星座
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著者名:有島武郎 

 渡瀬は十三四らしいその小僧の丸っこい坊主頭を撫でまわした。
「お前は俺が酔ったまぎれに泣いてるとでも思うんか。……よし、泣いてると思うなら思え。涙は水の一種類で小便と同じもんだ」
 こういいながら彼は、またふらふらとその店を出た。
 彼は人通りの少ないアカシヤ通の広い道を、何んだか弱りしょびれた気持になって、北の空から吹きつける雪に刃向って歩いていった。彼は自分が忠義深い士のような心持だった。伏姫にかしずく八房のようでもあった。ああ俺はまったくあの畜生だな。まったく涙がほろりと流れてきた。何んだかばかばかしいと彼は思った。
 新井田氏の玄関によろけこむと、渡瀬は拳固(げんこ)で涙と鼻水とをめちゃくちゃに押しぬぐいながら、
「奥さあん」
 と大声を立てて、式台にどっかと尻餅をついた。
 奥さんはすぐドアを開けて駈けだしてきた。
「あら大変。あなた、戸も締めないで雪が吹きこむじゃないの」
 といいながら、そこにあった下駄を片方の足だけにはいて、斜に身を延ばして、玄関の戸を締めた。股(また)をはだけた奥さんの腰から下が渡瀬のすぐ眼の前にちらついた。
「無礼者……とは、かく申す拙者(せっしゃ)のことですよ……酔っている? 酔っているかと問われれば、酔っています。……ガンベの酔ったのを見たことがありますか……現在ははは……現在を除いてさ……」
 奥さんのしなやかな手が、渡瀬の肩の雪を軽く払っていた。
「いた、……いた、……痛いですよ、奥さん」
「あなた今日は本当にどうかしているわね……さあお上りなさいな」
 渡瀬は奥さんの手のさわったところをさすりながら、情けなくなって、そのあでやかな、そのくせ性(せい)というものばかりででき上っているような顔を見上げた。
「情けないねまったく……あなたの顔を見るとガンベは……まあいい、……それはそれとして、と……奥さん、僕は今日は、こんなへべれけの酔っぱらいになっちまったから、レコ……じゃないあなたにだ……あなたのいう『あなた』さ……はははは、その『あなた』に、へべれけの酔っぱらいになっちまったから、今日は休む……休むといってください。さようなら」
 渡瀬はやおら腰を上げにかかったが、また酔のさめるのが不安になった。彼は腰をすえた。
「奥さん、ウ※[#小書き片仮名ヰ、304-上-4]スキーを一杯後生だから飲ませてください」
「あなた、そんなに飲んでいいの」
 奥さんは本当に心配らしく、立ちながら、眉を寄せて渡瀬の顔を覗きこむようにした。渡瀬は確信をもって黙ったまま深々とうなずいた。物をいうと泣き声になりそうだった。
「いけませんよ……じゃあ待っていらっしゃいよ」
 待っている間、涙がつづけさまに流れ落ちた。
 渡瀬の眼の前につきだされたのは、なみなみと水を盛った大きなコップだった。渡瀬はめちゃくちゃに悲しくなってきた。それを一呑みに飲み干したい欲求はいっぱいだったが、酔いがさめそうだから飲んではならないのだ。
「や、さようなら」
 あっけに取られて、コップを持ったまま見送っている奥さんに胸の中で感謝しながら、渡瀬は玄関を出て往来に立った。
 雪はますます降りしきっていたが、渡瀬はどうしても自分の家に帰る気にはなれなかった。薄野(すすきの)薄野という声は、酒を飲みはじめた時から絶えず耳許(みみもと)に聞こえていたけれども、手ごわい邪魔物がいて――熊のような奴だった、そいつは――がっきりと渡瀬を抱きとめた。渡瀬の足はひとりでに白官舎の方に向いた。
「おぬいさん……僕は君を守る……命がけで守るよ……守ってくれなくってもいいって……そんなことをいうのは残酷(ざんこく)だ……僕は君みたいな神様をまだ見たことがなかったんだ……何んにも知らなかったんだ……星野って奴はひどいことをしやがる奴だな……あいつのお蔭で俺は、……俺は今日、救われない俺の堕落(だらく)を見せつけられっちまったんだ。美しいなあおぬいさんは……涙が出るぞ。土下座(どげざ)をして拝(おが)みたくならあ……それだのに、今でも俺は、今でも俺は……機会さえあれば、手ごめにしてでも思いがとげたいんだ。俺はいったい、気狂か……けだものか……はははは、けだものがどうしたというんだ。俺だって、おぬいさんくらい美しく生れついて、銀行の重役の家に育って、いい加減から貧乏になってみろ、俺だって今ごろは神様になっているんだ……神様もけだものもあるかい。……おぬいさんが可哀(かわい)そうだ……俺は何んといってもおぬいさんが可哀そうだ。……理窟なしに可哀そうだ……可愛さあまって可哀そうだ……俺は何んといっても悪かったなあ……生れ代ってでもこなければ、おぬいさんの指の先きにも、……現在触ってみたところが結局触ったにならない俺なんだ……俺は自分までが可哀そうになってきたぞ……」
 いつの間にか彼は白官舎の入口に立っていた。
 暗いラムプの下のチャブ台で五人ほどの頭が飯を食っていた。渡瀬はいきなりそれらの間に割りこんで坐った。
「ガンベか。ただ今食事中だ、あすこの隅にいって遠慮していろ。今夜はばかに景気がいいじゃないか」
 といったのは人見だった。そこには園もいた。あとは誰と誰だかよく解らなかった。
「貴様は誰だ。(顔を近づけると知れた)うむ柿江か。誰だそこにいる貴様二人は」
「森村と石岡じゃないか。西山の代りに今度白官舎にはいったんだよ。臭いなあ……貴様はまた石岡にやられるぞ。そっちにいってろったら」
 とまた人見がいった。渡瀬は動かなかった。
「何をいうかい。今日は石岡も石金もあるもんか……酔ったぐらいで人をばかにしやがると承知しないぞ、ははは……おい人見、ここには酒はないのか、酒は。……ねえ? ねえとくりゃ買うだけだ。おい婆や……もっとよく顔を見せろ。ふむ、お前も末座ながら善人の顔だ……酒を買ってきてくれ。誰かそこいらに金を持っている奴はないか。俺の寿命を延ばすとおもって買ってきてくれ。飯なんぞもぞもぞと食ってる奴があるかい、仙人みたい奴らだな」
 柿江がそうそうに飯をしまって立とうとした。それを見ると渡瀬はぐっと癪(しゃく)にさわった。
「柿江……貴様あ逃げかくれをするな。俺は今日は貴様の面皮(めんぴ)を剥ぎに来たんだ。まあいいから坐ってろ。……俺は柿江の面皮を剥ぎに来た、と。……だ、そうでもねえ。俺は皆んなに泣いてもらいに来たんだ。石岡、貴様はだめだ。貴様のようなファナティックはだめだとしてだ、……おい、皆んな立つなよ。……何んだ、試験だ……試験ぐらい貴様、教場に行って居眠りをしていりゃあ、その間に書けっちまうじゃねえか」
「俺に用がなければ行くぞ」
 石岡が顔色も動かさずにそういいながら座をはずしかけた。
「石岡、貴様はクリスチャンじゃねえか。一人の罪人が……貴様はいつでも俺のことをそういうな。いんやそういう。……罪人が泣いてもらいたいといっているのが聞こえなかったんか。……たとえ俺がだめだといったところが、貴様の方で……まあ坐れ、坐ってくれ。……一人でも減ると俺はおもしろくないんだ……坐れえおい。俺が命令するぞ」
 婆やが何かいいながらチャブ台を引いた。壁ぎわに行ってばらばらにそれに倚(よ)りかかっている五人が、朦朧(もうろう)と渡瀬の眼に映った。ただ何んということもなく涙が湧いてきた。彼はばかばかしくなって大声を揚げて笑った。
「園君じゃねえ、園はいるか園は。それか。君……君はじゃねえ貴様はおぬいさんに惚(ほ)れているだろう。白状しろ。うむ俺は惚れてる。悲しいかな惚れている。悲しいかなだ。真に悲しいかなだ。俺は罪人だからなあ。悔(く)い改めよ、その人は天国に入るべければなり……へへ、悔い改めら、ら、られるような罪人なら、俺は初めから罪なんか犯すかい。わたくしは罪人でございます。へえ悔い改めました。へえ天国に入れてもらいます……ばか……おやじが博奕打(ばくちうち)の酒喰らいで、お袋の腹の中が梅毒(かさ)腐れで……俺の眼を見てくれ……沢庵(たくあん)と味噌汁(みそしる)だけで育ち上った人間……が僣越ならけだものでもいい。追従にいってるんでねえぞ。俺は今日け――だ――も――のということがはっきり分ったんだから。星野の奴がたくらみやがったことだ」
「おいガンベ、そんなに泣き泣き物をいったって貴様のいうことはよく分らんよ。今日はこれだけにして酔っていない時にあとを聞こうじゃないか」
 それが石岡の声らしかった。
「ばかいえ貴様、そうきゅうにわかってたまるものか。飲んだくれ本性たがわずということを知らんな。……婆や、酒はどうした、酒は……。けれどもだ……貴様のけれどもだ、おい西山……ふむ、西山はもういねえのか。とにかくけれどもだ、貴様たちは俺が罪人なることを悲しんでいないと思うと間違ってるぞ。……はははそんなことはどうでもいい。それは第一貴様たちの知ったこっちゃないや、なあ。……とにかく……皆んな貴様たちはおぬいさんを知ってるな。けれども、貴様たちは一人だって、どれほどあの娘が天使(エンジェル)であるかってことは知るまい。俺は今日それを知ったんだ。この発見のお蔭で俺はこのとおり酔った。わかるか」
「わからないな」
 それは人見だった。申し合わせたように二三人が笑った。
「ははは……(彼はやたらに涙を拭った)俺にもわからんよ。……園、貴様はおぬいさんに惚れてるんだろう」
 園はほほえみながら静かに頭をふった。
「そんなことはない」
「じゃ惚れろ。断じて惚れろ。いいか。俺は万難(ばんなん)を排して貴様たちに加勢してやる。俺は死を賭(と)して加勢してやる。……園、俺は今日一つの真理を発見した。人生は俺が思っていたよりはるかに立派だった。ところが……じゃいかん……だからだ。whereas(フェラアーズ) じゃない。therefore(ゼアフォー) だ。それゆえにだ……俺のようなやつが、住むにはあまり不適当だ。こういうんだ。悲観せざるを得ないじゃないか。……しかし俺は貴様たちを呪うようなことは断じてしないぞ。……安心しろ貴様たちを祝福してやるんだ、俺は死を賭して貴様たちに加勢してやる。……ははは……とか何んとかいったもんだ。どうだ石岡。石金先生、……相変らず貴様はせわしいんか。貴様が俺に酒の小言さえいわなけりゃ、一枚男が上るんだがなあ……しかし貴様の老爺親切には俺はひそかに泣いてるぞ。……余子碌々……おいおい貴様たちは何んとか物をいえよ、俺にばかりしゃべらしておかずに……園、貴様惚れろ。いいか惚れろ」
「ガンベはだめだよ。貴様いつでも独りぎめだからなあ。他人の自由意志を尊重しろ、園君には園君の考えがあるだろう」
 帽子を被ったままのが言ったんで、森村だと渡瀬にも分った。
「ふむ、そうか。……そんなものかなあ……」
「園君、君はもうあっちに行くといい……。そしてガンベもう帰れ、俺が送っていってやるから。今夜は雪だからおそくなると難儀だ」
 そう人見がとりなし顔にいったけれども、園は座を立とうともしなかった。渡瀬はどうしてもうんといわせたかった。園が不断から言葉少なで遠慮がちな男だとは知っていたけれども、これだけいうのに黙っていられるのは、癪(しゃく)にさわらないでもなかった。それよりも渡瀬はすべてが頼りなくなってきた。自分でも知らずに長く抑えつけていた孤独の感じが一度に堰(せき)を切って迸(ほとばし)りでたかと淋しかった。
「園、貴様何んとかいってもいいじゃないか。俺は酔っぱらっているさ。……酔っぱらっているからって渡瀬作造は渡瀬作造だ。それとも渡瀬作造なるものに……まあいい園、俺と握手をしろ。そうだもっと握れ。俺が貴様の自由意志を尊重していないとしたらだな……俺はあやまる……。どうだ」
 澄んだ眼を持った園の顔はすぐ眼の前にあった。それを涙がぼやかしてしまった。園の手が堅く渡瀬の手を握ったかと思うと、
「僕は君の言葉をありがたくさっきから聞いていたんだよ。よく考えてみよう」
「考えてみよう?……好男子、惜しむらくは兵法を知らず……まあいい、もう行け」
「僕も人見君といっしょに君を送ろう」
「酔不成歓惨欲別か……柿江、貴様ははじめから黙ったまま爪ばかり噛んでいやがるな……皆な聞け、あいつは偽善者だ。あいつは俺といっしょに女郎を買ったんだ」
「おいおいガンベ、酔うのはいいが恥を知れ」
 それはすべてを冗談にしてしまおうとするような調子だった。
「恥を知れ? はははは、うまいことを言いやがるな。……」
 まだいい募りたかったが、その時渡瀬は酔のさめてくるのを感じた。それは何よりも心淋しかった。寝こんでしまって自然に酔いがさめるのでなければ、酔ざめの淋しさはとても渡瀬には我慢ができなかった。彼は立ち上った。
「便所か」
 と人見も同時に立ってきた。廊下に出るときゅうに刺すような寒気が襲ってきた。婆やまでが心配そうにして介抱しに来た。渡瀬は用を足しながら、
「婆や、小便は涙の一種類で、水と同(おん)なじもんだ……じゃなかったかな……とにかくそういうことを知ってるか、はははは」
 といってしいて笑ってみたが、自分ながら少しもおかしくはなかった。何しろ酒にありつかなければもういられなくなった。
 彼は人見と園とにつき添われて、白官舎から、真白に雪の降りつもった往来へとよろけでた。
     *    *    *
 どうしても気の許せないようなところのある男だった。それが、ともかく表向は信じきっているように見える父の前に書類をひろげてまたしゃべりだした。(父は実際はその言葉を少しも信じてはいないのに、おせいの前をつくろって信じているらしくみせているのではないか。つまり父までがぐるになっているのではないかとさえ疑った)
「こうした依頼を受けているんです。土地としては立派なもんだし、このとおり七十三町歩がちょっと切れているだけだから、なかなかたいしたものだが、金高が少し嵩(かさ)むので、勧業が融通をつけるかどうかと思っているんですがね……もっともこのほかにもあの人の財産は偉いもので、十勝(とかち)の方の牧場には、あれで牛馬あわせて五十頭からいるし、自分の住居というのがこれまたなかなかなことでさあ。このほか有価証券(ゆうかしょうけん)、預金の類をひっくるめると、十五万はたしかなところですから、銀行の方でも信用をしてくれるとは思っているんですが」
 そういう間にも、その男は金縁(きんぶち)の眼鏡の奥から、おせいの様子をちらりちらりと探るように見た。優(やさ)しいかと思うときゅうに怖くなるような眼だった。
「で、その金を借りだしてどうなさろうというのかな」
 父は書類を取り上げながらこう尋ねた。待っていたと言わんばかりに、その男はまた折鞄の中から他の書類を取りだした。
「それがこれになろうと言うんです。これがまた偉いもんですぜ。胆振(イブリ)国長万部(オシャマンベ)字トナッブ原野ですな。あすこに百町歩ほどの貸下げを道庁に願いでて、新たに開墾(かいこん)を始めようというんです。今日来がけにちょっと道庁に寄っていただいたが、その用というのがこれです。たいていだいじょうぶ行きます。……何しろあの若さでこれだけの事をやり上げようというんだから……若さといっても四十だが、なあに男の四十じゃあなた、これから花というところです。やあ、どうも話がわき道に外(そ)れちゃったが、どうでしょうな、お嬢さんのお考えは……ただどうも問題になりそうなのは年のちがいじゃあるが」
 と、まともにおせいの方を見て、
「あなたが三十におなんなさる時を思やあ、むこうはやっと四十九だ。ちょうどいいつり合いになりまさあ。どうも男って奴は、これで五十やそこらのうちに細君が四十だ四十一だなんてことになると、つい浮気になりたがるものですよ。……ねえお父さん、お互にまんざら覚えのないことでもないしさ」
 おせいはこんなことをいわれるのを聞いていると、とてもこの話は承諾はできないと思った。聞いているうちに、その人が憎らしくなって、いっそ帰ってしまおうかと思った。父は袖の下に腕を組んでじっと考えこむようにしていた。おせいは二日前に兄の清逸から届いた手紙のことを心の中で始終繰り返していた。お父さんは家のものに何んにも相談しないが、お前の結婚のことを考えているらしい。昨日も浅田という元孵化場(ふかじょう)で同僚だった鞘取(さやとり)のような男が札幌から来て、長いこと話していった。お母さんが立ち聴きした様子から考えると、どうもそうらしい。しかもお前を貰いたいというのは札幌の梶という男じゃないかと思う。それならその男は評判な高利貸でしかも妾(めかけ)を幾人も自分の家の中に置いているという男だ。どんなことがあってもいうことを聴いてはいけない。自分のところは極端に貧乏している。しかも自分がいつまでも書生生活をしているばかりで、お前にまで長い間苦労をかける。お前の婚期がおくれるくらいになっているのを知りながら、それをどうすることもできない自分を思うと、自分は苦しい。けれども今度のだけは是(ぜ)が非(ひ)でも断れ。そんなことが書いてあった。
「どうでしょうな」
 五つ紋の古い紬(つむぎ)の羽織を着たその男は、おせいの方をも一度じっと見て、その眼を父の方に移した。
「どうだな、おせい」
 父はまたその男の眼を避けるようにおせいを見るのだった。おせいは身がすくむような気がして、恨めしそうに父を見かえした。
「浅田さんもさっきからこれほど事をわけて話してくださるんだから、お前、何んとか御挨拶をしないじゃならんぞ。お父さんもそうたびたび千歳からかけて足を運ぶわけにはいかないしよ」
 と父は、いっそう腕を固く組んで、顔を落して説き伏せるように一語一語に力を入れた。
 それでもおせいは何んと答えようもなかった。ようやくのことで唾を呑みこんで、居住まいをなおしながら下を向いた。
「いや、こりゃ私がいちゃかえって御相談がまとまりますまい。私は勧業の方の人に用もありますししますから、これでひとまずお暇とします。……じゃお嬢さん、ひとつよくお考えなすって。仲人口(なこうどぐち)と取られちゃ困りますが、お父さんと私とは古いおなじみだから、けっして仇やおろそかに申すんじゃないんですから、どうか、そこんところをお忘れなく……」
 そしてその人は父と簡単な挨拶を取り交わすと、そこにあった書類をいちいち綿密に鞄の中にしまいこんで座を立った。おせいが父のあとについて送りだそうとすると、浅田は、
「お嬢さん、もうようございます。何、星野さんちょっとお顔を」
 いったので、おせいはわざと遠慮した。二人は部屋の外の階子段の上で、あれこれ十分ほどもほそぼそと話をしていた。なぜともなく五体が震えるのを、寒さのせいかと思って、腰を折って火鉢の上に手をかざした。壁が崩れ落ちたと思うところに、日章旗(にっしょうき)を交叉(こうさ)した間に勘亭流(かんていりゅう)で「祝開店、佐渡屋さん」と書いたびらをつるして隠してあるような六畳の部屋だった。建てつけの悪いガラス窓が風のためにひどい音を立てて、盗風(すきまかぜ)が屋外のように流れこんだ。
 父はやがて小むずかしい顔をして帰ってきた。「寒い家だどうも」とあたりを見まわしているのが、千歳の家を知りぬいているおせいには気恥かしいくらいだった。
「どうだ」
「私はいやです」
 おせいは即座に答えた。父はむっとしたらしかったが、やがてしいて言葉を和らげながら、
「そう膠(にべ)なくいっては話も何もできはしないがな。浅田さんのいうとおり、年のところに行くと少し明きすぎるようだが、わしらのような暮しでは一から十まで註文どおりにいかないのは覚悟していてくれんと埒(らち)はあくものではないぞ。……先方では支度も何もいらないと言うのだ。支度がいるようでは恥かしい話だが、今のところお父さんには何んとも工面がつかんからなあ」
「先様は何んという人です」
「先方はお前、今も浅田さんがいうとおりなかなか○持ちで、自分が貧乏から仕上げたのだから、嫁は学問がなくてもやはり苦労して育ったしとやかなのが欲しいと、まず当世に珍らしい……」
「何という人なんです」
「名か、名はその、梶といって、札幌では……」
 はたして兄からいってきたとおりだった。おせいはあまりといえば父もあまりだと思った。
「そんなら私はどうしてもいやです。幾人も妾(めかけ)を持っているような高利貸のところになんぞ……お父さんもちっと考えてくださればいいに」
 といううちに、彼女は胸が熱くなって涙ぐんでしまった。兄さんですら、小さい時、あれほど自分を可愛がってくれた兄さんですら、まるで自分の事しか考えてはいないし、お父さんはお父さんで、自分の娘だか、他人の娘だか区別のないような仕向け方をする、と思うと、おせいは誰にたよる的(あて)もないのを感じた。彼女はこの五年の間の苦しい女中奉公の生活――それは光明も何もない、長い苦しみの一つらなりだった――を思いめぐらした。始めて小樽に連れだされたのは十七だった。まるで山の中から拾ってきた猿のようなあしらいを受けた。箸の上げおろしにも笑いさいなまれ、枕につくたびごとに、家恋しさと口惜しさのために忍び泣きで通した半年ほど。貰った給金は残らず家の方に仕送って家からたまに届けてよこす衣類といっては、とても小樽では着られないものばかりなので、奥さんからは皮肉な眼を向けられ、朋輩からは蔭口(かげぐち)をたたかれる。それをじっと堪らえて、はいはいといっていなければならぬ辛らさ。月日は経ったけれども、小学校で少しばかり習い覚えた文字すら忘れがちになるのに、そこのお嬢さんたちが裕(ゆた)かに勉強して、一日一日と物識りになり、美しくなっていくのを、黙って見ていなければならぬ恨めしさ。七時過ぎまでは食事もできないで、晩食後の片づけに小皿一つ粗□(そそう)をしまいと血眼(ちまなこ)になっている時、奥では一家の人たちが何んの苦労もなく寄り合って、ばか騒ぎと思われるほどに笑い興じているのを聞かなければならぬ妬(ねた)ましさ。それにも増して苦しかったのは奥さんの意地悪だ。妙な癖で、奥さんは家内のものの中にかならず一人は目のかたきになる人を作っておかなければ気がすまないのだ。その呪いの的になる人は時々変りはしたけれども、どういうものかおせいは貧乏籤(びんぼうくじ)をひいた。露ほどの覚えもないことをひがんで取って、奥様一流の針のような皮肉で、いたたまれないほど責めさいなむのだった。これが嵩(こう)じると自分までヒステリーのようになって、暇を取ったくらいでは気がすまないで、面あてに首でも縊(くく)ろうかと思う時さえあった。さらにそれにも増していやらしかったのは旦那様の淫(みだ)らなことだった。奥さんの目褄(めづま)を忍んでその老人のしかけるいたずらはまるで蛇に巻かれるようだった。それをおせいは軽く受け流して逃げなければならなかった。誰に訴えようもないような醜いことだった。さらにさらに、それにも増して苦しかったのは、若様といわれるその家の長男の情けだった。その人は誰が見ても綺麗な男というような人だ。おまけに旦那とはうらはらに、上品で、感情の強い人で、家の人たちには何んとなく憚(はばか)られているらしかった。淋しい感じの人だ。おせいは住みこんだ時からこの若様という人に惹(ひ)き寄せられた。朋輩がその人の噂を好いたらしくするのを聞くと、心がひとりでにときめいて、思わず顔が紅くなった。けれども何を思っても及ばないこととしてすっかり諦めていた。諦めようと苦しんでいた。ところが去年のこと、ふとしたおりにその人からおせいは挑(いど)みかけられた。おせいは眼をつぶるようにして一生懸命にその誘惑からのがれた。そして底のないような淋しさから声を立てて泣いてしまった。二十という年までじっと、じっと押えつけ、守りぬいていた火のような悲しい思いが、それからのたびたびの危い機会に一度に流れでようとしたのだったが、そしてその人が苦しんでいる様子をみると、いとしくなって何もかも忘れようとさえ思う瞬間はいつもあったのだけれども、彼女はいつでも自分の家の貧しさを思った。健康の弱い兄を思った。白痴同様な弟を思った。貧乏はしても父の名に泥を塗るなと、千歳を出る時きびしくいいわたした父の言葉も思った。自分の心をゆがめきってしまいはしないかと思われるようなこれらの辛らさ、悲しさ、妬ましさ、苦しさを今まで堪えに堪えてきたのはいったい何のため。
 おせいは水月(みぞおち)に切りこむようにこみ上げてくる痛みを、帯の間に手をさしこんでじっと押えた。父はおせいのあまりに思い入った様子に思わず躊(ため)らって、しばらくは言葉をつぐこともできなかった。
 二人はお互の間に始めてこんな気づまりな気持を味いながら、顔を見合せるのも憚(はばか)って対座していた。
「どうしてもお前はいやというのか」
 おせいはもう涙も出なかった。乾いたままで唇が無性に震えた。
「お父さん、それだけはどうか勘忍してください」
 父は地声になって口をとがらした。
「勘忍してくださいといったところが、これはお前のことだからお前の勝手にするがいいのだが、どういう訳だか訳を言わにゃ、ただ許してくれではお父さんも困るじゃないか」
「お父さんは私を……私を高利貸の……妾(めかけ)になさるつもりなんですか」
「とんでもないことを……お前はさっきから高利貸高利貸と言うが、それは働きのない人間どもが他人の成功を猜(そね)んでいうことで、泥棒をして金を儲けたわけじゃなし、お前、金を儲けようという上は、泥棒をしない限り、手段に選み好みがあるべきわけがない。金儲けがいやだとなれば、これはまた別で、お父さんのようになるよりしかたのないことだ。安田でも岩崎でも同じこった、妾囲いとてもそうだ。妾を持ってる手合いは世間ざらにある。あの人は同じ妾囲いをしても、隠しだてなどをしないから、世の中でとやかくいうのだが、お父さんは梶はそこはかえって見上げたものだと思ってるくらいだて。それもお前を妾にくれというのじゃなしさ……」
「けれども、あの人にはちゃんと奥さんがあるんじゃありませんか」
「そ、それだが……先方では妻にくれろというのだから、今の細君をどうするとかこうするとかそれはむこうに思わくがあってのことに違いないとお父さんは思ってるがどうだ。何しろこっちは先方の言い分を信用して……」
 おせいは惘(あき)れるばかりだった。父がどうしてこんなになったのか、どう思ってみようもなかった。いくらなんにも知らないおせいにも、自分のような貧乏な、無学な、知り合いもないような人間を正妻に迎えるわけがないのは分りきっているのに、しらじらしい顔つきをして、自分の娘をごまかそうとするらしい父が邪慳(じゃけん)の鬼のようにも思えた。
「お前は何んでも世間の見るとおりに物を見ようとするからいけない。高利貸といえばすぐ鬼のような無慈悲な奴、妾を持つといえばすぐ※々(ひひ)[#「けものへん+非」、314-上-2]のような淫乱者、そう頭から決めてかかるんだが、そういちがいにはいえるもんじゃない。何んでも浅田の話では、見たところは小作りな、あれが評判の梶という人かと思うほど物わかりのいいやさしい人だということだ。それが合田さんの所でお前を二度ほど見かけて、ぜひということになったものらしい。お前がお茶でも持ってでた覚えはないかな。□(あご)の左の方にちょっと眼に立つほどの火傷のあとがあるそうだが……」
 おせいはそれを聞くと身がすくむようだった。体がかたくなった。肩が凝りきった時のように、頸筋(くびすじ)から背中がこわばって、血のめぐりが鈍く重く五体の奥の方だけを動くようで、それが胸のところを下の方から気味悪るく衝き上げた。眼界がだんだん狭まって、火鉢にかざされた、長い指の先がぶるぶる震えどおしている。皺(しわ)くちゃな父の両手だけが、切り放したようにぼんやり見えていた。「いつ私はその人に見られていたんだろう」と思うと、怖ろしさと無気味さに気息(いき)がとまった。
「お前見たことはないか」
「いいえ」
 おせいの眼は父の手から辷(すべ)り落ちて、膝の上に乗せてある自分の手の方に行った。涙にしとったハンケチを丸めてぎゅっと握りつめているそのかぼそい手も他人(ひと)の手のようだった。若様が自分の手の間に挾んで、やさしく撫でてくださろうとした手だ。それをむりにふり放した手だ。……涙がはらはらと彼女の眼から新しくこぼれでた。
 気まずい沈黙がそのあとに続いた。
 いっそ……ああ若様と私とは身分がちがう。
 すぐ見棄てられるにきまっている。その時の苦しさを思うとどうしても今までどおりにしているほかはない……といって、私はきっといつかは敗けてしまうに決っている……たとえ、見棄てられても、一度だけでも……おせいは切羽(せっぱ)つまった気持の中で、悲しい嬉しい瞬間を心に描いた。それがせめてもの腹いせだった。……そして死んでしまえばそれでいいんじゃないか……
「お父さんはたってと勧めるんじゃない……が、お前はどうしても気が向かないというのだな……」
 おせいはびくりとして夢のようなところから没義道(もぎどう)にひきもどされた。彼女はいつの間にかハンケチを眼にあてていた。
「まあお父さんの胸の中もひととおり聞いてくれ。俺も五十二になる。昔なら殿様に隠居を願いでて楽にくつろぐ時分だが、時世とはいい条(じょう)……また、清逸の奴がどういうつもりなのか、あの年になっていて、見さかいのなさ加減はない。このごろもお前、家にいて、毎日の家の様子は見ているくせに、箒(ほうき)一つ取るでもなく、家いっぱいにひろがって横着をきめている始末だ。学問ができるのなんのって人がちやほやするのを真(ま)に受けてしまってからに、有頂天(うちょうてん)になっている。あんな病気を背負いこんで薬代だけでもなみたいていでないのに、東京へ出かけようといってさらに聞かんのだ。俺もこうやってはいるがいざとなればそのくらいの工面はつくから、苦しいながらあちこち世話をやいてやってみると、そんなところから金を出してもらうのは嫌だとか何んとか、つべこべいいくさる。……」
 こういう不平をきっかけに父は母が少しも甲斐性のないことや、純次がますます物わかりが悪くなって、親を睨(にら)めかえすしぶとさばかりが募るということや、孵化場(ふかじょう)の所長が代ると経費が節減されて、店の方の実入りが思わしくないということや、今度の所長の人格が下司のようだということや、あらん限りの憤懣(ふんまん)を一時にぶちまけ始めた。それをじっとして聞いているおせいはさすがに父が哀れになった。五十二というのに、その人は六十以上に老い耄(ぼ)けていた。これほどの貧乏に陥るのももとはといえば何んといっても父の不精から起ったことだと、苦しいにつけ、辛らいにつけ、おせいは父を恨めしく思う気持になるのだったが、眼前世の中が力にあまって、当惑しているような父の姿を見ると、母も母だ、兄も兄だという心が起った。
「愚痴(ぐち)には違いない……愚痴には違いないがお前にでも聞いてもらわにゃお父さんは愚痴をこぼすせきもないような身柄になったよ、いやどうも……それに、これもお前だけに聞いてもらうことだが、じつは俺も、その、苦しさから浅田さんに頼んで、金をば六百円ほど融通してもらっているので……」
 おせいはそれが崇(たた)っているのだと始めて始終が見えきったように思った。
「もっともあれはあれで親切人だから、そのことを根に持つような人柄ではないが、俺は頑固な昔気質だから、どうも寝ざめがようないのだ。俺は困っとるよ……」
 と父は膝のまわりを尋ねまわして、別々になっている煙草入と煙管とを拾い上げると、慌(あわ)てるようにして煙草をつめたが、吸うかと思うと火もつけずに、溜息とともにそれを畳の上に戻してしまった、おせいはおずおず父の顔を窺(うかが)った。垢染(あかじ)みて、貧乏皺(じわ)のおびただしくたたまれた、渋紙のような頬げたに、平手で押し拭われたらしい涙のあとが濡れたままで残っている。そこには白髪の三本ほど生えた大きな疣(いぼ)もあった。小さい時、きょうだいで寄ってたかって、おちちだといってしゃぶった疣だ。……思案にあまるというのはこれだろうか。彼女の心はしーんとしたなりで少しも働こうとはしなかった。おせいはひとりでに襟(えり)の中に顔を埋めた。無性に悲しくなるばかりだった。
 力がなえきってみえた父は、最後の努力でもするように、おせいの方に向きなおって、膝の上に両肱(りょうひじ)をついて丸っこくかごまった。
「おせい……」
 鼻をすすりながらそれを横撫でにした。
「甲斐性のないおやじと下げすんでくれるなよ。俺も若い時に、なまじっかな楽な暮しをしたばかりに、この年になっての貧乏が、骨身にこたえるのだ。俺一人が楽をしようというではけっしてないがな、何しろ、今日日々の米にも困ってな……この四年あまりというもの、お前のしてきた苦労も、俺は胸の中でよっく察している。親というものは子にかけちゃ神様のように何んでも分る。お前は小さい時から素直な子だったが、素直であればあるほど……」
「お父さんそんなことをいうのはもうよしてください……」
 おせいはほとんど憤(いきどお)りたいような悲哀に打たれて思わずこう叫んでしまった。
 とにかく二三日中にはっきりした返事をすると約束しておせいはようやく父の宿を出た。
 もうまったく日が暮れていた。ショールに眼から下をすっかり包んで、ややともすると足をさらおうとする雪の坂道を、つまさきに力を入れながらおせいはせっせと登っていった。港の方からは潮騒のような鈍い音が流れてきた。その間に汽船の警笛が、耳の底に沁(し)みこむように聞こえている。空荷になった荷物橇(にもつぞり)が、大きな鈴を喉(のど)にぶらさげて毛の長い馬に引かれながら何台も何台もおせいのそばを通りぬけた。顔をすっかり頭巾(ずきん)で包んで、長い手綱で遠くの方から橇を操(あやつ)っている馬方は、寄り道をするようにしておせいを覗きこみに来た。幾人となく男女の通行人にも遇った。吠えつきに来た犬もあった。けれどもおせいにはそれらのものが、どれもこの世界のものではないようだった。今まで父といっしょにいたというのも嘘のようだった。万人が行ったり来たりする賑(にぎや)かな往来、そこでおせいが何百人何千人となく行き遇った人々、その中には、おせいが歩いているような気持で歩いている人がやはりいたのだろうか。それにしては自分は今まで何んというのんきな自分だったろう。そんな苦労を持っているらしい人は一人だって見当らないようだったが。……人間っていうものはやはりこんな離れ離れな心で生きてゆくものなのだ。底のないような孤独を感じて彼女はそう思った。
 主家の大きな門の前に来た。朋輩たちがおせいの帰りの遅いのをぶつぶつ言いながら、彼女の分までも働いているだろうと思うと気が気でなかった、大急ぎで門を駈けこんだ。
 こちらから挨拶もしないうちに、台所で働いてる女中の一人が、
「早かったわね。奥さんがお待ちかねよ」
 といった。
「若様もお待ちかねよ」
 ともう一人のがいった。おせいは何んともいえない淫(みだ)りがましいいやなことをいう人だと思った。
 おせいは取りあえず奥の間に行って、講談物か何かを読み耽(ふけ)っているらしい奥様の前に手をついた。そして、
「ただいま戻りました。おそくなりまして相すみません。父がよろしくと申されました」
 というと、いつもの癖の眼鏡の上の方から眼を覗かせて、睨むようにこっちを見ていた奥様は、
「父がよろしくと申されましたかね。あの(といって柱時計を見かえりながら)お前もう御飯を召しあがりましたろうね」
 と憎さげにまた書物を取り上げた。どうかすると気味が悪るいほど親切で、どうかするとこちらがヒステリーになりそうに皮肉なのがこの人の癖だとは知りながらおせいは涙ぐまずにはいられなかった。
 奥様に釘を打たれて、その夜おせいは食事を取らなかった。実際喰べたくもなかった。
 けれども夜中になると、何んとしても我慢ができないほど餓(ひも)じくなってきた。そっと女中部屋を出て、手さぐりで冷えきった台所に行って、戸棚を開けた。そしてそこにあるものを盗み喰いをしようとした。
 その瞬間におせいはどっと悲しくなった。そしてそこに体を倚(よ)せかけたまま、両袖を顔にあてて声をひそめながら泣きはじめた。
     *    *    *
 父が死んだという電報を受け取ったのは、園がおぬいさんの所に教えに行って、もう根雪になった雪道を、灯がともってから白官舎に帰ってきた時だった。
 隣りの人見の部屋には柿江と森村とが集っているらしく、話声で賑わっていたが、園はそこを覗いてみる気持にもなれないで、そっと素通りして自分の部屋にはいった。
 渡瀬がひどく酔払って白官舎に訪ねてきた翌日から、どうしてもおぬいさんを教えるのはいやだといいだしたので、そしてしきりに園に教えに行けといって聴かないので、彼は已(や)むを得(え)ず、一日おきにまたその家に通うようになったのだった。それがもう半カ月のあまりも続いていた。
 幾度も玄関に出てその帰りを待っていたという婆やが、何か不吉の予感らしいものを顔に現わして園にその電報を手渡した時、園も一種の不安を覚えないではなかったが、まさかあの頑丈な父が死ぬものとは思っていなかった。文言を読んだ時でも父が死んだようには考えられなかった。ただ眼の前に自分の家の様子が普段のままな姿で明かに思いだされたばかりだった。
 何か変ったことがあったのではないかと婆やが尋ねるのに対しても、はっきりしたことは告げ知らせもしないで、自分の部屋に帰ってきたのだった。
 不思議なことには……と園がふと思ったほど……自分の部屋は何んの変化もない自分の部屋だった。机の側には婆やのいけておいてくれた炭火がかすかに光っていた。園はいつものとおり、ドアの蔭になっている釘に、外套と帽子とをかけて、本箱の隅におきつけてあるマッチを手探りに取りだしてラムプに灯をともした。机の上には二三通の手紙がおいてあった。その中の一つは明かに父からの手紙だった。園は坐りも得せず、その手紙を取り上げてみた。たしかに父の手蹟に相違なかった。ちびた筆で萎縮(いしゅく)したように十一月二十三日と日附がしてあった。それを見るとややあわてたような気持になって、衣嚢(かくし)の中から電報を取りだして、今度はその日附を調べてみた。十一月二十五日午前九時四十分の発信になっていた。
 園は手紙と電報とを机の上に戻しながら始めて座についた。そしてしばらくは手紙を開封することもなく、人さし指を立てて机の小端(こば)を軽く押えるように続けさまにたたきながら、じっと眼の前の壁を見つめていた。自分ながらそれが何んの真似だかよく解らなかった。しかしながらかねてからある不安なしにではなく考えていたことが、驀地(まっしぐら)に近づいてきているような一種の心の圧迫を感じ始めているのは明かだった。自分の研究に一頓挫(いちとんざ)が来そうな気持がしだいに深まっていった。
 園は父の手紙をわざと避けて、他の一通を取り上げてみた。それは絶えて久しい幼友だちの一人から送られたもので、園にとってはこの場合さして興味あるものではなかった。他の一通は書体で星野から来たものであるのが明かだった。園はせわしく封を破って、中から細字で書きこまれてある半紙三枚を取りだした。長い手紙であればあるほどその場合の園には便りが多かった。園は念を入れてその一字一句を読みはじめた。
「皚々(がいがい)たる白雪山川を封じ了んぬ。筆端のおのずから稜峭(りょうしょう)たるまた已(や)むを得(え)ざるなり」とそれは書きだしてあった。
「昨夜二更一匹の狗子(くし)窓下に来ってしきりに哀啼(あいてい)す。筆硯(ひっけん)の妨げらるるを悪(にく)んで窓を開きみれば、一望月光裡(いちぼうげっこうり)にあり。寒威惨(かんいさん)として揺(ゆる)がず。かの狗子白毛にて黒斑(こくはん)、惶々乎(こうこうこ)とし屋壁に踞跼(きょきょく)し、四肢を側立て、眼を我に挙げ、耳と尾とを動かして訴えてやまず。その哀々(あいあい)の状(じょう)諦観視するに堪えず。彼はたして那辺(なへん)より来れる。思うに村人ことごとく眠り去って、灯影の漏るるところたまたま我が小屋あるのみ。彼行くに所なくして、あえてこの無一物裡に一物を庶幾(しょき)し来れるにあらざらんや。庭辺一片の食なし。かりに彼を屋内に招かば、狂弟の虐殺するところとならんのみ。我れの有するものただ一編の文章のみ。文章は畢竟(ひっきょう)彼において何するところぞ。我れついに断じて窓を閉ず。翌、かの狗子(くし)命を我が窓下に絶ちぬ。ああ何んぞ独(ひと)り狗子を言わんや。自然の物を遇するすべてまさにこのごとし。我が茅屋の中つねにかの狗子にだに如(し)かざるものを絶たず。日夜の哭啾(こくしゅう)聞こえざるに聞こゆ。筆を折って世とともに濁波を挙げて笑いかつ生きんとしたること幾度なりしを知らざるは、たまたま我が耿々(こうこう)の志少なきを語るものにすぎずといえども、あるいは少しく兄の憐みを惹(ひ)くものなきにしもあらじ。しかも古人の蹟を一顧すれば、たちまち慚汗(ざんかん)の背に流るるを覚ゆ。貧窮(ひんきゅう)、病弱(びょうじゃく)、菲才(ひさい)、双肩(そうけん)を圧し来って、ややもすれば我れをして後(しり)えに瞠若(どうじゃく)たらしめんとすといえども、我れあえて心裡の牙兵を叱咤(しった)して死戦することを恐れじ。『折焚く柴の記と新井白石』はかろうじて稿を了(おわ)るに近し。試験を終らば兄は帰省せん。もししからば幸いに稿を携(たずさ)え去って、四宮霜嶺先生に示すの機会を求むるの労を惜しまざれ。先生にして我が平生忖度(そんたく)するところのごとくんば、この稿によって一点霊犀(れいさい)の相通ずるあるを認めん。我が東上の好機もまたこれによって光明を見るに至らんやも保しがたし。さらに兄に依嘱(いしょく)しえべくんば、我が小妹のために一顧を惜しまざれ。彼女は我が一家の犠羊(ぎよう)なり。兄の知れるごとく今小樽にありてつぶさに辛酸(しんさん)を嘗(な)めつつあり。もしさらに一二年を放置せば、心身ともに萎靡(いび)し終らんとす。坐視(ざし)するに忍びざるものあり。幸いにして東京に良家のあるありて、彼女のために適所を供さば、たんに心身の更生(こうせい)を僥倖(ぎょうこう)しうるのみならず、その生得(しょうとく)の才能を発揮するの機縁に遇いうるやも計るべからず。我が望むところは、彼女が東上して円山氏につき、勤労に服するのかたわら、現代的智識の一班に通ずるを得ば、きわめて幸いなり」
 園はこれだけのことを読む間にも、幾度も自家の方のありさまを想像していた。想像したというよりは自分がずっと育ってきた東京郊外の田舎じみた景色や、父、母、兄などの面影(おもかげ)やが、見るように現われたり隠れたりしていた。そのために園は星野からの手紙を静かに読み終ることができないで、それを机の上に置いたなりで、細かく書連ねられた達者な字を見入りながら、だんだんと自分の家のことを思い耽(ふけ)りはじめた。
 あるかないかに薄い眉の上に、深い横皺を一本たたんで、黒白半ばするほどの髪毛のまだらに生え残った三分刈りの大きな頭を少し前こごみにして、じろりと横ざまに眼を走らしながら人の顔を見る父の顔……今年の夏休暇の終に見たその時の顔……その時、父と兄との間にはもう大きな亀裂(きれつ)が入っていて、いつも以上に不機嫌になっていた。兄は病気の加減もあったのかことさらに陰鬱(いんうつ)だった。若いくせに喘息(ぜんそく)が嵩(こう)じて肺気腫の気味になっていたが、ややともすると誰にも口をきかないで一日でも二日でも頑固に押し黙っているようなことがあった。園に対しては舐(な)めるような溺愛(できあい)を示すのに引きかえて、兄に対してはことごとに気持を悪るくしているらしい愛憎の烈しい母が、二人の中に挾まって、二人の間をかえってかき乱していた。いらいらしているのが指の先までも伝っているような様子で、驚くほど烈しく煙管(きせる)で吐月峰(とげっぽう)をたたきつけながら、自分のすぐ後ろにある座敷金庫から十円札を二枚取りだし、乞食にでもやるように、それを園の前に抛(ほう)りだして苦がりきっていた父の顔、それを取り上げるまでに園は自分でも解らぬような複雑した気持を味わねばならなかった。園が黙ったままお辞儀一つして、それに手を延ばすまでの一挙一動はもとより、どういう風に気持が動いているかを厳しく看守しながら、いささかでも父の権威を冒すような風があったら、そのままにはしておかないぞというように見えた父の顔……自分の生みの父ながら、あの眉の上の深い横皺は園にはこの上なくいやなものだった。どうかして鏡に向うようなことのあるたびごとに、園は自分の顔にそれが現われではしないかと神経質に注意した。年のせいか園にはなかった。しかし兄には明かにそれが出ていた。そういう父の顔……それが何よりも色濃く園の眼の前を離れなかった。死顔などはどうしても現われては来なかった。父の死んだということが第一不思議なほど信ぜられなかった。毎日葬式や命日というような儀式は見慣れてきてはいたけれども、自分の家から死者の出たのは、園が生まれてから始めてのことなので、よけいそうした感じが起らないのかもしれなかった。母の顔も平生のとおりの母の顔、兄の顔も今年の夏別れる時に見たままの兄の顔。玄関からなだら上りになった所に、重い瓦を乗せてゆがみかかった寺門がある。その寺門の左に、やや黄になった葉をつけたまま、高々とそそり立つ名物の「香い桜」。朝の光の中で園がそれを見返った時、荒くれて黝(くろ)ずんだその幹に千社札が一枚斜に貼りつけられてあって、その上を一匹の毛虫が匐(は)っていた。そんなことまでが、夏見たままの姿で園の眼の前に髣髴(ほうふつ)と現われでた。
 しかもこれらのあまりといえば変化のなさすぎるような心の印象(イメージ)の後には、何か忌々(いまいま)しい動揺が起ろうとしているように思えた。実際をいうと、園は帰京せずに、札幌で静かに父の死を弔(とむ)らいもし、一家の善後ということも考えてみたかったのだが「スグカエレ」という電文に背(そむ)くべき何らの理由もなかった。
 園は星野の手紙の下から父の手紙を取りだしてみた。封を切ろうとしたが何んのゆえともなくそれができなかった。どうもその中からは不意な事件が飛びだしてきて、準備のない園の心に、簡単に片づけることのできない混乱を与えそうでしかたがなかった。園はまた父の手紙を見つめたまま、右手の指で机の木端(こば)を敲(たた)きながら長く考えつづけた。
「とにかく今夜すぐ帰ろう」
 ふっとそういう考えが断定的にその心に起った。それだけのことを決心するのに何んでこれほど長く考えねばならなかったかというようなそれは簡単な決心だった。
 しかしそう決心すると同時に、園は心臓がきゅうに激しく打ちだして、顔が火照(ほて)るまでに慌ただしい心持になっていた。彼はそれをいまいましく思いながらもすぐ立ち上って部屋の中を片づけはじめた。しかしそこには別に片づけるというようなものもなかった。ズック製の旅鞄に、二枚の着換えを入れて、四冊の書物と日記帳とを加えて、手拭の類を収めると、そのほかにすることといっては、鍵のかかるところに鍵をかって、本箱の上に自分のと別にしてならべてある借用の書物を人見か柿江に頼んで返却してもらえばそれでいいのだった。彼は心の中にわくわくするようないやな気分を持ちながらも、割合に落ち着いた挙止でそれだけの仕事をすませた。そして机の上にあった三通の手紙を洋服の内衣嚢(うちかくし)に大事にしまいこんだ。机の上にはラムプとインキ壷と硯箱とのほかに何んにもなかった。そこで園はもう一度思い落しはないかと考えてみた。欠席届があった。彼はふたたび机の引出の錠を開けて、半紙を取りだしてそれを書いた。そしてそのついでに星野にあてて一枚の葉書を書いた。
「兄の手紙今夕落手。同時に父死去の電報を受取ったので今夜発ちます。御返事はあとから」
 しかし園はそう書いてくると、もう一つ書き添うべき大事なことのあるのに気づいた。それはおぬいさんのことだった。しかしそれは葉書には書きうることではなかった。すべてのことを知らせるのはあとからにしよう、そう思いながら園は星野への葉書を破って屑籠に抛(ほう)りこんだ。
 隣の部屋では人見たちが盛んに笑いながら大きな声で議論めいた話をしている。それに引きかえて、ずっと見廻わしてみた園の部屋は森閑(しんかん)として、片づきすぎるほど隅まで片づいていた。それを見ると園は父の死んだという事実をちらっと実感した。何んの意味もなく胸の迫るのを覚えた。しかしそれはすぐ通り過ぎてしまった。
 隣の部屋をノックして急な帰京を知らせると、そこにい合わせた三人は等しく立ち上って、少し頓狂(とんきょう)なほど興奮して園を玄関まで送ってきた。婆やは、食事がもうできるから食べていったらいいだろうと勧めながら、慌(あわ)てて下駄を引っかけて門の外まで送ってでた。そして袖口を顔に押しあてながら、遠くなるまで見送っていた。
 園は鞄一つをぶら下げて、もう十分に踏み固まっている雪道を足早に東に向いて歩いた。肘(ひじ)を押しまげて頭の上から強く打ち下そうとする衝動が、鞄を不必要に前後に揺り動かさした。彼は今夜という今夜、すべてのことをおぬいさんとその母とに申しでようという決心をやすやすとしてしまっていたのだ。それは東京に帰ろうと決めたと同時に、特別な考慮を廻らさないでも自然にでき上った決心だった。園はもとよりおぬいさんが彼をどう考えているかも知らなかった。その母がどう考えるかも考えてはみなかった。園はただおぬいさんを愛していることをこの十日ほどの間にはっきりと発見したのだ。彼は幾度かできるだけ冷静になって自分の気持を考えてもみ、容赦なく解剖してもみた。しかしそこに何らか軽薄な気持が動いていることを認めることができなかった。渡瀬が酔ったまぎれに「おぬいさんに惚れろ」といい続けた時、園はそういう問題を取り上げる気持は少しもなかったが、その後四五日経ってから、どうした機会だったか、園はふとおぬいさんに対する自分の心持を徹底的に決めておかなければならぬという強い要求を感じ始めた。そのために昼は研究ができず、夜は眠ることのできない三日四日が続いたが、それには何らの焦燥も苦悩も伴(ともな)いはしなかった。彼はただ神聖な存在の前に引きだされたような気分で、何事をも偽ることなく心をこめて考えた。そして最後に彼はおぬいさんにこの上なく深い愛と親しみとを持っていることをはっきり見出だした。そうなることが園にとってはきわめて自然ないいことだった。この発見は園の心をかつて覚えのない暖かさと快さとに誘いこんだ。ふとその時星野のことを思い浮べてみた。しかしこれはもう園にとっていささかの暗らい影にもなってはいなかった。すべての良心においてこの上なく深く、この上なく暖かくおぬいさんを愛している、そのすがすがしい満足に障(さわ)りとなるものは一つもなかった。おぬいさんが園を愛していない、その疑いすらも気にはならなかった。実際そうであったところが、園はおそらく平気だったろうと思われるほど園の心は静かに満ち足っていた。
 ただし、残された一つのことは、自分の気持をゆがめずに三隅母子に伝える時機と方法とをつくることだけだった。しかしそれさえ園にとっては格別むずかしいことではなくみえた。父死亡の電報を見た時でも、この場合その問題をどう片づけるかさえ考えはしなかったのだが、欠席届を書き終えた時、保証人なる槍田氏は三隅の小母さんの知り合いだから、通知かたがた三隅家に立ち寄ってその判を貰うように頼もうと思いつくと同時に、自分の心持もそのついでにいってしまおうと決心したのだ。
 園は往来を歩きながら、不思議な力が、徐(しず)かに、しかしたしかに自分の体じゅうに満ちてくるのを感じた。かつて知らなかった大きな事業、それが成功しようとも失敗しようとも、事業そのものの値打をいささかも傷つけないような大きな事業が、今眼の前に行われようとしているのだ。そしてこの事業に手をつけるについては、はたしてそれに当るだけの力量のあるなしは分らないとしても、あらゆる点において残るところなく考えぬき、しかも露ほどの心の後ろめたさも感じてはいないということにかけて、園の心は小ゆるぎもしなかった。一種の勇気をもってその五体は波打った。彼の眼に映る大通りの雪景色は、その広さと潔(いさぎよ)さにおいて彼の心に等しかった。夜の闇が逼(せま)り近づいて紫がかった雪の平面を、彼は親しみの吐息をもって果て遠く眺めやった。
 さっきのとおりに小母さんもおぬいさんも家にいて、台所で夕食の支度をしているところだった。二人はさっき帰ったばかりの園が、不意にまた訪ずれてきたのを驚きながらも喜ぶように、もつれ合って入口に走りでた。毎日同じようなことを繰り返しながら、淋しく暮している母子二人にとっては、これほどいささかな不意なことも、これほどに気を引き立たせるのだろう。少なくとも園がこの家で邪魔物あつかいにされていないのを知るのは彼にとっても限りなく快いことだった。
 おぬいさんは慌て気味に襷(たすき)とエプロンとを外ずしながら、茶の間に行ってラムプの芯(しん)をねじ上げた。その釣りラムプの下には彼の見慣れたチャブ台の上に、小さずくめの食器がつつましく準備されていた。小母さんを見、おぬいさんを見、その可憐なチャブ台の上の様を見ると、園の心は思いもかけず小さく激しく沸き立ちはじめた。
「その鞄は」
 と小母さんは怪しむように尋ねた。
「今お話します」
 園は小母さんの怪訝(けげん)そうな顔に曖昧(あいまい)な答えをしながら、美しい楕円の感じのする茶の間に通って、いつもの所に、……柱を背にして倚(よ)りかかることのできる……胸の動悸(どうき)を気にしながら坐った。
「どうなすったのです……明りのせいかしらん、……お顔の色がお悪いようですが……」
 火鉢のわきに小母さんが、園からずっと離れて茶箪笥(ちゃだんす)の前におぬいさんが座をしめた時には、園の前にはチャブ台は片づけられていた。園は自分の顔が醜(みにく)いほど充血しているだろうとばかり信じていたのに、そう小母さんにいわれてみると、手の先までが寒さのためばかりでなく冷えきっているのを感じた。自分の気持をそのまま先方に移すことができるだろうか、そういう不安がかすかに動いた。彼はその場になって、かすかにでもそう感ぜねばならぬのが苦しかった。それゆえ彼は已むを得ずますます口少なになった。何もかも一度に二人に言いきってしまった時に感じるだろう心のすがすがしさと、それを曲って取られはしないかという不安とが、もどかしく心の中で戦い合った。
 いつものとおりの落ち着いたしとやかさでおぬいさんが茶を入れていた。小母さんは茶を飲み終るまでも、大事な問題は延ばしておこうとでもするように、途中が寒かったろうなどと、世間なみの口をきいていた。園は自分の気持が何んとなく小母さんに通じているのだなと思った。長い生活の経験と、親というものの力が美しく働いているらしいのを感じて、その月並な会話にもけっして不快は感じなかった。
 園はおぬいさんが進めてくれた茶を静かにすすった。少しそれは熱すぎた。彼は冷えた両手でほとぼりの沁(し)み残った茶碗を握りしめてみた。そこからも快い感触が神経の奥に暖かく移っていった。ふと眼を挙げるとそこにおぬいさんの眼があった。何んの恐れ気もなく、平和に、純潔な、そして園の心におのずと涙ぐましさを誘うような淋しさ、――淋しさではない。淋しさということはできない。淋しさに似てもっと深いもの、いい言葉はない――を籠めた、黒眼がちな眼。慎しみ深い顔の中にその眼だけがほのかにほほえんで、そこにつぎつぎに開けてゆく世界をより深く眺めようとするように見えた。おぬいさんのその眼があった。そしてそれがやわらかく、まともに園の方に寒いまでに澄んでしかもこの上なく暖かい光を送っていた。園はその眼を思わずじっと眺めやった。その瞬間に園の覚悟は定まった。彼は柱から身を起して端坐した。そして臆することなく小母さんの方に面を向けた。口を切ろうとする時、父のことをまずいいだそうとしたが、すぐそれが間違っているのを自分で悟った。
「こんなことをいうのはまだ早すぎはしないかと思いますのですけれども、事情がこれ以上躊躇(ちゅうちょ)するのを許さないようですから……」
 園は両手に握っている茶碗を感じた。そしてその茶碗の中にさらに一杯の茶を欲した。けれども彼は続けた。
「僕は自分としてはこれ以上は考えられないというところまで考えたつもりです。もし失礼に当ったら許してくださいまし。僕はおぬいさんとお約束をすることができたらと思うんです……そう願っています」
 園はおぬいさんに向っても同じことをいいたかったのだ。しかしそれを聞きつつあるおぬいさんの苦痛を察すると、どうしてもそちらに眼をやることができなかった。それにもかかわらずおぬいさんが処女らしい羞(は)じらいのために、深々と顔を伏せたのが痛むほどきびしく園の感覚に伝ってきた。
 小母さんは切れ切れな園の言葉を聞くと、思わずはっと胸をつかれたらしく、かすかに口をゆるめて、鋭い色を眼にひらめかしたが、やがて、というほどもなく、園をしげしげと見やりながら黙ったままで深くうなずいてみせた。そしてかすかな血の気をその疲れたような頬に現わした。自分は今答えようにも答えられないから、もっと何んとかいえとその顔は促がしていた。園は何か言おうとした。しかしそこには言うべき何事も残ってはいなかった。それ以上をいうのは冒涜(ぼうとく)にすら感じられた。
 園と小母さんとは無言のままで互いの眼から離れて下を向いてしまった。ストーヴの中の薪(まき)がゆるく燃えている。その音だけがしめやかに狭い部屋の中に拡がっていた。
 と、おぬいさんが無言のままで立ち上って、間の襖を開けて静かに隣の部屋に去った。
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