね。ごめんよ。お父さんは、ずるくていけないね。さあ、もうお父さんも計略はしないから、お前もお父さんを信頼して思い切って言ってみなさい。これ、立ってどこへ行くのだ。逃げなくてもよい。さ、お坐り。それでは、お父さんから言ってあげます。オフィリヤ、お前はさっき兄さんから、ひどく怒られていたようだね。送金の事なんかじゃ無かったんでしょう?」
 オフ。「お父さん、ひどい。もう、たくさんです。」
 ポロ。「よし、わかった。オフィリヤ! お前は、ばかだねえ。レヤチーズの怒るのも無理はない。わしは、けさ或る下役から、いやな忠告を受けた。寝耳に水の忠告であったが、お前のこのごろの打ち沈んでいる様子と思い合せて、もしや、と思った。わしは、そうでない事を信じたかったが、とにかく、お前の心を傷つけない程度に、それとなく優しく尋ねてみようと思った。わしは、そのとおりに、精一ぱいに優しくいたわって尋ねたつもりだ。けれども、お前は頑固(がんこ)に、だまっていて、おまけにここから逃げて行こうとさえした。けれども、もう、わかりました。オフィリヤ、お前たちの恋愛は卑怯(ひきょう)だねえ。少しも無邪気なところが無い。濁っている。なぜ、わしたちに、そんなに隠さなければならなかったのか。相手のお方の態度も見上げたものさ。てんとして喪服なぞをお召しになって、ご自身の不義は棚(たな)にあげ、かえって王や王妃に、いや味をおっしゃる。いまの若い者の恋愛とは、そんなものかねえ。好きなら好きでよい。身分のちがいもあるが、それも、いまは昔ほど、やかましくはない筈だ。なぜ、無邪気に打ち明けてくれなかったのです。クローヂヤスさまだって、もののわからぬおかたではない。わしだって、若い時には間違いもやらかした。わるいようには、しなかったのだ。でも、もうおそい。こんなに評判が立ってからだと、具合が悪い。馬鹿だ。お前たちは、馬鹿だ。だめですよ。いくら泣いても、だめですよ。お父さんも、呆(あき)れました。それで? レヤチーズは、全部を知っているのかね。」
 オフ。「いいえ。兄さんは、そんな事なら生かして置けないと、言っていました。」
 ポロ。「そうだろう。レヤチーズの言いそうな事だ。まあ、レヤチーズには黙っているさ。此の上あいつが飛び出して来たら、いよいよ事だ。いやな話だねえ。女の子は、これだから、いやだ。ふん、オフィリヤ。お前は、クイーンの冠を取りそこねた。」

   三 高台

 ハムレット。ホレーショー。

 ハム。「しばらくだったな。よく来てくれたね。どうだい、ウイッタンバーグは。どんな具合だい。みな相変らずかね。」
 ホレ。「寒いですねえ、こちらは。磯(いそ)の香がしますね。海から、まっすぐに風が吹きつけて来るのだから、かなわない。こちらは、毎晩こんなに寒いのですか?」
 ハム。「いや、今夜はこれでも暖いほうだよ。一時は、寒かったがねえ。これからは暖くなる一方だ。もう、デンマークも、やがて春さ。ところで、どうだね、みな元気かね。」
 ホレ。「王子さま。僕たちの事より、御自身はいかがです。」
 ハム。「へんな言いかたをするね。何か、僕に就(つ)いて、悪い噂でも立っているのかね。ウイッタンバーグは、口がうるさいからなあ。ホレーショー。君は、へんだよ。何だか、よそよそしいね。」
 ホレ。「いいえ、決してへんな事はありません。本当に、王子さま、あんたは大丈夫なんですか? ああ、寒い。」
 ハム。「王子さま、か。そんな筈じゃ無かったがねえ。おい、以前のようにハムレットと呼んでくれ。すっかり他人になってしまったね。君は、いったい、何しにエルシノアへ来たんだ。」
 ホレ。「ごめん、ごめん。相変らずのハムレットさまですね。すぐ怒る。案外に、お元気だ。大丈夫のようですね。」
 ハム。「いやな言いかたをするなあ。何か悪い噂を聞いて来たのに違いない。なんだい? どんな噂だい、言ってごらん。叔父さんが君に、要らない事を言ってやったんだろう。きっとそうだ。ちっとも知りゃしない癖に、要らない事ばかり言いやがる。」
 ホレ。「いいえ、王さまのお手紙は、情のこもったものでした。王子が退屈しているから、話相手になりにやって来てくれ、という勿体(もったい)ない程ごていねいな文面でした。ありがたいお手紙でした。」
 ハム。「嘘(うそ)をつけ。何か他(ほか)の事も、その手紙に書いてあったに違いない。君だけは、嘘をつかない男だと思っていたがねえ。」
 ホレ。「ハムレットさま。ホレーショーは昔ながらの、あなたの親友です。いい加減の事は申しません。それでは、全部、僕がウイッタンバーグで耳にした事を、そのまま申し上げましょう。どうも、ここは寒いですねえ。部屋へ帰りましょう。どうして僕を、こんなところへ引っぱり出して来たのです。顔を見るなり、ものも言わず、こんな寒い真暗なところへ連れて来て、やあ、しばらくだね、とおっしゃるのでは僕だって疑ってみたくなりますよ。」
 ハム。「何を疑うのだ。そうか。だいたい、わかったような気がする。でも、それは、驚いたなあ。」
 ホレ。「おわかりになりましたか? とにかくお部屋へ帰りましょう。僕は、ジャケツを着て来なかったので。」
 ハム。「いや、ここで話してくれ。僕もそれに就いて君に、大いに聞いてもらいたい事があるんだ。山ほどあるんだ。他の人に聞かれちゃまずいんだ。ここなら大丈夫だ。寒いだろうけれど、我慢してくれ。どうも人間は、秘密を持つようになると、壁に耳が本当にあるような気がして来る。僕も、このごろは少し疑い深くなったよ。」
 ホレ。「お察し致(いた)します。このたびは、お嘆きも深かった事と存じます。故王には、僕も両三度お目にかかった事がございましたけれど、――」
 ハム。「それどころじゃないんだ。嘆きがめらめら燃え出したよ。まあ、とにかく君がウイッタンバーグで聞いて来たという事を、まず、話してみないか。寒かったら、ほら、僕の外套(がいとう)をあげるよ。文明国に、あんまり永く留学していると皮膚も上品になるようだね。」
 ホレ。「おそれいります。ジャケツを着て来なかったもので、どうもいけません。では外套を、遠慮なく拝借いたします。はあ、もう大丈夫です。だいぶ暖かになりました。ありがとう存じます。」
 ハム。「早く話してみないかね。君はデンマークへ寒がりに来たみたいだ。」
 ホレ。「まったく寒いですね。どうも失礼いたしました。ハムレットさま。では、申し上げます。おや、そこの暗闇(くらやみ)に人が立っているような気がしますけど。」
 ハム。「何を言うのだ。あれは、柳じゃないか。その下に幽(かす)かに白く光っているのは、小川だ。川幅は狭いけれど、ちょっと深い。ついこないだ迄(まで)は凍っていたんだが、もう溶けて勢いよく流れている。僕よりも、もっと臆病(おくびょう)だね。どうも文明国に永く留学していると、――」
 ホレ。「感覚も上品になるようであります。じゃ、誰も聞いていませんね? どんな大事を申し上げても、かまいませんね?」
 ハム。「いやに、もったいをつけやがる。僕がはじめから、ここは絶対に大丈夫だって言ってるじゃないか。それだから、君をここへ引っぱって来たんだ。」
 ホレ。「それでは、申し上げます。おどろいてはいけません。ハムレットさま。大学の連中は、あなたの御乱心を噂して居(お)ります。」
 ハム。「乱心? それあ、また滅茶(めちゃ)だ。僕は艶聞(えんぶん)か何かだと思っていた。ばかばかしい。見たら、わかるじゃないか。どこから、そんな噂が出たのだろう。ははあ、わかった。叔父さんの宣伝だな?」
 ホレ。「またそんな事をおっしゃる。王さまが、なんでそんな、つまらぬ宣伝をなさいますものか。絶対に、ちがいます。」
 ハム。「ばかに、はっきり否定するね。山羊(やぎ)の叔父さんは、あれでなかなかロマンチストだからな。僕と親子になったら、かえって心は千里万里も離れて、愛情は憎悪(ぞうお)に変ったなんて、ひとりでひがんで悲壮がっているような人なんだから、こんどはまた、ぐっと趣向を変えて、先王が死に、嗣子のハムレットはその悲しみに堪え得ず気鬱(きうつ)、発狂。この一家の不幸を脊負い敢然立ったる新王こそはクローヂヤス。芝居にしたら、いいところだ。叔父さんの宣伝さ。叔父さんは自分を何とかして引き立て大いに人気を取りたいものだから、僕を此(こ)の頃(ごろ)ばか扱いにしているんだ。いろいろ苦心して、もったいをつけているよ。見ていて可哀(かわい)そうなくらいだ。でも、僕を気違いだなんて言いふらすのは、どうかと思うなあ。ひどい。叔父さんは、悪いひとだ。」
 ホレ。「もう一度申し上げますが、これは、王さまの宣伝ではありません。ハムレットさま。お気の毒に。あなたは、何もご存じないのですね? 大学に伝わって来ている噂は、そんな、なまやさしいものではありません。ああ、僕は、もう言えない。」
 ハム。「なんだい? いやに深刻ぶった口調じゃないか。君は、叔父さんから何か言いつけられたね? 僕の反省をうながすように、とか何とか。
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