生まれいずる悩み
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著者名:有島武郎 

君も多くの人の中で私にそんな心持ちを起こさせる一人だった。
 しかも浅はかな私ら人間は猿(さる)と同様に物忘れする。四年五年という歳月は君の記憶を私の心からきれいにぬぐい取ってしまおうとしていたのだ。君はだんだん私の意識の閾(しきい)を踏み越えて、潜在意識の奥底に隠れてしまおうとしていたのだ。
 この短からぬ時間は私の身の上にも私相当の変化をひき起こしていた。私は足かけ八年住み慣れた札幌(さっぽろ)――ごく手短に言っても、そこで私の上にもいろいろな出来事がわき上がった。妻も迎えた。三人の子の父ともなった。長い間の信仰から離れて教会とも縁を切った。それまでやっていた仕事にだんだん失望を感じ始めた。新しい生活の芽が周囲の拒絶をも無(な)みして、そろそろと芽ぐみかけていた。私の目の前の生活の道にはおぼろげながら気味悪い不幸の雲がおおいかかろうとしていた。私は始終私自身の力を信じていいのか疑わねばならぬかの二筋道に迷いぬいた――を去って、私には物足らない都会生活が始まった。そして、目にあまる不幸がつぎつぎに足もとからまくし上がるのを手をこまねいてじっとながめねばならなかった。心の中に起こったそんな危機の中で、私は捨て身になって、見も知らぬ新しい世界に乗り出す事を余儀なくされた。それは文学者としての生活だった。私は今度こそは全くひとりで歩かねばならぬと決心の臍(ほぞ)を堅めた。またこの道に踏み込んだ以上は、できてもできなくても人類の意志と取り組む覚悟をしなければならなかった。私は始終自分の力量に疑いを感じ通しながら原稿紙に臨んだ。人々が寝入って後、草も木も寝入って後、ひとり目ざめてしんとした夜の寂寞(せきばく)の中に、万年筆のペン先が紙にきしり込む音だけを聞きながら、私は神がかりのように夢中になって筆を運ばしている事もあった。私の周囲には亡霊のような魂がひしめいて、紙の中に生まれ出ようと苦しみあせっているのをはっきりと感じた事もあった。そんな時気がついてみると、私の目は感激の涙に漂っていた。芸術におぼれたものでなくって、そういう時のエクスタシーをだれが味わい得よう。しかし私の心が痛ましく裂け乱れて、純一な気持ちがどこのすみにも見つけられない時のさびしさはまたなんと喩(たと)えようもない。その時私は全く一塊の物質に過ぎない。私にはなんにも残されない。私は自分の文学者である事を疑ってしまう。文学者が文学者である事を疑うほど、世に空虚なたよりないものがまたとあろうか。そういう時に彼は明らかに生命から見放されてしまっているのだ。こんな瞬間に限っていつでもきまったように私の念頭に浮かぶのは君のあの時の面影だった。自分を信じていいのか悪いのかを決しかねて、たくましい意志と冷刻な批評とが互いに衷(うち)に戦って、思わず知らずすべてのものに向かって敵意を含んだ君のあの面影だった。私は筆を捨てて椅子(いす)から立ち上がり、部屋(へや)の中を歩き回りながら、自分につぶやくように言った。
「あの少年はどうなったろう。道を踏み迷わないでいてくれ。自分を誇大して取り返しのつかない死出の旅をしないでいてくれ。もし彼に独自の道を切り開いて行く天稟(てんぴん)がないのなら、どうか正直な勤勉な凡人として一生を終わってくれ。もうこの苦しみはおれ一人だけでたくさんだ」
 ところが去年の十月――と言えば、川岸の家で偶然君というものを知ってからちょうど十年目だ――のある日雨のしょぼしょぼと降っている午後に一封の小包が私の手もとに届いた。女中がそれを持って来た時、私は干し魚が送られたと思ったほど部屋の中が生臭くなった。包みの油紙は雨水と泥(どろ)とでひどくよごれていて、差出人の名前がようやくの事で読めるくらいだったが、そこにしるされた姓名を私はだれともはっきり思い出すことができなかった。ともかくもと思って私はナイフでがんじょうな渋びきの麻糸を切りほごしにかかった。油紙を一皮めくるとその中にまた麻糸で堅く結わえた油紙の包みがあった。それをほごすとまた油紙で包んであった。ちょっと腹の立つほど念の入った包み方で、百合(ゆり)の根をはがすように一枚一枚むいて行くと、ようやく幾枚もの新聞紙の中から、手あかでよごれ切った手製のスケッチ帳が三冊、きりきりと棒のように巻き上げられたのが出て来た。私は小気味悪い魚のにおいを始終気にしながらその手帳を広げて見た。
 それはどれも鉛筆で描かれたスケッチ帳だった。そしてどれにも山と樹木ばかりが描かれてあった。私は一目見ると、それが明らかに北海道の風景である事を知った。のみならず、それは明らかにほんとうの芸術家のみが見うる、そして描きうる深刻な自然の肖像画だった。
「やっつけたな!」咄嗟(とっさ)に私は少年のままの君の面影を心いっぱいに描きながら下くちびるをかみしめた。そして思わずほほえんだ。白状するが、それがもし小説か戯曲であったら、その時の私の顔には微笑の代わりに苦(にが)い嫉妬(しっと)の色が濃くみなぎっていたかもしれない。
 その晩になって一封の手紙が君から届いて来た。やはり厚い画学紙にすり切れた筆で乱雑にこう走り書きがしてあった。
「北海道ハ秋モ晩(オソ)クナリマシタ。野原ハ、毎日ノヨウニツメタイ風ガ吹イテイマス。
日ゴロ愛惜シタ樹木ヤ草花ナドガ、イツトハナク落葉シテシマッテイル。秋ハ人ノ心ニイイロナ事ヲ思ワセマス。
日ニヨリマストアタリノ山々ガ浮キアガッタカト思ワレルクライ空ガ美シイ時ガアリマス。シカシタイテイハ風トイッショニ雨ガバラバラヤッテ来テ道ヲ悪クシテイルノデス。
昨日スケッチ帳ヲ三冊送リマシタ。イツカあなたニ絵ヲ見テモライマシテカラ故郷デ貧乏漁夫デアル私ハ、毎日忙シイ仕事ト激シイ労働ニ追ワレテイルノデ、ツイコトシマデ絵ヲカイテミタカッタノデスガ、ツイカケナカッタノデス。
コトシノ七月カラ始メテ画用紙ヲトジテ画帖(ガジョウ)ヲ作リ、鉛筆デ(モノ)ニ向カッテミマシタ。シカシ労働ニ害サレタ手ハ思ウヨウニ自分ノ感力ヲ現ワス事ガデキナイデ困リマス。
コンナツマラナイ素描帳ヲ見テクダサイト言ウノハタイヘンツライノデス。シカシ私ハイツワラナイデ始メタ時カラノヲ全部送リマシタ。(中略)
私ノ町ノ知的素養ノイクブンナリトモアル青年デモ、自分トイウモノニツイテ思イヲメグラス人ハ少ナイヨウデス。青年ノ多クハ小サクサカシクオサマッテイルモノカ、ツマラナク時ヲ無為ニ送ッテイマス。デスガ私ハ私ノ故郷ダカラ好キデス。
イロイロナモノガ私ノ心ヲオドラセマス。私ノスケッチニ取ルベキトコロノアルモノガアルデショウカ。
私ハナントナクコンナツマラヌモノヲあなたニ見テモラウノガハズカシイノデス。
山ハ絵ノ具ヲドッシリ付ケテ、山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヨウニカイテミタイモノダト思ッテイマス。私ノスケッチデハ私ノ感ジガドウモ出ナイデコマリマス。私ノ山ハ私ガ実際ニ感ジルヨリモアマリ平面ノヨウデス。樹木モドウモ物体感ニトボシク思ワレマス。
色ヲツケテミタラヨカロウト考エテイマスガ、時間ト金ガナイノデ、コンナモノデ腹イセヲシテイルノデス。
私ハイロイロナ構図デ頭ガイッパイニナッテイルノデスガ、ナニシロマダカクダケノ腕ガナイヨウデス。オ忙シイあなたニコンナ無遠リョヲカケテタイヘンスマナク思ッテイマス。イツカオヒマガアッタラ御教示ヲ願イマス。
   十月末」
 こう思ったままを書きなぐった手紙がどれほど私を動かしたか。君にはちょっと想像がつくまい。自分が文学者であるだけに、私は他人の書いた文字の中にも真実と虚偽とを直感するかなり鋭い能力が発達している。私は君の手紙を読んでいるうちに涙ぐんでしまった。魚臭い油紙と、立派な芸術品であるスケッチ帳と、君の文字との間には一分(ぶ)のすきもなかった。「感力」という君の造語は立派な内容を持つ言葉として私の胸に響いた。「山ハ絵ノ具ヲドッシリ付ケテ、山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヨウニカイテミタイ」‥‥山が地上から空にもれあがる‥‥それはすばらしい自然への肉迫を表現した言葉だ。言葉の中にしみ渡ったこの力は、軽く対象を見て過ごす微温な心の、まねにも生み出し得ない調子を持った言葉だ。
「だれも気もつかず注意も払わない地球のすみっこで、尊い一つの魂が母胎を破り出ようとして苦しんでいる」
 私はそう思ったのだ。そう思うとこの地球というものが急により美しいものに感じられたのだ。そう感ずるとなんとなく涙ぐんでしまったのだ。
 そのころ私は北海道行きを計画していたが、雑用に紛れて躊躇(ちゅうちょ)するうちに寒くなりかけたので、もういっそやめようかと思っていたところだった。しかし君のスケッチ帳と手紙とを見ると、ぜひ君に会ってみたくなって、一徹にすぐ旅行の準備にかかった。その日から一週間とたたない十一月の五日には、もう上野駅から青森への直行列車に乗っている私自身を見いだした。
 札幌(さっぽろ)での用事を済まして農場に行く前に、私は岩内にあてて君に手紙を出しておいた。農場からはそう遠くもないから、来られるなら来ないか、なるべくならお目にかかりたいからと言って。
 農場に着いた日には君は見えなかった。その翌日は朝から雪が降りだした。私は窓の所へ机を持って行って、原稿紙に向かって呻吟(しんぎん)しながら心待ちに君を待つのだった。そして渋りがちな筆を休ませる間に、今まで書き連ねて来たような過去の回想やら当面の期待やらをつぎつぎに脳裏に浮かばしていたのだった。

       三

 夕やみはだんだん深まって行った。事務所をあずかる男が、ランプを持って来たついでに、夜食の膳(ぜん)を運ぼうかと尋ねたが、私はひょっとすると君が来はしないかという心づかいから、わざとそのままにしておいてもらって、またかじりつくように原稿紙に向かった。大きな男の姿が部屋(へや)からのっそりと消えて行くのを、視覚のはずれに感じて、都会から久しぶりで来て見ると、物でも人でも大きくゆったりしているのに今さらながら一種の圧迫をさえ感ずるのだった。
 渋りがちな筆がいくらもはかどらないうちに、夕やみはどんどん夜の暗さに代わって、窓ガラスのむこうは雪と闇(やみ)とのぼんやりした明暗(キャロスキュロ)になってしまった。自然は何かに気を障(さ)えだしたように、夜とともに荒れ始めていた。底力のこもった鈍い空気が、音もなく重苦しく家の外壁に肩をあてがってうんともたれかかるのが、畳の上にすわっていてもなんとなく感じられた。自然が粉雪をあおりたてて、所きらわずたたきつけながら、のたうち回ってうめき叫ぶその物すごい気配(けはい)はもう迫っていた。私は窓ガラスに白もめんのカーテンを引いた。自然の暴威をせき止めるために人間が苦心して創(つく)り上げたこのみじめな家屋という領土がもろく小さく私の周囲にながめやられた。
 突然、ど、ど、ど‥‥という音が――運動が(そういう場合、音と運動との区別はない)天地に起こった。さあ始まったと私は二つに折った背中を思わず立て直した。同時に自然は上歯を下くちびるにあてがって思いきり長く息を吹いた。家がぐらぐらと揺れた。地面からおどり上がった雪が二三度はずみを取っておいて、どっと一気に天に向かって、謀反(むほん)でもするように、降りかかって行くあの悲壮な光景が、まざまざと部屋(へや)の中にすくんでいる私の想像に浮かべられた。だめだ。待ったところがもう君は来やしない。停車場からの雪道はもうとうに埋まってしまったに違いないから。私は吹雪(ふぶき)の底にひたりながら、物さびしくそう思って、また机の上に目を落とした。
 筆はますます渋るばかりだった。軽い陣痛のようなものは時々起こりはしたが、大切な文字は生まれ出てくれなかった。こうして私にとって情けないもどかしい時間が三十分も過ぎたころだったろう。農場の男がまたのそりと部屋にはいって来て客来を知らせたのは。私の喜びを君は想像する事ができる。やはり来てくれたのだ。私はすぐに立って事務室のほうへかけつけた。事務室の障子をあけて、二畳敷きほどもある大囲炉裏の切られた台所に出て見ると、そこの土間に、一人の男がまだ靴(くつ)も脱がずに突っ立っていた。農場の男も、その男にふさわしく肥(ふと)って大きな内儀(かみ)さんも、普通な背たけにしか見えないほどその客という男は大きかった。言葉どおりの巨人だ。頭からすっぽりと頭巾(ずきん)のついた黒っぽい外套(がいとう)を着て、雪まみれになって、口から白い息をむらむらと吐き出すその姿は、実際人間という感じを起こさせないほどだった。子供までがおびえた目つきをして内儀さんのひざの上に丸まりながら、その男をうろんらしく見詰めていた。
 君ではなかったなと思うと僕は期待に裏切られた失望のために、いらいらしかけていた神経のもどかしい感じがさらにつのるのを覚えた。
「さ、ま、ずっとこっちにお上がりなすって」
 農場の男は僕の客だというのでできるだけ丁寧にこういって、囲炉裏のそばの煎餅蒲団(せんべいぶとん)を裏返した。
 その男はちょっと頭で挨拶(あいさつ)して囲炉裏の座にはいって来たが、天井の高いだだっ広い台所にともされた五分心(ごぶしん)のランプと、ちょろちょろと燃える木節(きぶし)の囲炉裏火とは、黒い大きな塊的(マッス)とよりこの男を照らさなかった。男がぐっしょり湿った兵隊の古長靴(ふるながぐつ)を脱ぐのを待って、私は黙ったまま案内に立った。今はもう、この男によって、むだな時間がつぶされないように、いやな気分にさせられないようにと心ひそかに願いながら。
 部屋(へや)にはいって二人が座についてから、私は始めてほんとうにその男を見た。男はぶきっちょうに、それでも四角に下座にすわって、丁寧に頭を下げた。
「しばらく」
 八畳の座敷に余るような□(さび)を帯びた太い声がした。
「あなたはどなたですか」
 大きな男はちょっときまりが悪そうに汗でしとどになったまっかな額をなでた。
「木本(きもと)です」
「え、木本君□」
 これが君なのか。私は驚きながら改めてその男をしげしげと見直さなければならなかった。疳(かん)のために背たけも伸び切らない、どこか病質にさえ見えた悒鬱(ゆううつ)な少年時代の君の面影はどこにあるのだろう。また落葉松(からまつ)の幹の表皮からあすこここにのぞき出している針葉の一本をも見のがさずに、愛撫(あいぶ)し理解しようとする、スケッチ帳で想像されるような鋭敏な神経の所有者らしい姿はどこにあるのだろう。地(じ)をつぶしてさしこをした厚衣(あつし)を二枚重ね着して、どっしりと落ち付いた君のすわり形は、私より五寸も高く見えた。筋肉で盛り上がった肩の上に、正しくはめ込まれた、牡牛(おうし)のように太い首に、やや長めな赤銅色の君の顔は、健康そのもののようにしっかりと乗っていた。筋肉質な君の顔は、どこからどこまで引き締まっていたが、輪郭の正しい目鼻立ちの隈々(くまぐま)には、心の中からわいて出る寛大な微笑の影が、自然に漂っていて、脂肪気のない君の容貌(ようぼう)をも暖かく見せていた。「なんという無類な完全な若者だろう。」私は心の中でこう感嘆した。恋人を紹介する男は、深い猜疑(さいぎ)の目で恋人の心を見守らずにはいられまい。君の与えるすばらしい男らしい印象はそんな事まで私に思わせた。
「吹雪(ふぶ)いてひどかったろう」
「なんの。……温(ぬく)くって温くって汗がはあえらく出ました。けんど道がわかんねえで困ってると、しあわせよく水車番に会ったからすぐ知れました。あれは親身(しんみ)な人だっけ」
 君の素直な心はすぐ人の心に触れると見える。あの水車番というのは実際このへんで珍しく心持ちのいい男だ。君は手ぬぐいを腰から抜いて湯げが立たんばかりに汗になった顔を幾度も押しぬぐった。
 夜食の膳(ぜん)が運ばれた。「もう我慢がなんねえ」と言って、君は今まで堅くしていたひざをくずしてあぐらをかいた。「きちょうめんにすわることなんぞははあねえもんだから。」二人は子供どうしのような楽しい心で膳(ぜん)に向かった。君の大食は愉快に私を驚かした。食後の茶を飯茶わんに三杯続けさまに飲む人を私は始めて見た。
 夜食をすましてから、夜中まで二人の間に取りかわされた楽しい会話を私は今だに同じ楽しさをもって思い出す。戸外ではここを先途とあらしが荒れまくっていた。部屋(へや)の中ではストーブの向かい座にあぐらをかいて、癖のように時おり五分刈りの濃い頭の毛を逆さになで上げる男ぼれのする君の顔が部屋を明るくしていた。君はがんじょうな文鎮(おもし)になって小さな部屋を吹雪(ふぶき)から守るように見えた。温(あたた)まるにつれて、君の周囲から蒸(む)れ立つ生臭い魚の香は強く部屋じゅうにこもったけれども、それは荒い大海を生々しく連想させるだけで、なんの不愉快な感じも起こさせなかった。人の感覚というものも気ままなものだ。
 楽しい会話と言った。しかしそれはおもしろいという意味ではもちろんない。なぜなれば君はしばしば不器用な言葉の尻(しり)を消して、曇った顔をしなければならなかったから。そして私も苦しい立場や、自分自身の迷いがちな生活を痛感して、暗い心に捕えられねばならなかったから。
 その晩君が私に話して聞かしてくれた君のあれからの生活の輪郭を私はここにざっと書き連ねずにはおけない。
 札幌(さっぽろ)で君が私を訪れてくれた時、君には東京に遊学すべき道が絶たれていたのだった。一時北海道の西海岸で、小樽(おたる)をすら凌駕(りょうが)してにぎやかになりそうな気勢を見せた岩内港は、さしたる理由もなく、少しも発展しないばかりか、だんだんさびれて行くばかりだったので、それにつれて君の一家にも生活の苦しさが加えられて来た。君の父上と兄上と妹とが気をそろえて水入らずにせっせと働くにも係わらず、そろそろと泥沼(どろぬま)の中にめいり込むような家運の衰勢をどうする事もできなかった。学問というものに興味がなく、従って成績のおもしろくなかった君が、芸術に捧誓(ほうせい)したい熱意をいだきながら、そのさびしくなりまさる古い港に帰る心持ちになったのはそのためだった。そういう事を考え合わすと、あの時君がなんとなく暗い顔つきをして、いらいらしく見えたのがはっきりわかるようだ。君は故郷に帰っても、仕事の暇々には、心あてにしている景色でもかく事を、せめてもの頼みにして札幌(さっぽろ)を立ち去って行ったのだろう。
 しかし君の家庭が君に待ち設けていたものは、そんな余裕の有る生活ではなかった。年のいった父上と、どっちかと言えば漁夫としての健康は持ち合わせていない兄上とが、普通の漁夫と少しも変わりのない服装で網をすきながら君の帰りを迎えた時、大きい漁場の持ち主という風(ふう)が家の中から根こそぎ無くなっているのをまのあたりに見やった時、君はそれまでの考えののんき過ぎたのに気がついたに違いない。充分の思慮もせずにこんな生活の渦巻(うずまき)の中に我れから飛び込んだのを、君の芸術的欲求はどこかで悔やんでいた。その晩、磯臭(いそくさ)い空気のこもった部屋(へや)の中で、枕(まくら)につきながら、陥穽(おとしあな)にかかった獣のようないらだたしさを感じて、まぶたを合わす事ができなかったと君は私に告白した。そうだったろう。その晩一晩だけの君の心持ちをくわしく考えただけで、私は一つの力強い小品を作り上げる事ができると思う。
 しかし親思いで素直な心を持って生まれた君は、君を迎え入れようとする生活からのがれ出る事をしなかったのだ。詰(つ)め襟(えり)のホックをかけずに着慣れた学校服を脱ぎ捨てて、君は厚衣(あつし)を羽織る身になった。明鯛(すけそう)から鱈(たら)、鱈から鰊(にしん)、鰊から烏賊(いか)というように、四季絶える事のない忙(いそが)しい漁撈(ぎょろう)の仕事にたずさわりながら、君は一年じゅうかの北海の荒波や激しい気候と戦って、さびしい漁夫の生活に没頭しなければならなかった。しかも港内に築かれた防波堤が、技師の飛んでもない計算違いから、波を防ぐ代わりに、砂をどんどん港内に流し入れるはめになってから、船がかりのよかった海岸は見る見る浅瀬に変わって、出漁には都合のいい目ぬきの位置にあった君の漁場はすたれ物同様になってしまい、やむなく高い駄賃(だちん)を出して他人の漁場を使わなければならなくなったのと、北海道第一と言われた鰊の群来(くき)が年々減って行くために、さらぬだに生活の圧迫を感じて来ていた君の家は、親子が気心をそろえ力を合わして、命がけに働いても年々貧窮に追い迫られ勝ちになって行った。
 親身(しんみ)な、やさしい、そして男らしい心に生まれた君は、黙ってこのありさまを見て過ごす事はできなくなった。君は君に近いものの生活のために、正しい汗を額に流すのを悔いたり恥じたりしてはいられなくなった。そして君はまっしぐらに労働生活のまっただ中に乗り出した。寒暑と波濤(はとう)と力わざと荒くれ男らとの交わりは君の筋骨と度胸とを鉄のように鍛え上げた。君はすくすくと大木のようにたくましくなった。
「岩内にも漁夫(りょうし)は多いども腕力(うでぢから)にかけておらにかなうものは一人だっていねえ」
 君はあたりまえの事を言って聞かせるようにこう言った。私の前にすわった君の姿は私にそれを信ぜしめる。
 パンのために生活のどん底まで沈み切った十年の月日――それは短いものではない。たいていの人はおそらくその年月の間にそういう生活からはね返る力を失ってしまうだろう。世の中を見渡すと、何百万、何千万の人々が、こんな生活にその天授の特異な力を踏みしだかれて、むなしく墳墓の草となってしまったろう。それは全く悲しい事だ。そして不条理な事だ。しかしだれがこの不条理な世相に非難の石をなげうつ事ができるだろう。これは悲しくも私たちの一人一人が肩の上に背負わなければならない不条理だ。特異な力を埋め尽くしてまでも、当面の生活に没頭しなければならない人々に対して、私たちは尊敬に近い同情をすらささげねばならぬ悲しい人生の事実だ。あるがままの実相だ。
 パンのために精力のあらん限りを用い尽くさねばならぬ十年――それは短いものではない。それにもかかわらず、君は性格の中に植え込まれた憧憬(どうけい)を一刻も捨てなかったのだ。捨てる事ができなかったのだ。
 雨のためとか、風のためとか、一日も安閑としてはいられない漁夫の生活にも、なす事なく日を過ごさねばならぬ幾日かが、一年の間にはたまに来る。そういう時に、君は一冊のスケッチ帳(小学校用の粗雑な画学紙を不器用に網糸でつづったそれ)と一本の鉛筆とを、魚の鱗(うろこ)や肉片がこびりついたまま、ごわごわにかわいた仕事着のふところにねじ込んで、ぶらりと朝から家を出るのだ。
「会う人はおら事気違いだというんです。けんどおら山をじっとこう見ていると、何もかも忘れてしまうです。だれだったか何かの雑誌で『愛は奪う』というものを書いて、人間が物を愛するのはその物を強奪(ふんだく)るだと言っていたようだが、おら山を見ていると、そんな気は起こしたくも起こらないね。山がしっくりおら事引きずり込んでしまって、おらただあきれて見ているだけです。その心持ちがかいてみたくって、あんな下手(へた)なものをやってみるが、からだめです。あんな山の心持ちをかいた絵があらば、見るだけでも見たいもんだが、ありませんね。天気のいい気持ちのいい日にうんと力こぶを入れてやってみたらと思うけんど、暮らしも忙(せわ)しいし、やってもおらにはやっぱり手に余るだろう。色もつけてみたいが、絵の具は国に引っ込む時、絵の好きな友だちにくれてしまったから、おらのような絵にはまた買うのも惜しいし。海を見れば海でいいが、山を見れば山でいい。もったいないくらいそこいらにすばらしいいいものがあるんだが、力が足んねえです」
 と言ったりする君の言葉も様子も私には忘れる事のできないものになった。その時はあぐらにした両脛(りょうすね)を手でつぶれそうに堅く握って、胸に余る興奮を静かな太い声でおとなしく言い現わそうとしていた。
 私どもが一時過ぎまで語り合って寝床にはいって後も、吹きまく吹雪(ふぶき)は露ほども力をゆるめなかった。君は君で、私は私で、妙に寝つかれない一夜だった。踏まれても踏まれても、自然が与えた美妙な優しい心を失わない、失い得ない君の事を思った。仁王(におう)のようなたくましい君の肉体に、少女のように敏感な魂を見いだすのは、この上なく美しい事に私には思えた。君一人が人生の生活というものを明るくしているようにさえ思えた。そして私はだんだん私の仕事の事を考えた。どんなにもがいてみてもまだまだほんとうに自分の所有を見いだす事ができないで、ややもするとこじれた反抗や敵愾心(てきがいしん)から一時的な満足を求めたり、生活をゆがんで見る事に興味を得ようとしたりする心の貧しさ――それが私を無念がらせた。そしてその夜は、君のいかにも自然な大きな生長と、その生長に対して君が持つ無意識な謙譲と執着とが私の心に強い感激を起こさせた。
 次の日の朝、こうしてはいられないと言って、君はあらしの中に帰りじたくをした。農場の男たちすらもう少し空模様を見てからにしろとしいて止めるのも聞かず、君は素足にかちんかちんに凍った兵隊長靴(ながぐつ)をはいて、黒い外套(がいとう)をしっかり着こんで土間に立った。北国の冬の日暮らしにはことさら客がなつかしまれるものだ。なごりを心から惜しんでだろう、農場の人たちも親身(しんみ)にかれこれと君をいたわった。すっかり頭巾(ずきん)をかぶって、十二分に身じたくをしてから出かけたらいいだろうとみんなが寄って勧めたけれども、君は素朴(そぼく)なはばかりから帽子もかぶらずに、重々しい口調で別れの挨拶(あいさつ)をすますと、ガラス戸を引きあけて戸外に出た。
 私はガラス窓をこずいて外面に降り積んだ雪を落としながら、吹きたまったまっ白な雪の中をこいで行く君を見送った。君の黒い姿は――やはり頭巾をかぶらないままで、頭をむき出しにして雪になぶらせた――君の黒い姿は、白い地面に腰まで埋まって、あるいは濃く、あるいは薄く、縞(しま)になって横降りに降りしきる雪の中を、ただ一人だんだん遠ざかって、とうとうかすんで見えなくなってしまった。
 そして君に取り残された事務所は、君の来る前のような単調なさびしさと降りつむ雪とに閉じこめられてしまった。
 私がそこを発(た)って東京に帰ったのは、それから三四日後の事だった。

       四

 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿(つばき)が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り広げて吸い込んでいる。君の住む岩内の港の水は、まだ流れこむ雪解(ゆきげ)の水に薄濁るほどにもなってはいまい。鋼鉄を水で溶かしたような海面が、ややもすると角立(かどだ)った波をあげて、岸を目がけて終日攻めよせているだろう。それにしてももう老いさらぼえた雪道を器用に拾いながら、金魚売りが天秤棒(てんびんぼう)をになって、無理にも春をよび覚(さ)ますような売り声を立てる季節にはなったろう。浜には津軽(つがる)や秋田(あきた)へんから集まって来た旅雁(りょがん)のような漁夫たちが、鰊(にしん)の建網(たてあみ)の修繕をしたり、大釜(おおがま)の据(す)え付(つ)けをしたりして、黒ずんだ自然の中に、毛布の甲がけや外套(がいとう)のけばけばしい赤色をまき散らす季節にはなったろう。このころ私はまた妙に君を思い出す。君の張り切った生活のありさまを頭に描く。君はまざまざと私の想像の視野に現われ出て来て、見るように君の生活とその周囲とを私に見せてくれる。芸術家にとっては夢と現(うつつ)との閾(しきい)はないと言っていい。彼は現実を見ながら眠っている事がある。夢を見ながら目を見開いている事がある。私が私の想像にまかせて、ここに君の姿を写し出してみる事を君は拒むだろうか。私の鈍い頭にも同感というものの力がどのくらい働きうるかを私は自分でためしてみたいのだ。君の寛大はそれを許してくれる事と私はきめてかかろう。
 君を思い出すにつけて、私の頭にすぐ浮かび出て来るのは、なんと言ってもさびしく物すさまじい北海道の冬の光景だ。

       五

 長い冬の夜はまだ明けない。雷電峠と反対の湾の一角から長く突き出た造りぞこねの防波堤は大蛇(だいじゃ)の亡骸(むくろ)のようなまっ黒い姿を遠く海の面に横たえて、夜目にも白く見える波濤(はとう)の牙(きば)が、小休(おや)みもなくその胴腹に噛(く)いかかっている。砂浜に繁(もや)われた百艘(そう)近い大和船は、舳(へさき)を沖のほうへ向けて、互いにしがみつきながら、長い帆柱を左右前後に振り立てている。そのそばに、さまざまの漁具と弁当のお櫃(ひつ)とを持って集まって来た漁夫たちは、言葉少なに物を言いかわしながら、防波堤の上に建てられた組合の天気予報の信号灯を見やっている。暗い闇(やみ)の中に、白と赤との二つの火が、夜鳥の目のようにぎらりと光っている。赤と白との二つの球は、危険警戒を標示する信号だ。船を出すには一番鳥(いちばんどり)が鳴きわたる時刻まで待ってからにしなければならぬ。町のほうは寝しずまって灯(ひ)一つ見えない。それらのすべてをおおいくるめて凍った雲は幕のように空低くかかっている。音を立てないばかりに雲は山のほうから沖のほうへと絶え間なく走り続ける。汀(みぎわ)まで雪に埋まった海岸には、見渡せる限り、白波がざぶんざぶん砕けて、風が――空気そのものをかっさらってしまいそうな激しい寒い風が雪に閉ざされた山を吹き、漁夫を吹き、海を吹きまくって、まっしぐらに水と空との閉じ目をめがけて突きぬけて行く。
 漁夫たちの群れから少し離れて、一団になったお内儀(かみ)さんたちの背中から赤子の激しい泣き声が起こる。しばらくしてそれがしずまると、風の生み出す音の高い不思議な沈黙がまた天と地とにみなぎり満ちる。
 やや二時間もたったと思うころ、あや目も知れない闇(やみ)の中から、硫黄(いおう)が丘(たけ)の山頂――右肩をそびやかして、左をなで肩にした――が雲の産んだ鬼子のように、空中に現われ出る。鈍い土がまだ振り向きもしないうちに、空はいち早くも暁の光を吸い初めたのだ。
 模範船(港内に四五艘(そう)あるのだが、船も大きいし、それに老練な漁夫が乗り込んでいて、他の船にかけ引き進退の合図をする)の船頭が頭をあつめて相談をし始める。どことも知れず、あの昼にはけうとい羽色を持った烏(からす)の声が勇ましく聞こえだす。漁夫たちの群れもお内儀(かみ)さんたちのかたまりも、石のような不動の沈黙から急に生き返って来る。
「出すべ」
 そのさざめきの間に、潮で□(さ)び切った老船頭の幅の広い塩辛声(しおからごえ)が高くこう響く。
 漁夫たちは力強い鈍さをもって、互いに今まで立ち尽くしていた所を歩み離れてめいめいの持ち場につく。お内儀さんたちは右に左に夫(おっと)や兄や情人やを介抱して駆け歩く。今まで陶酔したようにたわいもなく波に揺られていた船の艫(とも)には漁夫たちが膝頭(ひざがしら)まで水に浸って、わめき始める。ののしり騒ぐ声がひとしきり聞こえたと思うと、船はよんどころなさそうに、右に左に揺らぎながら、船首を高くもたげて波頭を切り開き切り開き、狂いあばれる波打ちぎわから離れて行く。最後の高いののしりの声とともに、今までの鈍さに似ず、あらゆる漁夫は、猿(ましら)のように船の上に飛び乗っている。ややともすると、舳(へさき)を岸に向けようとする船の中からは、長い竿(さお)が水の中に幾本も突き込まれる。船はやむを得ずまた立ち直って沖を目ざす。
 この出船の時の人々の気組み働きは、だれにでも激烈なアレッグロで終わる音楽の一片を思い起こさすだろう。がやがやと騒ぐ聴衆のような雲や波の擾乱(じょうらん)の中から、漁夫たちの鈍い Largo pianissimo とも言うべき運動が起こって、それが始めのうちは周囲の騒音の中に消されているけれども、だんだんとその運動は熱情的となり力づいて行って、霊を得たように、漁夫の乗り込んだ舟が波を切り波を切り、だんだんと早くなる一定のテンポを取って沖に乗り出して行くさまは、力強い楽手の手で思い存分大胆にかなでられる Allegro Molto を思い出させずにはおかぬだろう。すべてのものの緊張したそこには、いつでも音楽が生まれるものと見える。
 船はもう一個の敏活な生き物だ。船べりからは百足虫(むかで)のように艪(ろ)の足を出し、艫(とも)からは鯨のように舵(かじ)の尾を出して、あの物悲しい北国特有な漁夫のかけ声に励まされながら、まっ暗に襲いかかる波のしぶきをしのぎ分けて、沖へ沖へと岸を遠ざかって行く。海岸にひとかたまりになって船を見送る女たちの群れはもう命のない黒い石ころのようにしか見えない。漁夫たちは艪をこぎながら、帆綱を整えながら、浸水(あか)をくみ出しながら、その黒い石ころと、模範船の艫から一字を引いて怪火(かいか)のように流れる炭火の火の子とをながめやる。長い鉄の火箸(ひばし)に火の起こった炭をはさんで高くあげると、それが風を食って盛んに火の子を飛ばすのだ。すべての船は始終それを目あてにして進退をしなければならない。炭火が一つあげられた時には、天候の悪くなる印(しるし)と見て船を停(と)め、二つあげられた時には安全になった印として再び進まねばならぬのだ。暁闇(ぎょうあん)を、物々しく立ち騒ぐ風と波との中に、海面低く火花を散らしながら青い炎を放って、燃え上がり燃えかすれるその光は、幾百人の漁夫たちの命を勝手に支配する運命の手だ。その光が運命の物すごさをもって海上に長く尾を引きながら消えて行く。
 どこからともなく海鳥の群れが、白く長い翼に羽音を立てて風を切りながら、船の上に現われて来る。猫(ねこ)のような声で小さく呼びかわすこの海の砂漠(さばく)の漂浪者は、さっと落として来て波に腹をなでさすかと思うと、翼を返して高く舞い上がり、ややしばらく風に逆らってじっとこたえてから、思い直したように打ち連れて、小気味よく風に流されて行く。その白い羽根がある瞬間には明るく、ある瞬間には暗く見えだすと、長い北国の夜もようやく明け離れて行こうとするのだ。夜の闇(やみ)は暗く濃く沖のほうに追いつめられて、東の空には黎明(れいめい)の新しい光が雲を破り始める。物すさまじい朝焼けだ。あやまって海に落ち込んだ悪魔が、肉付きのいい右の肩だけを波の上に現わしている、その肩のような雷電峠の絶巓(ぜってん)をなでたりたたいたりして叢立(むらだ)ち急ぐ嵐雲(あらしぐも)は、炉に投げ入れられた紫のような光に燃えて、山ふところの雪までも透明な藤色(ふじいろ)に染めてしまう。それにしても明け方のこの暖かい光の色に比べて、なんという寒い空の風だ。長い夜のために冷え切った地球は、今そのいちばん冷たい呼吸を呼吸しているのだ。
 私は君を忘れてはならない。もう港を出離れて木の葉のように小さくなった船の中で、君は配縄(はいなわ)の用意をしながら、恐ろしいまでに荘厳(そうごん)なこの日の序幕をながめているのだ。君の父上は舵座(かじざ)にあぐらをかいて、時々晴雨計を見やりながら、変化のはげしいそのころの天気模様を考えている。海の中から生まれて来たような老漁夫の、皺(しわ)にたたまれた鋭い眼は、雲一片の徴(しるし)をさえ見落とすまいと注意しながら、顔には木彫のような深い落ち付きを見せている。君の兄上は、凍って自由にならない手のひらを腰のあたりの荒布にこすりつけて熱を呼び起こしながら、帆綱を握って、風の向きと早さに応じて帆を立て直している。雇われた二人の漁夫は二人の漁夫で、二尋(ふたひろ)置きに本縄(ほんなわ)から下がった針に餌(え)をつけるのに忙(せわ)しい。海の上を見渡すと、港を出てからてんでんばらばらに散らばって、朝の光に白い帆をかがやかした船という船は、等しく沖を目がけて波を切り開いて走りながら、君の船と同様な仕事にいそしんでいるのだ。
 夜が明け離れると海風と陸風との変わり目が来て、さすがに荒れがちな北国の冬の海の上もしばらくは穏やかになる。やがて瀬は達せられる。君らは水の色を一目見たばかりで、海中に突き入った陸地と海そのものの界(さかい)とも言うべき瀬がどう走っているかをすぐ見て取る事ができる。
 帆がおろされる。勢いで走りつづける船足は、舵(かじ)のために右なり左なりに向け直される。同時に浮標(うき)の付いた配縄(はいなわ)の一端が氷のような波の中にざぶんざぶんと投げこまれる。二十五町から三十町に余る長さをもった縄全体が、海上に長々と横たえられるまでには、朝早くから始めても、日が子午線近く来るまでかからねばならないのだ。君らの船は艪(ろ)にあやつられて、横波を食いながらしぶしぶ進んで行く。ざぶり‥‥ざぶり‥‥寒気のために比重の高くなった海の水は、凍りかかった油のような重さで、物すごいインド藍(あい)の底のほうに、雲間を漏れる日光で鈍く光る配縄の餌(え)をのみ込んで行く。
 今まで花のような模様を描いて、海面のところどころに日光を恵んでいた空が、急にさっと薄曇ると、どこからともなく時雨(しぐれ)のような霰(あられ)が降って来て海面を泡立(あわだ)たす。船と船とは、見る見る薄い糊(のり)のような青白い膜(まく)に隔てられる。君の周囲には小さな白い粒がかわき切った音を立てて、あわただしく船板を打つ。君は小ざかしい邪魔者から毛糸の襟巻(えりまき)で包んだ顔をそむけながら、配縄を丹念におろし続ける。
 すっと空が明るくなる。霰(あられ)はどこかへ行ってしまった。そしてまっさおな海面に、漁船は陰になりひなたになり、堅い輪郭を描いて、波にもまれながらさびしく漂っている。
 きげん買いな天気は、一日のうちに幾度となくこうした顔のしかめ方をする。そして日が西に回るに従ってこのふきげんは募って行くばかりだ。
 寒暑をかまっていられない漁夫たちも吹きざらしの寒さにはひるまずにはいられない。配縄(はいなわ)を投げ終わると、身ぶるいしながら五人の男は、舵座(かじざ)におこされた焜炉(こんろ)の火のまわりに慕い寄って、大きなお櫃(ひつ)から握り飯をわしづかみにつかみ出して食いむさぼる。港を出る時には一かたまりになっていた友船も、今は木の葉のように小さく互い互いからかけ隔たって、心細い弱々しそうな姿を、涯(はて)もなく露領に続く海原(うなばら)のここかしこに漂わせている。三里の余も離れた陸地は高い山々の半腹から上だけを水の上に見せて、降り積んだ雪が、日を受けた所は銀のように、雲の陰になった所は鉛のように、妙に険しい輪郭を描いている。
 漁夫たちは口を食物で頬張(ほおば)らせながら、きのうの漁(りょう)のありさまや、きょうの予想やらをいかにも地味な口調で語り合っている。そういう時に君だけは自分が彼らの間に不思議な異邦人である事に気づく。同じ艪(ろ)をあやつり、同じ帆綱をあつかいながら、なんという悲しい心の距(へだた)りだろう。押しつぶしてしまおうと幾度試みても、すぐあとからまくしかかって来る芸術に対する執着をどうすることもできなかった。
 とはいえ、飛行機の将校にすらなろうという人の少ない世の中に、生きては人の冒険心をそそっていかにも雄々しい頼みがいある男と見え、死んでは万人にその英雄的な最後を惜しみ仰がれ、遺族まで生活の保障を与えられる飛行将校にすらなろうという人の少ない世の中に、荒れても晴れても毎日毎日、一命を投げてかかって、緊張し切った終日の労働に、玉の緒で炊(た)き上げたような飯を食って一生を過ごして行かねばならぬ漁夫の生活、それにはいささかも遊戯的な余裕がないだけに、命とかけがえの真実な仕事であるだけに、言葉には現わし得ないほど尊さと厳粛さとを持っている。ましてや彼らがこの目ざましいけなげな生活を、やむを得ぬ、苦しい、しかし当然な正しい生活として、誇りもなく、矯飾(きょうしょく)もなく、不平もなく、素直に受け取り、軛(くびき)にかかった輓牛(ひきうし)のような柔順な忍耐と覚悟とをもって、勇ましく迎え入れている、その姿を見ると、君は人間の運命のはかなさと美しさとに同時に胸をしめ上げられる。
 こんな事を思うにつけて、君の心の目にはまざまざと難破船の痛ましい光景が浮かび出る。君はやはり舵座(かじざ)にすわって他の漁夫と同様に握り飯を食ってはいるが、いつのまにか人々の会話からは遠のいて、物思わしげに黙りこくってしまう。そして果てしもなく回想の迷路をたどって歩く。

       六

 それはある年の三月に、君が遭遇した苦(にが)い経験の一つだ。模範船からすぐ引き上げろという信号がかかったので、今までも気づかいながら仕事を続けていた漁船は、打ち込み打ち込む波濤(はとう)と戦いながら配縄(はいなわ)をたくし上げにかかったけれども、吹き始めた暴風は一秒ごとに募るばかりで、船頭はやむなく配縄を切って捨てさせなければならなくなった。
「またはあ銭(ぜに)こ海さ捨てるだ」
と君の父上は心から嘆息してつぶやきながら君に命じて配縄(はいなわ)を切ってしまった。
 海の上はただ狂い暴(あ)れる風と雪と波ばかりだ。縦横に吹きまく風が、思いのままに海をひっぱたくので、つるし上げられるように高まった三角波が互いに競って取っ組み合うと、取っ組み合っただけの波はたちまちまっ白な泡(あわ)の山に変じて、その巓(いただき)が風にちぎられながら、すさまじい勢いで目あてもなく倒れかかる。目も向けられないような濃い雪の群れは、波を追ったり波からのがれたり、さながら風の怒りをいどむ小悪魔のように、面憎(つらにく)く舞いながら右往左往に飛びはねる。吹き落として来た雪のちぎれは、大きな霧のかたまりになって、海とすれすれに波の上を矢よりも早く飛び過ぎて行く。
 雪と浸水(あか)とで糊(のり)よりもすべる船板の上を君ははうようにして舳(へさき)のほうへにじり寄り、左の手に友綱の鉄環(かなわ)をしっかりと握って腰を据(す)えながら、右手に磁石をかまえて、大声で船の進路を後ろに伝える。二人の漁夫は大竿(おおざお)を風上になった舷(ふなべり)から二本突き出して、動かないように結びつける。船の顛覆(てんぷく)を少しなりとも防ごうためだ。君の兄上は帆綱を握って、舵座(かじざ)にいる父上の合図どおりに帆の上げ下げを誤るまいと一心になっている。そしてその間にもしっきりなしに打ち込む浸水(あか)を急がしく汲(く)んでは舷から捨てている。命がけに呼びかわす互い互いの声は妙に上(うわ)ずって、風に半分がた消されながら、それでも五人の耳には物すごくも心強くも響いて来る。
「おも舵っ」
「右にかわすだってえば」
「右だ‥‥右だぞっ」
「帆綱をしめろやっ」
「友船は見えねえかよう、いたらくっつけ」やーい
 どう吹こうとためらっていたような疾風がやがてしっかり方向を定めると、これまでただあてもなく立ち騒いでいたらしく見える三角波は、だんだんと丘陵のような紆濤(うねり)に変わって行った。言葉どおりに水平に吹雪(ふぶ)く雪の中を、後ろのほうから、見上げるような大きな水の堆積(たいせき)が、想像も及ばない早さでひた押しに押して来る。
「来たぞーっ」
 緊張し切った五人の心はまたさらに恐ろしい緊張を加えた。まぶしいほど早かった船足が急によどんで、後ろに吸い寄せられて、艫(とも)が薄気味悪く持ち上がって、船中に置かれた品物ががらがらと音をたてて前にのめり、人々も何かに取りついて腰のすわりを定めなおさなければならなくなった瞬間に、船はひとあおりあおって、物すごい不動から、奈落(ならく)の底までもとすさまじい勢いで波の背をすべり下った。同時に耳に余る大きな音を立てて、紆濤(うねり)は屏風倒(びょうぶだお)しに倒れかえる。わきかえるような泡(あわ)の混乱の中に船をもまれながら行く手を見ると、いったんこわれた波はすぐまた物すごい丘陵に立ちかえって、目の前の空を高くしきりながら、見る見る悪夢のように遠ざかって行く。
 ほっと安堵(あんど)の息をつく隙(すき)も与えず、後ろを見ればまた紆濤(うねり)だ。水の山だ。その時、
「あぶねえ」
「ぽきりっ」
というけたたましい声を同時に君は聞いた。そして同時に野獣の敏感さをもって身構えしながら後ろを振り向いた。根もとから折れて横倒しに倒れかかる帆柱と、急に命を失ったようにしわになってたたまる帆布と、その陰から、飛び出しそうに目をむいて、大きく口をあけた君の兄上の顔とが映った。
 君は咄嗟(とっさ)に身をかわして、頭から打ってかかろうとする帆柱から身をかばった。人々は騒ぎ立って艪(ろ)を構えようとひしめいた。けれども無二無三な船足の動揺には打ち勝てなかった。帆の自由である限りは金輪際(こんりんざい)船を顛覆(てんぷく)させないだけの自信を持った人たちも、帆を奪い取られては途方に暮れないではいられなかった。船足のとまった船ではもう舵(かじ)もきかない。船は波の動揺のまにまに勝手放題に荒れ狂った。
 第一の紆濤(うねり)、第二の紆濤、第三の紆濤には天運が船を顛覆からかばってくれた。しかし特別に大きな第四の紆濤を見た時、船中の人々は観念しなければならなかった。
 雪のために薄くぼかされたまっ黒な大きな山、その頂からは、火が燃え立つように、ちらりちらり白い波頭(なみがしら)が立っては消え、消えては立ちして、瞬間ごとに高さを増して行った。吹き荒れる風すらがそのためにさえぎりとめられて、船の周囲には気味の悪い静かさが満ち広がった。それを見るにつけても波の反対の側をひた押しに押す風の激しさ強さが思いやられた。艫(とも)を波のほうへ向ける事も得しないで、力なく漂う船の前まで来ると、波の山は、いきなり、獲物に襲いかかる猛獣のように思いきり背延びをした。と思うと、波頭は吹きつける風にそりを打って□(どう)とくずれこんだ。
 はっと思ったその時おそく、君らはもうまっ白な泡(あわ)に五体を引きちぎられるほどもまれながら、船底を上にして顛覆(てんぷく)した船体にしがみつこうともがいていた。見ると君の目の届く所には、君の兄上が頭からずぶぬれになって、ぬるぬると手がかりのない舷(ふなべり)に手をあてがってはすべり、手をあてがってはすべりしていた。君は大声を揚げて何か言った。兄上も大声を揚げて何か言ってるらしかった。しかしお互いに大きな口をあくのが見えるだけで、声は少しも聞こえて来ない。
 割合に小さな波があとからあとから押し寄せて来て、船を揺り上げたり押しおろしたりした。そのたびごとに君たちは船との縁を絶たれて、水の中に漂わねばならなかった。そして君は、着込んだ厚衣(あつし)の芯(しん)まで水が透って鉄のように重いのにもかかわらず、一心不乱に動かす手足と同じほどの忙(せわ)しさで、目と鼻ぐらいの近さに押し迫った死からのがれ出る道を考えた。心の上澄(うわず)みは妙におどおどとあわてている割合に、心の底は不思議に気味悪く落ちついていた。それは君自身にすら物すごいほどだった。空といい、海といい、船といい、君の思案といい、一つとして目あてなく動揺しないものはない中に、君の心の底だけが悪落ち付きに落ち付いて、「死にはしないぞ」とちゃんときめ込んでいるのがかえって薄気味悪かった。それは「死ぬのがいやだ」「生きていたい」「生きる余席の有る限りはどうあっても生きなければならぬ」「死にはしないぞ」という本能の論理的結論であったのだ。この恐ろしい盲目な生の事実が、そしてその結論だけが、目を見すえたように、君の心の底に落ち付き払っていたのだった。
 君はこの物すごい無気味な衝動に駆り立てられながら、水船なりにも顛覆した船を裏返す努力に力を尽くした。残る四人の心も君と変わりはないと見えて、険しい困苦と戦いながら、四人とも君のいる舷(ふなべり)のほうへ集まって来た。そして申し合わしたように、いっしょに力を合わせて、船の胴腹にはい上がるようにしたので、船は一方にかしぎ始めた。
「それ今ひと息だぞっ」
 君の父上がしぼり切った生命を声にしたように叫んだ。一同はまた懸命な力をこめた。
 おりよく――全くおりよく、天運だ――その時船の横面(よこつら)に大きな波が浴びせこんで来たので、片方だけに人の重りの加わった船はくるりと裏返った。舷までひたひたと水に埋もれながらもとにかく船は真向きになって水の面に浮かび出た。船が裏返る拍子に五人は五人ながら、すっぽりと氷のような海の中にもぐり込みながら、急に勢いづいて船の上に飛び上がろうとした。しかししこたま着込んだ衣服は思うざまぬれ透っていて、ややともすれば人々を波の中に吸い込もうとした。それが一方の舷に取りついて力をこめればまた顛覆(てんぷく)するにきまっている。生死の瀬戸ぎわにはまり込んでいる人々の本能は恐ろしいほど敏捷(びんしょう)な働きをする。五人の中の二人は咄嗟(とっさ)に反対の舷に回った。そして互いに顔を見合わせながら、一度にやっと声をかけ合わせて半身を舷に乗り上げた。足のほうを船底に吸い寄せられながらも、半身を水から救い出した人々の顔に現われたなんとも言えない緊張した表情――それを君は忘れる事ができない。次の瞬間にはわっと声をあげて男泣きに泣くか、それとも我れを忘れて狂うように笑うか、どちらかをしそうな表情――それを君は忘れる事ができない。
 すべてこうした懸命な努力は、降りしきる雪と、荒れ狂う水と、海面をこすって飛ぶ雲とで表わされる自然の憤怒(ふんぬ)の中で行なわれたのだ。怒った自然の前には、人間は塵(ちり)ひとひらにも及ばない。人間などという存在は全く無視されている。それにも係わらず君たちは頑固(がんこ)に自分たちの存在を主張した。雪も風も波も君たちを考えにいれてはいないのに、君たちはしいてもそれらに君たちを考えさせようとした。
 舷(ふなべり)を乗り越して奔馬のような波頭がつぎつぎにすり抜けて行く。それに腰まで浸しながら、君たちは船の中に取り残された得物をなんでもかまわず取り上げて、それを働かしながら、死からのがるべき一路を切り開こうとした。ある者は艪(ろ)を拾いあてた。あるものは船板を、あるものは水柄杓(みずびしゃく)を、あるものは長いたわしの柄を、何ものにも換えがたい武器のようにしっかり握っていた。そして舷から身を乗り出して、子供がするように、水を漕(こ)いだり、浸水(あか)をかき出したりした。
 吹き落ちる気配(けはい)も見えないあらしは、果てもなく海上を吹きまくる。目に見える限りはただ波頭ばかりだ。犬のような敏捷(すばや)さで方角を嗅(か)ぎ慣れている漁夫たちも、今は東西の定めようがない。東西南北は一つの鉢(はち)の中ですりまぜたように渾沌(こんとん)としてしまった。
 薄い暗黒。天からともなく地からともなくわき起こる大叫喚。ほかにはなんにもない。
「死にはしないぞ」――そんなはめになってからも、君の心の底は妙に落ち着いて、薄気味悪くこの一事を思いつづけた。
 君のそばには一人の若い漁夫がいたが、その右の顳□(こめかみ)のへんから生々しい色の血が幾条にもなって流れていた。それだけがはっきり君の目に映った。「死にはしないぞ」――それを見るにつけても、君はまたしみじみとそう思った。
 こういう必死な努力が何分続いたのか、何時間続いたのか、時間というもののすっかり無くなってしまったこの世界では少しもわからない。しかしながらとにかく君が何ものも納(い)れ得ない心の中に、疲労という感じを覚えだして、これは困った事になったと思ったころだった、突然一人の漁夫が意味のわからない言葉を大きな声で叫んだのは。今まででも五人が五人ながら始終何か互いに叫び続けていたのだったが、この叫び声は不思議にきわ立ってみんなの耳に響いた。
 残る四人は思わず言い合わせたようにその漁夫のほうを向いて、その漁夫が目をつけているほうへ視線をたどって行った。
 船! ‥‥船!
 濃い吹雪(ふぶき)の幕のあなたに、さだかには見えないが、波の背(そびら)に乗って四十五度くらいの角度に船首を下に向けながら、帆をいっぱいに開いて、矢よりも早く走って行く一艘(そう)の船!
 それを見ると何かが君の胸をどきんと下からつき上げて来た。君は思わずすすり泣きでもしたいような心持ちになった。何はさておいても君たちはその船を目がけて助けを求めながら近寄って行かねばならぬはずだった。余の人たちも君と同様、確かに何物かを目の前に認めたらしく、奇怪な叫び声を立てた漁夫が、目を大きく開いて見つめているあたりを等しく見つめていた。そのくせ一人として自分らの船をそっちのほうへ向けようとしているらしい者はなかった。それをいぶかる君自身すら、心がただわくわくと感傷的になりまさるばかりで、急いで働かすべき手はかえって萎(な)えてしまっていた。
 白い帆をいっぱいに開いたその船は、依然として船首を下に向けたまま、矢のように走って行く。降りしきる吹雪(ふぶき)を隔てた事だから、乗り組みの人の数もはっきりとは見えないし、水の上に割合に高く現われている船の胴も、木の色というよりは白堊(はくあ)のような生白さに見えていた。そして不思議な事には、波の腹に乗っても波の背に乗っても、舳(へさき)は依然として下に向いたままである。風の強弱に応じて帆を上げ下げする様子もない。いつまでも目の前に見えながら、四十五度くらいに船首を下向きにしたまま、矢よりも早く走って行く。
 ぎょっとして気がつくと、その船はいつのまにか水から離れていた。波頭から三段も上と思われるあたりを船は傾(かし)いだまま矢よりも早く走っている。君の頭はかあんとしてすくみ上がってしまった。同時に船はだんだん大きくぼやけて行った。いつのまにかその胴体は消えてなくなって、ただまっ白い帆だけが矢よりも早く動いて行くのが見やられるばかりだ。と思うまもなくその白い大きな帆さえが、降りしきる雪の中に薄れて行って、やがてはかき消すように見えなくなってしまった。
 怒濤(どとう)。白沫(しらあわ)。さっさっと降りしきる雪。目をかすめて飛びかわす雲の霧。自然の大叫喚‥‥そのまっただ中にたよりなくもみさいなまれる君たちの小さな水船‥‥やっぱりそれだけだった。
 生死の間にさまよって、疲れながらも緊張し切った神経に起こる幻覚(ハルシネーション)だったのだと気がつくと、君は急に一種の薄気味悪さを感じて、力を一度にもぎ取られるように思った。
 さきほど奇怪な叫び声を立てたその若い漁夫は、やがて眠るようにおとなしく気を失って、ひょろひょろとよろめくと見る間に、くずれるように胴の間にぶっ倒れてしまった。
 漁夫たちは何か魔でもさしたように思わず極度の不安を目に現わして互いに顔を見合わせた。
「死にはしないぞ」
 不思議な事にはそのぶっ倒れた男を見るにつけて、また漁夫たちの不安げな様子を見るにつけて、君は懲りずまに薄気味悪くそう思いつづけた。
 君たちがほんとうに一艘(そう)の友船と出くわしたまでには、どれほどの時間がたっていたろう。しかしとにかく運命は君たちには無関心ではなかったと見える。急に十倍も力を回復したように見えた漁夫たちが、必死になって君たちの船とその船とをつなぎ合わせ、半分がた凍ってしまった帆を形ばかりに張り上げて、風の追うままに船を走らせた時には、なんとも言えない幸福な感謝の心が、おさえてもおさえてもむらむらと胸の先にこみ上げて来た。
 着く所に着いてから思い存分の手当をするからしばらく我慢してくれと心の中にわびるように言いながら、君は若い漁夫を卒倒したまま胴の間の片すみに抱きよせて、すぐ自分の仕事にかかった。
 やがて行く手の波の上にぼんやりと雷電峠の突角が現われ出した。山脚(やまあし)は海の中に、山頂は雲の中に、山腹は雪の中にもみにもまれながら、決して動かないものが始めて君たちの前に現われたのだ。それを見つけた時の漁夫たちの心の勇み‥‥魚が水にあったような、野獣が山に放たれたような、太陽が西を見つけ出したようなその喜び‥‥船の中の人たちは思わず足爪立(つまだ)てんばかりに総立ちになった。人々の心までが総立ちになった。
「峠が見えたぞ‥‥北に取れや舵(かじ)を‥‥隠れ岩さ乗り上げんな‥‥雪崩(なだれ)にも打たせんなよう‥‥」
 そう言う声がてんでんに人々の口からわめかれた。それにしても船はひどく流されていたものだ。雷電峠から五里も離れた瀬にいたものが、いつのまにかこんな所に来ているのだ。見る見る風と波とに押しやられて船は吸い付けられるように、吹雪(ふぶき)の間からまっ黒に天までそそり立つ断崕(だんがい)に近寄って行くのを、漁夫たちはそうはさせまいと、帆をたて直し、艪(ろ)を押して、横波を食わせながら船を北へと向けて行った。
 陸地に近づくと波はなお怒る。鬣(たてがみ)を風になびかして暴(あ)れる野馬のように、波頭は波の穂になり、波の穂は飛沫(ひまつ)になり、飛沫はしぶきになり、しぶきは霧になり、霧はまたまっ白い波になって、息もつかせずあとからあとからと山すそに襲いかかって行く。山すその岩壁に打ちつけた波は、煮えくりかえった熱湯をぶちつけたように、湯げのような白沫(しらあわ)を五丈も六丈も高く飛ばして、反(そ)りを打ちながら海の中にどっとくずれ込む。
 その猛烈な力を感じてか、断崕(だんがい)の出鼻に降り積もって、徐々に斜面をすべり下って来ていた積雪が、地面との縁(えん)から離れて、すさまじい地響きとともに、何百丈の高さから一気になだれ落ちる。巓(いただき)を離れた時には一握りの銀末に過ぎない。それが見る見る大きさを増して、隕星(いんせい)のように白い尾を長く引きながら、音も立てずにまっしぐらに落として来る。あなやと思う間にそれは何十里にもわたる水晶の大簾(おおすだれ)だ。ど、ど、どどどしーん‥‥さあーっ‥‥。広い海面が目の前でまっ白な平野になる。山のような五百重(いおえ)の大波はたちまちおい退けられて漣(さざなみ)一つ立たない。どっとそこを目がけて狂風が四方から吹き起こる‥‥その物すさまじさ。
 君たちの船は悪鬼におい迫られたようにおびえながら、懸命に東北へと舵(かじ)を取る。磁石のような陸地の吸引力からようよう自由になる事のできた船は、また揺れ動く波の山と戦わねばならぬ。
 それでも岩内の港が波の間に隠れたり見えたりし始めると、漁夫たちの力は急に五倍にも十倍にもなった。
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