或る女
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著者名:有島武郎 

       一二

 その日の夕方、葉子は船に来てから始めて食堂に出た。着物は思いきって地味(じみ)なくすんだのを選んだけれども、顔だけは存分に若くつくっていた。二十(はたち)を越すや越さずに見える、目の大きな、沈んだ表情の彼女の襟の藍鼠(あいねずみ)は、なんとなく見る人の心を痛くさせた。細長い食卓の一端に、カップ・ボードを後ろにして座を占めた事務長の右手には田川夫人がいて、その向かいが田川博士、葉子の席は博士のすぐ隣に取ってあった。そのほかの船客も大概はすでに卓に向かっていた。葉子の足音が聞こえると、いち早く目くばせをし合ったのはボーイ仲間で、その次にひどく落ち付かぬ様子をし出したのは事務長と向かい合って食卓の他の一端にいた鬚(ひげ)の白いアメリカ人の船長であった。あわてて席を立って、右手にナプキンを下げながら、自分の前を葉子に通らせて、顔をまっ赤(か)にして座に返った。葉子はしとやかに人々の物数奇(ものずき)らしい視線を受け流しながら、ぐるっと食卓を回って自分の席まで行くと、田川博士(はかせ)はぬすむように夫人の顔をちょっとうかがっておいて、肥(ふと)ったからだをよけるようにして葉子を自分の隣にすわらせた。
 すわりずまいをただしている間、たくさんの注視の中にも、葉子は田川夫人の冷たいひとみの光を浴びているのを心地(ここち)悪いほどに感じた。やがてきちんとつつましく正面を向いて腰かけて、ナプキンを取り上げながら、まず第一に田川夫人のほうに目をやってそっと挨拶(あいさつ)すると、今までの角々(かどかど)しい目にもさすがに申しわけほどの笑(え)みを見せて、夫人が何かいおうとした瞬間、その時までぎごちなく話を途切らしていた田川博士も事務長のほうを向いて何かいおうとしたところであったので、両方の言葉が気まずくぶつかりあって、夫婦は思わず同時に顔を見合わせた。一座の人々も、日本人といわず外国人といわず、葉子に集めていたひとみを田川夫妻のほうに向けた。「失礼」といってひかえた博士に夫人はちょっと頭を下げておいて、みんなに聞こえるほどはっきり澄んだ声で、
「とんと食堂においでがなかったので、お案じ申しましたの、船にはお困りですか」
 といった。さすがに世慣れて才走ったその言葉は、人の上に立ちつけた重みを見せた。葉子はにこやかに黙ってうなずきながら、位を一段落として会釈するのをそう不快には思わぬくらいだった。二人(ふたり)の間の挨拶(あいさつ)はそれなりで途切れてしまったので、田川博士(はかせ)はおもむろに事務長に向かってし続けていた話の糸目をつなごうとした。
「それから……その……」
 しかし話の糸口は思うように出て来なかった。事もなげに落ち付いた様子に見える博士の心の中に、軽い混乱が起こっているのを、葉子はすぐ見て取った。思いどおりに一座の気分を動揺させる事ができるという自信が裏書きされたように葉子は思ってそっと満足を感じていた。そしてボーイ長のさしずでボーイらが手器用(てぎよう)に運んで来たポタージュをすすりながら、田川博士のほうの話に耳を立てた。
 葉子が食堂に現われて自分の視界にはいってくると、臆面(おくめん)もなくじっと目を定めてその顔を見やった後に、無頓着(むとんじゃく)にスプーンを動かしながら、時々食卓の客を見回して気を配っていた事務長は、下くちびるを返して鬚(ひげ)の先を吸いながら、塩さびのした太い声で、
「それからモンロー主義の本体は」
 と話の糸目を引っぱり出しておいて、まともに博士を打ち見やった。博士は少し面伏(おもぶ)せな様子で、
「そう、その話でしたな。モンロー主義もその主張は初めのうちは、北米の独立諸州に対してヨーロッパの干渉を拒むというだけのものであったのです。ところがその政策の内容は年と共にだんだん変わっている。モンローの宣言は立派に文字になって残っているけれども、法律というわけではなし、文章も融通(ゆうずう)がきくようにできているので、取りようによっては、どうにでも伸縮する事ができるのです。マッキンレー氏などはずいぶん極端にその意味を拡張しているらしい。もっともこれにはクリーブランドという人の先例もあるし、マッキンレー氏の下にはもう一人(ひとり)有力な黒幕があるはずだ。どうです斎藤(さいとう)君」
 と二三人おいた斜向(はすか)いの若い男を顧みた。斎藤と呼ばれた、ワシントン公使館赴任の外交官補は、まっ赤(か)になって、今まで葉子に向けていた目を大急ぎで博士のほうにそらして見たが、質問の要領をはっきり捕えそこねて、さらに赤くなって術ない身ぶりをした。これほどな席にさえかつて臨んだ習慣のないらしいその人の素性(すじょう)がそのあわてかたに充分に見えすいていた。博士は見下したような態度で暫時その青年のどぎまぎした様子を見ていたが、返事を待ちかねて、事務長のほうを向こうとした時、突然はるか遠い食卓の一端から、船長が顔をまっ赤(か)にして、
「You mean Teddy the roughrider?」
 といいながら子供のような笑顔(えがお)を人々に見せた。船長の日本語の理解力をそれほどに思い設けていなかったらしい博士は、この不意打ちに今度は自分がまごついて、ちょっと返事をしかねていると、田川夫人がさそくにそれを引き取って、
「Good hit for you,Mr. Captain !」
 と癖のない発音でいってのけた。これを聞いた一座は、ことに外国人たちは、椅子(いす)から乗り出すようにして夫人を見た。夫人はその時人(ひと)の目にはつきかねるほどの敏捷(すばしこ)さで葉子のほうをうかがった。葉子は眉(まゆ)一つ動かさずに、下を向いたままでスープをすすっていた。
 慎み深く大さじを持ちあつかいながら、葉子は自分に何かきわ立った印象を与えようとして、いろいろなまねを競い合っているような人々のさまを心の中で笑っていた。実際葉子が姿を見せてから、食堂の空気は調子を変えていた。ことに若い人たちの間には一種の重苦しい波動が伝わったらしく、物をいう時、彼らは知らず知らず激昂(げきこう)したような高い調子になっていた。ことにいちばん年若く見える一人(ひとり)の上品な青年――船長の隣座にいるので葉子は家柄(いえがら)の高い生まれに違いないと思った――などは、葉子と一目顔を見合わしたが最後、震えんばかりに興奮して、顔を得(え)上げないでいた。それだのに事務長だけは、いっこう動かされた様子が見えぬばかりか、どうかした拍子(ひょうし)に顔を合わせた時でも、その臆面(おくめん)のない、人を人とも思わぬような熟視は、かえって葉子の視線をたじろがした。人間をながめあきたような気倦(けだ)るげなその目は、濃いまつ毛の間から insolent な光を放って人を射た。葉子はこうして思わずひとみをたじろがすたびごとに事務長に対して不思議な憎しみを覚えるとともに、もう一度その憎むべき目を見すえてその中に潜む不思議を存分に見窮めてやりたい心になった。葉子はそうした気分に促されて時々事務長のほうにひきつけられるように視線を送ったが、そのたびごとに葉子のひとみはもろくも手きびしく追い退けられた。
 こうして妙な気分が食卓の上に織りなされながらやがて食事は終わった。一同が座を立つ時、物慣らされた物腰で、椅子(いす)を引いてくれた田川博士(はかせ)にやさしく微笑を見せて礼をしながらも、葉子はやはり事務長の挙動を仔細(しさい)に見る事に半ば気を奪われていた。
「少し甲板に出てごらんになりましな。寒くとも気分は晴れ晴れしますから。わたしもちょと部屋(へや)に帰ってショールを取って出て見ます」
 こう葉子にいって田川夫人は良人(おっと)と共に自分の部屋のほうに去って行った。
 葉子も部屋に帰って見たが、今まで閉じこもってばかりいるとさほどにも思わなかったけれども、食堂ほどの広さの所からでもそこに来て見ると、息気(いき)づまりがしそうに狭苦しかった。で、葉子は長椅子の下から、木村の父が使い慣れた古トランク――その上に古藤が油絵の具でY・Kと書いてくれた古トランクを引き出して、その中から黒い駝鳥(だちょう)の羽のボアを取り出して、西洋臭いそのにおいを快く鼻に感じながら、深々と首を巻いて、甲板に出て行って見た。窮屈な階子段(はしごだん)をややよろよろしながらのぼって、重い戸をあけようとすると外気の抵抗がなかなか激しくって押しもどされようとした。きりっと搾(しぼ)り上げたような寒さが、戸のすきから縦に細長く葉子を襲った。
 甲板には外国人が五六人厚い外套(がいとう)にくるまって、堅いティークの床(ゆか)をかつかつと踏みならしながら、押し黙って勢いよく右往左往に散歩していた。田川夫人の姿はそのへんにはまだ見いだされなかった。塩気を含んだ冷たい空気は、室内にのみ閉じこもっていた葉子の肺を押し広げて、頬(ほお)には血液がちくちくと軽く針をさすように皮膚に近く突き進んで来るのが感ぜられた。葉子は散歩客には構わずに甲板を横ぎって船べりの手欄(てすり)によりかかりながら、波また波と果てしもなく連なる水の堆積(たいせき)をはるばるとながめやった。折り重なった鈍色(にぶいろ)の雲のかなたに夕日の影は跡形もなく消えうせて、闇(やみ)は重い不思議な瓦斯(がす)のように力強くすべての物を押しひしゃげていた。雪をたっぷり含んだ空だけが、その間とわずかに争って、南方には見られぬ暗い、燐(りん)のような、さびしい光を残していた。一種のテンポを取って高くなり低くなりする黒い波濤(はとう)のかなたには、さらに黒ずんだ波の穂が果てしもなく連なっていた。船は思ったより激しく動揺していた。赤いガラスをはめた檣燈(しょうとう)が空高く、右から左、左から右へと広い角度を取ってひらめいた。ひらめくたびに船が横かしぎになって、重い水の抵抗を受けながら進んで行くのが、葉子の足からからだに伝わって感ぜられた。
 葉子はふらふらと船にゆり上げゆり下げられながら、まんじりともせずに、黒い波の峰と波の谷とがかわるがわる目の前に現われるのを見つめていた。豊かな髪の毛をとおして寒さがしんしんと頭の中にしみこむのが、初めのうちは珍しくいい気持ちだったが、やがてしびれるような頭痛に変わって行った。……と急に、どこをどう潜んで来たとも知れない、いやなさびしさが盗風(とうふう)のように葉子を襲った。船に乗ってから春の草のように萌(も)え出した元気はぽっきりと心(しん)を留められてしまった。こめかみがじんじんと痛み出して、泣きつかれのあとに似た不愉快な睡気(ねむけ)の中に、胸をついて嘔(は)き気(け)さえ催して来た。葉子はあわててあたりを見回したが、もうそこいらには散歩の人足(ひとあし)も絶えていた。けれども葉子は船室に帰る気力もなく、右手でしっかりと額を押えて、手欄(てすり)に顔を伏せながら念じるように目をつぶって見たが、いいようのないさびしさはいや増すばかりだった。葉子はふと定子を懐妊していた時のはげしい悪阻(つわり)の苦痛を思い出した。それはおりから痛ましい回想だった。……定子……葉子はもうその笞(しもと)には堪えないというように頭を振って、気を紛らすために目を開いて、とめどなく動く波の戯れを見ようとしたが、一目見るやぐらぐらと眩暈(めまい)を感じて一たまりもなくまた突っ伏(ぷ)してしまった。深い悲しいため息が思わず出るのを留めようとしてもかいがなかった。「船に酔ったのだ」と思った時には、もうからだじゅうは不快な嘔感(おうかん)のためにわなわなと震えていた。
「嘔(は)けばいい」
 そう思って手欄(てすり)から身を乗り出す瞬間、からだじゅうの力は腹から胸もとに集まって、背は思わずも激しく波打った。そのあとはもう夢のようだった。
 しばらくしてから葉子は力が抜けたようになって、ハンカチで口もとをぬぐいながら、たよりなくあたりを見回した。甲板(かんぱん)の上も波の上のように荒涼として人気(ひとけ)がなかった。明るく灯(ひ)の光のもれていた眼窓(めまど)は残らずカーテンでおおわれて暗くなっていた。右にも左にも人はいない。そう思った心のゆるみにつけ込んだのか、胸の苦しみはまた急によせ返して来た。葉子はもう一度手欄(てすり)に乗り出してほろほろと熱い涙をこぼした。たとえば高くつるした大石を切って落としたように、過去というものが大きな一つの暗い悲しみとなって胸を打った。物心を覚えてから二十五の今日(こんにち)まで、張りつめ通した心の糸が、今こそ思い存分ゆるんだかと思われるその悲しい快(こころよ)さ。葉子はそのむなしい哀感にひたりながら、重ねた両手の上に額を乗せて手欄(てすり)によりかかったまま重い呼吸をしながらほろほろと泣き続けた。一時性貧血を起こした額は死人のように冷えきって、泣きながらも葉子はどうかするとふっと引き入れられるように、仮睡に陥ろうとした。そうしてははっと何かに驚かされたように目を開くと、また底の知れぬ哀感がどこからともなく襲い入った。悲しい快さ。葉子は小学校に通(かよ)っている時分でも、泣きたい時には、人前では歯をくいしばっていて、人のいない所まで行って隠れて泣いた。涙を人に見せるというのは卑しい事にしか思えなかった。乞食(こじき)が哀れみを求めたり、老人が愚痴をいうのと同様に、葉子にはけがらわしく思えていた。しかしその夜に限っては、葉子はだれの前でも素直(すなお)な心で泣けるような気がした。だれかの前でさめざめと泣いてみたいような気分にさえなっていた。しみじみとあわれんでくれる人もありそうに思えた。そうした気持ちで葉子は小娘のようにたわいもなく泣きつづけていた。
 その時甲板(かんぱん)のかなたから靴(くつ)の音が聞こえて来た。二人(ふたり)らしい足音だった。その瞬間まではだれの胸にでも抱きついてしみじみ泣けると思っていた葉子は、その音を聞きつけるとはっというまもなく、張りつめたいつものような心になってしまって、大急ぎで涙を押しぬぐいながら、踵(くびす)を返して自分の部屋(へや)に戻(もど)ろうとした。が、その時はもうおそかった。洋服姿の田川夫妻がはっきりと見分けがつくほどの距離に進みよっていたので、さすがに葉子もそれを見て見ぬふりでやり過ごす事は得(え)しなかった。涙をぬぐいきると、左手をあげて髪のほつれをしなをしながらかき上げた時、二人はもうすぐそばに近寄っていた。
「あらあなたでしたの。わたしどもは少し用事ができておくれましたが、こんなにおそくまで室外(そと)にいらしってお寒くはありませんでしたか。気分はいかがです」
 田川夫人は例の目下(めした)の者にいい慣れた言葉を器用に使いながら、はっきりとこういってのぞき込むようにした。夫妻はすぐ葉子が何をしていたかを感づいたらしい。葉子はそれをひどく不快に思った。
「急に寒い所に出ましたせいですかしら、なんだか頭(つむり)がぐらぐらいたしまして」
「お嘔(もど)しなさった……それはいけない」
 田川博士(はかせ)は夫人の言葉を聞くともっともというふうに、二三度こっくりとうなずいた。厚外套(あつがいとう)にくるまった肥(ふと)った博士と、暖かそうなスコッチの裾長(すそなが)の服に、ロシア帽を眉(まゆ)ぎわまでかぶった夫人との前に立つと、やさ形の葉子は背たけこそ高いが、二人(ふたり)の娘ほどにながめられた。
「どうだ一緒に少し歩いてみちゃ」
 と田川博士がいうと、夫人は、
「ようございましょうよ、血液がよく循環して」と応じて葉子に散歩を促した。葉子はやむを得ず、かつかつと鳴る二人の靴(くつ)の音と、自分の上草履(うわぞうり)の音とをさびしく聞きながら、夫人のそばにひき添って甲板(かんぱん)の上を歩き始めた。ギーイときしみながら船が大きくかしぐのにうまく中心を取りながら歩こうとすると、また不快な気持ちが胸先にこみ上げて来るのを葉子は強く押し静めて事もなげに振る舞おうとした。
 博士は夫人との会話の途切れ目を捕えては、話を葉子に向けて慰め顔にあしらおうとしたが、いつでも夫人が葉子のすべき返事をひったくって物をいうので、せっかくの話は腰を折られた。葉子はしかし結句(けっく)それをいい事にして、自分の思いにふけりながら二人に続いた。しばらく歩きなれてみると、運動ができたためか、だんだん嘔(は)き気(け)は感ぜぬようになった。田川夫妻は自然に葉子を会話からのけものにして、二人の間で四方山(よもやま)のうわさ話を取りかわし始めた。不思議なほどに緊張した葉子の心は、それらの世間話にはいささかの興味も持ち得ないで、むしろその無意味に近い言葉の数々を、自分の瞑想(めいそう)を妨げる騒音のようにうるさく思っていた。と、ふと田川夫人が事務長と言ったのを小耳にはさんで、思わず針でも踏みつけたようにぎょっとして、黙想から取って返して聞き耳を立てた。自分でも驚くほど神経が騒ぎ立つのをどうする事もできなかった。
「ずいぶんしたたか者らしゅうございますわね」
 そう夫人のいう声がした。
「そうらしいね」
 博士(はかせ)の声には笑いがまじっていた。
「賭博(ばくち)が大の上手(じょうず)ですって」
「そうかねえ」
 事務長の話はそれぎりで絶えてしまった。葉子はなんとなく物足らなくなって、また何かいい出すだろうと心待ちにしていたが、その先を続ける様子がないので、心残りを覚えながら、また自分の心に帰って行った。
 しばらくすると夫人がまた事務長のうわさをし始めた。
「事務長のそばにすわって食事をするのはどうもいやでなりませんの」
「そんなら早月(さつき)さんに席を代わってもらったらいいでしょう」
 葉子は闇(やみ)の中で鋭く目をかがやかしながら夫人の様子をうかがった。
「でも夫婦がテーブルにならぶって法はありませんわ……ねえ早月さん」
 こう戯談(じょうだん)らしく夫人はいって、ちょっと葉子のほうを振り向いて笑ったが、べつにその返事を待つというでもなく、始めて葉子の存在に気づきでもしたように、いろいろと身の上などを探りを入れるらしく聞き始めた。田川博士も時々親切らしい言葉を添えた。葉子は始めのうちこそつつましやかに事実にさほど遠くない返事をしていたものの、話がだんだん深入りして行くにつれて、田川夫人という人は上流の貴夫人だと自分でも思っているらしいに似合わない思いやりのない人だと思い出した。それはあり内(うち)の質問だったかもしれない。けれども葉子にはそう思えた。縁もゆかりもない人の前で思うままな侮辱を加えられるとむっとせずにはいられなかった。知った所がなんにもならない話を、木村の事まで根はり葉はり問いただしていったいどうしようという気なのだろう。老人でもあるならば、過ぎ去った昔を他人にくどくどと話して聞かせて、せめて慰むという事もあろう。「老人には過去を、若い人には未来を」という交際術の初歩すら心得ないがさつな人だ。自分ですらそっと手もつけないで済ませたい血なまぐさい身の上を……自分は老人ではない。葉子は田川夫人が意地(いじ)にかかってこんな悪戯(わるさ)をするのだと思うと激しい敵意から口びるをかんだ。
 しかしその時田川博士が、サルンからもれて来る灯(ひ)の光で時計を見て、八時十分前だから部屋(へや)に帰ろうといい出したので、葉子はべつに何もいわずにしまった。三人が階子段(はしごだん)を降りかけた時、夫人は、葉子の気分にはいっこう気づかぬらしく、――もしそうでなければ気づきながらわざと気づかぬらしく振る舞って、
「事務長はあなたのお部屋にも遊びに見えますか」
 と突拍子(とっぴょうし)もなくいきなり問いかけた。それを聞くと葉子の心は何という事なしに理不尽な怒りに捕えられた。得意な皮肉でも思い存分に浴びせかけてやろうかと思ったが、胸をさすりおろしてわざと落ち付いた調子で、
「いゝえちっともお見えになりませんが……」
 と空々(そらぞら)しく聞こえるように答えた。夫人はまだ葉子の心持ちには少しも気づかぬふうで、
「おやそう。わたしのほうへはたびたびいらして困りますのよ」
 と小声でささやいた。「何を生意気な」葉子は前後(あとさき)なしにこう心のうちに叫んだが一言(ひとこと)も口には出さなかった。敵意――嫉妬(しっと)ともいい代えられそうな――敵意がその瞬間からすっかり根を張った。その時夫人が振り返って葉子の顔を見たならば、思わず博士(はかせ)を楯(たて)に取って恐れながら身をかわさずにはいられなかったろう、――そんな場合には葉子はもとよりその瞬間に稲妻のようにすばしこく隔意のない顔を見せたには違いなかろうけれども。葉子は一言もいわずに黙礼したまま二人(ふたり)に別れて部屋(へや)に帰った。
 室内はむっとするほど暑かった。葉子は嘔(は)き気(け)はもう感じてはいなかったが、胸もとが妙にしめつけられるように苦しいので、急いでボアをかいやって床(ゆか)の上に捨てたまま、投げるように長椅子(ながいす)に倒れかかった。
 それは不思議だった。葉子の神経は時には自分でも持て余すほど鋭く働いて、だれも気のつかないにおいがたまらないほど気になったり、人の着ている着物の色合いが見ていられないほど不調和で不愉快であったり、周囲の人が腑抜(ふぬ)けな木偶(でく)のように甲斐(かい)なく思われたり、静かに空を渡って行く雲の脚(あし)が瞑眩(めまい)がするほどめまぐるしく見えたりして、我慢にもじっとしていられない事は絶えずあったけれども、その夜のように鋭く神経のとがって来た事は覚えがなかった。神経の末梢(まっしょう)が、まるで大風にあったこずえのようにざわざわと音がするかとさえ思われた。葉子は足と足とをぎゅっとからみ合わせてそれに力をこめながら、右手の指先を四本そろえてその爪先(つまさき)を、水晶のように固い美しい歯で一思いに激しくかんで見たりした。悪寒(おかん)のような小刻みな身ぶるいが絶えず足のほうから頭へと波動のように伝わった。寒いためにそうなるのか、暑いためにそうなるのかよくわからなかった。そうしていらいらしながらトランクを開いたままで取り散らした部屋の中をぼんやり見やっていた。目はうるさくかすんでいた。ふと落ち散ったものの中に葉子は事務長の名刺があるのに目をつけて、身をかがめてそれを拾い上げた。それを拾い上げるとま二つに引き裂いてまた床になげた。それはあまりに手答えなく裂けてしまった。葉子はまた何かもっとうんと手答えのあるものを尋ねるように熱して輝く目でまじまじとあたりを見回していた。と、カーテンを引き忘れていた。恥ずかしい様子を見られはしなかったかと思うと胸がどきんとしていきなり立ち上がろうとした拍子(ひょうし)に、葉子は窓の外に人の顔を認めたように思った。田川博士のようでもあった。田川夫人のようでもあった。しかしそんなはずはない、二人はもう部屋に帰っている。事務長……
 葉子は思わず裸体を見られた女のように固くなって立ちすくんだ。激しいおののきが襲って来た。そして何の思慮もなく床の上のボアを取って胸にあてがったが、次の瞬間にはトランクの中からショールを取り出してボアと一緒にそれをかかえて、逃げる人のように、あたふたと部屋を出た。
 船のゆらぐごとに木と木とのすれあう不快な音は、おおかた船客の寝しずまった夜の寂寞(せきばく)の中にきわ立って響いた。自動平衡器の中にともされた蝋燭(ろうそく)は壁板に奇怪な角度を取って、ゆるぎもせずにぼんやりと光っていた。
 戸をあけて甲板(かんばん)に出ると、甲板のあなたはさっきのままの波また波の堆積(たいせき)だった。大煙筒から吐き出される煤煙(ばいえん)はまっ黒い天の川のように無月(むげつ)の空を立ち割って水に近く斜めに流れていた。

       一三

 そこだけは星が光っていないので、雲のある所がようやく知れるぐらい思いきって暗い夜だった。おっかぶさって来るかと見上くれば、目のまわるほど遠のいて見え、遠いと思って見れば、今にも頭を包みそうに近く逼(せま)ってる鋼色(はがねいろ)の沈黙した大空が、際限もない羽をたれたように、同じ暗色の海原に続く所から波がわいて、闇(やみ)の中をのたうちまろびながら、見渡す限りわめき騒いでいる。耳を澄まして聞いていると、水と水とが激しくぶつかり合う底のほうに、
「おーい、おい、おい、おーい」
 というかと思われる声ともつかない一種の奇怪な響きが、舷(ふなべり)をめぐって叫ばれていた。葉子は前後左右に大きく傾く甲板の上を、傾くままに身を斜めにしてからく重心を取りながら、よろけよろけブリッジに近いハッチの物陰までたどりついて、ショールで深々と首から下を巻いて、白ペンキで塗った板囲いに身を寄せかけて立った、たたずんだ所は風下(かざしも)になっているが、頭の上では、檣(ほばしら)からたれ下がった索綱(さくこう)の類が風にしなってうなりを立て、アリュウシャン群島近い高緯度の空気は、九月の末とは思われぬほど寒く霜を含んでいた。気負いに気負った葉子の肉体はしかしさして寒いとは思わなかった。寒いとしてもむしろ快い寒さだった。もうどんどんと冷えて行く着物の裏に、心臓のはげしい鼓動につれて、乳房(ちぶさ)が冷たく触れたり離れたりするのが、なやましい気分を誘い出したりした。それにたたずんでいるのに足が爪先(つまさき)からだんだんに冷えて行って、やがて膝(ひざ)から下は知覚を失い始めたので、気分は妙に上(うわ)ずって来て、葉子の幼い時からの癖である夢ともうつつとも知れない音楽的な錯覚に陥って行った。五体も心も不思議な熱を覚えながら、一種のリズムの中に揺り動かされるようになって行った。何を見るともなく凝然と見定めた目の前に、無数の星が船の動揺につれて光のまたたきをしながら、ゆるいテンポをととのえてゆらりゆらりと静かにおどると、帆綱のうなりが張り切ったバスの声となり、その間を「おーい、おい、おい、おーい……」と心の声とも波のうめきともわからぬトレモロが流れ、盛り上がり、くずれこむ波また波がテノルの役目を勤めた。声が形となり、形が声となり、それから一緒にもつれ合う姿を葉子は目で聞いたり耳で見たりしていた。なんのために夜寒(よさむ)を甲板に出て来たか葉子は忘れていた。夢遊病者のように葉子はまっしぐらにこの不思議な世界に落ちこんで行った。それでいて、葉子の心の一部分はいたましいほど醒(さ)めきっていた。葉子は燕(つばめ)のようにその音楽的な夢幻界を翔(か)け上がりくぐりぬけてさまざまな事を考えていた。
 屈辱、屈辱……屈辱――思索の壁は屈辱というちかちかと寒く光る色で、いちめんに塗りつぶされていた。その表面に田川夫人や事務長や田川博士の姿が目まぐるしく音律に乗って動いた。葉子はうるさそうに頭の中にある手のようなもので無性(むしょう)に払いのけようと試みたがむだだった。皮肉な横目をつかって青味を帯びた田川夫人の顔が、かき乱された水の中を、小さな泡(あわ)が逃げてでも行くように、ふらふらとゆらめきながら上のほうに遠ざかって行った。まずよかったと思うと、事務長の insolent な目つきが低い調子の伴音となって、じっと動かない中にも力ある震動をしながら、葉子の眼睛(ひとみ)の奥を網膜まで見とおすほどぎゅっと見すえていた。「なんで事務長や田川夫人なんぞがこんなに自分をわずらわすだろう。憎らしい。なんの因縁(いんねん)で……」葉子は自分をこう卑しみながらも、男の目を迎え慣れた媚(こ)びの色を知らず知らず上(うわ)まぶたに集めて、それに応じようとする途端、日に向かって目を閉じた時に綾(あや)をなして乱れ飛ぶあの不思議な種々な色の光体、それに似たものが繚乱(りょうらん)として心を取り囲んだ。星はゆるいテンポでゆらりゆらりと静かにおどっている。「おーい、おい、おい、おーい」……葉子は思わずかっと腹を立てた。その憤りの膜の中にすべての幻影はすーっと吸い取られてしまった。と思うとその憤りすらが見る見るぼやけて、あとには感激のさらにない死のような世界が果てしもなくどんよりとよどんだ。葉子はしばらくは気が遠くなって何事もわきまえないでいた。
 やがて葉子はまたおもむろに意識の閾(しきい)に近づいて来ていた。
 煙突の中の黒い煤(すす)の間を、横すじかいに休らいながら飛びながら、上(のぼ)って行く火の子のように、葉子の幻想は暗い記憶の洞穴(ほらあな)の中を右左によろめきながら奥深くたどって行くのだった。自分でさえ驚くばかり底の底にまた底のある迷路を恐る恐る伝って行くと、果てしもなく現われ出る人の顔のいちばん奥に、赤い着物を裾長(すそなが)に着て、まばゆいほどに輝き渡った男の姿が見え出した。葉子の心の周囲にそれまで響いていた音楽は、その瞬間ぱったり静まってしまって、耳の底がかーんとするほど空恐ろしい寂莫(せきばく)の中に、船の舳(へさき)のほうで氷をたたき破(わ)るような寒い時鐘(ときがね)の音が聞こえた。「カンカン、カンカン、カーン」……。葉子は何時(なんじ)の鐘だと考えてみる事もしないで、そこに現われた男の顔を見分けようとしたが、木村に似た容貌(ようぼう)がおぼろに浮かんで来るだけで、どう見直して見てもはっきりした事はもどかしいほどわからなかった。木村であるはずはないんだがと葉子はいらいらしながら思った。「木村はわたしの良人(おっと)ではないか。その木村が赤い着物を着ているという法があるものか。……かわいそうに、木村はサン・フランシスコから今ごろはシヤトルのほうに来て、私の着くのを一日千秋の思いで待っているだろうに、わたしはこんな事をしてここで赤い着物を着た男なんぞを見つめている。千秋の思いで待つ? それはそうだろう。けれどもわたしが木村の妻になってしまったが最後、千秋の思いでわたしを待ったりした木村がどんな良人(おっと)に変わるかは知れきっている。憎いのは男だ……木村でも倉地でも……また事務長なんぞを思い出している。そうだ、米国に着いたらもう少し落ち着いて考えた生きかたをしよう。木村だって打てば響くくらいはする男だ。……あっちに行ってまとまった金ができたら、なんといってもかまわない、定子を呼び寄せてやる。あ、定子の事なら木村は承知の上だったのに。それにしても木村が赤い着物などを着ているのはあんまりおかしい……」ふと葉子はもう一度赤い着物の男を見た。事務長の顔が赤い着物の上に似合わしく乗っていた。葉子はぎょっとした。そしてその顔をもっとはっきり見つめたいために重い重いまぶたをしいて押し開く努力をした。
 見ると葉子の前にはまさしく、角燈を持って焦茶色(こげちゃいろ)のマントを着た事務長が立っていた。そして、
「どうなさったんだ今ごろこんな所に、……今夜はどうかしている……岡(おか)さん、あなたの仲間がもう一人(ひとり)ここにいますよ」
 といいながら事務長は魂を得たように動き始めて、後ろのほうを振り返った。事務長の後ろには、食堂で葉子と一目顔を見合わすと、震えんばかりに興奮して顔を得(え)上げないでいた上品なかの青年が、まっさおな顔をして物におじたようにつつましく立っていた。
 目はまざまざと開いていたけれども葉子はまだ夢心地(ゆめごこち)だった。事務長のいるのに気づいた瞬間からまた聞こえ出した波濤(はとう)の音は、前のように音楽的な所は少しもなく、ただ物狂おしい騒音となって船に迫っていた。しかし葉子は今の境界がほんとうに現実の境界なのか、さっき不思議な音楽的の錯覚にひたっていた境界が夢幻の中の境界なのか、自分ながら少しも見さかいがつかないくらいぼんやりしていた。そしてあの荒唐(こうとう)な奇怪な心の adventure をかえってまざまざとした現実の出来事でもあるかのように思いなして、目の前に見る酒に赤らんだ事務長の顔は妙に蠱惑的(こわくてき)な気味の悪い幻像となって、葉子を脅かそうとした。
「少し飲み過ぎたところにためといた仕事を詰めてやったんで眠れん。で散歩のつもりで甲板(かんぱん)の見回りに出ると岡さん」
 といいながらもう一度後ろに振り返って、
「この岡さんがこの寒いに手欄(てすり)からからだを乗り出してぽかんと海を見とるんです。取り押えてケビンに連れて行こうと思うとると、今度はあなたに出っくわす。物好きもあったもんですねえ。海をながめて何がおもしろいかな。お寒かありませんか、ショールなんぞも落ちてしまった」
 どこの国なまりともわからぬ一種の調子が塩さびた声であやつられるのが、事務長の人となりによくそぐって聞こえる。葉子はそんな事を思いながら事務長の言葉を聞き終わると、始めてはっきり目がさめたように思った。そして簡単に、
「いゝえ」
と答えながら上目(うわめ)づかいに、夢の中からでも人を見るようにうっとりと事務長のしぶとそうな顔を見やった。そしてそのまま黙っていた。
 事務長は例の insolent な目つきで葉子を一目に見くるめながら、
「若い方(かた)は世話が焼ける……さあ行きましょう」
 と強い語調でいって、からからと傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に笑いながら葉子をせき立てた。海の波の荒涼たるおめきの中に聞くこの笑い声は diabolic なものだった。「若い方(かた)」……老成ぶった事をいうと葉子は思ったけれども、しかし事務長にはそんな事をいう権利でもあるかのように葉子は皮肉な竹篦返(しっぺがえ)しもせずに、おとなしくショールを拾い上げて事務長のいうままにそのあとに続こうとして驚いた。ところが長い間そこにたたずんでいたものと見えて、磁石(じしゃく)で吸い付けられたように、両足は固く重くなって一寸(すん)も動きそうにはなかった。寒気のために感覚の痲痺(まひ)しかかった膝(ひざ)の関節はしいて曲げようとすると、筋を絶(た)つほどの痛みを覚えた。不用意に歩き出そうとした葉子は、思わずのめり出さした上体をからく後ろにささえて、情けなげに立ちすくみながら、
「ま、ちょっと」
 と呼びかけた。事務長の後ろに続こうとした岡と呼ばれた青年はこれを聞くといち早く足を止めて葉子のほうを振り向いた。
「始めてお知り合いになったばかりですのに、すぐお心安だてをしてほんとうになんでございますが、ちょっとお肩を貸していただけませんでしょうか。なんですか足の先が凍ったようになってしまって……」
 と葉子は美しく顔をしかめて見せた。岡はそれらの言葉が拳(こぶし)となって続けさまに胸を打つとでもいったように、しばらくの間どぎまぎ躊躇(ちゅうちょ)していたが、やがて思い切ったふうで、黙ったまま引き返して来た。身のたけも肩幅も葉子とそう違わないほどな華車(きゃしゃ)なからだをわなわなと震わせているのが、肩に手をかけないうちからよく知れた。事務長は振り向きもしないで、靴(くつ)のかかとをこつこつと鳴らしながら早二三間(げん)のかなたに遠ざかっていた。
 鋭敏な馬の皮膚のようにだちだちと震える青年の肩におぶいかかりながら、葉子は黒い大きな事務長の後ろ姿を仇(あだ)かたきでもあるかのように鋭く見つめてそろそろと歩いた。西洋酒の芳醇(ほうじゅん)な甘い酒の香が、まだ酔いからさめきらない事務長の身のまわりを毒々しい靄(もや)となって取り巻いていた。放縦という事務長の心(しん)の臓は、今不用心に開かれている。あの無頓着(むとんじゃく)そうな肩のゆすりの陰にすさまじい desire の火が激しく燃えているはずである。葉子は禁断の木の実を始めてくいかいだ原人のような渇欲をわれにもなくあおりたてて、事務長の心の裏をひっくり返して縫い目を見窮めようとばかりしていた。おまけに青年の肩に置いた葉子の手は、華車(きゃしゃ)とはいいながら、男性的な強い弾力を持つ筋肉の震えをまざまざと感ずるので、これらの二人(ふたり)の男が与える奇怪な刺激はほしいままにからまりあって、恐ろしい心を葉子に起こさせた。木村……何をうるさい、よけいな事はいわずと黙って見ているがいい。心の中をひらめき過ぎる断片的な影を葉子は枯れ葉のように払いのけながら、目の前に見る蠱惑(こわく)におぼれて行こうとのみした。口から喉(のど)はあえぎたいほどにひからびて、岡の肩に乗せた手は、生理的な作用から冷たく堅くなっていた。そして熱をこめてうるんだ目を見張って、事務長の後ろ姿ばかりを見つめながら、五体はふらふらとたわいもなく岡のほうによりそった。吐き出す気息(いき)は燃え立って岡の横顔をなでた。事務長は油断なく角燈で左右を照らしながら甲板の整頓(せいとん)に気を配って歩いている。
 葉子はいたわるように岡の耳に口をよせて、
「あなたはどちらまで」
 と聞いてみた。その声はいつものように澄んではいなかった。そして気を許した女からばかり聞かれるような甘たるい親しさがこもっていた。岡の肩は感激のために一入(ひとしお)震えた。頓(とみ)には返事もし得ないでいたようだったが、やがて臆病(おくびょう)そうに、
「あなたは」
 とだけ聞き返して、熱心に葉子の返事を待つらしかった。
「シカゴまで参るつもりですの」
「僕も……わたしもそうです」
 岡は待ち設けたように声を震わしながらきっぱりと答えた。
「シカゴの大学にでもいらっしゃいますの」
 岡は非常にあわてたようだった。なんと返事をしたものか恐ろしくためらうふうだったが、やがてあいまいに口の中で、
「えゝ」
 とだけつぶやいて黙ってしまった。そのおぼこさ……葉子は闇(やみ)の中で目をかがやかしてほほえんだ。そして岡をあわれんだ。
 しかし青年をあわれむと同時に葉子の目は稲妻のように事務長の後ろ姿を斜めにかすめた。青年をあわれむ自分は事務長にあわれまれているのではないか。始終一歩ずつ上手(うわて)を行くような事務長が一種の憎しみをもってながめやられた。かつて味わった事のないこの憎しみの心を葉子はどうする事もできなかった。
 二人(ふたり)に別れて自分の船室に帰った葉子はほとんど delirium の状態にあった。眼睛(ひとみ)は大きく開いたままで、盲目(めくら)同様に部屋(へや)の中の物を見る事をしなかった。冷えきった手先はおどおどと両の袂(たもと)をつかんだり離したりしていた。葉子は夢中でショールとボアとをかなぐり捨て、もどかしげに帯だけほどくと、髪も解かずに寝台の上に倒れかかって、横になったまま羽根枕(まくら)を両手でひしと抱いて顔を伏せた。なぜと知らぬ涙がその時堰(せき)を切ったように流れ出した。そして涙はあとからあとからみなぎるようにシーツを湿(うるお)しながら、充血した口びるは恐ろしい笑いをたたえてわなわなと震えていた。
 一時間ほどそうしているうちに泣き疲れに疲れて、葉子はかけるものもかけずにそのまま深い眠りに陥って行った。けばけばしい電燈の光はその翌日の朝までこのなまめかしくもふしだらな葉子の丸寝姿(まるねすがた)を画(か)いたように照らしていた。

       一四

 なんといっても船旅は単調だった。たとい日々夜々に一瞬もやむ事なく姿を変える海の波と空の雲とはあっても、詩人でもないなべての船客は、それらに対して途方に暮れた倦怠(けんたい)の視線を投げるばかりだった。地上の生活からすっかり遮断(しゃだん)された船の中には、ごく小さな事でも目新しい事件の起こる事のみが待ち設けられていた。そうした生活では葉子が自然に船客の注意の焦点となり、話題の提供者となったのは不思議もない。毎日毎日凍りつくような濃霧の間を、東へ東へと心細く走り続ける小さな汽船の中の社会は、あらわには知れないながら、何かさびしい過去を持つらしい、妖艶(ようえん)な、若い葉子の一挙一動を、絶えず興味深くじっと見守るように見えた。
 かの奇怪な心の動乱の一夜を過ごすと、その翌日から葉子はまたふだんのとおりに、いかにも足もとがあやうく見えながら少しも破綻(はたん)を示さず、ややもすれば他人の勝手になりそうでいて、よそからは決して動かされない女になっていた。始めて食堂に出た時のつつましやかさに引きかえて、時には快活な少女のように晴れやかな顔つきをして、船客らと言葉をかわしたりした。食堂に現われる時の葉子の服装だけでも、退屈に倦(うん)じ果てた人々には、物好きな期待を与えた。ある時は葉子は慎み深い深窓(しんそう)の婦人らしく上品に、ある時は素養の深い若いディレッタントのように高尚(こうしょう)に、またある時は習俗から解放された adventuress とも思われる放胆を示した。その極端な変化が一日の中に起こって来ても、人々はさして怪しく思わなかった。それほど葉子の性格には複雑なものが潜んでいるのを感じさせた。絵島丸が横浜の桟橋につながれている間から、人々の注意の中心となっていた田川夫人を、海気にあって息気(いき)をふき返した人魚のような葉子のかたわらにおいて見ると、身分、閲歴、学殖、年齢などといういかめしい資格が、かえって夫人を固い古ぼけた輪郭にはめこんで見せる結果になって、ただ神体のない空虚な宮殿のような空(そら)いかめしい興なさを感じさせるばかりだった。女の本能の鋭さから田川夫人はすぐそれを感づいたらしかった。夫人の耳もとに響いて来るのは葉子のうわさばかりで、夫人自身の評判は見る見る薄れて行った。ともすると田川博士(はかせ)までが、夫人の存在を忘れたような振る舞いをする、そう夫人を思わせる事があるらしかった。食堂の卓をはさんで向かい合う夫妻が他人同士のような顔をして互い互いにぬすみ見をするのを葉子がすばやく見て取った事などもあった。といって今まで自分の子供でもあしらうように振る舞っていた葉子に対して、今さら夫人は改まった態度も取りかねていた。よくも仮面をかぶって人を陥れたという女らしいひねくれた妬(ねた)みひがみが、明らかに夫人の表情に読まれ出した。しかし実際の処置としては、くやしくても虫を殺して、自分を葉子まで引き下げるか、葉子を自分まで引き上げるよりしかたがなかった。夫人の葉子に対する仕打ちは戸板をかえすように違って来た。葉子は知らん顔をして夫人のするがままに任せていた。葉子はもとより夫人のあわてたこの処置が夫人には致命的な不利益であり、自分には都合のいい仕合わせであるのを知っていたからだ。案のじょう、田川夫人のこの譲歩は、夫人に何らかの同情なり尊敬なりが加えられる結果とならなかったばかりでなく、その勢力はますます下り坂になって、葉子はいつのまにか田川夫人と対等で物をいい合っても少しも不思議とは思わせないほどの高みに自分を持ち上げてしまっていた。落ち目になった夫人は年がいもなくしどろもどろになっていた。恐ろしいほどやさしく親切に葉子をあしらうかと思えば、皮肉らしくばか丁寧に物をいいかけたり、あるいは突然路傍の人に対するようなよそよそしさを装って見せたりした。死にかけた蛇(へび)ののたうち回るのを見やる蛇使いのように、葉子は冷ややかにあざ笑いながら、夫人の心の葛藤(かっとう)を見やっていた。
 単調な船旅にあき果てて、したたか刺激に飢えた男の群れは、この二人(ふたり)の女性を中心にして知らず知らず渦巻(うずま)きのようにめぐっていた。田川夫人と葉子との暗闘は表面には少しも目に立たないで戦われていたのだけれども、それが男たちに自然に刺激を与えないではおかなかった。平らな水に偶然落ちて来た微風のひき起こす小さな波紋ほどの変化でも、船の中では一(ひと)かどの事件だった。男たちはなぜともなく一種の緊張と興味とを感ずるように見えた。
 田川夫人は微妙な女の本能と直覚とで、じりじりと葉子の心のすみずみを探り回しているようだったが、ついにここぞという急所をつかんだらしく見えた。それまで事務長に対して見下したような丁寧さを見せていた夫人は、見る見る態度を変えて、食卓でも二人は、席が隣り合っているからという以上な親しげな会話を取りかわすようになった。田川博士までが夫人の意を迎えて、何かにつけて事務長の室(へや)に繁(しげ)く出入りするばかりか、事務長はたいていの夜は田川夫妻の部屋(へや)に呼び迎えられた。田川博士はもとより船の正客である。それをそらすような事務長ではない。倉地は船医の興録(こうろく)までを手伝わせて、田川夫妻の旅情を慰めるように振る舞った。田川博士の船室には夜おそくまで灯(ひ)がかがやいて、夫人の興ありげに高く笑う声が室外まで聞こえる事が珍しくなかった。
 葉子は田川夫人のこんな仕打ちを受けても、心の中で冷笑(あざわら)っているのみだった。すでに自分が勝ち味になっているという自覚は、葉子に反動的な寛大な心を与えて、夫人が事務長を□(とりこ)にしようとしている事などはてんで問題にはしまいとした。夫人はよけいな見当違いをして、痛くもない腹を探っている、事務長がどうしたというのだ。母の胎(はら)を出るとそのままなんの訓練も受けずに育ち上がったようなぶしつけな、動物性の勝った、どんな事をして来たのか、どんな事をするのかわからないようなたかが事務長になんの興味があるものか。あんな人間に気を引かれるくらいなら、自分はとうに喜んで木村の愛になずいているのだ。見当違いもいいかげんにするがいい。そう歯がみをしたいくらいな気分で思った。
 ある夕方葉子はいつものとおり散歩しようと甲板(かんぱん)に出て見ると、はるか遠い手欄(てすり)の所に岡がたった一人(ひとり)しょんぼりとよりかかって、海を見入っていた。葉子はいたずら者らしくそっと足音を盗んで、忍び忍び近づいて、いきなり岡と肩をすり合わせるようにして立った。岡は不意に人が現われたので非常に驚いたふうで、顔をそむけてその場を立ち去ろうとするのを、葉子は否応(いやおう)なしに手を握って引き留めた。岡が逃げ隠れようとするのも道理、その顔には涙のあとがまざまざと残っていた。少年から青年になったばかりのような、内気らしい、小柄(こがら)な岡の姿は、何もかも荒々しい船の中ではことさらデリケートな可憐(かれん)なものに見えた。葉子はいたずらばかりでなく、この青年に一種の淡々(あわあわ)しい愛を覚えた。
「何を泣いてらしったの」
 小首を存分傾けて、少女が少女に物を尋ねるように、肩に手を置きそえながら聞いてみた。
「僕……泣いていやしません」
 岡は両方の頬(ほお)を紅(あか)く彩(いろど)って、こういいながらくるりとからだをそっぽうに向け換えようとした。それがどうしても少女のようなしぐさだった。抱きしめてやりたいようなその肉体と、肉体につつまれた心。葉子はさらにすり寄った。
「いゝえいゝえ泣いてらっしゃいましたわ」
 岡は途方に暮れたように目の下の海をながめていたが、のがれる術(すべ)のないのを覚(さと)って、大っぴらにハンケチをズボンのポケットから出して目をぬぐった。そして少し恨むような目つきをして、始めてまともに葉子を見た。口びるまでが苺(いちご)のように紅(あか)くなっていた。青白い皮膚に嵌(は)め込まれたその紅(あか)さを、色彩に敏感な葉子は見のがす事ができなかった。岡は何かしら非常に興奮していた。その興奮してぶるぶる震えるしなやかな手を葉子は手欄(てすり)ごとじっと押えた。
「さ、これでおふき遊ばせ」
 葉子の袂(たもと)からは美しい香(かお)りのこもった小さなリンネルのハンケチが取り出された。
「持ってるんですから」
 岡は恐縮したように自分のハンケチを顧みた。
「何をお泣きになって……まあわたしったらよけいな事まで伺って」
「何いいんです……ただ海を見たらなんとなく涙ぐんでしまったんです。からだが弱いもんですからくだらない事にまで感傷的になって困ります。……なんでもない……」
 葉子はいかにも同情するように合点合点した。岡が葉子とこうして一緒にいるのをひどくうれしがっているのが葉子にはよく知れた。葉子はやがて自分のハンケチを手欄(てすり)の上においたまま、
「わたしの部屋(へや)へもよろしかったらいらっしゃいまし。またゆっくりお話ししましょうね」
 となつこくいってそこを去った。
 岡は決して葉子の部屋を訪れる事はしなかったけれども、この事のあって後は、二人(ふたり)はよく親しく話し合った。岡は人なじみの悪い、話の種(たね)のない、ごく初心(うぶ)な世慣れない青年だったけれども、葉子はわずかなタクトですぐ隔てを取り去ってしまった。そして打ち解けて見ると彼は上品な、どこまでも純粋な、そして慧(さ)かしい青年だった。若い女性にはそのはにかみやな所から今まで絶えて接していなかったので、葉子にはすがり付くように親しんで来た。葉子も同性の恋をするような気持ちで岡をかわいがった。
 そのころからだ、事務長が岡に近づくようになったのは。岡は葉子と話をしない時はいつでも事務長と散歩などをしていた。しかし事務長の親友とも思われる二三の船客に対しては口もきこうとはしなかった。岡は時々葉子に事務長のうわさをして聞かした。そして表面はあれほど粗暴のように見えながら、考えの変わった、年齢や位置などに隔てをおかない、親切な人だといったりした。もっと交際してみるといいともいった。そのたびごとに葉子は激しく反対した。あんな人間を岡が話し相手にするのは実際不思議なくらいだ。あの人のどこに岡と共通するような優(すぐ)れた所があろうなどとからかった。
 葉子に引き付けられたのは岡ばかりではなかった。午餐(ごさん)が済んで人々がサルンに集まる時などは団欒(だんらん)がたいてい三つくらいに分かれてできた。田川夫妻の周囲にはいちばん多数の人が集まった。外国人だけの団体から田川のほうに来る人もあり、日本の政治家実業家連はもちろんわれ先にそこに馳(は)せ参じた。そこからだんだん細く糸のようにつながれて若い留学生とか学者とかいう連中が陣を取り、それからまただんだん太くつながれて、葉子と少年少女らの群れがいた。食堂で不意の質問に辟易(へきえき)した外交官補などは第一の連絡の綱となった。衆人の前では岡は遠慮するようにあまり葉子に親しむ様子は見せずに不即不離の態度を保っていた。遠慮会釈なくそんな所で葉子になれ親しむのは子供たちだった。まっ白なモスリンの着物を着て赤い大きなリボンを装った少女たちや、水兵服で身軽に装った少年たちは葉子の周囲に花輪のように集まった。葉子がそういう人たちをかたみがわりに抱いたりかかえたりして、お伽話(とぎばなし)などして聞かせている様子は、船中の見ものだった。どうかするとサルンの人たちは自分らの間の話題などは捨てておいてこの可憐(かれん)な光景をうっとり見やっているような事もあった。
 ただ一つこれらの群れからは全く没交渉な一団があった。それは事務長を中心にした三四人の群れだった。いつでも部屋の一隅(ぐう)の小さな卓を囲んで、その卓の上にはウイスキー用の小さなコップと水とが備えられていた。いちばんいい香(にお)いの煙草(たばこ)の煙もそこから漂って来た。彼らは何かひそひそと語り合っては、時々傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な高い笑い声を立てた。そうかと思うとじっと田川の群れの会話に耳を傾けていて、遠くのほうから突然皮肉の茶々を入れる事もあった。だれいうとなく人々はその一団を犬儒派(けんじゅは)と呼びなした。彼らがどんな種類の人でどんな職業に従事しているかを知る者はなかった。岡などは本能的にその人たちを忌(い)みきらっていた。葉子も何かしら気のおける連中だと思った。そして表面はいっこう無頓着(むとんじゃく)に見えながら、自分に対して充分の観察と注意とを怠っていないのを感じていた。
 どうしてもしかし葉子には、船にいるすべての人の中で事務長がいちばん気になった。そんなはず、理由のあるはずはないと自分をたしなめてみてもなんのかいもなかった。サルンで子供たちと戯れている時でも、葉子は自分のして見せる蠱惑的(こわくてき)な姿態(しな)がいつでも暗々裡(あんあんり)に事務長のためにされているのを意識しないわけには行かなかった。事務長がその場にいない時は、子供たちをあやし楽しませる熱意さえ薄らぐのを覚えた。そんな時に小さい人たちはきまってつまらなそうな顔をしたりあくびをしたりした。葉子はそうした様子を見るとさらに興味を失った。そしてそのまま立って自分の部屋(へや)に帰ってしまうような事をした。それにも係わらず事務長はかつて葉子に特別な注意を払うような事はないらしく見えた。それが葉子をますます不快にした。夜など甲板(かんぱん)の上をそぞろ歩きしている葉子が、田川博士(はかせ)の部屋の中から例の無遠慮な事務長の高笑いの声をもれ聞いたりなぞすると、思わずかっとなって、鉄の壁すら射通しそうな鋭いひとみを声のするほうに送らずにはいられなかった。
 ある日の午後、それは雲行きの荒い寒い日だった。船客たちは船の動揺に辟易(へきえき)して自分の船室に閉じこもるのが多かったので、サルンががら明きになっているのを幸い、葉子は岡を誘い出して、部屋のかどになった所に折れ曲がって据(す)えてあるモロッコ皮のディワンに膝(ひざ)と膝を触れ合わさんばかり寄り添って腰をかけて、トランプをいじって遊んだ。岡は日ごろそういう遊戯には少しも興味を持っていなかったが、葉子と二人(ふたり)きりでいられるのを非常に幸福に思うらしく、いつになく快活に札をひねくった。その細いしなやかな手からぶきっちょうに札が捨てられたり取られたりするのを葉子はおもしろいものに見やりながら、断続的に言葉を取りかわした。
「あなたもシカゴにいらっしゃるとおっしゃってね、あの晩」
「えゝいいました。……これで切ってもいいでしょう」
「あらそんなものでもったいない……もっと低いものはおありなさらない?……シカゴではシカゴ大学にいらっしゃるの?」
「これでいいでしょうか……よくわからないんです」
「よくわからないって、そりゃおかしゅうござんすわね、そんな事お決めなさらずに米国(あっち)にいらっしゃるって」
「僕は……」
「これでいただきますよ……僕は……何」
「僕はねえ」
「えゝ」
 葉子はトランプをいじるのをやめて顔を上げた。岡は懺悔(ざんげ)でもする人のように、面(おもて)を伏せて紅(あか)くなりながら札をいじくっていた。
「僕のほんとうに行く所はボストンだったのです。そこに僕の家で学資をやってる書生がいて僕の監督をしてくれる事になっていたんですけれど……」
 葉子は珍しい事を聞くように岡に目をすえた。岡はますますいい憎そうに、
「あなたにおあい申してから僕もシカゴに行きたくなってしまったんです」
 とだんだん語尾を消してしまった。なんという可憐(かれん)さ……葉子はさらに岡にすり寄った。岡は真剣になって顔まで青ざめて来た。
「お気にさわったら許してください……僕はただ……あなたのいらっしゃる所にいたいんです、どういうわけだか……」
 もう岡は涙ぐんでいた。葉子は思わず岡の手を取ってやろうとした。
 その瞬間にいきなり事務長が激しい勢いでそこにはいって来た。そして葉子には目もくれずに激しく岡を引っ立てるようにして散歩に連れ出してしまった。岡は唯々(いい)としてそのあとにしたがった。
 葉子はかっとなって思わず座から立ち上がった。そして思い存分事務長の無礼を責めようと身構えした。その時不意に一つの考えが葉子の頭をひらめき通った。「事務長はどこかで自分たちを見守っていたに違いない」
 突っ立ったままの葉子の顔に、乳房(ちぶさ)を見せつけられた子供のようなほほえみがほのかに浮かび上がった。

       一五

 葉子はある朝思いがけなく早起きをした。米国に近づくにつれて緯度はだんだん下がって行ったので、寒気も薄らいでいたけれども、なんといっても秋立った空気は朝ごとに冷(ひ)え冷(び)えと引きしまっていた。葉子は温室のような船室からこのきりっとした空気に触れようとして甲板(かんぱん)に出てみた。右舷(うげん)を回って左舷に出ると計らずも目の前に陸影を見つけ出して、思わず足を止めた。そこには十日(とおか)ほど念頭から絶え果てていたようなものが海面から浅くもれ上がって続いていた。葉子は好奇な目をかがやかしながら、思わず一たんとめた足を動かして手欄(てすり)に近づいてそれを見渡した。オレゴン松がすくすくと白波の激しくかみよせる岸べまで密生したバンクーバー島の低い山なみがそこにあった。物すごく底光りのするまっさおな遠洋の色は、いつのまにか乱れた波の物狂わしく立ち騒ぐ沿海の青灰色に変わって、その先に見える暗緑の樹林はどんよりとした雨空の下に荒涼として横たわっていた。それはみじめな姿だった。距(へだた)りの遠いせいか船がいくら進んでも景色にはいささかの変化も起こらないで、荒涼たるその景色はいつまでも目の前に立ち続いていた。古綿(ふるわた)に似た薄雲をもれる朝日の光が力弱くそれを照らすたびごとに、煮え切らない影と光の変化がかすかに山と海とをなでて通るばかりだ。長い長い海洋の生活に慣れた葉子の目には陸地の印象はむしろきたないものでも見るように不愉快だった。もう三日ほどすると船はいやでもシヤトルの桟橋につながれるのだ。向こうに見えるあの陸地の続きにシヤトルはある。あの松の林が切り倒されて少しばかりの平地となった所に、ここに一つかしこに一つというように小屋が建ててあるが、その小屋の数が東に行くにつれてだんだん多くなって、しまいには一かたまりの家屋ができる。それがシヤトルであるに違いない。うらさびしく秋風の吹きわたるその小さな港町の桟橋に、野獣のような諸国の労働者が群がる所に、この小さな絵島丸が疲れきった船体を横たえる時、あの木村が例のめまぐるしい機敏さで、アメリカ風(ふう)になり済ましたらしい物腰で、まわりの景色に釣(つ)り合わない景気のいい顔をして、船梯子(ふなばしご)を上って来る様子までが、葉子には見るように想像された。
「いやだいやだ。どうしても木村と一緒になるのはいやだ。私は東京に帰ってしまおう」
 葉子はだだっ子らしく今さらそんな事を本気に考えてみたりしていた。
 水夫長と一人(ひとり)のボーイとが押し並んで、靴(くつ)と草履(ぞうり)との音をたてながらやって来た。そして葉子のそばまで来ると、葉子が振り返ったので二人(ふたり)ながら慇懃(いんぎん)に、
「お早うございます」
 と挨拶(あいさつ)した。その様子がいかにも親しい目上に対するような態度で、ことに水夫長は、
「御退屈でございましたろう。それでもこれであと三日になりました。今度の航海にはしかしお陰様で大助かりをしまして、ゆうべからきわだってよくなりましてね」
 と付け加えた。

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