惜みなく愛は奪う
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著者名:有島武郎 

[#以下の2つの英文はすべてイタリック文字、横書き]
Sometimes with one I love, I fill myself with rage, for fear I effuse unreturn'd love;
But now I think there is no unreturn'd love―the pay is certain, one way or another;
(I loved a certain person ardently, and my love was not return'd;
Yet out of that, I have written these songs.)
[#右寄せ]― Walt Whitman ―

I exist as I am―that is enough;
If no other in the world be aware, I sit content,
And if each and all be aware, I sit content.
One world is aware, and by far the largest to me, and that is myself;
And whether I come to my own to-day, or in ten thousand or ten million years,
I can cheerfully take it now, or with equal cheerfulness I can wait.
[#右寄せ]― Walt Whitman ―


[#改ページ]



        一

 太初(はじめ)に道(ことば)があったか行(おこない)があったか、私はそれを知らない。然(しか)し誰がそれを知っていよう、私はそれを知りたいと希(こいねが)う。そして誰がそれを知りたいと希わぬだろう。けれども私はそれを考えたいとは思わない。知る事と考える事との間には埋め得ない大きな溝(みぞ)がある。人はよくこの溝を無視して、考えることによって知ることに達しようとはしないだろうか。私はその幻覚にはもう迷うまいと思う。知ることは出来ない。が、知ろうとは欲する。人は生れると直ちにこの「不可能」と「欲求」との間にさいなまれる。不可能であるという理由で私は欲求を抛(なげう)つことが出来ない。それは私として何という我儘(わがまま)であろう。そして自分ながら何という可憐(かれん)さであろう。
 太初の事は私の欲求をもってそれに私を結び付けることによって満足しよう。私にはとても目あてがないが、知る日の来(きた)らんことを欲求して満足しよう。
 私がこの奇異な世界に生れ出たことについては、そしてこの世界の中にあって今日まで生命を続けて来たことについては、私は明(あきら)かに知っている。この認識を誇るべきにせよ、恥ずべきにせよ、私はごまかしておくことが出来ない。私は私の生命を考えてばかりはいない。確かに知っている。哲学者が知っているように知っているのではないかも知れない。又深い生活の冒険者が知っているように知っているのではないかも知れない。然し私は知っている。この私の所有を他のいかなるものもくらますことは出来ない。又他のいかなる威力も私からそれを奪い取ることは出来ない。これこそは私の存在が所有する唯(ただ)一つの所有だ。
 恐るべき永劫(えいごう)が私の周囲にはある。永劫は恐ろしい。或る時には氷のように冷やかな、凝然としてよどみわたった或るものとして私にせまる。又或る時は眼もくらむばかりかがやかしい、瞬間も動揺流転をやめぬ或るものとして私にせまる。私はそのものの隅(すみ)か、中央かに落された点に過ぎない。広さと幅と高さとを点は持たぬと幾何学は私に教える。私は永劫に対して私自身を点に等しいと思う。永劫の前に立つ私は何ものでもないだろう。それでも点が存在する如く私もまた永劫の中に存在する。私は点となって生れ出た。そして瞬(またた)く中(うち)に跡形もなく永劫の中に溶け込んでしまって、私はいなくなるのだ。それも私は知っている。そして私はいなくなるのを恐ろしく思うよりも、点となってここに私が私として生れ出たことを恐ろしく思う。
 然し私は生れ出た。私はそれを知る。私自身がこの事実を知る主体である以上、この私の生命は何といっても私のものだ。私はこの生命を私の思うように生きることが出来るのだ。私の唯一の所有よ。私は凡(すべ)ての懐疑にかかわらず、結局それを尊重愛撫(あいぶ)しないでいられようか。涙にまで私は自身を痛感する。
 一人の旅客が永劫の道を行く。彼を彼自身のように知っているものは何処(どこ)にもいない。陽の照る時には、彼の忠実な伴侶(はんりょ)はその影であるだろう。空が曇り果てる時には、そして夜には、伴侶たるべき彼の影もない。その時彼は独(ひと)り彼の衷(うち)にのみ忠実な伴侶を見出(みいだ)さねばならぬ。拙(つたな)くとも、醜くとも、彼にとっては、彼以上のものを何処に求め得よう。こう私は自分を一人の旅客にして見る時もある。
 私はかくの如くにして私自身である。けれども私の周囲に在(あ)る人や物やは明かに私ではない。私が一つの言葉を申し出る時、私以外の誰が、そして何が、私がその言葉をあらしめるようにあらしめ得るか。私は周囲の人と物とにどう繋(つな)がれたら正しい関係におかれるのであろう。如何(いか)なる関係も可能ではあり得ないのか。可能ならばそれを私はどうして見出せばいいのか。誰がそれを私に教えてくれるのだろう。……結局それは私自身ではないか。
 思えばそれは寂しい道である。最も無力なる私は私自身にたよる外の何物をも持っていない。自己に矛盾し、自己に蹉跌(さてつ)し、自己に困迷する、それに何の不思議があろうぞ。私は時々私自身に対して神のように寛大になる。それは時々私の姿が、母を失った嬰児(えいじ)の如く私の眼に映るからだ。嬰児は何処をあてどもなく匍匐(ほふく)する。その姿は既に十分憐(あわ)れまれるに足る。嬰児は屡□(しばしば)過って火に陥る、若(も)しくは水に溺(おぼ)れる。そして僅(わず)かにそこから這(は)い出ると、べそをかきながら又匍匐を続けて行く。このいたいけな姿を憐れむのを自己に阿(おもね)るものとのみ云い退けられるものであろうか。縦令(たとい)道徳がそれを自己耽溺(たんでき)と罵(ののし)らば罵れ、私は自己に対するこの哀憐(あいれん)の情を失うに忍びない。孤独な者は自分の掌(てのひら)を見つめることにすら、熱い涙をさそわれるのではないか。
 思えばそれは嶮(けわ)しい道でもある。私の主体とは私自身だと知るのは、私を極度に厳粛にする。他人に対しては与え得ないきびしい鞭打(むちうち)を与えざるを得ないものは畢竟(ひっきょう)自身に対してだ。誘惑にかかったように私はそこに導かれる。笞(しもと)にはげまされて振い立つ私を見るのも、打撲に抵抗し切れなくなって倒れ伏す私を見るのも、共に私が生きて行く上に、無くてはならぬものであるのを知る。その時に私は勇ましい。私の前には力一杯に生活する私の外には何物をも見ない。私は乗り越え乗り越え、自分の力に押され押されて未見の境界へと険難を侵して進む。そして如何なる生命の威脅にもおびえまいとする。その時傷の痛みは私に或る甘さを味(あじわ)わせる。然しこの自己緊張の極点には往々にして恐ろしい自己疑惑が私を待ち設けている。遂に私は疲れ果てようとする。私の力がもうこの上には私を動かし得ないと思われるような瞬間が来る。私の唯一つの城廓なる私自身が見る見る廃墟(はいきょ)の姿を現わすのを見なければならないのは、私の眼前を暗黒にする。
 けれどもそれらの不安や失望が常に私を脅かすにもかかわらず、太初(はじめ)の何であるかを知らない私には、自身を措(お)いてたよるべき何物もない。凡ての矛盾と渾沌(こんとん)との中にあって私は私自身であろう。私を実価以上に値(ね)ぶみすることをしまい。私を実価以下に虐待することもしまい。私は私の正しい価の中にあることを勉めよう。私の価値がいかに低いものであろうとも、私の正しい価値の中にあろうとするそのこと自身は何物かであらねばならぬ。縦(よ)しそれが何物でもないにしろ、その外に私の採るべき態度はないではないか。一個の金剛石を持つものは、その宝玉の正しい価値に於(おい)てそれを持とうと願うのだろう。私の私自身は宝玉のように尊いものではないかも知れない。然し心持に於ては宝玉を持つ人の心持と少しも変るところがない。
 私は私のもの、私のただ一つのもの。私は私自身を何物にも代え難く愛することから始めねばならない。
 若し私のこの貧しい感想を読む人があった時、この出発点を首肯することが出来ないならば、私はその人に更にいい進むべき何物をも持ち得ない。太初が道(ことば)であるか行(おこない)であるかを(考えるのではなく)知り切っている人に取っては、この感想は無視さるべき無益なものであろう。私は自分が極(きわ)めて低い生活途上に立っているものであることをよく知りぬいている。ただ、今の私はそこに一番堅固な立場を持っているが故に、そこに立つことを恥じまいとするものだ。前にもいったように、私はより高い大きなものに対する欲求を以(もっ)て、知り得たる現在に安住し得るのを自己に感謝する。

        二

 私の言おうとする事が読者に十分の理解を与え得なくはないかと恐れる。人が人自身を言い現わすのは一番容易なことであらねばならぬ。何となれば、それはその人自身が最もよく知り抜いている筈(はず)の事柄だから。
 実際は然しそうではない。私達の用いている言葉は謂(い)わば狼穽(ろうせい)のようなものだ。それは獲物を取るには役立つけれども、私達自身に向っては妨げにこそなれ、役には立たない。或(あるい)は拡大鏡のようなものだ。私達はそれによって身外を見得るけれども、私達自身の顔を見ることは出来ない。或は又精巧な機械といってもよい。私達はそれによって有らゆるものを造り出し得るとしても、遂に私達自身を造り出すことは出来ない。
 言葉は意味を表わす為めに案じ出された。然しそれは当初の目的から段々に堕落した。心の要求が言葉を創(つく)った。然し今は物がそれを占有する。吃(ども)る事なしには私達は自分の心を語る事が出来ない。恋人の耳にささやかれる言葉はいつでも流暢(りゅうちょう)であるためしがない。心から心に通う為めには、何んという不完全な乗り物に私達は乗らねばならぬのだろう。
 のみならず言葉は不従順な僕(しもべ)である。私達は屡□言葉の為めに裏切られる。私達の発した言葉は私達が針ほどの誤謬(ごびゅう)を犯すや否や、すぐに刃(やいば)を反(か)えして私達に切ってかかる。私達は自分の言葉故に人の前に高慢となり、卑屈となり、狡智(こうち)となり、魯鈍(ろどん)となる。
 かかる言葉に依頼して私はどうして私自身を誤りなく云い現わすことが出来よう。私は已(や)むを得ず言葉に潜む暗示により多くの頼みをかけなければならない。言葉は私を言い現わしてくれないとしても、その後につつましやかに隠れているあの睿智(えいち)の独子(ひとりご)なる暗示こそは、裏切る事なく私を求める者に伝えてくれるだろう。
 暗示こそは人に与えられた子等の中、最も優(すぐ)れた娘の一人だ。然し彼女が慎み深く、穏かで、かつ容易にその面紗(ヴェール)を顔からかきのけない為めに、人は屡□この気高く美しい娘の存在を忘れようとする。殊(こと)に近代の科学は何の容赦もなく、如何(いか)なる場合にも抵抗しない彼女を、幽閉の憂目にさえ遇(あ)わせようとした。抵抗しないという美徳を逆用して人は彼女を無視しようとする。
 人間がどうしてか程優れた娘を生み出したかと私は驚くばかりだ。彼女は自分の美徳を認めるものが現われ出るまで、それを沽(う)ろうと企てたことが嘗(かつ)てない。沽ろうとした瞬間に美徳が美徳でなくなるという第一義的な真理を本能の如く知っているのは彼女だ。又正しく彼女を取り扱うことの出来ないものが、仮初(かりそめ)にも彼女に近づけば、彼女は見る見るそのやさしい存在から萎(しお)れて行く。そんな人が彼女を捕え得たと思った時には、必ず美しい死を遂げたその亡骸(なきがら)を抱くのみだ。粘土から創り上げられた人間が、どうしてかかる気高い娘を生み得たろう。
 私は私自身を言い現わす為めに彼女に優しい助力を乞おう。私は自分の生長が彼女の柔らかな胸の中に抱かれることによって成就したのを経験しているから。しかし人間そのものの向上がどれ程彼女――人間の不断の無視にかかわらず――によって運ばれたかを知っているから。
 けれども私は暗示に私を託するに当って私自身を恥じねばならぬ。私を最もよく知るものは私自身であるとは思うけれども、私の知りかたは余りに乱雑で不秩序だ。そして私は言葉の正当な使い道すらも十分には心得ていない。その言葉の後ろに安んじて巣喰うべき暗示の座が成り立つだろうかとそれを私は恐れる。
 然し私は行こう。私に取って已み難き要求なる個性の表現の為めに、あらゆる有縁(うえん)の個性と私のそれとを結び付けようとする厳(きび)しい欲求の為めに、私は敢(あ)えて私から出発して歩み出して行こう。
 私が餓えているように、或る人々は餓えている。それらの人々に私は私を与えよう。そしてそれらの人々から私も受取ろう。その為めには仮りに自分の引込思案を捨ててかかろう。許されるかぎりに於て大胆になろう。
 私が知り得る可能性を存分に申し出して見よう。唯(ただ)この貧しい言葉の中から暗示が姿を隠してしまわない事を私は祈る。

        三

 神を知ったと思っていた私は、神を知ったと思っていたことを知った。私の動乱はそこから芽生(めば)えはじめた。
 或る人は私を偽善者ではないかと疑った。どうしてそこに疑いの余地などがあろう。私は明かに偽善者だ。明かに私は偽善者である。そう言明するのが、どれ程偽善的な行為であるぞとの非難が、当然喚(よ)び起されるのを知らない私ではない。それにもかかわらず私は明かに偽善者であると言明せねばならぬ。私は屡□(しばしば)私自身に顧慮する以上に外界に顧慮しているからだ。それは悲しい事には私が弱いからだ。私は弱い者の有らゆる窮策によく通じている。僅(わず)かな原因ですぐ陥った一つの小さな虚偽の為(た)めに、二つ三つ四つ五つと虚偽を重ねて行かねばならぬ、その苦痛をも知っている。弱いが故に強(し)いて自分を強く見せようとして、いつでも胸の中を戦慄(せんりつ)させていねばならぬ不安も知っている。苦肉の策から、自分の弱味を殊更(ことさら)に捨て鉢に人の前にあらわに取り出して、不意に乗じて一種の尊敬を、そうでなければ一種の憐憫(れんびん)を、搾(しぼ)り取ろうとする自涜(じとく)も知っている。弱さは真に醜さだ。それを私はよく知っている。
 然し偽善者とは弱いということばかりがその本質ではない。本当に弱いものは、その弱さから来る自分の醜さをも悲惨さをも意識しないが故に、その人はそのままの境地に満足することが出来よう。偽善者は不幸にしてただ弱いばかりでなく、その反面に多少の強さを持っている。彼は自分の弱味によって惹(ひ)き起した醜さ悲惨さを意識し得る強さをも持っているのだ。そしてその弱さを強さによって弥縫(びほう)しようとするのだ。
 強者がその強味を知らず、弱味を知らない間に、偽善者はよくその強味と弱味とを知っている。人はいうだろう、偽善者の本質は、強味を以(もっ)て弱味を弥縫するばかりでなく、その弥縫に無恥な安住を敢(あえ)てする点にあると。だから偽善者は救わるることが出来ないのだと。こう云って聞かされると私は偽善者の為めに弁解をしないではいられない心持になる。私自身が偽善者であるが故に自分自身の為めに弁解しようとするだけではない。偽善者そのものになり代って、偽善者の一人なる私が、義人に申し出たいと思わずにはいられないのだ。
 何事にも例外はある。その例外を殊更に色濃く描くのをひかえて見て貰ったら、偽善者というものが、強味を以て弱味を弥縫するところに無恥な安住をしているというのは、少しさばけ過ぎた見方だとは云われまいか。私は義人が次の点に於て偽善者を信じていただきたいと思う。それは偽善者もまた心窃(ひそ)かに苦しんでいるという一事だ。考えて見てもほしい。多少の強さと弱さとを同時に持ち合わしているものが、二つの力の矛盾を感じないでいられようか。矛盾を感じながら平然としてそこに無恥の安住をのみ続けていることが出来ようか。
 偽善者よ、お前は全くひどい目に遇わされた。それは当然な事だ。お前は本当に不愉快な人間だから。お前はいつでも然り然り否々といい切ることが出来ないから。毎時(いつ)でもお前には陰険なわけへだてが附きまつわっているから。お前は憎まれていい。辱(はずか)しめられていい。悪魔視されていい。然しお前の心の隅の人知れぬ苦痛をそっと眺(なが)めてやる人はないのか。お前が人並に見られたい為めに、お前自身にさえ隠そうと企てているその人知れぬ苦痛を一寸(ちょっと)でも暖かく触(さわ)ろうという人はないのか。偽善者よ、私は自身偽善者であるが故によくそれを知っている。義人のすぐ隣に住むと考えられている罪人(つみびと)(己れの罪を知ってそれを悲しむ人)は自分の強味と弱味との矛盾を声高く叫び得る幸福な人達なのだ。罪人の持つものも偽善者の持つものも畢竟は同じなのだ。ただ罪人は叫ぶ。それを神が聞く。偽善者は叫ぼうとする程に強さを持ち合わしていない。故に神は聞かない。それだけの差だと私には思える。よきサマリヤ人と悪(あ)しきサドカイ人とは、隣り合せに住んでいるのではないか。偽善者なる私は屡□他人を偽善者と呼んだ。今にして私はそれを悲しく思う。何故に私は人と人との距(へだ)てをこんなに大きくしようとはしたろう。
 こう云ったとて私は、世の義人に偽善者を裁(さば)く手心をゆるめて貰いたいと歎願するのではない。偽善者は何といっても義人からきびしく裁かれるふしだらさを持っている。私はただ偽善者もその心の片隅には人に示すのを敢てしない苦痛を持っているという事を知って貰えばいいのだ。それが私の弁解なのだ。
 私もその苦痛は持っていた。人の前に私を私以上に立派に見せようとする虚妄(きょもう)な心は有り余るほど持っていたけれども、そこに埋めることの出来ない苦痛をも全く失ってはいなかった。そして或る時には、烏(からす)が鵜(う)の真似(まね)をするように、罪人らしく自分の罪を上辷(うわすべ)りに人と神との前に披露(ひろう)もした。私は私らしく神を求めた。どれ程完全な罪人の形に於て私はそれをなしたろう。恐らく私は誰の眼からも立派な罪人のように見えたに違いない。私は断食もした、不眠にも陥った、痩(や)せもした。一人の女の肉をも犯さなかった。或る時は神を見出だし得んためには、自分の生命を好んで断つのを意としなかった。
 他人眼(よそめ)から見て相当の精進(しょうじん)と思われるべき私の生活が幾百日か続いた後、私は或る決心を以て神の懐(ふところ)に飛び入ったと実感のように空想した。弱さの醜さよ。私はこの大事を見事に空想的に実行していた。
 そして私は完全にせよ、不完全にせよ、甦生(そせい)していたろうか。復活していたろうか。神によって罪の根から切り放された約束を与えられたろうか。
 神の懐に飛び入ったと空想した瞬間から、私が格段に瑕瑾(かきん)の少い生活に入ったことはそれは確かだ。私が隣人から模範的の青年として取り扱われたことは、私の誇りとしてではなく、私のみじめな懺悔(ざんげ)としていうことが出来る。
 けれども私は本当は神を知ってはいなかったのだ。神を知り神によりすがると宣言した手前、強いて私の言行をその宣言にあてはめていたに過ぎなかったのだ。それらが如何に弱さの生み出す空想によって色濃く彩(いろど)られていたかは、私が見事に人の眼をくらましていたのでも察することが出来る。
 この時若(も)し私に人の眼の前に罪を犯すだけの強さがあったなら、即ち私の顧慮の対象なる外界と私とを絶縁すべき事件が起ったら、私は偽善者から一躍して正しき意味の罪人になっていたかも知れない。私は自分の罪を真剣に叫び出したかも知れない。そしてそれが恐らくは神に聞かれたろう。然し私はそうなるには余りに弱かった。人はこの場合の私を余り強過ぎたからだといおうとするかも知れない。若しそういう人があるなら、私は明かにそれが誤謬であるのを自分の経験から断言することが出来る。本当に罪人となり切る為めには、自分の凡(すべ)てを捧(ささ)げ果てる為めには、私の想像し得られないような強さが必要とせられるのだ。このパラドックスとも見れば見える申し出(い)では決して虚妄でない。罪人のあの柔和なレシグネーションの中に、昂然(こうぜん)として何物にも屈しまいとする強さを私は明かに見て取ることが出来る。神の信仰とは強者のみが与(あず)かり得る貴族の団欒(だんらん)だ。私は羨(うらやま)しくそれを眺めやる。然し私には、その入場券は与えられていない。私は単にその埓外(らちがい)にいて貴族の物真似(ミミクリー)をしていたに過ぎないのだ。
 基督(キリスト)の教会に於て、私は明かに偽善者の一群に属すべきものであるのを見出してしまった。
 砂礫(しゃれき)のみが砂礫を知る。金のみが金を知る。これは悲しい事実だ。偽善者なる私の眼には、自ら教会の中の偽善の分子が見え透いてしまった。こんな事を書き進むのは、殆(ほとん)ど私の堪(た)え得ないところだ。私は余りに自分を裸にし過ぎる。然しこれを書き抜かないと、私のこの拙い感想の筆は放(な)げ棄てられなければならない。本当は私も強い人になりたい。そして教会の中に強さが生み出した真の生命の多くを尊く拾い上げたい。私は近頃或る尊敬すべき老学者の感想を読んだが、その中に宗教に身をおいたものが、それを捨てるというようなことをするのは、如何にその人の性格の高貴さが足らないかを現わすに過ぎないということが強い語調で書かれているのを見た。私はその老学者に深い尊敬を払っているが故に、そして氏の生得の高貴な性格を知っているが故に、その言葉の空(むな)しい罵詈(ばり)でないのを感じて私自身の卑陋(ひろう)を悲しまねばならなかった。氏が凡ての虚偽と堕落とに飽満した基督旧教の中にありながら、根ざし深く潜在する尊い要素に自分のけだかさを化合させて、巌(いわお)のように堅く立つその態度は、私を驚かせ羨ませる。私は全くそれと反対なことをしていたようだ。私は自分が卑陋であるが故に、多くの卑陋なものを見てしまった。私はそれを悲しまねばならない。
 然し私は自分の卑陋から、周囲に卑陋なものを見出しておきながら、高貴な性格の人があるように、それを見ないでいることはさすがに出来なかった。卑陋なものを見出しながら、しらじらしく見ない振りをして、寛大にかまえていることは出来なかった。その程度までの偽善者になるには、私の強味が弱味より多過ぎたのかも知れない。そして私は、自分の偽善が私の属する団体を汚さんことを恐れて、そして団体の悪い方の分子が私の心を苦しめるのを厭(いと)って、その団体から逃げ出してしまった。私の卑陋はここでも私に卑陋な行いをさせた。私の属していた団体の言葉を借りていえば、私の行(おこない)の根柢(こんてい)には大それた高慢が働いていたと云える。
 けれども私は小さな声で私にだけ囁(ささや)きたい。心の奥底では、私はどうかして私を偽善者から更に偽善者に導こうとする誘因を避けたい気持がないではなかったということを。それを突き破るだけの強さを持たない私はせめてはそれを避けたいと念じていたのだ。前にもいったように外界に支配され易(やす)い私は、手厳しい外界に囲まれていればいる程、自分すら思いもかけぬ偽善を重ねて行くのに気づき、そしてそれを心から恐れるようになってはいたのだ。だから私は私の属していた団体を退くと共に、それまで指導を受けていた先輩達との直接の接触からも遠ざかり始めた。
 偽善者であらぬようになりたい。これは私として過分な欲求であると見られるかも知れないけれども、偽善者は凡て、偽善者でなかったらよかろうという心持を何処かの隅(すみ)に隠しながら持っているのだ。私も少しそれを持っていたばかりだ。
 義人、偽善者、罪人、そうした名称が可なり判然区別されて、それがびしびしと人にあてはめられる社会から私が離れて行ったのは、結局悪いことではなかったと私は今でも思っている。
 神を知ったと思っていた私は、神を知ったと思っていたことを知った。私の動乱はそこから芽生えはじめた。その動乱の中を私はそろそろと自分の方へと帰って行った。目指す故郷はいつの間にか遙(はるか)に距(へだた)ってしまい、そして私は屡□蹉(つまず)いたけれども、それでも動乱に動乱を重ねながらそろそろと故郷の方へと帰って行った。

        四

 長い廻り道。
 その長い廻り道を短くするには、自分の生活に対する不満を本当に感ずる外にはない。生老病死の諸苦、性格の欠陥、あらゆる失敗、それを十分に噛(か)みしめて見ればそれでいいのだ。それは然(しか)し如何(いか)に言説するに易く実現するに難き事柄であろうぞ。私は幾度かかかる悟性の幻覚に迷わされはしなかったか。そしてかかる悟性と見ゆるものが、実際は既定の概念を尺度として測定されたものではなかったか。私は稀(まれ)にはポーロのようには藻掻(もが)いた。然し私のようには藻掻かなかった。親鸞(しんらん)のようには悟った。然し私のようには悟らなかった。それが一体何になろう。これほど体裁のいい外貌(がいぼう)と、内容の空虚な実質とを併合した心の状態が外にあろうか。この近道らしい迷路を避けなければならないと知ったのは、長い彷徨(ほうこう)を続けた後のことだった。それを知った後でも、私はややもすればこの忌(いま)わしい袋小路につきあたって、すごすごと引き返さねばならなかった。
 私は自分の個性がどんなものであるかを知りたいために、他人の個性に触れて見ようとした。歴史の中にそれを見出そうと勉めたり、芸術の中にそれを見出そうと試みたり、隣人の中にそれを見出そうと求めたりした。私は多少の知識は得たに違いなかった。私の個性の輪廓は、おぼろげながら私の眼に映るように思えぬではなかった。然しそれは結局私ではなかった。
 物を見る事、物をそれ自身の生命に於てあやまたず捕捉する事、それは私が考えていたように容易なことではない。それを成就し得た人こそは世に類(たぐい)なく幸福な人だ。私は見ようと欲しないではなかった。然し見るということの本当の意味を弁(わきま)えていたといえようか。掴(つか)み得たと思うものが暫(しばら)くするといつの間にか影法師に過ぎぬのを発見するのは苦(にが)い味だ。私は自分の心を沙漠(さばく)の砂の中に眼だけを埋めて、猟人から己れの姿を隠し終(おお)せたと信ずる駝鳥(だちょう)のようにも思う。駝鳥が一つの機能の働きだけを隠すことによって、全体を隠し得たと思いこむのと反対に、私は一つの機能だけを働かすことによって、私の全体を働かしていると信ずることが屡□ある。こうして眺(なが)められた私の個性は、整った矛盾のない姿を私に描いて見せてくれるようだけれども、見ている中にそこには何等の生命もないことが明かになって来る。それは感激なくして書かれた詩のようだ。又着る人もなく裁(た)たれた錦繍(きんしゅう)のようだ。美しくとも、価高くあがなわれても、有りながら有る甲斐(かい)のない塵芥(じんかい)に過ぎない。
 私が私自身に帰ろうとして、外界を機縁にして私の当体(とうたい)を築き上げようとした試みは、空(むな)しい失敗に終らねばならなかった。
 聡明にして上品な人は屡□仮象に満足する。満足するというよりは、人の現象と称(とな)えるものも、人の実在と称えるものも、畢竟(ひっきょう)は意識の――それ自身が仮象であるところの――仮初(かりそ)めな遊戯に過ぎないと傍観する。そこに何等かの執着をつなぎ、葛藤を加えるのは、要するに下根粗笨(そほん)な外面的見断に支配されての迷妄に過ぎない。それらの境を静かに超越して、嬰児の戯れを見る老翁のように凡(すべ)ての努力と蹉跌(さてつ)との上に、淋しい微笑を送ろうとする。そこには冷やかな、然し皮相でない上品さが漂っている。或は又凡てを容(い)れ凡てを抱いて、飽くまで外界の跳梁(ちょうりょう)に身を任かす。昼には歓楽、夜には遊興、身を凡俗非議の外に置いて、死にまでその恣(ほしいま)まな姿を変えない人もある。そこには皮肉な、然し熱烈な聡明が窺(うかが)われないではない。私はどうしてそれらの人を弾劾(だんがい)することが出来よう。果てしのない迷執にさまよわねばならぬ人の宿命であって見れば、各□の瞬間をただ楽しんで生きる外に残される何事があろうぞとその人達はいう。その心持に対して私は白眼を向けることが出来るか。私には出来ない。人は或はかくの如き人々を酔生夢死の徒と呼んで唾棄(だき)するかも知れない。然し私にはその人々の何処(どこ)かに私を牽(ひ)き付ける或るものが感ぜられる。私には生来持ち合わしていない或る上品さ、或る聡明さが窺われるからだ。
 何という多趣多様な生活の相だろう。それはそのままで尊いではないか。そのままで完全な自然な姿を見せているではないか。若し自然にあの絢爛(けんらん)な多種多様があり、独(ひと)り人間界にそれがなかったならば、宇宙の美と真とはその時に崩れるといってもいいだろう。主義者といわれる人の心を私はこの点に於てさびしく物足らなく思う。彼は自分が授かっただけの天分を提(ひっさ)げて人間全体をただ一つの色に塗りつぶそうとする人ではないか。その意気の尊さはいうまでもない。然しその尊さの蔭には尊さそのものをも冰(こお)らせるような淋しさが潜んでいる。
 ただ私は私自身を私に恰好(かっこう)なように守って行きたい。それだけは私に許される事だと思うのだ。そしてその立場からいうと私はかの聡明にして上品な人々と同情の人であることが出来ない。私にはまださもしい未練が残っていて、凡てを仮象の戯れだと見て心を安んじていることが出来ない。そこには上品とか聡明とかいうことから遙(はる)かに遠ざかった多くの vulgarity が残っているのを私自身よく承知している。私は全く凡下(ぼんげ)な執着に駆られて齷齪(あくせく)する衆生(しゅじょう)の一人に過ぎない。ただ私はまだその境界を捨て切ることが出来ない。そして捨て切ることの出来ないのを悪いことだとさえ思わない。漫然と私自身を他の境界に移したら、即ち私の個性を本当に知ろうとの要求を擲(なげう)ったならば、私は今あるよりもなお多くの不安に責められるに違いないのだ。だから私は依然として私自身であろうとする衝動から離れ去ることが出来ない。
 外界の機縁で私を創(つく)り上げる試みに失敗した私は、更に立ちなおって、私と外界とを等分に向い合って立たせようとした。
 私がある。そして私がある以上は私に対立して外界がある。外界は私の内部に明かにその影を投げている。従って私の心の働きは二つの極の間を往来しなければならない。そしてそれが何故悪いのだ。私はまだどんな言葉で、この二つの極の名称をいい現わしていいか知らない。然しこの二つの極は昔から色々な名によって呼ばれている。希臘(ギリシャ)神話ではディオニソスとアポロの名で、又欧洲の思潮ではヘブライズムとヘレニズムの名で、仏典では色相と空相の名で、或は唯物唯心、或は個人社会、或は主義趣味、……凡て世にありとあらゆる名詞に対を成さぬ名詞はないと謂(い)ってもいいだろう。私もまたこのアンティセシスの下にある。自分が思い切って一方を取れば、是非退けねばならない他の一方がある。ジェーナスの顔のようにこの二つの極は渾融(こんゆう)を許さず相反(そむ)いている。然し私としてはその二つの何(いず)れをも潔(いさぎよ)く捨てるに忍びない。私の生の欲求は思いの外に強く深く、何者をも失わないで、凡てを味い尽して墓場に行こうとする。縦令(たとい)私が純一無垢(むく)の生活を成就しようとも、この存在に属するものの中から何かを捨ててしまわねばならぬとなら、それは私には堪え得ぬまでに淋しいことだ。よし私は矛盾の中に住み通そうとも、人生の味いの凡てを味い尽さなければならぬ。相反して見ゆる二つの極の間に彷徨(さまよ)うために、内部に必然的に起る不安を得ようとも、それに忍んで両極を恐れることなく掴まねばならぬ。若(も)しそれらを掴むのが不可能のことならば、公平な観察者鑑賞者となって、両極の持味を髣髴(ほうふつ)して死のう。
 人間として持ち得る最大な特権はこの外にはない。この特権を捨てて、そのあとに残されるものは、捨てるにさえ値しない枯れさびれた残り滓(かす)のみではないか。

        五

 けれども私はそこにも満足を得ることが出来なかった。私は思いもよらぬ物足らぬ発見をせねばならなかった。両極の観察者になろうとした時、私の力はどんどん私から遁(のが)れ去ってしまったのだ。実験のみをしていて、経験をしない私を見出(みいだ)した時、私は何ともいえない空虚を感じ始めた。私が触れ得たと思う何(いず)れの極も、共に私の命の糧(かて)にはならないで、何処(いずこ)にまれ動き進もうとする力は姿を隠した。私はいつまでも一箇所に立っている。
 これは私として極端に堪えがたい事だ。かのハムレットが感じたと思われる空虚や頼りなさはまた私にも存分にしみ通って、私は始めて主義の人の心持を察することが出来た。あの人々は生命の空虚から救い出されたい為めに、他人の自由にまで踏み込んでも、力の限りを一つの極に向って用いつつあるのだ。それは或る場合には他人にとって迷惑なことであろうとも、その人々に取っては致命的に必要なことなのだ。主義の為めには生命を捨ててもその生命の緊張を保とうとするその心持はよく解る。
 然しながら私には生命を賭(と)しても主張すべき主義がない。主義というべきものはあるとしても、それが為めに私自身を見失うまでにその為めに没頭することが出来ない。
 やはり私はその長い廻り道の後に私に帰って来た。然し何というみじめな情ない私の姿だろう。私は凡てを捨ててこの私に頼らねばならぬだろうか。私の過去には何十年の遠きにわたる歴史がある。又私の身辺には有らゆる社会の活動と優(すぐ)れた人間とがある。大きな力強い自然が私の周囲を十重二十重(とえはたえ)に取り巻いている。これらのものの絶大な重圧は、この憐(あわ)れな私をおびえさすのに十分過ぎる。私が今まで自分自身に帰り得ないで、有らん限りの躊躇(ちゅうちょ)をしていたのも、思えばこの外界の威力の前に私自身の無為を感じていたからなのだ。そして何等かの手段を運(めぐ)らしてこの絶大の威力と調和し若しくは妥協しようとさえ試みていたのだった。しかもそれは私の場合に於ては凡て失敗に終った。そういう試みは一時的に多少私の不安を撫(な)でさすってくれたとしても、更に深い不安に導く媒(なかだち)になるに過ぎなかった。私はかかる試みをする始めから、何かどうしてもその境遇では満足し得ない予感を持ち、そしてそれがいつでも事実になって現われた。私はどうしてもそれらのものの前に at home に自分自身を感ずることが出来なかった。
 それは私が大胆でかつ誠実であったからではない。偽善者なる私にも少しばかりの誠実はあったと云えるかも知れない。けれど少くとも大胆ではなかった。私は弱かったのだ。
 誰でも弱い人がいかなる心の状態にあるかを知っている。何物にも信頼する事の出来ないのが弱い人の特長だ。しかも何物にか信頼しないではいられないのが他の特長だ。兎(うさぎ)は弱い動物だ。その耳はやむ時なき猜疑(さいぎ)に震えている。彼は頑丈(がんじょう)な石窟(せっくつ)に身を託する事も、幽邃(ゆうすい)な深林にその住居を構えることも出来ない。彼は小さな藪(やぶ)の中に彼らしい穴を掘る。そして雷が鳴っても、雨が来ても、風が吹いても、犬に追われても、猟夫に迫られても、逃げ廻った後にはそのみじめな、壊(こわ)れ易い土の穴に最後の隠れ家を求めるのだ。私の心もまた兎のようだ。大きな威力は無尽蔵に周囲にある。然し私の怯(おび)えた心はその何れにも無条件的な信頼を持つことが出来ないで、危懼(きく)と躊躇とに満ちた彷徨の果てには、我ながら憐れと思う自分自分に帰って行くのだ。
 然し私はこれを弱いものの強味と呼ぶ。何故といえば私の生命の一路はこの極度の弱味から徐(おもむ)ろに育って行ったからだ。
 ここまで来て私は自ら任じて強しとする人々と袖(そで)を別たねばならぬ。その人々はもう私に呆(あき)れねばならぬ時が来た。私はしょうことなしに弱さに純一になりつつ、益□強い人々との交渉から身を退けて行くからだ。ニイチェは弱い人だった。彼もまた弱い人の通性として頑固に自分に執着した。そこから彼の超人の哲学は生れ出たが、そしてそれは強い人に恰好な背景を与える結果にはなったが、それを解して彼が強かったからだと思うのは大きな錯誤といわねばならぬ。ルッソーでもショーペンハウエルでも等しくそうではなかったか。強い人は幸にして偉人となり、義人となり、君子となり、節婦となり、忠臣となる。弱い人はまた幸にして一個の尋常な人間となる。それは人々の好き好きだ。私は弱いが故に後者を選ぶ外(ほか)に途(みち)が残されていなかったのだ。
 運命は畢竟不公平であることがない。彼等には彼等のものを与え、私には私のものを与えてくれる。しかも両者は一度は相失う程に分れ別れても、何時(いつ)かは何処かで十字路頭にふと出遇(であ)うのではないだろうか。それは然し私が顧慮するには及ばないことだ。私は私の道を驀地(まっしぐら)に走って行く外はない。で、私は更にこの筆を続けて行く。

        六

 私の個性は私に告げてこう云う。
 私はお前だ。私はお前の精髄だ。私は肉を離れた一つの概念の幽霊ではない。また霊を離れた一つの肉の盲動でもない。お前の外部と内部との溶け合った一つの全体の中に、お前がお前の存在を有(も)っているように、私もまたその全体の中で厳(きび)しく働く力の総和なのだ。お前は地球の地殻のようなものだ。千態万様の相に分れて、地殻は目まぐるしい変化を現じてはいるが、畢竟(ひっきょう)そこに見出されるものは、静止であり、結果であり、死に近づきつつあるものであり、奥行のない現象である。私は謂(い)わば地球の外部だ。単純に見るとそこには渾沌(こんとん)と単一とがあるばかりとも思われよう。けれどもその実質をよく考えてみると、それは他の星の世界と同じ実質であり、その中に潜む力は一瞬時にして、地殻を思いのままに破壊することも出来、新たに地表を生み出すことも出来るのだ。私とお前とは或る意味に於(おい)て同じものだ。然し他の意味に於て較べものにならない程違ったものだ。地球の内部は外部からは見られない。外部から見て、一番よく気のつく所は何といっても表面だ。だから人は私に注意せずに、お前ばかりを見て、お前の全体だと窺(うかが)っているし、お前もまたお前だけの姿を見て、私を顧みず、恐れたり、迷ったり、臆したり、外界を見るにもその表面だけを伺って満足している。私に帰って来ない前にお前が見た外界の姿は誠の姿ではない。お前は私が如何なるものであるかを本当に知らない間は、お前の外界を見る眼はその正しい機能を失っているのだ。それではいけない。そんなことでは縦令(たとい)お前がどれ程齷齪(あくせく)して進んで行こうとも、急流を遡(さかのぼ)ろうとする下手(へた)な泳手のように、無益に藻掻(もが)いてしかも一歩も進んではいないのだ。地球の内部が残っていさえすれば、縦令地殻が跡形なく壊(こわ)れてしまっても、一つの遊星としての存在を続ける事が出来るのだ。然し内部のない地球というものは想像して見ることも出来ないだろう。それと同じに私のないお前は想像することが出来ないのだ。
 お前に取って私以上に完全なものはない。そういったとて、その意味は、世の中の人が概念的に案出する神や仏のように、完全であろうというのではない。お前が今まで、宗教や、倫理や、哲学や、文芸などから提供せられた想像で測れば、勿論(もちろん)不完全だということが出来るだろう。成程私は悪魔のように恥知らずではないが、又天使のように清浄でもない。私は人間のように人間的だ。私の今のこの瞬間の誇りは、全力を挙げて何の躊躇もなく人間的であるということに帰する。私の所に悪魔だとか天使だとか、お前の頭の中で、こね上げた偶像を持って来てくれるな。お前が生きなければならないこの現在にとって、それらのものとお前との間には無益有害な広い距離が挾(はさ)まっている。
 お前が私の極印を押された許可状を持たずに、霊から引放した肉だけにお前の身売りをすると、そこに実質のない悪魔というものが、さも厳(いか)めしい実質を備えたらしく立ち現われるのだ。又お前が肉から強(し)いて引き離した霊だけに身売りをすると、そこに実質のない天使というものが、さも厳めしい実質を備えたらしく立ち現われるのだ。そんな事をしてる中(うち)に、お前は段々私から離れて行って、実質のない幻影に捕えられ、そこに、奇怪な空中楼閣を描き出すようになる。そして、お前の衷(うち)には苦しい二元が建立(こんりゅう)される。霊と肉、天国と地獄、天使と悪魔、それから何、それから何……対立した観念を持ち出さなければ何んだか安心が出来ない、そのくせ観念が対立していると何んだか安心が出来ない、両天秤(てんびん)にかけられたような、底のない空虚に浮んでいるような不安がお前を襲って来るのだ。そうなればなる程お前は私から遠ざかって、お前のいうことなり、思うことなり、実行することなりが、一つ残らず外部の力によって支配されるようになる。お前には及びもつかぬ理想が出来、良心が出来、道徳が出来、神が出来る。そしてそれは、皆私がお前に命じたものではなくて、外部から借りて来たものばかりなのだ。そういうものを振り廻して、お前はお前の寄木細工(よせぎざいく)を造り始めるのだ。そしてお前は一面に、悪魔でさえが眼を塞(ふさ)ぐような醜い賤(いや)しい思いをいだきながら、人の眼につく所では、しらじらしくも自分でさえ恥かしい程立派なことをいったり、立派なことを行(おこな)ったりするのだ。しかもお前はそんな蔑(さげす)むべきことをするのに、尤(もっと)もらしい理由をこしらえ上げている。聖人や英雄の真似(まね)をするのは――も少し聞こえのいい言葉遣(づか)いをすれば――聖人や英雄の言行を学ぶのは、やがて聖人でもあり英雄でもある素地を造る第一歩をなすものだ。我れ、舜(しゅん)の言を言い、舜の行を行わば、即(すなわ)ち舜のみというそれである。かくして、お前は心の隅(すみ)に容易ならぬ矛盾と、不安と、情なさとを感じながら、益□(ますます)高く虚妄(きょもう)なバベルの塔を登りつめて行こうとするのだ。
 悪いことには、お前のそうした態度は、社会の習俗には都合よくあてはまって行く態度なのだ。人間の生活はその欲求の奥底には必ず生長という大事な因子を持っているのだけれども、社会の習俗は平和――平和というよりも単なる無事に執着しようとしている。何事もなく昨日の生活を今日に繋(つな)ぎ、今日の生活を明日に延ばすような生活を最も面倒のない生活と思い、そういう無事の日暮しの中に、一日でも安きを偸(ぬす)もうとしているのだ。これが社会生活に強い惰性となって膠着(こうちゃく)している。そういう生活態度に適応する為めには、お前のような行き方は大変に都合がいい。お前の内部にどれ程の矛盾があり表裏があっても、それは習俗的な社会の頓着(とんちゃく)するところではない。単にお前が殊勝な言行さえしていれば、社会は無事に治まって泰平なのだ。社会はお前を褒(ほ)めあげて、お前に、お前が心窃(ひそ)かに恥じねばならぬような過大な報償を贈ってよこす。お前は腹の中で心苦しい苦笑いをしながらも、その過分な報償に報ゆるべく益□私から遠ざかって、心にもない犬馬の労を尽しつつ身を終ろうとするのだ。
 そんなことをして、お前が外部の圧迫の下に、虚偽な生活を続けている間に、何時しかお前は私をだしぬいて、思いもよらぬ聖人となり英雄となりおおせてしまうだろう。その時お前はもうお前自身ではなくなって、即ち一個の人間ではなくなって、人間の皮を被(かぶ)った専門家になってしまうのだ。仕事の上の専門家を私達は尊敬せねばならぬ。然し生活の習俗性の要求にのみ耳を傾けて、自分を置きざりにして、外部にのみ身売りをする専門家は、既に人間ではなくして、いかに立派でも、立派な一つの機械にしか過ぎない。
 いかにさもしくとも力なくとも人間は人間であることによってのみ尊い。人間の有する尊さの中、この尊さに優(まさ)る尊さを何処に求め得よう。この尊さから退くことは、お前を死滅に導くのみならず、お前の奉仕しようとしている社会そのものを死滅に導く。何故ならば人間の社会は生きた人間に依ってのみ造り上げられ、維持され、存続され、発達させられるからだ。
 お前は機械になることを恥じねばならぬ。若し聊(いささ)かでもそれを恥とするなら、そう軽はずみな先き走りばかりはしていられない筈(はず)だ。外部ばかりに気を取られていずに、少しは此方(こちら)を向いて見るがいい。そして本当のお前自身なるお前の個性がここにいるのを思い出せ。
 私を見出したお前は先ず失望するに違いない、私はお前が夢想していたような立派な姿の持主ではないから。お前が外部的に教え込まれている理想の物指(ものさし)にあてはめて見ると、私はいかにも物足らない存在として映るだろう。私はキャリバンではない代りにエーリヤルでもない。悪魔ではない代りに天使でもない。私にあっては霊肉というような区別は全く無益である。また善悪というような差別は全く不可能である。私は凡ての活動に於て、全体として生長するばかりだ。花屋は花を珍重するだろう。果物屋は果実を珍重するだろう。建築家はその幹を珍重するだろう。然し桜の木自身にあっては、かかる善悪差別を絶したところにただ生長があるばかりだ。然し私の生長は、お前が思う程迅速(じんそく)なものではない。私はお前のように頭だけ大きくしたり、手脚(てあし)だけ延ばしたりしただけでは満足せず、その全体に於て動き進まねばならぬからだ。理想という疫病に犯されているお前は、私の歩き方をもどかしがって、生意気にも私をさしおいて、外部の要求にのみ応じて、先き走りをしようとするのだ。お前は私より早く走るようだが、畢竟は遅く走っているのだ。何故といえば、お前が私を出し抜いて、外部の刺戟(しげき)ばかりに身を任せて走り出して、何処かに行き着くことが出来たとしても、その時お前は既に人間ではなくなって、一個の専門家即ち非情の機械になっているからだ。お前自身の面影は段々淡くなって、その淡くなったところが、聖人や英雄の襤褸布(ぼろきれ)で、つぎはぎになっているからだ。その醜い姿をお前はいつしか発見して後悔せねばならなくなる。後悔したお前はまたすごすごと私の所まで後戻りするより外に道がないのだ。
 だからお前は私の全支配の下にいなければならない。お前は私に抱擁せられて歩いて行かなければならない。
 個性に立ち帰れ。今までのお前の名誉と、功績と、誇りとの凡てを捨てて私に立ち帰れ。お前は生れるとから外界と接触し、外界の要求によって育て上げられて来た。外界は謂(い)わばお前の皮膚を包む皮膚のようになっている。お前の個性は分化拡張して、しかも稀薄(きはく)な内容になって、中心から外部へ散漫に流出してしまった。だからお前が、私を出し抜いて先き走りをするのも一面からいえば無理のないことだ。そしてお前は私に相談もせずに、愛のない時に、愛の籠(こも)ったような行いをしたり、憎しみを心の中に燃やしながら、寛大らしい振舞いをしたりしたろう。そしてそんな浮薄なことをする結果として、不可避的に心の中に惹(ひ)き起される不愉快な感じを、お前は努力に伴う自らの感じと強(し)いて思いこんだ。お前の感情を訓練するのだと思った。そんな風にお前が私と没交渉な愚かなことをしている間は、縦令(たとい)山程の仕事をし遂げようとも、お前自身は寸分の生長をもなし得てはいないのだ。そしてこの浅ましい行為によってお前は本当の人間の生活を阻害し、生命のない生活の残り滓(かす)を、いやが上に人生の路上に塵芥(じんかい)として積み上げるのだ。花屋の為めに一本の桜の樹は花ばかりの生存をしていてもいいかも知れない。その結果それが枯れ果てたら、花屋は遠慮なくその幹を切り倒して他の苗木を植えるだろうから。然し人間の生活の中に在る一人の人間はかくあってはならない。その人間が個性を失うのは、取りもなおさず社会そのものの生命を弱めることだ。
 お前も一度は信仰の門をくぐったことがあろう。人のすることを自分もして見なければ、何か物足りないような淋しさから、お前は宗教というものにも指を染めて見たのだ。お前が知るであろう通りに、お前の個性なる私は、渇仰的という点、即ち生長の欲求を烈(はげ)しく抱(いだ)いている点では、宗教的ということが出来る。然し私はお前のような浮薄な歩き方はしない。
 お前は私のここにいるのを碌々(ろくろく)顧みもせずに、習慣とか軽い誘惑とかに引きずられて、直(す)ぐに友達と、聖書と、教会とに走って行った。私は深い危懼(きく)を以てお前の例の先き走りを見守っていた。お前は例の如く努力を始めた。お前の努力から受ける感じというのは、柄にもない飛び上りな行いをした後に毎時(いつ)でも残される苦しい後味なのだ。お前は一方に崇高な告白をしながら、基督(キリスト)のいう意味に於て、正(まさ)しく盗みをなし、姦淫(かんいん)をなし、人殺しをなし、偽りの祈祷(きとう)をなしていたではないか。お前の行いが疚(や)ましくなると「人の義とせらるるは信仰によりて、律法の行いに依らず」といって、乞食のように、神なるものに情けを乞うたではないか。又お前の信仰の虚偽を発(あば)かれようとすると「主よ主よというもの悉(ことごと)く天国に入るにあらず、吾が天に在(ましま)す神の旨に遵(よ)るもののみなり」といってお前を弁護したではないか。お前の神と称していたものは、畢竟するに極く幽(かす)かな私の影に過ぎなかった。お前は私を出し抜いて宗教生活に奔(はし)っておきながら、お前の信仰の対象なる神を、私の姿になぞらえて造っていたのだ。そしてお前の生活には本質的に何等の変化も来(きた)さなかった。若し変化があったとしても、それは表面的なことであって、お前以外の力を天啓としてお前が感じたことなどはなかった。お前は強いて頭を働かして神を想像していたに過ぎないのだ。即ちお前の最も表面的な理智と感情との作用で、かすかな私の姿を神にまで捏(こ)ねあげていたのだ。お前にはお前以外の力がお前に加わって、お前がそれを避けるにもかかわらず、その力によって奮い起(た)たなければならなかったような経験は一度もなかったのだ。それだからお前の祈りは、空に向って投げられた石のように、冷たく、力なく、再びお前の上に落ちて来る外はなかったのだ。それらの苦々(にがにが)しい経験に苦しんだにもかかわらず、お前は頑固(がんこ)にもお前自身を欺いて、それを精進と思っていた。そしてお前自身を欺くことによって他人をまで欺いていた。
 お前はいつでも心にもない言行に、美しい名を与える詐術を用いていた。然しそれに飽き足らず思う時が遂に来ようとしている。まだいくらか誠実が残っていたのはお前に取って何たる幸だったろう。お前は絶えて久しく捨ておいた私の方へ顔を向けはじめた。今、お前は、お前の行為の大部分が虚偽であったのを認め、またお前は真の意味で、一度も祈祷をしたことのない人間であるのを知った。これからお前は前後もふらず、お前の個性と合一する為めにいそしまねばならない。お前の個性に生命の泉を見出し、個性を礎(いしずえ)としてその上にありのままのお前を築き上げなければならない。

        七

 私の個性は更に私に告げてこう云う。
 お前の個性なる私は、私に即して行くべき道のいかなるものであるかを説こうか。
 先ず何よりも先に、私がお前に要求することは、お前が凡(すべ)ての外界の標準から眼をそむけて、私に帰って来なければならぬという一事だ。恐らくはそれがお前には頼りなげに思われるだろう。外界の標準というものは、古い人類の歴史――その中には凡ての偉人と凡ての聖人とを含み、凡ての哲学と科学、凡ての文化と進歩とを蓄えた宏大もない貯蔵場だ――と、現代の人類活動の諸相との集成から成り立っている。それからお前が全く眼を退けて、私だけに注意するというのは、便(たよ)りなくも心細くも思われることに違いない。然し私はお前に云う。躊躇(ちゅうちょ)するな。お前が外界に向けて拡げていた鬚根(しゅこん)の凡てを抜き取って、先を揃(そろ)えて私の中に□(さ)し入れるがいい。お前の個性なる私は、多くの人の個性に比べて見たら、卑しく劣ったものであろうけれども、お前にとっては、私の外により完全なものはないのだ。
 かくてようやく私に帰って来たお前は、これまでお前が外界に対してし慣れていたように、私を勝手次第に切りこまざいてはならぬ。お前が外界と交渉していた時のように、善悪美醜というような見方で、強(し)いて私を理解しようとしてはならぬ。私の要求をその統合のままに受け入れねばならぬ。お前が私の全要求に応じた時に於てのみ私は生長を遂げるであろう。私はお前が従う為めに結果される思想なり言説なり行為なりが、仮りに外界の伝説、習慣、教訓と衝突矛盾を惹(ひ)き起すことがあろうとも、お前は決して心を乱して、私を疑うようなことをしてはならぬ。急がず、躊(ため)らわず、お前の個性の生長と完成とを心がけるがいい。然しここにくれぐれもお前に注意しておかねばならぬのは、今までお前が外面的の、約束された、習俗的な考え方で、個性の働きを解釈したり、助成したりしてはならぬという事だ。例えば個性の要求の結果が一見肉に属する慾の遂行のように思われる時があっても、それをお前が今まで考えていたように、簡単に肉慾の遂行とのみ見てはならぬ。同様に、その要求が一見霊に属するもののように思われても、それを全然肉から離して考えるということは、個性の本然性に背(そむ)いた考え方だ。私達の肉と霊とは哲学者や宗教家が概念的に考えているように、ものの二極端を現わしているものでないのは勿論(もちろん)、それは差別の出来ない一体となってのみ個性の中には生きているのだ。水を考えようとする場合に、それを水素と酸素とに分解して、どれ程綿密に二つの元素を研究したところが、何の役にも立たないだろう。水は水そのものを考えることによってのみ理解される。だから私がお前に望むところは、私の要求を、お前が外界の標準によって、支離滅裂にすることなく、その全体をそのまま摂受して、そこにお前の満足を見出す外(ほか)にない。これだけの用意が出来上ったら、もう何の躊躇もなく驀進(ばくしん)すべき準備が整ったのだ。私の誇りかなる時は誇りかとなり、私の謙遜(けんそん)な時は謙遜となり、私の愛する時愛し、私の憎む時憎み、私の欲するところを欲し、私の厭(いと)うところを厭えばいいのである。
 かくしてお前は、始めてお前自身に立ち帰ることが出来るだろう。この世に生れ出て、産衣(うぶぎ)を着せられると同時に、今日までにわたって加えられた外界の圧迫から、お前は今始めて自由になることが出来る。これまでお前が、自分を或る外界の型に篏(は)める必要から、強いて不用のものと見て、切り捨ててしまったお前の部分は、今は本当の価値を回復して、お前に取ってはやはり必要欠くべからざる要素となった。お前の凡ての枝は、等しく日光に向って、喜んで若芽を吹くべき運命に逢(あ)い得たのだ。その時お前は永遠の否定を後ろにし、無関心の谷間を通り越して、初めて永遠の肯定の門口に立つことが出来るようになった。
 お前の実生活にもその影響がない訳ではない。これからのお前は必然によって動いて、無理算段をして動くことはない。お前の個性が生長して今までのお前を打ち破って、更に新しいお前を造り出すまで、お前は外界の圧迫に余儀なくされて、無理算段をしてまでもお前が動く必然を見なくなる。例えばお前が外界に即した生活を営んでいた時、お前は控え目という道徳を実行していたろう。お前は心にもなく善行をし過すことを恐れて、控目に善行をしていたろう。然しお前は自分の欠点を隠すことに於(おい)ては、中々控目には隠していなかった。寧(むし)ろ恐ろしい大胆さを以て、お前の心の醜い秘密を人に知られまいとしたではないか。お前は人の前では、秘(ひそ)かに自任しているよりも、低く自分の徳を披露(ひろう)して、控目という徳性を満足させておきながら、欲念というような実際の弱点は、一寸見(ちょっとみ)には見つからない程、綿密に上手に隠しおおせていたではないか。そういう態度を私は無理算段と呼ぶのだ。然し私に即した生活にあっては、そんな無理算段はいらないことだ。いかなる欲念も、畢竟(ひっきょう)お前の個性の生長の糧(かて)となるのであるが故に、お前はそれに対して臆病であるべき必要がなくなるだろう。即ち、お前は、私の生長の必然性のためにのみ変化して、外界に対しての顧慮から伸び縮みする必要は絶対になくなるべき筈(はず)だ。何事もそれからのことだ。
 お前はまた私に帰って来る前に、お前が全く外界の標準から眼を退けて、私を唯一無二の力と頼む前に、人類に対するお前の立場の調和について迷ったかも知れない。驀地(まっしぐら)にお前が私と一緒になって進んで行くことが、人類に対して迷惑となり、その為めに人間の進歩を妨げ、従って生活の秩序を破り、節度を壊すような結果を多少なりとも惹(ひ)き起しはしまいか。そうお前は迷ったろう。
 それは外界にのみ執着しなれたお前に取っては考えられそうなことだ。然しお前がこの問題に対して真剣になればなる程、そうした外部的な顧慮は、お前には考えようとしても考えられなくなって来るだろう。水に溺(おぼ)れて死のうとする人が、世界の何処かの隅(すみ)で、小さな幸福を得た人のあるのを想像して、それに祝福を送るというようなことがとてもあり得ないと同様に、お前がまことに緊張して私に来る時には、それから結果される影響などは考えてはいられない筈だ。自分の罪に苦しんで、荊棘(いばら)の中に身をころがして、悶(もだ)えなやんだ聖者フランシスが、その悔悟の結果が、人類にどういう影響を及ぼすだろうかと考えていたかなどと想像するようなものは、人の心の正しい尊さを、露程も味ったことのない憐(あわ)れな人といわなければならないだろう。
 お前にいって聞かす。
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