或る女
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著者名:有島武郎 

「こんな事を書かれてあなたどう思います」
 葉子は事もなげにせせら笑った。
「どうも思いはしませんわ。でも古藤さんも手紙の上では一枚がた男を上げていますわね」
 木村の意気込みはしかしそんな事ではごまかされそうにはなかったので、葉子はめんどうくさくなって少し険しい顔になった。
「古藤さんのおっしゃる事は古藤さんのおっしゃる事。あなたはわたしと約束なさった時からわたしを信じわたしを理解してくださっていらっしゃるんでしょうね」
 木村は恐ろしい力をこめて、
「それはそうですとも」
 と答えた。
「そんならそれで何もいう事はないじゃありませんか。古藤さんなどのいう事――古藤さんなんぞにわかられたら人間も末ですわ――でもあなたはやっぱりどこかわたしを疑っていらっしゃるのね」
「そうじゃない……」
「そうじゃない事があるもんですか。わたしは一たんこうと決めたらどこまでもそれで通すのが好き。それは生きてる人間ですもの、こっちのすみあっちのすみと小さな事を捕えてとがめだてを始めたら際限はありませんさ。そんなばかな事ったらありませんわ。わたしみたいな気随(きずい)なわがまま者はそんなふうにされたら窮屈で窮屈で死んでしまうでしょうよ。わたしがこんなになったのも、つまり、みんなで寄ってたかってわたしを疑い抜いたからです。あなただってやっぱりその一人(ひとり)かと思うと心細いもんですのね」
 木村の目は輝いた。
「葉子さん、それは疑い過ぎというもんです」
 そして自分が米国に来てからなめ尽くした奮闘生活もつまりは葉子というものがあればこそできたので、もし葉子がそれに同情と鼓舞とを与えてくれなかったら、その瞬間に精も根も枯れ果ててしまうに違いないという事を繰り返し繰り返し熱心に説いた。葉子はよそよそしく聞いていたが、
「うまくおっしゃるわ」
 と留(とど)めをさしておいて、しばらくしてから思い出したように、
「あなた田川の奥さんにおあいなさって」
 と尋ねた。木村はまだあわなかったと答えた。葉子は皮肉な表情をして、
「いまにきっとおあいになってよ。一緒にこの船でいらしったんですもの。そして五十川(いそがわ)のおばさんがわたしの監督をお頼みになったんですもの。一度おあいになったらあなたはきっとわたしなんぞ見向きもなさらなくなりますわ」
「どうしてです」
「まあおあいなさってごらんなさいまし」
「何かあなた批難を受けるような事でもしたんですか」
「えゝえゝたくさんしましたとも」
「田川夫人に? あの賢夫人の批難を受けるとは、いったいどんな事をしたんです」
 葉子はさも愛想(あいそ)が尽きたというふうに、
「あの賢夫人!」
 といいながら高々と笑った。二人(ふたり)の感情の糸はまたももつれてしまった。
「そんなにあの奥さんにあなたの御信用があるのなら、わたしから申しておくほうが早手回しですわね」
 と葉子は半分皮肉な半分まじめな態度で、横浜出航以来夫人から葉子が受けた暗々裡(あんあんり)の圧迫に尾鰭(おひれ)をつけて語って来て、事務長と自分との間に何かあたりまえでない関係でもあるような疑いを持っているらしいという事を、他人事(ひとごと)でも話すように冷静に述べて行った。その言葉の裏には、しかし葉子に特有な火のような情熱がひらめいて、その目は鋭く輝いたり涙ぐんだりしていた。木村は電火にでも打たれたように判断力を失って、一部始終をぼんやりと聞いていた。言葉だけにもどこまでも冷静な調子を持たせ続けて葉子はすべてを語り終わってから、
「同じ親切にも真底(しんそこ)からのと、通り一ぺんのと二つありますわね。その二つがどうかしてぶつかり合うと、いつでもほんとうの親切のほうが悪者(わるもの)扱いにされたり、邪魔者に見られるんだからおもしろうござんすわ。横浜を出てから三日ばかり船に酔ってしまって、どうしましょうと思った時にも、御親切な奥さんは、わざと御遠慮なさってでしょうね、三度三度食堂にはお出になるのに、一度もわたしのほうへはいらしってくださらないのに、事務長ったら幾度もお医者さんを連れて来るんですもの、奥さんのお疑いももっともといえばもっともですの。それにわたしが胃病で寝込むようになってからは、船中のお客様がそれは同情してくださって、いろいろとしてくださるのが、奥さんには大のお気に入らなかったんですの。奥さんだけがわたしを親切にしてくださって、ほかの方(かた)はみんな寄ってたかって、奥さんを親切にして上げてくださる段取りにさえなれば、何もかも無事だったんですけれどもね、中でも事務長の親切にして上げかたがいちばん足りなかったんでしょうよ」
 と言葉を結んだ。木村は口びるをかむように聞いていたが、いまいましげに、
「わかりましたわかりました」
 合点(がてん)しながらつぶやいた。
 葉子は額の生(は)えぎわの短い毛を引っぱっては指に巻いて上目でながめながら、皮肉な微笑を口びるのあたりに浮かばして、
「おわかりになった? ふん、どうですかね」
 と空うそぶいた。
 木村は何を思ったかひどく感傷的な態度になっていた。
「わたしが悪かった。わたしはどこまでもあなたを信ずるつもりでいながら、他人の言葉に多少とも信用をかけようとしていたのが悪かったのです。……考えてください、わたしは親類や友人のすべての反対を犯してここまで来ているのです。もうあなたなしにはわたしの生涯(しょうがい)は無意味です。わたしを信じてください。きっと十年を期して男になって見せますから……もしあなたの愛からわたしが離れなければならんような事があったら……わたしはそんな事を思うに堪(た)えない……葉子さん」
 木村はこういいながら目を輝かしてすり寄って来た。葉子はその思いつめたらしい態度に一種の恐怖を感ずるほどだった。男の誇りも何も忘れ果て、捨て果てて、葉子の前に誓いを立てている木村を、うまうま偽っているのだと思うと、葉子はさすがに針で突くような痛みを鋭く深く良心の一隅(ぐう)に感ぜずにはいられなかった。しかしそれよりもその瞬間に葉子の胸を押しひしぐように狭(せば)めたものは、底のない物すごい不安だった。木村とはどうしても連れ添う心はない。その木村に……葉子はおぼれた人が岸べを望むように事務長を思い浮かべた。男というものの女に与える力を今さらに強く感じた。ここに事務長がいてくれたらどんなに自分の勇気は加わったろう。しかし……どうにでもなれ。どうかしてこの大事な瀬戸を漕(こ)ぎぬけなければ浮かぶ瀬はない。葉子は大(だい)それた謀反人(むほんにん)の心で木村の caress を受くべき身構え心構えを案じていた。

       二〇

 船の着いたその晩、田川夫妻は見舞いの言葉も別れの言葉も残さずに、おおぜいの出迎え人に囲まれて堂々と威儀を整えて上陸してしまった。その余の人々の中にはわざわざ葉子の部屋(へや)を訪れて来たものが数人はあったけれども、葉子はいかにも親しみをこめた別れの言葉を与えはしたが、あとまで心に残る人とては一人(ひとり)もいなかった。その晩事務長が来て、狭っこい boudoir のような船室でおそくまでしめじめと打ち語った間に、葉子はふと二度ほど岡の事を思っていた。あんなに自分を慕っていはしたが岡も上陸してしまえば、詮方(せんかた)なくボストンのほうに旅立つ用意をするだろう。そしてやがて自分の事もいつとはなしに忘れてしまうだろう。それにしてもなんという上品な美しい青年だったろう。こんな事をふと思ったのもしかし束(つか)の間(ま)で、その追憶は心の戸をたたいたと思うとはかなくもどこかに消えてしまった。今はただ木村という邪魔な考えが、もやもやと胸の中に立ち迷うばかりで、その奥には事務長の打ち勝ちがたい暗い力が、魔王のように小動(こゆる)ぎもせずうずくまっているのみだった。
 荷役の目まぐるしい騒ぎが二日続いたあとの絵島丸は、泣きわめく遺族に取り囲まれたうつろな死骸(しがい)のように、がらんと静まり返って、騒々しい桟橋の雑鬧(ざっとう)の間にさびしく横たわっている。
 水夫が、輪切りにした椰子(やし)の実でよごれた甲板(かんぱん)を単調にごし/\ごし/\とこする音が、時というものをゆるゆるすり減らすやすりのように日がな日ねもす聞こえていた。
 葉子は早く早くここを切り上げて日本に帰りたいという子供じみた考えのほかには、おかしいほどそのほかの興味を失ってしまって、他郷の風景に一瞥(べつ)を与える事もいとわしく、自分の部屋の中にこもりきって、ひたすら発船の日を待ちわびた。もっとも木村が毎日米国という香(にお)いを鼻をつくばかり身の回りに漂わせて、葉子を訪れて来るので、葉子はうっかり寝床を離れる事もできなかった。
 木村は来るたびごとにぜひ米国の医者に健康診断を頼んで、大事なければ思いきって検疫官の検疫を受けて、ともかくも上陸するようにと勧めてみたが、葉子はどこまでもいやをいいとおすので、二人(ふたり)の間には時々危険な沈黙が続く事も珍しくなかった。葉子はしかし、いつでも手ぎわよくその場合場合をあやつって、それから甘い歓語を引き出すだけの機才(ウィット)を持ち合わしていたので、この一か月ほど見知らぬ人の間に立ちまじって、貧乏の屈辱を存分になめ尽くした木村は、見る見る温柔な葉子の言葉や表情に酔いしれるのだった。カリフォルニヤから来る水々しい葡萄(ぶどう)やバナナを器用な経木(きょうぎ)の小籃(こかご)に盛ったり、美しい花束を携えたりして、葉子の朝化粧(あさげしょう)がしまったかと思うころには木村が欠かさず尋ねて来た。そして毎日くどくどと興録に葉子の容態を聞きただした。興録はいいかげんな事をいって一日延ばしに延ばしているのでたまらなくなって木村が事務長に相談すると、事務長は興録よりもさらに要領を得ない受け答えをした、しかたなしに木村は途方に暮れて、また葉子に帰って来て泣きつくように上陸を迫るのであった。その毎日のいきさつを夜になると葉子は事務長と話しあって笑いの種(たね)にした。
 葉子はなんという事なしに、木村を困らしてみたい、いじめてみたいというような不思議な残酷な心を、木村に対して感ずるようになって行った。事務長と木村とを目の前に置いて、何も知らない木村を、事務長が一流のきびきびした悪辣(あくらつ)な手で思うさま翻弄(ほんろう)して見せるのをながめて楽しむのが一種の痼疾(こしつ)のようになった。そして葉子は木村を通して自分の過去のすべてに血のしたたる復讐(ふくしゅう)をあえてしようとするのだった。そんな場合に、葉子はよくどこかでうろ覚えにしたクレオパトラの插話(そうわ)を思い出していた。クレオパトラが自分の運命の窮迫したのを知って自殺を思い立った時、幾人も奴隷(どれい)を目の前に引き出さして、それを毒蛇(どくじゃ)の餌食(えじき)にして、その幾人もの無辜(むこ)の人々がもだえながら絶命するのを、眉(まゆ)も動かさずに見ていたという插話を思い出していた。葉子には過去のすべての呪詛(じゅそ)が木村の一身に集まっているようにも思いなされた。母の虐(しいた)げ、五十川(いそがわ)女史の術数(じゅっすう)、近親の圧迫、社会の環視、女に対する男の覬覦(きゆ)、女の苟合(こうごう)などという葉子の敵を木村の一身におっかぶせて、それに女の心が企(たくら)み出す残虐な仕打ちのあらん限りをそそぎかけようとするのであった。
「あなたは丑(うし)の刻(こく)参りの藁(わら)人形よ」
 こんな事をどうかした拍子(ひょうし)に面と向かって木村にいって、木村が怪訝(けげん)な顔でその意味をくみかねているのを見ると、葉子は自分にもわけのわからない涙を目にいっぱいためながらヒステリカルに笑い出すような事もあった。
 木村を払い捨てる事によって、蛇(へび)が殻(から)を抜け出ると同じに、自分のすべての過去を葬ってしまうことができるようにも思いなしてみた。
 葉子はまた事務長に、どれほど木村が自分の思うままになっているかを見せつけようとする誘惑も感じていた。事務長の目の前ではずいぶん乱暴な事を木村にいったりさせたりした。時には事務長のほうが見兼ねて二人(ふたり)の間をなだめにかかる事さえあるくらいだった。
 ある時木村の来ている葉子の部屋に事務長が来合わせた事があった。葉子は枕(まくら)もとの椅子(いす)に木村を腰かけさせて、東京を発(た)った時の様子をくわしく話して聞かせている所だったが、事務長を見るといきなり様子をかえて、さもさも木村を疎(うと)んじたふうで、
「あなたは向こうにいらしってちょうだい」
 と木村を向こうのソファに行くように目でさしずして、事務長をその跡(あと)にすわらせた。
「さ、あなたこちらへ」
 といって仰向けに寝たまま上目をつかって見やりながら、
「いいお天気のようですことね。……あの時々ごーっと雷のような音のするのは何?……わたしうるさい」
「トロですよ」
「そう……お客様がたんとおありですってね」
「さあ少しは知っとるものがあるもんだで」
「ゆうべもその美しいお客がいらしったの? とうとうお話にお見えにならなかったのね」
 木村を前に置きながら、この無謀とさえ見える言葉を遠慮会釈(えしゃく)もなくいい出すのには、さすがの事務長もぎょっとしたらしく、返事もろくろくしないで木村のほうに向いて、
「どうですマッキンレーは。驚いた事が持ち上がりおったもんですね」
 と話題を転じようとした。この船の航海中シヤトルに近くなったある日、当時の大統領マッキンレーは凶徒の短銃に斃(たお)れたので、この事件は米国でのうわさの中心になっているのだった。木村はその当時の模様をくわしく新聞紙や人のうわさで知り合わせていたので、乗り気になってその話に身を入れようとするのを、葉子はにべもなくさえぎって、
「なんですねあなたは、貴夫人の話の腰を折ったりして、そんなごまかしくらいではだまされてはいませんよ。倉地さん、どんな美しい方(かた)です。アメリカ生粋(きっすい)の人ってどんななんでしょうね。わたし、見たい。あわしてくださいましな今度来たら。ここに連れて来てくださるんですよ。ほかのものなんぞなんにも見たくはないけれど、こればかりはぜひ見とうござんすわ。そこに行くとね、木村なんぞはそりゃあやぼなもんですことよ」
 といって、木村のいるほうをはるかに下目で見やりながら、
「木村さんどう? こっちにいらしってからちっとは女のお友だちがおできになって? Lady Friend というのが?」
「それができんでたまるか」
 と事務長は木村の内行(ないこう)を見抜いて裏書きするように大きな声でいった。
「ところができていたらお慰み、そうでしょう? 倉地さんまあこうなの。木村がわたしをもらいに来た時にはね。石のように堅くすわりこんでしまって、まるで命の取りやりでもしかねない談判のしかたですのよ。そのころ母は大病で臥(ふ)せっていましたの。なんとか母におっしゃってね、母に。わたし、忘れちゃならない言葉がありましたわ。えゝと……そうそう(木村の口調を上手(じょうず)にまねながら)『わたし、もしほかの人に心を動かすような事がありましたら神様の前に罪人です』ですって……そういう調子ですもの」
 木村は少し怒気をほのめかす顔つきをして、遠くから葉子を見つめたまま口もきかないでいた。事務長はからからと笑いながら、
「それじゃ木村さん今ごろは神様の前にいいくらかげん罪人になっとるでしょう」
 と木村を見返したので、木村もやむなく苦(にが)りきった笑いを浮かべながら、
「おのれをもって人を計る筆法ですね」
 と答えはしたが、葉子の言葉を皮肉と解して、人前でたしなめるにしてはやや軽すぎるし、冗談と見て笑ってしまうにしては確かに強すぎるので、木村の顔色は妙にぎこちなくこだわってしまっていつまでも晴れなかった。葉子は口びるだけに軽い笑いを浮かべながら、胆汁(たんじゅう)のみなぎったようなその顔を下目で快げにまじまじとながめやった。そして苦い清涼剤でも飲んだように胸のつかえを透(す)かしていた。
 やがて事務長が座を立つと、葉子は、眉(まゆ)をひそめて快からぬ顔をした木村を、しいてまたもとのように自分のそば近くすわらせた。
「いやなやつっちゃないの。あんな話でもしていないと、ほかになんにも話の種(たね)のない人ですの……あなたさぞ御迷惑でしたろうね」
 といいながら、事務長にしたように上目に媚(こ)びを集めてじっと木村を見た。しかし木村の感情はひどくほつれて、容易に解ける様子はなかった。葉子を故意に威圧しようとたくらむわざとな改まりかたも見えた。葉子はいたずら者らしく腹の中でくすくす笑いながら、木村の顔を好意をこめた目つきでながめ続けた。木村の心の奥には何かいい出してみたいくせに、なんとなく腹の中が見すかされそうで、いい出しかねている物があるらしかったが、途切れがちながら話が小半時(こはんとき)も進んだ時、とてつもなく、
「事務長は、なんですか、夜になってまであなたの部屋(へや)に話しに来る事があるんですか」
 とさりげなく尋ねようとするらしかったが、その語尾はわれにもなく震えていた。葉子は陥穽(わな)にかかった無知な獣(けもの)を憫(あわれ)み笑うような微笑を口びるに浮かべながら、
「そんな事がされますものかこの小さな船の中で。考えてもごらんなさいまし。さきほどわたしがいったのは、このごろは毎晩夜になると暇なので、あの人たちが食堂に集まって来て、酒を飲みながら大きな声でいろんなくだらない話をするんですの。それがよくここまで聞こえるんです。それにゆうべあの人が来なかったからからかってやっただけなんですのよ。このごろは質(たち)の悪い女までが隊を組むようにしてどっさり船に来て、それは騒々しいんですの。……ほゝゝゝあなたの苦労性ったらない」
 木村は取りつく島を見失って、二の句がつげないでいた。それを葉子はかわいい目を上げて、無邪気な顔をして見やりながら笑っていた。そして事務長がはいって来た時途切らした話の糸口をみごとに忘れずに拾い上げて、東京を発(た)った時の模様をまた仔細(しさい)に話しつづけた。
 こうしたふうで葛藤(かっとう)は葉子の手一つで勝手に紛らされたりほごされたりした。
 葉子は一人(ひとり)の男をしっかりと自分の把持(はじ)の中に置いて、それが猫(ねこ)が鼠(ねずみ)でも弄(な)ぶるように、勝手に弄(な)ぶって楽しむのをやめる事ができなかったと同時に、時々は木村の顔を一目見たばかりで、虫唾(むしず)が走るほど厭悪(けんお)の情に駆り立てられて、われながらどうしていいかわからない事もあった。そんな時にはただいちずに腹痛を口実にして、一人になって、腹立ち紛れにあり合わせたものを取って床の上にほうったりした。もう何もかもいってしまおう。弄(もてあそ)ぶにも足らない木村を近づけておくには当たらない事だ。何もかも明らかにして気分だけでもさっぱりしたいとそう思う事もあった。しかし同時に葉子は戦術家の冷静さをもって、実際問題を勘定に入れる事も忘れはしなかった。事務長をしっかり自分の手の中に握るまでは、早計に木村を逃がしてはならない。「宿屋きめずに草鞋(わらじ)を脱ぐ」……母がこんな事を葉子の小さい時に教えてくれたのを思い出したりして、葉子は一人で苦笑(にがわら)いもした。
 そうだ、まだ木村を逃がしてはならぬ。葉子は心の中に書き記(しる)してでも置くように、上目を使いながらこんな事を思った。
 またある時葉子の手もとに米国の切手のはられた手紙が届いた事があった。葉子は船へなぞあてて手紙をよこす人はないはずだがと思って開いて見ようとしたが、また例のいたずらな心が動いて、わざと木村に開封させた。その内容がどんなものであるかの想像もつかないので、それを木村に読ませるのは、武器を相手に渡して置いて、自分は素手(すで)で格闘するようなものだった。葉子はそこに興味を持った。そしてどんな不意な難題が持ち上がるだろうかと、心をときめかせながら結果を待った。その手紙は葉子に簡単な挨拶(あいさつ)を残したまま上陸した岡から来たものだった。いかにも人柄に不似合いな下手(へた)な字体で、葉子がひょっとすると上陸を見合わせてそのまま帰るという事を聞いたが、もしそうなったら自分も断然帰朝する。気違いじみたしわざとお笑いになるかもしれないが、自分にはどう考えてみてもそれよりほかに道はない。葉子に離れて路傍の人の間に伍(ご)したらそれこそ狂気になるばかりだろう。今まで打ち明けなかったが、自分は日本でも屈指な豪商の身内に一人子(ひとりご)と生まれながら、からだが弱いのと母が継母であるために、父の慈悲から洋行する事になったが、自分には故国が慕われるばかりでなく、葉子のように親しみを覚えさしてくれた人はないので、葉子なしには一刻も外国の土に足を止めている事はできぬ。兄弟(きょうだい)のない自分には葉子が前世(ぜんせ)からの姉とより思われぬ。自分をあわれんで弟と思ってくれ。せめては葉子の声の聞こえる所顔の見える所にいるのを許してくれ。自分はそれだけのあわれみを得たいばかりに、家族や後見人のそしりもなんとも思わずに帰国するのだ。事務長にもそれを許してくれるように頼んでもらいたい。という事が、少し甘い、しかし真率(しんそつ)な熱情をこめた文体で長々と書いてあったのだった。
 葉子は木村が問うままに包まず岡との関係を話して聞かせた。木村は考え深く、それを聞いていたが、そんな人ならぜひあって話をしてみたいといい出した。自分より一段若いと見ると、かくばかり寛大になる木村を見て葉子は不快に思った。よし、それでは岡を通して倉地との関係を木村に知らせてやろう。そして木村が嫉妬(しっと)と憤怒(ふんぬ)とでまっ黒になって帰って来た時、それを思うままあやつってまた元の鞘に納めて見せよう。そう思って葉子は木村のいうままに任せて置いた。
 次の朝、木村は深い感激の色をたたえて船に来た。そして岡と会見した時の様子をくわしく物語った。岡はオリエンタル・ホテルの立派な一室にたった一人でいたが、そのホテルには田川夫妻も同宿なので、日本人の出入りがうるさいといって困っていた。木村の訪問したというのを聞いて、ひどくなつかしそうな様子で出迎えて、兄でも敬(うやま)うようにもてなして、やや落ち付いてから隠し立てなく真率に葉子に対する自分の憧憬(しょうけい)のほどを打ち明けたので、木村は自分のいおうとする告白を、他人の口からまざまざと聞くような切(せつ)な情にほだされて、もらい泣きまでしてしまった。二人(ふたり)は互いに相あわれむというようななつかしみを感じた。これを縁に木村はどこまでも岡を弟とも思って親しむつもりだ。が、日本に帰る決心だけは思いとどまるように勧めて置いたといった。岡はさすがに育ちだけに事務長と葉子との間のいきさつを想像に任せて、はしたなく木村に語る事はしなかったらしい。木村はその事についてはなんともいわなかった。葉子の期待は全くはずれてしまった。役者下手(べた)なために、せっかくの芝居(しばい)が芝居にならずにしまった事を物足らなく思った。しかしこの事があってから岡の事が時々葉子の頭に浮かぶようになった。女にしてもみまほしいかの華車(きゃしゃ)な青春の姿がどうかするといとしい思い出となって、葉子の心のすみに潜むようになった。
 船がシヤトルに着いてから五六日たって、木村は田川夫妻にも面会する機会を造ったらしかった。そのころから木村は突然わき目にもそれと気が付くほど考え深くなって、ともすると葉子の言葉すら聞き落としてあわてたりする事があった。そしてある時とうとう一人(ひとり)胸の中には納めていられなくなったと見えて、
「わたしにゃあなたがなぜあんな人と近しくするかわかりませんがね」
 と事務長の事をうわさのようにいった。葉子は少し腹部に痛みを覚えるのをことさら誇張してわき腹を左手で押えて、眉(まゆ)をひそめながら聞いていたが、もっともらしく幾度もうなずいて、
「それはほんとうにおっしゃるとおりですから何も好んで近づきたいとは思わないんですけれども、これまでずいぶん世話になっていますしね、それにああ見えていて思いのほか親切気のある人ですから、ボーイでも水夫でもこわがりながらなついていますわ。おまけにわたしお金まで借りていますもの」
 とさも当惑したらしくいうと、
「あなたお金は無しですか」
 木村は葉子の当惑さを自分の顔にも現わしていた。
「それはお話ししたじゃありませんか」
「困ったなあ」
 木村はよほど困りきったらしく握った手を鼻の下にあてがって、下を向いたまましばらく思案に暮れていたが、
「いくらほど借りになっているんです」
「さあ診察料や滋養品で百円近くにもなっていますかしらん」
「あなたは金は全く無しですね」
 木村はさらに繰り返していってため息をついた。
 葉子は物慣れぬ弟を教えいたわるように、
「それに万一わたしの病気がよくならないで、ひとまず日本へでも帰るようになれば、なおなお帰りの船の中では世話にならなければならないでしょう。……でも大丈夫そんな事はないとは思いますけれども、さきざきまでの考えをつけておくのが旅にあればいちばん大事ですもの」
 木村はなおも握った手を鼻の下に置いたなり、なんにもいわず、身動きもせず考え込んでいた。
 葉子は術(すべ)なさそうに木村のその顔をおもしろく思いながらまじまじと見やっていた。
 木村はふと顔を上げてしげしげと葉子を見た。何かそこに字でも書いてありはしないかとそれを読むように。そして黙ったまま深々と嘆息した。
「葉子さん。わたしは何から何まであなたを信じているのがいい事なのでしょうか。あなたの身のためばかり思ってもいうほうがいいかとも思うんですが……」
「ではおっしゃってくださいましななんでも」
 葉子の口は少し親しみをこめて冗談らしく答えていたが、その目からは木村を黙らせるだけの光が射られていた。軽はずみな事をいやしくもいってみるがいい、頭を下げさせないでは置かないから。そうその目はたしかにいっていた。
 木村は思わず自分の目をたじろがして黙ってしまった。葉子は片意地にも目で続けさまに木村の顔をむちうった。木村はその笞(しもと)の一つ一つを感ずるようにどぎまぎした。
「さ、おっしゃってくださいまし……さ」
 葉子はその言葉にはどこまでも好意と信頼とをこめて見せた。木村はやはり躊躇(ちゅうちょ)していた。葉子はいきなり手を延ばして木村を寝台に引きよせた。そして半分起き上がってその耳に近く口を寄せながら、
「あなたみたいに水臭い物のおっしゃりかたをなさる方(かた)もないもんね。なんとでも思っていらっしゃる事をおっしゃってくださればいいじゃありませんか。……あ、痛い……いゝえさして痛くもないの。何を思っていらっしゃるんだかおっしゃってくださいまし、ね、さ。なんでしょうねえ。伺いたい事ね。そんな他人行儀は……あ、あ、痛い、おゝ痛い……ちょっとここのところを押えてくださいまし。……さし込んで来たようで……あ、あ」
 といいながら、目をつぶって、床の上に寝倒れると、木村の手を持ち添えて自分の脾腹(ひばら)を押えさして、つらそうに歯をくいしばってシーツに顔を埋(うず)めた。肩でつく息気(いき)がかすかに雪白(せっぱく)のシーツを震わした。
 木村はあたふたしながら、今までの言葉などはそっちのけにして介抱にかかった。

       二一

 絵島丸はシヤトルに着いてから十二日目に纜(ともづな)を解いて帰航するはずになっていた。その出発があと三日になった十月十五日に、木村は、船医の興録から、葉子はどうしてもひとまず帰国させるほうが安全だという最後の宣告を下されてしまった。木村はその時にはもう大体覚悟を決めていた。帰ろうと思っている葉子の下心(したごころ)をおぼろげながら見て取って、それを翻す事はできないとあきらめていた。運命に従順な羊のように、しかし執念(しゅうね)く将来の希望を命にして、現在の不満に服従しようとしていた。
 緯度の高いシヤトルに冬の襲いかかって来るさまはすさまじいものだった。海岸線に沿うてはるか遠くまで連続して見渡されるロッキーの山々はもうたっぷりと雪がかかって、穏やかな夕空に現われ慣れた雲の峰も、古綿のように形のくずれた色の寒い霰雲(あられぐも)に変わって、人をおびやかす白いものが、今にも地を払って降りおろして来るかと思われた。海ぞいに生(は)えそろったアメリカ松の翠(みどり)ばかりが毒々しいほど黒ずんで、目に立つばかりで、濶葉樹(かつようじゅ)の類は、いつのまにか、葉を払い落とした枝先を針のように鋭く空に向けていた。シヤトルの町並みがあると思われるあたりからは――船のつながれている所から市街は見えなかった――急に煤煙(ばいえん)が立ち増さって、せわしく冬じたくを整えながら、やがて北半球を包んで攻め寄せて来るまっ白な寒気に対しておぼつかない抵抗を用意するように見えた。ポッケットに両手をさし入れて、頭を縮め気味に、波止場の石畳を歩き回る人々の姿にも、不安と焦躁とのうかがわれるせわしい自然の移り変わりの中に、絵島丸はあわただしい発航の準備をし始めた。絞盤(こうばん)の歯車のきしむ音が船首と船尾とからやかましく冴(さ)え返って聞こえ始めた。
 木村はその日も朝から葉子を訪れて来た。ことに青白く見える顔つきは、何かわくわくと胸の中に煮え返る想(おも)いをまざまざと裏切って、見る人のあわれを誘うほどだった。背水の陣と自分でもいっているように、亡父の財産をありったけ金に代えて、手っ払(ぱら)いに日本の雑貨を買い入れて、こちらから通知書一つ出せば、いつでも日本から送ってよこすばかりにしてあるものの、手もとにはいささかの銭(ぜに)も残ってはいなかった。葉子が来たならばと金の上にも心の上にもあてにしていたのがみごとにはずれてしまって、葉子が帰るにつけては、なけなしの所からまたまたなんとかしなければならないはめに立った木村は、二三日のうちに、ぬか喜びも一時の間で、孤独と冬とに囲まれなければならなかったのだ。
 葉子は木村が結局事務長にすがり寄って来るほかに道のない事を察していた。
 木村ははたして事務長を葉子の部屋(へや)に呼び寄せてもらった。事務長はすぐやって来たが、服なども仕事着のままで何かよほどせわしそうに見えた。木村はまあといって倉地に椅子(いす)を与えて、きょうはいつものすげない態度に似ず、折り入っていろいろと葉子の身の上を頼んだ。事務長は始めの忙(せわ)しそうだった様子に引きかえて、どっしりと腰を据えて正面から例の大きく木村を見やりながら、親身(しんみ)に耳を傾けた。木村の様子のほうがかえってそわそわしくながめられた。
 木村は大きな紙入れを取り出して、五十ドルの切手を葉子に手渡しした。
「何もかも御承知だから倉地さんの前でいうほうが世話なしだと思いますが、なんといってもこれだけしかできないんです。こ、これです」
 といってさびしく笑いながら、両手を出して広げて見せてから、チョッキをたたいた。胸にかかっていた重そうな金鎖も、四つまではめられていた指輪の三つまでもなくなっていて、たった、一つ婚約の指輪だけが貧乏臭く左の指にはまっているばかりだった。葉子はさすがに「まあ」といった。
「葉子さん、わたしはどうにでもします。男一匹なりゃどこにころがり込んだからって、――そんな経験もおもしろいくらいのものですが、これんばかりじゃあなたが足りなかろうと思うと、面目(めんぼく)もないんです。倉地さん、あなたにはこれまででさえいいかげん世話をしていただいてなんともすみませんですが、わたしども二人(ふたり)はお打ち明け申したところ、こういうていたらくなんです。横浜へさえおとどけくださればその先はまたどうにでもしますから、もし旅費にでも不足しますようでしたら、御迷惑ついでになんとかしてやっていただく事はできないでしょうか」
 事務長は腕組みをしたまままじまじと木村の顔を見やりながら聞いていたが、
「あなたはちっとも持っとらんのですか」
 と聞いた。木村はわざと快活にしいて声高(こわだか)く笑いながら、
「きれいなもんです」
 とまたチョッキをたたくと、
「そりゃいかん。何、船賃なんぞいりますものか。東京で本店にお払いになればいいんじゃし、横浜の支店長も万事心得とられるんだで、御心配いりませんわ。そりゃあなたお持ちになるがいい。外国にいて文(もん)なしでは心細いもんですよ」
 と例の塩辛声(しおからごえ)でややふきげんらしくいった。その言葉には不思議に重々しい力がこもっていて、木村はしばらくかれこれと押し問答をしていたが、結局事務長の親切を無にする事の気の毒さに、直(すぐ)な心からなおいろいろと旅中の世話を頼みながら、また大きな紙入れを取り出して切手をたたみ込んでしまった。
「よしよしそれで何もいう事はなし。早月(さつき)さんはわしが引き受けた」
 と不敵な微笑を浮かべながら、事務長は始めて葉子のほうを見返った。
 葉子は二人(ふたり)を目の前に置いて、いつものように見比べながら二人の会話を聞いていた。あたりまえなら、葉子はたいていの場合、弱いものの味方をして見るのが常だった。どんな時でも、強いものがその強味を振りかざして弱い者を圧迫するのを見ると、葉子はかっとなって、理が非でも弱いものを勝たしてやりたかった。今の場合木村は単に弱者であるばかりでなく、その境遇もみじめなほどたよりない苦しいものである事は存分に知り抜いていながら、木村に対しての同情は不思議にもわいて来なかった。齢(とし)の若さ、姿のしなやかさ、境遇のゆたかさ、才能のはなやかさというようなものをたよりにする男たちの蠱惑(こわく)の力は、事務長の前では吹けば飛ぶ塵(ちり)のごとく対照された。この男の前には、弱いものの哀れよりも醜さがさらけ出された。
 なんという不幸な青年だろう。若い時に父親に死に別れてから、万事思いのままだった生活からいきなり不自由な浮世のどん底にほうり出されながら、めげもせずにせっせと働いて、後ろ指をさされないだけの世渡りをして、だれからも働きのある行く末たのもしい人と思われながら、それでも心の中のさびしさを打ち消すために思い入った恋人は仇(あだ)し男にそむいてしまっている。それをまたそうとも知らずに、その男の情けにすがって、消えるに決まった約束をのがすまいとしている。……葉子はしいて自分を説服するようにこう考えてみたが、少しも身にしみた感じは起こって来ないで、ややもすると笑い出したいような気にすらなっていた。
「よしよしそれで何もいう事はなし。早月さんはわしが引き受けた」
 という声と不敵な微笑とがどやすように葉子の心の戸を打った時、葉子も思わず微笑を浮かべてそれに応じようとした。が、その瞬間、目ざとく木村の見ているのに気がついて、顔には笑いの影はみじんも現わさなかった。
「わしへの用はそれだけでしょう。じゃ忙(せわ)しいで行きますよ」
 とぶっきらぼうにいって事務長が部屋を出て行ってしまうと、残った二人は妙にてれて、しばらくは互いに顔を見合わすのもはばかって黙ったままでいた。
 事務長が行ってしまうと葉子は急に力が落ちたように思った。今までの事がまるで芝居(しばい)でも見て楽しんでいたようだった。木村のやる瀬ない心の中が急に葉子に逼(せま)って来た。葉子の目には木村をあわれむとも自分をあわれむとも知れない涙がいつのまにか宿っていた。
 木村は痛ましげに黙ったままでしばらく葉子を見やっていたが、
「葉子さん今になってそう泣いてもらっちゃわたしがたまりませんよ。きげんを直してください。またいい日も回って来るでしょうから。神を信ずるもの――そういう信仰が今あなたにあるかどうか知らないが――おかあさんがああいう堅い信者でありなさったし、あなたも仙台時分には確かに信仰を持っていられたと思いますが、こんな場合にはなおさら同じ神様から来る信仰と希望とを持って進んで行きたいものだと思いますよ。何事も神様は知っていられる……そこにわたしはたゆまない希望をつないで行きます」
 決心した所があるらしく力強い言葉でこういった。何の希望! 葉子は木村の事については、木村のいわゆる神様以上に木村の未来を知りぬいているのだ。木村の希望というのはやがて失望にそうして絶望に終わるだけのものだ。何の信仰! 何の希望! 木村は葉子が据(す)えた道を――行きどまりの袋小路を――天使の昇(のぼ)り降りする雲の梯(かけはし)のように思っている。あゝ何の信仰!
 葉子はふと同じ目を自分に向けて見た。木村を勝手気ままにこづき回す威力を備えた自分はまただれに何者に勝手にされるのだろう。どこかで大きな手が情けもなく容赦もなく冷然と自分の運命をあやつっている。木村の希望がはかなく断ち切れる前、自分の希望がいち早く断たれてしまわないとどうして保障する事ができよう。木村は善人だ。自分は悪人だ。葉子はいつのまにか純な感情に捕えられていた。
「木村さん。あなたはきっと、しまいにはきっと祝福をお受けになります……どんな事があっても失望なさっちゃいやですよ。あなたのような善(よ)い方(かた)が不幸にばかりおあいになるわけがありませんわ。……わたしは生まれるときから呪(のろ)われた女なんですもの。神、ほんとうは神様を信ずるより……信ずるより憎むほうが似合っているんです……ま、聞いて……でも、わたし卑怯(ひきょう)はいやだから信じます……神様はわたしみたいなものをどうなさるか、しっかり目を明いて最後まで見ています」
 といっているうちにだれにともなくくやしさが胸いっぱいにこみ上げて来るのだった。
「あなたはそんな信仰はないとおっしゃるでしょうけれども……でもわたしにはこれが信仰です。立派な信仰ですもの」
 といってきっぱり思いきったように、火のように熱く目にたまったままで流れずにいる涙を、ハンケチでぎゅっと押しぬぐいながら、黯然(あんぜん)と頭をたれた木村に、
「もうやめましょうこんなお話。こんな事をいってると、いえばいうほど先が暗くなるばかりです。ほんとに思いきって不仕合わせな人はこんな事をつべこべと口になんぞ出しはしませんわ。ね、いや、あなたは自分のほうからめいってしまって、わたしのいった事ぐらいでなんですねえ、男のくせに」
 木村は返事もせずにまっさおになってうつむいていた。
 そこに「御免なさい」というかと思うと、いきなり戸をあけてはいって来たものがあった。木村も葉子も不意を打たれて気先(きさき)をくじかれながら、見ると、いつぞや錨綱(びょうづな)で足をけがした時、葉子の世話になった老水夫だった。彼はとうとう跛脚(びっこ)になっていた。そして水夫のような仕事にはとても役に立たないから、幸いオークランドに小農地を持ってとにかく暮らしを立てている甥(おい)を尋ねて厄介(やっかい)になる事になったので、礼かたがた暇乞(いとまご)いに来たというのだった。葉子は紅(あか)くなった目を少し恥ずかしげにまたたかせながら、いろいろと慰めた。

「何ねこう老いぼれちゃ、こんな稼業(かぎょう)をやってるがてんでうそなれど、事務長さんとボンスン(水夫長)とがかわいそうだといって使ってくれるで、いい気になったが罰(ばち)あたったんだね」
 といって臆病(おくびょう)に笑った。葉子がこの老人をあわれみいたわるさまはわき目もいじらしかった。日本には伝言を頼むような近親(みより)さえない身だというような事を聞くたびに、葉子は泣き出しそうな顔をして合点合点していたが、しまいには木村の止めるのも聞かず寝床から起き上がって、木村の持って来た果物(くだもの)をありったけ籃(かご)につめて、
「陸(おか)に上がればいくらもあるんだろうけれども、これを持っておいで。そしてその中に果物でなくはいっているものがあったら、それもお前さんに上げたんだからね、人に取られたりしちゃいけませんよ」
 といってそれを渡してやった。
 老人が来てから葉子は夜が明けたように始めて晴れやかなふだんの気分になった。そして例のいたずららしいにこにこした愛矯(あいきょう)を顔いちめんにたたえて、
「なんという気さくなんでしょう。わたし、 あんなおじいさんのお内儀(かみ)さんになってみたい……だからね、いいものをやっちまった」
 きょとりとしてまじまじ木村のむっつりとした顔を見やる様子は大きな子供とより思えなかった。
「あなたからいただいたエンゲージ・リングね、あれをやりましてよ。だってなんにもないんですもの」
 なんともいえない媚(こ)びをつつむおとがいが二重になって、きれいな歯並みが笑いのさざ波のように口びるの汀(みぎわ)に寄せたり返したりした。
 木村は、葉子という女はどうしてこうむら気で上(うわ)すべりがしてしまうのだろう、情けないというような表情を顔いちめんにみなぎらして、何かいうべき言葉を胸の中で整えているようだったが、急に思い捨てたというふうで、黙ったままでほっと深いため息をついた。
 それを見ると今まで珍しく押えつけられていた反抗心が、またもや旋風のように葉子の心に起こった。「ねちねちさったらない」と胸の中をいらいらさせながら、ついでの事に少しいじめてやろうというたくらみが頭をもたげた。しかし顔はどこまでも前のままの無邪気さで、
「木村さんお土産(みやげ)を買ってちょうだいな。愛も貞もですけれども、親類たちや古藤(ことう)さんなんぞにも何かしないじゃ顔が向けられませんもの。今ごろは田川の奥さんの手紙が五十川(いそがわ)のおばさんの所に着いて、東京ではきっと大騒ぎをしているに違いありませんわ。発(た)つ時には世話を焼かせ、留守は留守で心配させ、ぽかんとしてお土産一つ持たずに帰って来るなんて、木村もいったい木村じゃないかといわれるのが、わたし、死ぬよりつらいから、少しは驚くほどのものを買ってちょうだい。先ほどのお金で相当のものが買(と)れるでしょう」
 木村は駄々児(だだっこ)をなだめるようにわざとおとなしく、
「それはよろしい、買えとなら買いもしますが、わたしはあなたがあれをまとまったまま持って帰ったらと思っているんです。たいていの人は横浜に着いてから土産(みやげ)を買うんですよ。そのほうが実際格好ですからね。持ち合わせもなしに東京に着きなさる事を思えば、土産なんかどうでもいいと思うんですがね」
「東京に着きさえすればお金はどうにでもしますけれども、お土産(みやげ)は……あなた横浜の仕入れものはすぐ知れますわ……御覧なさいあれを」
 といって棚(たな)の上にある帽子入れのボール箱に目をやった。
「古藤さんに連れて行っていただいてあれを買った時は、ずいぶん吟味したつもりでしたけれども、船に来てから見ているうちにすぐあきてしまいましたの。それに田川の奥さんの洋服姿を見たら、我慢にも日本で買ったものをかぶったり着たりする気にはなれませんわ」
 そういってるうちに木村は棚から箱をおろして中をのぞいていたが、
「なるほど型はちっと古いようですね。だが品(しな)はこれならこっちでも上の部ですぜ」
「だからいやですわ。流行おくれとなると値段の張ったものほどみっともないんですもの」
 しばらくしてから、
「でもあのお金はあなた御入用ですわね」
 木村はあわてて弁解的に、
「いゝえ、あれはどの道あなたに上げるつもりでいたんですから……」
 というのを葉子は耳にも入れないふうで、
「ほんとにばかねわたしは……思いやりもなんにもない事を申し上げてしまって、どうしましょうねえ。……もうわたしどんな事があってもそのお金だけはいただきません事よ。こういったらだれがなんといったってだめよ」
 ときっぱりいい切ってしまった。木村はもとより一度いい出したらあとへは引かない葉子の日ごろの性分を知り抜いていた。で、言わず語らずのうちに、その金は品物にして持って帰らすよりほかに道のない事を観念したらしかった。
       *        *        *
 その晩、事務長が仕事を終えてから葉子の部屋(へや)に来ると、葉子は何か気に障(さ)えたふうをしてろくろくもてなしもしなかった。
「とうとう形(かた)がついた。十九日の朝の十時だよ出航は」
 という事務長の快活な言葉に返事もしなかった。男は怪訝(けげん)な顔つきで見やっている。
「悪党」
 としばらくしてから、葉子は一言(ひとこと)これだけいって事務長をにらめた。
「なんだ?」
 と尻上(しりあ)がりにいって事務長は笑っていた。
「あなたみたいな残酷な人間はわたし始めて見た。木村を御覧なさいかわいそうに。あんなに手ひどくしなくったって……恐ろしい人ってあなたの事ね」
「何?」
 とまた事務長は尻上がりに大きな声でいって寝床に近づいて来た。
「知りません」
 と葉子はなお怒(おこ)って見せようとしたが、いかにも刻みの荒い、単純な、他意のない男の顔を見ると、からだのどこかが揺(ゆす)られる気がして来て、わざと引き締めて見せた口びるのへんから思わずも笑いの影が潜み出た。
 それを見ると事務長は苦(にが)い顔と笑った顔とを一緒にして、
「なんだいくだらん」
 といって、電燈の近所に椅子(いす)をよせて、大きな長い足を投げ出して、夕刊新聞を大きく開いて目を通し始めた。
 木村とは引きかえて事務長がこの部屋に来ると、部屋が小さく見えるほどだった。上向けた靴(くつ)の大きさには葉子は吹き出したいくらいだった。葉子は目でなでたりさすったりするようにして、この大きな子供みたような暴君の頭から足の先までを見やっていた。ごわっごわっと時々新聞を折り返す音だけが聞こえて、積み荷があらかた片付いた船室の夜は静かにふけて行った。
 葉子はそうしたままでふと木村を思いやった。
 木村は銀行に寄って切手を現金に換えて、店の締まらないうちにいくらか買い物をして、それを小わきにかかえながら、夕食もしたためずに、ジャクソン街にあるという日本人の旅店に帰り着くころには、町々に灯(ひ)がともって、寒い靄(もや)と煙との間を労働者たちが疲れた五体を引きずりながら歩いて行くのにたくさん出あっているだろう。小さなストーブに煙の多い石炭がぶしぶし燃えて、けばけばしい電灯の光だけが、むちうつようにがらんとした部屋(へや)の薄ぎたなさを煌々(こうこう)と照らしているだろう。その光の下で、ぐらぐらする椅子(いす)に腰かけて、ストーブの火を見つめながら木村が考えている。しばらく考えてからさびしそうに見るともなく部屋の中を見回して、またストーブの火にながめ入るだろう。そのうちにあの涙の出やすい目からは涙がほろほろととめどもなく流れ出るに違いない。
 事務長が音をたてて新聞を折り返した。
 木村は膝頭(ひざがしら)に手を置いて、その手の中に顔を埋(うず)めて泣いている。祈っている。葉子は倉地から目を放して、上目を使いながら木村の祈りの声に耳を傾けようとした。途切れ途切れな切(せつ)ない祈りの声が涙にしめって確かに……確かに聞こえて来る。葉子は眉(まゆ)を寄せて注意力を集注しながら、木村がほんとうにどう葉子を思っているかをはっきり見窮めようとしたが、どうしても思い浮かべてみる事ができなかった。
 事務長がまた新聞を折り返す音を立てた。
 葉子ははっとして淀(よど)みにささえられた木の葉がまた流れ始めたように、すらすらと木村の所作を想像した。それがだんだん岡の上に移って行った。哀れな岡! 岡もまだ寝ないでいるだろう。木村なのか岡なのかいつまでもいつまでも寝ないで火の消えかかったストーブの前にうずくまっているのは……ふけるままにしみ込む寒さはそっと床を伝わって足の先からはい上がって来る。男はそれにも気が付かぬふうで椅子(いす)の上にうなだれている。すべての人は眠っている時に、木村の葉子も事務長に抱かれて安々と眠っている時に……。
 ここまで想像して来ると小説に読みふけっていた人が、ほっとため息をしてばたんと書物をふせるように、葉子も何とはなく深いため息をしてはっきりと事務長を見た。葉子の心は小説を読んだ時のとおり無関心の Pathos をかすかに感じているばかりだった。
「おやすみにならないの?」
 と葉子は鈴のように涼しい小さい声で倉地にいってみた。大きな声をするのもはばかられるほどあたりはしんと静まっていた。
「う」
 と返事はしたが事務長は煙草(たばこ)をくゆらしたまま新聞を見続けていた。葉子も黙ってしまった。
 ややしばらくしてから事務長もほっとため息をして、
「どれ寝るかな」
 といいながら椅子(いす)から立って寝床にはいった。葉子は事務長の広い胸に巣食うように丸まって少し震えていた。
 やがて子供のようにすやすやと安らかないびきが葉子の口びるからもれて来た。
 倉地は暗闇(くらやみ)の中で長い間まんじりともせず大きな目を開いていたが、やがて、
「おい悪党」
 と小さな声で呼びかけてみた。
 しかし葉子の規則正しく楽しげな寝息は露ほども乱れなかった。
 真夜中に、恐ろしい夢を葉子は見た。よくは覚えていないが、葉子は殺してはいけないいけないと思いながら人殺しをしたのだった。一方の目は尋常に眉(まゆ)の下にあるが、一方のは不思議にも眉の上にある、その男の額から黒血がどくどくと流れた。男は死んでも物すごくにやりにやりと笑い続けていた。その笑い声が木村木村と聞こえた。始めのうちは声が小さかったがだんだん大きくなって数もふえて来た。その「木村木村」という数限りもない声がうざうざと葉子を取り巻き始めた。葉子は一心に手を振ってそこからのがれようとしたが手も足も動かなかった。
             木村……
          木村
       木村    木村……
    木村    木村
 木村    木村    木村……
    木村    木村
       木村    木村……
          木村
             木村……
 ぞっとして寒気(さむけ)を覚えながら、葉子は闇(やみ)の中に目をさました。恐ろしい凶夢のなごりは、ど、ど、ど……と激しく高くうつ心臓に残っていた。葉子は恐怖におびえながら一心に暗い中をおどおどと手探りに探ると事務長の胸に触れた。
「あなた」
 と小さい震え声で呼んでみたが男は深い眠りの中にあった。なんともいえない気味わるさがこみ上げて来て、葉子は思いきり男の胸をゆすぶってみた。
 しかし男は材木のように感じなく熟睡していた。
(前編 了)



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