或る女
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著者名:有島武郎 

 と突拍子(とっぴょうし)もなくいった。あまりの不意に細君は目を見張って顔をあげた。
「まあほんとうに」
「はあほんとうに……しかも木村の所に行くようになりましたの。木村、御存じでしょう」
 細君がうなずいてなお仔細(しさい)を聞こうとすると、葉子は事もなげにさえぎって、
「だからきょうはお暇乞(いとまご)いのつもりでしたの。それでもそんな事はどうでもようございますわ。おじさんがお帰りになったらよろしくおっしゃってくださいまし、葉子はどんな人間になり下がるかもしれませんって……あなたどうぞおからだをお大事に。太郎(たろう)さんはまだ学校でございますか。大きくおなりでしょうね。なんぞ持って上がればよかったのに、用がこんなものですから」
 といいながら両手で大きな輪を作って見せて、若々しくほほえみながら立ち上がった。
 玄関に送って出た細君の目には涙がたまっていた。それを見ると、人はよく無意味な涙を流すものだと葉子は思った。けれどもあの涙も内田が無理無体にしぼり出させるようなものだと思い直すと、心臓の鼓動が止まるほど葉子の心はかっとなった。そして口びるを震わしながら、
「もう一言(ひとこと)おじさんにおっしゃってくださいまし、七度を七十倍はなさらずとも、せめて三度ぐらいは人の尤(とが)も許して上げてくださいましって。……もっともこれは、あなたのおために申しますの。わたしはだれにあやまっていただくのもいやですし、だれにあやまるのもいやな性分(しょうぶん)なんですから、おじさんに許していただこうとは頭(てん)から思ってなどいはしませんの。それもついでにおっしゃってくださいまし」
 口のはたに戯談(じょうだん)らしく微笑を見せながら、そういっているうちに、大濤(おおなみ)がどすんどすんと横隔膜につきあたるような心地(ここち)がして、鼻血でも出そうに鼻の孔(あな)がふさがった。門を出る時も口びるはなおくやしそうに震えていた。日は植物園の森の上に舂(うすず)いて、暮れがた近い空気の中に、けさから吹き出していた風はなぎた。葉子は今の心と、けさ早く風の吹き始めたころに、土蔵わきの小部屋(こべや)で荷造りをした時の心とをくらべて見て、自分ながら同じ心とは思い得なかった。そして門を出て左に曲がろうとしてふと道ばたの捨て石にけつまずいて、はっと目がさめたようにあたりを見回した。やはり二十五の葉子である。いゝえ昔たしかに一度けつまずいた事があった。そう思って葉子は迷信家のようにもう一度振り返って捨て石を見た。その時に日は……やはり植物園の森のあのへんにあった。そして道の暗さもこのくらいだった。自分はその時、内田の奥さんに内田の悪口をいって、ペテロとキリストとの間に取りかわされた寛恕(かんじょ)に対する問答を例に引いた。いゝえ、それはきょうした事だった。きょう意味のない涙を奥さんがこぼしたように、その時も奥さんは意味のない涙をこぼした。その時にも自分は二十五……そんな事はない。そんな事のあろうはずがない……変な……。それにしてもあの捨て石には覚えがある。あれは昔からあすこにちゃんとあった。こう思い続けて来ると、葉子は、いつか母と遊びに来た時、何か怒(おこ)ってその捨て石にかじり付いて動かなかった事をまざまざと心に浮かべた。その時は大きな石だと思っていたのにこれんぼっちの石なのか。母が当惑して立った姿がはっきり目先に現われた。と思うとやがてその輪郭が輝き出して、目も向けられないほど耀(かがや)いたが、すっと惜しげもなく消えてしまって、葉子は自分のからだが中有(ちゅうう)からどっしり大地におり立ったような感じを受けた。同時に鼻血がどくどく口から顎(あご)を伝って胸の合わせ目をよごした。驚いてハンケチを袂(たもと)から探り出そうとした時、
「どうかなさいましたか」
 という声に驚かされて、葉子は始めて自分のあとに人力車がついて来ていたのに気が付いた。見ると捨て石のある所はもう八九町後ろになっていた。
「鼻血なの」
 と応(こた)えながら葉子は初めてのようにあたりを見た。そこには紺暖簾(こんのれん)を所せまくかけ渡した紙屋の小店があった。葉子は取りあえずそこにはいって、人目を避けながら顔を洗わしてもらおうとした。
 四十格好の克明(こくめい)らしい内儀(かみ)さんがわが事のように金盥(かなだらい)に水を移して持って来てくれた。葉子はそれで白粉気(おしろいけ)のない顔を思う存分に冷やした。そして少し人心地(ひとごこち)がついたので、帯の間から懐中鏡を取り出して顔を直そうとすると、鏡がいつのまにかま二つに破(わ)れていた。先刻けつまずいた拍子に破れたのかしらんと思ってみたが、それくらいで破れるはずはない。怒りに任せて胸がかっとなった時、破れたのだろうか。なんだかそうらしくも思えた。それともあすの船出の不吉を告げる何かの業(わざ)かもしれない。木村との行く末の破滅を知らせる悪い辻占(つじうら)かもしれない。またそう思うと葉子は襟元(えりもと)に凍った針でも刺されるように、ぞくぞくとわけのわからない身ぶるいをした。いったい自分はどうなって行くのだろう。葉子はこれまでの見窮められない不思議な自分の運命を思うにつけ、これから先の運命が空恐ろしく心に描かれた。葉子は不安な悒鬱(ゆううつ)な目つきをして店を見回した。帳場にすわり込んだ内儀(かみ)さんの膝(ひざ)にもたれて、七つほどの少女が、じっと葉子の目を迎えて葉子を見つめていた。やせぎすで、痛々しいほど目の大きな、そのくせ黒目の小さな、青白い顔が、薄暗い店の奥から、香料や石鹸(せっけん)の香につつまれて、ぼんやり浮き出たように見えるのが、何か鏡の破(わ)れたのと縁でもあるらしくながめられた。葉子の心は全くふだんの落ち付きを失ってしまったようにわくわくして、立ってもすわってもいられないようになった。ばかなと思いながらこわいものにでも追いすがられるようだった。
 しばらくの間(あいだ)葉子はこの奇怪な心の動揺のために店を立ち去る事もしないでたたずんでいたが、ふとどうにでもなれという捨てばちな気になって元気を取り直しながら、いくらかの礼をしてそこを出た。出るには出たが、もう車に乗る気にもなれなかった。これから定子に会いに行ってよそながら別れを惜しもうと思っていたその心組みさえ物憂(ものう)かった。定子に会ったところがどうなるものか。自分の事すら次の瞬間には取りとめもないものを、他人の事――それはよし自分の血を分けた大切な独子(ひとりご)であろうとも――などを考えるだけがばかな事だと思った。そしてもう一度そこの店から巻紙(まきがみ)を買って、硯箱(すずりばこ)を借りて、男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れるつもりだったが、それができなくなったから、この後とも定子をよろしく頼む。当座の費用として金を少し送っておくという意味を簡単にしたためて、永田から送ってよこした為替(かわせ)の金を封入して、その店を出た。そしていきなりそこに待ち合わしていた人力車の上の膝掛(ひざか)けをはぐって、蹴込(けこ)みに打ち付けてある鑑札にしっかり目を通しておいて、
「わたしはこれから歩いて行くから、この手紙をここへ届けておくれ、返事はいらないのだから……お金ですよ、少しどっさりあるから大事にしてね」
 と車夫にいいつけた。車夫はろくに見知りもないものに大金を渡して平気でいる女の顔を今さらのようにきょときょとと見やりながら空俥(からぐるま)を引いて立ち去った。大八車(だいはちぐるま)が続けさまに田舎(いなか)に向いて帰って行く小石川の夕暮れの中を、葉子は傘(かさ)を杖(つえ)にしながら思いにふけって歩いて行った。
 こもった哀愁が、発しない酒のように、葉子のこめかみをちかちかと痛めた。葉子は人力車の行くえを見失っていた。そして自分ではまっすぐに釘店(くぎだな)のほうに急ぐつもりでいた。ところが実際は目に見えぬ力で人力車に結び付けられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、はっと気がついた時にはいつのまにか、乳母が住む下谷(したや)池(いけ)の端(はた)の或(あ)る曲がり角(かど)に来て立っていた。
 そこで葉子はぎょっとして立ちどまってしまった。短くなりまさった日は本郷(ほんごう)の高台に隠れて、往来には厨(くりや)の煙とも夕靄(ゆうもや)ともつかぬ薄い霧がただよって、街頭のランプの灯(ひ)がことに赤くちらほらちらほらとともっていた。通り慣れたこの界隈(かいわい)の空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚をなでた。心よりも肉体のほうがよけいに定子のいる所にひき付けられるようにさえ思えた。葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子の頬(ほお)の膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんすの弾力のある軟(やわ)らかい触感を感じていた。葉子の膝(ひざ)はふうわりとした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。目には、曲がり角(かど)の朽ちかかった黒板塀(くろいたべい)を透(とお)して、木部から稟(う)けた笑窪(えくぼ)のできる笑顔(えがお)が否応なしに吸い付いて来た。……乳房はくすむったかった。葉子は思わず片頬に微笑を浮かべてあたりをぬすむように見回した。とちょうどそこを通りかかった内儀(かみ)さんが、何かを前掛けの下に隠しながらじっと葉子の立ち姿を振り返ってまで見て通るのに気がついた。
 葉子は悪事でも働いていた人のように、急に笑顔を引っ込めてしまった。そしてこそこそとそこを立ちのいて不忍(しのばず)の池(いけ)に出た。そして過去も未来も持たない人のように、池の端につくねんと突っ立ったまま、池の中の蓮(はす)の実の一つに目を定めて、身動きもせずに小半時(こはんとき)立ち尽くしていた。

       八

 日の光がとっぷりと隠れてしまって、往来の灯(ひ)ばかりが足もとのたよりとなるころ、葉子は熱病患者のように濁りきった頭をもてあまして、車に揺られるたびごとに眉(まゆ)を痛々しくしかめながら、釘店(くぎだな)に帰って来た。
 玄関にはいろいろの足駄(あしだ)や靴(くつ)がならべてあったが、流行を作ろう、少なくとも流行に遅れまいというはなやかな心を誇るらしい履物(はきもの)といっては一つも見当たらなかった。自分の草履(ぞうり)を始末しながら、葉子はすぐに二階の客間の模様を想像して、自分のために親戚(しんせき)や知人が寄って別れを惜しむというその席に顔を出すのが、自分自身をばかにしきったことのようにしか思われなかった。こんなくらいなら定子の所にでもいるほうがよほどましだった。こんな事のあるはずだったのをどうしてまた忘れていたものだろう。どこにいるのもいやだ。木部の家を出て、二度とは帰るまいと決心した時のような心持ちで、拾いかけた草履をたたきに戻(もど)そうとしたその途端に、
「ねえさんもういや……いや」
 といいながら、身を震わしてやにわに胸に抱きついて来て、乳の間のくぼみに顔を埋(うず)めながら、成人(おとな)のするような泣きじゃくりをして、
「もう行っちゃいやですというのに」
 とからく言葉を続けたのは貞世(さだよ)だった。葉子は石のように立ちすくんでしまった。貞世は朝からふきげんになってだれのいう事も耳には入れずに、自分の帰るのばかりを待ちこがれていたに違いないのだ。葉子は機械的に貞世に引っぱられて階子段(はしごだん)をのぼって行った。
 階子段をのぼりきって見ると客間はしんとしていて、五十川(いそがわ)女史の祈祷(きとう)の声だけがおごそかに聞こえていた。葉子と貞世とは恋人のように抱き合いながら、アーメンという声の一座の人々からあげられるのを待って室(へや)にはいった。列座の人々はまだ殊勝らしく頭をうなだれている中に、正座近くすえられた古藤(ことう)だけは昂然(こうぜん)と目を見開いて、襖(ふすま)をあけて葉子がしとやかにはいって来るのを見まもっていた。
 葉子は古藤にちょっと目で挨拶(あいさつ)をして置いて、貞世を抱いたまま末座に膝(ひざ)をついて、一同に遅刻のわびをしようとしていると、主人座にすわり込んでいる叔父(おじ)が、わが子でもたしなめるように威儀を作って、
「なんたらおそい事じゃ。きょうはお前の送別会じゃぞい。……皆さんにいこうお待たせするがすまんから、今五十川さんに祈祷(きとう)をお頼み申して、箸(はし)を取っていただこうと思ったところであった……いったいどこを……」
 面と向かっては、葉子に口小言(くちこごと)一ついいきらぬ器量なしの叔父が、場所もおりもあろうにこんな場合に見せびらかしをしようとする。葉子はそっちに見向きもせず、叔父の言葉を全く無視した態度で急に晴れやかな色を顔に浮かべながら、
「ようこそ皆様……おそくなりまして。つい行かなければならない所が二つ三つありましたもんですから……」
 とだれにともなくいっておいて、するすると立ち上がって、釘店(くぎだな)の往来に向いた大きな窓を後ろにした自分の席に着いて、妹の愛子と自分との間に割り込んで来る貞世の頭をなでながら、自分の上にばかり注がれる満座の視線を小うるさそうに払いのけた。そして片方の手でだいぶ乱れた鬢(びん)のほつれをかき上げて、葉子の視線は人もなげに古藤のほうに走った。
「しばらくでしたのね……とうとう明朝(あした)になりましてよ。木村に持って行くものは、一緒にお持ちになって?……そう」
 と軽い調子でいったので、五十川女史と叔父とが切り出そうとした言葉は、物のみごとにさえぎられてしまった。葉子は古藤にそれだけの事をいうと、今度は当(とう)の敵ともいうべき五十川女史に振り向いて、
「おばさま、きょう途中でそれはおかしな事がありましたのよ。こうなんですの」
 といいながら男女をあわせて八人ほど居ならんだ親類たちにずっと目を配って、
「車で駆け通ったんですから前も後(あと)もよくはわからないんですけれども、大時計のかどの所を広小路(ひろこうじ)に出ようとしたら、そのかどにたいへんな人だかりですの。なんだと思って見てみますとね、禁酒会の大道演説で、大きな旗が二三本立っていて、急ごしらえのテーブルに突っ立って、夢中になって演説している人があるんですの。それだけなら何も別に珍しいという事はないんですけれども、その演説をしている人が……だれだとお思いになって……山脇(やまわき)さんですの」
 一同の顔には思わず知らず驚きの色が現われて、葉子の言葉に耳をそばだてていた。先刻しかつめらしい顔をした叔父(おじ)はもう白痴のように口をあけたままで薄笑いをもらしながら葉子を見つめていた。
「それがまたね、いつものとおりに金時(きんとき)のように首筋までまっ赤(か)ですの。『諸君』とかなんとかいって大手を振り立ててしゃべっているのを、肝心(かんじん)の禁酒会員たちはあっけに取られて、黙ったまま引きさがって見ているんですから、見物人がわいわいとおもしろがってたかっているのも全くもっともですわ。そのうちに、あ、叔父さん、箸(はし)をおつけになるように皆様におっしゃってくださいまし」
 叔父があわてて口の締まりをして仏頂面(ぶっちょうづら)に立ち返って、何かいおうとすると、葉子はまたそれには頓着(とんじゃく)なく五十川(いそがわ)女史のほうに向いて、
「あの肩の凝(こ)りはすっかりおなおりになりまして」
 といったので、五十川女史の答えようとする言葉と、叔父のいい出そうとする言葉は気まずくも鉢合(はちあ)わせになって、二人(ふたり)は所在なげに黙ってしまった。座敷は、底のほうに気持ちの悪い暗流を潜めながら造り笑いをし合っているような不快な気分に満たされた。葉子は「さあ来い」と胸の中で身構えをしていた。五十川女史のそばにすわって、神経質らしく眉(まゆ)をきらめかす中老の官吏は、射るようないまいましげな眼光を時々葉子に浴びせかけていたが、いたたまれない様子でちょっと居ずまいをなおすと、ぎくしゃくした調子で口をきった。
「葉子さん、あなたもいよいよ身のかたまる瀬戸ぎわまでこぎ付けたんだが……」
 葉子はすきを見せたら切り返すからといわんばかりな緊張した、同時に物を物ともしないふうでその男の目を迎えた。
「何しろわたしども早月家(さつきけ)の親類に取ってはこんなめでたい事はまずない。無いには無いがこれからがあなたに頼み所だ。どうぞ一つわたしどもの顔を立てて、今度こそは立派な奥さんになっておもらいしたいがいかがです。木村君はわたしもよく知っとるが、信仰も堅いし、仕事も珍しくはきはきできるし、若いに似合わぬ物のわかった仁(じん)だ。こんなことまで比較に持ち出すのはどうか知らないが、木部氏のような実行力の伴わない夢想家は、わたしなどは初めから不賛成だった。今度のはじたい段が違う。葉子さんが木部氏の所から逃げ帰って来た時には、わたしもけしからんといった実は一人(ひとり)だが、今になって見ると葉子さんはさすがに目が高かった。出て来ておいて誠によかった。いまに見なさい木村という仁なりゃ、立派に成功して、第一流の実業家に成り上がるにきまっている。これからはなんといっても信用と金だ。官界に出ないのなら、どうしても実業界に行かなければうそだ。擲身(てきしん)報国は官吏たるものの一特権だが、木村さんのようなまじめな信者にしこたま金を造ってもらわんじゃ、神の道を日本に伝え広げるにしてからが容易な事じゃありませんよ。あなたも小さい時から米国に渡って新聞記者の修業をすると口ぐせのように妙な事をいったもんだが(ここで一座の人はなんの意味もなく高く笑った。おそらくはあまりしかつめらしい空気を打ち破って、なんとかそこに余裕(ゆとり)をつけるつもりが、みんなに起こったのだろうけれども、葉子にとってはそれがそうは響かなかった。その心持ちはわかっても、そんな事で葉子の心をはぐらかそうとする彼らの浅はかさがぐっと癪(しゃく)にさわった)新聞記者はともかくも……じゃない、そんなものになられては困りきるが(ここで一座はまたわけもなくばからしく笑った)米国行きの願いはたしかにかなったのだ。葉子さんも御満足に違いなかろう。あとの事はわたしどもがたしかに引き受けたから心配は無用にして、身をしめて妹さん方(がた)のしめしにもなるほどの奮発を頼みます……えゝと、財産のほうの処分はわたしと田中さんとで間違いなく固めるし、愛子さんと貞世さんのお世話は、五十川(いそがわ)さん、あなたにお願いしようじゃありませんか、御迷惑ですが。いかがでしょう皆さん(そういって彼は一座を見渡した。あらかじめ申し合わせができていたらしく一同は待ち設けたようにうなずいて見せた)どうじゃろう葉子さん」
 葉子は乞食(こじき)の嘆願を聞く女王のような心持ちで、○○局長といわれるこの男のいう事を聞いていたが、財産の事などはどうでもいいとして、妹たちの事が話題に上るとともに、五十川女史を向こうに回して詰問のような対話を始めた。なんといっても五十川女史はその晩そこに集まった人々の中ではいちばん年配でもあったし、いちばんはばかられているのを葉子は知っていた。五十川女史が四角を思い出させるような頑丈(がんじょう)な骨組みで、がっしりと正座に居直って、葉子を子供あしらいにしようとするのを見て取ると、葉子の心は逸(はや)り熱した。
「いゝえ、わがままだとばかりお思いになっては困ります。わたしは御承知のような生まれでございますし、これまでもたびたび御心配かけて来ておりますから、人様(ひとさま)同様に見ていただこうとはこれっぱかりも思ってはおりません」
 といって葉子は指の間になぶっていた楊枝(ようじ)を老女史の前にふいと投げた。
「しかし愛子も貞世も妹でございます。現在わたしの妹でございます。口幅ったいと思(おぼ)し召(め)すかもしれませんが、この二人(ふたり)だけはわたしたとい米国におりましても立派に手塩にかけて御覧にいれますから、どうかお構いなさらずにくださいまし。それは赤坂(あかさか)学院も立派な学校には違いございますまい。現在私もおばさまのお世話であすこで育てていただいたのですから、悪くは申したくはございませんが、わたしのような人間が、皆様のお気に入らないとすれば……それは生まれつきもございましょうとも、ございましょうけれども、わたしを育て上げたのはあの学校でございますからねえ。何しろ現在いて見た上で、わたしこの二人をあすこに入れる気にはなれません。女というものをあの学校ではいったいなんと見ているのでござんすかしらん……」
 こういっているうちに葉子の心には火のような回想の憤怒が燃え上がった。葉子はその学校の寄宿舎で一個の中性動物として取り扱われたのを忘れる事ができない。やさしく、愛らしく、しおらしく、生まれたままの美しい好意と欲念との命ずるままに、おぼろげながら神というものを恋しかけた十二三歳ごろの葉子に、学校は祈祷(きとう)と、節欲と、殺情とを強制的にたたき込もうとした。十四の夏が秋に移ろうとしたころ、葉子はふと思い立って、美しい四寸幅ほどの角帯(かくおび)のようなものを絹糸で編みはじめた。藍(あい)の地(じ)に白で十字架と日月とをあしらった模様だった。物事にふけりやすい葉子は身も魂も打ち込んでその仕事に夢中になった。それを造り上げた上でどうして神様の御手に届けよう、というような事はもとより考えもせずに、早く造り上げてお喜ばせ申そうとのみあせって、しまいには夜の目もろくろく合わさなくなった。二週間に余る苦心の末にそれはあらかたでき上がった。藍の地に簡単に白で模様を抜くだけならさしたる事でもないが、葉子は他人のまだしなかった試みを加えようとして、模様の周囲に藍と白とを組み合わせにした小さな笹縁(ささべり)のようなものを浮き上げて編み込んだり、ひどく伸び縮みがして模様が歪形(いびつ)にならないように、目立たないようにカタン糸を編み込んで見たりした。出来上がりが近づくと葉子は片時(かたとき)も編み針を休めてはいられなかった。ある時聖書の講義の講座でそっと机の下で仕事を続けていると、運悪くも教師に見つけられた。教師はしきりにその用途を問いただしたが、恥じやすい乙女心(おとめごころ)にどうしてこの夢よりもはかない目論見(もくろみ)を白状する事ができよう。教師はその帯の色合いから推(お)して、それは男向きの品物に違いないと決めてしまった。そして葉子の心は早熟の恋を追うものだと断定した。そして恋というものを生来知らぬげな四十五六の醜い容貌(ようぼう)の舎監は、葉子を監禁同様にして置いて、暇さえあればその帯の持ち主たるべき人の名を迫り問うた。
 葉子はふと心の目を開いた。そしてその心はそれ以来峰から峰を飛んだ。十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさま翻弄(ほんろう)した。青年はまもなく自殺同様な死に方をした。一度生血の味をしめた虎(とら)の子のような渇欲が葉子の心を打ちのめすようになったのはそれからの事である。
「古藤さん愛と貞とはあなたに願いますわ。だれがどんな事をいおうと、赤坂学院には入れないでくださいまし。私きのう田島(たじま)さんの塾(じゅく)に行って、田島さんにお会い申してよくお頼みして来ましたから、少し片付いたらはばかりさまですがあなた御自身で二人(ふたり)を連れていらしってください。愛さんも貞ちゃんもわかりましたろう。田島さんの塾にはいるとね、ねえさんと一緒にいた時のようなわけには行きませんよ……」
「ねえさんてば……自分でばかり物をおっしゃって」
 といきなり恨めしそうに、貞世は姉の膝(ひざ)をゆすりながらその言葉をさえぎった。
「さっきからなんど書いたかわからないのに平気でほんとにひどいわ」
 一座の人々から妙な子だというふうにながめられているのにも頓着(とんじゃく)なく、貞世は姉のほうに向いて膝の上にしなだれかかりながら、姉の左手を長い袖(そで)の下に入れて、その手のひらに食指で仮名を一字ずつ書いて手のひらで拭(ふ)き消すようにした。葉子は黙って、書いては消し書いては消しする字をたどって見ると、
「ネーサマハイイコダカラ『アメリカ』ニイツテハイケマセンヨヨヨヨ」
 と読まれた。葉子の胸はわれ知らず熱くなったが、しいて笑いにまぎらしながら、
「まあ聞きわけのない子だこと、しかたがない。今になってそんな事をいったってしかたがないじゃないの」
 とたしなめ諭(さと)すようにいうと、
「しかたがあるわ」
 と貞世は大きな目で姉を見上げながら、
「お嫁に行かなければよろしいじゃないの」
 といって、くるりと首を回して一同を見渡した。貞世のかわいい目は「そうでしょう」と訴えているように見えた。それを見ると一同はただなんという事もなく思いやりのない笑いかたをした。叔父(おじ)はことに大きなとんきょな声で高々と笑った。先刻から黙ったままでうつむいてさびしくすわっていた愛子は、沈んだ恨めしそうな目でじっと叔父をにらめたと思うと、たちまちわくように涙をほろほろと流して、それを両袖でぬぐいもやらず立ち上がってその部屋(へや)をかけ出した。階子段(はしごだん)の所でちょうど下から上がって来た叔母と行きあったけはいがして、二人(ふたり)が何かいい争うらしい声が聞こえて来た。
 一座はまた白(しら)け渡った。
「叔父さんにも申し上げておきます」
 と沈黙を破った葉子の声が妙に殺気を帯びて響いた。
「これまで何かとお世話様になってありがとうこざいましたけれども、この家もたたんでしまう事になれば、妹たちも今申したとおり塾(じゅく)に入れてしまいますし、この後はこれといって大して御厄介(ごやっかい)はかけないつもりでございます。赤の他人の古藤さんにこんな事を願ってはほんとうにすみませんけれども、木村の親友でいらっしゃるのですから、近い他人ですわね。古藤さん、あなた貧乏籤(くじ)を背負い込んだと思(おぼ)し召(め)して、どうか二人(ふたり)を見てやってくださいましな。いいでしょう。こう親類の前ではっきり申しておきますから、ちっとも御遠慮なさらずに、いいとお思いになったようになさってくださいまし。あちらへ着いたらわたしまたきっとどうともいたしますから。きっとそんなに長い間御迷惑はかけませんから。いかが、引き受けてくださいまして?」
 古藤は少し躊躇(ちゅうちょ)するふうで五十川(いそがわ)女史を見やりながら、
「あなたはさっきから赤坂学院のほうがいいとおっしゃるように伺っていますが、葉子さんのいわれるとおりにしてさしつかえないのですか。念のために伺っておきたいのですが」
 と尋ねた。葉子はまたあんなよけいな事をいうと思いながらいらいらした。五十川女史は日ごろの円滑な人ずれのした調子に似ず、何かひどく激昂(げきこう)した様子で、
「わたしは亡(な)くなった親佐(おやさ)さんのお考えはこうもあろうかと思った所を申したまでですから、それを葉子さんが悪いとおっしゃるなら、その上とやかく言いともないのですが、親佐さんは堅い昔風な信仰を持った方(かた)ですから、田島さんの塾は前からきらいでね……よろしゅうございましょう、そうなされば。わたしはとにかく赤坂学院が一番だとどこまでも思っとるだけです」
 といいながら、見下げるように葉子の胸のあたりをまじまじとながめた。葉子は貞世を抱いたまましゃんと胸をそらして目の前の壁のほうに顔を向けていた、たとえばばらばらと投げられるつぶてを避けようともせずに突っ立つ人のように。
 古藤は何か自分一人(ひとり)で合点したと思うと、堅く腕組みをしてこれも自分の前の目八分(ぶ)の所をじっと見つめた。
 一座の気分はほとほと動きが取れなくなった。その間でいちばん早くきげんを直して相好(そうごう)を変えたのは五十川(いそがわ)女史だった。子供を相手にして腹を立てた、それを年がいないとでも思ったように、気を変えてきさくに立ちじたくをしながら、
「皆さんいかが、もうお暇(いとま)にいたしましたら……お別れする前にもう一度お祈りをして」
「お祈りをわたしのようなもののためになさってくださるのは御無用に願います」
 葉子は和らぎかけた人々の気分にはさらに頓着(とんじゃく)なく、壁に向けていた目を貞世に落として、いつのまにか寝入ったその人の艶々(つやつや)しい顔をなでさすりながらきっぱりといい放った。
 人々は思い思いな別れを告げて帰って行った。葉子は貞世がいつのまにか膝(ひざ)の上に寝てしまったのを口実にして人々を見送りには立たなかった。
 最後の客が帰って行ったあとでも、叔父叔母(おじおば)は二階を片づけには上がってこなかった。挨拶(あいさつ)一つしようともしなかった。葉子は窓のほうに頭を向けて、煉瓦(れんが)の通りの上にぼうっと立つ灯(ひ)の照り返しを見やりながら、夜風にほてった顔を冷やさせて、貞世を抱いたまま黙ってすわり続けていた。間遠(まどお)に日本橋を渡る鉄道馬車の音が聞こえるばかりで、釘店(くぎだな)の人通りは寂しいほどまばらになっていた。
 姿は見せずに、どこかのすみで愛子がまだ泣き続けて鼻をかんだりする音が聞こえていた。
「愛さん……貞(さあ)ちゃんが寝ましたからね、ちょっとお床を敷いてやってちょうだいな」
 われながら驚くほどやさしく愛子に口をきく自分を葉子は見いだした。性(しょう)が合わないというのか、気が合わないというのか、ふだん愛子の顔さえ見れば葉子の気分はくずされてしまうのだった。愛子が何事につけても猫(ねこ)のように従順で少しも情というものを見せないのがことさら憎かった。しかしその夜だけは不思議にもやさしい口をきいた。葉子はそれを意外に思った。愛子がいつものように素直(すなお)に立ち上がって、洟(はな)をすすりながら黙って床を取っている間に、葉子はおりおり往来のほうから振り返って、愛子のしとやかな足音や、綿を薄く入れた夏ぶとんの畳に触れるささやかな音を見入りでもするようにそのほうに目を定めた。そうかと思うとまた今さらのように、食い荒らされた食物や、敷いたままになっている座ぶとんのきたならしく散らかった客間をまじまじと見渡した。父の書棚(しょだな)のあった部分の壁だけが四角に濃い色をしていた。そのすぐそばに西洋暦が昔のままにかけてあった。七月十六日から先ははがされずに残っていた。
「ねえさま敷けました」
 しばらくしてから、愛子がこうかすかに隣でいった。葉子は、
「そう御苦労さまよ」
 とまたしとやかに応(こた)えながら、貞世を抱きかかえて立ち上がろうとすると、また頭がぐらぐらッとして、おびただしい鼻血が貞世の胸の合わせ目に流れ落ちた。


       九

 底光りのする雲母色(きららいろ)の雨雲が縫い目なしにどんよりと重く空いっぱいにはだかって、本牧(ほんもく)の沖合いまで東京湾の海は物すごいような草色に、小さく波の立ち騒ぐ九月二十五日の午後であった。きのうの風が凪(な)いでから、気温は急に夏らしい蒸し暑さに返って、横浜の市街は、疫病にかかって弱りきった労働者が、そぼふる雨の中にぐったりとあえいでいるように見えた。
 靴(くつ)の先で甲板(かんばん)をこつこつとたたいて、うつむいてそれをながめながら、帯の間に手をさし込んで、木村への伝言を古藤はひとり言(ごと)のように葉子にいった。葉子はそれに耳を傾けるような様子はしていたけれども、ほんとうはさして注意もせずに、ちょうど自分の目の前に、たくさんの見送り人に囲まれて、応接に暇(いとま)もなげな田川法学博士(はかせ)の目じりの下がった顔と、その夫人のやせぎすな肩との描く微細な感情の表現を、批評家のような心で鋭くながめやっていた。かなり広いプロメネード・デッキは田川家の家族と見送り人とで縁日のようににぎわっていた。葉子の見送りに来たはずの五十川(いそがわ)女史は先刻から田川夫人のそばに付ききって、世話好きな、人のよい叔母(おば)さんというような態度で、見送り人の半分がたを自身で引き受けて挨拶(あいさつ)していた。葉子のほうへは見向こうとする模様もなかった。葉子の叔母は葉子から二三間(げん)離れた所に、蜘蛛(くも)のような白痴の子を小婢(こおんな)に背負わして、自分は葉子から預かった手鞄(てかばん)と袱紗(ふくさ)包みとを取り落とさんばかりにぶら下げたまま、花々しい田川家の家族や見送り人の群れを見てあっけに取られていた。葉子の乳母(うば)は、どんな大きな船でも船は船だというようにひどく臆病(おくびょう)そうな青い顔つきをして、サルンの入り口の戸の陰にたたずみながら、四角にたたんだ手ぬぐいをまっ赤(か)になった目の所に絶えず押しあてては、ぬすみ見るように葉子を見やっていた。その他の人々はじみな一団になって、田川家の威光に圧せられたようにすみのほうにかたまっていた。
 葉子はかねて五十川女史から、田川夫婦が同船するから船の中で紹介してやるといい聞かせられていた。田川といえば、法曹界(ほうそうかい)ではかなり名の聞こえた割合に、どこといって取りとめた特色もない政客ではあるが、その人の名はむしろ夫人のうわさのために世人の記憶にあざやかであった。感受力の鋭敏なそしてなんらかの意味で自分の敵に回さなければならない人に対してことに注意深い葉子の頭には、その夫人の面影(おもかげ)は長い事宿題として考えられていた。葉子の頭に描かれた夫人は我(が)の強い、情の恣(ほしい)ままな、野心の深い割合に手練(タクト)の露骨(ろこつ)な、良人(おっと)を軽く見てややともすると笠(かさ)にかかりながら、それでいて良人から独立する事の到底できない、いわば心(しん)の弱い強がり家(や)ではないかしらんというのだった。葉子は今後ろ向きになった田川夫人の肩の様子を一目見たばかりで、辞書でも繰り当てたように、自分の想像の裏書きをされたのを胸の中でほほえまずにはいられなかった。
「なんだか話が混雑したようだけれども、それだけいって置いてください」
 ふと葉子は幻想(レェリー)から破れて、古藤のいうこれだけの言葉を捕えた。そして今まで古藤の口から出た伝言の文句はたいてい聞きもらしていたくせに、空々(そらぞら)しげにもなくしんみりとした様子で、
「確かに……けれどもあなたあとから手紙ででも詳しく書いてやってくださいましね。間違いでもしているとたいへんですから」
 と古藤をのぞき込むようにしていった。古藤は思わず笑いをもらしながら、「間違うとたいへんですから」という言葉を、時おり葉子の口から聞くチャームに満ちた子供らしい言葉の一つとでも思っているらしかった。そして、
「何、間違ったって大事はないけれども……だが手紙は書いて、あなたの寝床(バース)の枕(まくら)の下に置いときましたから、部屋(へや)に行ったらどこにでもしまっておいてください。それから、それと一緒にもう一つ……」
 といいかけたが、
「何しろ忘れずに枕の下を見てください」
 この時突然「田川法学博士(はかせ)万歳」という大きな声が、桟橋(さんばし)からデッキまでどよみ渡って聞こえて来た。葉子と古藤とは話の腰を折られて互いに不快な顔をしながら、手欄(てすり)から下のほうをのぞいて見ると、すぐ目の下に、そのころ人の少し集まる所にはどこにでも顔を出す轟(とどろき)という剣舞の師匠だか撃剣の師匠だかする頑丈(がんじょう)な男が、大きな五つ紋の黒羽織(くろばおり)に白っぽい鰹魚縞(かつおじま)の袴(はかま)をはいて、桟橋の板を朴(ほお)の木下駄(きげた)で踏み鳴らしながら、ここを先途(せんど)とわめいていた。その声に応じて、デッキまではのぼって来ない壮士体(てい)の政客や某私立政治学校の生徒が一斉(いっせい)に万歳を繰り返した。デッキの上の外国船客は物珍しさにいち早く、葉子がよりかかっている手欄(てすり)のほうに押し寄せて来たので、葉子は古藤を促して、急いで手欄の折れ曲がったかどに身を引いた。田川夫婦もほほえみながら、サルンから挨拶(あいさつ)のために近づいて来た。葉子はそれを見ると、古藤のそばに寄り添ったまま、左手をやさしく上げて、鬢(びん)のほつれをかき上げながら、頭を心持ち左にかしげてじっと田川の目を見やった。田川は桟橋のほうに気を取られて急ぎ足で手欄(てすり)のほうに歩いていたが、突然見えぬ力にぐっと引きつけられたように、葉子のほうに振り向いた。
 田川夫人も思わず良人(おっと)の向くほうに頭を向けた。田川の威厳に乏しい目にも鋭い光がきらめいては消え、さらにきらめいて消えたのを見すまして、葉子は始めて田川夫人の目を迎えた。額の狭い、顎(あご)の固い夫人の顔は、軽蔑(けいべつ)と猜疑(さいぎ)の色をみなぎらして葉子に向かった。葉子は、名前だけをかねてから聞き知って慕っていた人を、今目の前に見たように、うやうやしさと親しみとの交じり合った表情でこれに応じた。そしてすぐそのばから、夫人の前にも頓着(とんじゃく)なく、誘惑のひとみを凝らしてその良人の横顔をじっと見やるのだった。
「田川法学博士(はかせ)夫人万歳」「万歳」「万歳」
 田川その人に対してよりもさらに声高(こわだか)な大歓呼が、桟橋にいて傘(かさ)を振り帽子を動かす人々の群れから起こった。田川夫人は忙(せわ)しく葉子から目を移して、群集に取っときの笑顔(えがお)を見せながら、レースで笹縁(ささべり)を取ったハンケチを振らねばならなかった。田川のすぐそばに立って、胸に何か赤い花をさして型のいいフロック・コートを着て、ほほえんでいた風流な若紳士は、桟橋の歓呼を引き取って、田川夫人の面前で帽子を高くあげて万歳を叫んだ。デッキの上はまた一しきりどよめき渡った。
 やがて甲板の上は、こんな騒ぎのほかになんとなく忙(せわ)しくなって来た。事務員や水夫たちが、物せわしそうに人中を縫うてあちこちする間に、手を取り合わんばかりに近よって別れを惜しむ人々の群れがここにもかしこにも見え始めた。サルン・デッキから見ると、三等客の見送り人がボーイ長にせき立てられて、続々舷門(げんもん)から降り始めた。それと入れ代わりに、帽子、上着、ズボン、ネクタイ、靴(くつ)などの調和の少しも取れていないくせに、むやみに気取った洋装をした非番の下級船員たちが、ぬれた傘(かさ)を光らしながら駆けこんで来た。その騒ぎの間に、一種生臭(なまぐさ)いような暖かい蒸気が甲板の人を取り巻いて、フォクスルのほうで、今までやかましく荷物をまき上げていた扛重機(クレーン)の音が突然やむと、かーんとするほど人々の耳はかえって遠くなった。隔たった所から互いに呼びかわす水夫らの高い声は、この船にどんな大危険でも起こったかと思わせるような不安をまき散らした。親しい間の人たちは別れの切(せつ)なさに心がわくわくしてろくに口もきかず、義理一ぺんの見送り人は、ややともするとまわりに気が取られて見送るべき人を見失う。そんなあわただしい抜錨(ばつびょう)の間ぎわになった。葉子の前にも、急にいろいろな人が寄り集まって来て、思い思いに別れの言葉を残して船を降り始めた。葉子はこんな混雑な間にも田川のひとみが時々自分に向けられるのを意識して、そのひとみを驚かすようななまめいたポーズや、たよりなげな表情を見せるのを忘れないで、言葉少なにそれらの人に挨拶(あいさつ)した。叔父(おじ)と叔母(おば)とは墓の穴まで無事に棺を運んだ人夫のように、通り一ぺんの事をいうと、預かり物を葉子に渡して、手の塵(ちり)をはたかんばかりにすげなく、まっ先に舷梯(げんてい)を降りて行った。葉子はちらっと叔母の後ろ姿を見送って驚いた。今の今までどことて似通う所の見えなかった叔母も、その姉なる葉子の母の着物を帯まで借りて着込んでいるのを見ると、はっと思うほどその姉にそっくりだった。葉子はなんという事なしにいやな心持ちがした。そしてこんな緊張した場合にこんなちょっとした事にまでこだわる自分を妙に思った。そう思う間(ま)もあらせず、今度は親類の人たちが五六人ずつ、口々に小やかましく何かいって、あわれむような妬(ねた)むような目つきを投げ与えながら、幻影のように葉子の目と記憶とから消えて行った。丸髷(まるまげ)に結ったり教師らしい地味(じみ)な束髪に上げたりしている四人の学校友だちも、今は葉子とはかけ隔たった境界(きょうがい)の言葉づかいをして、昔葉子に誓った言葉などは忘れてしまった裏切り者の空々(そらぞら)しい涙を見せたりして、雨にぬらすまいと袂(たもと)を大事にかばいながら、傘にかくれてこれも舷梯(げんてい)を消えて行ってしまった。最後に物おじする様子の乳母(うば)が葉子の前に来て腰をかがめた。葉子はとうとう行き詰まる所まで来たような思いをしながら、振り返って古藤を見ると、古藤は依然として手欄(てすり)に身を寄せたまま、気抜けでもしたように、目を据えて自分の二三間(げん)先をぼんやりながめていた。
「義一さん、船の出るのも間(ま)が無さそうですからどうか此女(これ)……わたしの乳母ですの……の手を引いておろしてやってくださいましな。すべりでもすると怖(こお)うござんすから」
 と葉子にいわれて古藤は始めてわれに返った。そしてひとり言(ごと)のように、
「この船で僕もアメリカに行って見たいなあ」
 とのんきな事をいった。
「どうか桟橋まで見てやってくださいましね。あなたもそのうちぜひいらっしゃいましな……義一さんそれではこれでお別れ。ほんとうに、ほんとうに」
 といいながら葉子はなんとなく親しみをいちばん深くこの青年に感じて、大きな目で古藤をじっと見た。古藤も今さらのように葉子をじっと見た。
「お礼の申しようもありません。この上のお願いです。どうぞ妹たちを見てやってくださいまし。あんな人たちにはどうしたって頼んではおけませんから。……さようなら」
「さようなら」
 古藤は鸚鵡返(おうむがえ)しに没義道(もぎどう)にこれだけいって、ふいと手欄(てすり)を離れて、麦稈(むぎわら)帽子を目深(まぶか)にかぶりながら、乳母に付き添った。
 葉子は階子(はしご)の上がり口まで行って二人に傘(かさ)をかざしてやって、一段一段遠ざかって行く二人(ふたり)の姿を見送った。東京で別れを告げた愛子や貞世の姿が、雨にぬれた傘のへんを幻影となって見えたり隠れたりしたように思った。葉子は不思議な心の執着から定子にはとうとう会わないでしまった。愛子と貞世とはぜひ見送りがしたいというのを、葉子はしかりつけるようにいってとめてしまった。葉子が人力車で家を出ようとすると、なんの気なしに愛子が前髪から抜いて鬢(びん)をかこうとした櫛(くし)が、もろくもぽきりと折れた。それを見ると愛子は堪(こら)え堪えていた涙の堰(せき)を切って声を立てて泣き出した。貞世は初めから腹でも立てたように、燃えるような目からとめどなく涙を流して、じっと葉子を見つめてばかりいた。そんな痛々しい様子がその時まざまざと葉子の目の前にちらついたのだ。一人(ひとり)ぽっちで遠い旅に鹿島立(かしまだ)って行く自分というものがあじきなくも思いやられた。そんな心持ちになると忙(せわ)しい間にも葉子はふと田川のほうを振り向いて見た。中学校の制服を着た二人の少年と、髪をお下げにして、帯をおはさみにしめた少女とが、田川と夫人との間にからまってちょうど告別をしているところだった。付き添いの守(も)りの女が少女を抱き上げて、田川夫人の口びるをその額に受けさしていた。葉子はそんな場面を見せつけられると、他人事(ひとごと)ながら自分が皮肉でむちうたれるように思った。竜(りゅう)をも化して牝豚(めぶた)にするのは母となる事だ。今の今まで焼くように定子の事を思っていた葉子は、田川夫人に対してすっかり反対の事を考えた。葉子はそのいまいましい光景から目を移して舷梯(げんてい)のほうを見た。しかしそこにはもう乳母の姿も古藤の影もなかった。
 たちまち船首のほうからけたたましい銅鑼(どら)の音が響き始めた。船の上下は最後のどよめきに揺らぐように見えた。長い綱を引きずって行く水夫が帽子の落ちそうになるのを右の手でささえながら、あたりの空気に激しい動揺を起こすほどの勢いで急いで葉子のかたわらを通りぬけた。見送り人は一斉(いっせい)に帽子を脱いで舷梯のほうに集まって行った。その際になって五十川女史ははたと葉子の事を思い出したらしく、田川夫人に何かいっておいて葉子のいる所にやって来た。
「いよいよお別れになったが、いつぞやお話しした田川の奥さんにおひきあわせしようからちょっと」
 葉子は五十川女史の親切ぶりの犠牲になるのを承知しつつ、一種の好奇心にひかされて、そのあとについて行こうとした。葉子に初めて物をいう田川の態度も見てやりたかった。その時、
「葉子さん」
 と突然いって、葉子の肩に手をかけたものがあった。振り返るとビールの酔いのにおいがむせかえるように葉子の鼻を打って、目の心(しん)まで紅(あか)くなった知らない若者の顔が、近々と鼻先にあらわれていた。はっと身を引く暇もなく、葉子の肩はびしょぬれになった酔いどれの腕でがっしりと巻かれていた。
「葉子さん、覚えていますかわたしを……あなたはわたしの命なんだ。命なんです」
 といううちにも、その目からはほろほろと煮えるような涙が流れて、まだうら若いなめらかな頬(ほお)を伝った。膝(ひざ)から下がふらつくのを葉子にすがって危うくささえながら、
「結婚をなさるんですか……おめでとう……おめでとう……だがあなたが日本にいなくなると思うと……いたたまれないほど心細いんだ……わたしは……」
 もう声さえ続かなかった。そして深々と息気(いき)をひいてしゃくり上げながら、葉子の肩に顔を伏せてさめざめと男泣きに泣き出した。
 この不意な出来事はさすがに葉子を驚かしもし、きまりも悪くさせた。だれだとも、いつどこであったとも思い出す由がない。木部孤□(きべこきょう)と別れてから、何という事なしに捨てばちな心地(ここち)になって、だれかれの差別もなく近寄って来る男たちに対して勝手気ままを振る舞ったその間に、偶然に出あって偶然に別れた人の中の一人(ひとり)でもあろうか。浅い心でもてあそんで行った心の中にこの男の心もあったであろうか。とにかく葉子には少しも思い当たる節(ふし)がなかった。葉子はその男から離れたい一心に、手に持った手鞄(てかばん)と包み物とを甲板の上にほうりなげて、若者の手をやさしく振りほどこうとして見たが無益だった。親類や朋輩(ほうばい)たちの事あれがしな目が等しく葉子に注がれているのを葉子は痛いほど身に感じていた。と同時に、男の涙が薄い単衣(ひとえ)の目を透(とお)して、葉子の膚にしみこんで来るのを感じた。乱れたつやつやしい髪のにおいもつい鼻の先で葉子の心を動かそうとした。恥も外聞も忘れ果てて、大空の下ですすり泣く男の姿を見ていると、そこにはかすかな誇りのような気持ちがわいて来た。不思議な憎しみといとしさがこんがらかって葉子の心の中で渦巻(うずま)いた。葉子は、
「さ、もう放してくださいまし、船が出ますから」
 ときびしくいって置いて、かんで含めるように、
「だれでも生きてる間は心細く暮らすんですのよ」
 とその耳もとにささやいて見た。若者はよくわかったというふうに深々とうなずいた。しかし葉子を抱く手はきびしく震えこそすれ、ゆるみそうな様子は少しも見えなかった。
 物々しい銅鑼(どら)の響きは左舷から右舷に回って、また船首のほうに聞こえて行こうとしていた。船員も乗客も申し合わしたように葉子のほうを見守っていた。先刻から手持ちぶさたそうにただ立って成り行きを見ていた五十川女史は思いきって近寄って来て、若者を葉子から引き離そうとしたが、若者はむずかる子供のように地だんだを踏んでますます葉子に寄り添うばかりだった。船首のほうに群がって仕事をしながら、この様子を見守っていた水夫たちは一斉(いっせい)に高く笑い声を立てた。そしてその中の一人はわざと船じゅうに聞こえ渡るようなくさめをした。抜錨(ばつびょう)の時刻は一秒一秒に逼(せま)っていた。物笑いの的(まと)になっている、そう思うと葉子の心はいとしさから激しいいとわしさに変わって行った。
「さ、お放しください、さ」
 ときわめて冷酷にいって、葉子は助けを求めるようにあたりを見回した。
 田川博士のそばにいて何か話をしていた一人の大兵(たいひょう)な船員がいたが、葉子の当惑しきった様子を見ると、いきなり大股(おおまた)に近づいて来て、
「どれ、わたしが下までお連れしましょう」
 というや否や、葉子の返事も待たずに若者を事もなく抱きすくめた。若者はこの乱暴にかっとなって怒り狂ったが、その船員は小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右わきにかいこんで、やすやすと舷梯(げんてい)を降りて行った。五十川女史はあたふたと葉子に挨拶(あいさつ)もせずにそのあとに続いた。しばらくすると若者は桟橋の群集の間に船員の手からおろされた。
 けたたましい汽笛が突然鳴りはためいた。田川夫妻の見送り人たちはこの声で活を入れられたようになって、どよめき渡りながら、田川夫妻の万歳をもう一度繰り返した。若者を桟橋に連れて行った、かの巨大な船員は、大きな体躯(たいく)を猿(ましら)のように軽くもてあつかって、音も立てずに桟橋からずしずしと離れて行く船の上にただ一条の綱を伝って上がって来た。人々はまたその早業(はやわざ)に驚いて目を見張った。
 葉子の目は怒気を含んで手欄(てすり)からしばらくの間かの若者を見据えていた。若者は狂気のように両手を広げて船に駆け寄ろうとするのを、近所に居合わせた三四人の人があわてて引き留める、それをまたすり抜けようとして組み伏せられてしまった。若者は組み伏せられたまま左の腕を口にあてがって思いきりかみしばりながら泣き沈んだ。その牛のうめき声のような泣き声が気疎(けうと)く船の上まで聞こえて来た。見送り人は思わず鳴りを静めてこの狂暴な若者に目を注いだ。葉子も葉子で、姿も隠さず手欄(てすり)に片手をかけたまま突っ立って、同じくこの若者を見据えていた。といって葉子はその若者の上ばかりを思っているのではなかった。自分でも不思議だと思うような、うつろな余裕がそこにはあった。古藤が若者のほうには目もくれずにじっと足もとを見つめているのにも気が付いていた。死んだ姉の晴れ着を借り着していい心地(ここち)になっているような叔母(おば)の姿も目に映っていた。船のほうに後ろを向けて(おそらくそれは悲しみからばかりではなかったろう。その若者の挙動が老いた心をひしいだに違いない)手ぬぐいをしっかりと両眼にあてている乳母(うば)も見のがしてはいなかった。
 いつのまに動いたともなく船は桟橋から遠ざかっていた。人の群れが黒蟻(くろあり)のように集まったそこの光景は、葉子の目の前にひらけて行く大きな港の景色の中景になるまでに小さくなって行った。葉子の目は葉子自身にも疑われるような事をしていた。その目は小さくなった人影の中から乳母の姿を探り出そうとせず、一種のなつかしみを持つ横浜の市街を見納めにながめようとせず、凝然として小さくうずくまる若者ののらしい黒点を見つめていた。若者の叫ぶ声が、桟橋の上で打ち振るハンケチの時々ぎらぎらと光るごとに、葉子の頭の上に張り渡された雨よけの帆布(ほぬの)の端(はし)から余滴(したたり)がぽつりぽつりと葉子の顔を打つたびに、断続して聞こえて来るように思われた。
「葉子さん、あなたは私を見殺しにするんですか……見殺しにするん……」

       一〇

 始めての旅客も物慣れた旅客も、抜錨(ばつびょう)したばかりの船の甲板に立っては、落ち付いた心でいる事ができないようだった。跡始末のために忙(せわ)しく右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの興奮にじっとしてはいられないような顔つきをして、乗客は一人(ひとり)残らず甲板に集まって、今まで自分たちがそば近く見ていた桟橋のほうに目を向けていた。葉子もその様子だけでいうと、他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように手欄(てすり)によりかかって、静かな春雨(はるさめ)のように降っている雨のしずくに顔をなぶらせながら、波止場(はとば)のほうをながめていたが、けれどもそのひとみにはなんにも映ってはいなかった。その代わり目と脳との間と覚(おぼ)しいあたりを、親しい人や疎(うと)い人が、何かわけもなくせわしそうに現われ出て、銘々いちばん深い印象を与えるような動作をしては消えて行った。葉子の知覚は半分眠ったようにぼんやりして注意するともなくその姿に注意をしていた。そしてこの半睡の状態が破れでもしたらたいへんな事になると、心のどこかのすみでは考えていた。そのくせ、それを物々しく恐れるでもなかった。からだまでが感覚的にしびれるような物うさを覚えた。
 若者が現われた。(どうしてあの男はそれほどの因縁(いんねん)もないのに執念(しゅうね)く付きまつわるのだろうと葉子は他人事(ひとごと)のように思った)その乱れた美しい髪の毛が、夕日とかがやくまぶしい光の中で、ブロンドのようにきらめいた。かみしめたその左の腕から血がぽたぽたとしたたっていた。そのしたたりが腕から離れて宙に飛ぶごとに、虹色(にじいろ)にきらきらと巴(ともえ)を描いて飛び跳(おど)った。
「……わたしを見捨てるん……」
 葉子はその声をまざまざと聞いたと思った時、目がさめたようにふっとあらためて港を見渡した。そして、なんの感じも起こさないうちに、熟睡からちょっと驚かされた赤児(あかご)が、またたわいなく眠りに落ちて行くように、再び夢ともうつつともない心に返って行った。港の景色はいつのまにか消えてしまって、自分で自分の腕にしがみ付いた若者の姿が、まざまざと現われ出た。葉子はそれを見ながらどうしてこんな変な心持ちになるのだろう。血のせいとでもいうのだろうか。事によるとヒステリーにかかっているのではないかしらんなどとのんきに自分の身の上を考えていた。いわば悠々(ゆうゆう)閑々と澄み渡った水の隣に、薄紙一重(ひとえ)の界(さかい)も置かず、たぎり返って渦(うず)巻き流れる水がある。葉子の心はその静かなほうの水に浮かびながら、滝川の中にもまれもまれて落ちて行く自分というものを他人事(ひとごと)のようにながめやっているようなものだった。葉子は自分の冷淡さにあきれながら、それでもやっぱり驚きもせず、手欄(てすり)によりかかってじっと立っていた。
「田川法学博士(はかせ)」
 葉子はまたふといたずら者らしくこんなことを思っていた。が、田川夫妻が自分と反対の舷(げん)の籐椅子(とういす)に腰かけて、世辞世辞しく近寄って来る同船者と何か戯談口(じょうだんぐち)でもきいているとひとりで決めると、安心でもしたように幻想はまたかの若者にかえって行った。葉子はふと右の肩に暖かみを覚えるように思った。そこには若者の熱い涙が浸(し)み込んでいるのだ。葉子は夢遊病者のような目つきをして、やや頭を後ろに引きながら肩の所を見ようとすると、その瞬間、若者を船から桟橋に連れ出した船員の事がはっと思い出されて、今まで盲(めし)いていたような目に、まざまざとその大きな黒い顔が映った。葉子はなお夢みるような目を見開いたまま、船員の濃い眉(まゆ)から黒い口髭(くちひげ)のあたりを見守っていた。
 船はもうかなり速力を早めて、霧のように降るともなく降る雨の中を走っていた。舷側(げんそく)から吐き出される捨て水の音がざあざあと聞こえ出したので、遠い幻想の国から一足(そく)飛びに取って返した葉子は、夢ではなく、まがいもなく目の前に立っている船員を見て、なんという事なしにぎょっとほんとうに驚いて立ちすくんだ。始めてアダムを見たイヴのように葉子はまじまじと珍しくもないはずの一人(ひとり)の男を見やった。
「ずいぶん長い旅ですが、何、もうこれだけ日本が遠くなりましたんだ」
 といってその船員は右手を延べて居留地の鼻を指さした。がっしりした肩をゆすって、勢いよく水平に延ばしたその腕からは、強くはげしく海上に生きる男の力がほとばしった。葉子は黙ったまま軽くうなずいた、胸の下の所に不思議な肉体的な衝動をかすかに感じながら。
「お一人(ひとり)ですな」
 塩がれた強い声がまたこう響いた。葉子はまた黙ったまま軽くうなずいた。
 船はやがて乗りたての船客の足もとにかすかな不安を与えるほどに速力を早めて走り出した。葉子は船員から目を移して海のほうを見渡して見たが、自分のそばに一人の男が立っているという、強い意識から起こって来る不安はどうしても消す事ができなかった。葉子にしてはそれは不思議な経験だった。こっちから何か物をいいかけて、この苦しい圧迫を打ち破ろうと思ってもそれができなかった。今何か物をいったらきっとひどい不自然な物のいいかたになるに決まっている。そうかといってその船員には無頓着(むとんじゃく)にもう一度前のような幻想に身を任せようとしてもだめだった。神経が急にざわざわと騒ぎ立って、ぼーっと煙(けぶ)った霧雨(きりさめ)のかなたさえ見とおせそうに目がはっきりして、先ほどのおっかぶさるような暗愁は、いつのまにかはかない出来心のしわざとしか考えられなかった。その船員は傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に衣嚢(かくし)の中から何か書いた物を取り出して、それを鉛筆でチェックしながら、時々思い出したように顔を引いて眉(まゆ)をしかめながら、襟(えり)の折り返しについたしみを、親指の爪(つめ)でごしごしと削ってははじいていた。
 葉子の神経はそこにいたたまれないほどちかちかと激しく働き出した。自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく大股(おおまた)ではいり込んで来る邪魔者でも避けるように、その船員から遠ざかろうとして、つと手欄(てすり)から離れて自分の船室のほうに階子段(はしごだん)を降りて行こうとした。
「どこにおいでです」
 後ろから、葉子の頭から爪先(つまさき)までを小さなものででもあるように、一目に籠(こ)めて見やりながら、その船員はこう尋ねた。葉子は、
「船室まで参りますの」
 と答えないわけには行かなかった。その声は葉子の目論見(もくろみ)に反して恐ろしくしとやかな響きを立てていた。するとその男は大股(おおまた)で葉子とすれすれになるまで近づいて来て、

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