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著者名:有島武郎 

僕は熱があるようだから行かれないと思うから……おぬいさんが聞いたら千歳の番地を知らせてやってくれたまえ、……聞かなかったらこっちからいうには及ばないぜ……それからね、手紙にも書いておいたが、僕の留守の間、おぬいさんの英語を君に見てもらうわけにはいかないかね」
 いらいらしさにまかせて、清逸はこれだけのことを畳(たた)みかけるようにいって退(の)けた。すべてを清逸は今まで園にさえ打ち明けないでいたのだった。清逸にとってはこれだけの言葉の中に自分を苦しめたり鞭(むちう)ったりする多くのものが潜んでいるのだ。
 清逸は何んということなく園から眼を放して仰向けに天井を見た。白い安西洋紙で張りつめた天井には鼠の尿ででもあるのか、雲形の汚染(しみ)がところどころにできている。象の形、スカンディナヴィヤ半島のようにも、背中合せの二匹の犬のようにも見える形、腕のつけ根に起き上り小法師(こぼし)の喰いついた形、醜(みにく)い女の顔の形……見なれきったそれらの奇怪な形を清逸は順々に眺めはじめた。
 さすがの園もいろいろな意味で少し驚いたらしかった。最後の瞬間までどんなことでも胸一つに納(おさ)めておいて、切りだしたら最後貫徹しないではおかない清逸の平生を知らない園ではないはずだ。だがあの健康で明日突然千歳に帰るということも、おぬいさんに英語を教えろということも、すべてがあまりに突然に思えたらしかった。清逸が、象の形、スカンディナヴィヤ半島のようにも、背中合せの二匹の犬のようにも見える形、腕のつけ根に起き上り小法師の喰いついた形から醜い女の顔の形へ視線を移したころ、
「では君もいよいよ東京に行くの」
 と園が言った。そしておぬいさんの手紙を素直に洋服の内衣嚢(かくし)にしまいこんだ。
 園はおぬいさんに牽(ひ)きつけられている、おぬいさんについては一言もいわないではないか。……清逸はすぐそう思った。それともおぬいさんにはまったく無頓着(むとんちゃく)なのか。とにかくその人の名を園の口から聞かなかったのは……それはやはり物足らなかった。園の感情がいくらかでも動くのを清逸は感じたかったのだ。
「西山君も行くようなことをいっていたが……」
 園は間をおいてむりにつけ足すようにこれだけのことをいった。
 西山がそんなたくらみをしているとは清逸の知らないことだった。清逸は心の奥底ではっと思った。自分の思い立ったことを西山づれに魁(さきが)けされるのは、清逸の気性として出抜かれたというかすかな不愉快を感じさせられた。
「もっとも西山君のことだから、言いたい放題をいっているかもしれないが……」
 清逸の心の裏をかくとでもいうような言葉がしばらくしてからまた園の唇を漏(も)れた。清逸はかすかに苦しい顔をせずにはいられなかった。
 二時間目の授業が始まるからといって園が座を立ったあと、清逸は溜息(ためいき)をしたいような衝動を感じた。それが悪るかった。自然に溜息が出たあとに味われるあの特殊な淋しいくつろぎは感ずることができなかった。園が出ていった戸口の方にもの憂(う)い視線を送りながら、このだだ広い汚ない家の中には自分一人だけが残っているのだなとつくづく思った。
 ふと身体じゅうを内部から軽く蒸(む)すような熱感が萌(きざ)してきた。この熱感はいつでも清逸に自分の肉体が病菌によって蝕(むしば)まれていきつつあるということを思い知らせた。喀血(かっけつ)の前にはきっとこの感じが先駆のようにやってくるのだった。
 清逸はわざと没義道(もぎどう)に身体を窓の方に激しく振り向けてみた。窓の障子はだいぶ高くなった日の光で前よりもさらに黄色く輝いていた。
 しかしどこに行ったのか、かの一匹の蝿はもうそこにはいなかった。
     *    *    *
 “Magna est veritas,et praevalebit.”
 それが銘(めい)だった。園はその夜拉典(ラテン)語の字書をひいてはっきりと意味を知ることができた。いい言葉だと思った。
 段と段との隔たりが大きくておまけに狭く、手欄(てすり)もない階子段を、手さぐりの指先に細かい塵を感じながら、折れ曲り折り曲りして昇るのだ。長い四角形の筒のような壁には窓一つなかった。その暗闇の中を園は昇っていった。何んの気だか自分にもよくは解らなかった。左手には小さなシラーの詩集を持って。頂上には、おもに堅い木で作った大きな歯車(はぐるま)や槓杆(てこ)の簡単な機械が、どろどろに埃(ほこり)と油とで黒くなって、秒を刻みながら動いていた。四角な箱のような機械室の四つ角にかけわたした梁の上にやっと腰をかけて、おずおず手を延ばして小窓を開いた。その小窓は外から見上げると指針盤(ししんばん)の針座のすぐ右手に取りつけられてあるのを園は見ておいたのだ。窓はやすやすと開いた。それは西向きのだった。そこからの眺めは思いのほか高い所にあるのを思わせた。じき下には、地方裁判所の樺色(かばいろ)の瓦屋根があって、その先には道庁の赤煉瓦、その赤煉瓦を囲んで若芽をふいたばかりのポプラが土筆草(つくし)のように叢(むら)がって細長く立っていた。それらの上には春の大空。光と軟かい空気とが小さな窓から犇(ひし)めいて流れこんだ。
 機械室から暗窖(グランド・セラー)のように暗みわたった下の方へ向けて、太い二本の麻縄が垂れ下り、その一本は下の方に、一本は上の方に静かに動いていた。縄の末端に結びつけられた重錘(おもり)の重さの相違で縄は動くのだ。縄が動くにつれて歯車はきりきりと低い音を立てて廻る。
 左の足先は階子の一番上のおどり段に頼んだが、右の足は宙に浮かしているよりしようがなかった。その不安定な坐り心地の中で詩集が開かれた。「鐘の賦」という長い詩のその冒頭に掲げられた有名な鐘銘(しょうめい)に眼がとまると、園はここの時計台の鐘の銘をも知りたいと思った。ふと見ると高さ二尺ほどの鐘はすぐ眼の先に塵まぶれになって下っていた。“Magna est veritas,et praevalebit.”……園にはどうしても最後の字の意味が考えられなかった。写真で見る米国の自由の鐘のように下の方でなぞえに裾を拡げている。その拡がり方といい勾配(こうばい)の曲線の具合といい、並々の匠人の手で鋳られたものでないことをその鐘は語っていた。
 農学校の演武場の一角にこの時計台が造られてから、誰と誰とが危険と塵とを厭わないでここまで昇る好奇心を起したことだろう。修繕師のほかには一人もなかったかもしれない。そして何年前に最後の修繕師がここに昇ったのだろう。
 札幌に来てから園の心を牽(ひ)きつけるものとてはそうたくさんはなかった。ただこの鐘の音には心から牽きつけられた。寺に生れて寺に育ったせいなのか、梵鐘(ぼんしょう)の音を園は好んで聞いた。上野と浅草と芝との鐘の中で、増上寺の鐘を一番心に沁みる音だと思ったり、自分の寺の鐘を撞きながら、鳴り始めてから鳴り終るまでの微細な音の変化にも耳を傾け慣(な)れていた。鐘に慣れたその耳にも、演武場の鐘の音は美しいものだった。
 ことに冬、真昼間でも夕暮れのように天地が暗らみわたって、吹きまく吹雪のほかには何の物音もしないような時、風に揉(も)みちぎられながら澄みきって響いてくるその音を聞くと、園の心は涼しくひき締った。そして熱いものを眼の中に感ずることさえあった。
 夢中になってシラーの詩に読み耽(ふけ)っていた園は、思いもよらぬ不安に襲われて詩集から眼を放して機械を見つめた。今まで安らかに単調に秒を刻んでいた歯車は、きゅうに気息(いき)苦しそうにきしみ始めていた。と思う間もなく突然暗い物隅から細長い鉄製らしい棒が走りでて、眼の前の鐘を発矢(はっし)と打った。狭い機械室の中は響だけになった。園の身体は強い細かい空気の震動で四方から押さえつけられた。また打つ……また打つ……ちょうど十一。十一を打ちきるとあとにはまた歯車のきしむ音がしばらく続いて、それから元どおりな規則正しい音に還(かえ)った。
 あまりの厳粛(げんしゅく)さに園はしばらく茫然(ぼうぜん)[#「茫然」は底本では「范然」]としていた。明治三十三年五月四日の午前十一時、――その時間は永劫(えいごう)の前にもなければ永劫の後にもない――が現われながら消えていく……園は時間というものをこれほどまじまじと見つめたことはなかった。
 心から後悔して園は詩集を伏せてしまった。この学校に学ぶようになってからも、園には別れがたい文学への憧憬(どうけい)があった。捨てよう捨てようと思いながら、今までずるずるとそれに引きずられていた。一事に没頭しきらなければすまない。一人の科学者に詩の要はない。科学を詩としよう。歌としよう。園は読みなれた詩集を燔牲(はんせい)のごとくに機械室の梁の上に残したまま、足場の悪い階子段を静かに下りた。
 “Magna est veritas,et praevalebit.”
 その夜彼はこの鐘銘の意味をはっきり知った。いい言葉だと思った。「真理は大能なり、真理は支配せん」と訳してみた。一人の科学者にとってはこれ以上に尊(とおと)い箴言(しんげん)はない。そして科学者として立とうとしている以上、今後は文学などに未練を繋(つな)ぐ姑息(こそく)を自分に許すまいと決心したのだった。
     *    *    *
 札幌に来る時、母が餞別(せんべつ)にくれた小形の銀時計を出してみると四時半近くになっていた。その時計はよく狂うので、あまりあてにはならなかったけれど、反射鏡をいかに調節してみても、クロモゾームの配列の具合がしっかりとは見極められないので、およその時間はわかった。園は未練を残しながら顕微鏡の上にベル・グラスを被せた。いつの間にか助手も学生も研究室にはいなかった。夕闇が処まだらに部屋の中には漂っていた。
 三年近く被り慣れた大黒帽を被り、少しだぶだぶな焦茶色の出来合い外套(がいとう)を着こむともうすることはなかった。廊下に出ると動物学の方の野村教授が、外套の衣嚢(かくし)の辺で癖のように両手を拭きながら自分の研究室から出てくるのに遇(あ)った。教授は不似合な山高帽子を丁寧(ていねい)に取って、煤(すす)けきったような鈍重な眼を強度の近眼鏡の後ろから覗かせながら、含羞(はにか)むように、
「ライプチッヒから本が少しとどきましたから何んなら見にいらっしゃい」
 と挨拶して、指の股を思い存分はだけた両手で外套をこすり続けながら忙しそうに行ってしまった。何んのこだわりもなく研究に没頭しきっているような後姿を見送りながら、園は何んとなく恥を覚えた。それは教授に向けられたのか、自分に向けられたのか、はっきりしないような曖昧なものであったが。
 時計台のちょうど下にあたる処にしつらえられた玄関を出た。そこの石畳は一つ一つが踏みへらされて古い砥石(といし)のように彎曲(わんきょく)していた。時計のすぐ下には東北御巡遊の節、岩倉具視(いわくらともみ)が書いたという木の額が古ぼけたままかかっているのだ。「演武場」と書いてある。
 芝生代りに校庭に植えられた牧草は、三番刈りの前でかなりの丈(た)けにはなっているが、一番刈りのとはちがって、茎が細々と痩せて、おりからのささやかな風にも揉まれるように靡(なび)いていた。そして空はまた雨にならんばかりに曇っていた。何んとなく荒涼とした感じが、もう北国の自然には逼(せま)ってきていた。
 園の手は自分でも気づかないうちに、外套と制服の釦(ボタン)をはずして、内衣嚢(かくし)の中の星野から託された手紙に触れていた。表に「三隅ぬい様」、裏に「星野」とばかり書いてあるその封筒は、滑らかな西洋紙の触覚を手に伝えて、膚(はだ)ぬくみになっていた。園は淋しく思った。そして気がついてゆるみかかった歩度を早めた。
 碁盤(ごばん)のように規則正しい広やかな札幌の往来を南に向いて歩いていった。ひとしきり明るかった夕方の光は、早くも藻巌山(もいわやま)の黒い姿に吸いこまれて、少し靄(もや)がかった空気は夕べを催すと吹いてくる微風に心持ち動くだけだった。店々にはすでに黄色く灯がともっていた。灯がともったその低い家並で挾まれた町筋を、仕事をなし終えたと思しい人々がかなり繁(しげ)く往来していた。道庁から退けてきた人、郵便局、裁判所を出た人、そう思わしい人人が弁当の包みを小脇に抱えて、園とすれちがったり、園に追いこされたりした。製麻会社、麦酒(ビール)会社からの帰りらしい職工の群れもいた。園はそれらの人の間を肩を張って歩くことができなかった。だから伏眼がちにますます急いだ。
 大通りまで出ると、園は始めて研究室の空気から解放されたような気持ちになった。そして自分が憚(はばか)らねばならぬような人たちから遠ざかったような心安さで、一町にあまる広々とした防火道路を見渡した。いつでも見落すことのできないのは、北二条と大通りとの交叉点(こうさてん)にただ一本立つエルムの大樹だった。その夕方も園は大通りに出るとすぐ東の方に眼を転じた。エルムは立っていた。独り、静かに、大きく、寂しく……大密林だった札幌原野の昔を語り伝えようとするもののごとく、黄ばんだ葉に鬱蒼(うっそう)と飾られて……園はこの樹を望みみると、それが経てきた年月の長さを思った。その年月の長さがひとりでにその樹に与えた威厳を思った。人間の歴史などからは受けることのできない底深い悲壮な感じに打たれた。感激した時の癖として、園はその樹を見るごとに、右手を鍵形に折り曲げて頭の上にさしかざし、二度三度物を打つように烈しく振り卸(お)ろすのだった。
 その夕方も園は右手を振ろうとする衝動をどこかに感じたけれども、何かまたはばむものがあってそれをさせなかった。衝動はいたずらに内訌(ないこう)するばかりだった、彼は急いだ、大通りを南へと。
 三隅の家の軒先で、園はもう一度衣嚢(かくし)の手紙に手をやった。釦(ボタン)をきちんとかけた。そして拭掃除の行き届いた硝子(ガラス)張りの格子戸を開けて、黙ったまま三和土(たたき)の上に立った。
 待ち設(もう)けたよりももっと早く――園は少し恥らいながら三和土の片隅に脱ぎ捨ててある紅緒(べにお)の草履(ぞうり)から素早く眼を転ぜねばならなかった――しめやかながらいそいそ近づく足どりが入口の障子を隔てた畳の上に聞こえて、やがて障子が開いた。おぬいさんがつき膝をして、少し上眼をつかって、にこやかに客を見上げた。つつましく左手を畳についた。その手の指先がしなやかに反って珊瑚(さんご)色に充血していた。
 意外なというごくごくささやかな眼だけの表情、かならずそうであるべきはずのその人ではなかったという表情、それが現われたと思うとすぐ消えた。園はとにもかくにもおぬいさんに微かながらも失望を感じさせたなと思った。それはまた当然なことでなければならない。園を星野以上に喜んで迎えるわけがおぬいさんにはあるはずがない。おまけにその日は星野が英語を教えに来べき日なのだ。
「まあ……どうぞ」
 といっておぬいさんは障子の後に身を開いた。園に対しても十分の親しみを持っているのを、その言葉や動作は少しの誇張も飾りもなく示していた。……園は上り框(かまち)に腰をかけて、形の崩れた編上靴を脱ぎはじめた。
 いつ来てみても園はこの家に女というものばかりを感じた。園の訪れる家庭という家庭にはもちろん女がいた。しかしそこには同時に男もいるのだ。けれどもおぬいさんは産婆を職業としているその母と二人だけで暮しているのだから。
 客間をも居間をも兼ねた八畳は楕円形(だえんけい)の感じを見る人に与えた。女の用心深さをもってもうストーヴが据えつけてあった。そしてそれが鉛墨(えんぼく)でみごとに光っていた。柱のめくり暦は十月五日を示して、余白には、その日の用事が赤心(あかしん)の鉛筆で細かに記してあった。大きな字がお母さんで、小さな字がおぬいさんだということさえきちんと判っていた。部屋の中央にあるたものちゃぶ台には読みさしの英語の本が開いたまま伏せてあったが、その表紙には反物のたとう紙で綿密に上表紙がかけてあった。男である園は、その部屋の中では異邦人であることをいつでも感じないではいられなかった。
 けれどもその感じは彼を不愉快にしないばかりでなく、反対に彼を慰めた。ただ若いおぬいさんが普通の処女であったなら、その処女と二人でさし向いに永く坐っているということは、園には自分の性癖から堪(た)えがたいことだったろう。彼はどんなに無害なことでも心にもない口をきくことができなかったから。また処女に特有な嬌羞(はにかみ)というものをあたりさわりなく軟らげ崩して、安気な心持で彼と向い合うようにさせる術(すべ)をまったく知らなかったから。そして一般に日本の処女が持ち合わしている話題は一つとして園の生活の圏内にはいってくるような性質のものではなかったから。童貞でありながら園は女性に対してむだなはにかみはしなかった。しかし相手がはにかむ場合には園は黙って引きさがるほかはなかった。
 けれどもおぬいさんの処ではそんな心配は無用だったから園はなぐさめられたのだ。彼は持ちだされた座蒲団の処にいって坐った。おぬいさんは机の上の読みさしの本を慌てて押し隠すようなこともせずに、静かにそれを取り上げて部屋の隅に片づけた。
「学校の方で星野さんにお遇いになりまして」
 簡単な挨拶が終るとおぬいさんの尋ねた言葉はこれだった。園はまず星野のことが尋ねられるのがことのほか快かった。その理由は自分にも解らなかったけれども。
「星野君は今日も学校を休みました。この二三日また身体の具合がよくないそうで」
「まあ……」
 おぬいさんの顔には痛ましいという表情が眼と眉との間にあからさまに現われて、染まりやすい頬がかすかに紅く染まった。園はそれをも快く思った。
「だから今日の英語は休みたいからといって、今朝白官舎を出る時この手紙を頼まれてきたんですが……」
 そういいながら園は内衣嚢(かくし)から星野の手紙を取りだした。取りだしてみると自分の膚の温(ぬく)みがそれに沁(し)みついていたのに気がついた。園はそのまま手紙をおぬいさんに渡すのを躊躇(ちゅうちょ)した。そしてそれを手渡しする代りに、そっとちゃぶ台の冷たい板の上においた。
 何んの気なしに少しいそがしく手をさしだしたおぬいさんは、園の軽い心変りにちょっと度を失ってみえたが、さしだした手の向きをかえて机の上からすぐ手紙を拾い上げた。すぐ拾い上げはしたが、自分の膚の温みはあの手紙からは消えているなと園は思った。園はそう思った。園は右手の食指に染みついているアニリン染色素をじっと見やった。
 おぬいさんは園のいる前で何んの躊躇もなく手紙の封を切った。封筒の片隅を指先で小さくむしっておいて、結いたての日本髪(ごくありきたりの髷だったが、何という名だか園は知らなかった)の根にさした銀の平打の簪(かんざし)を抜いて、その脚でするすると一方を切り開いた。その物慣れた仕草(しぐさ)から、星野からの手紙が何通もああして開かれたのだと園に思わせた。それもしかし彼にとってゆめゆめ不快なことではなかった。
 おぬいさんは立ってラムプに灯をともした。おぬいさんは生まれ代ったようになった……すべての点において。部屋の中も著(いちじる)しく変った。おそらく夜の灯の下で変らないのはその場合園一人であったに違いない。
 藍がかってさえ見える黒い瞳(ひとみ)は素(す)ばしこく上下に動いて行(ぎょう)から行へ移ってゆく。そしてその瞳の働きに応ずるように、「まあ」というかすかな驚きの声が唇の後ろで時々破裂した。半分ほど読み進んだころおぬいさんはしっかりと顔を持ち上げてその代りに胸を落した。
「星野さんは明日お家にお帰りなさるそうですのね」
「そういっていました」
 園もまともにおぬいさんを見やりながら。
「だいじょうぶでしょうか」
「僕も心配に思っています」
 この時園とおぬいさんとは生れて始めてのように深々と顔を見合わせた。二人は明かに一人の不幸な友の身の上を案じ合っているのを同情し合った。園はおぬいさんの顔に、そのほかのものを読むことができなかったが、おぬいさんには園がどう映(うつ)ったろうか。と不埒にも園の心があらぬ方に動きかけた時は、おぬいさんの眼はふたたび手紙の方へ向けられていた。園はまた自分の指先についている赤い薬料に眼を落した。
 おぬいさんがだんだん興奮してゆく。きわめて薄手な色白の皮膚が斑(まだ)らに紅くなった。斑らに紅くなるのはある女性においては、きわめて醜(みにく)くそして淫(みだ)らだ。しかしある女性においては、赤子のほかに見出されないような初々(ういうい)しさを染めだす。おぬいさんのそれはもとより後者だった。高低のある積雪の面に照り映えた夕照のように。
 読み終ると、おぬいさんは折れていたところで手紙を前どおりに二つに折って、それを掌の間に挾んでしばらくの間膝の上に乗せて伏眼になっていたが、やがて封筒に添(そ)えてそれを机の上に戻した。そして両手で火照(ほて)った顔をしっかりと押えた。互に寄せ合った肘(ひじ)がその人の肩をこの上なく優しい向い合せの曲線にした。
 園はおぬいさんのいうままに星野の手紙を読まねばならなかった。
「前略この手紙を園君に託してお届けいたし候(そうろう)連日の乾燥のあまりにや健康思わしからず一昨日は続けて喀血(かっけつ)いたし候ようの始末につき今日は英語の稽古(けいこ)休みにいたしたくあしからず御容赦(ごようしゃ)くださるべく候なお明日は健康のいかんを問わず発足して帰省いたすべき用事これあり滞在日数のほども不定に候えば今後の稽古もいつにあいなるべきやこれまた不定と思召さるべく候ついては後々の事園君に依頼しおき候えば同君につきせいぜい御勉強しかるべくと存じ候同君は御承知のとおり小生会心の一友年来起居をともにしその性格学殖は貴女においても御知悉(ごちしつ)のはず小生ごときひねくれ者の企図して及びえざるいくたの長所あれば貴女にとりても好箇の畏友(いゆう)たるべく候(この辺まで進んだ時、おぬいさんが眼を挙げて自分を見たのだと思いながらなお読みつづけた)とかくは時勢転換の時節到来と存じ候男女を問わず青年輩の惰眠(だみん)を貪(むさぼ)り雌伏(しふく)しおるべき時には候わず明治維新の気魄は元老とともに老い候えば新進気鋭の徒を待って今後のことは甫(はじ)めてなすべきものと信じ候小生ごときはすでに起たざるべからざるの齢(よわい)に達しながら碌々(ろくろく)として何事をもなしえざること痛悔(つうかい)の至りに候ことに生来病弱事志(ことこころざし)と違い候は天の無為を罰してしかるものとみずから憫(あわれ)むのほかこれなく候貴女はなお弱年ことに我国女子の境遇不幸を極めおり候えば因習上小生の所存御理解なりがたき節(ふし)もやと存じむしろ御同情を禁じがたく候えどもけっして女子の現状に屏息(へいそく)せず艱難(かんなん)して一路の光明を求め出でられ候よう祈りあげ候時下晩秋黄落しきりに候御自護あいなるべく御母堂にもくれぐれもよろしく御伝えくださるべく候
 一八九九年十月四日夜
星野生三隅ぬい様 どんな境遇をも凌(しの)ぎ凌いで進んでいこうとするような気禀(きひん)、いくらか東洋風な志士らしい面影(おもかげ)、おぬいさんをはるかの下に見おろして、しかも偽(いつわ)らない親切心で物をいう先生らしい態度が、蒼古(そうこ)とでも評したいほど枯れた文字の背(うし)ろに燃えていると園は思った。
 同時に園の心はまた思いも寄らぬ方に動いていた。それはある発見らしくみえた。星野とおぬいさんとの間柄は園が考えていたようではないらしい。おぬいさんは平気で園の前でこの手紙を開封した。そしてその内容は今彼がみずから読んだとおりだ。もし以前におぬいさんに送った星野の手紙がもっと違った内容を持っていたとすれば、おぬいさんがこの手紙を開封する時、ああまで園の存在に無頓着(むとんちゃく)でいられるだろうか。
 園はまたくだらぬことにこだわっていると思ったが、心の奥で、自分すら気づかぬような心の奥で、ある喜びがかすかに動くのをどうすることもできなかった。それは何んという暖かい喜びだったろう。その喜びに対する微笑(ほほえ)ましい気持が顔へまで波及(はきゅう)するかと思われた。園は愚(おろ)かなはにかみを覚えた。
 園は自分の前にしとやかに坐っているおぬいさんに視線を移すのにまごついた。彼は自分がかつて持たなかった不思議な経験のために、今まで女性に対して示していた態度の劇変(げきへん)しようとしているのを感ぜずにはいられなかった。少なくともおぬいさんという女性に対しては。
 星野のおぬいさんに対する態度はお前が考えたようであるかもしれない。しかしながらおぬいさんの心が星野の方にどう動いているかをたしかに見窮めて知っているか……
 園ははっと思った。そしてふと動きかけた心の奥の喜びを心の奥に葬ってしまった。それはもとより淋しいことだった。しかしむずかしいことではないように園には思えた。それらのことは瞬(またた)きするほどの短かい間に、園の心の奥底に俄然として起り俄然として消えた電光のようなものだったから。そしておぬいさんがそれを気取(けど)ろうはずはもとよりなかった。
 けれどもそれまで何んのこだわりもなく続いてきた二人の会話は、妙にぽつんと切れてしまった。園は部屋の中がきゅうに明るくなったように思った、おぬいさんが遠い所に坐っているように思った。
 その時農学校の時計台から五時をうつ鐘の声が小さくではあるが冴(さ)え冴えと聞こえてきた。
 おぬいさんの家の界隈(かいわい)は貧民区といわれる所だった。それゆえ夕方は昼間にひきかえて騒々しいまでに賑(にぎ)やかだった。音と声とが鋭角をなしてとげとげしく空気を劈(つんざ)いて響き交わした。その騒音をくぐりぬけて鐘の音が五つ冴え冴えと園の耳もとに伝わってきた。
 それは胸の底に沁(し)み透るような響きを持っていた。鐘の音を聞くと、その時まで考えていたことが、その時までしていたことが、捨ておけない必要から生まれたものだとは園には思われなくなってきた。来なければならぬところに来ているのではない。会わなければならぬ人に会っているのではない。言わなければならぬことを言っているのではない。上ついた調子になっていたのだ。それはやがて後悔をもって報(むく)いられねばならぬ態度だったのではないか。園は一人の勤勉な科学者であればそれで足りるのに、兄のように畏敬(いけい)する星野からの依頼だとはいえ、格別の因縁(いんねん)もない一人の少女に英語を教えるということ。ある勇みをもって……ある喜びをすらもって……柄(がら)にもない啓蒙的(けいもうてき)な仕事に時間を潰そうとしていること。それらは呪(のろ)うべき心のゆるみの仕事ではなかったか。……園は自分自身が苦々しく省(かえり)みられた。
 やがて園は懺悔(ざんげ)するような心持で、努めて心を押し鎮(しず)めて、いつもどおりの静かな言葉に還りながら言いだした。
「話が途切(とぎ)れましたが、……僕は今学校の鐘の音に聞きとれていたもんですから……あれを聞くと僕は自分の家のことを思いだします。僕の家は浄土宗の寺です。だから小さい時から釣鐘の音やあの宗旨(しゅうし)で使う念仏の鉦(かね)の音は聞き慣(な)れていたんです。それは今でも耳についていて忘れません。そのためか鐘の音を聞くと僕は妙に考えさせられます。特別、学校のあの鐘には僕はある忘れられない経験を持っています。……そうですね、その話はやめておきましょう……とにかく僕はあの鐘を聞くと、父と兄とにむりに頼んで、こんな所に修業に出てきたのを思いだすんです。……」
 ここまで重いながら言葉を運んでくると、園はまた言わないでもいいことを言い続けているような気尤(とが)めがした。園は今日は自分ながらどうかしていると思った。それでこれまでの無駄事(むだごと)の取りかえしをするようにと、
「そんなわけで僕は研究室にさえいればいい人間ですし、そうしていなければいけない人間です。ですから星野君はこの手紙のようなことを言っていますが、僕は辞退したいと思います。どうか悪(あ)しからず」
 とできるだけ言葉少なに思いきっていってしまった。
 伏目になったおぬいさんの前髪のあたりが小刻みに震(ふる)えるのを見たけれども、そして気の毒さのあまり何か言い足そうとも思ってみたけれども、園の心の中にはある力が働いていてどうしてもそうさせなかった。
 園は静かに茶を啜(すす)り終った。星野の手紙をおぬいさんの方に押しやった。古ぼけた黒い毛繻子(けじゅす)の風呂敷に包んだ書物を取り上げた。もう何んにもすることはなかった。座を立った。
 暗い夜道を急ぎ足で歩きながら園は地面を見つめてしきりに右手を力強く振りおろした。
 きゅうに遠くの方で急雨のような音がした。それがみるみる高い音をたてて近づいてきた。と思う間もなく園の周囲には霰(あられ)が篠(しの)つくように降りそそいだ。それがまた見る間に遠ざかっていって、かすかな音ばかりになった。
 第二陣、第三陣が間をおいて襲ってきた。
 大通りまで来て園は突然足をとどめた。おぬいさんの家から遠ざかるにしたがって、小刻みに震う前髪がだんだんはっきりと眼につきだして、とうとうそのまま歩きつづけてはいられなくなったからだ。星野の行ってしまうということだけであの感じやすい心は十分に痛んでいるのだった。それは十分に察していた。察していながら、自分は断(ことわ)りをいうにしても断りのいいようもあろうに、あんな最後の言葉を吐いてしまったのだ。けれどもあんな最後の言葉を吐かせたのは誰の罪だろう。たんに英語を園に教えろといった星野にその罪はない。もとよりおぬいさんでもない。あの座敷にいた間じゅう、始終あらぬ方にのみ動揺していた自分の心がさせた仕業(しわざ)ではなかったか。自分自身を鞭(むちう)たなければならないはずであったのに、その笞(むち)を言葉に含めて、それをおぬいさんの方に投げだしたのではなかったか。そういえば園は千歳の星野の番地をおぬいさんに教えることをせずにあの家を出た。おぬいさんはそれを尋ねはしなかった。尋ねなければ教えるには及ばないと星野はいっていた。だから園は平気でいてもいいようにも思われる。しかし園にあの最後の言葉を投げつけられたおぬいさんがそれを尋ねる余裕を持ちえられるかどうか。……それよりも園はおぬいさんがそれを尋ねるだろうと最後の瞬間まで待ち設けていたのだ。そのことは始めからしまいまで気にかけていたのだ……ある好奇心なしにではなく……しかもとうとう教えずにしまった。そうした仕打ちの後ろには何んにもないといいきることができるか。……園はぐっと胸に手を重くあてがわれたように思った。
 またのついでの時に知らせようか。……それではいけない。気がすまない。園は大通りの暗闇の中に立って真黒な地面を見つめながら、右の腕をはげしく三度振り卸(お)ろした。
 園はそのままもと来た道に取って返した。
     *    *    *
 坂というものの一つもない市街、それが札幌だ。手稲(ていね)藻巌(もいわ)の山波を西に負って、豊平川を東にめぐらして、大きな原野の片隅に、その市街は植民地の首府というよりも、むしろ気づかれのした若い寡婦(かふ)のようにしだらなく丸寝している。
 白官舎はその市街の中央近いとある街路の曲り角にあった。開拓使時分に下級官吏の住居として建てられた四戸の棟割長屋ではあるが、亜米利加(アメリカ)風の規模と豊富だった木材とがその長屋を巌丈(がんじょう)な丈け高い南京下見(したみ)の二階家に仕立てあげた。そしてそれが舶来の白ペンキで塗り上げられた。その後にできた掘立小屋のような柾葦(まさぶ)き家根の上にその建物は高々と聳(そび)えている。
 けれども長い時間となげやりな家主の注意とが残りなくそれを蝕(むしば)んだ。ずり落ちた瓦(かわら)は軒に這い下り、そり返った下見板の木目と木節は鮫膚(さめはだ)の皺(しわ)や吹出物の跡のように、油気の抜けきった白ペンキの安白粉(やすおしろい)に汚なくまみれている。けれども夜になると、どんな闇の夜でもその建物は燐(りん)に漬(つ)けてあったようにほの青白く光る。それはまったく風化作用から来たある化学的の現象かもしれない。「白く塗られたる墓」という言葉が聖書にある……あれだ。
 深い綿雲に閉ざされた闇の中を、霰(あられ)の群れが途切れては押し寄せ、途切れては押し寄せて、手稲山から白石の方へと秋さびた大原野を駈け通った。小躍(こおど)りするような音を夜更けた札幌の板屋根は反響したが、その音のけたたましさにも似ず、寂寞(せきばく)は深まった。霰(あられ)……北国に住み慣れた人は誰でも、この小賢(こざ)かしい冬の先駆の蹄(ひずめ)の音の淋しさを知っていよう。
 白官舎の窓――西洋窓を格子のついた腰高窓に改造した――の多くは死人の眼のように暗かったが、東の端(はず)れの三つだけは光っていた。十二時少し前に、星野の部屋の戸がたてられて灯が消えた。間もなく西山と柿江とのいる部屋の破れ障子が開いて、西山がそこから頭を突きだして空を見上げながら、大きな声で柿江に何か物を言った。柿江が出てきて、西山と頭をならべた。二人は大きな声をたてて笑った。そして戸をたてた。灯が消えた。
 二階の園の部屋は前から戸をたててあったが、その隙間から光が漏(も)れていた。針のように縦に細長い光が。
 霰はいつか降りやんでいた。地の底に滅入(めい)りこむような寒い寂寞(せきばく)がじっと立ちすくんでいた。
 農学校の大時計が一時をうち、二時をうち、三時をうった。遠い遠い所で遠吠えをする犬があった。そのころになって園の部屋の灯は消えた。
 気づかれのした若い寡婦(かふ)ははじめて深い眠りに落ちた。
     *    *    *
「おたけさんのクレオパトラの眼がトロンコになったよ。もう帰りたまえ。星野のいない留守に伴れてきたりすると、帰ってから妬(や)かれるから」
「柿江、貴様(きさま)はローランの首をちょん切った死刑執行人が何んという名前の男だったか知っているか」
 前のは人見が座を立ちそうにしながら、抱きよせたクレオパトラの小さな頭を撫(な)でつつ、にやりと愛嬌(あいきょう)笑(わら)いをしているおたけにいった言葉だが、それをおっ被(かぶ)せるように次の言葉は西山が放った。めちゃくちゃだった。けれども西山は愉快だった。隅の方で、西山が図書館から借りてきたカアライルの仏蘭西(フランス)革命史をめくっていた園が、ふと顔を上げて、まじまじと西山の方を見続けていた。濛々(もうもう)と立ち罩(こ)めた煙草(たばこ)の烟(けむり)と、食い荒した林檎(りんご)と駄菓子。
 柿江は腹をぺったんこに二つに折って、胡坐(あぐら)の膝で貧乏ゆすりをしながら、上眼使いに指の爪を噛(か)んでいた。
 ほど遠い所から聞こえてくる鈍い砲声、その間に時々竹を破るように響く小銃、早拍子な流行歌を唄いつれて、往来をあてもなく騒ぎ廻る女房連や町の子の群れ、志士やごろつきで賑(にぎわ)いかえる珈琲(コーヒー)店、大道演説、三色旗、自由帽、サン・キュロット、ギヨティン、そのギヨティンの形になぞらえて造った玩具や菓子、囚人馬車、護民兵の行進……それが興奮した西山の頭の中で跳(は)ね躍っていた。いっしょに演説した奴らの顔、声、西山自身の手振り、声……それも。
「おい、何とか言いな、柿江」
「貴様の演説が一番よかったよ」
 柿江は爪を噛みつづけたまま、上眼と横眼とをいっしょにつかって、ちらっと西山を見上げながら、途轍(とてつ)もなくこんなことをいった。
 猿みたいだった。少しそねんでいることが知れる。西山は無頓着であろうとした。
「そんなことを聞いているんじゃない。知らずば教えてつかわそう。サムソンというんだ」
 綺麗な疳高(かんだか)い、少し野趣(やしゅ)を帯びた笑声が弾(はじ)けるように響いた。皆んながおたけの方を見た。人見がこごみ加減に何か話しかけていた。異名ガンベ(ガンベッタの略称)の渡瀬がすぐその側にいて、声を出さずに、醜い顔じゅうを笑いにしていた。
「皆んなちょっと聴(き)けちょっと聴け、人見が今西山の真似(まね)をしているから……うまいもんだ」
 ガンベが両手を高くさし上げて、手の先だけを「お出でお出で」のように振り動かした。部屋じゅうが一時静になった。
 声の色はまるで違っていた。人見はしかし西山の癖だけは腹立たしいほどよく呑みこんでいた。
「けれどもです、仏国革命の血はむだに流されはしなかった。人間全体の解放ではなかったかしれない。商工業者のために一般の人民は利用されたのだったかしれない。けれどもです、貴族と富豪と僧侶とは確実にこの地面の上から、この……地面の上から一掃(いっそう)され……」
「ばか! 幇間(ほうかん)じみた真似をするない」
 西山は呶鳴(どな)らないではいられなかった。今日の演説を座興も座興、一人の女を意識に上せて座興にしようとしている人見の軽薄さにはまったく腹が立った。第一似すぎるほど似ているのが癪(しゃく)に障(さわ)った。
「けれどもだ、まったくうまいもんだな」
 ガンベがそういった。そうして一同が高く笑い崩れるにしたがって、片方の牡蠣(かき)のように盲(めし)いた眼までを輝かして顔だけでめちゃめちゃに笑った。
 西山はせきこんでうっかり「けれどもだ」と言おうとしたが、危くそれを呑みこんだ。そしていった。
「俺は不愉快だよこの場合。俺は今日は練習のために演説をやったんじゃないからな。冗談と冗談でない時とはちっと区別して考えるがいいんだ」
 園が西山のいきまくのを少し恥じるように書物の方に眼を移した。おたけはぎごちなさそうに人見から少し座をしざった。たった今までの愉快さは西山から逃げていった。西山自身があまりな心のはずみ方に少し不安を抱きはじめた時ではあったが……
「それはそうだ。ひとつ西山のいったことを話題にして話し合ってみよう」
 いつも部屋の中でも帽子を取ることをしない小さな森村が、眉と眉との間をびくびく動かしながら、乾ききった唇を大事そうに開け閉(た)てした。
「私もう帰りますわ」
 おたけはきゅうにつつましくなった。肉感的に帯の上にもれ上った乳房をせめるようにして手をついていた。西山のけんまくに少し怖れを催(もよお)したらしい。クレオパトラは七歳になったばかりの大きな水晶のような眼を眠そうにしばたたいて、座中の顔を一つ一つ見廻わしていた。
「誰か送ってやれ」
 人見が送りたがっているのを知っているから西山はこういった。人見には送らせたくなかったのだ。西山にそういわれると人見はたった今の失敗で懲(こ)りたらしく自分を薦(すす)めようとはしなかった。
 送り手の資格について六人の青年の間にしばらく冗談口(じょうだんぐち)が交わされた。六人といっても園だけは何んにもいわなかった。ガンベがいった。
「一番資格のない俺の発言を尊重しろ。人見の奴は口を拭(ぬぐ)っていやがるが貴様は偽善者だからなあ。柿江は途中で道を間違えるに違いないしと。西山、貴様はまた天からだめだ。気まぐれだから送り狼(おおかみ)に化けぬとも限らんよ。おたけさん、まあ一番安全なのは小人森村で、一番思いやりの深いものは聖人園だが、どっちにするかい」
 おたけは送ってもらわないでもいいといって、森村と園とを等分に流し眄(め)で見やった。西山はもう万事そんなことに興味を失ってしまった。園が送ることになっておたけといっしょに座を立っていった。その時星野からの葉書を自分の側に坐っていた柿江に何かいいながら手渡した。
 とにかく一人の娘の見送手などに選ばれるというのはブルジョア風の名誉にすぎない。
「園にはいやにブルジョア臭いところがあるね」
 自分の言葉が侮蔑的(ぶべつてき)に発せられたのを西山は感じた。
「そりゃ貴様、氏と生れださ。貴様のような信州の山猿、俺のようなたたき大工の倅には考えられないこった。ブルジョアといえば森村も生れは土百姓のくせにいやに臭いな」
 ガンベはつけつけこういった。
 けれどもおたけがいなくなると部屋の調子がいわば一オクターヴ低くなった。その代り誰も彼もが、より誰も彼もらしくなった。会話は自然に纏まって本筋に流れこんだ。人見は軽い機智の使いどころがなくなって蔭に廻った。西山の気分はまた前どおりの黙って坐ってはいられないような興奮に帰っていった。
「そうかなあ」
 三時下(さんときさが)ってから独語(ひとりごと)のような返事をして、森村は眠そうな薄眼をしながらすましていた。
 マラーは彼が宮殿と呼ぶ襤褸籠(ぼろかご)のような借家の浴室で、湯にひたりながら書きものをしている。その眼の前の壁には、学校で使い古したらしい仏蘭西(フランス)の大掛図(おおかけず)が、皺くちゃのまま貼りつけてある。突然玄関の方で、彼の情婦が、聞き慣れない美しい声を持った婦人と烈(はげ)しくいい争っているけはいがする。マラーはしばらくの間眉をひそめて聞耳を立てていたが、仰向(あおむけ)に浴漕に浸っているままで大声に情婦を呼びたてる。そして聞き慣れない美しい声の持主というのはジロンド党員の陰謀を密告するために、わざわざカンヌから彼を訪れたのだといって、昨日以来面会を求めている年の若い婦人だと知れる。その婦人に対してある好奇心が動く。破格の面会を許す。
 もうそこにはマラーはいない。醜(みにく)い死骸(しがい)になって、浴槽から半身を乗りだしたまま、その胸は短剣に貫かれて横(よこた)わっている。カンヌから来たという美しい処女シャーロット・コルデーは血の気の失せた唇から「私は自分の仕事を仕遂(しと)げてしまった。今度はあなた方の仕事をする番が来た」と言いながら、悪魔のように殺気立った群衆に取り囲まれて保安裁判所に引かれていく……
 仏国革命に現われでる代表的人物の中でことに気に入ったマラーの最後のありさまは、これだけ込み入った光景をただ一瞬間に集めて、ともすれば西山の頭にまざまざと浮びでた。それは西山にとってはどっちから見てもこの上なく厳粛(げんしゅく)な壮美な印象(イメージ)だった。西山はしばしばそれに駆(か)りたてられた。
「そうかなあ」と森村が言ったあとに、言い合わしたような沈黙が来た。その時西山の頭をこの印象が強く占領した。
「西山は本当に東京に行くつもりなのか」
 睫(まつげ)の明かなくなったような眼の上に皺を寄せながら森村は西山の方に向いた。それが部屋の沈黙をわずかに破った。西山は声よりも首でよけいうなずいた。今までのばか騒ぎに似(に)ず、すべての顔には今までのばか騒ぎに似ぬまじめさと緊張さとが描かれた。
「学資はどうする」
 渡瀬が泣きだすとも笑いだすともしれないような顔をした。稀(まれ)にではあるが彼もその奇怪な性格の中からみごとなものを顔まで浮きださせることがある。その時の顔だ。
 西山はそれを感ずると妙に感傷的にさせられていた。
「労働者になるつもりでいればどうにかなるだろう」
 もう一度長い沈黙が来た。
「貴様は夢を見ているんじゃあるまいな」
 と渡瀬がついに本気になって口を開き始めた。
「今日の演説を聞きながらもそう思ったんだが、社会運動なんてことは実際をいうと、余裕のある人間がすることじゃないかな。ブルジョア気分のものじゃないかな。俺なんかはそんなことは考えもしないがなあ。学問だって俺ゃ勘定ずくでしているんだ。むりでも何んでも大学程度の学問だけはしておかないと、これからはうそだと思うもんだから俺はこうやっているんで、学問の尊厳(そんげん)なんて、そんなものがあるもんかい。それは余裕のある手合いがいうことだ。照り降りなしに一生涯家族まで養おうというにはこれが一番元資(もとで)のかからない近道なんだ。俺にはそれ以上を考える余裕はないよ。俺と同じ境遇の人間を救ってやるの、来るべき時代をどうするのというような余裕は俺には正直なところ出てこないよ。……貴様このカアライルにでもかぶれているととんだ間違いになるぜ。貴様の考えはばかに平民的だが、考え方……考えじゃない、考え方だ……その考え方にどこかブルジョア臭いところがあるんじゃないかなあ」
 人見はおかしな男だった。西山には何んとなく気を兼ねていたが、西山がどうかすると受身になりたがるガンベの渡瀬に対してつけつけと無遠慮をいった。つまり三人は三すくみのような関係にあったのだ。
「新井田の細君の所に行って酒ばかり飲んでうだっているくせに余裕がないはすさまじいぜ」
「貴様はそれだからいけねえ。あれも勘定ずくでやっている仕事なんだ。いまに御利益(ごりやく)が顕(あら)われるから見てろ」
「じゃここに来て油を売るのも勘定ずくなのか」
「ばかあいえ。俺だって貴様、俺だって貴様……とにかく貴様みたいな偽善者(ぎぜんしゃ)は千篇一律(せんぺんいちりつ)だからだめだよ……なあ西山」
 牡蠣(かき)のような片目が特別に光って西山の方に飛んできた。不思議だった。西山は涙を感じた。
 森村が眠そうな顔をしながら会心の笑みのようなものを漏(も)らした。そしてしびれでも切らしたようにゆっくり立ち上って、ろくろく挨拶もせずに帰っていった。十時近いことが知れた。森村はどんなことがあっても十時にはきっと寝る男だったから。西山の演説を主題にして論じようといっておきながら、知らん顔をして帰っていった。
「ガンベのいうことはそりゃあんまり偽悪的じゃないか。そうだろう。俺が今日いったような考えはすべての階級の人間が多少ずつは持ってるんだ。そう俺は思うな――というより断言できる。俺は何しろ星野に今日の演説を聞いてもらいたかった。とにかく俺はやってみる。こんな処で神妙に我慢していることはもう俺には、どうしてもできんよ。ちっとやそっとの横文字の読める百姓になったところで貴様、それが何んの足しになるかさ。東京に行ってひとつ俺は暴(あば)れ放題に暴れるだ。何をやったっても人間一生だ。手ごたえのある処にいって暴れてみないじゃ腹の虫が承知しないからな。けれどもだ。ペンタゴンなんか相手にしていたんじゃなあ……柿江なんぞも、田舎新聞にひとりよがりな投書ぐらい載せてもらって得意になっていないで、ちっと眼を高所大所に向けてみろ。……何んといってもそこに行くと星野は話せるよ」
 ガンベは実際どこかに堅実なところがあって、それが言葉になるとうっかり矢面には立てなかった。今の言葉にも西山はちょっとたじろいたので、いっそう心の奥のありさまそのままを誰を相手ともなくいい放った。それはかえって彼の心をすがすがしくした。そして演壇に立って以来鎮まらずにいる熱い血液が、またもや音を立てて皮膚の下を力強く流れるのを感じた。
 西山は奇行の多い一人の暴れ者として教師からも同窓からも取り扱われ、勉強はするが、さして独創的なところのない青年として見られているのを知っていた。彼は何んとなくその中に軽侮(けいぶ)を投げられているような気がして、その裏書を否定するような言動をことさらに試みていたのだが、今日の演説と今の言葉とで、それをはっきり言い現わしたのを感じた時、心臓へのある力の注入を自覚せずにはいられなかった。生涯の進路の出発点が始めて定まったと思えた。彼の周囲が彼を見なおしたのは、彼が彼の周囲を見なおす結果になっていた。たとえばおたけだ。おたけが星野に対して特別な好意を示すのを見極めたある夜に、彼は一晩じゅう寝なかったことがあった。愚かな屈辱(くつじょく)……ところが今日は人見がおたけを意識しながら彼の演説の真似をしたりするのを見ると、ある忌(いま)わしい羨望(せんぼう)の代りに唾棄(だき)すべき奴だと思わずにはいられなくなっていた。女性――彼を待っている女性は一人よりいない。そしてその一人はおたけなどとどの点においても比較になるような人ではなかった。それがゆえに彼の未来を切り開いて、自分の立場に一日でも早く立ち上がろうとする焦躁(しょうそう)は激しくなった。万事につけて彼の気持はそんな風に動いていった。
 突然柿江が能弁(のうべん)になった。彼が能弁になるのは一種の発作(ほっさ)で、無害な犬が突然恐水病にかかるようなものだ。じくじくと考えている彼の眼がきゅうに輝きだして、湯気(ゆげ)を立てんばかりな平べったい脂手が、空を切って眼もとまらぬ手真似の早業(はやわざ)を演ずる。そういう時仲間のものは黙ってそれが自然に収まるのを待っているよりほかはない。彼は貧乏ゆすりをしながら園から受取った星野の葉書を手脂だらけにして丸めたり延ばしたりしていた。それを棒のように振り廻わし始めた。
 高所大所(こうしょたいしょ)とはいったい何を意味するつもりだというところから柿江は始めた。高所は札幌の片隅にもある、大所は女郎屋(じょろや)の廻し部屋にもあると叫んだ。よく聞けよく聞けといって彼はだんだん西山の方に乗りだしていった。西山は自分の机に腰をかけたまま受太刀になってあっけに取られてそれを眺めていなければならなかった。
「教授の手にある講義のノートに手垢(てあか)が溜(た)まるというのは名誉なことじゃない。クラーク、クラークとこの学校の創立者の名を咒文(じゅもん)のように称(とな)えるのが名誉なことじゃない。当世の学問なるものが畢竟(ひっきょう)何に役立つかを考えてみないのは名誉なことじゃない。現代の社会生活の中心問題が那辺(なへん)にあるかを知らないのは名誉なことじゃない。それを知って他を語るのはさらに名誉なことじゃない。日清戦争以来日本は世界の檜舞台に乗りだした。この機運に際して老人が我々青年を指導することができなければ、青年が老人を指導しなければならない。これでありえねばあれだ。停滞していることは断じてできない。……言葉は俺の方が上手(じょうず)だが、貴様もそんなことを言ったな。けれども貴様、それは漫罵(まんば)だ。貴様はいったい何を提唱した。つまりくだらないから俺はこんな沈滞した小っぽけな田舎にはいないと言うただけじゃないか。なるほど貴様は社会主義労働運動の急を大声疾呼(たいせいしっこ)したさ。けれども、貴様の大声疾呼の後ろはからっぽだったじゃないか。そうだとも。よく聞け。ガンベの眼玉みたいなもんだ。神経の連絡が……大脳と眼球との神経の連絡が(ガンベが『貴様は』といって力自慢の拳を振り上げた。柿江は本当に恐ろしがって招き猫のような恰好をした)乱暴はよせよ。……貴様の議論には、その議論を統一する哲学的背景がまったく欠けてるんだ。軽薄な……」
「何が軽薄だ。軽薄とは貴様のように自分にも訳の判(わか)らない高尚ぶったことをいいながら実行力の伴(ともな)わないのを軽薄というんだ。けれどもだ、俺はとにかく実行はしているぞ。哲学はその後に生れてくるものなんだ」
 西山は軽薄という言葉を聞くと癪(しゃく)にさわったが、柿江の長談義を打ち切るつもりで威(おど)かし気味にこういった。
 けれども柿江はほとんど泥酔者(でいすいしゃ)のようになってしまっていた。その薄い唇は言葉を巧妙に刻みだす鋭い刃物のように眼まぐるしく動いた。人見はいつの間にかこそこそと二階の自分の部屋に行ってしまった。
 そこに園が静かにはいってきた。夜寒で赤らんだ頬を両手で撫でながら、笑みかけようとしたらしかったが、少し殺気だったその場の様子にすぐ気がついたらしく、部屋の隅をぐるっと廻って窓の方に行って坐った。
 柿江はまだ続けていた。西山はもう実際うるさくなった。自分の生活とは何んの関係もない一つの空想的な生活が石ころのようにそこに転がっているように思った。
「寒いか」
 戸外の方を頤(あご)でしゃくりながら、柿江には頓着(とんちゃく)なく園に尋ねた。
 その拍子に柿江がぷっつりと黙った。憑(つ)いていた狐が落ちでもしたように。そしてきまり悪るげにそこにいた三人の顔に眼を走らすと慌てて爪を噛みはじめた。
「渡瀬君まだいたんだね。僕はもし帰ってしまうといけないと思ってかなり急いだ」
「おたけさんから何か伝言(ことづけ)があったろう」
「いいえ」
 園はまるでおとなしい子供のようににこついた。
「柿江君さっきの葉書はどうしたろう。渡瀬君に見せてくれたの」
 笑うべきことが持ち上っていた。星野の葉書は柿江の手の中に揉みくだかれて、鼠色の襤褸屑(ぼろくず)のようになって、林檎(りんご)の皮なぞの散らかっている間に撒(ま)き散らされていた。
「困るなあ、それにね、三隅のおぬいさんの稽古を君に頼みたいからと書いてあったんだのに……それだから渡瀬君に渡してくれって頼んでおいたじゃないか」
「君にとは俺にかい」
 園に顔を見つめられながら、半分は剽軽(ひょうきん)から、半分は実際合点がいかない風でガンベは聞き返した。法螺(ほら)吹で、頭のいいことは無類で、礼儀知らずで、大酒呑で、間歇的(かんけつてき)な勉強家で、脱線の名人で、不敵な道楽者……ガンベはそういう男だったのだから、少なくとも人が彼をそう見ていることを知っていたから。
「そうだ、君にだ」
 そう園のいうのを聞くと、ガンベは指の短かい、そして恐ろしく掌の厚ぼったい両手を発矢(はっし)と打ち合せて、胡坐(あぐら)のまま躍り上がりながら顔をめちゃくちゃにした。
「星野って奴は西山、貴様づれよりやはり偉いぞ」
 西山は日ごろの口軽に似ず返答に困った。西山が星野を推賞した、その矛(ほこ)を逆まにしてガンベは切りこんできた。星野が衆評などをまったく眼中におかないで、いきなり物の中心を見徹していくその心の腕の冴(さ)えかたにたじろいたのだ。しかたなしに彼は方向転換をした。そして、
「園君、君が最初に頼まれたんだろう」
 と搦手(からめて)からガンベの陣容を崩そうとした。
「いいえ別に、僕は手紙をおぬいさんにとどけるように頼まれただけだった」
 それが園の落ち着いた答えだった。
「俺が札幌にいりゃ、この幕は貴様なんぞに出しゃばらしてはおかなかったんだが」
 そういって西山は取ってつけたように傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に高笑いするよりのがれ道がなかった。
 柿江は三人の顔にかわるがわる眼をやりながら爪をかみ続けていた。あのままで行くと狂癲(きちがい)にでもなるんではないかとふと西山は思った。とにかく夜は更けていった。何かそこには気のぬけたようなものがあった。六年近く兄弟以上の親しさで暮してきたこの男たちとも別れねばならぬ四辻に立つようになった……その淡い無常を感じて、机からぬっくと立ち上りながら西山は高笑いを収めた。そして大きな欠伸(あくび)をした。
     *    *    *
 その時清逸は茶の間に母といっしょにいたのだが、おせいの綿入を縫っていた母は針を置いて迎えに立っていった。清逸は膝の上に新井白石の「折焚く柴の記」を載せて読んでいた。年老いた父が今麦稈(むぎわら)帽子を釘(くぎ)にひっかけている。十月になっても被りつづけている麦稈帽子、それは狐が化(ば)けたような色をしている。そしてそれは父が自分の家族のためにどれほど身をつめているかを人に見せびらかすシムボルなのだ。清逸はそれをまざまざと感ずることができた。そればかりではない。今日の父は用向きがまったく失敗に終ったこと、父が侮蔑(ぶべつ)だと思いこみそうなことを先方からいわれて胸を悪くして帰ってきたこと、それをも手に取るように感ずることができた。清逸にはその結果は前から分っていることだった。
 わざとらしい咳払(せきばら)いを先立てて襖(ふすま)を開き、畳が腐りはしないかと思われるほど常住坐(じょうじゅうすわ)りっきりなその座になおると、顔じゅうをやたら無性に両手で擦り廻わして、「いやどうも」といった。それは父が何か軽い気分になった時いつでもいう言葉だ。しかしそれを今日はてれ隠しにいっている。
 母が立ったついでにラムプを提げてはいってきた。そしてそれを部屋の真中にぶらさがっている不器用な針金の自在鍵(じざいかぎ)にかけながら、
「降られはしなかったけえ」と尋ねた。
「なに」
 といったぎりでまた顔を撫でた。と、思いだしたように探りを入れるような大きな眼を母の方にやりながら、
「時雨(しぐ)れた時分にはちょうど先方にいたもんだから何んともなかった」
 とつけ加えた。父は一度も清逸の方を見ようとはしない。
 札幌のような静かな処に比べてさえ、七里隔(へだ)たったこの山中は滅入(めい)るほど淋しいものだった。ことに日の暮には。千歳川の川音だけが淙々(そうそう)と家のすぐ後ろに聞こえていた。清逸は煮えきらない部屋の空気を身に感じながら、その川音に耳をひかれた。こっちの方から話の糸口を引きだして、父の失敗が気にかけるほどのものではないのを納得させたものだろうか、それとも話の出ないのをいいことにしてうやむやにすましてしまったものだろうかと考えた。久しぶりで戸外に出た父は、むだ話の材料をしこたま持って帰っているに違いない。思出話ばかりを繰り返している反動に、それを一つ一つ持ちだされるのは清逸にはちょっと我慢のできないことらしかった。さらぬだにいらいらしがちな気分と、消耗熱(しょうもうねつ)のために我慢が薄くなっているのとで、清逸はそれを恐れた。清逸はつまらぬこととは思いながら白石の父の賢明さを思い浮べた。父子で身にしみじみと話しこんで顔にとまった蚊が血に飽きすぎて、ぽたりと膝の上に落ちるまで払いもせずにいたという、そういう父子の間柄であったのを思い浮べた。その挿話は前から清逸の心を強く牽(ひ)いていたものだった。
 父は煙草をのんではしきりに吐月峰(とげっぽう)をたたいた。母も黙ったまま針を取り上げている。
 店の方に物を買いに来た人があった。母はすぐ立っていった。
「どうもやはり北海道米はなあ増(ふ)えが悪るうて。したら内地米の方に……何等どこにしますかなあ」
 買手の声は聞こえないけれども、母のそういう声ははっきりと聞こえた。父は例の探りを入れるような眼をちょっとそっちに向けた。そしてこの機会にと思ったか始めて清逸の眼をさけるようにしながら忙がしく話しかけた。

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