生まれいずる悩み
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著者名:有島武郎 

それは「死ぬのがいやだ」「生きていたい」「生きる余席の有る限りはどうあっても生きなければならぬ」「死にはしないぞ」という本能の論理的結論であったのだ。この恐ろしい盲目な生の事実が、そしてその結論だけが、目を見すえたように、君の心の底に落ち付き払っていたのだった。
 君はこの物すごい無気味な衝動に駆り立てられながら、水船なりにも顛覆した船を裏返す努力に力を尽くした。残る四人の心も君と変わりはないと見えて、険しい困苦と戦いながら、四人とも君のいる舷(ふなべり)のほうへ集まって来た。そして申し合わしたように、いっしょに力を合わせて、船の胴腹にはい上がるようにしたので、船は一方にかしぎ始めた。
「それ今ひと息だぞっ」
 君の父上がしぼり切った生命を声にしたように叫んだ。一同はまた懸命な力をこめた。
 おりよく――全くおりよく、天運だ――その時船の横面(よこつら)に大きな波が浴びせこんで来たので、片方だけに人の重りの加わった船はくるりと裏返った。舷までひたひたと水に埋もれながらもとにかく船は真向きになって水の面に浮かび出た。船が裏返る拍子に五人は五人ながら、すっぽりと氷のような海の中にもぐり込みながら、急に勢いづいて船の上に飛び上がろうとした。しかししこたま着込んだ衣服は思うざまぬれ透っていて、ややともすれば人々を波の中に吸い込もうとした。それが一方の舷に取りついて力をこめればまた顛覆(てんぷく)するにきまっている。生死の瀬戸ぎわにはまり込んでいる人々の本能は恐ろしいほど敏捷(びんしょう)な働きをする。五人の中の二人は咄嗟(とっさ)に反対の舷に回った。そして互いに顔を見合わせながら、一度にやっと声をかけ合わせて半身を舷に乗り上げた。足のほうを船底に吸い寄せられながらも、半身を水から救い出した人々の顔に現われたなんとも言えない緊張した表情――それを君は忘れる事ができない。次の瞬間にはわっと声をあげて男泣きに泣くか、それとも我れを忘れて狂うように笑うか、どちらかをしそうな表情――それを君は忘れる事ができない。
 すべてこうした懸命な努力は、降りしきる雪と、荒れ狂う水と、海面をこすって飛ぶ雲とで表わされる自然の憤怒(ふんぬ)の中で行なわれたのだ。怒った自然の前には、人間は塵(ちり)ひとひらにも及ばない。人間などという存在は全く無視されている。それにも係わらず君たちは頑固(がんこ)に自分たちの存在を主張した。雪も風も波も君たちを考えにいれてはいないのに、君たちはしいてもそれらに君たちを考えさせようとした。
 舷(ふなべり)を乗り越して奔馬のような波頭がつぎつぎにすり抜けて行く。それに腰まで浸しながら、君たちは船の中に取り残された得物をなんでもかまわず取り上げて、それを働かしながら、死からのがるべき一路を切り開こうとした。ある者は艪(ろ)を拾いあてた。あるものは船板を、あるものは水柄杓(みずびしゃく)を、あるものは長いたわしの柄を、何ものにも換えがたい武器のようにしっかり握っていた。そして舷から身を乗り出して、子供がするように、水を漕(こ)いだり、浸水(あか)をかき出したりした。
 吹き落ちる気配(けはい)も見えないあらしは、果てもなく海上を吹きまくる。目に見える限りはただ波頭ばかりだ。犬のような敏捷(すばや)さで方角を嗅(か)ぎ慣れている漁夫たちも、今は東西の定めようがない。東西南北は一つの鉢(はち)の中ですりまぜたように渾沌(こんとん)としてしまった。
 薄い暗黒。天からともなく地からともなくわき起こる大叫喚。ほかにはなんにもない。
「死にはしないぞ」――そんなはめになってからも、君の心の底は妙に落ち着いて、薄気味悪くこの一事を思いつづけた。
 君のそばには一人の若い漁夫がいたが、その右の顳□(こめかみ)のへんから生々しい色の血が幾条にもなって流れていた。それだけがはっきり君の目に映った。「死にはしないぞ」――それを見るにつけても、君はまたしみじみとそう思った。
 こういう必死な努力が何分続いたのか、何時間続いたのか、時間というもののすっかり無くなってしまったこの世界では少しもわからない。しかしながらとにかく君が何ものも納(い)れ得ない心の中に、疲労という感じを覚えだして、これは困った事になったと思ったころだった、突然一人の漁夫が意味のわからない言葉を大きな声で叫んだのは。今まででも五人が五人ながら始終何か互いに叫び続けていたのだったが、この叫び声は不思議にきわ立ってみんなの耳に響いた。
 残る四人は思わず言い合わせたようにその漁夫のほうを向いて、その漁夫が目をつけているほうへ視線をたどって行った。
 船! ‥‥船!
 濃い吹雪(ふぶき)の幕のあなたに、さだかには見えないが、波の背(そびら)に乗って四十五度くらいの角度に船首を下に向けながら、帆をいっぱいに開いて、矢よりも早く走って行く一艘(そう)の船!
 それを見ると何かが君の胸をどきんと下からつき上げて来た。君は思わずすすり泣きでもしたいような心持ちになった。何はさておいても君たちはその船を目がけて助けを求めながら近寄って行かねばならぬはずだった。余の人たちも君と同様、確かに何物かを目の前に認めたらしく、奇怪な叫び声を立てた漁夫が、目を大きく開いて見つめているあたりを等しく見つめていた。そのくせ一人として自分らの船をそっちのほうへ向けようとしているらしい者はなかった。それをいぶかる君自身すら、心がただわくわくと感傷的になりまさるばかりで、急いで働かすべき手はかえって萎(な)えてしまっていた。
 白い帆をいっぱいに開いたその船は、依然として船首を下に向けたまま、矢のように走って行く。降りしきる吹雪(ふぶき)を隔てた事だから、乗り組みの人の数もはっきりとは見えないし、水の上に割合に高く現われている船の胴も、木の色というよりは白堊(はくあ)のような生白さに見えていた。そして不思議な事には、波の腹に乗っても波の背に乗っても、舳(へさき)は依然として下に向いたままである。風の強弱に応じて帆を上げ下げする様子もない。いつまでも目の前に見えながら、四十五度くらいに船首を下向きにしたまま、矢よりも早く走って行く。
 ぎょっとして気がつくと、その船はいつのまにか水から離れていた。波頭から三段も上と思われるあたりを船は傾(かし)いだまま矢よりも早く走っている。君の頭はかあんとしてすくみ上がってしまった。同時に船はだんだん大きくぼやけて行った。いつのまにかその胴体は消えてなくなって、ただまっ白い帆だけが矢よりも早く動いて行くのが見やられるばかりだ。と思うまもなくその白い大きな帆さえが、降りしきる雪の中に薄れて行って、やがてはかき消すように見えなくなってしまった。
 怒濤(どとう)。白沫(しらあわ)。さっさっと降りしきる雪。目をかすめて飛びかわす雲の霧。自然の大叫喚‥‥そのまっただ中にたよりなくもみさいなまれる君たちの小さな水船‥‥やっぱりそれだけだった。
 生死の間にさまよって、疲れながらも緊張し切った神経に起こる幻覚(ハルシネーション)だったのだと気がつくと、君は急に一種の薄気味悪さを感じて、力を一度にもぎ取られるように思った。
 さきほど奇怪な叫び声を立てたその若い漁夫は、やがて眠るようにおとなしく気を失って、ひょろひょろとよろめくと見る間に、くずれるように胴の間にぶっ倒れてしまった。
 漁夫たちは何か魔でもさしたように思わず極度の不安を目に現わして互いに顔を見合わせた。
「死にはしないぞ」
 不思議な事にはそのぶっ倒れた男を見るにつけて、また漁夫たちの不安げな様子を見るにつけて、君は懲りずまに薄気味悪くそう思いつづけた。
 君たちがほんとうに一艘(そう)の友船と出くわしたまでには、どれほどの時間がたっていたろう。しかしとにかく運命は君たちには無関心ではなかったと見える。急に十倍も力を回復したように見えた漁夫たちが、必死になって君たちの船とその船とをつなぎ合わせ、半分がた凍ってしまった帆を形ばかりに張り上げて、風の追うままに船を走らせた時には、なんとも言えない幸福な感謝の心が、おさえてもおさえてもむらむらと胸の先にこみ上げて来た。
 着く所に着いてから思い存分の手当をするからしばらく我慢してくれと心の中にわびるように言いながら、君は若い漁夫を卒倒したまま胴の間の片すみに抱きよせて、すぐ自分の仕事にかかった。
 やがて行く手の波の上にぼんやりと雷電峠の突角が現われ出した。山脚(やまあし)は海の中に、山頂は雲の中に、山腹は雪の中にもみにもまれながら、決して動かないものが始めて君たちの前に現われたのだ。それを見つけた時の漁夫たちの心の勇み‥‥魚が水にあったような、野獣が山に放たれたような、太陽が西を見つけ出したようなその喜び‥‥船の中の人たちは思わず足爪立(つまだ)てんばかりに総立ちになった。人々の心までが総立ちになった。
「峠が見えたぞ‥‥北に取れや舵(かじ)を‥‥隠れ岩さ乗り上げんな‥‥雪崩(なだれ)にも打たせんなよう‥‥」
 そう言う声がてんでんに人々の口からわめかれた。それにしても船はひどく流されていたものだ。雷電峠から五里も離れた瀬にいたものが、いつのまにかこんな所に来ているのだ。見る見る風と波とに押しやられて船は吸い付けられるように、吹雪(ふぶき)の間からまっ黒に天までそそり立つ断崕(だんがい)に近寄って行くのを、漁夫たちはそうはさせまいと、帆をたて直し、艪(ろ)を押して、横波を食わせながら船を北へと向けて行った。
 陸地に近づくと波はなお怒る。鬣(たてがみ)を風になびかして暴(あ)れる野馬のように、波頭は波の穂になり、波の穂は飛沫(ひまつ)になり、飛沫はしぶきになり、しぶきは霧になり、霧はまたまっ白い波になって、息もつかせずあとからあとからと山すそに襲いかかって行く。山すその岩壁に打ちつけた波は、煮えくりかえった熱湯をぶちつけたように、湯げのような白沫(しらあわ)を五丈も六丈も高く飛ばして、反(そ)りを打ちながら海の中にどっとくずれ込む。
 その猛烈な力を感じてか、断崕(だんがい)の出鼻に降り積もって、徐々に斜面をすべり下って来ていた積雪が、地面との縁(えん)から離れて、すさまじい地響きとともに、何百丈の高さから一気になだれ落ちる。巓(いただき)を離れた時には一握りの銀末に過ぎない。それが見る見る大きさを増して、隕星(いんせい)のように白い尾を長く引きながら、音も立てずにまっしぐらに落として来る。あなやと思う間にそれは何十里にもわたる水晶の大簾(おおすだれ)だ。ど、ど、どどどしーん‥‥さあーっ‥‥。広い海面が目の前でまっ白な平野になる。山のような五百重(いおえ)の大波はたちまちおい退けられて漣(さざなみ)一つ立たない。どっとそこを目がけて狂風が四方から吹き起こる‥‥その物すさまじさ。
 君たちの船は悪鬼におい迫られたようにおびえながら、懸命に東北へと舵(かじ)を取る。磁石のような陸地の吸引力からようよう自由になる事のできた船は、また揺れ動く波の山と戦わねばならぬ。
 それでも岩内の港が波の間に隠れたり見えたりし始めると、漁夫たちの力は急に五倍にも十倍にもなった。今までの人数の二倍も乗っているように船は動いた。岸から打ち上げる目標の烽火(のろし)が紫だって暗黒な空の中でぱっとはじけると、□々(さんさん)として火花を散らしながら闇(やみ)の中に消えて行く。それを目がけて漁夫たちは有る限りの艪(ろ)を黙ったままでひた漕(こ)ぎに漕いだ。その不思議な沈黙が、互いに呼びかわす惨(むごた)らしい叫び声よりもかえって力強く人々の胸に響いた。
 船が波の上に乗った時には、波打ちぎわに集まって何か騒ぎ立てている群衆が見やられるまでになった。やがてあらしの間にも大砲のような音が船まで聞こえて来た。と思うと救助縄(きゅうじょなわ)が空をかける蛇(へび)のように曲がりくねりながら、船から二三段隔たった水の中にざぶりと落ちた。漁夫たちはそのほうへ船を向けようとひしめいた。第二の爆声が聞こえた。縄はあやまたず船に届いた。
 二三人の漁夫がよろけころびながらその縄のほうへ駆け寄った。
 音は聞こえずに烽火(のろし)の火花は間を置いて怪火のようにはるかの空にぱっと咲いてはすぐ散って行く。
 船は縄に引かれてぐんぐん陸のほうへ近寄って行く。水底が浅くなったために無二無三に乱れ立ち騒ぐ波濤(はとう)の中を、互いにしっかりしがみ合った二艘(そう)の船は、半分がた水の中をくぐりながら、半死のありさまで進んで行った。
 君は始めて気がついたように年老いた君の父上のほうを振り返って見た。父上はひざから下を水に浸して舵座(かじざ)にすわったまま、じっと君を見つめていた。今まで絶えず君と君の兄上とを見つめていたのだ。そう思うと君はなんとも言えない骨肉の愛着にきびしく捕えられてしまった。君の目には不覚にも熱い涙が浮かんで来た。君の父上はそれを見た。
「あなたが助かってよござんした」
「お前が助かってよかった」
 両人の目には咄嗟(とっさ)の間にも互いに親しみをこめてこう言い合った。そしてこのうれしい言葉を語る目から互い互いの目は離れようとしなかった。そうしたままでしばらく過ぎた。
 君は満足しきってまた働き始めた。もう目の前には岩内の町が、きたなく貧しいながらに、君にとってはなつかしい岩内の町が、新しく生まれ出たままのように立ち列(つら)なっていた。水難救済会の制服を着た人たちが、右往左往に駆け回るありさまもまざまざと目に映った。
 なんとも言えない勇ましい新しい力――上げ潮のように、腹のどん底からむらむらとわき出して来る新しい力を感じて、君は「さあ来い」と言わんばかりに、艪(ろ)をひしげるほど押しつかんだ。そして矢声をかけながら漕(こ)ぎ始めた。涙があとからあとからと君の頬(ほお)を伝って流れた。
 唖(おし)のように今まで黙っていたほかの漁夫たちの口からも、やにわに勇ましいかけ声があふれ出て、君の声に応じた。艪は梭(ひ)のように波を切り破って激しく働いた。
 岸の人たちが呼びおこす声が君たちの耳にもはいるまでになった。と思うと君はだんだん夢の中に引き込まれるようなぼんやりした感じに襲われて来た。
 君はもう一度君の父上のほうを見た。父上は舵座にすわっている。しかしその姿は前のように君になんらの迫った感じをひき起こさせなかった。
 やがて船底にじゃりじゃりと砂の触れる音が伝わった。船は滞りなく君が生まれ君が育てられたその土の上に引き上げられた。
「死にはしなかったぞ」
と君は思った。同時に君の目の前は見る見るまっ暗になった。‥‥君はそのあとを知らない。

       七

 君は漁夫たちとひざをならべて、同じ握り飯を口に運びながら、心だけはまるで異邦人のように隔たってこんなことを思い出す。なんという真剣なそして険しい漁夫の生活だろう。人間というものは、生きるためには、いやでも死のそば近くまで行かなければならないのだ。いわば捨て身になって、こっちから死に近づいて、死の油断を見すまして、かっぱらいのように生の一片をひったくって逃げて来なければならないのだ。死は知らんふりをしてそれを見やっている。人間は奪い取って来た生をたしなみながらしゃぶるけれども、ほどなくその生はまた尽きて行く。そうするとまた死の目の色を見すまして、死のほうにぬすみ足で近寄って行く。ある者は死があまり無頓着(むとんじゃく)そうに見えるので、つい気を許して少し大胆に高慢にふるまおうとする。と鬼一口だ。もうその人は地の上にはいない。ある者は年とともにいくじがなくなって行って、死の姿がいよいよ恐ろしく目に映り始める。そしてそれに近寄る冒険を躊躇(ちゅうちょ)する。そうすると死はやおら物憂(ものう)げな腰を上げて、そろそろとその人に近寄って来る。ガラガラ蛇(へび)に見こまれた小鳥のように、その人は逃げも得しないですくんでしまう。次の瞬間にその人はもう地の上にはいない。人の生きて行く姿はそんなふうにも思いなされる。実にはかないともなんとも言いようがない。その中にも漁夫の生活の激しさは格別だ。彼らは死に対してけんかをしかけんばかりの切羽(せっぱ)つまった心持ちで出かけて行く。陸の上ではなんと言っても偽善も弥縫(びほう)もある程度までは通用する。ある意味では必要であるとさえも考えられる。海の上ではそんな事は薬の足(た)しにしたくもない。真裸な実力と天運ばかりがすべての漁夫の頼みどころだ。その生活はほんとに悲壮だ。彼らがそれを意識せず、生きるという事はすべてこうしたものだとあきらめをつけて、疑いもせず、不平も言わず、自分のために、自分の養わなければならない親や妻や子のために、毎日毎日板子一枚の下は地獄のような境界に身を放(な)げ出して、せっせと骨身を惜しまず働く姿はほんとうに悲壮だ。そして惨(みじ)めだ。なんだって人間というものはこんなしがない苦労をして生きて行かなければならないのだろう。
 世の中には、ことに君が少年時代を過ごした都会という所には、毎日毎日安逸な生を食傷するほどむさぼって一生夢のように送っている人もある。都会とは言うまい。だんだんとさびれて行くこの岩内の小さな町にも、二三百万円の富を祖先から受け嗣(つ)いで、小樽(おたる)には立派な別宅を構えてそこに妾(めかけ)を住まわせ、自分は東京のある高等な学校をともかくも卒業して、話でもさせればそんなに愚鈍にも見えないくせに、一年じゅうこれと言ってする仕事もなく、退屈をまぎらすための行楽に身を任せて、それでも使い切れない精力の余剰を、富者の贅沢(ぜいたく)の一つである癇癪(かんしゃく)に漏らしているのがある。君はその男をよく知っている。小学校時代には教室まで一つだったのだ。それが十年かそこらの年月の間に、二人の生活は恐ろしくかけ隔たってしまったのだ。君はそんな人たちを一度でもうらやましいと思った事はない。その人たちの生活の内容のむなしさを想像する充分の力を君は持っている。そして彼らが彼らの導くような生活をするのは道理があると合点がゆく。金があって才能が平凡だったら勢いああしてわずかに生の倦怠(けんたい)からのがれるほかはあるまいとひそかに同情さえされぬではない。その人たちが生に飽満して暮らすのはそれでいい。しかし君の周囲にいる人たちがなぜあんな恐ろしい生死の境の中に生きる事を僥倖(ぎょうこう)しなければならない運命にあるのだろう。なぜ彼らはそんな境遇――死ぬ瞬間まで一分の隙(すき)を見せずに身構えていなければならないような境遇にいながら、なぜ生きようとしなければならないのだろう。これは君に不思議ななぞのようなここちを起こさせる。ほんとうに生は死よりも不思議だ。
 その人たちは他人眼(よそめ)にはどうしても不幸な人たちと言わなければならない。しかし君自身の不幸に比べてみると、はるかに幸福だと君は思い入るのだ。彼らにはとにかくそういう生活をする事がそのまま生きる事なのだ。彼らはきれいさっぱりとあきらめをつけて、そういう生活の中に頭からはまり込んでいる。少しも疑ってはいない。それなのに君は絶えずいらいらして、目前の生活を疑い、それに安住する事ができないでいる。君は喜んで君の両親のために、君の家の苦しい生活のために、君のがんじょうな力強い肉体と精力とを提供している。君の父上のかりそめの風邪(かぜ)がなおって、しばらくぶりでいっしょに漁(りょう)に出て、夕方になって家に帰って来てから、一家がむつまじくちゃぶ台のまわりを囲んで、暗い五燭(しょく)の電燈の下で箸(はし)を取り上げる時、父上が珍しく木彫のような固い顔に微笑をたたえて、
「今夜ははあおまんまがうめえぞ」
と言って、飯茶わんをちょっと押しいただくように目八分に持ち上げるのを見る時なぞは、君はなんと言っても心から幸福を感ぜずにはいられない。君は目前の生活を決して悔やんでいるわけではないのだ。それにも係わらず、君は何かにつけてすぐ暗い心になってしまう。
「絵がかきたい」
 君は寝ても起きても祈りのようにこの一つの望みを胸の奥深く大事にかきいだいているのだ。その望みをふり捨ててしまえる事なら世の中は簡単なのだ。
 恋――互いに思い合った恋と言ってもこれほどの執着はあり得まいと君自身の心を憐(あわ)れみ悲しみながらつくづくと思う事がある。君の厚い胸の奥からは深いため息が漏れる。
 雨の日などに土間にすわりこんで、兄上や妹さんなぞといっしょに、配縄(はいなわ)の繕いをしたりしていると、どうかした拍子にみんなが仕事に夢中になって、むつまじくかわしていた世間話すら途絶えさして、黙りこんで手先ばかりを忙(せわ)しく働かすような時がある。こういう瞬間に、君は我れにもなく手を休めて、茫然(ぼうぜん)と夢でも見るように、君の見ておいた山の景色を思い出している事がある。この山とあの山との距(へだた)りの感じは、界(さかい)の線をこういう曲線で力強くかきさえすれば、きっといいに違いない、そんな事を一心に思い込んでしまう。そして鋏(はさみ)を持った手の先で、ひとりでに、想像した曲線をひざの上に幾度もかいては消し、かいては消ししている。
 またある時は沖に出て配縄をたぐり上げるだいじな忙(せわ)しい時に、君は板子の上にすわって、二本ならべて立てられたビールびんの間から縄をたぐり込んで、釣(つ)りあげられた明鯛(すけそう)がびんにせかれるために、針の縁(えん)を離れて胴の間にぴちぴちはねながら落ちて行くのをじっと見やっている。そしてクリムソンレーキを水に薄く溶かしたよりもっと鮮明な光を持った鱗(うろこ)の色に吸いつけられて、思わずぼんやりと手の働きをやめてしまう。
 これらの場合はっと我れに返った瞬間ほど君を惨(みじ)めにするものはない。居眠りしたのを見つけられでもしたように、君はきょとんと恥ずかしそうにあたりを見回して見る。ある時は兄上や妹さんが、暗まって行く夕方の光に、なお気ぜわしく目を縄(なわ)によせて、せっせとほつれを解いたり、切れ目をつないだりしている。ある時は漁夫たちが、寒さに手を海老(えび)のように赤くへし曲げながら、息せき切って配縄(はいなわ)をたくし上げている。君は子供のように思わず耳もとまで赤面する。
「なんというだらしのない二重生活だ。おれはいったいおれに与えられた運命の生活に男らしく服従する覚悟でいるんじゃないか。それだのにまだちっぽけな才能に未練を残して、柄にもない野心を捨てかねていると見える。おれはどっちの生活にも真剣にはなれないのだ。おれの絵に対する熱心だけから言うと、絵かきになるためには充分すぎるほどなのだが、それだけの才能があるかどうかという事になると判断のしようが無くなる。もちろんおれに絵のかき方を教えてくれた人もなければ、おれの絵を見てくれる人もない。岩内の町でのたった一人の話し相手のKは、おれの絵を見るたびごとに感心してくれる。そしてどんな苦しみを経ても絵かきになれと勧めてくれる。しかしKは第一おれの友だちだし、第二に絵がおれ以上にわかるとは思われぬ。Kの言葉はいつでもおれを励まし鞭(むち)うってくれる。しかしおれはいつでもそのあとに、うぬぼれさせられているのではないかという疑いを持たずにはいない。どうすればこの二重生活を突き抜ける事ができるのだろう。生まれから言っても、今までの運命から言っても、おれは漁夫で一生を終えるのが相当しているらしい。Kもあの気むずかしい父のもとで調剤師で一生を送る決心を悲しくもしてしまったらしい。おれから見るとKこそは立派な文学者になれそうな男だけれども、Kは誇張なく自分の運命をあきらめている。悲しくもあきらめている。待てよ、悲しいというのはほんとうはKの事ではない。そう思っているおれ自身の事だ。おれはほんとうに悲しい男だ。親父(おやじ)にも済まない。兄や妹にも済まない。この一生をどんなふうに過ごしたらおれはほんとうにおれらしい生き方ができるのだろう」
 そこに居ならんだ漁夫たちの間に、どっしりと男らしいがんじょうなあぐらを組みながら、君は彼らとは全く異邦の人のようなさびしい心持ちになって、こんなことを思いつづける。
 やがて漁夫たちはそこらを片付けてやおら立ち上がると、胴の間に降り積んだ雪を摘まんで、手のひらで擦(こす)り合わせて、指に粘りついた飯粒を落とした。そして配縄(はいなわ)の引き上げにかかった。
 西に舂(うすず)きだすと日あしはどんどん歩みを早める。おまけに上のほうからたるみなく吹き落として来る風に、海面は妙に弾力を持った凪(な)ぎ方をして、その上を霰(あられ)まじりの粉雪がさーっと来ては過ぎ、過ぎては来る。君たちは手袋を脱ぎ去った手をまっかにしながら、氷点以下の水でぐっしょりぬれた配縄をその一端からたぐり上げ始める。三間四間置きぐらいに、目の下二尺もあるような鱈(たら)がぴちぴちはねながら引き上げられて来る。
 三十町に余るくらいな配縄をすっかりたくしこんでしまうころには、海の上は少し墨汁(ぼくじゅう)を加えた牛乳のようにぼんやり暮れ残って、そこらにながめやられる漁船のあるものは、帆を張り上げて港を目ざしていたり、あるものはさびしい掛け声をなお海の上に響かせて、忙(せわ)しく配縄(はいなわ)を上げているのもある。夕暮れに海上に点々と浮かんだ小船を見渡すのは悲しいものだ。そこには人間の生活がそのはかない末梢(まっしょう)をさびしくさらしているのだ。
 君たちの船は、海風が凪(な)ぎて陸風に変わらないうちにと帆を立て、艪(ろ)を押して陸地を目がける。晴れては曇る雪時雨(ゆきしぐれ)の間に、岩内(いわない)の後ろにそびえる山々が、高いのから先に、水平線上に現われ出る。船歌をうたいつれながら、漁夫たちは見慣れた山々の頂をつなぎ合わせて、港のありかをそれとおぼろげながら見定める。そこには妻や母や娘らが、寒い浜風に吹きさらされながら、うわさとりどりに汀(みぎわ)に立って君たちの帰りを待ちわびているのだ。
 これも牛乳のような色の寒い夕靄(ゆうもや)に包まれた雷電峠の突角がいかつく大きく見えだすと、防波堤の突先(とっさき)にある灯台の灯(ひ)が明滅して船路を照らし始める。毎日の事ではあるけれども、それを見ると、君と言わず人々の胸の中には、きょうもまず命は無事だったという底深い喜びがひとりでにわき出して来て、陸に対する不思議なノスタルジヤが感ぜられる。漁夫たちの船歌は一段と勇ましくなって、君の父上は船の艫(とも)に漁獲を知らせる旗を揚げる。その旗がばたばたと風にあおられて音を立てる――その音がいい。
 だんだん間近になった岩内の町は、黄色い街灯の灯(ひ)のほかには、まだ灯火もともさずに黒くさびしく横たわっている。雪のむら消えた砂浜には、けさと同様に女たちがかしこここにいくつかの固い群れになって、石ころのようにこちんと立っている。白波がかすかな潮の香と音とをたてて、その足もとに行っては消え、行っては消えするのが見え渡る。
 帆がおろされた。船は海岸近くの波に激しく動揺しながら、艫を海岸のほうに向けかえてだんだんと汀(みぎわ)に近寄って行く。海産物会社の印袢天(しるしばんてん)を着たり、犬の皮か何かを裏につけた外套(がいとう)を深々と羽織ったりした男たちが、右往左往に走りまわるそのあたりを目がけて、君の兄上が手慣れたさばきでさっと艫綱(ともづな)を投げると、それがすぐ幾十人もの男女の手で引っぱられる。船はしきりと上下する舳(へさき)に波のしぶきを食いながら、どんどん砂浜に近寄って、やがて疲れ切った魚のように黒く横たわって動かなくなる。
 漁夫たちは艪(ろ)や舵(かじ)や帆の始末を簡単にしてしまうと、舷(ふなべり)を伝わって陸におどり上がる。海産物製造会社の人夫たちは、漁夫たちと入れ替わって、船の中に猿(ましら)のように飛び込んで行く。そしてまだ死に切らない鱈(たら)の尾をつかんで、礫(こいし)のように砂の上にほうり出す。浜に待ち構えている男たちは、目にもとまらない早わざで数を数えながら、魚を畚(もっこ)の中にたたき込む。漁夫たちは吉例のように会社の数取(かずと)り人に対して何かと故障を言いたててわめく。一日ひっそりかんとしていた浜も、このしばらくの間だけは、さすがににぎやかな気分になる。景気にまき込まれて、女たちの或(あ)る者まで男といっしょになってけんか腰に物を言いつのる。
 しかしこのはなばなしいにぎわいも長い間ではない。命をなげ出さんばかりの険しい一日の労働の結果は、わずか十数分の間でたわいもなく会社の人たちに処分されてしまうのだ。君が君の妹を女たちの群れの中から見つけ出して、忙(せわ)しく目を見かわし、言葉をかわす暇もなく、浜の上には乱暴に踏み荒された砂と、海藻(かいそう)と小魚とが砂まみれになって残っているばかりだ。そして会社の人夫たちはあとをも見ずにまた他の漁船のほうへ走って行く。
 こうして岩内じゅうの漁夫たちが一生懸命に捕獲して来た魚はまたたくうちにさらわれてしまって、墨のように煙突から煙を吐く怪物のような会社の製造所へと運ばれて行く。
 夕焼けもなく日はとっぷりと暮れて、雪は紫に、灯(ひ)は光なくただ赤くばかり見える初夜になる。君たちはけさのとおりに幾かたまりの黒い影になって、疲れ切った五体をめいめいの家路に運んで行く。寒気のために五臓まで締めつけられたような君たちは口をきくのさえ物惰(ものう)くてできない。女たちがはしゃいだ調子で、その日のうちに陸の上で起こったいろいろな出来事――いろいろな出来事と言っても、きわだって珍しい事やおもしろい事は一つもない――を話し立てるのを、ぶっつり押し黙ったままで聞きながら歩く。しかしそれがなんという快さだろう。
 しかし君の家が近くなるにつれて妙に君の心を脅かし始めるものがある。それは近年引き続いて君の家に起こった種々な不幸がさせるわざだ。長わずらいの後に夫に先立った君の母上に始まって、君の家族の周囲には妙に死というものが執念(しゅうね)くつきまつわっているように見えた。君の兄上の初生児も取られていた。汗水が凝り固まってできたような銀行の貯金は、その銀行が不景気のあおりを食って破産したために、水の泡(あわ)になってしまった。命とかけがえの漁場が、間違った防波堤の設計のために、全然役に立たなくなったのは前にも言ったとおりだ。こらえ性(しょう)のない人々の寄り集まりなら、身代が朽ち木のようにがっくりと折れ倒れるのはありがちと言わなければならない。ただ君の家では父上といい、兄上といい、根性(こんじょう)っ骨(ぽね)の強い正直な人たちだったので、すべての激しい運命を真正面から受け取って、骨身を惜しまず働いていたから、曲がったなりにも今日今日を事欠かずに過ごしているのだ。しかし君の家を襲ったような運命の圧迫はそこいらじゅうに起こっていた。軒を並べて住みなしていると、どこの家にもそれ相当な生計が立てられているようだけれども、一軒一軒に立ち入ってみると、このごろの岩内の町には鼻を酸(す)くしなければならないような事がそこいらじゅうにまくしあがっていた。ある家は目に立って零落していた。あらしに吹きちぎられた屋根板が、いつまでもそのままで雨の漏れるに任せた所も少なくない。目鼻立ちのそろった年ごろの娘が、嫁入ったといううわさもなく姿を消してしまう家もあった。立派に家框(いえがまち)が立ち直ったと思うとその家は代が替わったりしていた。そろそろと地の中に引きこまれて行くような薄気味の悪い零落の兆候が町全体にどことなく漂っているのだ。
 人々は暗々裏にそれに脅かされている。いつどんな事がまくし上がるかもしれない――そういう不安は絶えず君たちの心を重苦しく押しつけた。家から火事を出すとか、家から出さないまでも類焼の災難にあうとか、持ち船が沈んでしまうとか、働き盛りの兄上が死病に取りつかれるとか、鰊(にしん)の群来(くき)がすっかりはずれるとか、ワク船が流されるとか、いろいろに想像されるこれらの不幸の一つだけに出くわしても、君の家にとっては、足腰の立たない打撃となるのだ。疲れた五体を家路に運びながら、そしてばかに建物の大きな割合に、それにふさわない暗い灯(ひ)でそこと知られる柾葺(まさぶ)きの君の生まれた家屋を目の前に見やりながら、君の心は運命に対する疑いのために妙におくれがちになる。
 それでも敷居(しきい)をまたぐと土間のすみの竈(かまど)には火が暖かい光を放って水飴(みずあめ)のようにやわらかく撓(しな)いながら燃えている。どこからどこまでまっ黒にすすけながら、だだっ広い囲炉裏の間(ま)はきちんと片付けてあって、居心よさそうにしつらえてある。嫂(あによめ)や妹の心づくしを君はすぐ感じてうれしく思いながら、持って帰った漁具――寒さのために凍り果てて、触れ合えば石のように音を立てる――をそれぞれの所に始末すると、これもからからと音を立てるほど凍り果てた仕事着を一枚一枚脱いで、竈(かまど)のあたりに掛けつらねて、ふだん着に着かえる。一日の寒気に凍え切った肉体はすぐ熱を吹き出して、顔などはのぼせ上がるほどぽかぽかして来る。ふだん着の軽い暖かさ、一椀(わん)の熱湯の味のよさ。
 小気味のよいほどしたたか夕餉(ゆうげ)を食った漁夫たちが、
「親方さんお休み」
と挨拶(あいさつ)してぞろぞろ出て行ったあとには、水入らずの家族五人が、囲炉裏の火にまっかに顔を照らし合いながらさし向かいになる。戸外ではさらさらと音を立てて霰(あられ)まじりの雪が降りつづけている。七時というのにもうその界隈(かいわい)は夜ふけ同様だ。どこの家もしんとして赤子の泣く声が時おり聞こえるばかりだ。ただ遠くの遊郭のほうから、朝寝のできる人たちが寄り集まっているらしい酔狂のさざめきだけがとぎれとぎれに風に送られて伝わって来る。
「おらはあ寝まるぞ」
 わずかな晩酌(ばんしゃく)に昼間の疲労を存分に発して、目をとろんこにした君の父上が、まず囲炉裏のそばに床をとらして横になる。やがて兄上と嫂(あによめ)とが次の部屋(へや)に退くと、囲炉裏のそばには、君と君の妹だけが残るのだ。
 時が静かにさびしく、しかしむつまじくじりじりと過ぎて行く。
「寝ずに」
 針の手をやめて、君の妹はおとなしく顔を上げながら君に言う。
「先に寝れ、いいから」
 あぐらのひざの上にスケッチ帳を広げて、と見こう見している君は、振り向きもせずに、ぶっきらぼうにそう答える。
「朝げにまた眠いとってこづき起こされべえに」にっと片頬(かたほお)に笑(え)みをたたえて妹は君にいたずららしい目を向ける。
「なんの」
「なんのでねえよ、そんだもの見こくってなんのたしになるべえさ。みんなよって笑っとるでねえか、※(やまさ)[#「仝」の「工」に代えて「サ」、屋号を示す記号、75-9]の兄(あん)さんこと暇さえあれば見ったくもない絵べえかいて、なんするだべって」
 君は思わず顔をあげる。
「だれが言った」
「だれって‥‥みんな言ってるだよ」
「お前もか」
「私は言わねえ」
「そうだべさ。それならそれでいいでねえか。わけのわかんねえやつさなんとでも言わせておけばいいだ。これを見たか」
「見たよ。‥‥荘園(しょうえん)の裏から見た所だなあそれは。山はわし気に入ったども、雲が黒すぎるでねえか」
「さし出口はおけやい」
 そして君たち二人は顔を見合って溶けるように笑(え)みかわす。寒さはしんしんと背骨まで徹(とお)って、戸外には風の落ちた空を黙って雪が降り積んでいるらしい。
 今度は君が発意する。
「おい寝べえ」
「兄(あん)さん先に寝なよ」
「お前寝べし‥‥あしたまた一番に起きるだから‥‥戸締まりはおらがするに」
 二人はわざと意趣(いしゅ)に争ってから、妹はとうとう先に寝る事にする。君はなお半時間ほどスケッチに見入っていたが、寒さにこらえ切れなくなってやがて身を起こすと、藁草履(わらぞうり)を引っかけて土間に降り立ち、竈(かまど)の火もとを充分に見届け、漁具の整頓(せいとん)を一わたり注意し、入り口の戸に錠前をおろし、雪の吹きこまぬよう窓のすきまをしっかりと閉じ、そしてまた囲炉裏座に帰って見ると、ちょろちょろと燃えかすれた根粗朶(ねそだ)の火におぼろに照らされて、君の父上と妹とが炉縁(ろぶち)の二方に寝くるまっているのが物さびしくながめられる。一日一日生命の力から遠ざかって行く老人と、若々しい生命の力に悩まされているとさえ見える妹の寝顔は、明滅する炎の前に幻のような不思議な姿を描き出す。この老人の老い先をどんな運命が待っているのだろう。この処女(おとめ)の行く末をどんな運命が待っているのだろう。未来はすべて暗い。そこではどんな事でも起こりうる。君は二人の寝顔を見つめながらつくづくとそう思った。そう思うにつけて、その人たちの行く末については、素直な心で幸(さち)あれかしと祈るほかはなかった。人の力というものがこんな厳粛な瞬間にはいちばんたよりなく思われる。
 君はスケッチ帳を枕(まくら)もとに引きよせて、垢(あか)じみた床の中にそのままもぐり込みながら、氷のような布団(ふとん)の冷たさがからだの温(ぬく)みで暖まるまで、まじまじと目を見開いて、君の妹の寝顔を、憐(あわ)れみとも愛ともつかぬ涙ぐましい心持ちでながめつづける。それは君が妹に対して幼少の時から何かのおりに必ずいだくなつかしい感情だった。
 それもやがて疲労の夢が押し包む。
 今岩内の町に目ざめているものは、おそらく朝寝坊のできる富んだ惰(なま)け者と、灯台守(とうだいも)りと犬ぐらいのものだろう。夜は寒くさびしくふけて行く。

       八

 君、君はこんな私の自分勝手な想像を、私が文学者であるという事から許してくれるだろうか。私の想像はあとからあとからと引き続いてわいて来る。それがあたっていようがあたっていまいが、君は私がこうして筆取るそのもくろみに悪意のない事だけは信じてくれるだろう。そして無邪気な微笑をもって、私の唯一の生命である空想が勝手次第に育って行くのを見守っていてくれるだろう。私はそれをたよってさらに書き続けて行く。
 鰊(にしん)の漁期――それは北方に住む人の胸にのみしみじみと感ぜられるなつかしい季節の一つだ。この季節になると長く地の上を領していた冬が老いる。――北風も、雪も、囲炉裏も、綿入れも、雪鞋(つまご)も、等しく老いる。一片の雲のたたずまいにも、自然のもくろみと予言とを人一倍鋭敏に見て取る漁夫たちの目には、朝夕の空の模様が春めいて来た事をまざまざと思わせる。北西の風が東に回るにつれて、単色に堅く凍りついていた雲が、蒸されるようにもやもやとくずれ出して、淡いながら暖かい色の晴れ雲に変わって行く。朝から風もなく晴れ渡った午後なぞに波打ちぎわに出て見ると、やや緑色を帯びた青空のはるか遠くの地平線高く、幔幕(まんまく)を真一文字に張ったような雪雲の堆積(たいせき)に日がさして、まんべんなくばら色に輝いている。なんという美妙な美しい色だ。冬はあすこまで遠のいて行ったのだ。そう思うと、不幸を突き抜けて幸福に出あった人のみが感ずる、あの過去に対する寛大な思い出が、ゆるやかに浜に立つ人の胸に流れこむ。五か月の長い厳冬を牛のように忍耐強く辛抱しぬいた北人の心に、もう少しでひねくれた根性にさえなり兼ねた北人の心に、春の約束がほのぼのと恵み深く響き始める。
 朝晩の凍(し)み方はたいして冬と変わりはない。ぬれた金物がべたべたと糊(のり)のように指先に粘りつく事は珍しくない。けれども日が高くなると、さすがにどこか寒さにひびがいる。浜べは急に景気づいて、納屋の中からは大釜(おおがま)や締框(しめわく)がかつぎ出され、ホック船やワク船をつとのようにおおうていた蓆(むしろ)が取りのけられ、旅烏(たびがらす)といっしょに集まって来た漁夫たちが、綾(あや)を織るように雪の解けた砂浜を行き違って目まぐるしい活気を見せ始める。
 鱈(たら)の漁獲がひとまず終わって、鰊(にしん)の先駆(はしり)もまだ群来(くけ)て来ない。海に出て働く人たちはこの間に少しの間(ま)息をつく暇を見いだすのだ。冬の間から一心にねらっていたこの暇に、君はある日朝からふいと家を出る。もちろんふところの中には手慣れたスケッチ帳と一本の鉛筆とを潜まして。
 家を出ると往来には漁夫たちや、女でめん(女労働者)や、海産物の仲買いといったような人々がにぎやかに浮き浮きして行ったり来たりしている。根雪が氷のように磐(いわ)になって、その上を雪解けの水が、一冬の塵埃(じんあい)に染まって、泥炭地(でいたんち)のわき水のような色でどぶどぶと漂っている。馬橇(ばそり)に材木のように大きな生々しい薪(まき)をしこたま積み載せて、その悪路を引っぱって来た一人の年配な内儀(かみ)さんは、君を認めると、引き綱をゆるめて腰を延ばしながら、戯れた調子で大きな声をかける。
「はれ兄(あん)さんもう浜さいくだね」
「うんにゃ」
「浜でねえ? たらまた山かい。魚を商売にする人(ふと)が暇さえあれば山さ突っぱしるだから怪体(けたい)だあてばさ。いい人でもいるだんべさ。は、は、は、‥‥。うんすら妬(や)いてこすに、一押し手を貸すもんだよ」
「口はばったい事べ言うと鰊様(にしんさま)が群来(くけ)てはくんねえぞ。おかしな婆様(ばさま)よなあお前も」
「婆様だ□ 人聞(ふとぎ)きの悪い事べ言わねえもんだ。人様(ふとさま)が笑うでねえか」
 実際この内儀さんの噪(はしゃ)いだ雑言(ぞうごん)には往来の人たちがおもしろがって笑っている。君は当惑して、橇(そり)の後ろに回って三四間ぐんぐん押してやらなければならなかった。
「そだ。そだ。兄(あん)さんいい力だ。浜まで押してくれたらおらお前に惚(ほ)れこすに」
 君はあきれて橇から離れて逃げるように行く手を急ぐ。おもしろがって二人の問答を聞いていた群集は思わず一度にどっと笑いくずれる。人々のその高笑いの声にまじって、内儀さんがまただれかに話しかける大声がのびやかに聞こえて来る。
「春が来るのだ」
 君は何につけても好意に満ちた心持ちでこの人たちを思いやる。
 やがて漁師町をつきぬけて、この市街では目ぬきな町筋に出ると、冬じゅうあき屋になっていた西洋風の二階建ての雨戸が繰りあけられて、札幌(さっぽろ)のある大きなデパートメント・ストアの臨時出店が開かれようとしている。藁屑(わらくず)や新聞紙のはみ出た大きな木箱が幾個か店先にほうり出されて、広告のけばけばしい色旗が、活動小屋の前のように立てならべてある。そして気のきいた手代が十人近くも忙(いそが)しそうに働いている。君はこの大きな臨時の店が、岩内じゅうの小売り商人にどれほどの打撃であるかを考えながら、自分たちの漁獲が、資本のないために、ほかの土地から投資された海産物製造会社によって捨て値で買い取られる無念さをも思わないではいられなかった。「大きな手にはつかまれる」‥‥そう思いながら君はその店の角(かど)を曲がって割合にさびれた横町にそれた。
 その横町を一町も行かない所に一軒の薬種店があって、それにつづいて小さな調剤所がしつらえてあった。君はそこのガラス窓から中をのぞいて見る。ずらっとならべた薬種びんの下の調剤卓の前に、もたれのない抉(く)り抜(ぬ)きの事務椅子(じむいす)に腰かけて、黒い事務マントを羽織った悒鬱(ゆううつ)そうな小柄な若い男が、一心に小形の書物に読みふけっている。それはKと言って、君が岩内の町に持っているただ一人の心の友だ。君はくすんだガラス板に指先を持って行ってほとほととたたく。Kは機敏に書物から目をあげてこちらを振りかえる。そして驚いたように座を立って来てガラス障子をあける。
「どこに」
 君は黙ったまま懐中からスケッチ帳を取り出して見せる。そして二人は互いに理解するようにほほえみかわす。
「君はきょうは出られまい」
 君は東京の遊学時代を記念するために、だいじにとっておいた書生の言葉を使えるのが、この友だちに会う時の一つの楽しみだった。
「だめだ。このごろは漁夫で岩内の人数が急にふえたせいか忙(せわ)しい。しかし今はまだ寒いだろう。手が自由に動くまい」
「なに、絵はかけずとも山を見ていればそれでいいだ。久しく出て見ないから」
「僕は今これを読んでいたが(と言ってKはミケランジェロの書簡集を君の目の前にさし出して見せた)すばらしいもんだ。こうしていてはいけないような気がするよ。だけどもとても及びもつかない。いいかげんな芸術家というものになって納まっているより、この薄暗い薬局で、黙りこくって一生を送るほうがやはり僕には似合わしいようだ」
 そう言って君の友は、悒鬱(ゆううつ)な小柄な顔をひときわ悒鬱にした。君は励ます言葉も慰める言葉も知らなかった。そして心とがめするもののようにスケッチ帳をふところに納めてしまった。
「じゃ行って来るよ」
「そうかい。そんなら帰りには寄って話して行きたまえ」
 この言葉を取りかわして、君はその薄よごれたガラス窓から離れる。
 南へ南へと道を取って行くと、節婦橋という小さな木橋があって、そこから先にはもう家並みは続いていない。溝泥(どぶどろ)をこね返したような雪道はだんだんきれいになって行って、地面に近い所が水になってしまった積雪の中に、君の古い兵隊長靴(へいたいながぐつ)はややともするとすぽりすぽりと踏み込んだ。
 雪におおわれた野は雷電峠のふもとのほうへ爪先上(つまさきあ)がりに広がって、おりから晴れ気味になった雲間を漏れる日の光が、地面の陰ひなたを銀と藍(あい)とでくっきりといろどっている。寒い空気の中に、雪の照り返しがかっかっと顔をほてらせるほど強くさして来る。君の顔は見る見る雪焼けがしてまっかに汗ばんで来た。今までがんじょうにかぶっていた頭巾(ずきん)をはねのけると、眼界は急にはるばると広がって見える。
 なんという広大なおごそかな景色だ。胆振(いぶり)の分水嶺から分かれて西南をさす一連の山波が、地平から力強く伸び上がってだんだん高くなりながら、岩内の南方へ走って来ると、そこに図らずも陸の果てがあったので、突然水ぎわに走りよった奔馬が、そろえた前脚(まえあし)を踏み立てて、思わず平頸(ひらくび)を高くそびやかしたように、山は急にそそり立って、沸騰せんばかりに天を摩している。今にもすさまじい響きを立ててくずれ落ちそうに見えながら、何百万年か何千万年か、昔のままの姿でそそり立っている。そして今はただ一色の白さに雪でおおわれている。そして雲が空を動くたびごとに、山は居住まいを直したかのように姿を変える。君は久しぶりで近々とその山をながめるともう有頂天になった。そして余の事はきれいに忘れてしまう。
 君はただいちずにがむしゃらに本道から道のない積雪の中に足を踏み入れる。行く手に黒ずんで見える楡(にれ)の切り株の所まで腰から下まで雪にまみれてたどり着くと、君はそれに兵隊長靴(へいたいながぐつ)を打ちつけて足の雪を払い落としながらたたずむ。そして目を据(す)えてもう一度雪野の果てにそびえ立つ雷電峠を物珍しくながめて魅入られたように茫然(ぼうぜん)となってしまう。幾度見てもあきる事のない山のたたずまいが、この前見た時と相違のあるはずはないのに、全くちがった表情をもって君の目に映って来る。この前見に来た時は、それは厳冬の一日のことだった。やはりきょうと同じ所に立って、凍える手に鉛筆を運ぶ事もできず、黙ったまま立って見ていたのだったが、その時の山は地面から静々と盛り上がって、雪雲に閉ざされた空を確(し)かとつかんでいるように見えた。その感じは恐ろしく執念深く力強いものだった。君はその前に立って押しひしゃげられるような威圧を感じた。きょう見る山はもっと素直な大きさと豊かさとをもって静かに君をかきいだくように見えた。ふだん自分の心持ちがだれからも理解されないで、一種の変屈人のように人々から取り扱われていた君には、この自然が君に対して求めて来る親しみはしみじみとしたものだった。君はまたさらに目をあげて、なつかしい友に向かうようにしみじみと山の姿をながめやった。
 ちょうど親しい心と心とが出あった時に、互いに感ぜられるような温(あたた)かい涙ぐましさが、君の雄々しい胸の中にわき上がって来た。自然は生きている。そして人間以上に強く高い感情を持っている。君には同じ人間の語る言葉だが英語はわからない。自然の語る言葉は英語よりもはるかに君にはわかりいい。ある時には君が使っている日本語そのものよりももっと感情の表現の豊かな平明な言葉で自然が君に話しかける。君はこの涙ぐましい心持ちを描いてみようとした。
 そして懐中からいつものスケッチ帳を取り出して切り株の上に置いた。開かれた手帖と山とをかたみがわりに見やりながら、君は丹念に鉛筆を削り上げた。そして粗末な画学紙の上には、たくましく荒くれた君の手に似合わない繊細な線が描かれ始めた。
 ちょうど人の肖像をかこうとする画家が、その人の耳目鼻口をそれぞれ綿密に観察するように、君は山の一つの皺(しわ)一つの襞(ひだ)にも君だけが理解すると思える意味を見いだそうと努めた。実際君の目には山のすべての面は、そのまますべての表情だった。日光と雲との明暗(キャロスキュロ)にいろどられた雪の重なりには、熱愛をもって見きわめようと努める人々にのみ説き明かされる貴(たっと)いなぞが潜めてあった。君は一つのなぞを解き得たと思うごとに、小おどりしたいほどの喜びを感じた。君の周囲には今はもう生活の苦情もなかった。世間に対する不安も不幸もなかった。自分自身に対するおくれがちな疑いもなかった。子供のような快活な無邪気な一本気な心‥‥君のくちびるからは知らず知らず軽い口笛が漏れて、君の手はおどるように調子を取って、紙の上を走ったり、山の大きさや角度を計ったりした。
 そうして幾時間が過ぎたろう。君の前には「時」というものさえなかった。やがて一つのスケッチができあがって、軽い満足のため息とともに、働かし続けていた手をとめて、片手にスケッチ帳を取り上げて目の前に据(す)えた時、君は軽い疲労――軽いと言っても、君が船の中で働く時の半日分の労働の結果よりは軽くない――を感じながら、きょうが仕事のよい収穫であれかしと祈った。画学紙の上には、吹き変わる風のために乱れがちな雲の間に、その頂を見せたり隠したりしながら、まっ白にそそり立つ峠の姿と、その手前の広い雪の野のここかしこにむら立つ針葉樹の木立ちや、薄く炊煙を地になびかしてところどころに立つ惨(みじ)めな農家、これらの間を鋭い刃物で断ち割ったような深い峡間(はざま)、それらが特種な深い感じをもって特種な筆触で描かれている。君はややしばらくそれを見やってほほえましく思う。久しぶりで自分の隠れた力が、哀れな道具立てによってではあるが、とにかく形を取って生まれ出たと思うとうれしいのだ。
 しかしながら狐疑(こぎ)は待ちかまえていたように、君が満足の心を充分味わう暇もなく、足もとから押し寄せて来て君を不安にする。君は自分にへつらうものに対して警戒の眼を向ける人のように、自分の満足の心持ちをきびしく調べてかかろうとする。そして今かき上げた絵を容赦なく山の姿とくらべ始める。
 自分が満足だと思ったところはどこにあるのだろう。それはいわば自然の影絵に過ぎないではないか。向こうに見える山はそのまま寛大と希望とを象徴するような一つの生きた塊的(マッス)であるのに、君のスケッチ帳に縮め込まれた同じものの姿は、なんの表情も持たない線と面との集まりとより君の目には見えない。
 この悲しい事実を発見すると君は躍起となって次のページをまくる。そして自分の心持ちをひときわ謙遜(けんそん)な、そして執着の強いものにし、粘り強い根気でどうかして山をそのまま君の画帖(がじょう)の中に生かし込もうとする、新たな努力が始まると、君はまたすべての事を忘れ果てて一心不乱に仕事の中に魂を打ち込んで行く。そして君が昼弁当を食う事も忘れて、四枚も五枚ものスケッチを作った時には、もうだいぶ日は傾いている。
 しかしとてもそこを立ち去る事はできないほど、自然は絶えず美しくよみがえって行く。朝の山には朝の命が、昼の山には昼の命があった。夕方の山にはまたしめやかな夕方の山の命がある。山の姿は、その線と陰日向(かげひなた)とばかりでなく、色彩にかけても、日が西に回るとすばらしい魔術のような不思議を現わした。峠のある部分は鋼鉄のように寒くかたく、また他の部分は気化した色素のように透明で消えうせそうだ。夕方に近づくにつれて、やや煙り始めた空気の中に、声も立てずに粛然とそびえているその姿には、くんでもくんでも尽きない平明な神秘が宿っている。見ると山の八合目と覚しい空高く、小さな黒い点が静かに動いて輪を描いている。それは一羽の大鷲(おおわし)に違いない。目を定めてよく見ると、長く伸ばした両の翼を微塵(みじん)も動かさずに、からだ全体をやや斜めにして、大きな水の渦(うず)に乗った枯れ葉のように、その鷲は静かに伸びやかに輪を造っている。山が物言わんばかりに生きてると見える君の目には、この生物はかえって死物のように思いなされる。ましてや平原のところどころに散在する百姓家などは、山が人に与える生命の感じにくらべれば、惨(みじ)めな幾個かの無機物に過ぎない。
 昼は真冬からは著しく延びてはいるけれども、もう夕暮れの色はどんどん催して来た。それとともに肌身(はだみ)に寒さも加わって来た。落日にいろどられて光を呼吸するように見えた雲も、煙のような白と淡藍(うすあい)との陰日向を見せて、雲とともに大空の半分を領していた山も、見る見る寒い色に堅くあせて行った。そして靄(もや)とも言うべき薄い膜(まく)が君と自然との間を隔てはじめた。
 君は思わずため息をついた。言い解きがたい暗愁――それは若い人が恋人を思う時に、その恋が幸福であるにもかかわらず、胸の奥に感ぜられるような――が不思議に君を涙ぐましくした。君は鼻をすすりながら、ばたんと音を立ててスケッチ帳を閉じて、鉛筆といっしょにそれをふところに納めた。凍(い)てた手はふところの中の温(ぬく)みをなつかしく感じた。弁当は食う気がしないで、切り株の上からそのまま取って腰にぶらさげた。半日立ち尽くした足は、動かそうとすると電気をかけられたようにしびれていた。ようようの事で君は雪の中から爪先(つまさき)をぬいて一歩一歩本道のほうへ帰って行った。はるか向こうを見ると山から木材や薪炭(しんたん)を積みおろして来た馬橇(ばそり)がちらほらと動いていて、馬の首につけられた鈴の音がさえた響きをたててかすかに聞こえて来る。それは漂浪の人がはるかに故郷の空を望んだ時のようななつかしい感じを与える。その消え入るような、さびしい、さえた音がことになつかしい。不思議な誘惑の世界から突然現世に帰った人のように、君の心はまだ夢ごこちで、芸術の世界と現実の世界との淡々しい境界線をたどっているのだ。そして君は歩きつづける。
 いつのまにか君は町に帰って例の調剤所の小さな部屋(へや)で、友だちのKと向き合っている。Kは君のスケッチ帳を興奮した目つきでかしこここ見返している。

「寒かったろう」
とKが言う。君はまだほんとうに自分に帰り切らないような顔つきで、
「うむ。‥‥寒くはなかった。‥‥その線の鈍っているのは寒かったからではないんだ」
と答える。
「鈍っていはしない。君がすっかり何もかも忘れてしまって、駆けまわるように鉛筆をつかった様子がよく見えるよ。きょうのはみんな非常に僕の気に入ったよ。君も少しは満足したろう」
「実際の山の形にくらべて見たまえ。‥‥僕は親父(おやじ)にも兄貴にもすまない」
と君は急いで言いわけをする。
「なんで?」
 Kはけげんそうにスケッチ帳から目を上げて君の顔をしげしげと見守る。
 君の心の中には苦(にが)い灰汁(あくじる)のようなものがわき出て来るのだ。漁にこそ出ないが、ほんとうを言うと、漁夫の家には一日として安閑としていい日とてはないのだ。きょうも、君が一日を絵に暮らしていた間に、君の家では家じゅうで忙(いそが)しく働いていたのに違いないのだ。建網(たてあみ)に損じの有る無し、網をおろす場所の海底の模様、大釜(おおがま)を据(す)えるべき位置、桟橋(さんばし)の改造、薪炭(しんたん)の買い入れ、米塩の運搬、仲買い人との契約、肥料会社との交渉‥‥そのほか鰊漁(にしんりょう)の始まる前に漁場の持ち主がしておかなければならない事は有り余るほどあるのだ。
 君は自分が絵に親しむ事を道楽だとは思っていない。いないどころか、君にとってはそれは、生活よりもさらに厳粛な仕事であるのだ。しかし自然と抱き合い、自然を絵の上に生かすという事は、君の住む所では君一人だけが知っている喜びであり悲しみであるのだ。ほかの人たちは――君の父上でも、兄妹(きょうだい)でも、隣近所の人でも――ただ不思議な子供じみた戯れとよりそれを見ていないのだ。君の考えどおりをその人たちの頭の中にたんのうができるように打ちこむというのは思いも及ばぬ事だ。
 君は理屈ではなんら恥ずべき事がないと思っている。しかし実際では決してそうは行かない。芸術の神聖を信じ、芸術が実生活の上に玉座を占むべきものであるのを疑わない君も、その事がらが君自身に関係して来ると、思わず知らず足もとがぐらついて来るのだ。
「おれが芸術家でありうる自信さえできれば、おれは一刻の躊躇(ちゅうちょ)もなく実生活を踏みにじっても、親しいものを犠牲にしても、歩み出す方向に歩み出すのだが‥‥家の者どもの実生活の真剣さを見ると、おれは自分の天才をそうやすやすと信ずる事ができなくなってしまうんだ。おれのようなものをかいていながら彼らに芸術家顔をする事が恐ろしいばかりでなく、僭越(せんえつ)な事に考えられる。おれはこんな自分が恨めしい、そして恐ろしい。みんなはあれほど心から満足して今日今日を暮らしているのに、おれだけはまるで陰謀でもたくらんでいるように始終暗い心をしていなければならないのだ。どうすればこの苦しさこのさびしさから救われるのだろう」
 平常のこの考えがKと向かい合っても頭から離れないので、君は思わず「親父(おやじ)にも兄貴にもすまない」と言ってしまったのだ。
「どうして?」と言ったKも、君もそのまま黙ってしまった。
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