或る女
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著者名:有島武郎 

 どうしてもしかし葉子には、船にいるすべての人の中で事務長がいちばん気になった。そんなはず、理由のあるはずはないと自分をたしなめてみてもなんのかいもなかった。サルンで子供たちと戯れている時でも、葉子は自分のして見せる蠱惑的(こわくてき)な姿態(しな)がいつでも暗々裡(あんあんり)に事務長のためにされているのを意識しないわけには行かなかった。事務長がその場にいない時は、子供たちをあやし楽しませる熱意さえ薄らぐのを覚えた。そんな時に小さい人たちはきまってつまらなそうな顔をしたりあくびをしたりした。葉子はそうした様子を見るとさらに興味を失った。そしてそのまま立って自分の部屋(へや)に帰ってしまうような事をした。それにも係わらず事務長はかつて葉子に特別な注意を払うような事はないらしく見えた。それが葉子をますます不快にした。夜など甲板(かんぱん)の上をそぞろ歩きしている葉子が、田川博士(はかせ)の部屋の中から例の無遠慮な事務長の高笑いの声をもれ聞いたりなぞすると、思わずかっとなって、鉄の壁すら射通しそうな鋭いひとみを声のするほうに送らずにはいられなかった。
 ある日の午後、それは雲行きの荒い寒い日だった。船客たちは船の動揺に辟易(へきえき)して自分の船室に閉じこもるのが多かったので、サルンががら明きになっているのを幸い、葉子は岡を誘い出して、部屋のかどになった所に折れ曲がって据(す)えてあるモロッコ皮のディワンに膝(ひざ)と膝を触れ合わさんばかり寄り添って腰をかけて、トランプをいじって遊んだ。岡は日ごろそういう遊戯には少しも興味を持っていなかったが、葉子と二人(ふたり)きりでいられるのを非常に幸福に思うらしく、いつになく快活に札をひねくった。その細いしなやかな手からぶきっちょうに札が捨てられたり取られたりするのを葉子はおもしろいものに見やりながら、断続的に言葉を取りかわした。
「あなたもシカゴにいらっしゃるとおっしゃってね、あの晩」
「えゝいいました。……これで切ってもいいでしょう」
「あらそんなものでもったいない……もっと低いものはおありなさらない?……シカゴではシカゴ大学にいらっしゃるの?」
「これでいいでしょうか……よくわからないんです」
「よくわからないって、そりゃおかしゅうござんすわね、そんな事お決めなさらずに米国(あっち)にいらっしゃるって」
「僕は……」
「これでいただきますよ……僕は……何」
「僕はねえ」
「えゝ」
 葉子はトランプをいじるのをやめて顔を上げた。岡は懺悔(ざんげ)でもする人のように、面(おもて)を伏せて紅(あか)くなりながら札をいじくっていた。
「僕のほんとうに行く所はボストンだったのです。そこに僕の家で学資をやってる書生がいて僕の監督をしてくれる事になっていたんですけれど……」
 葉子は珍しい事を聞くように岡に目をすえた。岡はますますいい憎そうに、
「あなたにおあい申してから僕もシカゴに行きたくなってしまったんです」
 とだんだん語尾を消してしまった。なんという可憐(かれん)さ……葉子はさらに岡にすり寄った。岡は真剣になって顔まで青ざめて来た。
「お気にさわったら許してください……僕はただ……あなたのいらっしゃる所にいたいんです、どういうわけだか……」
 もう岡は涙ぐんでいた。葉子は思わず岡の手を取ってやろうとした。
 その瞬間にいきなり事務長が激しい勢いでそこにはいって来た。そして葉子には目もくれずに激しく岡を引っ立てるようにして散歩に連れ出してしまった。岡は唯々(いい)としてそのあとにしたがった。
 葉子はかっとなって思わず座から立ち上がった。そして思い存分事務長の無礼を責めようと身構えした。その時不意に一つの考えが葉子の頭をひらめき通った。「事務長はどこかで自分たちを見守っていたに違いない」
 突っ立ったままの葉子の顔に、乳房(ちぶさ)を見せつけられた子供のようなほほえみがほのかに浮かび上がった。

       一五

 葉子はある朝思いがけなく早起きをした。米国に近づくにつれて緯度はだんだん下がって行ったので、寒気も薄らいでいたけれども、なんといっても秋立った空気は朝ごとに冷(ひ)え冷(び)えと引きしまっていた。葉子は温室のような船室からこのきりっとした空気に触れようとして甲板(かんぱん)に出てみた。右舷(うげん)を回って左舷に出ると計らずも目の前に陸影を見つけ出して、思わず足を止めた。そこには十日(とおか)ほど念頭から絶え果てていたようなものが海面から浅くもれ上がって続いていた。葉子は好奇な目をかがやかしながら、思わず一たんとめた足を動かして手欄(てすり)に近づいてそれを見渡した。オレゴン松がすくすくと白波の激しくかみよせる岸べまで密生したバンクーバー島の低い山なみがそこにあった。物すごく底光りのするまっさおな遠洋の色は、いつのまにか乱れた波の物狂わしく立ち騒ぐ沿海の青灰色に変わって、その先に見える暗緑の樹林はどんよりとした雨空の下に荒涼として横たわっていた。それはみじめな姿だった。距(へだた)りの遠いせいか船がいくら進んでも景色にはいささかの変化も起こらないで、荒涼たるその景色はいつまでも目の前に立ち続いていた。古綿(ふるわた)に似た薄雲をもれる朝日の光が力弱くそれを照らすたびごとに、煮え切らない影と光の変化がかすかに山と海とをなでて通るばかりだ。長い長い海洋の生活に慣れた葉子の目には陸地の印象はむしろきたないものでも見るように不愉快だった。もう三日ほどすると船はいやでもシヤトルの桟橋につながれるのだ。向こうに見えるあの陸地の続きにシヤトルはある。あの松の林が切り倒されて少しばかりの平地となった所に、ここに一つかしこに一つというように小屋が建ててあるが、その小屋の数が東に行くにつれてだんだん多くなって、しまいには一かたまりの家屋ができる。それがシヤトルであるに違いない。うらさびしく秋風の吹きわたるその小さな港町の桟橋に、野獣のような諸国の労働者が群がる所に、この小さな絵島丸が疲れきった船体を横たえる時、あの木村が例のめまぐるしい機敏さで、アメリカ風(ふう)になり済ましたらしい物腰で、まわりの景色に釣(つ)り合わない景気のいい顔をして、船梯子(ふなばしご)を上って来る様子までが、葉子には見るように想像された。
「いやだいやだ。どうしても木村と一緒になるのはいやだ。私は東京に帰ってしまおう」
 葉子はだだっ子らしく今さらそんな事を本気に考えてみたりしていた。
 水夫長と一人(ひとり)のボーイとが押し並んで、靴(くつ)と草履(ぞうり)との音をたてながらやって来た。そして葉子のそばまで来ると、葉子が振り返ったので二人(ふたり)ながら慇懃(いんぎん)に、
「お早うございます」
 と挨拶(あいさつ)した。その様子がいかにも親しい目上に対するような態度で、ことに水夫長は、
「御退屈でございましたろう。それでもこれであと三日になりました。今度の航海にはしかしお陰様で大助かりをしまして、ゆうべからきわだってよくなりましてね」
 と付け加えた。
 葉子は一等船客の間の話題の的(まと)であったばかりでなく、上級船員の間のうわさの種(たね)であったばかりでなく、この長い航海中に、いつのまにか下級船員の間にも不思議な勢力になっていた。航海の八日目かに、ある老年の水夫がフォクスルで仕事をしていた時、錨(いかり)の鎖に足先をはさまれて骨をくじいた。プロメネード・デッキで偶然それを見つけた葉子は、船医より早くその場に駆けつけた。結びっこぶのように丸まって、痛みのためにもがき苦しむその老人のあとに引きそって、水夫部屋(べや)の入り口まではたくさんの船員や船客が物珍しそうについて来たが、そこまで行くと船員ですらが中にはいるのを躊躇(ちゅうちょ)した。どんな秘密が潜んでいるかだれも知る人のないその内部は、船中では機関室よりも危険な一区域と見なされていただけに、その入り口さえが一種人を脅かすような薄気味わるさを持っていた。葉子はしかしその老人の苦しみもがく姿を見るとそんな事は手もなく忘れてしまっていた。ひょっとすると邪魔物扱いにされてあの老人は殺されてしまうかもしれない。あんな齢(とし)までこの海上の荒々しい労働に縛られているこの人にはたよりになる縁者もいないのだろう。こんな思いやりがとめどもなく葉子の心を襲い立てるので、葉子はその老人に引きずられてでも行くようにどんどん水夫部屋の中に降りて行った。薄暗い腐敗した空気は蒸(む)れ上がるように人を襲って、陰の中にうようよとうごめく群れの中からは太く錆(さ)びた声が投げかわされた。闇(やみ)に慣れた水夫たちの目はやにわに葉子の姿を引っ捕えたらしい。見る見る一種の興奮が部屋のすみずみにまでみちあふれて、それが奇怪なののしり声となって物すごく葉子に逼(せま)った。だぶだぶのズボン一つで、節くれ立った厚みのある毛胸に一糸もつけない大男は、やおら人中(ひとなか)から立ち上がると、ずかずか葉子に突きあたらんばかりにすれ違って、すれ違いざまに葉子の顔を孔(あな)のあくほどにらみつけて、聞くにたえない雑言(ぞうごん)を高々とののしって、自分の群れを笑わした。しかし葉子は死にかけた子にかしずく母のように、そんな事には目もくれずに老人のそばに引き添って、臥安(ねやす)いように寝床を取りなおしてやったり、枕(まくら)をあてがってやったりして、なおもその場を去らなかった。そんなむさ苦しいきたない所にいて老人がほったらかしておかれるのを見ると、葉子はなんという事なしに涙があとからあとから流れてたまらなかった。葉子はそこを出て無理に船医の興録をそこに引っぱって来た。そして権威を持った人のように水夫長にはっきりしたさしずをして、始めて安心して悠々(ゆうゆう)とその部屋を出た。葉子の顔には自分のした事に対して子供のような喜びの色が浮かんでいた。水夫たちは暗い中にもそれを見のがさなかったと見える。葉子が出て行く時には一人(ひとり)として葉子に雑言(ぞうごん)をなげつけるものがいなかった。それから水夫らはだれいうとなしに葉子の事を「姉御(あねご)姉御」と呼んでうわさするようになった。その時の事を水夫長は葉子に感謝したのだ。
 葉子はしんみにいろいろと病人の事を水夫長に聞きただした。実際水夫長に話しかけられるまでは、葉子はそんな事は思い出しもしていなかったのだ。そして水夫長に思い出させられて見ると、急にその老水夫の事が心配になり出したのだった。足はとうとう不具になったらしいが痛みはたいていなくなったと水夫長がいうと葉子は始めて安心して、また陸のほうに目をやった。水夫長とボーイとの足音は廊下のかなたに遠ざかって消えてしまった。葉子の足もとにはただかすかなエンジンの音と波が舷(ふなばた)を打つ音とが聞こえるばかりだった。
 葉子はまた自分一人の心に帰ろうとしてしばらくじっと単調な陸地に目をやっていた。その時突然岡が立派な西洋絹の寝衣(ねまき)の上に厚い外套(がいとう)を着て葉子のほうに近づいて来たのを、葉子は視角の一端にちらりと捕えた。夜でも朝でも葉子がひとりでいると、どこでどうしてそれを知るのか、いつのまにか岡がきっと身近(みぢか)に現われるのが常なので、葉子は待ち設けていたように振り返って、朝の新しいやさしい微笑を与えてやった。
「朝はまだずいぶん冷えますね」
 といいながら、岡は少し人になれた少女のように顔を赤くしながら葉子のそばに身を寄せた。葉子は黙ってほほえみながらその手を取って引き寄せて、互いに小さな声で軽い親しい会話を取りかわし始めた。
 と、突然岡は大きな事でも思い出した様子で、葉子の手をふりほどきながら、
「倉地さんがね、きょうあなたにぜひ願いたい用があるっていってましたよ」
 といった。葉子は、
「そう……」
 とごく軽く受けるつもりだったが、それが思わず息気(いき)苦しいほどの調子になっているのに気がついた。
「なんでしょう、わたしになんぞ用って」
「なんだかわたしちっとも知りませんが、話をしてごらんなさい。あんなに見えているけれども親切な人ですよ」
「まだあなただまされていらっしやるのね。あんな高慢ちきな乱暴な人わたしきらいですわ。……でも先方(むこう)で会いたいというのなら会ってあげてもいいから、ここにいらっしゃいって、あなた今すぐいらしって呼んで来てくださいましな。会いたいなら会いたいようにするがようござんすわ」
 葉子は実際激しい言葉になっていた。
「まだ寝ていますよ」
「いいから構わないから起こしておやりになればよござんすわ」
 岡は自分に親しい人を親しい人に近づける機会が到来したのを誇り喜ぶ様子を見せて、いそいそと駆けて行った。その後ろ姿を見ると葉子は胸に時ならぬときめきを覚えて、眉(まゆ)の上の所にさっと熱い血の寄って来るのを感じた。それがまた憤(いきどお)ろしかった。
 見上げると朝の空を今まで蔽(おお)うていた綿のような初秋の雲は所々ほころびて、洗いすました青空がまばゆく切れ目切れ目に輝き出していた。青灰色によごれていた雲そのものすらが見違えるように白く軽くなって美しい笹縁(ささべり)をつけていた。海は目も綾(あや)な明暗をなして、単調な島影もさすがに頑固(がんこ)な沈黙ばかりを守りつづけてはいなかった。葉子の心は抑(おさ)えよう抑えようとしても軽くはなやかにばかりなって行った。決戦……と葉子はその勇み立つ心の底で叫んだ。木村の事などはとうの昔に頭の中からこそぎ取るように消えてしまって、そのあとにはただ何とはなしに、子供らしい浮き浮きした冒険の念ばかりが働いていた。自分でも知らずにいたような weird な激しい力が、想像も及ばぬ所にぐんぐんと葉子を引きずって行くのを、葉子は恐れながらもどこまでもついて行こうとした。どんな事があっても自分がその中心になっていて、先方(むこう)をひき付けてやろう。自分をはぐらかすような事はしまいと始終張り切ってばかりいたこれまでの心持ちと、この時わくがごとく持ち上がって来た心持ちとは比べものにならなかった。あらん限りの重荷を洗いざらい思いきりよく投げすててしまって、身も心も何か大きな力に任しきるその快さ心安さは葉子をすっかり夢心地(ゆめごこち)にした。そんな心持ちの相違を比べて見る事さえできないくらいだった。葉子は子供らしい期待に目を輝かして岡の帰って来るのを待っていた。
「だめですよ。床の中にいて戸も明けてくれずに、寝言(ねごと)みたいな事をいってるんですもの」
 といいながら岡は当惑顔で葉子のそばに現われた。
「あなたこそだめね。ようござんすわ、わたしが自分で行って見てやるから」
 葉子にはそこにいる岡さえなかった。少し怪訝(けげん)そうに葉子のいつになくそわそわした様子を見守る青年をそこに捨ておいたまま葉子は険しく細い階子段(はしごだん)を降りた。
 事務長の部屋(へや)は機関室と狭い暗い廊下一つを隔てた所にあって、日の目を見ていた葉子には手さぐりをして歩かねばならぬほど勝手がちがっていた。地震のように機械の震動が廊下の鉄壁に伝わって来て、むせ返りそうな生(なま)暖かい蒸気のにおいと共に人を不愉快にした。葉子は鋸屑(おがくず)を塗りこめてざらざらと手ざわりのいやな壁をなでて進みながらようやく事務室の戸の前に来て、あたりを見回して見て、ノックもせずにいきなりハンドルをひねった。ノックをするひまもないようなせかせかした気分になっていた。戸は音も立てずにやすやすとあいた。「戸もあけてくれずに……」との岡の言葉から、てっきり鍵(かぎ)がかかっていると思っていた葉子にはそれが意外でもあり、あたりまえにも思えた。しかしその瞬間には葉子はわれ知らずはっとなった。ただ通りすがりの人にでも見付けられまいとする心が先に立って、葉子は前後のわきまえもなく、ほとんど無意識に部屋(へや)にはいると、同時にぱたんと音をさせて戸をしめてしまった。
 もうすべては後悔にはおそすぎた。岡の声で今寝床から起き上がったらしい事務長は、荒い棒縞(ぼうじま)のネルの筒袖(つつそで)一枚を着たままで、目のはれぼったい顔をして、小山のような大きな五体を寝床にくねらして、突然はいって来た葉子をぎっと見守っていた。とうの昔に心の中は見とおしきっているような、それでいて言葉もろくろくかわさないほどに無頓着(むとんじゃく)に見える男の前に立って、葉子はさすがにしばらくはいい出(い)づべき言葉もなかった。あせる気を押し鎮(しず)め押ししずめ、顔色を動かさないだけの沈着を持ち続けようとつとめたが、今までに覚えない惑乱のために、頭はぐらぐらとなって、無意味だと自分でさえ思われるような微笑をもらす愚かさをどうする事もできなかった。倉地は葉子がその朝その部屋(へや)に来るのを前からちゃんと知り抜いてでもいたように落ち付き払って、朝の挨拶(あいさつ)もせずに、
「さ、おかけなさい。ここが楽(らく)だ」
 といつものとおりな少し見おろした親しみのある言葉をかけて、昼間は長椅子(ながいす)がわりに使う寝台の座を少し譲って待っている。葉子は敵意を含んでさえ見える様子で立ったまま、
「何か御用がおありになるそうでございますが……」
 固くなりながらいって、あゝまた見えすく事をいってしまったとすぐ後悔した。事務長は葉子の言葉を追いかけるように、
「用はあとでいいます。まあおかけなさい」
 といってすましていた。その言葉を聞くと、葉子はそのいいなり放題になるよりしかたがなかった。「お前は結局はここにすわるようになるんだよ」と事務長は言葉の裏に未来を予知しきっているのが葉子の心を一種捨てばちなものにした。「すわってやるものか」という習慣的な男に対する反抗心はただわけもなくひしがれていた。葉子はつかつかと進みよって事務長と押し並んで寝台に腰かけてしまった。
 この一つの挙動が――このなんでもない一つの挙動が急に葉子の心を軽くしてくれた。葉子はその瞬間に大急ぎで今まで失いかけていたものを自分のほうにたぐり戻(もど)した。そして事務長を流し目に見やって、ちょっとほほえんだその微笑には、さっきの微笑の愚かしさが潜んでいないのを信ずる事ができた。葉子の性格の深みからわき出るおそろしい自然さがまとまった姿を現わし始めた。
「何御用でいらっしゃいます」
 そのわざとらしい造り声の中にかすかな親しみをこめて見せた言葉も、肉感的に厚みを帯びた、それでいて賢(さか)しげに締まりのいい二つの口びるにふさわしいものとなっていた。
「きょう船が検疫所に着くんです、きょうの午後に。ところが検疫医がこれなんだ」
 事務長は朋輩(ほうばい)にでも打ち明けるように、大きな食指を鍵形(かぎがた)にまげて、たぐるような格好をして見せた。葉子がちょっと判じかねた顔つきをしていると、
「だから飲ましてやらんならんのですよ。それからポーカーにも負けてやらんならん。美人がいれば拝ましてもやらんならん」
 となお手まねを続けながら、事務長は枕(まくら)もとにおいてある頑固(がんこ)なパイプを取り上げて、指の先で灰を押しつけて、吸い残りの煙草(たばこ)に火をつけた。
「船をさえ見ればそうした悪戯(わるさ)をしおるんだから、海坊主(ぼうず)を見るようなやつです。そういうと頭のつるりとした水母(くらげ)じみた入道らしいが、実際は元気のいい意気な若い医者でね。おもしろいやつだ。一つ会ってごらん。わたしでからがあんな所に年じゅう置かれればああなるわさ」
 といって、右手に持ったパイプを膝(ひざ)がしらに置き添えて、向き直ってまともに葉子を見た。しかしその時葉子は倉地の言葉にはそれほど注意を払ってはいない様子を見せていた。ちょうど葉子の向こう側にある事務テーブルの上に飾られた何枚かの写真を物珍しそうにながめやって、右手の指先を軽く器用に動かしながら、煙草(たばこ)の煙が紫色に顔をかすめるのを払っていた。自分を囮(おとり)にまで使おうとする無礼もあなたなればこそなんともいわずにいるのだという心を事務長もさすがに推(すい)したらしい。しかしそれにも係わらず事務長は言いわけ一ついわず、いっこう平気なもので、きれいな飾り紙のついた金口(きんぐち)煙草の小箱を手を延ばして棚(たな)から取り上げながら、
「どうです一本」
 と葉子の前にさし出した。葉子は自分が煙草をのむかのまぬかの問題をはじき飛ばすように、
「あれはどなた?」と写真の一つに目を定めた。
「どれ」
「あれ」葉子はそういったままで指さしはしない。
「どれ」と事務長はもう一度いって、葉子の大きな目をまじまじと見入ってからその視線をたどって、しばらく写真を見分けていたが、
「はああれか。あれはねわたしの妻子ですんだ。荊妻(けいさい)と豚児(とんじ)どもですよ」
 といって高々と笑いかけたが、ふと笑いやんで、険しい目で葉子をちらっと見た。
「まあそう。ちゃんとお写真をお飾りなすって、おやさしゅうござんすわね」
 葉子はしんなりと立ち上がってその写真の前に行った。物珍しいものを見るという様子をしてはいたけれども、心の中には自分の敵がどんな獣物(けだもの)であるかを見きわめてやるぞという激しい敵愾心(てきがいしん)が急に燃えあがっていた。前には芸者ででもあったのか、それとも良人(おっと)の心を迎えるためにそう造ったのか、どこか玄人(くろうと)じみたきれいな丸髷(まるまげ)の女が着飾って、三人の少女を膝(ひざ)に抱いたりそばに立たせたりして写っていた。葉子はそれを取り上げて孔(あな)のあくほどじっと見やりながらテーブルの前に立っていた。ぎこちない沈黙がしばらくそこに続いた。
「お葉さん」(事務長は始めて葉子をその姓で呼ばずにこう呼びかけた)突然震えを帯びた、低い、重い声が焼きつくように耳近く聞こえたと思うと、葉子は倉地の大きな胸と太い腕とで身動きもできないように抱きすくめられていた。もとより葉子はその朝倉地が野獣のような assault に出る事を直覚的に覚悟して、むしろそれを期待して、その assault を、心ばかりでなく、肉体的な好奇心をもって待ち受けていたのだったが、かくまで突然、なんの前ぶれもなく起こって来ようとは思いも設けなかったので、女の本然の羞恥(しゅうち)から起こる貞操の防衛に駆られて、熱しきったような冷えきったような血を一時に体内に感じながら、かかえられたまま、侮蔑(ぶべつ)をきわめた表情を二つの目に集めて、倉地の顔を斜めに見返した。その冷ややかな目の光は仮初(かりそ)めの男の心をたじろがすはずだった。事務長の顔は振り返った葉子の顔に息気(いき)のかかるほどの近さで、葉子を見入っていたが、葉子が与えた冷酷なひとみには目もくれぬまで狂わしく熱していた。(葉子の感情を最も強くあおり立てるものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息にすべての精気を充分回復した健康な男の容貌(ようぼう)の中には、女の持つすべてのものを投げ入れても惜しくないと思うほどの力がこもっていると葉子は始終感ずるのだった)葉子は倉地に存分な軽侮の心持ちを見せつけながらも、その顔を鼻の先に見ると、男性というものの強烈な牽引(けんいん)の力を打ち込まれるように感ぜずにはいられなかった。息気(いき)せわしく吐く男のため息は霰(あられ)のように葉子の顔を打った。火と燃え上がらんばかりに男のからだからは desire の焔(ほむら)がぐんぐん葉子の血脈にまで広がって行った。葉子はわれにもなく異常な興奮にがたがた震え始めた。
        ×       ×       ×
 ふと倉地の手がゆるんだので葉子は切って落とされたようにふらふらとよろけながら、危うく踏みとどまって目を開くと、倉地が部屋(へや)の戸に鍵(かぎ)をかけようとしているところだった。鍵が合わないので、
「糞(くそ)っ」
 と後ろ向きになってつぶやく倉地の声が最後の宣告のように絶望的に低く部屋の中に響いた。
 倉地から離れた葉子はさながら母から離れた赤子のように、すべての力が急にどこかに消えてしまうのを感じた。あとに残るものとては底のない、たよりない悲哀ばかりだった。今まで味わって来たすべての悲哀よりもさらに残酷な悲哀が、葉子の胸をかきむしって襲って来た。それは倉地のそこにいるのすら忘れさすくらいだった。葉子はいきなり寝床の上に丸まって倒れた。そしてうつぶしになったまま痙攣的(けいれんてき)に激しく泣き出した。倉地がその泣き声にちょっとためらって立ったまま見ている間に、葉子は心の中で叫びに叫んだ。
「殺すなら殺すがいい。殺されたっていい。殺されたって憎みつづけてやるからいい。わたしは勝った。なんといっても勝った。こんなに悲しいのをなぜ早く殺してはくれないのだ。この哀(かな)しみにいつまでもひたっていたい。早く死んでしまいたい。……」

       一六

 葉子はほんとうに死の間をさまよい歩いたような不思議な、混乱した感情の狂いに泥酔(でいすい)して、事務長の部屋(へや)から足もとも定まらずに自分の船室に戻(もど)って来たが、精も根も尽き果ててそのままソファの上にぶっ倒れた。目のまわりに薄黒い暈(かさ)のできたその顔は鈍い鉛色をして、瞳孔(どうこう)は光に対して調節の力を失っていた。軽く開いたままの口びるからもれる歯並みまでが、光なく、ただ白く見やられて、死を連想させるような醜い美しさが耳の付け根までみなぎっていた。雪解時(ゆきげどき)の泉のように、あらん限りの感情が目まぐるしくわき上がっていたその胸には、底のほうに暗い悲哀がこちんとよどんでいるばかりだった。
 葉子はこんな不思議な心の状態からのがれ出ようと、思い出したように頭を働かして見たが、その努力は心にもなくかすかなはかないものだった。そしてその不思議に混乱した心の状態もいわばたえきれぬほどの切(せつ)なさは持っていなかった。葉子はそんなにしてぼんやりと目をさましそうになったり、意識の仮睡(かすい)に陥ったりした。猛烈な胃痙攣(いけいれん)を起こした患者が、モルヒネの注射を受けて、間歇的(かんけつてき)に起こる痛みのために無意識に顔をしかめながら、麻薬(まやく)の恐ろしい力の下に、ただ昏々(こんこん)と奇怪な仮睡に陥り込むように、葉子の心は無理無体な努力で時々驚いたように乱れさわぎながら、たちまち物すごい沈滞の淵(ふち)深く落ちて行くのだった。葉子の意志はいかに手を延ばしても、もう心の落ち行く深みには届きかねた。頭の中は熱を持って、ただぼーと黄色く煙(けむ)っていた。その黄色い煙の中を時々紅(あか)い火や青い火がちかちかと神経をうずかして駆け通った。息気(いき)づまるようなけさの光景や、過去のあらゆる回想が、入り乱れて現われて来ても、葉子はそれに対して毛の末ほども心を動かされはしなかった。それは遠い遠い木魂(こだま)のようにうつろにかすかに響いては消えて行くばかりだった。過去の自分と今の自分とのこれほどな恐ろしい距(へだた)りを、葉子は恐れげもなく、成るがままに任せて置いて、重くよどんだ絶望的な悲哀にただわけもなくどこまでも引っぱられて行った。その先には暗い忘却が待ち設けていた。涙で重ったまぶたはだんだん打ち開いたままのひとみを蔽(おお)って行った。少し開いた口びるの間からは、うめくような軽い鼾(いびき)がもれ始めた。それを葉子はかすかに意識しながら、ソファの上にうつむきになったまま、いつとはなしに夢もない深い眠りに陥っていた。
 どのくらい眠っていたかわからない。突然葉子は心臓でも破裂しそうな驚きに打たれて、はっと目を開いて頭をもたげた。ずき/\/\と頭の心(しん)が痛んで、部屋(へや)の中は火のように輝いて面(おもて)も向けられなかった。もう昼ごろだなと気が付く中にも、雷とも思われる叫喚が船を震わして響き渡っていた。葉子はこの瞬間の不思議に胸をどきつかせながら聞き耳を立てた。船のおののきとも自分のおののきとも知れぬ震動が葉子の五体を木の葉のようにもてあそんだ。しばらくしてその叫喚がややしずまったので、葉子はようやく、横浜を出て以来絶えて用いられなかった汽笛の声である事を悟った。検疫所が近づいたのだなと思って、襟(えり)もとをかき合わせながら、静かにソファの上に膝(ひざ)を立てて、眼窓(めまど)から外面(とのも)をのぞいて見た。けさまでは雨雲に閉じられていた空も見違えるようにからっと晴れ渡って、紺青(こんじょう)の色の日の光のために奥深く輝いていた。松が自然に美しく配置されて生(は)え茂った岩がかった岸がすぐ目の先に見えて、海はいかにも入り江らしく可憐(かれん)なさざ波をつらね、その上を絵島丸は機関の動悸(どうき)を打ちながら徐(しず)かに走っていた。幾日の荒々しい海路からここに来て見ると、さすがにそこには人間の隠れ場らしい静かさがあった。
 岸の奥まった所に白い壁の小さな家屋が見られた。そのかたわらには英国の国旗が微風にあおられて青空の中に動いていた。「あれが検疫官のいる所なのだ」そう思った意識の活動が始まるや否や、葉子の頭は始めて生まれ代わったようにはっきりとなって行った。そして頭がはっきりして来るとともに、今まで切り放されていたすべての過去があるべき姿を取って、明瞭(めいりょう)に現在の葉子と結び付いた。葉子は過去の回想が今見たばかりの景色からでも来たように驚いて、急いで眼窓(めまど)から顔を引っ込めて、強敵に襲いかかられた孤軍のように、たじろぎながらまたソファの上に臥倒(ねたお)れた。頭の中は急に叢(むら)がり集まる考えを整理するために激しく働き出した。葉子はひとりでに両手で髪の毛の上からこめかみの所を押えた。そして少し上目(うわめ)をつかって鏡のほうを見やりながら、今まで閉止していた乱想の寄せ来るままに機敏にそれを送り迎えようと身構えた。
 葉子はとにかく恐ろしい崕(がけ)のきわまで来てしまった事を、そしてほとんど無反省で、本能に引きずられるようにして、その中に飛び込んだ事を思わないわけには行かなかった。親類縁者に促されて、心にもない渡米を余儀なくされた時に自分で選んだ道――ともかく木村と一緒になろう。そして生まれ代わったつもりで米国の社会にはいりこんで、自分が見つけあぐねていた自分というものを、探り出してみよう。女というものが日本とは違って考えられているらしい米国で、女としての自分がどんな位置にすわる事ができるか試(ため)してみよう。自分はどうしても生まるべきでない時代に、生まるべきでない所に生まれて来たのだ。自分の生まるべき時代と所とはどこか別にある。そこでは自分は女王の座になおっても恥ずかしくないほどの力を持つ事ができるはずなのだ。生きているうちにそこをさがし出したい。自分の周囲にまつわって来ながらいつのまにか自分を裏切って、いつどんな所にでも平気で生きていられるようになり果てた女たちの鼻をあかさしてやろう。若い命を持ったうちにそれだけの事をぜひしてやろう。木村は自分のこの心の企(たくら)みを助ける事のできる男ではないが、自分のあとについて来られないほどの男でもあるまい。葉子はそんな事も思っていた。日清(にっしん)戦争が起こったころから葉子ぐらいの年配の女が等しく感じ出した一種の不安、一種の幻滅――それを激しく感じた葉子は、謀叛人(むほんにん)のように知らず知らず自分のまわりの少女たちにある感情的な教唆を与えていたのだが、自分自身ですらがどうしてこの大事な瀬戸ぎわを乗り抜けるのかは、少しもわからなかった。そのころの葉子は事ごとに自分の境遇が気にくわないでただいらいらしていた。その結果はただ思うままを振る舞って行くよりしかたがなかった。自分はどんな物からもほんとうに訓練されてはいないんだ。そして自分にはどうにでも働く鋭い才能と、女の強味(弱味ともいわばいえ)になるべき優(すぐ)れた肉体と激しい情緒とがあるのだ。そう葉子は知らず知らず自分を見ていた。そこから盲滅法(めくらめっぽう)に動いて行った。ことに時代の不思議な目ざめを経験した葉子に取っては恐ろしい敵は男だった。葉子はそのためになんどつまずいたかしれない。しかし、世の中にはほんとうに葉子を扶(たす)け起こしてくれる人がなかった。「わたしが悪ければ直すだけの事をして見せてごらん」葉子は世の中に向いてこういい放ってやりたかった。女を全く奴隷(どれい)の境界(きょうがい)に沈め果てた男はもう昔のアダムのように正直ではないんだ。女がじっとしている間は慇懃(いんぎん)にして見せるが、女が少しでも自分で立ち上がろうとすると、打って変わって恐ろしい暴王になり上がるのだ。女までがおめおめと男の手伝いをしている。葉子は女学校時代にしたたかその苦(にが)い杯をなめさせられた。そして十八の時木部孤□(きべこきょう)に対して、最初の恋愛らしい恋愛の情を傾けた時、葉子の心はもう処女の心ではなくなっていた。外界の圧迫に反抗するばかりに、一時火のように何物をも焼き尽くして燃え上がった仮初(かりそ)めの熱情は、圧迫のゆるむとともにもろくも萎(な)えてしまって、葉子は冷静な批評家らしく自分の恋と恋の相手とを見た。どうして失望しないでいられよう。自分の一生がこの人に縛りつけられてしなびて行くのかと思う時、またいろいろな男にもてあそばれかけて、かえって男の心というものを裏返してとっくりと見きわめたその心が、木部という、空想の上でこそ勇気も生彩もあれ、実生活においては見下げ果てたほど貧弱で簡単な一書生の心としいて結びつかねばならぬと思った時、葉子は身ぶるいするほど失望して木部と別れてしまったのだ。
 葉子のなめたすべての経験は、男に束縛を受ける危険を思わせるものばかりだった。しかしなんという自然のいたずらだろう。それとともに葉子は、男というものなしには一刻も過ごされないものとなっていた。砒石(ひせき)の用法を謬(あやま)った患者が、その毒の恐ろしさを知りぬきながら、その力を借りなければ生きて行けないように、葉子は生の喜びの源を、まかり違えば、生そのものを虫ばむべき男というものに、求めずにはいられないディレンマに陥ってしまったのだ。
 肉欲の牙(きば)を鳴らして集まって来る男たちに対して、(そういう男たちが集まって来るのはほんとうは葉子自身がふりまく香(にお)いのためだとは気づいていて)葉子は冷笑しながら蜘蛛(くも)のように網を張った。近づくものは一人(ひとり)残らずその美しい四(よ)つ手網(であみ)にからめ取った。葉子の心は知らず知らず残忍になっていた。ただあの妖力(ようりょく)ある女郎蜘蛛(じょろうぐも)のように、生きていたい要求から毎日その美しい網を四つ手に張った。そしてそれに近づきもし得ないでののしり騒ぐ人たちを、自分の生活とは関係のない木か石ででもあるように冷然と尻目(しりめ)にかけた。
 葉子はほんとうをいうと、必要に従うというほかに何をすればいいのかわからなかった。
 葉子に取っては、葉子の心持ちを少しも理解していない社会ほど愚かしげな醜いものはなかった。葉子の目から見た親類という一群(ひとむ)れはただ貪欲(どんよく)な賤民(せんみん)としか思えなかった。父はあわれむべく影の薄い一人(ひとり)の男性に過ぎなかった。母は――母はいちばん葉子の身近(みぢか)にいたといっていい。それだけ葉子は母と両立し得ない仇敵(きゅうてき)のような感じを持った。母は新しい型にわが子を取り入れることを心得てはいたが、それを取り扱う術(すべ)は知らなかった。葉子の性格が母の備えた型の中で驚くほどするすると生長した時に、母は自分以上の法力を憎む魔女のように葉子の行く道に立ちはだかった。その結果二人(ふたり)の間には第三者から想像もできないような反目と衝突とが続いたのだった。葉子の性格はこの暗闘のお陰で曲折のおもしろさと醜さとを加えた。しかしなんといっても母は母だった。正面からは葉子のする事なす事に批点を打ちながらも、心の底でいちばんよく葉子を理解してくれたに違いないと思うと、葉子は母に対して不思議ななつかしみを覚えるのだった。
 母が死んでからは、葉子は全く孤独である事を深く感じた。そして始終張りつめた心持ちと、失望からわき出る快活さとで、鳥が木から木に果実を探るように、人から人に歓楽を求めて歩いたが、どこからともなく不意に襲って来る不安は葉子を底知れぬ悒鬱(ゆううつ)の沼に蹴落(けお)とした。自分は荒磯(あらいそ)に一本流れよった流れ木ではない。しかしその流れ木よりも自分は孤独だ。自分は一ひら風に散ってゆく枯れ葉ではない。しかしその枯れ葉より自分はうらさびしい。こんな生活よりほかにする生活はないのかしらん。いったいどこに自分の生活をじっと見ていてくれる人があるのだろう。そう葉子はしみじみ思う事がないでもなかった。けれどもその結果はいつでも失敗だった。葉子はこうしたさびしさに促されて、乳母(うば)の家を尋ねたり、突然大塚(おおつか)の内田にあいに行ったりして見るが、そこを出て来る時にはただ一入(ひとしお)の心のむなしさが残るばかりだった。葉子は思い余ってまた淫(みだ)らな満足を求めるために男の中に割ってはいるのだった。しかし男が葉子の目の前で弱味を見せた瞬間に、葉子は驕慢(きょうまん)な女王のように、その捕虜から面(おもて)をそむけて、その出来事を悪夢のように忌みきらった。冒険の獲物(えもの)はきまりきって取るにも足らないやくざものである事を葉子はしみじみ思わされた。
 こんな絶望的な不安に攻めさいなめられながらも、その不安に駆り立てられて葉子は木村という降参人をともかくその良人(おっと)に選んでみた。葉子は自分がなんとかして木村にそりを合わせる努力をしたならば、一生涯(いっしょうがい)木村と連れ添って、普通の夫婦のような生活ができないものでもないと一時思うまでになっていた。しかしそんなつぎはぎな考えかたが、どうしていつまでも葉子の心の底を虫ばむ不安をいやす事ができよう。葉子が気を落ち付けて、米国に着いてからの生活を考えてみると、こうあってこそと思い込むような生活には、木村はのけ物になるか、邪魔者になるほかはないようにも思えた。木村と暮らそう、そう決心して船に乗ったのではあったけれども、葉子の気分は始終ぐらつき通しにぐらついていたのだ。手足のちぎれた人形をおもちゃ箱にしまったものか、いっそ捨ててしまったものかと躊躇(ちゅうちょ)する少女の心に似たぞんざいなためらいを葉子はいつまでも持ち続けていた。
 そういう時突然葉子の前に現われたのが倉地事務長だった。横浜の桟橋につながれた絵島丸の甲板(かんぱん)の上で、始めて猛獣のようなこの男を見た時から、稲妻のように鋭く葉子はこの男の優越を感受した。世が世ならば、倉地は小さな汽船の事務長なんぞをしている男ではない。自分と同様に間違って境遇づけられて生まれて来た人間なのだ。葉子は自分の身につまされて倉地をあわれみもし畏(おそ)れもした。今までだれの前に出ても平気で自分の思う存分を振る舞っていた葉子は、この男の前では思わず知らず心にもない矯飾(きょうしょく)を自分の性格の上にまで加えた。事務長の前では、葉子は不思議にも自分の思っているのとちょうど反対の動作をしていた。無条件的な服従という事も事務長に対してだけはただ望ましい事にばかり思えた。この人に思う存分打ちのめされたら、自分の命は始めてほんとうに燃え上がるのだ。こんな不思議な、葉子にはあり得ない欲望すらが少しも不思議でなく受け入れられた。そのくせ表面(うわべ)では事務長の存在をすら気が付かないように振る舞った。ことに葉子の心を深く傷つけたのは、事務長の物懶(ものう)げな無関心な態度だった。葉子がどれほど人の心をひきつける事をいった時でも、した時でも、事務長は冷然として見向こうともしなかった事だ。そういう態度に出られると、葉子は、自分の事は棚(たな)に上げておいて、激しく事務長を憎んだ。この憎しみの心が日一日と募って行くのを非常に恐れたけれども、どうしようもなかったのだ。
 しかし葉子はとうとうけさの出来事にぶっ突かってしまった。葉子は恐ろしい崕(がけ)のきわからめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の目の前で今まで住んでいた世界はがらっと変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものは木(こ)っ葉(ぱ)みじんに無くなってしまっていた。倉地を得たらばどんな事でもする。どんな屈辱でも蜜(みつ)と思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば……。今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱!
 葉子の心はこんなに順序立っていたわけではない。しかし葉子は両手で頭を押えて鏡を見入りながらこんな心持ちを果てしもなくかみしめた。そして追想は多くの迷路をたどりぬいた末に、不思議な仮睡状態に陥る前まで進んで来た。葉子はソファを牝鹿(めじか)のように立ち上がって、過去と未来とを断ち切った現在刹那(せつな)のくらむばかりな変身に打ちふるいながらほほえんだ。
 その時ろくろくノックもせずに事務長がはいって来た。葉子のただならぬ姿には頓着(とんじゃく)なく、
「もうすぐ検疫官がやって来るから、さっきの約束を頼みますよ。資本入らずで大役が勤まるんだ。女というものはいいものだな。や、しかしあなたのはだいぶ資本がかかっとるでしょうね。……頼みますよ」と戯談(じょうだん)らしくいった。
「はあ」葉子はなんの苦もなく親しみの限りをこめた返事をした。その一声の中には、自分でも驚くほどな蠱惑(こわく)の力がこめられていた。
 事務長が出て行くと、葉子は子供のように足なみ軽く小さな船室の中を小跳(こおど)りして飛び回った。そして飛び回りながら、髪をほごしにかかって、時々鏡に映る自分の顔を見やりながら、こらえきれないようにぬすみ笑いをした。

       一七

 事務長のさしがねはうまい坪(つぼ)にはまった。検疫官は絵島丸の検疫事務をすっかり年とった次位の医官に任せてしまって、自分は船長室で船長、事務長、葉子を相手に、話に花を咲かせながらトランプをいじり通した。あたりまえならば、なんとかかとか必ず苦情の持ち上がるべき英国風の小やかましい検疫もあっさり済んで放蕩者(ほうとうもの)らしい血気盛りな検疫官は、船に来てから二時間そこそこできげんよく帰って行く事になった。
 停(と)まるともなく進行を止めていた絵島丸は風のまにまに少しずつ方向を変えながら、二人(ふたり)の医官を乗せて行くモーター・ボートが舷側(げんそく)を離れるのを待っていた。折り目正しい長めな紺の背広を着た検疫官はボートの舵座(かじざ)に立ち上がって、手欄(てすり)から葉子と一緒に胸から上を乗り出した船長となお戯談(じょうだん)を取りかわした。船梯子(ふなばしご)の下まで医官を見送った事務長は、物慣れた様子でポッケットからいくらかを水夫の手につかませておいて、上を向いて相図をすると、船梯子(ふなばしご)はきりきりと水平に巻き上げられて行く、それを事もなげに身軽く駆け上って来た。検疫官の目は事務長への挨拶(あいさつ)もそこそこに、思いきり派手(はで)な装いを凝らした葉子のほうに吸い付けられるらしかった。葉子はその目を迎えて情をこめた流眄(ながしめ)を送り返した。検疫官がその忙しい間にも何かしきりに物をいおうとした時、けたたましい汽笛が一抹(いちまつ)の白煙を青空に揚げて鳴りはためき、船尾からはすさまじい推進機の震動が起こり始めた。このあわただしい船の別れを惜しむように、検疫官は帽子を取って振り動かしながら、噪音(そうおん)にもみ消される言葉を続けていたが、もとより葉子にはそれは聞こえなかった。葉子はただにこにことほほえみながらうなずいて見せた。そしてただ一時のいたずらごころから髪にさしていた小さな造花を投げてやると、それがあわよく検疫官の肩にあたって足もとにすべり落ちた。検疫官が片手に舵綱(かじづな)をあやつりながら、有頂点(うちょうてん)になってそれを拾おうとするのを見ると、船舷(ふなばた)に立ちならんで物珍しげに陸地を見物していたステヤレージの男女の客は一斉(いっせい)に手をたたいてどよめいた。葉子はあたりを見回した。西洋の婦人たちは等しく葉子を見やって、その花々しい服装から軽率(かるはずみ)らしい挙動を苦々しく思うらしい顔つきをしていた。それらの外国人の中には田川夫人もまじっていた。
 検疫官は絵島丸が残して行った白沫(はくまつ)の中で、腰をふらつかせながら、笑い興ずる群集にまで幾度も頭を下げた。群集はまた思い出したように漫罵(まんば)を放って笑いどよめいた。それを聞くと日本語のよくわかる白髪の船長は、いつものように顔を赤くして、気の毒そうに恥ずかしげな目を葉子に送ったが、葉子がはしたない群集の言葉にも、苦々(にがにが)しげな船客の顔色にも、少しも頓着(とんじゃく)しないふうで、ほほえみ続けながらモーター・ボートのほうを見守っているのを見ると、未通女(おぼこ)らしくさらにまっ赤(か)になってその場をはずしてしまった。
 葉子は何事も屈託なくただおもしろかった。からだじゅうをくすぐるような生の歓(よろこ)びから、ややもするとなんでもなく微笑が自然に浮かび出ようとした。「けさから私はこんなに生まれ代わりました御覧なさい」といってだれにでも自分の喜びを披露(ひろう)したいような気分になっていた。検疫官の官舎の白い壁も、そのほうに向かって走って行くモーター・ボートも見る見る遠ざかって小さな箱庭のようになった時、葉子は船長室でのきょうの思い出し笑いをしながら、手欄(てすり)を離れて心あてに事務長を目で尋ねた。と、事務長は、はるか離れた船艙(せんそう)の出口に田川夫妻と鼎(かなえ)になって、何かむずかしい顔をしながら立ち話をしていた。いつもの葉子ならば三人の様子で何事が語られているかぐらいはすぐ見て取るのだが、その日はただ浮き浮きした無邪気な心ばかりが先に立って、だれにでも好意のある言葉をかけて、同じ言葉で酬(むく)いられたい衝動に駆られながら、なんの気なしにそっちに足を向けようとして、ふと気がつくと、事務長が「来てはいけない」と激しく目に物を言わせているのが覚(さと)れた。気が付いてよく見ると田川夫人の顔にはまごうかたなき悪意がひらめいていた。
「またおせっかいだな」
 一秒の躊躇(ちゅうちょ)もなく男のような口調で葉子はこう小さくつぶやいた。「構うものか」そう思いながら葉子は事務長の目使いにも無頓着(むとんじゃく)に、快活な足どりでいそいそと田川夫妻のほうに近づいて行った。それを事務長もどうすることもできなかった。葉子は三人の前に来ると軽く腰をまげて後(おく)れ毛(げ)をかき上げながら顔じゅうを蠱惑的(こわくてき)なほほえみにして挨拶(あいさつ)した。田川博士の頬(ほお)にはいち早くそれに応ずる物やさしい表情が浮かぼうとしていた。
「あなたはずいぶんな乱暴をなさる方(かた)ですのね」
 いきなり震えを帯びた冷ややかな言葉が田川夫人から葉子に容赦もなく投げつけられた。それは底意地の悪い挑戦的(ちょうせんてき)な調子で震えていた。田川博士(はかせ)はこのとっさの気まずい場面を繕うため何か言葉を入れてその不愉快な緊張をゆるめようとするらしかったが、夫人の悪意はせき立って募るばかりだった。しかし夫人は口に出してはもうなんにもいわなかった。
 女の間に起こる不思議な心と心との交渉から、葉子はなんという事なく、事務長と自分との間にけさ起こったばかりの出来事を、輪郭だけではあるとしても田川夫人が感づいているなと直覚した。ただ一言(ひとこと)ではあったけれども、それは検疫官とトランプをいじった事を責めるだけにしては、激し過ぎ、悪意がこめられ過ぎていることを直覚した。今の激しい言葉は、その事を深く根に持ちながら、検疫医に対する不謹慎な態度をたしなめる言葉のようにして使われているのを直覚した。葉子の心のすみからすみまでを、溜飲(りゅういん)の下がるような小気味よさが小おどりしつつ走(は)せめぐった。葉子は何をそんなに事々しくたしなめられる事があるのだろうというような少ししゃあしゃあした無邪気な顔つきで、首をかしげながら夫人を見守った。
「航海中はとにかくわたし葉子さんのお世話をお頼まれ申しているんですからね」
 初めはしとやかに落ち付いていうつもりらしかったが、それがだんだん激して途切れがちな言葉になって、夫人はしまいには激動から息気(いき)をさえはずましていた。その瞬間に火のような夫人のひとみと、皮肉に落ち付き払った葉子のひとみとが、ぱったり出っくわして小ぜり合いをしたが、また同時に蹴返(けかえ)すように離れて事務長のほうに振り向けられた。
「ごもっともです」
 事務長は虻(あぶ)に当惑した熊(くま)のような顔つきで、柄(がら)にもない謹慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情に返って、
「わたしも事務長であって見れば、どのお客様に対しても責任があるのだで、御迷惑になるような事はせんつもりですが」
 ここで彼は急に仮面を取り去ったようににこにこし出した。
「そうむきになるほどの事でもないじゃありませんか。たかが早月(さつき)さんに一度か二度愛嬌(あいきょう)をいうていただいて、それで検疫の時間が二時間から違うのですもの。いつでもここで四時間の以上もむだにせにゃならんのですて」
 田川夫人がますますせき込んで、矢継(やつ)ぎ早(ばや)にまくしかけようとするのを、事務長は事もなげに軽々とおっかぶせて、
「それにしてからがお話はいかがです、部屋(へや)で伺いましょうか。ほかのお客様の手前もいかがです。博士(はかせ)、例のとおり狭っこい所ですが、甲板(かんぱん)ではゆっくりもできませんで、あそこでお茶でも入れましょう。早月さんあなたもいかがです」
 と笑い笑い言ってからくるりッと葉子のほうに向き直って、田川夫妻には気が付かないように頓狂(とんきょう)な顔をちょっとして見せた。
 横浜で倉地のあとに続いて船室への階子段(はしごだん)を下る時始めて嗅(か)ぎ覚えたウイスキーと葉巻とのまじり合ったような甘たるい一種の香(にお)いが、この時かすかに葉子の鼻をかすめたと思った。それをかぐと葉子の情熱のほむらが一時にあおり立てられて、人前では考えられもせぬような思いが、旋風(つむじかぜ)のごとく頭の中をこそいで通るのを覚えた。男にはそれがどんな印象を与えたかを顧みる暇もなく、田川夫妻の前ということもはばからずに、自分では醜いに違いないと思うような微笑が、覚えず葉子の眉(まゆ)の間に浮かび上がった。事務長は小むずかしい顔になって振り返りながら、
「いかがです」ともう一度田川夫妻を促した。しかし田川博士は自分の妻のおとなげないのをあわれむ物わかりのいい紳士という態度を見せて、態(てい)よく事務長にことわりをいって、夫人と一緒にそこを立ち去った。
「ちょっといらっしゃい」
 田川夫妻の姿が見えなくなると、事務長はろくろく葉子を見むきもしないでこういいながら先に立った。葉子は小娘のようにいそいそとそのあとについて、薄暗い階子段(はしごだん)にかかると男におぶいかかるようにしてこぜわしく降りて行った。そして機関室と船員室との間にある例の暗い廊下を通って、事務長が自分の部屋の戸をあけた時、ぱっと明るくなった白い光の中に、nonchalant な diabolic な男の姿を今さらのように一種の畏(おそ)れとなつかしさとをこめて打ちながめた。
 部屋にはいると事務長は、田川夫人の言葉でも思い出したらしくめんどうくさそうに吐息(といき)一つして、帳簿を事務テーブルの上にほうりなげておいて、また戸から頭だけつき出して、「ボーイ」と大きな声で呼び立てた。そして戸をしめきると、始めてまともに葉子に向きなおった。そして腹をゆすり上げて続けさまに思い存分笑ってから、
「え」と大きな声で、半分は物でも尋ねるように、半分は「どうだい」といったような調子でいって、足を開いて akimbo をして突っ立ちながら、ちょいと無邪気に首をかしげて見せた。
 そこにボーイが戸の後ろから顔だけ出した。
「シャンペンだ。船長の所にバーから持って来(こ)さしたのが、二三本残ってるよ。十の字三つぞ(大至急という軍隊用語)。……何がおかしいかい」
 事務長は葉子のほうを向いたままこういったのであるが、実際その時ボーイは意味ありげににやにや薄笑いをしていた。
 あまりに事もなげな倉地の様子を見ていると葉子は自分の心の切(せつ)なさに比べて、男の心を恨めしいものに思わずにいられなくなった。けさの記憶のまだ生々(なまなま)しい部屋(へや)の中を見るにつけても、激しく嵩(たか)ぶって来る情熱が妙にこじれて、いても立ってもいられないもどかしさが苦しく胸に逼(せま)るのだった。今まではまるきり眼中になかった田川夫人も、三等の女客の中で、処女とも妻ともつかぬ二人(ふたり)の二十女も、果ては事務長にまつわりつくあの小娘のような岡までが、写真で見た事務長の細君と一緒になって、苦しい敵意を葉子の心にあおり立てた。ボーイにまで笑いものにされて、男の皮を着たこの好色の野獣のなぶりものにされているのではないか。自分の身も心もただ一息にひしぎつぶすかと見えるあの恐ろしい力は、自分を征服すると共にすべての女に対しても同じ力で働くのではないか。そのたくさんの女の中の影の薄い一人(ひとり)の女として彼は自分を扱っているのではないか。自分には何物にも代え難(がた)く思われるけさの出来事があったあとでも、ああ平気でいられるそののんきさはどうしたものだろう。葉子は物心がついてから始終自分でも言い現わす事のできない何物かを逐(お)い求めていた。その何物かは葉子のすぐ手近にありながら、しっかりとつかむ事はどうしてもできず、そのくせいつでもその力の下に傀儡(かいらい)のようにあてもなく動かされていた。葉子はけさの出来事以来なんとなく思いあがっていたのだ。それはその何物かがおぼろげながら形を取って手に触れたように思ったからだ。しかしそれも今から思えば幻影に過ぎないらしくもある。自分に特別な注意も払っていなかったこの男の出来心に対して、こっちから進んで情をそそるような事をした自分はなんという事をしたのだろう。どうしたらこの取り返しのつかない自分の破滅を救う事ができるのだろうと思って来ると、一秒でもこのいまわしい記憶のさまよう部屋の中にはいたたまれないように思え出した。しかし同時に事務長は断ちがたい執着となって葉子の胸の底にこびりついていた。この部屋をこのままで出て行くのは死ぬよりもつらい事だった。どうしてもはっきりと事務長の心を握るまでは……葉子は自分の心の矛盾に業(ごう)を煮やしながら、自分をさげすみ果てたような絶望的な怒りの色を口びるのあたりに宿して、黙ったまま陰鬱(いんうつ)に立っていた。今までそわそわと小魔(しょうま)のように葉子の心をめぐりおどっていたはなやかな喜び――それはどこに行ってしまったのだろう。
 事務長はそれに気づいたのか気がつかないのか、やがてよりかかりのないまるい事務いすに尻(しり)をすえて、子供のような罪のない顔をしながら、葉子を見て軽く笑っていた。葉子はその顔を見て、恐ろしい大胆な悪事を赤児(あかご)同様の無邪気さで犯しうる質(たち)の男だと思った。葉子はこんな無自覚な状態にはとてもなっていられなかった。一足ずつ先(さき)を越されているのかしらんという不安までが心の平衡をさらに狂わした。
「田川博士は馬鹿(ばか)ばかで、田川の奥さんは利口ばかというんだ。はゝゝゝゝ」
 そういって笑って、事務長は膝(ひざ)がしらをはっしと打った手をかえして、机の上にある葉巻をつまんだ。
 葉子は笑うよりも腹だたしく、腹だたしいよりも泣きたいくらいになっていた。口びるをぶるぶると震わしながら涙でもたまったように輝く目は剣(けん)を持って、恨みをこめて事務長を見入ったが、事務長は無頓着(むとんじゃく)に下を向いたまま、一心に葉巻に火をつけている。葉子は胸に抑(おさ)えあまる恨みつらみをいい出すには、心があまりに震えて喉(のど)がかわききっているので、下くちびるをかみしめたまま黙っていた。
 倉地はそれを感づいているのだのにと葉子は置きざりにされたようなやり所のないさびしさを感じていた。
 ボーイがシャンペンとコップとを持ってはいって来た。そして丁寧にそれを事務テーブルの上に置いて、さっきのように意味ありげな微笑をもらしながら、そっと葉子をぬすみ見た。待ち構えていた葉子の目はしかしボーイを笑わしてはおかなかった。ボーイはぎょっとして飛んでもない事をしたというふうに、すぐ慎み深い給仕(きゅうじ)らしく、そこそこに部屋(へや)を出て行った。
 事務長は葉巻の煙に顔をしかめながら、シャンペンをついで盆を葉子のほうにさし出した。葉子は黙って立ったまま手を延ばした。何をするにも心にもない作り事をしているようだった。この短い瞬間に、今までの出来事でいいかげん乱れていた心は、身の破滅がとうとう来てしまったのだというおそろしい予想に押しひしがれて、頭は氷で巻かれたように冷たく気(け)うとくなった。胸から喉(のど)もとにつきあげて来る冷たいそして熱い球(たま)のようなものを雄々(おお)しく飲み込んでも飲み込んでも涙がややともすると目がしらを熱くうるおして来た。薄手(うすで)のコップに泡(あわ)を立てて盛られた黄金色(こがねいろ)の酒は葉子の手の中で細かいさざ波を立てた。葉子はそれを気取(けど)られまいと、しいて左の手を軽くあげて鬢(びん)の毛をかき上げながら、コップを事務長のと打ち合わせたが、それをきっかけに願(がん)でもほどけたように今までからく持ちこたえていた自制は根こそぎくずされてしまった。
 事務長がコップを器用に口びるにあてて、仰向きかげんに飲みほす間、葉子は杯を手にもったまま、ぐびりぐびりと動く男の喉(のど)を見つめていたが、いきなり自分の杯を飲まないまま盆の上にかえして、
「よくもあなたはそんなに平気でいらっしゃるのね」
 と力をこめるつもりでいったその声はいくじなくも泣かんばかりに震えていた。そして堰(せき)を切ったように涙が流れ出ようとするのを糸切り歯でかみきるばかりにしいてくいとめた。
 事務長は驚いたらしかった。
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