井戸の底に埃の溜つた話
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著者名:葉山嘉樹 

 そこで、子等は柄杓に一杯又は二杯の生ぬるい水を、一息に呷つた後で、尻をペタ/\と叩かれるのである。
 おふくろの方では、水を飲ませといてから殴るのであるから、充分に思ひやりのある処置と信じてゐるのだらうが、殴られる子供の側になつて考へると、何のために、母親が自分を殴るのか、見当がつかないものだから、その抗議として、死にもの狂ひに、あらん限りの悲鳴を上げるのである。新たに実施された児童虐待防止法案に、引つかゝる程にも泣き喚くのである。
 これは子供が悪いのでは無い。母親が悪い。母親よりも家主が悪い。家主よりも税制がよくないのである。
 血盟団。五・一五。神兵隊。等々々、を出すのは、井戸の底に埃を溜めたり、なんかかんかするからであらう。
 本来、井戸なるものは、水を溜めるべきであつて、埃を溜めたりする場所柄では無い。
 作りもしない者に米を食はせるからには、作つてる農民が米が食へないと云ふ法はないのである。
 鉄砲を持たせてる限り、軍人が人を殺して悪いと云ふ法はない。

 少し話が傍路に外れた。それと云ふのも、時代さへもが路を踏み外してゐるからではなからうか。
 五人の子供等と、四人の大人にとつて、二ヶ月以上も、井戸から水を取り上げた事実は、この二人の借家人の、左まで鋭からざる神経にも相当な影響を及ぼした。
「それぢやあ、家賃の中からさつ引いて払はうぢやないか」
 と、壁一重隣同志の相談が纏つて、井戸屋さんがやつて来た。
 ポムプを除り、竹を抜き、さて井戸屋さんが、縄を伝つて井戸の底へ降りて行つた。
「こいつあひでえや。こんな井戸は始めてだ。畑と同じだ、埃が溜つてゐやがらあ」
 と、井戸屋さんが、井戸の底で笑ひ出したものだ。
 井戸の底で可笑しい位の事だから、二軒の長屋の主婦も、感慨無量な顔を見合はせて、
「まあ」
 と云つたまゝ、涙をこぼしながら笑ひ出した。




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