或る女
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著者名:有島武郎 

 物々しい銅鑼(どら)の響きは左舷から右舷に回って、また船首のほうに聞こえて行こうとしていた。船員も乗客も申し合わしたように葉子のほうを見守っていた。先刻から手持ちぶさたそうにただ立って成り行きを見ていた五十川女史は思いきって近寄って来て、若者を葉子から引き離そうとしたが、若者はむずかる子供のように地だんだを踏んでますます葉子に寄り添うばかりだった。船首のほうに群がって仕事をしながら、この様子を見守っていた水夫たちは一斉(いっせい)に高く笑い声を立てた。そしてその中の一人はわざと船じゅうに聞こえ渡るようなくさめをした。抜錨(ばつびょう)の時刻は一秒一秒に逼(せま)っていた。物笑いの的(まと)になっている、そう思うと葉子の心はいとしさから激しいいとわしさに変わって行った。
「さ、お放しください、さ」
 ときわめて冷酷にいって、葉子は助けを求めるようにあたりを見回した。
 田川博士のそばにいて何か話をしていた一人の大兵(たいひょう)な船員がいたが、葉子の当惑しきった様子を見ると、いきなり大股(おおまた)に近づいて来て、
「どれ、わたしが下までお連れしましょう」
 というや否や、葉子の返事も待たずに若者を事もなく抱きすくめた。若者はこの乱暴にかっとなって怒り狂ったが、その船員は小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右わきにかいこんで、やすやすと舷梯(げんてい)を降りて行った。五十川女史はあたふたと葉子に挨拶(あいさつ)もせずにそのあとに続いた。しばらくすると若者は桟橋の群集の間に船員の手からおろされた。
 けたたましい汽笛が突然鳴りはためいた。田川夫妻の見送り人たちはこの声で活を入れられたようになって、どよめき渡りながら、田川夫妻の万歳をもう一度繰り返した。若者を桟橋に連れて行った、かの巨大な船員は、大きな体躯(たいく)を猿(ましら)のように軽くもてあつかって、音も立てずに桟橋からずしずしと離れて行く船の上にただ一条の綱を伝って上がって来た。人々はまたその早業(はやわざ)に驚いて目を見張った。
 葉子の目は怒気を含んで手欄(てすり)からしばらくの間かの若者を見据えていた。若者は狂気のように両手を広げて船に駆け寄ろうとするのを、近所に居合わせた三四人の人があわてて引き留める、それをまたすり抜けようとして組み伏せられてしまった。若者は組み伏せられたまま左の腕を口にあてがって思いきりかみしばりながら泣き沈んだ。その牛のうめき声のような泣き声が気疎(けうと)く船の上まで聞こえて来た。見送り人は思わず鳴りを静めてこの狂暴な若者に目を注いだ。葉子も葉子で、姿も隠さず手欄(てすり)に片手をかけたまま突っ立って、同じくこの若者を見据えていた。といって葉子はその若者の上ばかりを思っているのではなかった。自分でも不思議だと思うような、うつろな余裕がそこにはあった。古藤が若者のほうには目もくれずにじっと足もとを見つめているのにも気が付いていた。死んだ姉の晴れ着を借り着していい心地(ここち)になっているような叔母(おば)の姿も目に映っていた。船のほうに後ろを向けて(おそらくそれは悲しみからばかりではなかったろう。その若者の挙動が老いた心をひしいだに違いない)手ぬぐいをしっかりと両眼にあてている乳母(うば)も見のがしてはいなかった。
 いつのまに動いたともなく船は桟橋から遠ざかっていた。人の群れが黒蟻(くろあり)のように集まったそこの光景は、葉子の目の前にひらけて行く大きな港の景色の中景になるまでに小さくなって行った。葉子の目は葉子自身にも疑われるような事をしていた。その目は小さくなった人影の中から乳母の姿を探り出そうとせず、一種のなつかしみを持つ横浜の市街を見納めにながめようとせず、凝然として小さくうずくまる若者ののらしい黒点を見つめていた。若者の叫ぶ声が、桟橋の上で打ち振るハンケチの時々ぎらぎらと光るごとに、葉子の頭の上に張り渡された雨よけの帆布(ほぬの)の端(はし)から余滴(したたり)がぽつりぽつりと葉子の顔を打つたびに、断続して聞こえて来るように思われた。
「葉子さん、あなたは私を見殺しにするんですか……見殺しにするん……」

       一〇

 始めての旅客も物慣れた旅客も、抜錨(ばつびょう)したばかりの船の甲板に立っては、落ち付いた心でいる事ができないようだった。跡始末のために忙(せわ)しく右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの興奮にじっとしてはいられないような顔つきをして、乗客は一人(ひとり)残らず甲板に集まって、今まで自分たちがそば近く見ていた桟橋のほうに目を向けていた。葉子もその様子だけでいうと、他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように手欄(てすり)によりかかって、静かな春雨(はるさめ)のように降っている雨のしずくに顔をなぶらせながら、波止場(はとば)のほうをながめていたが、けれどもそのひとみにはなんにも映ってはいなかった。その代わり目と脳との間と覚(おぼ)しいあたりを、親しい人や疎(うと)い人が、何かわけもなくせわしそうに現われ出て、銘々いちばん深い印象を与えるような動作をしては消えて行った。葉子の知覚は半分眠ったようにぼんやりして注意するともなくその姿に注意をしていた。そしてこの半睡の状態が破れでもしたらたいへんな事になると、心のどこかのすみでは考えていた。そのくせ、それを物々しく恐れるでもなかった。からだまでが感覚的にしびれるような物うさを覚えた。
 若者が現われた。(どうしてあの男はそれほどの因縁(いんねん)もないのに執念(しゅうね)く付きまつわるのだろうと葉子は他人事(ひとごと)のように思った)その乱れた美しい髪の毛が、夕日とかがやくまぶしい光の中で、ブロンドのようにきらめいた。かみしめたその左の腕から血がぽたぽたとしたたっていた。そのしたたりが腕から離れて宙に飛ぶごとに、虹色(にじいろ)にきらきらと巴(ともえ)を描いて飛び跳(おど)った。
「……わたしを見捨てるん……」
 葉子はその声をまざまざと聞いたと思った時、目がさめたようにふっとあらためて港を見渡した。そして、なんの感じも起こさないうちに、熟睡からちょっと驚かされた赤児(あかご)が、またたわいなく眠りに落ちて行くように、再び夢ともうつつともない心に返って行った。港の景色はいつのまにか消えてしまって、自分で自分の腕にしがみ付いた若者の姿が、まざまざと現われ出た。葉子はそれを見ながらどうしてこんな変な心持ちになるのだろう。血のせいとでもいうのだろうか。事によるとヒステリーにかかっているのではないかしらんなどとのんきに自分の身の上を考えていた。いわば悠々(ゆうゆう)閑々と澄み渡った水の隣に、薄紙一重(ひとえ)の界(さかい)も置かず、たぎり返って渦(うず)巻き流れる水がある。葉子の心はその静かなほうの水に浮かびながら、滝川の中にもまれもまれて落ちて行く自分というものを他人事(ひとごと)のようにながめやっているようなものだった。葉子は自分の冷淡さにあきれながら、それでもやっぱり驚きもせず、手欄(てすり)によりかかってじっと立っていた。
「田川法学博士(はかせ)」
 葉子はまたふといたずら者らしくこんなことを思っていた。が、田川夫妻が自分と反対の舷(げん)の籐椅子(とういす)に腰かけて、世辞世辞しく近寄って来る同船者と何か戯談口(じょうだんぐち)でもきいているとひとりで決めると、安心でもしたように幻想はまたかの若者にかえって行った。葉子はふと右の肩に暖かみを覚えるように思った。そこには若者の熱い涙が浸(し)み込んでいるのだ。葉子は夢遊病者のような目つきをして、やや頭を後ろに引きながら肩の所を見ようとすると、その瞬間、若者を船から桟橋に連れ出した船員の事がはっと思い出されて、今まで盲(めし)いていたような目に、まざまざとその大きな黒い顔が映った。葉子はなお夢みるような目を見開いたまま、船員の濃い眉(まゆ)から黒い口髭(くちひげ)のあたりを見守っていた。
 船はもうかなり速力を早めて、霧のように降るともなく降る雨の中を走っていた。舷側(げんそく)から吐き出される捨て水の音がざあざあと聞こえ出したので、遠い幻想の国から一足(そく)飛びに取って返した葉子は、夢ではなく、まがいもなく目の前に立っている船員を見て、なんという事なしにぎょっとほんとうに驚いて立ちすくんだ。始めてアダムを見たイヴのように葉子はまじまじと珍しくもないはずの一人(ひとり)の男を見やった。
「ずいぶん長い旅ですが、何、もうこれだけ日本が遠くなりましたんだ」
 といってその船員は右手を延べて居留地の鼻を指さした。がっしりした肩をゆすって、勢いよく水平に延ばしたその腕からは、強くはげしく海上に生きる男の力がほとばしった。葉子は黙ったまま軽くうなずいた、胸の下の所に不思議な肉体的な衝動をかすかに感じながら。
「お一人(ひとり)ですな」
 塩がれた強い声がまたこう響いた。葉子はまた黙ったまま軽くうなずいた。
 船はやがて乗りたての船客の足もとにかすかな不安を与えるほどに速力を早めて走り出した。葉子は船員から目を移して海のほうを見渡して見たが、自分のそばに一人の男が立っているという、強い意識から起こって来る不安はどうしても消す事ができなかった。葉子にしてはそれは不思議な経験だった。こっちから何か物をいいかけて、この苦しい圧迫を打ち破ろうと思ってもそれができなかった。今何か物をいったらきっとひどい不自然な物のいいかたになるに決まっている。そうかといってその船員には無頓着(むとんじゃく)にもう一度前のような幻想に身を任せようとしてもだめだった。神経が急にざわざわと騒ぎ立って、ぼーっと煙(けぶ)った霧雨(きりさめ)のかなたさえ見とおせそうに目がはっきりして、先ほどのおっかぶさるような暗愁は、いつのまにかはかない出来心のしわざとしか考えられなかった。その船員は傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に衣嚢(かくし)の中から何か書いた物を取り出して、それを鉛筆でチェックしながら、時々思い出したように顔を引いて眉(まゆ)をしかめながら、襟(えり)の折り返しについたしみを、親指の爪(つめ)でごしごしと削ってははじいていた。
 葉子の神経はそこにいたたまれないほどちかちかと激しく働き出した。自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく大股(おおまた)ではいり込んで来る邪魔者でも避けるように、その船員から遠ざかろうとして、つと手欄(てすり)から離れて自分の船室のほうに階子段(はしごだん)を降りて行こうとした。
「どこにおいでです」
 後ろから、葉子の頭から爪先(つまさき)までを小さなものででもあるように、一目に籠(こ)めて見やりながら、その船員はこう尋ねた。葉子は、
「船室まで参りますの」
 と答えないわけには行かなかった。その声は葉子の目論見(もくろみ)に反して恐ろしくしとやかな響きを立てていた。するとその男は大股(おおまた)で葉子とすれすれになるまで近づいて来て、
「船室(カビン)ならば永田(ながた)さんからのお話もありましたし、おひとり旅のようでしたから、医務室のわきに移しておきました。御覧になった前の部屋(へや)より少し窮屈かもしれませんが、何かに御便利ですよ。御案内しましょう」
 といいながら葉子をすり抜けて先に立った。何か芳醇(ほうじゅん)な酒のしみと葉巻煙草(シガー)とのにおいが、この男固有の膚のにおいででもあるように強く葉子の鼻をかすめた。葉子は、どしんどしんと狭い階子段(はしごだん)を踏みしめながら降りて行くその男の太い首から広い肩のあたりをじっと見やりながらそのあとに続いた。
 二十四五脚の椅子(いす)が食卓に背を向けてずらっとならべてある食堂の中ほどから、横丁(よこちょう)のような暗い廊下をちょっとはいると、右の戸に「医務室」と書いた頑丈(がんじょう)な真鍮(しんちゅう)の札がかかっていて、その向かいの左の戸には「No.12 早月葉子殿」と白墨で書いた漆塗(うるしぬ)りの札が下がっていた。船員はつかつかとそこにはいって、いきなり勢いよく医務室の戸をノックすると、高いダブル・カラーの前だけをはずして、上着を脱ぎ捨てた船医らしい男が、あたふたと細長いなま白い顔を突き出したが、そこに葉子が立っているのを目ざとく見て取って、あわてて首を引っ込めてしまった。船員は大きなはばかりのない声で、
「おい十二番はすっかり掃除(そうじ)ができたろうね」
 というと、医務室の中からは女のような声で、
「さしておきましたよ。きれいになってるはずですが、御覧なすってください。わたしは今ちょっと」
 と船医は姿を見せずに答えた。
「こりゃいったい船医の私室(プライベート)なんですが、あなたのためにお明け申すっていってくれたもんですから、ボーイに掃除するようにいいつけておきましたんです。ど、きれいになっとるかしらん」
 船員はそうつぶやきながら戸をあけて一わたり中を見回した。
「むゝ、いいようです」
 そして道を開いて、衣嚢(かくし)から「日本郵船会社絵島丸(えじままる)事務長勲六等倉地三吉(くらちさんきち)」と書いた大きな名刺を出して葉子に渡しながら、
「わたしが事務長をしとります。御用があったらなんでもどうか」
 葉子はまた黙ったままうなずいてその大きな名刺を手に受けた。そして自分の部屋(へや)ときめられたその部屋の高い閾(しきい)を越えようとすると、
「事務長さんはそこでしたか」
 と尋ねながら田川博士がその夫人と打ち連れて廊下の中に立ち現われた。事務長が帽子を取って挨拶(あいさつ)しようとしている間に、洋装の田川夫人は葉子を目ざして、スカーツの絹ずれの音を立てながらつかつかと寄って来て眼鏡(めがね)の奥から小さく光る目でじろりと見やりながら、
「五十川さんがうわさしていらしった方はあなたね。なんとかおっしゃいましたねお名は」
 といった。この「なんとかおっしゃいましたね」という言葉が、名もないものをあわれんで見てやるという腹を充分に見せていた。今まで事務長の前で、珍しく受け身になっていた葉子は、この言葉を聞くと、強い衝動を受けたようになってわれに返った。どういう態度で返事をしてやろうかという事が、いちばんに頭の中で二十日鼠(はつかねずみ)のようにはげしく働いたが、葉子はすぐ腹を決めてひどく下手(したで)に尋常に出た。「あ」と驚いたような言葉を投げておいて、丁寧に低くつむりを下げながら、
「こんな所まで……恐れ入ります。わたし早月葉(さつきよう)と申しますが、旅には不慣れでおりますのにひとり旅でございますから……」
 といってひとみを稲妻のように田川に移して、
「御迷惑ではこざいましょうが何分よろしく願います」
 とまたつむりを下げた。田川はその言葉の終わるのを待ち兼ねたように引き取って、
「何不慣れはわたしの妻も同様ですよ。何しろこの船の中には女は二人(ふたり)ぎりだからお互いです」
 とあまりなめらかにいってのけたので、妻の前でもはばかるように今度は態度を改めながら事務長に向かって、
「チャイニース・ステアレージには何人(なんにん)ほどいますか日本の女は」
 と問いかけた。事務長は例の塩から声で
「さあ、まだ帳簿もろくろく整理して見ませんから、しっかりとはわかり兼ねますが、何しろこのごろはだいぶふえました。三四十人もいますか。奥さんここが医務室です。何しろ九月といえば旧の二八月の八月ですから、太平洋のほうは暴(し)ける事もありますんだ。たまにはここにも御用ができますぞ。ちょっと船医も御紹介しておきますで」
「まあそんなに荒れますか」
 と田川夫人は実際恐れたらしく、葉子を顧みながら少し色をかえた。事務長は事もなげに、
「暴(し)けますんだずいぶん」
 と今度は葉子のほうをまともに見やってほほえみながら、おりから部屋(へや)を出て来た興録(こうろく)という船医を三人に引き合わせた。
 田川夫妻を見送ってから葉子は自分の部屋にはいった。さらぬだにどこかじめじめするような船室(カビン)には、きょうの雨のために蒸すような空気がこもっていて、汽船特有な西洋臭いにおいがことに強く鼻についた。帯の下になった葉子の胸から背にかけたあたりは汗がじんわりにじみ出たらしく、むしむしするような不愉快を感ずるので、狭苦しい寝台(バース)を取りつけたり、洗面台を据えたりしてあるその間に、窮屈に積み重ねられた小荷物を見回しながら、帯を解き始めた。化粧鏡の付いた箪笥(たんす)の上には、果物(くだもの)のかごが一つと花束が二つ載せてあった。葉子は襟前(えりまえ)をくつろげながら、だれからよこしたものかとその花束の一つを取り上げると、そのそばから厚い紙切れのようなものが出て来た。手に取って見ると、それは手札形の写真だった。まだ女学校に通っているらしい、髪を束髪(そくはつ)にした娘の半身像で、その裏には「興録さま。取り残されたる千代(ちよ)より」としてあった。そんなものを興録がしまい忘れるはずがない。わざと忘れたふうに見せて、葉子の心に好奇心なり軽い嫉妬(しっと)なりをあおり立てようとする、あまり手もとの見えすいたからくりだと思うと、葉子はさげすんだ心持ちで、犬にでもするようにぽいとそれを床の上にほうりなげた。一人(ひとり)の旅の婦人に対して船の中の男の心がどういうふうに動いているかをその写真一枚が語り貌(がお)だった、葉子はなんという事なしに小さな皮肉な笑いを口びるの所に浮かべていた。
 寝台の下に押し込んである平べったいトランクを引き出して、その中から浴衣(ゆかた)を取り出していると、ノックもせずに突然戸をあけたものがあった。葉子は思わず羞恥(しゅうち)から顔を赤らめて、引き出した派手(はで)な浴衣を楯(たて)に、しだらなく脱ぎかけた長襦袢(ながじゅばん)の姿をかくまいながら立ち上がって振り返って見ると、それは船医だった。はなやかな下着を浴衣の所々からのぞかせて、帯もなくほっそりと途方に暮れたように身を斜(しゃ)にして立った葉子の姿は、男の目にはほしいままな刺激だった。懇意ずくらしく戸もたたかなかった興録もさすがにどぎまぎして、はいろうにも出ようにも所在に窮して、閾(しきい)に片足を踏み入れたまま当惑そうに立っていた。
「飛んだふうをしていまして御免くださいまし。さ、おはいり遊ばせ。なんぞ御用でもいらっしゃいましたの」
 と葉子は笑いかまけたようにいった。興録はいよいよ度を失いながら、
「いゝえ何、今でなくってもいいのですが、元のお部屋のお枕(まくら)の下にこの手紙が残っていましたのを、ボーイが届けて来ましたんで、早くさし上げておこうと思って実は何したんでしたが……」
 といいながら衣嚢(かくし)から二通の手紙を取り出した。手早く受け取って見ると、一つは古藤が木村にあてたもの、一つは葉子にあてたものだった。興録はそれを手渡すと、一種の意味ありげな笑いを目だけに浮かべて、顔だけはいかにももっともらしく葉子を見やっていた。自分のした事を葉子もしたと興録は思っているに違いない。葉子はそう推量すると、かの娘の写真を床の上から拾い上げた。そしてわざと裏を向けながら見向きもしないで、
「こんなものがここにも落ちておりましたの。お妹さんでいらっしゃいますか。おきれいですこと」
 といいながらそれをつき出した。
 興録は何かいいわけのような事をいって部屋(へや)を出て行った。と思うとしばらくして医務室のほうから事務長のらしい大きな笑い声が聞こえて来た。それを聞くと、事務長はまだそこにいたかと、葉子はわれにもなくはっとなって、思わず着かえかけた着物の衣紋(えもん)に左手をかけたまま、うつむきかげんになって横目をつかいながら耳をそばだてた。破裂するような事務長の笑い声がまた聞こえて来た。そして医務室の戸をさっとあけたらしく、声が急に一倍大きくなって、
「Devil take it! No tame creature then,eh?」と乱暴にいう声が聞こえたが、それとともにマッチをする音がして、やがて葉巻(はまき)をくわえたままの口ごもりのする言葉で、
「もうじき検疫(けんえき)船だ。準備はいいだろうな」
 といい残したまま事務長は船医の返事も待たずに行ってしまったらしかった。かすかなにおいが葉子の部屋にも通(かよ)って来た。
 葉子は聞き耳をたてながらうなだれていた顔を上げると、正面をきって何という事なしに微笑をもらした。そしてすぐぎょっとしてあたりを見回したが、われに返って自分一人(ひとり)きりなのに安堵(あんど)して、いそいそと着物を着かえ始めた。

       一一

 絵島丸が横浜を抜錨(ばつびょう)してからもう三日(みっか)たった。東京湾を出抜けると、黒潮に乗って、金華山(きんかざん)沖あたりからは航路を東北に向けて、まっしぐらに緯度を上(のぼ)って行くので、気温は二日(ふつか)目あたりから目立って涼しくなって行った。陸の影はいつのまにか船のどの舷(げん)からもながめる事はできなくなっていた。背羽根の灰色な腹の白い海鳥が、時々思い出したようにさびしい声でなきながら、船の周囲を群れ飛ぶほかには、生き物の影とては見る事もできないようになっていた。重い冷たい潮霧(ガス)が野火(のび)の煙のように濛々(もうもう)と南に走って、それが秋らしい狭霧(さぎり)となって、船体を包むかと思うと、たちまちからっと晴れた青空を船に残して消えて行ったりした。格別の風もないのに海面は色濃く波打ち騒いだ。三日目からは船の中に盛んにスティームが通り始めた。
 葉子はこの三日というもの、一度も食堂に出ずに船室にばかり閉じこもっていた。船に酔ったからではない。始めて遠い航海を試みる葉子にしては、それが不思議なくらいたやすい旅だった。ふだん以上に食欲さえ増していた。神経に強い刺激が与えられて、とかく鬱結(うっけつ)しやすかった血液も濃く重たいなりにもなめらかに血管の中を循環し、海から来る一種の力がからだのすみずみまで行きわたって、うずうずするほどな活力を感じさせた。もらし所のないその活気が運動もせずにいる葉子のからだから心に伝わって、一種の悒鬱(ゆううつ)に変わるようにさえ思えた。
 葉子はそれでも船室を出ようとはしなかった。生まれてから始めて孤独に身を置いたような彼女は、子供のようにそれが楽しみだ[#「た」?、96-8]かったし、また船中で顔見知りのだれかれができる前に、これまでの事、これからの事を心にしめて考えてもみたいとも思った。しかし葉子が三日の間船室に引きこもり続けた心持ちには、もう少し違ったものもあった。葉子は自分が船客たちから激しい好奇の目で見られようとしているのを知っていた。立役(たてやく)は幕明きから舞台に出ているものではない。観客が待ちに待って、待ちくたぶれそうになった時分に、しずしずと乗り出して、舞台の空気を思うさま動かさねばならぬのだ。葉子の胸の中にはこんなずるがしこいいたずらな心も潜んでいたのだ。
 三日目の朝電燈が百合(ゆり)の花のしぼむように消えるころ葉子はふと深い眠りから蒸し暑さを覚えて目をさました。スティームの通って来るラディエターから、真空になった管の中に蒸汽の冷えたしたたりが落ちて立てる激しい響きが聞こえて、部屋(へや)の中は軽く汗ばむほど暖まっていた。三日の間狭い部屋の中ばかりにいてすわり疲れ寝疲れのした葉子は、狭苦しい寝台(バース)の中に窮屈に寝ちぢまった自分を見いだすと、下になった半身に軽いしびれを覚えて、からだを仰向けにした。そして一度開いた目を閉じて、美しく円味(まるみ)を持った両の腕を頭の上に伸ばして、寝乱れた髪をもてあそびながら、さめぎわの快い眠りにまた静かに落ちて行った。が、ほどもなくほんとうに目をさますと、大きく目を見開いて、あわてたように腰から上を起こして、ちょうど目通りのところにあるいちめんに水気で曇った眼窓(めまど)を長い袖(そで)で押しぬぐって、ほてった頬(ほお)をひやひやするその窓ガラスにすりつけながら外を見た、夜はほんとうには明け離れていないで、窓の向こうには光のない濃い灰色がどんよりと広がっているばかりだった。そして自分のからだがずっと高まってやがてまた落ちて行くなと思わしいころに、窓に近い舷(げん)にざあっとあたって砕けて行く波濤(はとう)が、単調な底力のある震動を船室に与えて、船はかすかに横にかしいだ。葉子は身動きもせずに目にその灰色をながめながら、かみしめるように船の動揺を味わって見た。遠く遠く来たという旅情が、さすがにしみじみと感ぜられた。しかし葉子の目には女らしい涙は浮かばなかった。活気のずんずん回復しつつあった彼女には何かパセティックな夢でも見ているような思いをさせた。
 葉子はそうしたままで、過ぐる二日の間暇にまかせて思い続けた自分の過去を夢のように繰り返していた。連絡のない終わりのない絵巻がつぎつぎに広げられたり巻かれたりした。キリストを恋い恋うて、夜も昼もやみがたく、十字架を編み込んだ美しい帯を作って献(ささ)げようと一心に、日課も何もそっちのけにして、指の先がささくれるまで編み針を動かした可憐(かれん)な少女も、その幻想の中に現われ出た。寄宿舎の二階の窓近く大きな花を豊かに開いた木蘭(もくらん)の香(にお)いまでがそこいらに漂っているようだった。国分寺(こくぶんじ)跡の、武蔵野(むさしの)の一角らしい櫟(くぬぎ)の林も現われた。すっかり少女のような無邪気な素直(すなお)な心になってしまって、孤□(こきょう)の膝(ひざ)に身も魂も投げかけながら、涙とともにささやかれる孤□の耳うちのように震えた細い言葉を、ただ「はいはい」と夢心地にうなずいてのみ込んだ甘い場面は、今の葉子とは違った人のようだった。そうかと思うと左岸の崕(がけ)の上から広瀬川(ひろせがわ)を越えて青葉山(あおばやま)をいちめんに見渡した仙台の景色がするすると開け渡った。夏の日は北国の空にもあふれ輝いて、白い礫(こいし)の河原(かわら)の間をまっさおに流れる川の中には、赤裸(あかはだか)な少年の群れが赤々とした印象を目に与えた。草を敷かんばかりに低くうずくまって、はなやかな色合いのパラソルに日をよけながら、黙って思いにふける一人(ひとり)の女――その時には彼女はどの意味からも女だった――どこまでも満足の得られない心で、だんだんと世間から埋(うず)もれて行かねばならないような境遇に押し込められようとする運命。確かに道を踏みちがえたとも思い、踏みちがえたのは、だれがさした事だと神をすらなじってみたいような思い。暗い産室も隠れてはいなかった。そこの恐ろしい沈黙の中から起こる強い快い赤児(あかご)の産声(うぶごえ)――やみがたい母性の意識――「われすでに世に勝てり」とでもいってみたい不思議な誇り――同時に重く胸を押えつける生の暗い急変。かかる時思いも設けず力強く迫って来る振り捨てた男の執着。あすをも頼み難い命の夕闇(ゆうやみ)にさまよいながら、切れ切れな言葉で葉子と最後の妥協を結ぼうとする病床の母――その顔は葉子の幻想を断ち切るほどの強さで現われ出た。思い入った決心を眉(まゆ)に集めて、日ごろの楽天的な性情にも似ず、運命と取り組むような真剣な顔つきで大事の結着を待つ木村の顔。母の死をあわれむとも悲しむとも知れない涙を目にはたたえながら、氷のように冷え切った心で、うつむいたまま、口一つきかない葉子自身の姿……そんな幻像(まぼろし)があるいはつぎつぎに、あるいは折り重なって、灰色の霧の中に動き現われた。そして記憶はだんだんと過去から現在のほうに近づいて来た。と、事務長の倉地の浅黒く日に焼けた顔と、その広い肩とが思い出された。葉子は思いもかけないものを見いだしたようにはっとなると、その幻像はたわいもなく消えて、記憶はまた遠い過去に帰って行った。それがまただんだん現在のほうに近づいて来たと思うと、最後にはきっと倉地の姿が現われ出た。
 それが葉子をいらいらさせて、葉子は始めて夢現(ゆめうつつ)の境からほんとうに目ざめて、うるさいものでも払いのけるように、眼窓(めまど)から目をそむけて寝台(バース)を離れた。葉子の神経は朝からひどく興奮していた。スティームで存分に暖まって来た船室の中の空気は息気(いき)苦しいほどだった。
 船に乗ってからろくろく運動もせずに、野菜気(やさいけ)の少ない物ばかりをむさぼり食べたので、身内の血には激しい熱がこもって、毛のさきへまでも通うようだった。寝台(バース)から立ち上がった葉子は瞑眩(めまい)を感ずるほどに上気して、氷のような冷たいものでもひしと抱きしめたい気持ちになった。で、ふらふらと洗面台のほうに行って、ピッチャーの水をなみなみと陶器製の洗面盤にあけて、ずっぷりひたした手ぬぐいをゆるく絞って、ひやっとするのを構わず、胸をあけて、それを乳房と乳房との間にぐっとあてがってみた。強いはげしい動悸(どうき)が押えている手のひらへ突き返して来た。葉子はそうしたままで前の鏡に自分の顔を近づけて見た。まだ夜の気が薄暗くさまよっている中に、頬(ほお)をほてらしながら深い呼吸をしている葉子の顔が、自分にすら物すごいほどなまめかしく映っていた。葉子は物好きらしく自分の顔に訳のわからない微笑をたたえて見た。
 それでもそのうちに葉子の不思議な心のどよめきはしずまって行った。しずまって行くにつれ、葉子は今までの引き続きでまた瞑想的(めいそうてき)な気分に引き入れられていた。しかしその時はもう夢想家ではなかった。ごく実際的な鋭い頭が針のように光ってとがっていた。葉子はぬれ手ぬぐいを洗面盤にほうりなげておいて、静かに長椅子(ながいす)に腰をおろした。
 笑い事ではない。いったい自分はどうするつもりでいるんだろう。そう葉子は出発以来の問いをもう一度自分に投げかけてみた。小さい時からまわりの人たちにはばかられるほど才はじけて、同じ年ごろの女の子とはいつでも一調子違った行きかたを、するでもなくして来なければならなかった自分は、生まれる前から運命にでも呪(のろ)われているのだろうか。それかといって葉子はなべての女の順々に通(とお)って行く道を通る事はどうしてもできなかった。通って見ようとした事は幾度あったかわからない。こうさえ行けばいいのだろうと通って来て見ると、いつでも飛んでもなく違った道を歩いている自分を見いだしてしまっていた。そしてつまずいては倒れた。まわりの人たちは手を取って葉子を起こしてやる仕方(しかた)も知らないような顔をしてただばからしくあざわらっている。そんなふうにしか葉子には思えなかった。幾度ものそんな苦い経験が葉子を片意地な、少しも人をたよろうとしない女にしてしまった。そして葉子はいわば本能の向かせるように向いてどんどん歩くよりしかたがなかった。葉子は今さらのように自分のまわりを見回して見た。いつのまにか葉子はいちばん近しいはずの人たちからもかけ離れて、たった一人(ひとり)で崕(がけ)のきわに立っていた。そこでただ一つ葉子を崕の上につないでいる綱には木村との婚約という事があるだけだ。そこに踏みとどまればよし、さもなければ、世の中との縁はたちどころに切れてしまうのだ。世の中に活(い)きながら世の中との縁が切れてしまうのだ。木村との婚約で世の中は葉子に対して最後の和睦(わぼく)を示そうとしているのだ。葉子に取って、この最後の機会をも破り捨てようというのはさすがに容易ではなかった。木村といふ首桎(くびかせ)を受けないでは生活の保障が絶え果てなければならないのだから。葉子の懐中には百五十ドルの米貨があるばかりだった。定子の養育費だけでも、米国に足をおろすや否や、すぐに木村にたよらなければならないのは目の前にわかっていた。後詰(ごづ)めとなってくれる親類の一人もないのはもちろんの事、ややともすれば親切ごかしに無いものまでせびり取ろうとする手合いが多いのだ。たまたま葉子の姉妹の内実を知って気の毒だと思っても、葉子ではというように手出しを控えるものばかりだった。木村――葉子には義理にも愛も恋も起こり得ない木村ばかりが、葉子に対するただ一人の戦士なのだ。あわれな木村は葉子の蠱惑(チャーム)に陥ったばかりで、早月家(さつきけ)の人々から否応(いやおう)なしにこの重い荷を背負わされてしまっているのだ。
 どうしてやろう。
 葉子は思い余ったその場のがれから、箪笥(たんす)の上に興録(こうろく)から受け取ったまま投げ捨てて置いた古藤の手紙を取り上げて、白い西洋封筒の一端を美しい指の爪(つめ)で丹念(たんねん)に細く破り取って、手筋は立派ながらまだどこかたどたどしい手跡でペンで走り書きした文句を読み下して見た。
「あなたはおさんどんになるという事を想像してみる事ができますか。おさんどんという仕事が女にあるという事を想像してみる事ができますか。僕はあなたを見る時はいつでもそう思って不思議な心持ちになってしまいます。いったい世の中には人を使って、人から使われるという事を全くしないでいいという人があるものでしょうか。そんな事ができうるものでしょうか。僕はそれをあなたに考えていただきたいのです。
 あなたは奇態な感じを与える人です。あなたのなさる事はどんな危険な事でも危険らしく見えません。行きづまった末にはこうという覚悟がちゃんとできているように思われるからでしょうか。
 僕があなたに始めてお目にかかったのは、この夏あなたが木村君と一緒に八幡(やわた)に避暑をしておられた時ですから、あなたについては僕は、なんにも知らないといっていいくらいです。僕は第一一般的に女というものについてなんにも知りません。しかし少しでもあなたを知っただけの心持ちからいうと、女の人というものは僕に取っては不思議な謎(なぞ)です。あなたはどこまで行ったら行きづまると思っているんです。あなたはすでに木村君で行きづまっている人なんだと僕には思われるのです。結婚を承諾した以上はその良人(おっと)に行きづまるのが女の人の当然な道ではないでしょうか。木村君で行きづまってください。木村君にあなたを全部与えてください。木村君の親友としてこれが僕の願いです。
 全体同じ年齢でありながら、あなたからは僕などは子供に見えるのでしょうから、僕のいう事などは頓着(とんじゃく)なさらないかと思いますが、子供にも一つの直覚はあります。そして子供はきっぱりした物の姿が見たいのです。あなたが木村君の妻になると約束した以上は、僕のいう事にも権威があるはずだと思います。
 僕はそうはいいながら一面にはあなたがうらやましいようにも、憎いようにも、かわいそうなようにも思います。あなたのなさる事が僕の理性を裏切って奇怪な同情を喚(よ)び起こすようにも思います。僕は心の底に起こるこんな働きをもしいて押しつぶして理屈一方に固まろうとは思いません。それほど僕は道学者ではないつもりです。それだからといって、今のままのあなたでは、僕にはあなたを敬親する気は起こりません。木村君の妻としてあなたを敬親したいから、僕はあえてこんな事を書きました。そういう時が来るようにしてほしいのです。
 木村君の事を――あなたを熱愛してあなたのみに希望をかけている木村君の事を考えると僕はこれだけの事を書かずにはいられなくなります。
古藤義一木村葉子様」 それは葉子に取ってはほんとうの子供っぽい言葉としか響かなかった。しかし古藤は妙に葉子には苦手(にがて)だった。今も古藤の手紙を読んで見ると、ばかばかしい事がいわれているとは思いながらも、いちばん大事な急所を偶然のようにしっかり捕えているようにも感じられた。ほんとうにこんな事をしていると、子供と見くびっている古藤にもあわれまれるはめになりそうな気がしてならなかった。葉子はなんという事なく悒鬱(ゆううつ)になって古藤の手紙を巻きおさめもせず膝(ひざ)の上に置いたまま目をすえて、じっと考えるともなく考えた。
 それにしても、新しい教育を受け、新しい思想を好み、世事にうといだけに、世の中の習俗からも飛び離れて自由でありげに見える古藤さえが、葉子が今立っている崕(がけ)のきわから先には、葉子が足を踏み出すのを憎み恐れる様子を明らかに見せているのだ。結婚というものが一人(ひとり)の女に取って、どれほど生活という実際問題と結び付き、女がどれほどその束縛の下に悩んでいるかを考えてみる事さえしようとはしないのだ。そう葉子は思ってもみた。
 これから行こうとする米国という土地の生活も葉子はひとりでにいろいろと想像しないではいられなかった。米国の人たちはどんなふうに自分を迎え入れようとはするだろう。とにかく今までの狭い悩ましい過去と縁を切って、何の関(かかわ)りもない社会の中に乗り込むのはおもしろい。和服よりもはるかに洋服に適した葉子は、そこの交際社会でも風俗では米国人を笑わせない事ができる。歓楽でも哀傷でもしっくりと実生活の中に織り込まれているような生活がそこにはあるに違いない。女のチャームというものが、習慣的な絆(きずな)から解き放されて、その力だけに働く事のできる生活がそこにはあるに違いない。才能と力量さえあれば女でも男の手を借りずに自分をまわりの人に認めさす事のできる生活がそこにはあるに違いない。女でも胸を張って存分呼吸のできる生活がそこにはあるに違いない。少なくとも交際社会のどこかではそんな生活が女に許されているに違いない。葉子はそんな事を空想するとむずむずするほど快活になった。そんな心持ちで古藤の言葉などを考えてみると、まるで老人の繰り言のようにしか見えなかった。葉子は長い黙想の中から活々(いきいき)と立ち上がった。そして化粧をすますために鏡のほうに近づいた。
 木村を良人(おっと)とするのになんの屈託(くったく)があろう。木村が自分の良人(おっと)であるのは、自分が木村の妻であるというほどに軽い事だ。木村という仮面……葉子は鏡を見ながらそう思ってほほえんだ。そして乱れかかる額ぎわの髪を、振り仰いで後ろになでつけたり、両方の鬢(びん)を器用にかき上げたりして、良工が細工物でもするように楽しみながら元気よく朝化粧を終えた。ぬれた手ぬぐいで、鏡に近づけた目のまわりの白粉(おしろい)をぬぐい終わると、口びるを開いて美しくそろった歯並みをながめ、両方の手の指を壺(つぼ)の口のように一所(ひとところ)に集めて爪(つめ)の掃除(そうじ)が行き届いているか確かめた。見返ると船に乗る時着て来た単衣(ひとえ)のじみな着物は、世捨て人のようにだらりと寂しく部屋(へや)のすみの帽子かけにかかったままになっていた。葉子は派手(はで)な袷(あわせ)をトランクの中から取り出して寝衣(ねまき)と着かえながら、それに目をやると、肩にしっかりとしがみ付いて、泣きおめいた彼(か)の狂気じみた若者の事を思った。と、すぐそのそばから若者を小わきにかかえた事務長の姿が思い出された。小雨の中を、外套(がいとう)も着ずに、小荷物でも運んで行ったように若者を桟橋の上におろして、ちょっと五十川(いそがわ)女史に挨拶(あいさつ)して船から投げた綱にすがるや否や、静かに岸から離れてゆく船の甲板の上に軽々と上がって来たその姿が、葉子の心をくすぐるように楽しませて思い出された。
 夜はいつのまにか明け離れていた。眼窓(めまど)の外は元のままに灰色はしているが、活々(いきいき)とした光が添い加わって、甲板の上を毎朝規則正しく散歩する白髪の米人とその娘との足音がこつこつ快活らしく聞こえていた。化粧をすました葉子は長椅子(ながいす)にゆっくり腰をかけて、両足をまっすぐにそろえて長々と延ばしたまま、うっとりと思うともなく事務長の事を思っていた。
 その時突然ノックをしてボーイがコーヒーを持ってはいって来た。葉子は何か悪い所でも見つけられたようにちょっとぎょっとして、延ばしていた足の膝(ひざ)を立てた。ボーイはいつものように薄笑いをしてちょっと頭を下げて銀色の盆を畳椅子(たたみいす)の上においた。そしてきょうも食事はやはり船室に運ぼうかと尋ねた。
「今晩からは食堂にしてください」
 葉子はうれしい事でもいって聞かせるようにこういった。ボーイはまじめくさって「はい」といったが、ちらりと葉子を上目で見て、急ぐように部屋(へや)を出た。葉子はボーイが部屋(へや)を出てどんなふうをしているかがはっきり見えるようだった。ボーイはすぐににこにこと不思議な笑いをもらしながらケーク・ウォークの足つきで食堂のほうに帰って行ったに違いない。ほどもなく、
「え、いよいよ御来迎(ごらいごう)?」
「来たね」
 というような野卑な言葉が、ボーイらしい軽薄な調子で声高(こわだか)に取りかわされるのを葉子は聞いた。
 葉子はそんな事を耳にしながらやはり事務長の事を思っていた。「三日も食堂に出ないで閉じこもっているのに、なんという事務長だろう、一ぺんも見舞いに来ないとはあんまりひどい」こんな事を思っていた。そしてその一方では縁もゆかりもない馬のようにただ頑丈(がんじょう)な一人(ひとり)の男がなんでこう思い出されるのだろうと思っていた。
 葉子は軽いため息をついて何げなく立ち上がった。そしてまた長椅子(ながいす)に腰かける時には棚(たな)の上から事務長の名刺を持って来てながめていた。「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉」と明朝(ミンチョウ)ではっきり書いてある。葉子は片手でコーヒーをすすりながら、名刺を裏返してその裏をながめた。そしてまっ白なその裏に何か長い文句でも書いであるかのように、二重になる豊かな顎(あご)を襟(えり)の間に落として、少し眉(まゆ)をひそめながら、長い間まじろぎもせず見つめていた。

       一二

 その日の夕方、葉子は船に来てから始めて食堂に出た。着物は思いきって地味(じみ)なくすんだのを選んだけれども、顔だけは存分に若くつくっていた。二十(はたち)を越すや越さずに見える、目の大きな、沈んだ表情の彼女の襟の藍鼠(あいねずみ)は、なんとなく見る人の心を痛くさせた。細長い食卓の一端に、カップ・ボードを後ろにして座を占めた事務長の右手には田川夫人がいて、その向かいが田川博士、葉子の席は博士のすぐ隣に取ってあった。そのほかの船客も大概はすでに卓に向かっていた。葉子の足音が聞こえると、いち早く目くばせをし合ったのはボーイ仲間で、その次にひどく落ち付かぬ様子をし出したのは事務長と向かい合って食卓の他の一端にいた鬚(ひげ)の白いアメリカ人の船長であった。あわてて席を立って、右手にナプキンを下げながら、自分の前を葉子に通らせて、顔をまっ赤(か)にして座に返った。葉子はしとやかに人々の物数奇(ものずき)らしい視線を受け流しながら、ぐるっと食卓を回って自分の席まで行くと、田川博士(はかせ)はぬすむように夫人の顔をちょっとうかがっておいて、肥(ふと)ったからだをよけるようにして葉子を自分の隣にすわらせた。
 すわりずまいをただしている間、たくさんの注視の中にも、葉子は田川夫人の冷たいひとみの光を浴びているのを心地(ここち)悪いほどに感じた。やがてきちんとつつましく正面を向いて腰かけて、ナプキンを取り上げながら、まず第一に田川夫人のほうに目をやってそっと挨拶(あいさつ)すると、今までの角々(かどかど)しい目にもさすがに申しわけほどの笑(え)みを見せて、夫人が何かいおうとした瞬間、その時までぎごちなく話を途切らしていた田川博士も事務長のほうを向いて何かいおうとしたところであったので、両方の言葉が気まずくぶつかりあって、夫婦は思わず同時に顔を見合わせた。一座の人々も、日本人といわず外国人といわず、葉子に集めていたひとみを田川夫妻のほうに向けた。「失礼」といってひかえた博士に夫人はちょっと頭を下げておいて、みんなに聞こえるほどはっきり澄んだ声で、
「とんと食堂においでがなかったので、お案じ申しましたの、船にはお困りですか」
 といった。さすがに世慣れて才走ったその言葉は、人の上に立ちつけた重みを見せた。葉子はにこやかに黙ってうなずきながら、位を一段落として会釈するのをそう不快には思わぬくらいだった。二人(ふたり)の間の挨拶(あいさつ)はそれなりで途切れてしまったので、田川博士(はかせ)はおもむろに事務長に向かってし続けていた話の糸目をつなごうとした。
「それから……その……」
 しかし話の糸口は思うように出て来なかった。事もなげに落ち付いた様子に見える博士の心の中に、軽い混乱が起こっているのを、葉子はすぐ見て取った。思いどおりに一座の気分を動揺させる事ができるという自信が裏書きされたように葉子は思ってそっと満足を感じていた。そしてボーイ長のさしずでボーイらが手器用(てぎよう)に運んで来たポタージュをすすりながら、田川博士のほうの話に耳を立てた。
 葉子が食堂に現われて自分の視界にはいってくると、臆面(おくめん)もなくじっと目を定めてその顔を見やった後に、無頓着(むとんじゃく)にスプーンを動かしながら、時々食卓の客を見回して気を配っていた事務長は、下くちびるを返して鬚(ひげ)の先を吸いながら、塩さびのした太い声で、
「それからモンロー主義の本体は」
 と話の糸目を引っぱり出しておいて、まともに博士を打ち見やった。博士は少し面伏(おもぶ)せな様子で、
「そう、その話でしたな。モンロー主義もその主張は初めのうちは、北米の独立諸州に対してヨーロッパの干渉を拒むというだけのものであったのです。ところがその政策の内容は年と共にだんだん変わっている。モンローの宣言は立派に文字になって残っているけれども、法律というわけではなし、文章も融通(ゆうずう)がきくようにできているので、取りようによっては、どうにでも伸縮する事ができるのです。マッキンレー氏などはずいぶん極端にその意味を拡張しているらしい。もっともこれにはクリーブランドという人の先例もあるし、マッキンレー氏の下にはもう一人(ひとり)有力な黒幕があるはずだ。どうです斎藤(さいとう)君」
 と二三人おいた斜向(はすか)いの若い男を顧みた。斎藤と呼ばれた、ワシントン公使館赴任の外交官補は、まっ赤(か)になって、今まで葉子に向けていた目を大急ぎで博士のほうにそらして見たが、質問の要領をはっきり捕えそこねて、さらに赤くなって術ない身ぶりをした。これほどな席にさえかつて臨んだ習慣のないらしいその人の素性(すじょう)がそのあわてかたに充分に見えすいていた。博士は見下したような態度で暫時その青年のどぎまぎした様子を見ていたが、返事を待ちかねて、事務長のほうを向こうとした時、突然はるか遠い食卓の一端から、船長が顔をまっ赤(か)にして、
「You mean Teddy the roughrider?」
 といいながら子供のような笑顔(えがお)を人々に見せた。船長の日本語の理解力をそれほどに思い設けていなかったらしい博士は、この不意打ちに今度は自分がまごついて、ちょっと返事をしかねていると、田川夫人がさそくにそれを引き取って、
「Good hit for you,Mr. Captain !」
 と癖のない発音でいってのけた。これを聞いた一座は、ことに外国人たちは、椅子(いす)から乗り出すようにして夫人を見た。夫人はその時人(ひと)の目にはつきかねるほどの敏捷(すばしこ)さで葉子のほうをうかがった。葉子は眉(まゆ)一つ動かさずに、下を向いたままでスープをすすっていた。
 慎み深く大さじを持ちあつかいながら、葉子は自分に何かきわ立った印象を与えようとして、いろいろなまねを競い合っているような人々のさまを心の中で笑っていた。実際葉子が姿を見せてから、食堂の空気は調子を変えていた。ことに若い人たちの間には一種の重苦しい波動が伝わったらしく、物をいう時、彼らは知らず知らず激昂(げきこう)したような高い調子になっていた。ことにいちばん年若く見える一人(ひとり)の上品な青年――船長の隣座にいるので葉子は家柄(いえがら)の高い生まれに違いないと思った――などは、葉子と一目顔を見合わしたが最後、震えんばかりに興奮して、顔を得(え)上げないでいた。それだのに事務長だけは、いっこう動かされた様子が見えぬばかりか、どうかした拍子(ひょうし)に顔を合わせた時でも、その臆面(おくめん)のない、人を人とも思わぬような熟視は、かえって葉子の視線をたじろがした。人間をながめあきたような気倦(けだ)るげなその目は、濃いまつ毛の間から insolent な光を放って人を射た。葉子はこうして思わずひとみをたじろがすたびごとに事務長に対して不思議な憎しみを覚えるとともに、もう一度その憎むべき目を見すえてその中に潜む不思議を存分に見窮めてやりたい心になった。葉子はそうした気分に促されて時々事務長のほうにひきつけられるように視線を送ったが、そのたびごとに葉子のひとみはもろくも手きびしく追い退けられた。
 こうして妙な気分が食卓の上に織りなされながらやがて食事は終わった。一同が座を立つ時、物慣らされた物腰で、椅子(いす)を引いてくれた田川博士(はかせ)にやさしく微笑を見せて礼をしながらも、葉子はやはり事務長の挙動を仔細(しさい)に見る事に半ば気を奪われていた。
「少し甲板に出てごらんになりましな。寒くとも気分は晴れ晴れしますから。わたしもちょと部屋(へや)に帰ってショールを取って出て見ます」
 こう葉子にいって田川夫人は良人(おっと)と共に自分の部屋のほうに去って行った。
 葉子も部屋に帰って見たが、今まで閉じこもってばかりいるとさほどにも思わなかったけれども、食堂ほどの広さの所からでもそこに来て見ると、息気(いき)づまりがしそうに狭苦しかった。で、葉子は長椅子の下から、木村の父が使い慣れた古トランク――その上に古藤が油絵の具でY・Kと書いてくれた古トランクを引き出して、その中から黒い駝鳥(だちょう)の羽のボアを取り出して、西洋臭いそのにおいを快く鼻に感じながら、深々と首を巻いて、甲板に出て行って見た。窮屈な階子段(はしごだん)をややよろよろしながらのぼって、重い戸をあけようとすると外気の抵抗がなかなか激しくって押しもどされようとした。きりっと搾(しぼ)り上げたような寒さが、戸のすきから縦に細長く葉子を襲った。
 甲板には外国人が五六人厚い外套(がいとう)にくるまって、堅いティークの床(ゆか)をかつかつと踏みならしながら、押し黙って勢いよく右往左往に散歩していた。田川夫人の姿はそのへんにはまだ見いだされなかった。塩気を含んだ冷たい空気は、室内にのみ閉じこもっていた葉子の肺を押し広げて、頬(ほお)には血液がちくちくと軽く針をさすように皮膚に近く突き進んで来るのが感ぜられた。葉子は散歩客には構わずに甲板を横ぎって船べりの手欄(てすり)によりかかりながら、波また波と果てしもなく連なる水の堆積(たいせき)をはるばるとながめやった。折り重なった鈍色(にぶいろ)の雲のかなたに夕日の影は跡形もなく消えうせて、闇(やみ)は重い不思議な瓦斯(がす)のように力強くすべての物を押しひしゃげていた。雪をたっぷり含んだ空だけが、その間とわずかに争って、南方には見られぬ暗い、燐(りん)のような、さびしい光を残していた。一種のテンポを取って高くなり低くなりする黒い波濤(はとう)のかなたには、さらに黒ずんだ波の穂が果てしもなく連なっていた。船は思ったより激しく動揺していた。赤いガラスをはめた檣燈(しょうとう)が空高く、右から左、左から右へと広い角度を取ってひらめいた。ひらめくたびに船が横かしぎになって、重い水の抵抗を受けながら進んで行くのが、葉子の足からからだに伝わって感ぜられた。
 葉子はふらふらと船にゆり上げゆり下げられながら、まんじりともせずに、黒い波の峰と波の谷とがかわるがわる目の前に現われるのを見つめていた。豊かな髪の毛をとおして寒さがしんしんと頭の中にしみこむのが、初めのうちは珍しくいい気持ちだったが、やがてしびれるような頭痛に変わって行った。……と急に、どこをどう潜んで来たとも知れない、いやなさびしさが盗風(とうふう)のように葉子を襲った。船に乗ってから春の草のように萌(も)え出した元気はぽっきりと心(しん)を留められてしまった。こめかみがじんじんと痛み出して、泣きつかれのあとに似た不愉快な睡気(ねむけ)の中に、胸をついて嘔(は)き気(け)さえ催して来た。葉子はあわててあたりを見回したが、もうそこいらには散歩の人足(ひとあし)も絶えていた。けれども葉子は船室に帰る気力もなく、右手でしっかりと額を押えて、手欄(てすり)に顔を伏せながら念じるように目をつぶって見たが、いいようのないさびしさはいや増すばかりだった。葉子はふと定子を懐妊していた時のはげしい悪阻(つわり)の苦痛を思い出した。それはおりから痛ましい回想だった。……定子……葉子はもうその笞(しもと)には堪えないというように頭を振って、気を紛らすために目を開いて、とめどなく動く波の戯れを見ようとしたが、一目見るやぐらぐらと眩暈(めまい)を感じて一たまりもなくまた突っ伏(ぷ)してしまった。深い悲しいため息が思わず出るのを留めようとしてもかいがなかった。「船に酔ったのだ」と思った時には、もうからだじゅうは不快な嘔感(おうかん)のためにわなわなと震えていた。
「嘔(は)けばいい」
 そう思って手欄(てすり)から身を乗り出す瞬間、からだじゅうの力は腹から胸もとに集まって、背は思わずも激しく波打った。そのあとはもう夢のようだった。
 しばらくしてから葉子は力が抜けたようになって、ハンカチで口もとをぬぐいながら、たよりなくあたりを見回した。甲板(かんぱん)の上も波の上のように荒涼として人気(ひとけ)がなかった。明るく灯(ひ)の光のもれていた眼窓(めまど)は残らずカーテンでおおわれて暗くなっていた。右にも左にも人はいない。そう思った心のゆるみにつけ込んだのか、胸の苦しみはまた急によせ返して来た。葉子はもう一度手欄(てすり)に乗り出してほろほろと熱い涙をこぼした。たとえば高くつるした大石を切って落としたように、過去というものが大きな一つの暗い悲しみとなって胸を打った。物心を覚えてから二十五の今日(こんにち)まで、張りつめ通した心の糸が、今こそ思い存分ゆるんだかと思われるその悲しい快(こころよ)さ。葉子はそのむなしい哀感にひたりながら、重ねた両手の上に額を乗せて手欄(てすり)によりかかったまま重い呼吸をしながらほろほろと泣き続けた。一時性貧血を起こした額は死人のように冷えきって、泣きながらも葉子はどうかするとふっと引き入れられるように、仮睡に陥ろうとした。そうしてははっと何かに驚かされたように目を開くと、また底の知れぬ哀感がどこからともなく襲い入った。悲しい快さ。葉子は小学校に通(かよ)っている時分でも、泣きたい時には、人前では歯をくいしばっていて、人のいない所まで行って隠れて泣いた。涙を人に見せるというのは卑しい事にしか思えなかった。乞食(こじき)が哀れみを求めたり、老人が愚痴をいうのと同様に、葉子にはけがらわしく思えていた。しかしその夜に限っては、葉子はだれの前でも素直(すなお)な心で泣けるような気がした。だれかの前でさめざめと泣いてみたいような気分にさえなっていた。しみじみとあわれんでくれる人もありそうに思えた。そうした気持ちで葉子は小娘のようにたわいもなく泣きつづけていた。
 その時甲板(かんぱん)のかなたから靴(くつ)の音が聞こえて来た。二人(ふたり)らしい足音だった。その瞬間まではだれの胸にでも抱きついてしみじみ泣けると思っていた葉子は、その音を聞きつけるとはっというまもなく、張りつめたいつものような心になってしまって、大急ぎで涙を押しぬぐいながら、踵(くびす)を返して自分の部屋(へや)に戻(もど)ろうとした。が、その時はもうおそかった。洋服姿の田川夫妻がはっきりと見分けがつくほどの距離に進みよっていたので、さすがに葉子もそれを見て見ぬふりでやり過ごす事は得(え)しなかった。涙をぬぐいきると、左手をあげて髪のほつれをしなをしながらかき上げた時、二人はもうすぐそばに近寄っていた。
「あらあなたでしたの。わたしどもは少し用事ができておくれましたが、こんなにおそくまで室外(そと)にいらしってお寒くはありませんでしたか。気分はいかがです」
 田川夫人は例の目下(めした)の者にいい慣れた言葉を器用に使いながら、はっきりとこういってのぞき込むようにした。夫妻はすぐ葉子が何をしていたかを感づいたらしい。葉子はそれをひどく不快に思った。
「急に寒い所に出ましたせいですかしら、なんだか頭(つむり)がぐらぐらいたしまして」
「お嘔(もど)しなさった……それはいけない」
 田川博士(はかせ)は夫人の言葉を聞くともっともというふうに、二三度こっくりとうなずいた。厚外套(あつがいとう)にくるまった肥(ふと)った博士と、暖かそうなスコッチの裾長(すそなが)の服に、ロシア帽を眉(まゆ)ぎわまでかぶった夫人との前に立つと、やさ形の葉子は背たけこそ高いが、二人(ふたり)の娘ほどにながめられた。
「どうだ一緒に少し歩いてみちゃ」
 と田川博士がいうと、夫人は、
「ようございましょうよ、血液がよく循環して」と応じて葉子に散歩を促した。葉子はやむを得ず、かつかつと鳴る二人の靴(くつ)の音と、自分の上草履(うわぞうり)の音とをさびしく聞きながら、夫人のそばにひき添って甲板(かんぱん)の上を歩き始めた。ギーイときしみながら船が大きくかしぐのにうまく中心を取りながら歩こうとすると、また不快な気持ちが胸先にこみ上げて来るのを葉子は強く押し静めて事もなげに振る舞おうとした。
 博士は夫人との会話の途切れ目を捕えては、話を葉子に向けて慰め顔にあしらおうとしたが、いつでも夫人が葉子のすべき返事をひったくって物をいうので、せっかくの話は腰を折られた。葉子はしかし結句(けっく)それをいい事にして、自分の思いにふけりながら二人に続いた。しばらく歩きなれてみると、運動ができたためか、だんだん嘔(は)き気(け)は感ぜぬようになった。田川夫妻は自然に葉子を会話からのけものにして、二人の間で四方山(よもやま)のうわさ話を取りかわし始めた。不思議なほどに緊張した葉子の心は、それらの世間話にはいささかの興味も持ち得ないで、むしろその無意味に近い言葉の数々を、自分の瞑想(めいそう)を妨げる騒音のようにうるさく思っていた。と、ふと田川夫人が事務長と言ったのを小耳にはさんで、思わず針でも踏みつけたようにぎょっとして、黙想から取って返して聞き耳を立てた。自分でも驚くほど神経が騒ぎ立つのをどうする事もできなかった。
「ずいぶんしたたか者らしゅうございますわね」

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