或る女
著者名:有島武郎
と返事はしたが事務長は煙草(たばこ)をくゆらしたまま新聞を見続けていた。葉子も黙ってしまった。
ややしばらくしてから事務長もほっとため息をして、
「どれ寝るかな」
といいながら椅子(いす)から立って寝床にはいった。葉子は事務長の広い胸に巣食うように丸まって少し震えていた。
やがて子供のようにすやすやと安らかないびきが葉子の口びるからもれて来た。
倉地は暗闇(くらやみ)の中で長い間まんじりともせず大きな目を開いていたが、やがて、
「おい悪党」
と小さな声で呼びかけてみた。
しかし葉子の規則正しく楽しげな寝息は露ほども乱れなかった。
真夜中に、恐ろしい夢を葉子は見た。よくは覚えていないが、葉子は殺してはいけないいけないと思いながら人殺しをしたのだった。一方の目は尋常に眉(まゆ)の下にあるが、一方のは不思議にも眉の上にある、その男の額から黒血がどくどくと流れた。男は死んでも物すごくにやりにやりと笑い続けていた。その笑い声が木村木村と聞こえた。始めのうちは声が小さかったがだんだん大きくなって数もふえて来た。その「木村木村」という数限りもない声がうざうざと葉子を取り巻き始めた。葉子は一心に手を振ってそこからのがれようとしたが手も足も動かなかった。
木村……
木村
木村 木村……
木村 木村
木村 木村 木村……
木村 木村
木村 木村……
木村
木村……
ぞっとして寒気(さむけ)を覚えながら、葉子は闇(やみ)の中に目をさました。恐ろしい凶夢のなごりは、ど、ど、ど……と激しく高くうつ心臓に残っていた。葉子は恐怖におびえながら一心に暗い中をおどおどと手探りに探ると事務長の胸に触れた。
「あなた」
と小さい震え声で呼んでみたが男は深い眠りの中にあった。なんともいえない気味わるさがこみ上げて来て、葉子は思いきり男の胸をゆすぶってみた。
しかし男は材木のように感じなく熟睡していた。
(前編 了)
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