或る女
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著者名:有島武郎 

 田川夫妻の姿が見えなくなると、事務長はろくろく葉子を見むきもしないでこういいながら先に立った。葉子は小娘のようにいそいそとそのあとについて、薄暗い階子段(はしごだん)にかかると男におぶいかかるようにしてこぜわしく降りて行った。そして機関室と船員室との間にある例の暗い廊下を通って、事務長が自分の部屋の戸をあけた時、ぱっと明るくなった白い光の中に、nonchalant な diabolic な男の姿を今さらのように一種の畏(おそ)れとなつかしさとをこめて打ちながめた。
 部屋にはいると事務長は、田川夫人の言葉でも思い出したらしくめんどうくさそうに吐息(といき)一つして、帳簿を事務テーブルの上にほうりなげておいて、また戸から頭だけつき出して、「ボーイ」と大きな声で呼び立てた。そして戸をしめきると、始めてまともに葉子に向きなおった。そして腹をゆすり上げて続けさまに思い存分笑ってから、
「え」と大きな声で、半分は物でも尋ねるように、半分は「どうだい」といったような調子でいって、足を開いて akimbo をして突っ立ちながら、ちょいと無邪気に首をかしげて見せた。
 そこにボーイが戸の後ろから顔だけ出した。
「シャンペンだ。船長の所にバーから持って来(こ)さしたのが、二三本残ってるよ。十の字三つぞ(大至急という軍隊用語)。……何がおかしいかい」
 事務長は葉子のほうを向いたままこういったのであるが、実際その時ボーイは意味ありげににやにや薄笑いをしていた。
 あまりに事もなげな倉地の様子を見ていると葉子は自分の心の切(せつ)なさに比べて、男の心を恨めしいものに思わずにいられなくなった。けさの記憶のまだ生々(なまなま)しい部屋(へや)の中を見るにつけても、激しく嵩(たか)ぶって来る情熱が妙にこじれて、いても立ってもいられないもどかしさが苦しく胸に逼(せま)るのだった。今まではまるきり眼中になかった田川夫人も、三等の女客の中で、処女とも妻ともつかぬ二人(ふたり)の二十女も、果ては事務長にまつわりつくあの小娘のような岡までが、写真で見た事務長の細君と一緒になって、苦しい敵意を葉子の心にあおり立てた。ボーイにまで笑いものにされて、男の皮を着たこの好色の野獣のなぶりものにされているのではないか。自分の身も心もただ一息にひしぎつぶすかと見えるあの恐ろしい力は、自分を征服すると共にすべての女に対しても同じ力で働くのではないか。そのたくさんの女の中の影の薄い一人(ひとり)の女として彼は自分を扱っているのではないか。自分には何物にも代え難(がた)く思われるけさの出来事があったあとでも、ああ平気でいられるそののんきさはどうしたものだろう。葉子は物心がついてから始終自分でも言い現わす事のできない何物かを逐(お)い求めていた。その何物かは葉子のすぐ手近にありながら、しっかりとつかむ事はどうしてもできず、そのくせいつでもその力の下に傀儡(かいらい)のようにあてもなく動かされていた。葉子はけさの出来事以来なんとなく思いあがっていたのだ。それはその何物かがおぼろげながら形を取って手に触れたように思ったからだ。しかしそれも今から思えば幻影に過ぎないらしくもある。自分に特別な注意も払っていなかったこの男の出来心に対して、こっちから進んで情をそそるような事をした自分はなんという事をしたのだろう。どうしたらこの取り返しのつかない自分の破滅を救う事ができるのだろうと思って来ると、一秒でもこのいまわしい記憶のさまよう部屋の中にはいたたまれないように思え出した。しかし同時に事務長は断ちがたい執着となって葉子の胸の底にこびりついていた。この部屋をこのままで出て行くのは死ぬよりもつらい事だった。どうしてもはっきりと事務長の心を握るまでは……葉子は自分の心の矛盾に業(ごう)を煮やしながら、自分をさげすみ果てたような絶望的な怒りの色を口びるのあたりに宿して、黙ったまま陰鬱(いんうつ)に立っていた。今までそわそわと小魔(しょうま)のように葉子の心をめぐりおどっていたはなやかな喜び――それはどこに行ってしまったのだろう。
 事務長はそれに気づいたのか気がつかないのか、やがてよりかかりのないまるい事務いすに尻(しり)をすえて、子供のような罪のない顔をしながら、葉子を見て軽く笑っていた。葉子はその顔を見て、恐ろしい大胆な悪事を赤児(あかご)同様の無邪気さで犯しうる質(たち)の男だと思った。葉子はこんな無自覚な状態にはとてもなっていられなかった。一足ずつ先(さき)を越されているのかしらんという不安までが心の平衡をさらに狂わした。
「田川博士は馬鹿(ばか)ばかで、田川の奥さんは利口ばかというんだ。はゝゝゝゝ」
 そういって笑って、事務長は膝(ひざ)がしらをはっしと打った手をかえして、机の上にある葉巻をつまんだ。
 葉子は笑うよりも腹だたしく、腹だたしいよりも泣きたいくらいになっていた。口びるをぶるぶると震わしながら涙でもたまったように輝く目は剣(けん)を持って、恨みをこめて事務長を見入ったが、事務長は無頓着(むとんじゃく)に下を向いたまま、一心に葉巻に火をつけている。葉子は胸に抑(おさ)えあまる恨みつらみをいい出すには、心があまりに震えて喉(のど)がかわききっているので、下くちびるをかみしめたまま黙っていた。
 倉地はそれを感づいているのだのにと葉子は置きざりにされたようなやり所のないさびしさを感じていた。
 ボーイがシャンペンとコップとを持ってはいって来た。そして丁寧にそれを事務テーブルの上に置いて、さっきのように意味ありげな微笑をもらしながら、そっと葉子をぬすみ見た。待ち構えていた葉子の目はしかしボーイを笑わしてはおかなかった。ボーイはぎょっとして飛んでもない事をしたというふうに、すぐ慎み深い給仕(きゅうじ)らしく、そこそこに部屋(へや)を出て行った。
 事務長は葉巻の煙に顔をしかめながら、シャンペンをついで盆を葉子のほうにさし出した。葉子は黙って立ったまま手を延ばした。何をするにも心にもない作り事をしているようだった。この短い瞬間に、今までの出来事でいいかげん乱れていた心は、身の破滅がとうとう来てしまったのだというおそろしい予想に押しひしがれて、頭は氷で巻かれたように冷たく気(け)うとくなった。胸から喉(のど)もとにつきあげて来る冷たいそして熱い球(たま)のようなものを雄々(おお)しく飲み込んでも飲み込んでも涙がややともすると目がしらを熱くうるおして来た。薄手(うすで)のコップに泡(あわ)を立てて盛られた黄金色(こがねいろ)の酒は葉子の手の中で細かいさざ波を立てた。葉子はそれを気取(けど)られまいと、しいて左の手を軽くあげて鬢(びん)の毛をかき上げながら、コップを事務長のと打ち合わせたが、それをきっかけに願(がん)でもほどけたように今までからく持ちこたえていた自制は根こそぎくずされてしまった。
 事務長がコップを器用に口びるにあてて、仰向きかげんに飲みほす間、葉子は杯を手にもったまま、ぐびりぐびりと動く男の喉(のど)を見つめていたが、いきなり自分の杯を飲まないまま盆の上にかえして、
「よくもあなたはそんなに平気でいらっしゃるのね」
 と力をこめるつもりでいったその声はいくじなくも泣かんばかりに震えていた。そして堰(せき)を切ったように涙が流れ出ようとするのを糸切り歯でかみきるばかりにしいてくいとめた。
 事務長は驚いたらしかった。目を大きくして何かいおうとするうちに、葉子の舌は自分でも思い設けなかった情熱を帯びて震えながら動いていた。
「知っています。知っていますとも……。あなたはほんとに……ひどい方(かた)ですのね。わたしなんにも知らないと思ってらっしゃるのね。えゝ、わたしは存じません、存じません、ほんとに……」
 何をいうつもりなのか自分でもわからなかった。ただ激しい嫉妬(しっと)が頭をぐらぐらさせるばかりに嵩(こう)じて来るのを知っていた。男がある機会には手傷も負わないで自分から離れて行く……そういういまいましい予想で取り乱されていた。葉子は生来こんなみじめなまっ暗な思いに捕えられた事がなかった。それは生命が見す見す自分から離れて行くのを見守るほどみじめでまっ暗だった。この人を自分から離れさすくらいなら殺してみせる、そう葉子はとっさに思いつめてみたりした。
 葉子はもう我慢にもそこに立っていられなくなった。事務長に倒れかかりたい衝動をしいてじっとこらえながら、きれいに整えられた寝台にようやく腰をおろした。美妙な曲線を長く描いてのどかに開いた眉根(まゆね)は痛ましく眉間(みけん)に集まって、急にやせたかと思うほど細った鼻筋は恐ろしく感傷的な痛々しさをその顔に与えた。いつになく若々しく装った服装までが、皮肉な反語のように小股(こまた)の切れあがったやせ形(がた)なその肉を痛ましく虐(しいた)げた。長い袖(そで)の下で両手の指を折れよとばかり組み合わせて、何もかも裂いて捨てたいヒステリックな衝動を懸命に抑(おさ)えながら、葉子は唾(つば)も飲みこめないほど狂おしくなってしまっていた。
 事務長は偶然に不思議を見つけた子供のような好奇なあきれた顔つきをして、葉子の姿を見やっていたが、片方のスリッパを脱ぎ落としたその白足袋(しろたび)の足もとから、やや乱れた束髪(そくはつ)までをしげしげと見上げながら、
「どうしたんです」
 といぶかるごとく聞いた。葉子はひったくるようにさそくに返事をしようとしたけれども、どうしてもそれができなかった。倉地はその様子を見ると今度はまじめになった。そして口の端(はた)まで持って行った葉巻をそのままトレイの上に置いて立ち上がりながら、
「どうしたんです」
 ともう一度聞きなおした。それと同時に、葉子も思いきり冷酷に、
「どうもしやしません」
 という事ができた。二人(ふたり)の言葉がもつれ返ったように、二人の不思議な感情ももつれ合った。もうこんな所にはいない、葉子はこの上の圧迫には堪(た)えられなくなって、はなやかな裾(すそ)を蹴乱(けみだ)しながらまっしぐらに戸口のほうに走り出ようとした。事務長はその瞬間に葉子のなよやかな肩をさえぎりとめた。葉子はさえぎられて是非なく事務テーブルのそばに立ちすくんだが、誇りも恥も弱さも忘れてしまっていた。どうにでもなれ、殺すか死ぬかするのだ、そんな事を思うばかりだった。こらえにこらえていた涙を流れるに任せながら、事務長の大きな手を肩に感じたままで、しゃくり上げて恨めしそうに立っていたが、手近に飾ってある事務長の家族の写真を見ると、かっと気がのぼせて前後のわきまえもなく、それを引ったくるとともに両手にあらん限りの力をこめて、人殺しでもするような気負いでずたずたに引き裂いた。そしてもみくたになった写真の屑(くず)を男の胸も透(とお)れと投げつけると、写真のあたったその所にかみつきもしかねまじき狂乱の姿となって、捨て身に武者ぶりついた。事務長は思わず身を退(ひ)いて両手を伸ばして走りよる葉子をせき止めようとしたが、葉子はわれにもなく我武者(がむしゃ)にすり入って、男の胸に顔を伏せた。そして両手で肩の服地を爪(つめ)も立てよとつかみながら、しばらく歯をくいしばって震えているうちに、それがだんだんすすり泣きに変わって行って、しまいににはさめざめと声を立てて泣きはじめた。そしてしばらくは葉子の絶望的な泣き声ばかりが部屋(へや)の中の静かさをかき乱して響いていた。
 突然葉子は倉地の手を自分の背中に感じて、電気にでも触れたように驚いて飛びのいた。倉地に泣きながらすがりついた葉子が倉地からどんなものを受け取らねばならぬかは知れきっていたのに、優しい言葉でもかけてもらえるかのごとく振る舞った自分の矛盾にあきれて、恐ろしさに両手で顔をおおいながら部屋のすみに退(さが)って行った。倉地はすぐ近寄って来た。葉子は猫(ねこ)に見込まれたカナリヤのように身もだえしながら部屋の中を逃げにかかったが、事務長は手もなく追いすがって、葉子の二の腕を捕えて力まかせに引き寄せた。葉子も本気にあらん限りの力を出してさからった。しかしその時の倉地はもうふだんの倉地ではなくなっていた。けさ写真を見ていた時、後ろから葉子を抱きしめたその倉地が目ざめていた。怒(おこ)った野獣に見る狂暴な、防ぎようのない力があらしのように男の五体をさいなむらしく、倉地はその力の下にうめきもがきながら、葉子にまっしぐらにつかみかかった。
「またおれをばかにしやがるな」
 という言葉がくいしばった歯の間から雷のように葉子の耳を打った。
 あゝこの言葉――このむき出しな有頂点(うちょうてん)な興奮した言葉こそ葉子が男の口から確かに聞こうと待ち設けた言葉だったのだ。葉子は乱暴な抱擁の中にそれを聞くとともに、心のすみに軽い余裕のできたのを感じて自分というものがどこかのすみに頭をもたげかけたのを覚えた。倉地の取った態度に対して作為のある応対ができそうにさえなった。葉子は前どおりすすり泣きを続けてはいたが、その涙の中にはもう偽りのしずくすらまじっていた。
「いやです放して」
 こういった言葉も葉子にはどこか戯曲的な不自然な言葉だった。しかし倉地は反対に葉子の一語一語に酔いしれて見えた。
「だれが離すか」
 事務長の言葉はみじめにもかすれおののいていた。葉子はどんどん失った所を取り返して行くように思った。そのくせその態度は反対にますますたよりなげなやる瀬ないものになっていた。倉地の広い胸と太い腕との間に羽(は)がいに抱きしめられながら、小鳥のようにぶるぶると震えて、
「ほんとうに離してくださいまし」
「いやだよ」
 葉子は倉地の接吻(せっぷん)を右に左によけながら、さらに激しくすすり泣いた。倉地は致命傷を受けた獣(けもの)のようにうめいた。その腕には悪魔のような血の流れるのが葉子にも感ぜられた。葉子は程(ほど)を見計らっていた。そして男の張りつめた情欲の糸が絶ち切れんばかりに緊張した時、葉子はふと泣きやんできっと倉地の顔を振り仰いだ。その目からは倉地が思いもかけなかった鋭い強い光が放たれていた。
「ほんとうに放していただきます」
 ときっぱりいって、葉子は機敏にちょっとゆるんだ倉地の手をすりぬけた。そしていち早く部屋(へや)を横筋かいに戸口まで逃げのびて、ハンドルに手をかけながら、
「あなたはけさこの戸に鍵(かぎ)をおかけになって、……それは手籠(てご)めです……わたし……」
 といって少し情に激してうつむいてまた何かいい続けようとするらしかったが、突然戸をあけて出て行ってしまった。
 取り残された倉地はあきれてしばらく立っているようだったが、やがて英語で乱暴な呪詛(じゅそ)を口走りながら、いきなり部屋を出て葉子のあとを追って来た。そしてまもなく葉子の部屋の所に来てノックした。葉子は鍵をかけたまま黙って答えないでいた。事務長はなお二三度ノックを続けていたが、いきなり何か大声で物をいいながら船医の興録の部屋にはいるのが聞こえた。
 葉子は興録が事務長のさしがねでなんとかいいに来るだろうとひそかに心待ちにしていた。ところがなんともいって来ないばかりか、船医室からは時々あたりをはばからない高笑いさえ聞こえて、事務長は容易にその部屋(へや)を出て行きそうな気配(けはい)もなかった。葉子は興奮に燃え立ついらいらした心でそこにいる事務長の姿をいろいろ想像していた。ほかの事は一つも頭の中にははいって来なかった。そしてつくづく自分の心の変わりかたの激しさに驚かずにはいられなかった。「定子! 定子!」葉子は隣にいる人を呼び出すような気で小さな声を出してみた。その最愛の名を声にまで出してみても、その響きの中には忘れていた夢を思い出したほどの反応(こたえ)もなかった。どうすれば人の心というものはこんなにまで変わり果てるものだろう。葉子は定子をあわれむよりも、自分の心をあわれむために涙ぐんでしまった。そしてなんの気なしに小卓の前に腰をかけて、大切なものの中にしまっておいた、そのころ日本では珍しいファウンテン・ペンを取り出して、筆の動くままにそこにあった紙きれに字を書いてみた。
「女の弱き心につけ入りたもうはあまりに酷(むご)きお心とただ恨めしく存じ参らせ候(そろ)妾(わらわ)の運命はこの船に結ばれたる奇(く)しきえにしや候(そうら)いけん心がらとは申せ今は過去のすべて未来のすべてを打ち捨ててただ目の前の恥ずかしき思いに漂うばかりなる根なし草の身となり果て参らせ候を事もなげに見やりたもうが恨めしく恨めしく死」
 となんのくふうもなく、よく意味もわからないで一瀉千里(いっしゃせんり)に書き流して来たが、「死」という字に来ると、葉子はペンも折れよといらいらしくその上を塗り消した。思いのままを事務長にいってやるのは、思い存分自分をもてあそべといってやるのと同じ事だった。葉子は怒りに任せて余白を乱暴にいたずら書きでよごしていた。
 と、突然船医の部屋から高々と倉地の笑い声が聞こえて来た。葉子はわれにもなく頭(つむり)を上げて、しばらく聞き耳を立ててから、そっと戸口に歩み寄ったが、あとはそれなりまた静かになった。
 葉子は恥ずかしげに座に戻(もど)った。そして紙の上に思い出すままに勝手な字を書いたり、形の知れない形を書いてみたりしながら、ずきんずきんと痛む頭をぎゅっと肘(ひじ)をついた片手で押えてなんという事もなく考えつづけた。
 念が届けば木村にも定子にもなんの用があろう。倉地の心さえつかめばあとは自分の意地(いじ)一つだ。そうだ。念が届かなければ……念が届かなければ……届かなければあらゆるものに用がなくなるのだ。そうしたら美しく死のうねえ。……どうして……私はどうして……けれども……葉子はいつのまにか純粋に感傷的になっていた。自分にもこんなおぼこな思いが潜んでいたかと思うと、抱いてなでさすってやりたいほど自分がかわゆくもあった。そして木部と別れて以来絶えて味わわなかったこの甘い情緒に自分からほだされおぼれて、心中(しんじゅう)でもする人のような、恋に身をまかせる心安さにひたりながら小机に突っ伏してしまった。
 やがて酔いつぶれた人のように頭(つむり)をもたげた時は、とうに日がかげって部屋の中にははなやかに電燈がともっていた。
 いきなり船医の部屋の戸が乱暴に開かれる音がした。葉子ははっと思った。その時葉子の部屋の戸にどたりと突きあたった人の気配がして、「早月(さつき)さん」と濁って塩がれた事務長の声がした。葉子は身のすくむような衝動を受けて、思わず立ち上がってたじろぎながら部屋のすみに逃げかくれた。そしてからだじゅうを耳のようにしていた。
「早月(さつき)さんお願いだ。ちょっとあけてください」
 葉子は手早く小机の上の紙を屑(くず)かごになげすてて、ファウンテン・ペンを物陰にほうりこんだ。そしてせかせかとあたりを見回したが、あわてながら眼窓(めまど)のカーテンをしめきった。そしてまた立ちすくんだ、自分の心の恐ろしさにまどいながら。
 外部では握(にぎ)り拳(こぶし)で続けさまに戸をたたいている。葉子はそわそわと裾前(すそまえ)をかき合わせて、肩越しに鏡を見やりながら涙をふいて眉(まゆ)をなでつけた。
「早月さん□」
 葉子はややしばしとつおいつ躊躇(ちゅうちょ)していたが、とうとう決心して、何かあわてくさって、鍵(かぎ)をがちがちやりながら戸をあけた。
 事務長はひどく酔ってはいって来た。どんなに飲んでも顔色もかえないほどの強酒(ごうしゅ)な倉地が、こんなに酔うのは珍しい事だった。締めきった戸に仁王立(におうだ)ちによりかかって、冷然とした様子で離れて立つ葉子をまじまじと見すえながら、
「葉子さん、葉子さんが悪ければ早月さんだ。早月さん……僕のする事はするだけの覚悟があってするんですよ。僕はね、横浜以来あなたに惚(ほ)れていたんだ。それがわからないあなたじゃないでしょう。暴力? 暴力がなんだ。暴力は愚かなこった。殺したくなれば殺しても進んぜるよ」
 葉子はその最後の言葉を聞くと瞑眩(めまい)を感ずるほど有頂天になった。
「あなたに木村さんというのが付いてるくらいは、横浜の支店長から聞かされとるんだが、どんな人だか僕はもちろん知りませんさ。知らんが僕のほうがあなたに深惚(ふかぼ)れしとる事だけは、この胸三寸でちゃんと知っとるんだ。それ、それがわからん? 僕は恥も何もさらけ出していっとるんですよ。これでもわからんですか」
 葉子は目をかがやかしながら、その言葉をむさぼった。かみしめた。そしてのみ込んだ。
 こうして葉子に取って運命的な一日は過ぎた。

       一八

 その夜船はビクトリヤに着いた。倉庫の立ちならんだ長い桟橋に“Car to the Town.Fare 15¢”と大きな白い看板に書いてあるのが夜目にもしるく葉子の眼窓(めまど)から見やられた。米国への上陸が禁ぜられているシナの苦力(クリー)がここから上陸するのと、相当の荷役とで、船の内外は急に騒々(そうぞう)しくなった。事務長は忙しいと見えてその夜はついに葉子の部屋(へや)に顔を見せなかった。そこいらが騒々しくなればなるほど葉子はたとえようのない平和を感じた。生まれて以来、葉子は生に固着した不安からこれほどまできれいに遠ざかりうるものとは思いも設けていなかった。しかもそれが空疎な平和ではない。飛び立っておどりたいほどの ecstasy を苦もなく押えうる強い力の潜んだ平和だった。すべての事に飽き足(た)った人のように、また二十五年にわたる長い苦しい戦いに始めて勝って兜(かぶと)を脱いだ人のように、心にも肉にも快い疲労を覚えて、いわばその疲れを夢のように味わいながら、なよなよとソファに身を寄せて灯火を見つめていた。倉地がそこにいないのが浅い心残りだった。けれどもなんといっても心安かった。ともすれば微笑が口びるの上をさざ波のようにひらめき過ぎた。
 けれどもその翌日から一等船客の葉子に対する態度は手のひらを返したように変わってしまった。一夜の間にこれほどの変化をひき起こす事のできる力を、葉子は田川夫人のほかに想像し得なかった。田川夫人が世に時めく良人(おっと)を持って、人の目に立つ交際をして、女盛りといい条、もういくらか下り坂であるのに引きかえて、どんな人の配偶にしてみても恥ずかしくない才能と容貌(ようぼう)とを持った若々しい葉子のたよりなげな身の上とが、二人(ふたり)に近づく男たちに同情の軽重を起こさせるのはもちろんだった。しかし道徳はいつでも田川夫人のような立場にある人の利器で、夫人はまたそれを有利に使う事を忘れない種類の人であった。そして船客たちの葉子に対する同情の底に潜む野心――はかない、野心ともいえないほどの野心――もう一ついい換(か)ゆれば、葉子の記憶に親切な男として、勇悍(ゆうかん)な男として、美貌(びぼう)な男として残りたいというほどな野心――に絶望の断定を与える事によって、その同情を引っ込めさせる事のできるのも夫人は心得ていた。事務長が自己の勢力範囲から離れてしまった事も不快の一つだった。こんな事から事務長と葉子との関係は巧妙な手段でいち早く船中に伝えられたに違いない。その結果として葉子はたちまち船中の社交から葬られてしまった。少なくとも田川夫人の前では、船客の大部分は葉子に対して疎々(よそよそ)しい態度をして見せるようになった。中にもいちばんあわれなのは岡だった。だれがなんと告げ口したのか知らないが、葉子が朝おそく目をさまして甲板(かんぱん)に出て見ると、いつものように手欄(てすり)によりかかって、もう内海になった波の色をながめていた彼は、葉子の姿を認めるや否や、ふいとその場をはずして、どこへか影を隠してしまった。それからというもの、岡はまるで幽霊のようだった。船の中にいる事だけは確かだが、葉子がどうかしてその姿を見つけたと思うと、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。そのくせ葉子は思わぬ時に、岡がどこかで自分を見守っているのを確かに感ずる事がたびたびだった。葉子はその岡をあわれむ事すらもう忘れていた。
 結句船の中の人たちから度外視されるのを気安い事とまでは思わないでも、葉子はかかる結果にはいっこう無頓着(むとんじゃく)だった。もう船はきょうシヤトルに着くのだ。田川夫人やそのほかの船客たちのいわゆる「監視」の下(もと)に苦々(にがにが)しい思いをするのもきょう限りだ。そう葉子は平気で考えていた。
 しかし船がシヤトルに着くという事は、葉子にほかの不安を持ちきたさずにはおかなかった。シカゴに行って半年か一年木村と連れ添うほかはあるまいとも思った。しかし木部の時でも二か月とは同棲(どうせい)していなかったとも思った。倉地と離れては一日でもいられそうにはなかった。しかしこんな事を考えるには船がシヤトルに着いてからでも三日や四日の余裕はある。倉地はその事は第一に考えてくれているに違いない。葉子は今の平和をしいてこんな問題でかき乱す事を欲しなかったばかりでなくとてもできなかった。
 葉子はそのくせ、船客と顔を見合わせるのが不快でならなかったので、事務長に頼んで船橋に上げてもらった。船は今瀬戸内(せとうち)のような狭い内海を動揺もなく進んでいた。船長はビクトリアで傭(やと)い入れた水先(みずさき)案内と二人ならんで立っていたが、葉子を見るといつものとおり顔をまっ赤(か)にしながら帽子を取って挨拶(あいさつ)した。ビスマークのような顔をして、船長より一(ひと)がけも二(ふた)がけも大きい白髪の水先案内はふと振り返ってじっと葉子を見たが、そのまま向き直って、
「Charmin' little lassie ! wha' is that ?」
 とスコットランド風(ふう)な強い発音で船長に尋ねた。葉子にはわからないつもりでいったのだ。船長があわてて何かささやくと、老人はからからと笑ってちょっと首を引っ込ませながら、もう一度振り返って葉子を見た。
 その毒気なくからからと笑う声が、恐ろしく気に入ったばかりでなく、かわいて晴れ渡った秋の朝の空となんともいえない調和をしていると思いながら葉子は聞いた。そしてその老人の背中でもなでてやりたいような気になった。船は小動(こゆる)ぎもせずにアメリカ松の生(は)え茂った大島小島の間を縫って、舷側(げんそく)に来てぶつかるさざ波の音ものどかだった。そして昼近くなってちょっとした岬(みさき)をくるりと船がかわすと、やがてポート・タウンセンドに着いた。そこでは米国官憲の検査が型ばかりあるのだ。くずした崕(がけ)の土で埋め立てをして造った、桟橋まで小さな漁村で、四角な箱に窓を明けたような、生々(なまなま)しい一色のペンキで塗り立てた二三階建ての家並(やな)みが、けわしい斜面に沿うて、高く低く立ち連なって、岡の上には水上げの風車が、青空に白い羽根をゆるゆる動かしながら、かったんこっとんとのんきらしく音を立てて回っていた。鴎(かもめ)が群れをなして猫(ねこ)に似た声でなきながら、船のまわりを水に近くのどかに飛び回るのを見るのも、葉子には絶えて久しい物珍しさだった。飴屋(あめや)の呼び売りのような声さえ町のほうから聞こえて来た。葉子はチャート・ルームの壁にもたれかかって、ぽかぽかとさす秋の日の光を頭から浴びながら、静かな恵み深い心で、この小さな町の小さな生活の姿をながめやった。そして十四日の航海の間に、いつのまにか海の心を心としていたのに気がついた。放埒(ほうらつ)な、移り気(ぎ)な、想像も及ばぬパッションにのたうち回ってうめき悩むあの大海原(おおうなばら)――葉子は失われた楽園を慕い望むイヴのように、静かに小さくうねる水の皺(しわ)を見やりながら、はるかな海の上の旅路を思いやった。
「早月さん、ちょっとそこからでいい、顔を貸してください」
 すぐ下で事務長のこういう声が聞こえた。葉子は母に呼び立てられた少女のように、うれしさに心をときめかせながら、船橋の手欄(てすり)から下を見おろした。そこに事務長が立っていた。
「One more over there,look!」
 こういいながら、米国の税関吏らしい人に葉子を指さして見せた。官吏はうなずきながら手帳に何か書き入れた。
 船はまもなくこの漁村を出発したが、出発するとまもなく事務長は船橋にのぼって来た。
「Here we are! Seatle is as good as reached now.」
 船長にともなく葉子にともなくいって置いて、水先案内と握手しながら、
「Thanks to you.」
 と付け足した。そして三人でしばらく快活に四方山(よもやま)の話をしていたが、ふと思い出したように葉子を顧みて、
「これからまた当分は目が回るほど忙しくなるで、その前にちょっと御相談があるんだが、下に来てくれませんか」
 といった。葉子は船長にちょっと挨拶(あいさつ)を残して、すぐ事務長のあとに続いた。階子段(はしごだん)を降りる時でも、目の先に見える頑丈(がんじょう)な広い肩から一種の不安が抜け出て来て葉子に逼(せま)る事はもうなかった。自分の部屋(へや)の前まで来ると、事務長は葉子の肩に手をかけて戸をあけた。部屋の中には三四人の男が濃く立ちこめた煙草(たばこ)の煙の中に所狭く立ったり腰をかけたりしていた。そこには興録の顔も見えた。事務長は平気で葉子の肩に手をかけたままはいって行った。
 それは始終事務長や船医と一かたまりのグループを作って、サルンの小さなテーブルを囲んでウイスキーを傾けながら、時々他の船客の会話に無遠慮な皮肉や茶々を入れたりする連中だった。日本人が着るといかにもいや味に見えるアメリカ風の背広も、さして取ってつけたようには見えないほど、太平洋を幾度も往来したらしい人たちで、どんな職業に従事しているのか、そういう見分けには人一倍鋭敏な観察力を持っている葉子にすら見当がつかなかった。葉子がはいって行っても、彼らは格別自分たちの名前を名乗るでもなく、いちばん安楽な椅子(いす)に腰かけていた男が、それを葉子に譲って、自分は二つに折れるように小さくなって、すでに一人(ひとり)腰かけている寝台に曲がりこむと、一同はその様子に声を立てて笑ったが、すぐまた前どおり平気な顔をして勝手な口をきき始めた。それでも一座は事務長には一目(いちもく)置いているらしく、また事務長と葉子との関係も、事務長から残らず聞かされている様子だった。葉子はそういう人たちの間にあるのを結句気安く思った。彼らは葉子を下級船員のいわゆる「姉御(あねご)」扱いにしていた。
「向こうに着いたらこれで悶着(もんちゃく)ものだぜ。田川の嚊(かかあ)め、あいつ、一味噌(ひとみそ)すらずにおくまいて」
「因業(いんごう)な生まれだなあ」
「なんでも正面からぶっ突かって、いさくさいわせず決めてしまうほかはないよ」
 などと彼らは戯談(じょうだん)ぶった口調で親身(しんみ)な心持ちをいい現わした。事務長は眉(まゆ)も動かさずに、机によりかかって黙っていた。葉子はこれらの言葉からそこに居合わす人々の性質や傾向を読み取ろうとしていた。興録のほかに三人いた。その中の一人は甲斐絹(かいき)のどてらを着ていた。
「このままこの船でお帰りなさるがいいね」
 とそのどてらを着た中年の世渡り巧者らしいのが葉子の顔を窺(うかが)い窺いいうと、事務長は少し屈託らしい顔をして物懶(ものう)げに葉子を見やりながら、
「わたしもそう思うんだがどうだ」
 とたずねた。葉子は、
「さあ……」
 と生返事(なまへんじ)をするほかなかった。始めて口をきく幾人もの男の前で、とっかは物をいうのがさすがに億劫(おっくう)だった。興録は事務長の意向を読んで取ると、分別(ふんべつ)ぶった顔をさし出して、
「それに限りますよ。あなた一つ病気におなりなさりゃ世話なしですさ。上陸したところが急に動くようにはなれない。またそういうからだでは検疫(けんえき)がとやかくやかましいに違いないし、この間のように検疫所でまっ裸にされるような事でも起これば、国際問題だのなんだのって始末におえなくなる。それよりは出帆まで船に寝ていらっしゃるほうがいいと、そこは私が大丈夫やりますよ。そしておいて船の出ぎわになってやはりどうしてもいけないといえばそれっきりのもんでさあ」
「なに、田川の奥さんが、木村っていうのに、味噌(みそ)さえしこたますってくれればいちばんええのだが」
 と事務長は船医の言葉を無視した様子で、自分の思うとおりをぶっきらぼうにいってのけた。
 木村はそのくらいな事で葉子から手を引くようなはきはきした気象の男ではない。これまでもずいぶんいろいろなうわさが耳にはいったはずなのに「僕はあの女の欠陥も弱点もみんな承知している。私生児のあるのももとより知っている。ただ僕はクリスチャンである以上、なんとでもして葉子を救い上げる。救われた葉子を想像してみたまえ。僕はその時いちばん理想的な better half を持ちうると信じている」といった事を聞いている。東北人のねんじりむっつりしたその気象が、葉子には第一我慢のしきれない嫌悪(けんお)の種だったのだ。
 葉子は黙ってみんなのいう事を聞いているうちに、興録の軍略がいちばん実際的だと考えた。そしてなれなれしい調子で興録を見やりながら、
「興録さん、そうおっしゃればわたし仮病(けびょう)じゃないんですの。この間じゅうから診(み)ていただこうかしらと幾度か思ったんですけれども、あんまり大げさらしいんで我慢していたんですが、どういうもんでしょう……少しは船に乗る前からでしたけれども……お腹(なか)のここが妙に時々痛むんですのよ」
 というと、寝台に曲がりこんだ男はそれを聞きながらにやりにやり笑い始めた。葉子はちょっとその男をにらむようにして一緒に笑った。
「まあ機(しお)の悪い時にこんな事をいうもんですから、痛い腹まで探られますわね……じゃ興録さん後ほど診(み)ていただけて?」
 事務長の相談というのはこんなたわいもない事で済んでしまった。
 二人(ふたり)きりになってから、
「ではわたしこれからほんとうの病人になりますからね」
 葉子はちょっと倉地の顔をつついて、その口びるに触れた。そしてシヤトルの市街から起こる煤煙(ばいえん)が遠くにぼんやり望まれるようになったので、葉子は自分の部屋に帰った。そして洋風の白い寝衣(ねまき)に着かえて、髪を長い編み下げにして寝床にはいった。戯談(じょうだん)のようにして興録に病気の話をしたものの、葉子は実際かなり長い以前から子宮を害しているらしかった。腰を冷やしたり、感情が激昂(げきこう)したりしたあとでは、きっと収縮するような痛みを下腹部に感じていた。船に乗った当座は、しばらくの間は忘れるようにこの不快な痛みから遠ざかる事ができて、幾年ぶりかで申し所のない健康のよろこびを味わったのだったが、近ごろはまただんだん痛みが激しくなるようになって来ていた。半身が痲痺(まひ)したり、頭が急にぼーっと遠くなる事も珍しくなかった。葉子は寝床にはいってから、軽い疼(いた)みのある所をそっと平手でさすりながら、船がシヤトルの波止場(はとば)に着く時のありさまを想像してみた。しておかなければならない事が数かぎりなくあるらしかったけれども、何をしておくという事もなかった。ただなんでもいいせっせと手当たり次第したくをしておかなければ、それだけの心尽くしを見せて置かなければ、目論見(もくろみ)どおり首尾が運ばないように思ったので、一ぺん横になったものをまたむくむくと起き上がった。
 まずきのう着た派手(はで)な衣類がそのまま散らかっているのを畳んでトランクの中にしまいこんだ。臥(ね)る時まで着ていた着物は、わざとはなやかな長襦袢(ながじゅばん)や裏地が見えるように衣紋竹(えもんだけ)に通して壁にかけた。事務長の置き忘れて行ったパイプや帳簿のようなものは丁寧に抽(ひ)き出(だ)しに隠した。古藤(ことう)が木村と自分とにあてて書いた二通の手紙を取り出して、古藤がしておいたように、枕(まくら)の下に差しこんだ。鏡の前には二人(ふたり)の妹と木村との写真を飾った。それから大事な事を忘れていたのに気がついて、廊下越しに興録を呼び出して薬びんや病床日記を調(ととの)えるように頼んだ。興録の持って来た薬びんから薬を半分がた痰壺(たんつぼ)に捨てた。日本から木村に持って行くように託された品々をトランクから取り分けた。その中からは故郷を思い出させるようないろいろな物が出て来た。香(にお)いまでが日本というものをほのかに心に触れさせた。
 葉子は忙(せわ)しく働かしていた手を休めて、部屋(へや)のまん中に立ってあたりを見回して見た。しぼんだ花束が取りのけられてなくなっているばかりで、あとは横浜を出た時のとおりの部屋の姿になっていた。旧(ふる)い記憶が香(こう)のようにしみこんだそれらの物を見ると、葉子の心はわれにもなくふとぐらつきかけたが、涙もさそわずに淡く消えて行った。
 フォクスルで起重機の音がかすかに響いて来るだけで、葉子の部屋は妙に静かだった。葉子の心は風のない池か沼の面のようにただどんよりとよどんでいた。からだはなんのわけもなくだるく物懶(ものう)かった。
 食堂の時計が引きしまった音で三時を打った。それを相図のように汽笛がすさまじく鳴り響いた。港にはいった相図をしているのだなと思った。と思うと今まで鈍く脈打つように見えていた胸が急に激しく騒ぎ動き出した。それが葉子の思いも設けぬ方向に動き出した。もうこの長い船旅も終わったのだ。十四五の時から新聞記者になる修業のために来たい来たいと思っていた米国に着いたのだ。来たいとは思いながらほんとうに来(こ)ようとは夢にも思わなかった米国に着いたのだ。それだけの事で葉子の心はもうしみじみとしたものになっていた。木村は狂うような心をしいて押ししずめながら、船の着くのを埠頭(ふとう)に立って涙ぐみつつ待っているだろう。そう思いながら葉子の目は木村や二人の妹の写真のほうにさまよって行った。それとならべて写真を飾っておく事もできない定子の事までが、哀れ深く思いやられた。生活の保障をしてくれる父親もなく、膝(ひざ)に抱き上げて愛撫(あいぶ)してやる母親にもはぐれたあの子は今あの池(いけ)の端(はた)のさびしい小家で何をしているのだろう。笑っているかと想像してみるのも悲しかった。泣いているかと想像してみるのもあわれだった。そして胸の中が急にわくわくとふさがって来て、せきとめる暇もなく涙がはらはらと流れ出た。葉子は大急ぎで寝台のそばに駆けよって、枕(まくら)もとにおいといたハンケチを拾い上げて目がしらに押しあてた。素直な感傷的な涙がただわけもなくあとからあとから流れた。この不意の感情の裏切りにはしかし引き入れられるような誘惑があった。だんだん底深く沈んで哀(かな)しくなって行くその思い、なんの思いとも定めかねた深い、わびしい、悲しい思い。恨みや怒りをきれいにぬぐい去って、あきらめきったようにすべてのものをただしみじみとなつかしく見せるその思い。いとしい定子、いとしい妹、いとしい父母、……なぜこんななつかしい世に自分の心だけがこう哀(かな)しく一人(ひとり)ぼっちなのだろう。なぜ世の中は自分のようなものをあわれむしかたを知らないのだろう。そんな感じの零細な断片がつぎつぎに涙にぬれて胸を引きしめながら通り過ぎた。葉子は知らず知らずそれらの感じにしっかりすがり付こうとしたけれども無益だった。感じと感じとの間には、星のない夜のような、波のない海のような、暗い深い際涯(はてし)のない悲哀が、愛憎のすべてをただ一色に染めなして、どんよりと広がっていた。生を呪(のろ)うよりも死が願われるような思いが、逼(せま)るでもなく離れるでもなく、葉子の心にまつわり付いた。葉子は果ては枕(まくら)に顔を伏せて、ほんとうに自分のためにさめざめと泣き続けた。
 こうして小半時(こはんとき)もたった時、船は桟橋につながれたと見えて、二度目の汽笛が鳴りはためいた。葉子は物懶(ものう)げに頭をもたげて見た。ハンケチは涙のためにしぼるほどぬれて丸まっていた。水夫らが繋(つな)ぎ綱(づな)を受けたりやったりする音と、鋲釘(びょうくぎ)を打ちつけた靴(くつ)で甲板(かんぱん)を歩き回る音とが入り乱れて、頭の上はさながら火事場のような騒ぎだった。泣いて泣いて泣き尽くした子供のようなぼんやりした取りとめのない心持ちで、葉子は何を思うともなくそれを聞いていた。
 と突然戸外で事務長の、
「ここがお部屋(へや)です」
 という声がした。それがまるで雷か何かのように恐ろしく聞こえた。葉子は思わずぎょっとなった。準備をしておくつもりでいながらなんの準備もできていない事も思った。今の心持ちは平気で木村に会える心持ちではなかった。おろおろしながら立ちは上がったが、立ち上がってもどうする事もできないのだと思うと、追いつめられた罪人のように、頭の毛を両手で押えて、髪の毛をむしりながら、寝台の上にがばと伏さってしまった。
 戸があいた。
「戸があいた」、葉子は自分自身に救いを求めるように、こう心の中でうめいた。そして息気(いき)もとまるほど身内がしゃちこばってしまっていた。
「早月(さつき)さん、木村さんが見えましたよ」
 事務長の声だ。あゝ事務長の声だ。事務長の声だ。葉子は身を震わせて壁のほうに顔を向けた。……事務長の声だ……。
「葉子さん」
 木村の声だ。今度は感情に震えた木村の声が聞こえて来た。葉子は気が狂いそうだった。とにかく二人(ふたり)の顔を見る事はどうしてもできない。葉子は二人に背(うし)ろを向けますます壁のほうにもがきよりながら、涙の暇から狂人のように叫んだ。たちまち高くたちまち低いその震え声は笑っているようにさえ聞こえた。
「出て……お二人ともどうか出て……この部屋を……後生(ごしょう)ですから今この部屋を……出てくださいまし……」
 木村はひどく不安げに葉子によりそってその肩に手をかけた。木村の手を感ずると恐怖と嫌悪(けんお)とのために身をちぢめて壁にしがみついた。
「痛い……いけません……お腹(なか)が……早く出て……早く……」
 事務長は木村を呼び寄せて何かしばらくひそひそ話し合っているようだったが、二人ながら足音を盗んでそっと部屋を出て行った。葉子はなおも息気(いき)も絶(た)え絶(だ)えに、
「どうぞ出て……あっちに行って……」
 といいながら、いつまでも泣き続けた。

       一九

 しばらくの間(あいだ)食堂で事務長と通り一ぺんの話でもしているらしい木村が、ころを見計らって再度葉子の部屋(へや)の戸をたたいた時にも、葉子はまだ枕(まくら)に顔を伏せて、不思議な感情の渦巻(うずま)きの中に心を浸していたが、木村が一人(ひとり)ではいって来たのに気づくと、始めて弱々しく横向きに寝なおって、二の腕まで袖口(そでぐち)のまくれたまっ白な手をさし延べて、黙ったまま木村と握手した。木村は葉子の激しく泣いたのを見てから、こらえこらえていた感情がさらに嵩(こう)じたものか、涙をあふれんばかり目がしらにためて、厚ぼったい口びるを震わせながら、痛々しげに葉子の顔つきを見入って突っ立った。
 葉子は、今まで続けていた沈黙の惰性で第一口をきくのが物懶(ものう)かったし、木村はなんといい出したものか迷う様子で、二人(ふたり)の間には握手のまま意味深げな沈黙が取りかわされた。その沈黙はしかし感傷的という程度であるにはあまりに長く続き過ぎたので、外界の刺激に応じて過敏なまでに満干(みちひ)のできる葉子の感情は今まで浸っていた痛烈な動乱から一皮(ひとかわ)一皮平調に還(かえ)って、果てはその底に、こう嵩(こう)じてはいとわしいと自分ですらが思うような冷ややかな皮肉が、そろそろ頭を持ち上げるのを感じた。握り合わせたむずかゆいような手を引っ込めて、目もとまでふとんをかぶって、そこから自分の前に立つ若い男の心の乱れを嘲笑(あざわら)ってみたいような心にすらなっていた。長く続く沈黙が当然ひき起こす一種の圧迫を木村も感じてうろたえたらしく、なんとかして二人(ふたり)の間の気まずさを引き裂くような、心の切(せつ)なさを表わす適当の言葉を案じ求めているらしかったが、とうとう涙に潤った低い声で、もう一度、
「葉子さん」
 と愛するものの名を呼んだ。それは先ほど呼ばれた時のそれに比べると、聞き違えるほど美しい声だった。葉子は、今まで、これほど切(せつ)な情をこめて自分の名を呼ばれた事はないようにさえ思った。「葉子」という名にきわ立って伝奇的な色彩が添えられたようにも聞こえた。で、葉子はわざと木村と握り合わせた手に力をこめて、さらになんとか言葉をつがせてみたくなった。その目も木村の口びるに励ましを与えていた。木村は急に弁力を回復して、
「一日千秋の思いとはこの事です」
 とすらすらとなめらかにいってのけた。それを聞くと葉子はみごと期待に背負投(しょいな)げをくわされて、その場の滑稽(こっけい)に思わずふき出そうとしたが、いかに事務長に対する恋におぼれきった女心の残虐さからも、さすがに木村の他意ない誠実を笑いきる事は得(え)しないで、葉子はただ心の中で失望したように「あれだからいやになっちまう」とくさくさしながら喞(かこ)った。
 しかしこの場合、木村と同様、葉子も格好な空気を部屋の中に作る事に当惑せずにはいられなかった。事務長と別れて自分の部屋に閉じこもってから、心静かに考えて置こうとした木村に対する善後策も、思いよらぬ感情の狂いからそのままになってしまって、今になってみると、葉子はどう木村をもてあつかっていいのか、はっきりした目論見(もくろみ)はできていなかった。しかし考えてみると、木部孤□(こきょう)と別れた時でも、葉子には格別これという謀略があったわけではなく、ただその時々にわがままを振る舞ったに過ぎなかったのだけれども、その結果は葉子が何か恐ろしく深い企(たくら)みと手練(てくだ)を示したかのように人に取られていた事も思った。なんとかして漕(こ)ぎ抜けられない事はあるまい。そう思って、まず落ち付き払って木村に椅子(いす)をすすめた。木村が手近にある畳み椅子を取り上げて寝台のそばに来てすわると、葉子はまたしなやかな手を木村の膝(ひざ)の上において、男の顔をしげしげと見やりながら、
「ほんとうにしばらくでしたわね。少しおやつれになったようですわ」
 といってみた。木村は自分の感情に打ち負かされて身を震わしていた。そしてわくわくと流れ出る涙が見る見る目からあふれて、顔を伝って幾筋となく流れ落ちた。葉子は、その涙の一しずくが気まぐれにも、うつむいた男の鼻の先に宿って、落ちそうで落ちないのを見やっていた。
「ずいぶんいろいろと苦労なすったろうと思って、気が気ではなかったんですけれども、わたしのほうも御承知のとおりでしょう。今度こっちに来るにつけても、それは困って、ありったけのものを払ったりして、ようやく間に合わせたくらいだったもんですから……」
 なおいおうとするのを木村は忙(せわ)しく打ち消すようにさえぎって、
「それは充分わかっています」
 と顔を上げた拍子(ひょうし)に涙のしずくがぽたりと鼻の先からズボンの上に落ちたのを見た。葉子は、泣いたために妙に脹(は)れぼったく赤くなって、てらてらと光る木村の鼻の先が急に気になり出して、悪いとは知りながらも、ともするとそこへばかり目が行った。
 木村は何からどう話し出していいかわからない様子だった。
「わたしの電報をビクトリヤで受け取ったでしょうね」
 などともてれ隠しのようにいった。葉子は受け取った覚えもないくせにいいかげんに、
「えゝ、ありがとうございました」
 と答えておいた。そして一時(いっとき)も早くこんな息気(いき)づまるように圧迫して来る二人(ふたり)の間の心のもつれからのがれる術(すべ)はないかと思案していた。
「今始めて事務長から聞いたんですが、あなたが病気だったといってましたが、いったいどこが悪かったんです。さぞ困ったでしょうね。そんな事とはちっとも知らずに、今が今まで、祝福された、輝くようなあなたを迎えられるとばかり思っていたんです。あなたはほんとうに試練の受けつづけというもんですね。どこでした悪いのは」
 葉子は、不用意にも女を捕えてじかづけに病気の種類を聞きただす男の心の粗雑さを忌みながら、当たらずさわらず、前からあった胃病が、船の中で食物と気候との変わったために、だんだん嵩(こう)じて来て起きられなくなったようにいい繕った。木村は痛ましそうに眉(まゆ)を寄せながら聞いていた。
 葉子はもうこんな程々(ほどほど)な会話には堪(た)えきれなくなって来た。木村の顔を見るにつけて思い出される仙台(せんだい)時代や、母の死というような事にもかなり悩まされるのをつらく思った。で、話の調子を変えるためにしいていくらか快活を装って、
「それはそうとこちらの御事業はいかが」
 と仕事とか様子とかいう代わりに、わざと事業という言葉をつかってこう尋ねた。
 木村の顔つきは見る見る変わった。そして胸のポッケットにのぞかせてあった大きなリンネルのハンケチを取り出して、器用に片手でそれをふわりと丸めておいて、ちんと鼻をかんでから、また器用にそれをポケットに戻(もど)すと、
「だめです」
 といかにも絶望的な調子でいったが、その目はすでに笑っていた。サンフランシスコの領事が在留日本人の企業に対して全然冷淡で盲目であるという事、日本人間に嫉視(しっし)が激しいので、サンフランシスコでの事業の目論見(もくろみ)は予期以上の故障にあって大体失敗に終わった事、思いきった発展はやはり想像どおりの米国の西部よりも中央、ことにシカゴを中心として計画されなければならぬという事、幸いに、サンフランシスコで自分の話に乗ってくれるある手堅いドイツ人に取り次ぎを頼んだという事、シヤトルでも相当の店を見いだしかけているという事、シカゴに行ったら、そこで日本の名誉領事をしているかなりの鉄物商の店にまず住み込んで米国における取り引きの手心をのみ込むと同時に、その人の資本の一部を動かして、日本との直(じか)取り引きを始める算段であるという事、シカゴの住まいはもう決まって、借りるべきフラットの図面まで取り寄せてあるという事、フラットは不経済のようだけれども部屋(へや)の明いた部分を又貸(またが)しをすれば、たいして高いものにもつかず、住まい便利は非常にいいという事……そういう点にかけては、なかなか綿密に行き届いたもので、それをいかにも企業家らしい説服的な口調で順序よく述べて行った。会話の流れがこう変わって来ると、葉子は始めて泥(どろ)の中から足を抜き上げたような気軽な心持ちになって、ずっと木村を見つめながら、聞くともなしにその話に聞き耳を立てていた。木村の容貌(ようぼう)はしばらくの間に見違えるほど refine されて、元から白かったその皮膚は何か特殊な洗料で底光りのするほどみがきがかけられて、日本人とは思えぬまでなめらかなのに、油できれいに分けた濃い黒髪は、西洋人の金髪にはまた見られぬような趣のある対照をその白皙(はくせき)の皮膚に与えて、カラーとネクタイの関係にも人に気のつかぬ凝りかたを見せていた。
「会いたてからこんな事をいうのは恥ずかしいですけれども、実際今度という今度は苦闘しました。ここまで迎いに来るにもろくろく旅費がない騒ぎでしょう」
 といってさすがに苦しげに笑いにまぎらそうとした。そのくせ木村の胸にはどっしりと重そうな金鎖がかかって、両手の指には四つまで宝石入りの指輪がきらめいていた。葉子は木村のいう事を聞きながらその指に目をつけていたが、四つの指輪の中に婚約の時取りかわした純金の指輪もまじっているのに気がつくと、自分の指にはそれをはめていなかったのを思い出して、何くわぬ様子で木村の膝(ひざ)の上から手を引っ込めて顎(あご)までふとんをかぶってしまった。木村は引っ込められた手に追いすがるように椅子(いす)を乗り出して、葉子の顔に近く自分の顔をさし出した。
「葉子さん」
「何?」
 また Love-scene か。そう思って葉子はうんざりしたけれども、すげなく顔をそむけるわけにも行かず、やや当惑していると、おりよく事務長が型ばかりのノックをしてはいって来た。葉子は寝たまま、目でいそいそと事務長を迎えながら、
「まあようこそ……先ほどは失礼。なんだかくだらない事を考え出していたもんですから、ついわがままをしてしまってすみません……お忙しいでしょう」
 というと、事務長はからかい半分の冗談をきっかけに、
「木村さんの顔を見るとえらい事を忘れていたのに気がついたで。木村さんからあなたに電報が来とったのを、わたしゃビクトリヤのどさくさでころり忘れとったんだ。すまん事でした。こんな皺(しわ)になりくさった」
 といいながら、左のポッケットから折り目に煙草(たばこ)の粉がはさまってもみくちゃになった電報紙を取り出した。木村はさっき葉子がそれを見たと確かにいったその言葉に対して、怪訝(けげん)な顔つきをしながら葉子を見た。些細(ささい)な事ではあるが、それが事務長にも関係を持つ事だと思うと、葉子もちょっとどぎまぎせずにはいられなかった。しかしそれはただ一瞬間だった。
「倉地さん、あなたはきょう少しどうかなすっていらっしゃるわ。それはその時ちゃんと拝見したじゃありませんか」
 といいながらすばやく目くばせすると、事務長はすぐ何かわけがあるのを気取(けど)ったらしく、巧みに葉子にばつを合わせた。
「何? あなた見た?……おゝそうそう……これは寝ぼけ返っとるぞ、はゝゝゝ」
 そして互いに顔を見合わせながら二人(ふたり)はしたたか笑った。木村はしばらく二人をかたみがわりに見くらべていたが、これもやがて声を立てて笑い出した。木村の笑い出すのを見た二人は無性(むしょう)におかしくなってもう一度新しく笑いこけた。木村という大きな邪魔者を目の前に据(す)えておきながら、互いの感情が水のように苦もなく流れ通うのを二人は子供らしく楽しんだ。
 しかしこんないたずらめいた事のために話はちょっと途切れてしまった。くだらない事に二人からわき出た少し仰山(ぎょうさん)すぎた笑いは、かすかながら木村の感情をそこねたらしかった。葉子は、この場合、なお居残ろうとする事務長を遠ざけて、木村とさし向かいになるのが得策(とくさく)だと思ったので、程(ほど)もなくきまじめな顔つきに返って、枕(まくら)の下を探って、そこに入れて置いた古藤の手紙を取り出して木村に渡しながら、
「これをあなたに古藤さんから。古藤さんにはずいぶんお世話になりましてよ。でもあの方(かた)のぶまさかげんったら、それはじれったいほどね。愛や貞の学校の事もお頼みして来たんですけれども心もとないもんよ。きっと今ごろはけんか腰になってみんなと談判でもしていらっしゃるでしょうよ。見えるようですわね」
 と水を向けると、木村は始めて話の領分が自分のほうに移って来たように、顔色をなおしながら、事務長をそっちのけにした態度で、葉子に対しては自分が第一の発言権を持っているといわんばかりに、いろいろと話し出した。事務長はしばらく風向きを見計らって立っていたが突然部屋(へや)を出て行った。葉子はすばやくその顔色をうかがうと妙にけわしくなっていた。
「ちょっと失礼」
 木村の癖で、こんな時まで妙によそよそしく断わって、古藤の手紙の封を切った。西洋罫紙(けいし)にペンで細かく書いた幾枚かのかなり厚いもので、それを木村が読み終わるまでには暇がかかった。その間、葉子は仰向けになって、甲板(かんぱん)で盛んに荷揚げしている人足(にんそく)らの騒ぎを聞きながら、やや暗くなりかけた光で木村の顔を見やっていた。少し眉根(まゆね)を寄せながら、手紙に読みふける木村の表情には、時々苦痛や疑惑やの色が往(い)ったり来たりした。読み終わってからほっとしたため息とともに木村は手紙を葉子に渡して、
「こんな事をいってよこしているんです。あなたに見せても構わないとあるから御覧なさい」
 といった。葉子はべつに読みたくもなかったが、多少の好奇心も手伝うのでとにかく目を通して見た。
「僕は今度ぐらい不思議な経験をなめた事はない。兄(けい)が去って後の葉子さんの一身に関して、責任を持つ事なんか、僕はしたいと思ってもできはしないが、もし明白にいわせてくれるなら、兄はまだ葉子さんの心を全然占領したものとは思われない」
「僕は女の心には全く触れた事がないといっていいほどの人間だが、もし僕の事実だと思う事が不幸にして事実だとすると、葉子さんの恋には――もしそんなのが恋といえるなら――だいぶ余裕があると思うね」
「これが女の tact というものかと思ったような事があった。しかし僕にはわからん」
「僕は若い女の前に行くと変にどぎまぎしてしまってろくろく物もいえなくなる。ところが葉子さんの前では全く異(ちが)った感じで物がいえる。これは考えものだ」
「葉子さんという人は兄がいうとおりに優(すぐ)れた天賦(てんぷ)を持った人のようにも実際思える。しかしあの人はどこか片輪(かたわ)じゃないかい」
「明白にいうと僕はああいう人はいちばんきらいだけれども、同時にまたいちばんひきつけられる、僕はこの矛盾を解きほごしてみたくってたまらない。僕の単純を許してくれたまえ。葉子さんは今までのどこかで道を間違えたのじゃないかしらん。けれどもそれにしてはあまり平気だね」
「神は悪魔に何一つ与えなかったが Attraction だけは与えたのだ。こんな事も思う。……葉子さんの Attraction はどこから来るんだろう。失敬失敬。僕は乱暴をいいすぎてるようだ」
「時々は憎むべき人間だと思うが、時々はなんだかかわいそうでたまらなくなる時がある。葉子さんがここを読んだら、おそらく唾(つば)でも吐きかけたくなるだろう。あの人はかわいそうな人のくせに、かわいそうがられるのがきらいらしいから」
「僕には結局葉子さんが何がなんだかちっともわからない。僕は兄が彼女を選んだ自信に驚く。しかしこうなった以上は、兄は全力を尽くして彼女を理解してやらなければいけないと思う。どうか兄らの生活が最後の栄冠に至らん事を神に祈る」
 こんな文句が断片的に葉子の心にしみて行った。葉子は激しい侮蔑(ぶべつ)を小鼻に見せて、手紙を木村に戻(もど)した。
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