或る女
著者名:有島武郎
しばらく考えてからさびしそうに見るともなく部屋の中を見回して、またストーブの火にながめ入るだろう。そのうちにあの涙の出やすい目からは涙がほろほろととめどもなく流れ出るに違いない。
事務長が音をたてて新聞を折り返した。
木村は膝頭(ひざがしら)に手を置いて、その手の中に顔を埋(うず)めて泣いている。祈っている。葉子は倉地から目を放して、上目を使いながら木村の祈りの声に耳を傾けようとした。途切れ途切れな切(せつ)ない祈りの声が涙にしめって確かに……確かに聞こえて来る。葉子は眉(まゆ)を寄せて注意力を集注しながら、木村がほんとうにどう葉子を思っているかをはっきり見窮めようとしたが、どうしても思い浮かべてみる事ができなかった。
事務長がまた新聞を折り返す音を立てた。
葉子ははっとして淀(よど)みにささえられた木の葉がまた流れ始めたように、すらすらと木村の所作を想像した。それがだんだん岡の上に移って行った。哀れな岡! 岡もまだ寝ないでいるだろう。木村なのか岡なのかいつまでもいつまでも寝ないで火の消えかかったストーブの前にうずくまっているのは……ふけるままにしみ込む寒さはそっと床を伝わって足の先からはい上がって来る。男はそれにも気が付かぬふうで椅子(いす)の上にうなだれている。すべての人は眠っている時に、木村の葉子も事務長に抱かれて安々と眠っている時に……。
ここまで想像して来ると小説に読みふけっていた人が、ほっとため息をしてばたんと書物をふせるように、葉子も何とはなく深いため息をしてはっきりと事務長を見た。葉子の心は小説を読んだ時のとおり無関心の Pathos をかすかに感じているばかりだった。
「おやすみにならないの?」
と葉子は鈴のように涼しい小さい声で倉地にいってみた。大きな声をするのもはばかられるほどあたりはしんと静まっていた。
「う」
と返事はしたが事務長は煙草(たばこ)をくゆらしたまま新聞を見続けていた。葉子も黙ってしまった。
ややしばらくしてから事務長もほっとため息をして、
「どれ寝るかな」
といいながら椅子(いす)から立って寝床にはいった。葉子は事務長の広い胸に巣食うように丸まって少し震えていた。
やがて子供のようにすやすやと安らかないびきが葉子の口びるからもれて来た。
倉地は暗闇(くらやみ)の中で長い間まんじりともせず大きな目を開いていたが、やがて、
「おい悪党」
と小さな声で呼びかけてみた。
しかし葉子の規則正しく楽しげな寝息は露ほども乱れなかった。
真夜中に、恐ろしい夢を葉子は見た。よくは覚えていないが、葉子は殺してはいけないいけないと思いながら人殺しをしたのだった。一方の目は尋常に眉(まゆ)の下にあるが、一方のは不思議にも眉の上にある、その男の額から黒血がどくどくと流れた。男は死んでも物すごくにやりにやりと笑い続けていた。その笑い声が木村木村と聞こえた。始めのうちは声が小さかったがだんだん大きくなって数もふえて来た。その「木村木村」という数限りもない声がうざうざと葉子を取り巻き始めた。葉子は一心に手を振ってそこからのがれようとしたが手も足も動かなかった。
木村……
木村
木村 木村……
木村 木村
木村 木村 木村……
木村 木村
木村 木村……
木村
木村……
ぞっとして寒気(さむけ)を覚えながら、葉子は闇(やみ)の中に目をさました。恐ろしい凶夢のなごりは、ど、ど、ど……と激しく高くうつ心臓に残っていた。葉子は恐怖におびえながら一心に暗い中をおどおどと手探りに探ると事務長の胸に触れた。
「あなた」
と小さい震え声で呼んでみたが男は深い眠りの中にあった。なんともいえない気味わるさがこみ上げて来て、葉子は思いきり男の胸をゆすぶってみた。
しかし男は材木のように感じなく熟睡していた。
(前編 了)
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