或る女
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著者名:有島武郎 

そのあげくに木村はしゃあしゃあとわたしを妻にしたいんですって、義一さん、男ってそれでいいものなんですか。まあね物の譬(たと)えがですわ。それとも言葉ではなんといってもむだだから、実行的にわたしの潔白を立ててやろうとでもいうんでしょうか」
 そういって激昂(げきこう)しきった葉子はかみ捨てるようにかん高(だか)くほゝと笑った。
「いったいわたしはちょっとした事で好ききらいのできる悪い質(たち)なんですからね。といってわたしはあなたのような生(き)一本でもありませんのよ。
 母の遺言だから木村と夫婦になれ。早く身を堅めて地道(じみち)に暮らさなければ母の名誉をけがす事になる。妹だって裸でお嫁入りもできまいといわれれば、わたし立派(りっぱ)に木村の妻になって御覧にいれます。その代わり木村が少しつらいだけ。
 こんな事をあなたの前でいってはさぞ気を悪くなさるでしょうが、真直(まっすぐ)なあなただと思いますから、わたしもその気で何もかも打ち明けて申してしまいますのよ。わたしの性質や境遇はよく御存じですわね。こんな性質でこんな境遇にいるわたしがこう考えるのにもし間違いがあったら、どうか遠慮なくおっしゃってください。
 あゝいやだった事。義一さん、わたしこんな事はおくびにも出さずに今の今までしっかり胸にしまって我慢していたのですけれども、きょうはどうしたんでしょう、なんだか遠い旅にでも出たようなさびしい気になってしまって……」
 弓弦(ゆづる)を切って放したように言葉を消して葉子はうつむいてしまった。日はいつのまにかとっぷりと暮れていた。じめじめと降り続く秋雨に湿(しと)った夜風が細々と通(かよ)って来て、湿気でたるんだ障子紙をそっとあおって通った。古藤は葉子の顔を見るのを避けるように、そこらに散らばった服地や帽子などをながめ回して、なんと返答をしていいのか、いうべき事は腹にあるけれども言葉には現わせないふうだった。部屋(へや)は息気(いき)苦しいほどしんとなった。
 葉子は自分の言葉から、その時のありさまから、妙にやる瀬ないさびしい気分になっていた。強い男の手で思い存分両肩でも抱きすくめてほしいようなたよりなさを感じた。そして横腹に深々と手をやって、さし込む痛みをこらえるらしい姿をしていた。古藤はややしばらくしてから何か決心したらしくまともに葉子を見ようとしたが、葉子の切(せつ)なさそうな哀れな様子を見ると、驚いた顔つきをしてわれ知らず葉子のほうにいざり寄った。葉子はすかさず豹(ひょう)のようになめらかに身を起こしていち早くもしっかり古藤のさし出す手を握っていた。そして、
「義一さん」
 と震えを帯びていった声は存分に涙にぬれているように響いた。古藤は声をわななかして、
「木村はそんな人間じゃありませんよ」
 とだけいって黙ってしまった。
 だめだったと葉子はその途端に思った。葉子の心持ちと古藤の心持ちとはちぐはぐになっているのだ。なんという響きの悪い心だろうと葉子はそれをさげすんだ。しかし様子にはそんな心持ちは少しも見せないで、頭から肩へかけてのなよやかな線を風の前のてっせんの蔓(つる)のように震わせながら、二三度深々とうなずいて見せた。
 しばらくしてから葉子は顔を上げたが、涙は少しも目にたまってはいなかった。そしていとしい弟でもいたわるようにふとんから立ち上がりざま、
「すみませんでした事、義一さん、あなた御飯はまだでしたのね」
 といいながら、腹の痛むのをこらえるような姿で古藤の前を通りぬけた。湯でほんのりと赤らんだ素足に古藤の目が鋭くちらっと宿ったのを感じながら、障子を細目にあけて手をならした。
 葉子はその晩不思議に悪魔じみた誘惑を古藤に感じた。童貞で無経験で恋の戯れにはなんのおもしろみもなさそうな古藤、木村に対してといわず、友だちに対して堅苦しい義務観念の強い古藤、そういう男に対して葉子は今までなんの興味をも感じなかったばかりか、働きのない没情漢(わからずや)と見限って、口先ばかりで人間並みのあしらいをしていたのだ。しかしその晩葉子はこの少年のような心を持って肉の熟した古藤に罪を犯させて見たくってたまらなくなった。一夜のうちに木村とは顔も合わせる事のできない人間にして見たくってたまらなくなった。古藤の童貞を破る手を他の女に任せるのがねたましくてたまらなくなった。幾枚も皮をかぶった古藤の心のどん底に隠れている欲念を葉子の蠱惑力(チャーム)で掘り起こして見たくってたまらなくなった。
 気取(けど)られない範囲で葉子があらん限りの謎(なぞ)を与えたにもかかわらず、古藤が堅くなってしまってそれに応ずるけしきのないのを見ると葉子はますますいらだった。そしてその晩は腹が痛んでどうしても東京に帰れないから、いやでも横浜に宿(とま)ってくれといい出した。しかし古藤は頑(がん)としてきかなかった。そして自分で出かけて行って、品(しな)もあろう事かまっ赤(か)な毛布(もうふ)を一枚買って帰って来た。葉子はとうとう我(が)を折って最終列車で東京に帰る事にした。
 一等の客車には二人(ふたり)のほかに乗客はなかった。葉子はふとした出来心から古藤をおとしいれようとした目論見(もくろみ)に失敗して、自分の征服力に対するかすかな失望と、存分の不快とを感じていた。客車の中ではまたいろいろと話そうといって置きながら、汽車が動き出すとすぐ、古藤の膝(ひざ)のそばで毛布にくるまったまま新橋まで寝通してしまった。
 新橋に着いてから古藤が船の切符を葉子に渡して人力車を二台傭(やと)って、その一つに乗ると、葉子はそれにかけよって懐中から取り出した紙入れを古藤の膝にほうり出して、左の鬢(びん)をやさしくかき上げながら、
「きょうのお立て替えをどうぞその中から……あすはきっといらしってくださいましね……お待ち申しますことよ……さようなら」
 といって自分ももう一つの車に乗った。葉子の紙入れの中には正金銀行から受け取った五十円金貨八枚がはいっている。そして葉子は古藤がそれをくずして立て替えを取る気づかいのないのを承知していた。

       六

 葉子が米国に出発する九月二十五日はあすに迫った。二百二十日の荒れそこねたその年の天気は、いつまでたっても定まらないで、気違い日和(びより)ともいうべき照り降りの乱雑な空あいが続き通していた。
 葉子はその朝暗いうちに床を離れて、蔵の陰になつた自分の小部屋(こべや)にはいって、前々から片づけかけていた衣類の始末をし始めた。模様や縞(しま)の派手(はで)なのは片端からほどいて丸めて、次の妹の愛子にやるようにと片すみに重ねたが、その中には十三になる末の妹の貞世(さだよ)に着せても似合わしそうな大柄(おおがら)なものもあった。葉子は手早くそれをえり分けて見た。そして今度は船に持ち込む四季の晴れ着を、床の間の前にあるまっ黒に古ぼけたトランクの所まで持って行って、ふたをあけようとしたが、ふとそのふたのまん中に書いてあるY・Kという白文字を見て忙(せわ)しく手を控えた。これはきのう古藤が油絵の具と画筆とを持って来て書いてくれたので、かわききらないテレビンの香がまだかすかに残っていた。古藤は、葉子・早月の頭文字(かしらもじ)Y・Sと書いてくれと折り入って葉子の頼んだのを笑いながら退けて、葉子・木村の頭文字Y・Kと書く前に、S・Kとある字をナイフの先で丁寧に削ったのだった。S・Kとは木村貞一のイニシャルで、そのトランクは木村の父が欧米を漫遊した時使ったものなのだ。その古い色を見ると、木村の父の太(ふと)っ腹(ぱら)な鋭い性格と、波瀾(はらん)の多い生涯(しょうがい)の極印(ごくいん)がすわっているように見えた。木村はそれを葉子の用にと残して行ったのだった。木村の面影はふと葉子の頭の中を抜けて通った。空想で木村を描く事は、木村と顔を見合わす時ほどの厭(いと)わしい思いを葉子に起こさせなかった。黒い髪の毛をぴったりときれいに分けて、怜(さ)かしい中高(なかだか)の細面(ほそおもて)に、健康らしいばら色を帯びた容貌(ようぼう)や、甘すぎるくらい人情におぼれやすい殉情的な性格は、葉子に一種のなつかしさをさえ感ぜしめた。しかし実際顔と顔とを向かい合わせると、二人(ふたり)は妙に会話さえはずまなくなるのだった。その怜(さ)かしいのがいやだった。柔和なのが気にさわった。殉情的なくせに恐ろしく勘定高いのがたまらなかった。青年らしく土俵ぎわまで踏み込んで事業を楽しむという父に似た性格さえこましゃくれて見えた。ことに東京生まれといってもいいくらい都慣れた言葉や身のこなしの間に、ふと東北の郷土の香(にお)いをかぎ出した時にはかんで捨てたいような反感に襲われた。葉子の心は今、おぼろげな回想から、実際膝(ひざ)つき合わせた時にいやだと思った印象に移って行った。そして手に持った晴れ着をトランクに入れるのを控えてしまった。長くなり始めた夜もそのころにはようやく白(しら)み始めて、蝋燭(ろうそく)の黄色い焔(ほのお)が光の亡骸(なきがら)のように、ゆるぎもせずにともっていた。夜の間(あいだ)静まっていた西風が思い出したように障子にぶつかって、釘店(くぎだな)の狭い通りを、河岸(かし)で仕出しをした若い者が、大きな掛け声でがらがらと車をひきながら通るのが聞こえ出した。葉子はきょう一日に目まぐるしいほどあるたくさんの用事をちょっと胸の中で数えて見て、大急ぎでそこらを片づけて、錠をおろすものには錠をおろし切って、雨戸を一枚繰って、そこからさし込む光で大きな手文庫からぎっしりつまった男文字の手紙を引き出すと風呂敷(ふろしき)に包み込んだ。そしてそれをかかえて、手燭(てしょく)を吹き消しながら部屋(へや)を出ようとすると、廊下に叔母(おば)が突っ立っていた。
「もう起きたんですね……片づいたかい」
 と挨拶(あいさつ)してまだ何かいいたそうであった。両親を失ってからこの叔母夫婦と、六歳になる白痴の一人息子(ひとりむすこ)とが移って来て同居する事になったのだ。葉子の母が、どこか重々しくって男々(おお)しい風采(ふうさい)をしていたのに引きかえ、叔母は髪の毛の薄い、どこまでも貧相に見える女だった。葉子の目はその帯(おび)しろ裸(はだか)な、肉の薄い胸のあたりをちらっとかすめた。
「おやお早うございます……あらかた片づきました」
 といってそのまま二階に行こうとすると、叔母は爪(つめ)にいっぱい垢(あか)のたまった両手をもやもやと胸の所でふりながら、さえぎるように立ちはだかって、
「あのお前さんが片づける時にと思っていたんだがね。あすのお見送りに私は着て行くものが無いんだよ。おかあさんのもので間(ま)に合うのは無いだろうかしらん。あすだけ借りればあとはちゃんと始末をして置くんだからちょっと見ておくれでないか」
 葉子はまたかと思った。働きのない良人(おっと)に連れ添って、十五年の間(あいだ)丸帯一つ買ってもらえなかった叔母の訓練のない弱い性格が、こうさもしくなるのをあわれまないでもなかったが、物怯(ものお)じしながら、それでいて、欲にかかるとずうずうしい、人のすきばかりつけねらう仕打ちを見ると、虫唾(むしず)が走るほど憎かった。しかしこんな思いをするのもきょうだけだと思って部屋の中に案内した。叔母は空々(そらぞら)しく気の毒だとかすまないとかいい続けながら錠をおろした箪笥(たんす)を一々あけさせて、いろいろと勝手に好みをいった末に、りゅうとした一揃(ひとそろ)えを借る事にして、それから葉子の衣類までをとやかくいいながら去りがてにいじくり回した。台所からは、みそ汁(しる)の香(にお)いがして、白痴の子がだらしなく泣き続ける声と、叔父(おじ)が叔母を呼び立てる声とが、すがすがしい朝の空気を濁すように聞こえて来た。葉子は叔母にいいかげんな返事をしながらその声に耳を傾けていた。そして早月家の最後の離散という事をしみじみと感じたのであった。電話はある銀行の重役をしている親類がいいかげんな口実(こうじつ)を作って只(ただ)持って行ってしまった。父の書斎道具や骨董品(こっとうひん)は蔵書と一緒に糶売(せりう)りをされたが、売り上げ代はとうとう葉子の手にははいらなかった。住居(すまい)は住居で、葉子の洋行後には、両親の死後何かに尽力したという親類の某が、二束三文(にそくさんもん)で譲り受ける事に親族会議で決まってしまった。少しばかりある株券と地所(じしょ)とは愛子と貞世(さだよ)との教育費にあてる名儀で某々が保管する事になった。そんな勝手放題なまねをされるのを葉子は見向きもしないで黙っていた。もし葉子が素直(すなお)な女だったら、かえって食い残しというほどの遺産はあてがわれていたに違いない。しかし親族会議では葉子を手におえない女だとして、他所(よそ)に嫁入って行くのをいい事に、遺産の事にはいっさい関係させない相談をしたくらいは葉子はとうに感づいていた。自分の財産となればなるべきものを一部分だけあてがわれて、黙って引っ込んでいる葉子ではなかった。それかといって長女ではあるが、女の身として全財産に対する要求をする事の無益なのも知っていた。で「犬にやるつもりでいよう」と臍(ほぞ)を堅めてかかったのだった。今、あとに残ったものは何がある。切り回しよく見かけを派手(はで)にしている割合に、不足がちな三人の姉妹の衣類諸道具が少しばかりあるだけだ。それを叔母は容赦もなくそこまで切り込んで来ているのだ。白紙のようなはかない寂しさと、「裸になるならきれいさっぱり裸になって見せよう」という火のような反抗心とが、むちゃくちゃに葉子の胸を冷やしたり焼いたりした。葉子はこんな心持ちになって、先ほどの手紙の包みをかかえて立ち上がりながら、うつむいて手ざわりのいい絹物をなで回している叔母を見おろした。
「それじゃわたしまだほかに用がありますししますから錠をおろさずにおきますよ。ごゆっくり御覧なさいまし。そこにかためてあるのはわたしが持って行くんですし、ここにあるのは愛と貞にやるのですから別になすっておいてください」
 といい捨てて、ずんずん部屋(へや)を出た。往来には砂ほこりが立つらしく風が吹き始めていた。
 二階に上がって見ると、父の書斎であった十六畳の隣の六畳に、愛子と貞世とが抱き合って眠っていた。葉子は自分の寝床を手早くたたみながら愛子を呼び起こした。愛子は驚いたように大きな美しい目を開くと半分夢中で飛び起きた。葉子はいきなり厳重な調子で、
「あなたはあすからわたしの代わりをしないじゃならないんですよ。朝寝坊なんぞしていてどうするの。あなたがぐずぐずしていると貞ちゃんがかわいそうですよ。早く身じまいをして下のお掃除(そうじ)でもなさいまし」
 とにらみつけた。愛子は羊のように柔和な目をまばゆそうにして、姉をぬすみ見ながら、着物を着かえて下に降りて行った。葉子はなんとなく性(しょう)の合わないこの妹が、階子段(はしごだん)を降りきったのを聞きすまして、そっと貞世のほうに近づいた。面(おも)ざしの葉子によく似た十三の少女は、汗じみた顔には下げ髪がねばり付いて、頬(ほお)は熱でもあるように上気している。それを見ると葉子は骨肉(こつにく)のいとしさに思わずほほえませられて、その寝床にいざり寄って、その童女を羽(は)がいに軽く抱きすくめた。そしてしみじみとその寝顔にながめ入った。貞世の軽い呼吸は軽く葉子の胸に伝わって来た。その呼吸が一つ伝わるたびに、葉子の心は妙にめいって行った。同じ胎(はら)を借りてこの世に生まれ出た二人(ふたり)の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、果ては寂しい、ただ寂しい涙がほろほろととめどなく流れ出るのだった。
 一家の離散を知らぬ顔で、女の身そらをただひとり米国の果てまでさすらって行くのを葉子は格別なんとも思っていなかった。振り分け髪の時分から、飽くまで意地(いじ)の強い目はしのきく性質を思うままに増長さして、ぐんぐんと世の中をわき目もふらず押し通して二十五になった今、こんな時にふと過去を振り返って見ると、いつのまにかあたりまえの女の生活をすりぬけて、たった一人(ひとり)見も知らぬ野ずえに立っているような思いをせずにはいられなかった。女学校や音楽学校で、葉子の強い個性に引きつけられて、理想の人ででもあるように近寄って来た少女たちは、葉子におどおどしい同性の恋をささげながら、葉子に inspire されて、われ知らず大胆な奔放な振る舞いをするようになった。そのころ「国民文学」や「文学界」に旗挙(はたあ)げをして、新しい思想運動を興そうとした血気なロマンティックな青年たちに、歌の心を授けた女の多くは、おおかた葉子から血脈を引いた少女らであった。倫理学者や、教育家や、家庭の主権者などもそのころから猜疑(さいぎ)の目を見張って少女国を監視し出した。葉子の多感な心は、自分でも知らない革命的ともいうべき衝動のためにあてもなく揺(ゆる)ぎ始めた。葉子は他人を笑いながら、そして自分をさげすみながら、まっ暗な大きな力に引きずられて、不思議な道に自覚なく迷い入って、しまいにはまっしぐらに走り出した。だれも葉子の行く道のしるべをする人もなく、他の正しい道を教えてくれる人もなかった。たまたま大きな声で呼び留める人があるかと思えば、裏表(うらおもて)の見えすいたぺてんにかけて、昔のままの女であらせようとするものばかりだった。葉子はそのころからどこか外国に生まれていればよかったと思うようになった。あの自由らしく見える女の生活、男と立ち並んで自分を立てて行く事のできる女の生活……古い良心が自分の心をさいなむたびに、葉子は外国人の良心というものを見たく思った。葉子は心の奥底でひそかに芸者(げいしゃ)をうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは芸者だけではないかとさえ思った。こんな心持ちで年を取って行く間(あいだ)に葉子はもちろんなんどもつまずいてころんだ。そしてひとりで膝(ひざ)の塵(ちり)を払わなければならなかった。こんな生活を続けて二十五になった今、ふと今まで歩いて来た道を振り返って見ると、いっしょに葉子と走っていた少女たちは、とうの昔に尋常な女になり済ましていて、小さく見えるほど遠くのほうから、あわれむようなさげすむような顔つきをして、葉子の姿をながめていた。葉子はもと来た道に引き返す事はもうできなかった。できたところで引き返そうとする気はみじんもなかった。「勝手にするがいい」そう思って葉子はまたわけもなく不思議な暗い力に引っぱられた。こういうはめになった今、米国にいようが日本にいようが少しばかりの財産があろうが無かろうが、そんな事は些細(ささい)な話だった。境遇でも変わったら何か起こるかもしれない。元のままかもしれない。勝手になれ。葉子を心の底から動かしそうなものは一つも身近(みぢか)には見当たらなかった。
 しかし一つあった。葉子の涙はただわけもなくほろほろと流れた。貞世は何事も知らずに罪なく眠りつづけていた。同じ胎(はら)を借りてこの世に生まれ出た二人(ふたり)の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、この子もやがては自分が通って来たような道を歩くのかと思うと、自分をあわれむとも妹をあわれむとも知れない切(せつ)ない心に先だたれて、思わずぎゅっと貞世を抱きしめながら物をいおうとした。しかし何をいい得ようぞ。喉(のど)もふさがってしまっていた。貞世は抱きしめられたので始めて大きく目を開いた。そしてしばらくの間、涙にぬれた姉の顔をまじまじとながめていたが、やがて黙ったまま小さい袖(そで)でその涙をぬぐい始めた。葉子の涙は新しくわき返った。貞世は痛ましそうに姉の涙をぬぐいつづけた。そしてしまいにはその袖を自分の顔に押しあてて何か言い言いしゃくり上げながら泣き出してしまった。

       七

 葉子はその朝横浜の郵船会社の永田から手紙を受け取った。漢学者らしい風格の、上手(じょうず)な字で唐紙牋(とうしせん)に書かれた文句には、自分は故早月氏には格別の交誼(こうぎ)を受けていたが、あなたに対しても同様の交際を続ける必要のないのを遺憾に思う。明晩(すなわちその夜)のお招きにも出席しかねる、と剣(けん)もほろろに書き連ねて、追伸(ついしん)に、先日あなたから一言(ごん)の紹介もなく訪問してきた素性(すじょう)の知れぬ青年の持参した金はいらないからお返しする。良人(おっと)の定まった女の行動は、申すまでもないが慎むが上にもことに慎むべきものだと私どもは聞き及んでいる。ときっぱり書いて、その金額だけの為替(かわせ)が同封してあった。葉子が古藤を連れて横浜に行ったのも、仮病(けびょう)をつかって宿屋に引きこもったのも、実をいうと船商売をする人には珍しい厳格なこの永田に会うめんどうを避けるためだった。葉子は小さく舌打ちして、為替ごと手紙を引き裂こうとしたが、ふと思い返して、丹念(たんねん)に墨をすりおろして一字一字考えて書いたような手紙だけずたずたに破いて屑(くず)かごに突っ込んだ。
 葉子は地味(じみ)な他行衣(よそいき)に寝衣(ねまき)を着かえて二階を降りた。朝食は食べる気がなかった。妹たちの顔を見るのも気づまりだった。
 姉妹三人のいる二階の、すみからすみまできちんと小ぎれいに片付いているのに引きかえて、叔母(おば)一家の住まう下座敷は変に油ぎってよごれていた。白痴の子が赤ん坊同様なので、東の縁に干してある襁褓(むつき)から立つ塩臭いにおいや、畳の上に踏みにじられたままこびりついている飯粒などが、すぐ葉子の神経をいらいらさせた。玄関に出て見ると、そこには叔父(おじ)が、襟(えり)のまっ黒に汗じんだ白い飛白(かすり)を薄寒そうに着て、白痴の子を膝(ひざ)の上に乗せながら、朝っぱらから柿(かき)をむいてあてがっていた。その柿の皮があかあかと紙くずとごったになって敷き石の上に散っていた。葉子は叔父にちょっと挨拶(あいさつ)をして草履(ぞうり)をさがしながら、
「愛さんちょっとここにおいで。玄関が御覧、あんなによごれているからね、きれいに掃除(そうじ)しておいてちょうだいよ。――今夜はお客様もあるんだのに……」
 と駆けて来た愛子にわざとつんけんいうと、叔父は神経の遠くのほうであてこすられたのを感じたふうで、
「おゝ、それはわしがしたんじゃで、わしが掃除しとく。構(かも)うてくださるな、おいお俊(しゅん)――お俊というに、何しとるぞい」
 とのろまらしく呼び立てた。帯(おび)しろ裸(はだか)の叔母がそこにやって来て、またくだらぬ口論(くちいさかい)をするのだと思うと、泥(どろ)の中でいがみ合う豚かなんぞを思い出して、葉子は踵(かかと)の塵(ちり)を払わんばかりにそこそこ家を出た。細い釘店(くぎだな)の往来は場所柄(がら)だけに門並(かどな)みきれいに掃除されて、打ち水をした上を、気のきいた風体(ふうてい)の男女が忙しそうに往(ゆ)き来(き)していた。葉子は抜け毛の丸めたのや、巻煙草(まきたばこ)の袋のちぎれたのが散らばって箒(ほうき)の目一つない自分の家の前を目をつぶって駆けぬけたいほどの思いをして、ついそばの日本銀行にはいってありったけの預金を引き出した。そしてその前の車屋で始終乗りつけのいちばん立派な人力車を仕立てさして、その足で買い物に出かけた。妹たちに買い残しておくべき衣服地や、外国人向きの土産品(みやげひん)や、新しいどっしりしたトランクなどを買い入れると、引き出した金はいくらも残ってはいなかった。そして午後の日がやや傾きかかったころ、大塚窪町(おおつかくぼまち)に住む内田(うちだ)という母の友人を訪れた。内田は熱心なキリスト教の伝道者として、憎む人からは蛇蝎(だかつ)のように憎まれるし、好きな人からは予言者のように崇拝されている天才肌(はだ)の人だった。葉子は五つ六つのころ、母に連れられて、よくその家に出入りしたが、人を恐れずにぐんぐん思った事をかわいらしい口もとからいい出す葉子の様子が、始終人から距(へだ)てをおかれつけた内田を喜ばしたので、葉子が来ると内田は、何か心のこだわった時でもきげんを直して、窄(せま)った眉根(まゆね)を少しは開きながら、「また子猿(こざる)が来たな」といって、そのつやつやしたおかっぱをなで回したりなぞした。そのうち母がキリスト教婦人同盟の事業に関係して、たちまちのうちにその牛耳(ぎゅうじ)を握り、外国宣教師だとか、貴婦人だとかを引き入れて、政略がましく事業の拡張に奔走するようになると、内田はすぐきげんを損じて、早月親佐(さつきおやさ)を責めて、キリストの精神を無視した俗悪な態度だといきまいたが、親佐がいっこうに取り合う様子がないので、両家の間は見る見る疎々(うとうと)しいものになってしまった。それでも内田は葉子だけには不思議に愛着を持っていたと見えて、よく葉子のうわさをして、「子猿」だけは引き取って子供同様に育ててやってもいいなぞといったりした。内田は離縁した最初の妻が連れて行ってしまったたった一人(ひとり)の娘にいつまでも未練を持っているらしかった。どこでもいいその娘に似たらしい所のある少女を見ると、内田は日ごろの自分を忘れたように甘々(あまあま)しい顔つきをした。人が怖れる割合に、葉子には内田が恐ろしく思えなかったばかりか、その峻烈(しゅんれつ)な性格の奥にとじこめられて小さくよどんだ愛情に触れると、ありきたりの人間からは得られないようななつかしみを感ずる事があった。葉子は母に黙って時々内田を訪れた。内田は葉子が来ると、どんな忙しい時でも自分の部屋(へや)に通して笑い話などをした。時には二人だけで郊外の静かな並み木道などを散歩したりした。ある時内田はもう娘らしく生長した葉子の手を堅く握って、「お前は神様以外の私のただ一人の道伴(みちづ)れだ」などといった。葉子は不思議な甘い心持ちでその言葉を聞いた。その記憶は長く忘れ得なかった。
 それがあの木部との結婚問題が持ち上がると、内田は否応(いやおう)なしにある日葉子を自分の家に呼びつけた。そして恋人の変心を詰(なじ)り責める嫉妬(しっと)深い男のように、火と涙とを目からほとばしらせて、打ちもすえかねぬまでに狂い怒った。その時ばかりは葉子も心から激昂(げきこう)させられた。「だれがもうこんなわがままな人の所に来てやるものか」そう思いながら、生垣(いけがき)の多い、家並(やな)みのまばらな、轍(わだち)の跡のめいりこんだ小石川(こいしかわ)の往来を歩き歩き、憤怒の歯ぎしりを止めかねた。それは夕闇(ゆうやみ)の催した晩秋だった。しかしそれと同時になんだか大切なものを取り落としたような、自分をこの世につり上げてる糸の一つがぷつんと切れたような不思議なさびしさの胸に逼(せま)るのをどうする事もできなかった。
「キリストに水をやったサマリヤの女の事も思うから、この上お前には何もいうまい――他人(ひと)の失望も神の失望もちっとは考えてみるがいい、……罪だぞ、恐ろしい罪だぞ」
 そんな事があってから五年を過ぎたきょう、郵便局に行って、永田から来た為替(かわせ)を引き出して、定子を預かってくれている乳母(うば)の家に持って行こうと思った時、葉子は紙幣の束を算(かぞ)えながら、ふと内田の最後の言葉を思い出したのだった。物のない所に物を探るような心持ちで葉子は人力車を大塚のほうに走らした。
 五年たっても昔のままの構えで、まばらにさし代えた屋根板と、めっきり延びた垣添(かきぞ)いの桐(きり)の木とが目立つばかりだった。砂きしみのする格子戸(こうしど)をあけて、帯前を整えながら出て来た柔和な細君(さいくん)と顔を合わせた時は、さすがに懐旧の情が二人の胸を騒がせた。細君は思わず知らず「まあどうぞ」といったが、その瞬間にはっとためらったような様子になって、急いで内田の書斎にはいって行った。しばらくすると嘆息しながら物をいうような内田の声が途切れ途切れに聞こえた。「上げるのは勝手だがおれが会う事はないじゃないか」といったかと思うと、はげしい音を立てて読みさしの書物をぱたんと閉じる音がした。葉子は自分の爪先(つまさき)を見つめながら下くちびるをかんでいた。
 やがて細君がおどおどしながら立ち現われて、まずと葉子を茶の間(ま)に招じ入れた。それと入れ代わりに、書斎では内田が椅子(いす)を離れた音がして、やがて内田はずかずかと格子戸をあけて出て行ってしまった。
 葉子は思わずふらふらッと立ち上がろうとするのを、何気ない顔でじっとこらえた。せめては雷のような激しいその怒りの声に打たれたかった。あわよくば自分も思いきりいいたい事をいってのけたかった。どこに行っても取りあいもせず、鼻であしらい、鼻であしらわれ慣れた葉子には、何か真味な力で打ちくだかれるなり、打ちくだくなりして見たかった。それだったのに思い入って内田の所に来て見れば、内田は世の常の人々よりもいっそう冷ややかに酷(むご)く思われた。
「こんな事をいっては失礼ですけれどもね葉子さん、あなたの事をいろいろにいって来る人があるもんですからね、あのとおりの性質でしょう。どうもわたしにはなんともいいなだめようがないのですよ。内田があなたをお上げ申したのが不思議なほどだとわたし思いますの。このごろはことさらだれにもいわれないようなごたごたが家の内にあるもんですから、よけいむしゃくしゃしていて、ほんとうにわたしどうしたらいいかと思う事がありますの」
 意地も生地(きじ)も内田の強烈な性格のために存分に打ち砕かれた細君は、上品な顔立てに中世紀の尼にでも見るような思いあきらめた表情を浮かべて、捨て身の生活のどん底にひそむさびしい不足をほのめかした。自分より年下で、しかも良人(おっと)からさんざん悪評を投げられているはずの葉子に対してまで、すぐ心が砕けてしまって、張りのない言葉で同情を求めるかと思うと、葉子は自分の事のように歯がゆかった。眉(まゆ)と口とのあたりにむごたらしい軽蔑(けいべつ)の影が、まざまざと浮かび上がるのを感じながら、それをどうする事もできなかった。葉子は急に青味を増した顔で細君を見やったが、その顔は世故(せこ)に慣れきった三十女のようだった。(葉子は思うままに自分の年を五つも上にしたり下にしたりする不思議な力を持っていた。感情次第でその表情は役者の技巧のように変わった)
「歯がゆくはいらっしゃらなくって」
 と切り返すように内田の細君の言葉をひったくって、
「わたしだったらどうでしょう。すぐおじさんとけんかして出てしまいますわ。それはわたし、おじさんを偉い方(かた)だとは思っていますが、わたしこんなに生まれついたんですからどうしようもありませんわ。一から十までおっしゃる事をはいはいと聞いていられませんわ。おじさんもあんまりでいらっしゃいますのね。あなたみたいな方に、そう笠(かさ)にかからずとも、わたしでもお相手になさればいいのに……でもあなたがいらっしゃればこそおじさんもああやってお仕事がおできになるんですのね。わたしだけは除(の)け物ですけれども、世の中はなかなかよくいっていますわ。……あ、それでもわたしはもう見放されてしまったんですものね、いう事はありゃしません。ほんとうにあなたがいらっしゃるのでおじさんはお仕合わせですわ。あなたは辛抱なさる方(かた)。おじさんはわがままでお通しになる方(かた)。もっともおじさんにはそれが神様の思(おぼ)し召(め)しなんでしょうけれどもね。……わたしも神様の思(おぼ)し召(め)しかなんかでわがままで通す女なんですからおじさんとはどうしても茶碗(ちゃわん)と茶碗ですわ。それでも男はようござんすのね、わがままが通るんですもの。女のわがままは通すよりしかたがないんですからほんとうに情けなくなりますのね。何も前世の約束なんでしょうよ……」
 内田の細君は自分よりはるか年下の葉子の言葉をしみじみと聞いているらしかった。葉子は葉子でしみじみと細君の身なりを見ないではいられなかった。一昨日(おととい)あたり結ったままの束髪(そくはつ)だった。癖のない濃い髪には薪(たきぎ)の灰らしい灰がたかっていた。糊気(のりけ)のぬけきった単衣(ひとえ)も物さびしかった。その柄(がら)の細かい所には里の母の着古しというような香(にお)いがした。由緒(ゆいしょ)ある京都の士族に生まれたその人の皮膚は美しかった。それがなおさらその人をあわれにして見せた。
「他人(ひと)の事なぞ考えていられやしない」しばらくすると葉子は捨てばちにこんな事を思った。そして急にはずんだ調子になって、
「わたしあすアメリカに発(た)ちますの、ひとりで」
 と突拍子(とっぴょうし)もなくいった。あまりの不意に細君は目を見張って顔をあげた。
「まあほんとうに」
「はあほんとうに……しかも木村の所に行くようになりましたの。木村、御存じでしょう」
 細君がうなずいてなお仔細(しさい)を聞こうとすると、葉子は事もなげにさえぎって、
「だからきょうはお暇乞(いとまご)いのつもりでしたの。それでもそんな事はどうでもようございますわ。おじさんがお帰りになったらよろしくおっしゃってくださいまし、葉子はどんな人間になり下がるかもしれませんって……あなたどうぞおからだをお大事に。太郎(たろう)さんはまだ学校でございますか。大きくおなりでしょうね。なんぞ持って上がればよかったのに、用がこんなものですから」
 といいながら両手で大きな輪を作って見せて、若々しくほほえみながら立ち上がった。
 玄関に送って出た細君の目には涙がたまっていた。それを見ると、人はよく無意味な涙を流すものだと葉子は思った。けれどもあの涙も内田が無理無体にしぼり出させるようなものだと思い直すと、心臓の鼓動が止まるほど葉子の心はかっとなった。そして口びるを震わしながら、
「もう一言(ひとこと)おじさんにおっしゃってくださいまし、七度を七十倍はなさらずとも、せめて三度ぐらいは人の尤(とが)も許して上げてくださいましって。……もっともこれは、あなたのおために申しますの。わたしはだれにあやまっていただくのもいやですし、だれにあやまるのもいやな性分(しょうぶん)なんですから、おじさんに許していただこうとは頭(てん)から思ってなどいはしませんの。それもついでにおっしゃってくださいまし」
 口のはたに戯談(じょうだん)らしく微笑を見せながら、そういっているうちに、大濤(おおなみ)がどすんどすんと横隔膜につきあたるような心地(ここち)がして、鼻血でも出そうに鼻の孔(あな)がふさがった。門を出る時も口びるはなおくやしそうに震えていた。日は植物園の森の上に舂(うすず)いて、暮れがた近い空気の中に、けさから吹き出していた風はなぎた。葉子は今の心と、けさ早く風の吹き始めたころに、土蔵わきの小部屋(こべや)で荷造りをした時の心とをくらべて見て、自分ながら同じ心とは思い得なかった。そして門を出て左に曲がろうとしてふと道ばたの捨て石にけつまずいて、はっと目がさめたようにあたりを見回した。やはり二十五の葉子である。いゝえ昔たしかに一度けつまずいた事があった。そう思って葉子は迷信家のようにもう一度振り返って捨て石を見た。その時に日は……やはり植物園の森のあのへんにあった。そして道の暗さもこのくらいだった。自分はその時、内田の奥さんに内田の悪口をいって、ペテロとキリストとの間に取りかわされた寛恕(かんじょ)に対する問答を例に引いた。いゝえ、それはきょうした事だった。きょう意味のない涙を奥さんがこぼしたように、その時も奥さんは意味のない涙をこぼした。その時にも自分は二十五……そんな事はない。そんな事のあろうはずがない……変な……。それにしてもあの捨て石には覚えがある。あれは昔からあすこにちゃんとあった。こう思い続けて来ると、葉子は、いつか母と遊びに来た時、何か怒(おこ)ってその捨て石にかじり付いて動かなかった事をまざまざと心に浮かべた。その時は大きな石だと思っていたのにこれんぼっちの石なのか。母が当惑して立った姿がはっきり目先に現われた。と思うとやがてその輪郭が輝き出して、目も向けられないほど耀(かがや)いたが、すっと惜しげもなく消えてしまって、葉子は自分のからだが中有(ちゅうう)からどっしり大地におり立ったような感じを受けた。同時に鼻血がどくどく口から顎(あご)を伝って胸の合わせ目をよごした。驚いてハンケチを袂(たもと)から探り出そうとした時、
「どうかなさいましたか」
 という声に驚かされて、葉子は始めて自分のあとに人力車がついて来ていたのに気が付いた。見ると捨て石のある所はもう八九町後ろになっていた。
「鼻血なの」
 と応(こた)えながら葉子は初めてのようにあたりを見た。そこには紺暖簾(こんのれん)を所せまくかけ渡した紙屋の小店があった。葉子は取りあえずそこにはいって、人目を避けながら顔を洗わしてもらおうとした。
 四十格好の克明(こくめい)らしい内儀(かみ)さんがわが事のように金盥(かなだらい)に水を移して持って来てくれた。葉子はそれで白粉気(おしろいけ)のない顔を思う存分に冷やした。そして少し人心地(ひとごこち)がついたので、帯の間から懐中鏡を取り出して顔を直そうとすると、鏡がいつのまにかま二つに破(わ)れていた。先刻けつまずいた拍子に破れたのかしらんと思ってみたが、それくらいで破れるはずはない。怒りに任せて胸がかっとなった時、破れたのだろうか。なんだかそうらしくも思えた。それともあすの船出の不吉を告げる何かの業(わざ)かもしれない。木村との行く末の破滅を知らせる悪い辻占(つじうら)かもしれない。またそう思うと葉子は襟元(えりもと)に凍った針でも刺されるように、ぞくぞくとわけのわからない身ぶるいをした。いったい自分はどうなって行くのだろう。葉子はこれまでの見窮められない不思議な自分の運命を思うにつけ、これから先の運命が空恐ろしく心に描かれた。葉子は不安な悒鬱(ゆううつ)な目つきをして店を見回した。帳場にすわり込んだ内儀(かみ)さんの膝(ひざ)にもたれて、七つほどの少女が、じっと葉子の目を迎えて葉子を見つめていた。やせぎすで、痛々しいほど目の大きな、そのくせ黒目の小さな、青白い顔が、薄暗い店の奥から、香料や石鹸(せっけん)の香につつまれて、ぼんやり浮き出たように見えるのが、何か鏡の破(わ)れたのと縁でもあるらしくながめられた。葉子の心は全くふだんの落ち付きを失ってしまったようにわくわくして、立ってもすわってもいられないようになった。ばかなと思いながらこわいものにでも追いすがられるようだった。
 しばらくの間(あいだ)葉子はこの奇怪な心の動揺のために店を立ち去る事もしないでたたずんでいたが、ふとどうにでもなれという捨てばちな気になって元気を取り直しながら、いくらかの礼をしてそこを出た。出るには出たが、もう車に乗る気にもなれなかった。これから定子に会いに行ってよそながら別れを惜しもうと思っていたその心組みさえ物憂(ものう)かった。定子に会ったところがどうなるものか。自分の事すら次の瞬間には取りとめもないものを、他人の事――それはよし自分の血を分けた大切な独子(ひとりご)であろうとも――などを考えるだけがばかな事だと思った。そしてもう一度そこの店から巻紙(まきがみ)を買って、硯箱(すずりばこ)を借りて、男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れるつもりだったが、それができなくなったから、この後とも定子をよろしく頼む。当座の費用として金を少し送っておくという意味を簡単にしたためて、永田から送ってよこした為替(かわせ)の金を封入して、その店を出た。そしていきなりそこに待ち合わしていた人力車の上の膝掛(ひざか)けをはぐって、蹴込(けこ)みに打ち付けてある鑑札にしっかり目を通しておいて、
「わたしはこれから歩いて行くから、この手紙をここへ届けておくれ、返事はいらないのだから……お金ですよ、少しどっさりあるから大事にしてね」
 と車夫にいいつけた。車夫はろくに見知りもないものに大金を渡して平気でいる女の顔を今さらのようにきょときょとと見やりながら空俥(からぐるま)を引いて立ち去った。大八車(だいはちぐるま)が続けさまに田舎(いなか)に向いて帰って行く小石川の夕暮れの中を、葉子は傘(かさ)を杖(つえ)にしながら思いにふけって歩いて行った。
 こもった哀愁が、発しない酒のように、葉子のこめかみをちかちかと痛めた。葉子は人力車の行くえを見失っていた。そして自分ではまっすぐに釘店(くぎだな)のほうに急ぐつもりでいた。ところが実際は目に見えぬ力で人力車に結び付けられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、はっと気がついた時にはいつのまにか、乳母が住む下谷(したや)池(いけ)の端(はた)の或(あ)る曲がり角(かど)に来て立っていた。
 そこで葉子はぎょっとして立ちどまってしまった。短くなりまさった日は本郷(ほんごう)の高台に隠れて、往来には厨(くりや)の煙とも夕靄(ゆうもや)ともつかぬ薄い霧がただよって、街頭のランプの灯(ひ)がことに赤くちらほらちらほらとともっていた。通り慣れたこの界隈(かいわい)の空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚をなでた。心よりも肉体のほうがよけいに定子のいる所にひき付けられるようにさえ思えた。葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子の頬(ほお)の膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんすの弾力のある軟(やわ)らかい触感を感じていた。葉子の膝(ひざ)はふうわりとした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。目には、曲がり角(かど)の朽ちかかった黒板塀(くろいたべい)を透(とお)して、木部から稟(う)けた笑窪(えくぼ)のできる笑顔(えがお)が否応なしに吸い付いて来た。……乳房はくすむったかった。葉子は思わず片頬に微笑を浮かべてあたりをぬすむように見回した。とちょうどそこを通りかかった内儀(かみ)さんが、何かを前掛けの下に隠しながらじっと葉子の立ち姿を振り返ってまで見て通るのに気がついた。
 葉子は悪事でも働いていた人のように、急に笑顔を引っ込めてしまった。そしてこそこそとそこを立ちのいて不忍(しのばず)の池(いけ)に出た。そして過去も未来も持たない人のように、池の端につくねんと突っ立ったまま、池の中の蓮(はす)の実の一つに目を定めて、身動きもせずに小半時(こはんとき)立ち尽くしていた。

       八

 日の光がとっぷりと隠れてしまって、往来の灯(ひ)ばかりが足もとのたよりとなるころ、葉子は熱病患者のように濁りきった頭をもてあまして、車に揺られるたびごとに眉(まゆ)を痛々しくしかめながら、釘店(くぎだな)に帰って来た。
 玄関にはいろいろの足駄(あしだ)や靴(くつ)がならべてあったが、流行を作ろう、少なくとも流行に遅れまいというはなやかな心を誇るらしい履物(はきもの)といっては一つも見当たらなかった。自分の草履(ぞうり)を始末しながら、葉子はすぐに二階の客間の模様を想像して、自分のために親戚(しんせき)や知人が寄って別れを惜しむというその席に顔を出すのが、自分自身をばかにしきったことのようにしか思われなかった。こんなくらいなら定子の所にでもいるほうがよほどましだった。こんな事のあるはずだったのをどうしてまた忘れていたものだろう。どこにいるのもいやだ。木部の家を出て、二度とは帰るまいと決心した時のような心持ちで、拾いかけた草履をたたきに戻(もど)そうとしたその途端に、
「ねえさんもういや……いや」
 といいながら、身を震わしてやにわに胸に抱きついて来て、乳の間のくぼみに顔を埋(うず)めながら、成人(おとな)のするような泣きじゃくりをして、
「もう行っちゃいやですというのに」
 とからく言葉を続けたのは貞世(さだよ)だった。葉子は石のように立ちすくんでしまった。貞世は朝からふきげんになってだれのいう事も耳には入れずに、自分の帰るのばかりを待ちこがれていたに違いないのだ。葉子は機械的に貞世に引っぱられて階子段(はしごだん)をのぼって行った。
 階子段をのぼりきって見ると客間はしんとしていて、五十川(いそがわ)女史の祈祷(きとう)の声だけがおごそかに聞こえていた。葉子と貞世とは恋人のように抱き合いながら、アーメンという声の一座の人々からあげられるのを待って室(へや)にはいった。列座の人々はまだ殊勝らしく頭をうなだれている中に、正座近くすえられた古藤(ことう)だけは昂然(こうぜん)と目を見開いて、襖(ふすま)をあけて葉子がしとやかにはいって来るのを見まもっていた。
 葉子は古藤にちょっと目で挨拶(あいさつ)をして置いて、貞世を抱いたまま末座に膝(ひざ)をついて、一同に遅刻のわびをしようとしていると、主人座にすわり込んでいる叔父(おじ)が、わが子でもたしなめるように威儀を作って、
「なんたらおそい事じゃ。きょうはお前の送別会じゃぞい。……皆さんにいこうお待たせするがすまんから、今五十川さんに祈祷(きとう)をお頼み申して、箸(はし)を取っていただこうと思ったところであった……いったいどこを……」
 面と向かっては、葉子に口小言(くちこごと)一ついいきらぬ器量なしの叔父が、場所もおりもあろうにこんな場合に見せびらかしをしようとする。葉子はそっちに見向きもせず、叔父の言葉を全く無視した態度で急に晴れやかな色を顔に浮かべながら、
「ようこそ皆様……おそくなりまして。つい行かなければならない所が二つ三つありましたもんですから……」
 とだれにともなくいっておいて、するすると立ち上がって、釘店(くぎだな)の往来に向いた大きな窓を後ろにした自分の席に着いて、妹の愛子と自分との間に割り込んで来る貞世の頭をなでながら、自分の上にばかり注がれる満座の視線を小うるさそうに払いのけた。そして片方の手でだいぶ乱れた鬢(びん)のほつれをかき上げて、葉子の視線は人もなげに古藤のほうに走った。
「しばらくでしたのね……とうとう明朝(あした)になりましてよ。木村に持って行くものは、一緒にお持ちになって?……そう」
 と軽い調子でいったので、五十川女史と叔父とが切り出そうとした言葉は、物のみごとにさえぎられてしまった。葉子は古藤にそれだけの事をいうと、今度は当(とう)の敵ともいうべき五十川女史に振り向いて、
「おばさま、きょう途中でそれはおかしな事がありましたのよ。こうなんですの」
 といいながら男女をあわせて八人ほど居ならんだ親類たちにずっと目を配って、
「車で駆け通ったんですから前も後(あと)もよくはわからないんですけれども、大時計のかどの所を広小路(ひろこうじ)に出ようとしたら、そのかどにたいへんな人だかりですの。なんだと思って見てみますとね、禁酒会の大道演説で、大きな旗が二三本立っていて、急ごしらえのテーブルに突っ立って、夢中になって演説している人があるんですの。それだけなら何も別に珍しいという事はないんですけれども、その演説をしている人が……だれだとお思いになって……山脇(やまわき)さんですの」
 一同の顔には思わず知らず驚きの色が現われて、葉子の言葉に耳をそばだてていた。先刻しかつめらしい顔をした叔父(おじ)はもう白痴のように口をあけたままで薄笑いをもらしながら葉子を見つめていた。
「それがまたね、いつものとおりに金時(きんとき)のように首筋までまっ赤(か)ですの。『諸君』とかなんとかいって大手を振り立ててしゃべっているのを、肝心(かんじん)の禁酒会員たちはあっけに取られて、黙ったまま引きさがって見ているんですから、見物人がわいわいとおもしろがってたかっているのも全くもっともですわ。そのうちに、あ、叔父さん、箸(はし)をおつけになるように皆様におっしゃってくださいまし」
 叔父があわてて口の締まりをして仏頂面(ぶっちょうづら)に立ち返って、何かいおうとすると、葉子はまたそれには頓着(とんじゃく)なく五十川(いそがわ)女史のほうに向いて、
「あの肩の凝(こ)りはすっかりおなおりになりまして」
 といったので、五十川女史の答えようとする言葉と、叔父のいい出そうとする言葉は気まずくも鉢合(はちあ)わせになって、二人(ふたり)は所在なげに黙ってしまった。座敷は、底のほうに気持ちの悪い暗流を潜めながら造り笑いをし合っているような不快な気分に満たされた。葉子は「さあ来い」と胸の中で身構えをしていた。五十川女史のそばにすわって、神経質らしく眉(まゆ)をきらめかす中老の官吏は、射るようないまいましげな眼光を時々葉子に浴びせかけていたが、いたたまれない様子でちょっと居ずまいをなおすと、ぎくしゃくした調子で口をきった。
「葉子さん、あなたもいよいよ身のかたまる瀬戸ぎわまでこぎ付けたんだが……」
 葉子はすきを見せたら切り返すからといわんばかりな緊張した、同時に物を物ともしないふうでその男の目を迎えた。
「何しろわたしども早月家(さつきけ)の親類に取ってはこんなめでたい事はまずない。無いには無いがこれからがあなたに頼み所だ。どうぞ一つわたしどもの顔を立てて、今度こそは立派な奥さんになっておもらいしたいがいかがです。木村君はわたしもよく知っとるが、信仰も堅いし、仕事も珍しくはきはきできるし、若いに似合わぬ物のわかった仁(じん)だ。こんなことまで比較に持ち出すのはどうか知らないが、木部氏のような実行力の伴わない夢想家は、わたしなどは初めから不賛成だった。今度のはじたい段が違う。葉子さんが木部氏の所から逃げ帰って来た時には、わたしもけしからんといった実は一人(ひとり)だが、今になって見ると葉子さんはさすがに目が高かった。出て来ておいて誠によかった。いまに見なさい木村という仁なりゃ、立派に成功して、第一流の実業家に成り上がるにきまっている。これからはなんといっても信用と金だ。官界に出ないのなら、どうしても実業界に行かなければうそだ。擲身(てきしん)報国は官吏たるものの一特権だが、木村さんのようなまじめな信者にしこたま金を造ってもらわんじゃ、神の道を日本に伝え広げるにしてからが容易な事じゃありませんよ。あなたも小さい時から米国に渡って新聞記者の修業をすると口ぐせのように妙な事をいったもんだが(ここで一座の人はなんの意味もなく高く笑った。おそらくはあまりしかつめらしい空気を打ち破って、なんとかそこに余裕(ゆとり)をつけるつもりが、みんなに起こったのだろうけれども、葉子にとってはそれがそうは響かなかった。その心持ちはわかっても、そんな事で葉子の心をはぐらかそうとする彼らの浅はかさがぐっと癪(しゃく)にさわった)新聞記者はともかくも……じゃない、そんなものになられては困りきるが(ここで一座はまたわけもなくばからしく笑った)米国行きの願いはたしかにかなったのだ。葉子さんも御満足に違いなかろう。あとの事はわたしどもがたしかに引き受けたから心配は無用にして、身をしめて妹さん方(がた)のしめしにもなるほどの奮発を頼みます……えゝと、財産のほうの処分はわたしと田中さんとで間違いなく固めるし、愛子さんと貞世さんのお世話は、五十川(いそがわ)さん、あなたにお願いしようじゃありませんか、御迷惑ですが。いかがでしょう皆さん(そういって彼は一座を見渡した。あらかじめ申し合わせができていたらしく一同は待ち設けたようにうなずいて見せた)どうじゃろう葉子さん」
 葉子は乞食(こじき)の嘆願を聞く女王のような心持ちで、○○局長といわれるこの男のいう事を聞いていたが、財産の事などはどうでもいいとして、妹たちの事が話題に上るとともに、五十川女史を向こうに回して詰問のような対話を始めた。なんといっても五十川女史はその晩そこに集まった人々の中ではいちばん年配でもあったし、いちばんはばかられているのを葉子は知っていた。五十川女史が四角を思い出させるような頑丈(がんじょう)な骨組みで、がっしりと正座に居直って、葉子を子供あしらいにしようとするのを見て取ると、葉子の心は逸(はや)り熱した。
「いゝえ、わがままだとばかりお思いになっては困ります。わたしは御承知のような生まれでございますし、これまでもたびたび御心配かけて来ておりますから、人様(ひとさま)同様に見ていただこうとはこれっぱかりも思ってはおりません」
 といって葉子は指の間になぶっていた楊枝(ようじ)を老女史の前にふいと投げた。
「しかし愛子も貞世も妹でございます。現在わたしの妹でございます。口幅ったいと思(おぼ)し召(め)すかもしれませんが、この二人(ふたり)だけはわたしたとい米国におりましても立派に手塩にかけて御覧にいれますから、どうかお構いなさらずにくださいまし。それは赤坂(あかさか)学院も立派な学校には違いございますまい。現在私もおばさまのお世話であすこで育てていただいたのですから、悪くは申したくはございませんが、わたしのような人間が、皆様のお気に入らないとすれば……それは生まれつきもございましょうとも、ございましょうけれども、わたしを育て上げたのはあの学校でございますからねえ。何しろ現在いて見た上で、わたしこの二人をあすこに入れる気にはなれません。女というものをあの学校ではいったいなんと見ているのでござんすかしらん……」
 こういっているうちに葉子の心には火のような回想の憤怒が燃え上がった。葉子はその学校の寄宿舎で一個の中性動物として取り扱われたのを忘れる事ができない。やさしく、愛らしく、しおらしく、生まれたままの美しい好意と欲念との命ずるままに、おぼろげながら神というものを恋しかけた十二三歳ごろの葉子に、学校は祈祷(きとう)と、節欲と、殺情とを強制的にたたき込もうとした。十四の夏が秋に移ろうとしたころ、葉子はふと思い立って、美しい四寸幅ほどの角帯(かくおび)のようなものを絹糸で編みはじめた。藍(あい)の地(じ)に白で十字架と日月とをあしらった模様だった。物事にふけりやすい葉子は身も魂も打ち込んでその仕事に夢中になった。それを造り上げた上でどうして神様の御手に届けよう、というような事はもとより考えもせずに、早く造り上げてお喜ばせ申そうとのみあせって、しまいには夜の目もろくろく合わさなくなった。二週間に余る苦心の末にそれはあらかたでき上がった。藍の地に簡単に白で模様を抜くだけならさしたる事でもないが、葉子は他人のまだしなかった試みを加えようとして、模様の周囲に藍と白とを組み合わせにした小さな笹縁(ささべり)のようなものを浮き上げて編み込んだり、ひどく伸び縮みがして模様が歪形(いびつ)にならないように、目立たないようにカタン糸を編み込んで見たりした。出来上がりが近づくと葉子は片時(かたとき)も編み針を休めてはいられなかった。ある時聖書の講義の講座でそっと机の下で仕事を続けていると、運悪くも教師に見つけられた。教師はしきりにその用途を問いただしたが、恥じやすい乙女心(おとめごころ)にどうしてこの夢よりもはかない目論見(もくろみ)を白状する事ができよう。教師はその帯の色合いから推(お)して、それは男向きの品物に違いないと決めてしまった。そして葉子の心は早熟の恋を追うものだと断定した。そして恋というものを生来知らぬげな四十五六の醜い容貌(ようぼう)の舎監は、葉子を監禁同様にして置いて、暇さえあればその帯の持ち主たるべき人の名を迫り問うた。
 葉子はふと心の目を開いた。そしてその心はそれ以来峰から峰を飛んだ。十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさま翻弄(ほんろう)した。青年はまもなく自殺同様な死に方をした。一度生血の味をしめた虎(とら)の子のような渇欲が葉子の心を打ちのめすようになったのはそれからの事である。
「古藤さん愛と貞とはあなたに願いますわ。だれがどんな事をいおうと、赤坂学院には入れないでくださいまし。私きのう田島(たじま)さんの塾(じゅく)に行って、田島さんにお会い申してよくお頼みして来ましたから、少し片付いたらはばかりさまですがあなた御自身で二人(ふたり)を連れていらしってください。愛さんも貞ちゃんもわかりましたろう。田島さんの塾にはいるとね、ねえさんと一緒にいた時のようなわけには行きませんよ……」
「ねえさんてば……自分でばかり物をおっしゃって」
 といきなり恨めしそうに、貞世は姉の膝(ひざ)をゆすりながらその言葉をさえぎった。
「さっきからなんど書いたかわからないのに平気でほんとにひどいわ」
 一座の人々から妙な子だというふうにながめられているのにも頓着(とんじゃく)なく、貞世は姉のほうに向いて膝の上にしなだれかかりながら、姉の左手を長い袖(そで)の下に入れて、その手のひらに食指で仮名を一字ずつ書いて手のひらで拭(ふ)き消すようにした。葉子は黙って、書いては消し書いては消しする字をたどって見ると、
「ネーサマハイイコダカラ『アメリカ』ニイツテハイケマセンヨヨヨヨ」
 と読まれた。葉子の胸はわれ知らず熱くなったが、しいて笑いにまぎらしながら、
「まあ聞きわけのない子だこと、しかたがない。今になってそんな事をいったってしかたがないじゃないの」
 とたしなめ諭(さと)すようにいうと、
「しかたがあるわ」
 と貞世は大きな目で姉を見上げながら、
「お嫁に行かなければよろしいじゃないの」
 といって、くるりと首を回して一同を見渡した。貞世のかわいい目は「そうでしょう」と訴えているように見えた。それを見ると一同はただなんという事もなく思いやりのない笑いかたをした。叔父(おじ)はことに大きなとんきょな声で高々と笑った。先刻から黙ったままでうつむいてさびしくすわっていた愛子は、沈んだ恨めしそうな目でじっと叔父をにらめたと思うと、たちまちわくように涙をほろほろと流して、それを両袖でぬぐいもやらず立ち上がってその部屋(へや)をかけ出した。階子段(はしごだん)の所でちょうど下から上がって来た叔母と行きあったけはいがして、二人(ふたり)が何かいい争うらしい声が聞こえて来た。
 一座はまた白(しら)け渡った。
「叔父さんにも申し上げておきます」
 と沈黙を破った葉子の声が妙に殺気を帯びて響いた。
「これまで何かとお世話様になってありがとうこざいましたけれども、この家もたたんでしまう事になれば、妹たちも今申したとおり塾(じゅく)に入れてしまいますし、この後はこれといって大して御厄介(ごやっかい)はかけないつもりでございます。
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