絶望
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著者名:徳田秋声 

『其樣(そん)なに爲(し)なくたつて、逃げも隱れもしやしねえ。』と松公は何處迄(どこまで)も素直に出て、『眞實(ほんとう)に惡かつたよ。だけど、二三日體が惡くて、店へも出なかつたんだから、爲方(しかた)がねえぢやねえか。』
『嘘をお吐(つ)きでないよ。』
『嘘なもんか。實際だよ。』と松公は獨(ひとり)で笑つて、『第一己(おれ)は金さんに濟まないと云ふ、其も有るからね。が、孰(どつち)にしても行く。今夜必然(きつと)行く。』と胡散(うさん)くさい目色(めつき)をして、女を見下(みおろ)す。
『當(あて)になるものか。』と女は鼻で笑つて、『お前さんの口前(くちまへ)の巧いにも惘(あき)れるよ。』
『アレ、彼樣(あん)なことを言つてら。ぢや好(い)いや。然(さ)う思つてるが可(い)いや。』
『莫迦(ばか)にしてるよ。』と女は□然(むき)になつて、『お大姐さんを瞞(だま)して見やがれ、唯は置かねえから。』
 松公は相渝(あひかは)らずニヤ/\してゐたが、此女の毒口にかゝつては、堪らぬことを知つてゐるので、
『アヽ好(い)いよ、好いつてことよ。だが遲くなつたら、行かないかも知れねえよ。』
『まさか、一時二時まで出前がありやしまいし。加之(それに)此頃は夜が長いよ。』
『眞實(ほんとう)だ。』と松公は呟きながら、通(とほり)を突切つてしまふ。
『畜生(ちきしやう)!』とお大は無上に胸が焦燥(いら/\)して、『莫迦にしてら』と突拍子な聲を出しながら、スタ/\歩出す。
 細い路次(ろじ)を通つて、宅(うち)の前まで來ると、表の戸は一昨日(おとゝひ)締めて行つたまゝである。何處をほつき□つてゐたのか、宛然(まるで)夢中で、自分にも明瞭(はつきり)覺(おぼへ)がない。が、今は淺草に住つてゐる友達と、一昨日(おとゝひ)一日公園をぶら/\遊んで、其晩其處(そこ)で泊つたことは確である。昨日(きのふ)は一日、芝で古道具屋をしてゐる叔母の處へ行つて、散々(さんざ)ツぱら姉の棚卸(たなおろ)しや、自分の自惚(のろけ)やら愚痴やら並べて、其晩寄席(よせ)へ連出したことも確である。今日は日比谷の散歩やら、芝居の立見やら、滿(つま)らなく日を暮して、お終(しまひ)に床屋へ入込(はいりこ)んで今まで油を賣つてゐたのであるが、氣がついて見ると、腹はもう噛(かみ)つくやうに減(へ)つてゐる。
 戸をあけて宅(うち)へ入らうとすると、闇の中から、哀(あはれ)な細い啼聲(なきごゑ)を立てゝ、雨にビシヨ/\濡れた飼猫の三毛が連(しきり)に人可懷(ひとなつかし)さうに絡(からま)つて來る。
 お大はハツと思つたが、小煩(こうるさ)くなつて、
『チヨツ煩(うるさ)い畜生(ちきしやう)だね。いくら啼いたつて、もう宅(うち)にや米なんざ一粒だつて有りやしないよ。お前よりか、此方(こつち)が餘程(よつぽど)餒(ひもじ)いや。』と呶鳴(どな)りながら、火鉢と三味線の外、何(なん)にもない上(うへ)へ上つて行く。
 で、手撈(てさぐ)りに、火鉢の抽斗(ひきだし)からマツチを取出すと、手捷(てばしこ)く摺(すり)つけて、一昨日(おとゝひ)投出(ほうりだ)して行つたまゝのランプを、臺所(だいどこ)の口から持つて來て、火を點(つ)けたが、もう何をする勇氣もなく、取放(とりツぱな)しの蒲團の上に、疲れた重い體をヅシンと投出したと思ふと、憤(じ)れつたさうに泣いて居た。
 三毛は暫く其處らをウソ/\彷徨(さまよ)うてゐたが、旋(やが)て絶望したのか、降連(ふりしき)る雨のなかを、悲しげな泣聲が次第に遠くへ消えて行つた。




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