或る女
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著者名:有島武郎 

 東京に帰ってから叔母(おば)と五十川(いそがわ)女史の所へは帰った事だけを知らせては置いたが、どっちからも訪問は元よりの事一言半句(いちごんはんく)の挨拶(あいさつ)もなかった。責めて来るなり慰めて来るなり、なんとかしそうなものだ。あまりといえば人を踏みつけにしたしわざだとは思ったけれども、葉子としては結句それがめんどうがなくっていいとも思った。そんな人たちに会っていさくさ口をきくよりも、古藤と話しさえすればその口裏(くちうら)から東京の人たちの心持ちも大体はわかる。積極的な自分の態度はその上で決めてもおそくはないと思案した。
 双鶴館(そうかくかん)の女将(おかみ)はほんとうに目から鼻に抜けるように落ち度なく、葉子の影身(かげみ)になって葉子のために尽くしてくれた。その後ろには倉地がいて、あのいかにも疎大らしく見えながら、人の気もつかないような綿密な所にまで気を配って、采配を振っているのはわかっていた。新聞記者などがどこをどうして探り出したか、始めのうちは押し強く葉子に面会を求めて来たのを、女将(おかみ)が手ぎわよく追い払ったので、近づきこそはしなかったが遠巻きにして葉子の挙動に注意している事などを、女将は眉(まゆ)をひそめながら話して聞かせたりした。木部の恋人であったという事がひどく記者たちの興味をひいたように見えた。葉子は新聞記者と聞くと、震え上がるほどいやな感じを受けた。小さい時分に女記者になろうなどと人にも口外した覚えがあるくせに、探訪などに来る人たちの事を考えるといちばん賤(いや)しい種類の人間のように思わないではいられなかった。仙台(せんだい)で、新聞社の社長と親佐(おやさ)と葉子との間に起こった事として不倫な捏造(ねつぞう)記事(葉子はその記事のうち、母に関してはどのへんまでが捏造(ねつぞう)であるか知らなかった。少なくとも葉子に関しては捏造(ねつぞう)だった)が掲載されたばかりでなく、母のいわゆる寃罪(えんざい)は堂々と新聞紙上で雪(すす)がれたが、自分のはとうとうそのままになってしまった、あの苦い経験などがますます葉子の考えを頑(かたく)なにした。葉子が「報正新報」の記事を見た時も、それほど田川夫人が自分を迫害しようとするなら、こちらもどこかの新聞を手に入れて田川夫人に致命傷を与えてやろうかという(道徳を米の飯と同様に見て生きているような田川夫人に、その点に傷を与えて顔出しができないようにするのは容易な事だと葉子は思った)企(たくら)みを自分ひとりで考えた時でも、あの記者というものを手なずけるまでに自分を堕落させたくないばかりにその目論見(もくろみ)を思いとどまったほどだった。
 その朝も倉地と葉子とは女将(おかみ)を話相手に朝飯を食いながら新聞に出たあの奇怪な記事の話をして、葉子がとうにそれをちゃんと知っていた事などを談(かた)り合いながら笑ったりした。
「忙しいにかまけて、あれはあのままにしておったが……一つはあまり短兵急にこっちから出しゃばると足もとを見やがるで、……あれはなんとかせんとめんどうだて」
 と倉地はがらっと箸(はし)を膳(ぜん)に捨てながら、葉子から女将に目をやった。
「そうですともさ。下らない、あなた、あれであなたのお職掌(しょくしょう)にでもけちが付いたらほんとうにばかばかしゅうござんすわ。報正新報社にならわたし御懇意の方も二人(ふたり)や三人はいらっしゃるから、なんならわたしからそれとなくお話ししてみてもようございますわ。わたしはまたお二人とも今まであんまり平気でいらっしゃるんで、もうなんとかお話がついたのだとばかり思ってましたの」
 と女将は怜(さか)しそうな目に真味な色を見せてこういった。倉地は無頓着(むとんじゃく)に「そうさな」といったきりだったが、葉子は二人(ふたり)の意見がほぼ一致したらしいのを見ると、いくら女将(おかみ)が巧みに立ち回ってもそれをもみ消す事はできないといい出した。なぜといえばそれは田川夫人が何か葉子を深く意趣に思ってさせた事で、「報正新報」にそれが現われたわけは、その新聞が田川博士の機関新聞だからだと説明した。倉地は田川と新聞との関係を始めて知ったらしい様子で意外な顔つきをした。
「おれはまた興録(こうろく)のやつ……あいつはべらべらしたやつで、右左のはっきりしない油断のならぬ男だから、あいつの仕事かとも思ってみたが、なるほどそれにしては記事の出かたが少し早すぎるて」
 そういってやおら立ち上がりながら次の間に着かえに行った。
 女中が膳部(ぜんぶ)を片づけ終わらぬうちに古藤が来たという案内があった。
 葉子はちょっと当惑した。あつらえておいた衣類がまだできないのと、着具合がよくって、倉地からもしっくり似合うとほめられるので、その朝も芸者のちょいちょい着(ぎ)らしい、黒繻子(くろじゅす)の襟(えり)の着いた、伝法(でんぽう)な棒縞(ぼうじま)の身幅(みはば)の狭い着物に、黒繻子と水色匹田(ひった)の昼夜帯(ちゅうやおび)をしめて、どてらを引っかけていたばかりでなく、髪までやはり櫛巻(くしま)きにしていたのだった。えゝ、いい構うものか、どうせ鼻をあかさせるならのっけからあかさせてやろう、そう思って葉子はそのままの姿で古藤を待ち構えた。
 昔のままの姿で、古藤は旅館というよりも料理屋といったふうの家の様子に少し鼻じろみながらはいって来た。そうして飛び離れて風体(ふうてい)の変わった葉子を見ると、なおさら勝手が違って、これがあの葉子なのかというように、驚きの色を隠し立てもせずに顔に現わしながら、じっとその姿を見た。
「まあ義一さんしばらく。お寒いのね。どうぞ火鉢(ひばち)によってくださいましな。ちょっと御免くださいよ」そういって、葉子はあでやかに上体だけを後ろにひねって、広蓋(ひろぶた)から紋付きの羽織(はおり)を引き出して、すわったままどてらと着直した。なまめかしいにおいがその動作につれてひそやかに部屋(へや)の中に動いた。葉子は自分の服装がどう古藤に印象しているかなどを考えてもみないようだった。十年も着慣れたふだん着(ぎ)できのうも会ったばかりの弟のように親しい人に向かうようなとりなしをした。古藤はとみには口もきけないように思い惑っているらしかった。多少垢(あか)になった薩摩絣(さつまがすり)の着物を着て、観世撚(かんぜより)の羽織紐(ひも)にも、きちんとはいた袴(はかま)にも、その人の気質が明らかに書き記(しる)してあるようだった。
「こんなでたいへん変な所ですけれどもどうか気楽(きらく)になさってくださいまし。それでないとなんだか改まってしまってお話がしにくくっていけませんから」
 心置きない、そして古藤を信頼している様子を巧みにもそれとなく気取(けど)らせるような葉子の態度はだんだん古藤の心を静めて行くらしかった。古藤は自分の長所も短所も無自覚でいるような、そのくせどこかに鋭い光のある目をあげてまじまじと葉子を見始めた。
「何より先にお礼。ありがとうございました妹たちを。おととい二人でここに来てたいへん喜んでいましたわ」
「なんにもしやしない、ただ塾(じゅく)に連れて行って上げただけです。お丈夫ですか」
 古藤はありのままをありのままにいった。そんな序曲的な会話を少し続けてから葉子はおもむろに探り知っておかなければならないような事柄(ことがら)に話題を向けて行った。
「今度こんなひょんな事でわたしアメリカに上陸もせず帰って来る事になったんですが、ほんとうをおっしゃってくださいよ、あなたはいったいわたしをどうお思いになって」
 葉子は火鉢(ひばち)の縁(ふち)に両肘(ひじ)をついて、両手の指先を鼻の先に集めて組んだりほどいたりしながら、古藤の顔に浮かび出るすべての意味を読もうとした。
「えゝ、ほんとうをいいましょう」
 そう決心するもののように古藤はいってからひと膝(ひざ)乗り出した。
「この十二月に兵隊に行かなければならないものだから、それまでに研究室の仕事を片づくものだけは片づけて置こうと思ったので、何もかも打ち捨てていましたから、このあいだ横浜からあなたの電話を受けるまでは、あなたの帰って来られたのを知らないでいたんです。もっとも帰って来られるような話はどこかで聞いたようでしたが。そして何かそれには重大なわけがあるに違いないとは思っていましたが。ところがあなたの電話を切るとまもなく木村君の手紙が届いて来たんです。それはたぶん絵島丸より一日か二日早く大北(たいほく)汽船会社の船が着いたはずだから、それが持って来たんでしょう。ここに持って来ましたが、それを見て僕(ぼく)は驚いてしまったんです。ずいぶん長い手紙だからあとで御覧になるなら置いて行きましょう。簡単にいうと(そういって古藤はその手紙の必要な要点を心の中で整頓(せいとん)するらしくしばらく黙っていたが)木村君はあなたが帰るようになったのを非常に悲しんでいるようです。そしてあなたほど不幸な運命にもてあそばれる人はない。またあなたほど誤解を受ける人はない。だれもあなたの複雑な性格を見窮めて、その底にある尊い点を拾い上げる人がないから、いろいろなふうにあなたは誤解されている。あなたが帰るについては日本でも種々さまざまな風説が起こる事だろうけれども、君だけはそれを信じてくれちゃ困る。それから……あなたは今でも僕の妻だ……病気に苦しめられながら、世の中の迫害を存分に受けなければならないあわれむべき女だ。他人がなんといおうと君だけは僕を信じて……もしあなたを信ずることができなければ僕を信じて、あなたを妹だと思ってあなたのために戦ってくれ……ほんとうはもっと最大級の言葉が使ってあるのだけれども大体そんな事が書いてあったんです。それで……」
「それで?」
 葉子は目の前で、こんがらがった糸が静かにほごれて行くのを見つめるように、不思議な興味を感じながら、顔だけは打ち沈んでこう促した。
「それでですね。僕はその手紙に書いてある事とあなたの電話の『滑稽(こっけい)だった』という言葉とをどう結び付けてみたらいいかわからなくなってしまったんです。木村の手紙を見ない前でもあなたのあの電話の口調には……電話だったせいかまるでのんきな冗談口のようにしか聞こえなかったものだから……ほんとうをいうとかなり不快を感じていた所だったのです。思ったとおりをいいますから怒(おこ)らないで聞いてください」
「何を怒(おこ)りましょう。ようこそはっきりおっしゃってくださるわね。あれはわたしもあとでほんとうにすまなかったと思いましたのよ。木村が思うようにわたしは他人の誤解なんぞそんなに気にしてはいないの。小さい時から慣れっこになってるんですもの。だから皆さんが勝手なあて推量(ずいりょう)なぞをしているのが少しは癪(しゃく)にさわったけれども、滑稽(こっけい)に見えてしかたがなかったんですのよ。そこにもって来て電話であなたのお声が聞こえたもんだから、飛び立つようにうれしくって思わずしらずあんな軽はずみな事をいってしまいましたの。木村から頼まれて私の世話を見てくださった倉地という事務長の方(かた)もそれはきさくな親切な人じゃありますけれども、船で始めて知り合いになった方(かた)だから、お心安立(こころやすだ)てなんぞはできないでしょう。あなたのお声がした時にはほんとうに敵の中から救い出されたように思ったんですもの……まあしかしそんな事は弁解するにも及びませんわ。それからどうなさって?」
 古藤は例の厚い理想の被(かつぎ)の下から、深く隠された感情が時々きらきらとひらめくような目を、少し物惰(ものたる)げに大きく見開いて葉子の顔をつれづれと見やった。初対面の時には人並みはずれて遠慮がちだったくせに、少し慣れて来ると人を見徹(みとお)そうとするように凝視するその目は、いつでも葉子に一種の不安を与えた。古藤の凝視にはずうずうしいという所は少しもなかった。また故意にそうするらしい様子も見えなかった。少し鈍と思われるほど世事(せじ)にうとく、事物のほんとうの姿を見て取る方法に暗いながら、まっ正直に悪意なくそれをなし遂げようとするらしい目つきだった。古藤なんぞに自分の秘密がなんであばかれてたまるものかと多寡(たか)をくくりつつも、その物軟(ものやわ)らかながらどんどん人の心の中にはいり込もうとするような目つきにあうと、いつか秘密のどん底を誤たずつかまれそうな気がしてならなかった。そうなるにしてもしかしそれまでには古藤は長い間忍耐して待たなければならないだろう、そう思って葉子は一面小気味よくも思った。
 こんな目で古藤は、明らかな疑いを示しつつ葉子を見ながら、さらに語り続けた所によれば、古藤は木村の手紙を読んでから思案に余って、その足ですぐ、まだ釘店(くぎだな)の家の留守番をしていた葉子の叔母(おば)の所を尋ねてその考えを尋ねてみようとしたところが、叔母は古藤の立場がどちらに同情を持っているか知れないので、うっかりした事はいわれないと思ったか、何事も打ち明けずに、五十川(いそがわ)女史に尋ねてもらいたいと逃げを張ったらしい。古藤はやむなくまた五十川女史を訪問した。女史とは築地(つきじ)のある教会堂の執事の部屋(へや)で会った。女史のいう所によると、十日ほど前に田川夫人の所から船中における葉子の不埒(ふらち)を詳細に知らしてよこした手紙が来て、自分としては葉子のひとり旅を保護し監督する事はとても力に及ばないから、船から上陸する時もなんの挨拶(あいさつ)もせずに別れてしまった。なんでもうわさで聞くと病気だといってまだ船に残っているそうだが、万一そのまま帰国するようにでもなったら、葉子と事務長との関係は自分たちが想像する以上に深くなっていると断定してもさしつかえない。せっかく依頼を受けてその責めを果たさなかったのは誠にすまないが、自分たちの力では手に余るのだから推恕(すいじょ)していただきたいと書いてあった。で、五十川女史は田川夫人がいいかげんな捏造(ねつぞう)などする人でないのをよく知っているから、その手紙を重(おも)だった親類たちに示して相談した結果、もし葉子が絵島丸で帰って来たら、回復のできない罪を犯したものとして、木村に手紙をやって破約を断行させ、一面には葉子に対して親類一同は絶縁する申し合わせをしたという事を聞かされた。そう古藤は語った。
「僕(ぼく)はこんな事を聞かされて途方に暮れてしまいました。あなたはさっきから倉地というその事務長の事を平気で口にしているが、こっちではその人が問題になっているんです。きょうでも僕(ぼく)はあなたにお会いするのがいいのか悪いのかさんざん迷いました。しかし約束ではあるし、あなたから聞いたらもっと事柄もはっきりするかと思って、思いきって伺う事にしたんです。……あっちにたった一人(ひとり)いて五十川(いそがわ)さんから恐ろしい手紙を受け取らなければならない木村君を僕は心から気の毒に思うんです。もしあなたが誤解の中にいるんなら聞かせてください。僕はこんな重大な事を一方口(いっぽうぐち)で判断したくはありませんから」
 と話を結んで古藤は悲しいような表情をして葉子を見つめた。小癪(こしゃく)な事をいうもんだと葉子は心の中で思ったけれども、指先でもてあそびながら少し振り仰いだ顔はそのままに、あわれむような、からかうような色をかすかに浮かべて、
「えゝ、それはお聞きくださればどんなにでもお話はしましょうとも。けれども天からわたしを信じてくださらないんならどれほど口をすっぱくしてお話をしたってむだね」
「お話を伺ってから信じられるものなら信じようとしているのです僕は」
「それはあなた方(がた)のなさる学問ならそれでようござんしょうよ。けれども人情ずくの事はそんなものじゃありませんわ。木村に対してやましいことはいたしませんといったってあなたがわたしを信じていてくださらなければ、それまでのものですし、倉地さんとはお友だちというだけですと誓った所が、あなたが疑っていらっしゃればなんの役にも立ちはしませんからね。……そうしたもんじゃなくって?」
「それじゃ五十川さんの言葉だけで僕にあなたを判断しろとおっしゃるんですか」
「そうね。……それでもようございましょうよ。とにかくそれはわたしが御相談を受ける事柄じゃありませんわ」
 そういってる葉子の顔は、言葉に似合わずどこまでも優しく親しげだった。古藤はさすがに怜(さか)しく、こうもつれて来た言葉をどこまでも追おうとせずに黙ってしまった。そして「何事も明らさまにしてしまうほうがほんとうはいいのだがな」といいたげな目つきで、格別虐(しいた)げようとするでもなく、葉子が鼻の先で組んだりほどいたりする手先を見入った。そうしたままでややしばらくの時が過ぎた。
 十一時近いこのへんの町並みはいちばん静かだった。葉子はふと雨樋(あまどい)を伝う雨だれの音を聞いた。日本に帰ってから始めて空はしぐれていたのだ。部屋(へや)の中は盛んな鉄びんの湯気(ゆげ)でそう寒くはないけれども、戸外は薄ら寒い日和(ひより)になっているらしかった。葉子はぎごちない二人(ふたり)の間の沈黙を破りたいばかりに、ひょっと首をもたげて腰窓のほうを見やりながら、
「おやいつのまにか雨になりましたのね」
 といってみた。古藤はそれには答えもせずに、五分(ぶ)刈りの地蔵頭(じぞうあたま)をうなだれて深々(ふかぶか)とため息をした。
「僕はあなたを信じきる事ができればどれほど幸いだか知れないと思うんです。五十川さんなぞより僕はあなたと話しているほうがずっと気持ちがいいんです。それはあなたが同じ年ごろで、――たいへん美しいというためばかりじゃないと(その時古藤はおぼこらしく顔を赤らめていた)思っています。五十川さんなぞはなんでも物を僻目(ひがめ)で見るから僕はいやなんです。けれどもあなたは……どうしてあなたはそんな気象でいながらもっと大胆に物を打ち明けてくださらないんです。僕(ぼく)はなんといってもあなたを信ずる事ができません。こんな冷淡な事をいうのを許してください。しかしこれにはあなたにも責めがあると僕は思いますよ。……しかたがない僕は木村君にきょうあなたと会ったこのままをいってやります。僕にはどう判断のしようもありませんもの……しかしお願いしますがねえ。木村君があなたから離れなければならないものなら、一刻でも早くそれを知るようにしてやってください。僕は木村君の心持ちを思うと苦しくなります」
「でも木村は、あなたに来たお手紙によるとわたしを信じきってくれているのではないんですか」
 そう葉子にいわれて、古藤はまた返す言葉もなく黙ってしまった。葉子は見る見る非常に興奮して来たようだった。抑(おさ)え抑えている葉子の気持ちが抑えきれなくなって激しく働き出して来ると、それはいつでも惻々(そくそく)として人に迫り人を圧した。顔色一つ変えないで元のままに親しみを込めて相手を見やりながら、胸の奥底の心持ちを伝えて来るその声は、不思議な力を電気のように感じて震えていた。
「それで結構。五十川(いそがわ)のおばさんは始めからいやだいやだというわたしを無理に木村に添わせようとして置きながら、今になってわたしの口から一言(ひとこと)の弁解も聞かずに、木村に離縁を勧めようという人なんですから、そりゃわたし恨みもします。腹も立てます。えゝ、わたしはそんな事をされて黙って引っ込んでいるような女じゃないつもりですわ。けれどもあなたは初手(しょて)からわたしに疑いをお持ちになって、木村にもいろいろ御忠告なさった方(かた)ですもの、木村にどんな事をいっておやりになろうともわたしにはねっから不服はありませんことよ。……けれどもね、あなたが木村のいちばん大切な親友でいらっしゃると思えばこそ、わたしは人一倍あなたをたよりにしてきょうもわざわざこんな所まで御迷惑を願ったりして、……でもおかしいものね、木村はあなたも信じわたしも信じ、わたしは木村も信じあなたも信じ、あなたは木村は信ずるけれどもわたしを疑って……そ、まあ待って……疑ってはいらっしゃりません。そうです。けれども信ずる事ができないでいらっしゃるんですわね……こうなるとわたしは倉地さんにでもおすがりして相談相手になっていただくほかしようがありません。いくらわたし娘の時から周囲(まわり)から責められ通しに責められていても、今だに女手一つで二人(ふたり)の妹まで背負って立つ事はできませんからね。……」
 古藤は二重に折っていたような腰を立てて、少しせきこんで、
「それはあなたに不似合いな言葉だと僕は思いますよ。もし倉地という人のためにあなたが誤解を受けているのなら……」
 そういってまだ言葉を切らないうちに、もうとうに横浜に行ったと思われていた倉地が、和服のままで突然六畳の間にはいって来た。これは葉子にも意外だったので、葉子は鋭く倉地に目くばせしたが、倉地は無頓着(むとんじゃく)だった。そして古藤のいるのなどは度外視した傍若無人(ぼうじゃくぶじん)さで、火鉢(ひばち)の向こう座にどっかとあぐらをかいた。
 古藤は倉地を一目見るとすぐ倉地と悟ったらしかった。いつもの癖で古藤はすぐ極度に固くなった。中断された話の続きを持ち出しもしないで、黙ったまま少し伏(ふ)し目になってひかえていた。倉地は古藤から顔の見えないのをいい事に、早く古藤を返してしまえというような顔つきを葉子にして見せた。葉子はわけはわからないままにその注意に従おうとした。で、古藤の黙ってしまったのをいい事に、倉地と古藤とを引き合わせる事もせずに自分も黙ったまま静かに鉄びんの湯を土(ど)びんに移して、茶を二人(ふたり)に勧めて自分も悠々(ゆうゆう)と飲んだりしていた。
 突然古藤は居ずまいをなおして、
「もう僕は帰ります。お話は中途ですけれどもなんだか僕はきょうはこれでおいとまがしたくなりました。あとは必要があったら手紙を書きます」
 そういって葉子にだけ挨拶(あいさつ)して座を立った。葉子は例の芸者のような姿のままで古藤を玄関まで送り出した。
「失礼しましてね、ほんとうにきょうは。もう一度でようございますからぜひお会いになってくださいましな。一生のお願いですから、ね」
 と耳打ちするようにささやいたが古藤はなんとも答えず、雨の降り出したのに傘も借りずに出て行った。
「あなたったらまずいじゃありませんか、なんだってあんな幕に顔をお出しなさるの」
 こうなじるようにいって葉子が座につくと、倉地は飲み終わった茶(ちゃ)わんを猫板(ねこいた)の上にとんと音をたてて伏せながら、
「あの男はお前、ばかにしてかかっているが、話を聞いていると妙に粘り強い所があるぞ。ばかもあのくらいまっすぐにばかだと油断のできないものなのだ。も少し話を続けていてみろ、お前のやり繰りでは間に合わなくなるから。いったいなんでお前はあんな男をかまいつける必要があるんか、わからないじゃないか。木村にでも未練があれば知らない事」
 こういって不敵に笑いながら押し付けるように葉子を見た。葉子はぎくりと釘(くぎ)を打たれたように思った。倉地をしっかり握るまでは木村を離してはいけないと思っている胸算用を倉地に偶然にいい当てられたように思ったからだ。しかし倉地がほんとうに葉子を安心させるためには、しなければならない大事な事が少なくとも一つ残っている。それは倉地が葉子と表向(おもてむ)き結婚のできるだけの始末をして見せる事だ。手っ取り早くいえばその妻を離縁する事だ。それまではどうしても木村をのがしてはならない。そればかりではない、もし新聞の記事などが問題になって、倉地が事務長の位置を失うような事にでもなれば、少し気の毒だけれども木村を自分の鎖から解き放さずにおくのが何かにつけて便宜でもある。葉子はしかし前の理由はおくびにも出さずにあとの理由を巧みに倉地に告げようと思った。
「きょうは雨になったで出かけるのが大儀(たいぎ)だ。昼には湯豆腐でもやって寝てくれようか」
 そういって早くも倉地がそこに横になろうとするのを葉子はしいて起き返らした。

       二六

「水戸(みと)とかでお座敷に出ていた人だそうですが、倉地さんに落籍(ひか)されてからもう七八年にもなりましょうか、それは穏当ないい奥さんで、とても商売をしていた人のようではありません。もっとも水戸の士族のお娘御(むすめご)で出るが早いか倉地さんの所にいらっしゃるようになったんだそうですからそのはずでもありますが、ちっともすれていらっしゃらないでいて、気もおつきにはなるし、しとやかでもあり、……」
 ある晩双鶴館(そうかくかん)の女将(おかみ)が話に来て四方山(よもやま)のうわさのついでに倉地の妻の様子を語ったその言葉は、はっきりと葉子の心に焼きついていた。葉子はそれが優(すぐ)れた人であると聞かされれば聞かされるほど妬(ねた)ましさを増すのだった。自分の目の前には大きな障害物がまっ暗に立ちふさがっているのを感じた。嫌悪(けんお)の情にかきむしられて前後の事も考えずに別れてしまったのではあったけれども、仮にも恋らしいものを感じた木部に対して葉子がいだく不思議な情緒、――ふだんは何事もなかったように忘れ果ててはいるものの、思いも寄らないきっかけにふと胸を引き締めて巻き起こって来る不思議な情緒、――一種の絶望的なノスタルジア――それを葉子は倉地にも倉地の妻にも寄せて考えてみる事のできる不幸を持っていた。また自分の生んだ子供に対する執着。それを男も女も同じ程度にきびしく感ずるものかどうかは知らない。しかしながら葉子自身の実感からいうと、なんといってもたとえようもなくその愛着は深かった。葉子は定子を見ると知らぬ間(ま)に木部に対して恋に等しいような強い感情を動かしているのに気がつく事がしばしばだった。木部との愛着の結果定子が生まれるようになったのではなく、定子というものがこの世に生まれ出るために、木部と葉子とは愛着のきずなにつながれたのだとさえ考えられもした。葉子はまた自分の父がどれほど葉子を溺愛(できあい)してくれたかをも思ってみた。葉子の経験からいうと、両親共いなくなってしまった今、慕わしさなつかしさを余計感じさせるものは、格別これといって情愛の徴(しるし)を見せはしなかったが、始終軟(やわ)らかい目色で自分たちを見守ってくれていた父のほうだった。それから思うと男というものも自分の生ませた子供に対しては女に譲らぬ執着を持ちうるものに相違ない。こんな過去の甘い回想までが今は葉子の心をむちうつ笞(しもと)となった。しかも倉地の妻と子とはこの東京にちゃんと住んでいる。倉地は毎日のようにその人たちにあっているのに相違ないのだ。
 思う男をどこからどこまで自分のものにして、自分のものにしたという証拠を握るまでは、心が責めて責めて責めぬかれるような恋愛の残虐な力に葉子は昼となく夜となく打ちのめされた。船の中での何事も打ち任せきったような心やすい気分は他人事(ひとごと)のように、遠い昔の事のように悲しく思いやられるばかりだった。どうしてこれほどまでに自分というものの落ちつき所を見失ってしまったのだろう。そう思う下から、こうしては一刻もいられない。早く早くする事だけをしてしまわなければ、取り返しがつかなくなる。どこからどう手をつければいいのだ。敵を斃(たお)さなければ、敵は自分を斃(たお)すのだ。なんの躊躇(ちゅうちょ)。なんの思案。倉地が去った人たちに未練を残すようならば自分の恋は石や瓦(かわら)と同様だ。自分の心で何もかも過去はいっさい焼き尽くして見せる。木部もない、定子もない。まして木村もない。みんな捨てる、みんな忘れる。その代わり倉地にも過去という過去をすっかり忘れさせずにおくものか。それほどの蠱惑(こわく)の力と情熱の炎とが自分にあるかないか見ているがいい。そうしたいちずの熱意が身をこがすように燃え立った。葉子は新聞記者の来襲を恐れて宿にとじこもったまま、火鉢(ひばち)の前にすわって、倉地の不在の時はこんな妄想(もうそう)に身も心もかきむしられていた。だんだん募って来るような腰の痛み、肩の凝り。そんなものさえ葉子の心をますますいらだたせた。
 ことに倉地の帰りのおそい晩などは、葉子は座にも居(い)たたまれなかった。倉地の居間(いま)になっている十畳の間(ま)に行って、そこに倉地の面影(おもかげ)を少しでも忍ぼうとした。船の中での倉地との楽しい思い出は少しも浮かんで来ずに、どんな構えとも想像はできないが、とにかく倉地の住居(すまい)のある部屋(へや)に、三人の娘たちに取り巻かれて、美しい妻にかしずかれて杯を干している倉地ばかりが想像に浮かんだ。そこに脱ぎ捨ててある倉地のふだん着はますます葉子の想像をほしいままにさせた。いつでも葉子の情熱を引っつかんでゆすぶり立てるような倉地特有の膚の香(にお)い、芳醇(ほうじゅん)な酒や、煙草(たばこ)からにおい出るようなその香(にお)いを葉子は衣類をかき寄せて、それに顔を埋(うず)めながら、痲痺(まひ)して行くような気持ちでかぎにかいだ。その香(にお)いのいちばん奥に、中年の男に特有なふけのような不快な香(にお)い、他人ののであったなら葉子はひとたまりもなく鼻をおおうような不快な香(にお)いをかぎつけると、葉子は肉体的にも一種の陶酔を感じて来るのだった。その倉地が妻や娘たちに取り巻かれて楽しく一夕(せき)を過ごしている。そう思うとあり合わせるものを取って打(ぶ)ちこわすか、つかんで引き裂きたいような衝動がわけもなく嵩(こう)じて来るのだった。
 それでも倉地が帰って来ると、それは夜おそくなってからであっても葉子はただ子供のように幸福だった。それまでの不安や焦躁はどこにか行ってしまって、悪夢から幸福な世界に目ざめたように幸福だった。葉子はすぐ走って行って倉地の胸にたわいなく抱かれた。倉地も葉子を自分の胸に引き締めた。葉子は広い厚い胸に抱かれながら、単調な宿屋の生活の一日中に起こった些細(ささい)な事までを、その表情のゆたかな、鈴のような涼しい声で、自分を楽しませているもののごとく語った。倉地は倉地でその声に酔いしれて見えた。二人(ふたり)の幸福はどこに絶頂があるのかわからなかった。二人だけで世界は完全だった。葉子のする事は一つ一つ倉地の心がするように見えた。倉地のこうありたいと思う事は葉子があらかじめそうあらせていた。倉地のしたいと思う事は、葉子がちゃんとし遂げていた。茶わんの置き場所まで、着物のしまい所(どころ)まで、倉地は自分の手でしたとおりを葉子がしているのを見いだしているようだった。
「しかし倉地は妻や娘たちをどうするのだろう」
 こんな事をそんな幸福の最中にも葉子は考えない事もなかった。しかし倉地の顔を見ると、そんな事は思うも恥ずかしいような些細(ささい)な事に思われた。葉子は倉地の中にすっかりとけ込んだ自分を見いだすのみだった。定子までも犠牲にして倉地をその妻子から切り放そうなどいうたくらみはあまりにばからしい取り越し苦労であるのを思わせられた。
「そうだ生まれてからこのかたわたしが求めていたものはとうとう来(こ)ようとしている。しかしこんな事がこう手近にあろうとはほんとうに思いもよらなかった。わたしみたいなばかはない。この幸福の頂上が今だとだれか教えてくれる人があったら、わたしはその瞬間に喜んで死ぬ。こんな幸福を見てから下り坂にまで生きているのはいやだ。それにしてもこんな幸福でさえがいつかは下り坂になる時があるのだろうか」
 そんな事を葉子は幸福に浸りきった夢心地の中に考えた。
 葉子が東京に着いてから一週間目に、宿の女将(おかみ)の周旋で、芝(しば)の紅葉館(こうようかん)と道一つ隔てた苔香園(たいこうえん)という薔薇(ばら)専門の植木屋の裏にあたる二階建ての家を借りる事になった。それは元紅葉館の女中だった人がある豪商の妾(めかけ)になったについて、その豪商という人が建ててあてがった一構(ひとかま)えだった。双鶴館(そうかくかん)の女将(おかみ)はその女と懇意の間だったが、女に子供が幾人かできて少し手ぜま過ぎるので他所(よそ)に移転しようかといっていたのを聞き知っていたので、女将のほうで適当な家をさがし出してその女を移らせ、そのあとを葉子が借りる事に取り計らってくれたのだった。倉地が先に行って中の様子を見て来て、杉林(すぎばやし)のために少し日当たりはよくないが、当分の隠れ家(が)としては屈強だといったので、すぐさまそこに移る事に決めたのだった。だれにも知れないように引っ越さねばならぬというので、荷物を小わけして持ち出すのにも、女将(おかみ)は自分の女中たちにまで、それが倉地の本宅に運ばれるものだといって知らせた。運搬人はすべて芝(しば)のほうから頼んで来た。そして荷物があらかた片づいた所で、ある夜おそく、しかもびしょびしょと吹き降りのする寒い雨風のおりを選んで葉子は幌車(ほろぐるま)に乗った。葉子としてはそれほどの警戒をするには当たらないと思ったけれども、女将(おかみ)がどうしてもきかなかった。安全な所に送り込むまではいったんお引き受けした手まえ、気がすまないといい張った。
 葉子があつらえておいた仕立ておろしの衣類を着かえているとそこに女将(おかみ)も来合わせて脱ぎ返しの世話を見た。襟(えり)の合わせ目をピンで留めながら葉子が着がえを終えて座につくのを見て、女将はうれしそうにもみ手をしながら、
「これであすこに大丈夫着いてくださりさえすればわたしは重荷が一つ降りると申すものです。しかしこれからがあなたは御大抵(ごたいてい)じゃこざいませんね。あちらの奥様の事など思いますと、どちらにどうお仕向けをしていいやらわたしにはわからなくなります。あなたのお心持ちもわたしは身にしみてお察し申しますが、どこから見ても批点の打ちどころのない奥様のお身の上もわたしには御不憫(ごふびん)で涙がこぼれてしまうんでございますよ。でね、これからの事についちゃわたしはこう決めました。なんでもできます事ならと申し上げたいんでございますけれども、わたしには心底(しんそこ)をお打ち明け申しました所、どちら様にも義理が立ちませんから、薄情でもきょうかぎりこのお話には手をひかせていただきます。……どうか悪くお取りになりませんようにね……どうもわたしはこんなでいながら甲斐性(かいしょう)がございませんで……」
 そういいながら女将(おかみ)は口をきった時のうれしげな様子にも似ず、襦袢(じゅばん)の袖(そで)を引き出すひまもなく目に涙をいっぱいためてしまっていた。葉子にはそれが恨めしくも憎くもなかった。ただ何となく親身(しんみ)な切(せつ)なさが自分の胸にもこみ上げて来た。
「悪く取るどころですか。世の中の人が一人(ひとり)でもあなたのような心持ちで見てくれたら、わたしはその前に泣きながら頭を下げてありがとうございますという事でしょうよ。これまでのあなたのお心尽くしでわたしはもう充分。またいつか御恩返しのできる事もありましょう。……それではこれで御免くださいまし。お妹御(いもうとご)にもどうか着物のお礼をくれぐれもよろしく」
 少し泣き声になってそういいながら、葉子は女将(おかみ)とその妹分(ぶん)にあたるという人に礼心(れいごころ)に置いて行こうとする米国製の二つの手携(てさ)げをしまいこんだ違(ちが)い棚(だな)をちょっと見やってそのまま座を立った。
 雨風のために夜はにぎやかな往来もさすがに人通りが絶え絶(だ)えだった。車に乗ろうとして空を見上げると、雲はそう濃くはかかっていないと見えて、新月の光がおぼろに空を明るくしている中をあらし模様の雲が恐ろしい勢いで走っていた。部屋(へや)の中の暖かさに引きかえて、湿気を充分に含んだ風は裾前(すそまえ)をあおってぞくぞくと膚に逼(せま)った。ばたばたと風になぶられる前幌(まえほろ)を車夫がかけようとしているすきから、女将(おかみ)がみずみずしい丸髷(まるまげ)を雨にも風にも思うまま打たせながら、女中のさしかざそうとする雨傘(あまがさ)の陰に隠れようともせず、何か車夫にいい聞かせているのが大事らしく見やられた。車夫が梶棒(かじぼう)をあげようとする時女将(おかみ)が祝儀袋をその手に渡すのが見えた。
「さようなら」
「お大事に」
 はばかるように車の内外(うちそと)から声がかわされた。幌(ほろ)にのしかかって来る風に抵抗しながら車は闇(やみ)の中を動き出した。
 向かい風がうなりを立てて吹きつけて来ると、車夫は思わず車をあおらせて足を止めるほどだった。この四五日火鉢(ひばち)の前ばかりにいた葉子に取っては身を切るかと思われるような寒さが、厚い膝(ひざ)かけの目まで通して襲って来た。葉子は先ほど女将(おかみ)の言葉を聞いた時にはさほどとも思っていなかったが、少しほどたった今になってみると、それがひしひしと身にこたえるのを感じ出した。自分はひょっとするとあざむかれている、もてあそびものにされている。倉地はやはりどこまでもあの妻子と別れる気はないのだ。ただ長い航海中の気まぐれから、出来心に自分を征服してみようと企てたばかりなのだ。この恋のいきさつが葉子から持ち出されたものであるだけに、こんな心持ちになって来ると、葉子は矢もたてもたまらず自分にひけ目を覚えた。幸福――自分が夢想していた幸福がとうとう来たと誇りがに喜んだその喜びはさもしいぬか喜びに過ぎなかったらしい。倉地は船の中でと同様の喜びでまだ葉子を喜んではいる。それに疑いを入れよう余地はない。けれども美しい貞節な妻と可憐(かれん)な娘を三人まで持っている倉地の心がいつまで葉子にひかされているか、それをだれが語り得よう、葉子の心は幌(ほろ)の中に吹きこむ風の寒さと共に冷えて行った。世の中からきれいに離れてしまった孤独な魂がたった一つそこには見いだされるようにも思えた。どこにうれしさがある、楽しさがある。自分はまた一つの今までに味わわなかったような苦悩の中に身を投げ込もうとしているのだ。またうまうまといたずら者の運命にしてやられたのだ。それにしてももうこの瀬戸ぎわから引く事はできない。死ぬまで……そうだ死んでもこの苦しみに浸りきらずに置くものか。葉子には楽しさが苦しさなのか、苦しさが楽しさなのか、全く見さかいがつかなくなってしまっていた。魂を締め木にかけてその油でもしぼりあげるようなもだえの中にやむにやまれぬ執着を見いだしてわれながら驚くばかりだった。
 ふと車が停(と)まって梶棒(かじぼう)がおろされたので葉子ははっと夢心地(ごこち)からわれに返った。恐ろしい吹き降りになっていた。車夫が片足で梶棒を踏まえて、風で車のよろめくのを防ぎながら、前幌(まえほろ)をはずしにかかると、まっ暗だった前方からかすかに光がもれて来た。頭の上ではざあざあと降りしきる雨の中に、荒海の潮騒(しおざい)のような物すごい響きが何か変事でもわいて起こりそうに聞こえていた。葉子は車を出ると風に吹き飛ばされそうになりながら、髪や新調の着物のぬれるのもかまわず空を仰いで見た。漆(うるし)を流したような雲で固くとざされた雲の中に、漆(うるし)よりも色濃くむらむらと立ち騒いでいるのは古い杉(すぎ)の木立(こだ)ちだった。花壇らしい竹垣(たけがき)の中の灌木(かんぼく)の類は枝先を地につけんばかりに吹きなびいて、枯れ葉が渦(うず)のようにばらばらと飛び回っていた。葉子はわれにもなくそこにべったりすわり込んでしまいたくなった。
「おい早くはいらんかよ、ぬれてしまうじゃないか」
 倉地がランプの灯(ひ)をかばいつつ家の中からどなるのが風に吹きちぎられながら聞こえて来た。倉地がそこにいるという事さえ葉子には意外のようだった。だいぶ離れた所でどたんと戸か何かはずれたような音がしたと思うと、風はまた一しきりうなりを立てて杉叢(すぎむら)をこそいで通りぬけた。車夫は葉子を助けようにも梶棒(かじぼう)を離れれば車をけし飛ばされるので、提灯(ちょうちん)の尻(しり)を風上(かざかみ)のほうに斜(しゃ)に向けて目八分(ぶ)に上げながら何か大声に後ろから声をかけていた。葉子はすごすごとして玄関口に近づいた。一杯きげんで待ちあぐんだらしい倉地の顔の酒ほてりに似ず、葉子の顔は透き通るほど青ざめていた。なよなよとまず敷き台に腰をおろして、十歩ばかり歩くだけで泥(どろ)になってしまった下駄(げた)を、足先で手伝いながら脱ぎ捨てて、ようやく板の間(ま)に立ち上がってから、うつろな目で倉地の顔をじっと見入った。
「どうだった寒かったろう。まあこっちにお上がり」
 そう倉地はいって、そこに出合わしていた女中らしい人に手ランプを渡すと華車(きゃしゃ)な少し急な階子段(はしごだん)をのぼって行った。葉子は吾妻(あずま)コートも脱がずにいいかげんぬれたままで黙ってそのあとからついて行った。
 二階の間(ま)は電燈で昼間(ひるま)より明るく葉子には思われた。戸という戸ががたぴしと鳴りはためいていた。板葺(ぶ)きらしい屋根に一寸釘(くぎ)でもたたきつけるように雨が降りつけていた。座敷の中は暖かくいきれて、飲み食いする物が散らかっているようだった。葉子の注意の中にはそれだけの事がかろうじてはいって来た。そこに立ったままの倉地に葉子は吸いつけられるように身を投げかけて行った。倉地も迎え取るように葉子を抱いたと思うとそのままそこにどっかとあぐらをかいた。そして自分のほてった頬(ほお)を葉子のにすり付けるとさすがに驚いたように、
「こりゃどうだ冷えたにも氷のようだ」
 といいながらその顔を見入ろうとした。しかし葉子は無性(むしょう)に自分の顔を倉地の広い暖かい胸に埋(うず)めてしまった。なつかしみと憎しみとのもつれ合った、かつて経験しない激しい情緒がすぐに葉子の涙を誘い出した。ヒステリーのように間歇的(かんけつてき)にひき起こるすすり泣きの声をかみしめてもかみしめてもとめる事ができなかった。葉子はそうしたまま倉地の胸で息気(いき)を引き取る事ができたらと思った。それとも自分のなめているような魂のもだえの中に倉地を巻き込む事ができたらばとも思った。
 いそいそと世話女房らしく喜び勇んで二階に上がって来る葉子を見いだすだろうとばかり思っていたらしい倉地は、この理由も知れぬ葉子の狂体に驚いたらしかった。
「どうしたというんだな、え」
 と低く力をこめていいながら、葉子を自分の胸から引き離そうとするけれども、葉子はただ無性にかぶりを振るばかりで、駄々児(だだっこ)のように、倉地の胸にしがみついた。できるならその肉の厚い男らしい胸をかみ破って、血みどろになりながらその胸の中に顔を埋めこみたい――そういうように葉子は倉地の着物をかんだ。
 徐(しず)かにではあるけれども倉地の心はだんだん葉子の心持ちに染められて行くようだった。葉子をかき抱(いだ)く倉地の腕の力は静かに加わって行った。その息気(いき)づかいは荒くなって来た。葉子は気が遠くなるように思いながら、締め殺すほど引きしめてくれと念じていた。そして顔を伏せたまま涙のひまから切れ切れに叫ぶように声を放った。
「捨てないでちょうだいとはいいません……捨てるなら捨ててくださってもようござんす……その代わり……その代わり……はっきりおっしゃってください、ね……わたしはただ引きずられて行くのがいやなんです……」
「何をいってるんだお前は……」
 倉地のかんでふくめるような声が耳もと近く葉子にこうささやいた。
「それだけは……それだけは誓ってください……ごまかすのはわたしはいや……いやです」
「何を……何をごまかすかい」
「そんな言葉がわたしはきらいです」
「葉子!」
 倉地はもう熱情に燃えていた。しかしそれはいつでも葉子を抱いた時に倉地に起こる野獣のような熱情とは少し違っていた。そこにはやさしく女の心をいたわるような影が見えた。葉子はそれをうれしくも思い、物足らなくも思った。
 葉子の心の中は倉地の妻の事をいい出そうとする熱意でいっぱいになっていた。その妻が貞淑な美しい女であると思えば思うほど、その人が二人(ふたり)の間にはさまっているのが呪(のろ)わしかった。たとい捨てられるまでも一度は倉地の心をその女から根こそぎ奪い取らなければ堪念(たんねん)ができないようなひたむきに狂暴な欲念が胸の中でははち切れそうに煮えくり返っていた。けれども葉子はどうしてもそれを口の端(は)に上(のぼ)せる事はできなかった。その瞬間に自分に対する誇りが塵芥(ちりあくた)のように踏みにじられるのを感じたからだ。葉子は自分ながら自分の心がじれったかった。倉地のほうから一言(ひとこと)もそれをいわないのが恨めしかった。倉地はそんな事はいうにも足らないと思っているのかもしれないが……いゝえそんな事はない、そんな事のあろうはずはない。倉地はやはり二股(ふたまた)かけて自分を愛しているのだ。男の心にはそんなみだらな未練があるはずだ。男の心とはいうまい、自分も倉地に出あうまでは、異性に対する自分の愛を勝手に三つにも四つにも裂いてみる事ができたのだ。……葉子はここにも自分の暗い過去の経験のために責めさいなまれた。進んで恋のとりことなったものが当然陥らなければならないたとえようのないほど暗く深い疑惑はあとからあとから口実を作って葉子を襲うのだった。葉子の胸は言葉どおりに張り裂けようとしていた。
 しかし葉子の心が傷(いた)めば傷(いた)むほど倉地の心は熱して見えた。倉地はどうして葉子がこんなにきげんを悪くしているのかを思い迷っている様子だった。倉地はやがてしいて葉子を自分の胸から引き放してその顔を強く見守った。
「何をそう理屈もなく泣いているのだ……お前はおれを疑(うたぐ)っているな」
 葉子は「疑わないでいられますか」と答えようとしたが、どうしてもそれは自分の面目(めんぼく)にかけて口には出せなかった。葉子は涙に解けて漂うような目を恨めしげに大きく開いて黙って倉地を見返した。
「きょうおれはとうとう本店から呼び出されたんだった。船の中での事をそれとなく聞きただそうとしおったから、おれは残らずいってのけたよ。新聞におれたちの事が出た時でもが、あわてるがものはないと思っとったんだ。どうせいつかは知れる事だ。知れるほどなら、大っぴらで早いがいいくらいのものだ。近いうちに会社のほうは首になろうが、おれは、葉子、それが満足なんだぞ。自分で自分の面(つら)に泥(どろ)を塗って喜んでるおれがばかに見えような」
 そういってから倉地は激しい力で再び葉子を自分の胸に引き寄せようとした。
 葉子はしかしそうはさせなかった。素早(すばや)く倉地の膝(ひざ)から飛びのいて畳の上に頬(ほお)を伏せた。倉地の言葉をそのまま信じて、素直(すなお)にうれしがって、心を涙に溶いて泣きたかった。しかし万一倉地の言葉がその場のがれの勝手な造り事だったら……なぜ倉地は自分の妻や子供たちの事をいっては聞かせてくれないのだ。葉子はわけのわからない涙を泣くより術(すべ)がなかった。葉子は突(つ)っ伏(ぷ)したままでさめざめと泣き出した。
 戸外のあらしは気勢を加えて、物すさまじくふけて行く夜を荒れ狂った。
「おれのいうた事がわからんならまあ見とるがいいさ。おれはくどい事は好(す)かんからな」
 そういいながら倉地は自分を抑制しようとするようにしいて落ち着いて、葉巻を取り上げて煙草盆(たばこぼん)を引き寄せた。
 葉子は心の中で自分の態度が倉地の気をまずくしているのをはらはらしながら思いやった。気をまずくするだけでもそれだけ倉地から離れそうなのがこの上なくつらかった。しかし自分で自分をどうする事もできなかった。
 葉子はあらしの中にわれとわが身をさいなみながらさめざめと泣き続けた。

       二七

「何をわたしは考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんな事はついぞない事だのに」
 葉子はその夜倉地と部屋(へや)を別にして床についた。倉地は階上に、葉子は階下に。絵島丸以来二人(ふたり)が離れて寝たのはその夜が始めてだった。倉地が真心(まごころ)をこめた様子でかれこれいうのを、葉子はすげなくはねつけて、せっかくとってあった二階の寝床を、女中に下に運ばしてしまった。横になりはしたがいつまでも寝つかれないで二時近くまで言葉どおりに輾転(てんてん)反側しつつ、繰り返し繰り返し倉地の夫婦関係を種々に妄想(もうそう)したり、自分にまくしかかって来る将来の運命をひたすらに黒く塗ってみたりしていた。それでも果ては頭もからだも疲れ果てて夢ばかりな眠りに陥ってしまった。
 うつらうつらとした眠りから、突然たとえようのないさびしさにひしひしと襲われて、――それはその時見た夢がそんな暗示になったのか、それとも感覚的な不満が目をさましたのかわからなかった――葉子は暗闇(くらやみ)の中に目を開いた。あらしのために電線に故障ができたと見えて、眠る時にはつけ放しにしておいた灯(ひ)がどこもここも消えているらしかった。あらしはしかしいつのまにか凪(な)ぎてしまって、あらしのあとの晩秋の夜はことさら静かだった。山内(さんない)いちめんの杉森(すぎもり)からは深山のような鬼気(きき)がしんしんと吐き出されるように思えた。こおろぎが隣の部屋のすみでかすれがすれに声を立てていた。わずかなしかも浅い睡眠には過ぎなかったけれども葉子の頭は暁前(まえ)の冷えを感じて冴(さ)え冴(ざ)えと澄んでいた。葉子はまず自分がたった一人(ひとり)で寝ていた事を思った。倉地と関係がなかったころはいつでも一人で寝ていたのだが、よくもそんな事が長年にわたってできたものだったと自分ながら不思議に思われるくらい、それは今の葉子を物足らなく心さびしくさせていた。こうして静かな心になって考えると倉地の葉子に対する愛情が誠実であるのを疑うべき余地はさらになかった。日本に帰ってから幾日にもならないけれども、今まではとにかく倉地の熱意に少しも変わりが起こった所は見えなかった。いかに恋に目がふさがっても、葉子はそれを見きわめるくらいの冷静な眼力(がんりき)は持っていた。そんな事は充分に知り抜いているくせに、おぞましくも昨夜のようなばかなまねをしてしまった自分が自分ながら不思議なくらいだった。どんなに情に激した時でもたいていは自分を見失うような事はしないで通して来た葉子にはそれがひどく恥ずかしかった。船の中にいる時にヒステリーになったのではないかと疑った事が二三度ある――それがほんとうだったのではないかしらんとも思われた。そして夜着にかけた洗い立てのキャリコの裏の冷え冷えするのをふくよかな頤(おとがい)に感じながら心の中で独語(ひとりご)ちた。
「何をわたしは考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんな事はついぞない事だのに」
 そういいながら葉子は肩だけ起き直って、枕(まくら)もとの水を手さぐりでしたたか飲みほした。氷のように冷えきった水が喉(のど)もとを静かに流れ下って胃の腑(ふ)に広がるまではっきりと感じられた。酒も飲まないのだけれども、酔後の水と同様に、胃の腑に味覚ができて舌の知らない味を味わい得たと思うほど快く感じた。それほど胸の中は熱を持っていたに違いない。けれども足のほうは反対に恐ろしく冷えを感じた。少しその位置を動かすと白さをそのままな寒い感じがシーツから逼(せま)って来るのだった。葉子はまたきびしく倉地の胸を思った。それは寒さと愛着とから葉子を追い立てて二階に走らせようとするほどだった。しかし葉子はすでにそれをじっとこらえるだけの冷静さを回復していた。倉地の妻に対する処置は昨夜のようであっては手ぎわよくは成し遂げられぬ。もっと冷たい知恵に力を借りなければならぬ――こう思い定めながら暁の白(しら)むのを知らずにまた眠りに誘われて行った。
 翌日葉子はそれでも倉地より先に目をさまして手早く着がえをした。自分で板戸を繰りあけて見ると、縁先には、枯れた花壇の草や灌木(かんぼく)が風のために吹き乱された小庭があって、その先は、杉(すぎ)、松、その他の喬木(きょうぼく)の茂みを隔てて苔香園(たいこうえん)の手広い庭が見やられていた。きのうまでいた双鶴館(そうかくかん)の周囲とは全く違った、同じ東京の内とは思われないような静かな鄙(ひな)びた自然の姿が葉子の目の前には見渡された。まだ晴れきらない狭霧(さぎり)をこめた空気を通して、杉の葉越しにさしこむ朝の日の光が、雨にしっとりと潤った庭の黒土の上に、まっすぐな杉の幹を棒縞(ぼうじま)のような影にして落としていた。色さまざまな桜の落ち葉が、日向(ひなた)では黄に紅(くれない)に、日影では樺(かば)に紫に庭をいろどっていた。いろどっているといえば菊の花もあちこちにしつけられていた。しかし一帯の趣味は葉子の喜ぶようなものではなかった。塵(ちり)一つさえないほど、貧しく見える瀟洒(しょうしゃ)な趣味か、どこにでも金銀がそのまま捨ててあるような驕奢(きょうしゃ)な趣味でなければ満足ができなかった。残ったのを捨てるのが惜しいとかもったいないとかいうような心持ちで、余計な石や植木などを入れ込んだらしい庭の造りかたを見たりすると、すぐさまむしり取って目にかからない所に投げ捨てたく思うのだった。その小庭を見ると葉子の心の中にはそれを自分の思うように造り変える計画がうずうずするほどわき上がって来た。
 それから葉子は家の中をすみからすみまで見て回った。きのう玄関口に葉子を出迎えた女中が、戸を繰る音を聞きつけて、いち早く葉子の所に飛んで来たのを案内に立てた。十八九の小ぎれいな娘で、きびきびした気象らしいのに、いかにも蓮(はす)っ葉(ぱ)でない、主人を持てば主人思いに違いないのを葉子は一目で見ぬいて、これはいい人だと思った。それはやはり双鶴館の女将(おかみ)が周旋してよこした、宿に出入りの豆腐屋の娘だった。つや(彼女の名はつやといった)は階子段(はしごだん)下の玄関に続く六畳の茶の間から始めて、その隣の床の間付きの十二畳、それから十二畳と廊下を隔てて玄関とならぶ茶席風(ふう)の六畳を案内し、廊下を通った突き当たりにある思いのほか手広い台所、風呂場(ふろば)を経て張り出しになっている六畳と四畳半(そこがこの家を建てた主人の居間となっていたらしく、すべての造作に特別な数寄(すき)が凝らしてあった)に行って、その雨戸を繰り明けて庭を見せた。そこの前栽は割合に荒れずにいて、ながめが美しかったが、葉子は垣根(かきね)越しに苔香園(たいこうえん)の母屋(おもや)の下の便所らしいきたない建て物の屋根を見つけて困ったものがあると思った。そのほかには台所のそばにつやの四畳半の部屋(へや)が西向きについていた。女中部屋を除いた五つの部屋はいずれもなげし付きになって、三つまでは床の間さえあるのに、どうして集めたものかとにかく掛け物なり置き物なりがちゃんと飾られていた。家の造りや庭の様子などにはかなりの注文も相当の眼識も持ってはいたが、絵画や書の事になると葉子はおぞましくも鑑識の力がなかった。生まれつき機敏に働く才気のお陰で、見たり聞いたりした所から、美術を愛好する人々と膝(ひざ)をならべても、とにかくあまりぼろらしいぼろは出さなかったが、若い美術家などがほめる作品を見てもどこが優(すぐ)れてどこに美しさがあるのか葉子には少しも見当のつかない事があった。絵といわず字といわず、文学的の作物などに対しても葉子の頭はあわれなほど通俗的であるのを葉子は自分で知っていた。しかし葉子は自分の負けじ魂から自分の見方が凡俗だとは思いたくなかった。芸術家などいう連中には、骨董(こっとう)などをいじくって古味(ふるみ)というようなものをありがたがる風流人と共通したような気取りがある。その似而非(えせ)気取りを葉子は幸いにも持ち合わしていないのだと決めていた。葉子はこの家に持ち込まれている幅物(ふくもの)を見て回っても、ほんとうの値打ちがどれほどのものだかさらに見当がつかなかった。ただあるべき所にそういう物のあることを満足に思った。
 つやの部屋のきちんと手ぎわよく片づいているのや、二三日空家(あきや)になっていたのにも係わらず、台所がきれいにふき掃除(そうじ)がされていて、布巾(ふきん)などが清々(すがすが)しくからからにかわかしてかけてあったりするのは一々葉子の目を快く刺激した。思ったより住まい勝手のいい家と、はきはきした清潔ずきな女中とを得た事がまず葉子の寝起きの心持ちをすがすがしくさせた。
 葉子はつやのくんで出したちょうどいいかげんの湯で顔を洗って、軽く化粧をした。昨夜の事などは気にもかからないほど心は軽かった。葉子はその軽い心を抱きながら静かに二階に上がって行った。何とはなしに倉地に甘えたいような、わびたいような気持ちでそっと襖(ふすま)を明けて見ると、あの強烈な倉地の膚の香(にお)いが暖かい空気に満たされて鼻をかすめて来た。葉子はわれにもなく駆けよって、仰向けに熟睡している倉地の上に羽(は)がいにのしかかった。
 暗い中で倉地は目ざめたらしかった。そして黙ったまま葉子の髪や着物から花(か)べんのようにこぼれ落ちるなまめかしい香(かお)りを夢心地(ごこち)でかいでいるようだったが、やがて物たるげに、
「もう起きたんか。何時(なんじ)だな」
 といった。まるで大きな子供のようなその無邪気さ。葉子は思わず自分の頬(ほお)を倉地のにすりつけると、寝起きの倉地の頬は火のように熱く感ぜられた。
「もう八時。……お起きにならないと横浜のほうがおそくなるわ」
 倉地はやはり物たるげに、袖口(そでぐち)からにょきんと現われ出た太い腕を延べて、短い散切(ざんぎ)り頭をごしごしとかき回しながら、
「横浜?……横浜にはもう用はないわい。いつ首になるか知れないおれがこの上の御奉公をしてたまるか。これもみんなお前のお陰だぞ。業(ごう)つくばりめ」
 といっていきなり葉子の首筋を腕にまいて自分の胸に押しつけた。
 しばらくして倉地は寝床を出たが、昨夜の事などはけろりと忘れてしまったように平気でいた。二人(ふたり)が始めて離れ離(ばな)れに寝たのにも一言(ひとこと)もいわないのがかすかに葉子を物足らなく思わせたけれども、葉子は胸が広々としてなんという事もなく喜ばしくってたまらなかった。で、倉地を残して台所におりた。自分で自分の食べるものを料理するという事にもかつてない物珍しさとうれしさとを感じた。

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