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著者名:徳田秋声 

     一

 最初におかれた下谷(したや)の家から、お増(ます)が麹町(こうじまち)の方へ移って来たのはその年の秋のころであった。
 自由な体になってから、初めて落ち着いた下谷の家では、お増は春の末から暑い夏の三月(みつき)を過した。
 そこは賑(にぎ)やかな広小路の通りから、少し裏へ入ったある路次のなかの小さい平家(ひらや)で、ついその向う前には男の知合いの家があった。
 出て来たばかりのお増は、そんなに着るものも持っていなかった。遊里(さと)の風がしみていたから、口の利き方や、起居(たちい)などにも落着きがなかった。広い大きな建物のなかから、初めてそこへ移って来たお増の目には、風鈴(ふうりん)や何かと一緒に、上から隣の老爺(おやじ)の禿頭(はげあたま)のよく見える黒板塀(くろいたべい)で仕切られた、じめじめした狭い庭、水口を開けると、すぐ向うの家の茶の間の話し声が、手に取るように聞える台所などが、鼻がつかえるようで、窮屈でならなかった。
 その当座昼間など、その家の茶の間の火鉢(ひばち)の前に坐っていると、お増は寂しくてしようがなかった。がさがさした縁の板敷きに雑巾(ぞうきん)がけをしたり、火鉢を磨(みが)いたりして、湯にでも入って来ると、後はもう何にもすることがなかった。長いあいだ居なじんだ陽気な家の状(さま)が、目に浮んで来た。男は折り鞄(かばん)などを提げて、昼間でも会社の帰りなどに、ちょいちょいやって来た。日が暮れてから、家から出て来ることもあった。男は女房持ちであった。
 お増は髪を丸髷(まるまげ)などに結って、台所で酒の支度をした。二人で広小路で買って来た餉台(ちゃぶだい)のうえには、男の好きな□(からすみ)や、鯛煎餅(たいせんべい)の炙(あぶ)ったのなどがならべられた。近所から取った、鰻(うなぎ)の丼(どんぶり)を二人で食べたりなどした。
 いつも肩のあたりの色の褪(さ)めた背広などを着込んで、通って来たころから見ると、男はよほど金廻りがよくなっていた。米琉(よねりゅう)の絣(かすり)の対(つい)の袷(あわせ)に模様のある角帯などをしめ、金縁眼鏡をかけている男のきりりとした様子には、そのころの書生らしい面影もなかった。
 酒の切揚げなどの速い男は、来てもでれでれしているようなことはめったになかった。会社の仕事や、金儲(かねもう)けのことが、始終頭にあった。そして床を離れると、じきに時計を見ながらそこを出た。閉めきった入口の板戸が急いで開けられた。
 男が帰ってしまうと、お増の心はまた旧(もと)の寂しさに反(かえ)った。女房持ちの男のところへ来たことが、悔いられた。
「お神さんがないなんて、私を瞞(だま)しておいて、あなたもひどいじゃないの。」
 来てから間もなく、向うの家のお婆さんからそのことを洩(も)れ聞いたときに、お増はムキになって男を責めた。
「誰がそんなことを言った。」
 男は媚(こ)びのある優しい目を□(みは)ったが、驚きもしなかった。
「嘘(うそ)だよ。」
「みんな聞いてしまいましたよ。前に京都から女が訪(たず)ねて来たことも、どこかの後家さんと懇意であったことも、ちゃんと知ってますよ。」
「へへ。」と、男は笑った。
「その京都の女からは、今でも時々何か贈って来るというじゃありませんか。」
「くだらないこといってら。」
「私はうまく瞞されたんだよ。」
 男は床の上に起き上って、襯衣(シャツ)を着ていた。お増は側(そば)に立て膝(ひざ)をしながら、巻莨(まきたばこ)をふかしていた。睫毛(まつげ)の長い、疲れたような目が、充血していた。露出(むきだ)しの男の膝を抓(つね)ったり、莨の火をおっつけたりなどした。男はびっくりして跳(は)ねあがった。

     二

 しかし男も、とぼけてばかりいるわけには行かなかった。三、四年前に一緒になったその細君が、自分より二つも年上であること、書生のおりそこに世話になっていた時分から、長いあいだ自分を助けてくれたことなどを話して聞かした。そのころその女は少しばかりの金をもって、母親と一緒に暮していた。
「それ御覧なさい。世間体があるから当分別にいるなんて、私を瞞しておいて。」
 二人は長火鉢の側へ来て、茶を飲んでいた。餉台(ちゃぶだい)におかれたランプの灯影(ひかげ)に、薄い下唇(したくちびる)を噛(か)んで、考え深い目を見据(みす)えている女の、輪廓(りんかく)の正しい顔が蒼白く見られた。
「けどその片(かた)はじきにつくんだ。それにあの女には、喘息(ぜんそく)という持病もあるし、とても一生暮すてわけに行きゃしない。」
 男は筒に煙管(きせる)を収(しま)いこみながら、呟(つぶや)いた。
「喘息ですって。喘息って何なの。」
「咽喉(のど)がぜいぜいいう病気さ。」
「ううん、そんなお客があったよ。あれか。」
 お増は想い出したように笑い出した。
「お酒飲んだり、不養生すると起るんだって、あれでしょう。厭だね。あなたはそんなお神さんと一緒にいるの。」
 お増は顔を顰(しか)めて、男の顔を見た。男はにやにや笑っていた。
「でも、そんなに世話になった人を、そうは行きませんよ。そんな薄情な真似が出来るもんですか。」
「なに、要するに金の問題さ。」
「いいえ、金じゃ出て行きませんよ。それに、そんな人は他(ほか)へ片着くてわけに行かないでしょう。」
 お増は考え深い目色をした。しかし深く男を追窮することも出来なかった。
「あなたの神さんを、私一度見たいわね。」
 お増は男の心でも引いて見るように言った。
「つまらない。」
 男は鼻で笑った。
「それに、こんなことが知れると、出すにしても都合がわるい。」
「やはりあなたはお神さんがこわいんだよ。」
「こわいこわくないよりうるさい。」
「じゃ、あなたのお神さんはきっと嫉妬家(やきもちやき)なんだよ。」
「お前はどうだい。」
「ううん、私はやきゃしない。こうやっているうちに、東京見物でもさしてもらって、田舎(いなか)へ帰って行ったっていいんだわ。」
 お増はそう言って笑っていたが、商売をしていた時分の傷のついたことを感ぜずにはいられなかった。
 近所が寝静まるころになると、お増はそこに独(ひと)りいることが頼りなかった。床に入ってからも、容易に寝つかれないような晩が多かった。夜の世界にばかり目覚めていたお増の頭には、多勢の朋輩(ほうばい)やお婆さんたちの顔や声が、まだ底にこびりついているようであった。抱擁すべき何物もない一晩の臥床(ねどこ)は、長いあいだの勤めよりも懈(だる)く苦しかった。太鼓や三味(しゃみ)の音も想い出された。
 男の傍(そば)にいる神さんの顔や、部屋の状(さま)が目に見えたりした。

     三

「お増さん、花をひくからお出でなさい。」
 お増が大抵一日入り浸っている向うの家では、お千代婆さんが寂しくなると、入口の方から、そういって声かけた。
 その家では、男の子供の時分の友達であった長男が、遠国の鉱山に勤めていた。小金を持っているお千代婆さんは、今一人の少(わか)い方の子息(むすこ)の教育を監督しながら女中一人をおいて、これという仕事もなしに、気楽に暮していた。
 お増はここへ来てから、台所や買物のことでなにかとお千代婆さんの世話になっていた。髪結の世話をしてもらったり、湯屋へつれていってもらったり、寄席(よせ)へ引っ張られて行ったりなどした。
「何にも知らないものですから、ちと何かを教えてやってください。」
 お増を連れ込んで来た時に、男はそう言ってお千代婆さんに頼んだ。
「浅井さん、あなたそんなことなすっていいんですか。知れたらどうするんです。私までがあなたの奥さんに怨(うら)まれますよ。」
 お千代婆さんは少し強(きつ)いような調子で言った。婆さんは早く良人(おっと)に訣(わか)れてから、長いあいだ子供の世話をして、独りで暮して来た。浅井などに対すると、妙に硬苦(かたくる)しい調子になるようなことがあった。女の話などをすると、いらいらしい色が目に現われることさえあった。
 宵(よい)っ張(ぱ)りの婆さんは寂しそうな顔をして、長火鉢の側で何よりも好きな花札を弄(いじ)っていた。
「差(さ)しで一年どうですね。」などと、お婆さんはお増の顔を見ると、筋肉の硬張(こわば)ったような顔をして言った。
「私それとなく神さんのことについて、今少し旦那(だんな)の脂(あぶら)を取ってやったところなのよ。」
 お増は坐ると、いきなり言い出した。
「それで浅井さんはどう言っていなさるのです。」
「出すというんですよ。」
「どうかな、それは。書生時分から、あの人のために大変に苦労した女ですよ。それに今じゃとにかく籍も入って、正当の妻ですからの。」
「でも喘息が厭(いや)だから、出すんですって。」
「そんなことせん方がいいがな。あなたもそれまでにして入(はい)り込んだところで、寝覚めがよくはないがな。」
「私はどうでもいいの。あの人がおきたいなら置くがよし、出したいなら出すがいいんだ。」
 お増は捨て鉢のような言い方をして、節の伸びた痩(や)せた手に、花の親見をした。
「あれあんたが親だ。」
 お千代婆さんは、札をすっかりお増に渡した。
「奢(おご)りっこですよ、小母さん。」お増は器用な手様(てつき)で札を撒(ま)いたり頒(わ)けたりした。興奮したような目が、ちらちらしたり、頭脳(あたま)がむしゃくしゃしたりして、気乗りがしなかった。婆さんにまで莫迦(ばか)にされているようなのが、不快であった。
「何だい、またやっているのかい。」
 音を聞きつけて、二階から中学出の子息(むすこ)が降りて来た。そして母親の横へ坐って、加勢の目を見張っていた。
 お増はむやみと起(おき)が利(き)いた。
「駄目だい阿母(おっか)さん、そんなぼんやりした引き方していちゃ。」
 お増は黙って附き合っていたが、じきに切り揚げて帰った。そして家へ帰ると、わけもなく独りで泣いていた。

     四

 とろとろと微睡(まどろ)むかと思うと、お増はふと姦(かしま)しい隣の婆さんの声に脅(おびや)かされて目がさめた。お増は疲れた頭脳(あたま)に、始終何かとりとめのない夢ばかり見ていた。その夢のなかには、片々(きれぎれ)のいろいろのものが、混交(ごっちゃ)に織り込まれてあった。どうしたのか、二、三日顔を見せない浅井の、自分のところへ通って来たころの洋服姿が見えたり、ほかの女と一緒に居並んでいる店頭(みせさき)の薄暗いなかを、馴染(なじ)みであった日本橋の方の帽子問屋の番頭が、知らん顔をして通って行ったりした。お増はそれを呼び返そうとしたけれど、誰かの大きな手で胸を圧(おさ)えつけられているようで、声が出なかった。
 廊下で喧嘩(けんか)をしている、尖(とん)がった新造(しんぞ)の声かと思って、目がさめると、それが隣りの婆さんであった。そこへ後添いに来たとか聞いている婆さんは、例の禿頭の爺さんを口汚くやり込めているのであった。
「おやまたやっているよ。」
 お増はそう思いながら、やっと自分が自分の匿(かく)されている家に、蚊帳(かや)のなかで独り寝ているのだということが頭脳(あたま)にはっきりして来た。見ると部屋にはしらしらした朝日影がさし込んでいた。外は今日も暑い日が照りはじめているらしい。路次のなかの水道際(すいどうぎわ)に、ばちゃばちゃという水の音がしてバケツの鉉(つる)の響きが燥(はしゃ)いで聞えた。
 婆さんは座敷の方へ来たり、台所の方へ来たりしながら喚(わめ)いていると見えて、その声が遠くなったり、近くなったりした。爺さんも合間合間に何か言っていた。爺さんと婆さんとが夜中などに喧嘩していることは、これまでにもたびたびあった。その意味はお増にも解った。蒼(あお)い顔をしている、しんねりむっつりした爺さんのところでは、よく神さんが逃げて行った。
「あの爺さんは吝(けち)だから、誰もいつきはしませんよ。」
 お千代婆さんはそう言っていたが、そればかりではないらしかった。
「いいえ、あの爺さんは、きっと夜がうるさいんですよ。」
 お増はお千代婆さんに話したが、お千代婆さんは妙な顔をしているきりであった。
 よく眠れなかったお増は、頭脳(あたま)がどろんと澱(よど)んだように重かった。そして床のなかで、莨(たばこ)をふかしていると、隣の時計が六時を打った。お増は、朝寝をするたびに、お千代婆さんに厭味を言われたりなどすると、自分で、このごろめっきり、まめであった昔の少(わか)い時分の気分に返ることが出来てきたので、これまでのような自堕落(じだらく)な日を送ろうとは思っていなかった。小遣いの使い方なども、締っていた。
「あなたの収入はこの節いくらあるんですよ。」
 お増は浅井に時々そんなことを訊(たず)ねた。
 浅井の収入は毎月決まっていなかった。
「家の生活(くらし)は、いくら費(かか)るんですよ。」
 お増は、それも気になった。
「さあ、そいつも決まっていないね。しかし生活(くらし)には何ほどもかかりゃしない。ただ彼奴(あいつ)は時々酒を飲む。それから余所(よそ)へ出て花をひく。それが彼(あれ)の道楽でね。」
「たまりゃしないわ、それじゃ。あなたのお神さんは、きっと何かにだらしがないんですよ。」
 浅井も、それには厭気がさしていた。
「私なら、きっときちんとして見せますがね。」
 お増は自信あるらしく言った。そしてしばしば生活の入費の計算などをして見るのであった。それがお増には何より興味があった。
「おや、人の家の生活費(くらし)の算盤(そろばん)をするなんて自分のものにもなりゃしないのに。莫迦莫迦(ばかばか)しい、よそうよそう。」
 お増は、そう言ってつまらなさそうに笑い出した。

     五

 ここへ落ち着いてから、一度ちょっと訪ねたことのある友達の顔が、またなつかしく憶(おも)い出された。お雪というその友達は、お増と前後して同じ家にいた女であった。一度人の妾(めかけ)になって、子まで産んだことのあるお雪は、お増よりも大分年上であった。お増は気振りなどのさっぱりしたその女と誰よりも親しくしていた。
 女の亭主は、もとかなり名の聞えた新俳優であった。ずっと以前に政治運動をしたことなどもあった。お増は、口元の苦味走った、目の切れの長いその男をよく知っていた。
「また青柳(あおやぎ)がやって来たよ。」
 お雪と喧嘩などをして、切れたかと思うと、それからそれへと渡り歩いていた旅から帰って来て、情婦(おんな)の部屋へ坐り込んでいるその男の噂(うわさ)が、お増の部屋へ、一番早く伝わった。
 旅稼(たびかせ)ぎから帰って来た青柳は、放浪者のように窶(やつ)れて、すってんてんになってお雪のところへ転げこんで来るのであったが、お雪は切れた切れたと言いながら、やはり男の帰って来るのを待っていた。その家でも、一番よく売れたお雪は、娘を喰いものにしている一人の母親のお蔭で、そのころ大分自暴気味(やけぎみ)になっていた。大きなもので酒を呷(あお)ったり、気の向かない時には、小っぴどく客を振り飛ばしなどした。二人とも、今少し年が若かったら、情死もしかねないほど心が爛(ただ)れていた。傍で見ているお増などの目に凄(すご)いようなことが、時々あった。
 そこを出るとき、お雪の身に着くものと言っては、何にもなかった。箪笥(たんす)がまるで空(から)になっていた。以前ついていた種のいい客が、一人も寄りつかなくなっていた。お雪は着のみ着のままで、男のところへ走ったのであった。
 浅草のある劇場の裏手の方の、その家を初めて尋ねて行った時、青柳の何をして暮しているかが、お増にはちょっと解らなかった。
「良人(うち)はこのごろ妙なことをしているんだよ。」
 お雪はお増を長火鉢の向うへ坐らせると、いきなり話しだした。見違えるほど血色に曇(うる)みが出来て、髪なども櫛巻(くしま)きのままであった。丈(たけ)の高い体には、襟(えり)のかかった唐桟柄(とうざんがら)の双子(ふたこ)の袷(あわせ)を着ていた。お雪はもう三十に手の届く中年増(ちゅうどしま)であった。
「へえ、何しているの。」
 などとお増は、そこへ土産物(みやげもの)の最中(もなか)の袋を出しながら、訊ねた。そこからは、芝居の木の音や、鳴物(なりもの)の音がよく聞えた。
「何だか当ててごらんなさい。」
「相場?」
「そんな気の利いたものじゃないんだよ。」
 お雪は莨を吸いつけて、お増に渡した。
「会社?」
「あの男に、堅気の勤務(つとめ)などが出来るものですか。」
 お雪はそう言いながら、煤(すす)ぼけた押入れの中から何やら、細長い箱に入ったものや、黄色い切(きれ)に包んだ、汚らしい香炉(こうろ)のようなものを取り出して来た。
「お前さんの旦那は工面がいいんだから、この軸を買ってもらっておくんなさいよ。何だか古いもので、いいんだとさ。」
 燻(ふす)ぐれた軸には、岩塊(いわころ)に竹などが描かれてあった。

     六

 日中の暑い盛りに、お増はまたそこへ訪ねて行った。
 お増は昨夜(ゆうべ)の睡眠不足で、体に堪えがたい気懈(けだる)さを覚えたが、頭脳(あたま)は昨夜と同じ興奮状態が続いていた。薄暗い路次の中から広い通りへ出ると、充血した目に、強い日光が痛いほど沁み込んで、眩暈(めまい)がしそうであった。お増は途中でやとった腕車(くるま)の幌(ほろ)のなかで、やはり男の心持などを考え続けていた。
 お雪の家では、夫婦とも昼寝をしていた。青柳は縁の爛れたような目に、色眼鏡をかけて、筒袖の浴衣(ゆかた)に絞りの兵児帯(へこおび)などを締め、長い脛(すね)を立てて、仰向けになっていた。少し離れて、お雪も朱塗りの枕をして、団扇(うちわ)を顔に当てながらぐったり死んだようになっていた。部屋のなかには涼しい風が通って近所は森(しん)としていた。鉄板(ブリキ)を叩(たた)く響きや、裏町らしい子供の泣き声などが時々どこからか聞えて来た。
「よく寝ていること。随分気楽だね。」
 お増は上へあがったが、坐りもせずに醜い二人の寝姿をしばらく眺めていた。
「いくら男がいいたって、私ならこんな人と一緒になぞなりゃしない。先へ寄ってどうするつもりだろう。」
 お増はそんなことを考えながら、火鉢の側へ寄って、莨を喫(ふか)していた。
「おや、お増さん来たの。」
 お雪はそう言って、じきに目をさました。
「大変なところを見られてしまった。いつ来たのさ。」
 お雪は襟を掻き合わせたり、髪を撫(な)であげたりしながら、火鉢の前へ来て坐った。
 お増はへへと笑っていた。
「この暑いのに、よく出て来たわね。」
「何だかつまらなくてしようがないから、遊びに来たのよ。」
「へえ、お前さんでもそんなことがあるの。」
 お雪は火鉢の火を掻き起しながら、「あなたやあなたや。」と青柳を呼び起した。青柳はちょっと身動きをしたが、寝返りをうつと、またそのまま寝入ってしまった。
 お雪が近所で誂(あつら)えた氷を食べながら、二人で無駄口を利いていると、じきに三時過ぎになった。かんかん日の当っていた後の家の亜鉛屋根(トタンやね)に、蔭が出来て、今まで昼寝をしていた近所が、にわかに目覚める気勢(けはい)がした。
 お増は浅井の身のうえなどを話しだしたが、お雪は身にしみて聞いてもいなかった。
「へえ、あの人お神さんがあるの。でもいいやね。そんな人の方が、伎倆(はたらき)があるんだよ。」
「いくら伎倆があっても、私気の多い人は厭だね。車挽(くるまひ)きでもいいから、やっぱり独りの人がいいとつくづくそう思ったわ。」
 青柳が不意に目をさました。
「よく寝る人だこと。」
 お雪はその方を見ながら、惘(あき)れたように笑った。青柳は太いしなやかな手で、胸や腋(わき)のあたりを撫で廻しながら、起き上った。そして不思議そうに、じろじろとお増の顔を眺めた。
「どうもしばらく。」お増はあらたまった挨拶をした。
 青柳はきまりの悪そうな顔をして、お叩頭(じぎ)をした。
「ごらんの通りの廃屋(あばやら)で、……私もすっかり零落(おちぶ)れてしまいましたよ。」
「でも結構なお商売ですよ。」
「は、この方はね、好きの道だものですから、まあぽつぽつやっているんですよ。そのうちまた此奴(こいつ)の体を売るようなことになりゃしないかと思っていますがね。」
「もう駄目ですよ。」お雪は笑った。
 間もなく青柳は手拭をさげて湯に行った。

     七

「あの人随分変ったわね。頭顱(あたま)の地が透けて見えるようになったわ。」
 お増は笑いながら、青柳の噂をした。
「ああすっかり相が変ってしまったよ。更(ふ)けて困る困ると言っちゃ、自分でも気にしているの。それに私もっと、あの社会で幅が利くんだと思っていたら、からきし駄目なのよ。以前世話したものが、皆な寄りつかなくなっちゃったくらいだもの。」
「でも何でも出来るから、いいじゃないの。」
「いいえ、どれもこれも生噛(なまかじ)りだから駄目なのよ。でも、こんな商業(しょうばい)をしていれば、いろいろな家へ出入りが出来るから、そこで仕事にありつこうとでもいうんでしょう。それもどうせいいことはしやしないのさ。」
 お雪は苦笑していた。
「それから見れば、お増さんなぞは僥倖(しあわせ)だよ。せいぜい辛抱おしなさいよ。」
 お雪は、今外交官をしている某(なにがし)の、まだ書生でいる時分に、初めて妾に行ったときのことなどを話しだした。そして当然そこの夫人に直される運命を持っていたお雪は、田舎でもかなりな家柄の人の娘であった。二人の間には、愛らしい女の子まで出来ていたのであった。
「どうしてそこへ行かないの。」
「もう駄目さ。寄せつけもしやしない。その時分ですら、話がつかなかったくらいだもの。」
 お雪はそのころのことを憶い出すように、目を輝かした。その時分お雪はまだ二十歳(はたち)を少し出たばかりであった。色の真白い背のすらりとした貴婦人風の、品格の高い自分の姿が、なつかしく目に浮んで来た。
「それがこうなのさ。黒田……その男は黒田というのよ。狆(ちん)のくさめをしたような顔をしているけれど、それが豪(えら)いんだとさ。今じゃ公使をしていて、東京にはいないのよ。そこへその時分、始終遊びに来て、碁をうったりお酒を飲んだりしていた男があったの。いい男なのよ。それが黒田の留守に、私をつかまえちゃ、始終厭らしいことばかり言うの。つまり私がその男を怒らしてしまったもんだから――そういう奴だから、逆様(あべこべ)に私のことを、黒田に悪口したのさ。やれ国であの女を買ったと言うものがあるとか、やれ男があったとか、貞操が疑わしいとか、何とか言ってさ。黒田はそれでも私に惚(ほ)れていたから、正妻に直す気は十分あったんだけれど、何分にも阿父(おとっ)さんが承知しないでしょう。そこへ持って来て、私の母があの酒飲みの道楽ものでしょう。私を喰い物にしようしようとしているんだから、たまりゃしない。黒田だって厭気がさしたでしょうよ。」
「あなた子供に逢いたくはないの。」
「逢いたくたって、今じゃとても逢わせやしませんよ。それでもその当座、託(あず)けてあった氷屋の神さんに、二度ばかりあの楼(うち)へつれて来てもらったことがあったよ。私も一度行きましたよ。もちろん母親だなんてことは、□(おくび)にも出しゃしなかったの。」
「つまらないじゃありませんか。」
「しかたがない。私にそれだけの運がないんだから。」
「ちっとお金の無心でもしたらいいじゃないの。」
「どうして、奥さんが大変な剛毅(しっかり)ものだとさ。」

     八

「随分諦(あきら)めがいいわねえ。」
 お増は、自分にもそれと同じような記憶が、新たに胸に喚(よ)び起された。まだ東京へ出ない前に、しばらくいたことのある田舎の町のお茶屋の若旦那と自分との間の関係などが思い浮べられた。その時分のお増はまだ若かった。写真などに残っている、そのころのお増の張りのある目や、むっつり肉をもった頬や口元には、美しい血が漲(みなぎ)っていた。
 コートなどを着込んで、襟捲きで鼻のあたりまでつつんだ、きりりとした顔や、小柄な体には、何でもやり通すという意気と負けじ魂があった。
 お増の田舎では、縹緻(きりょう)のよい女は、ほとんど誰でもすることになっている茶屋奉公に、お増もやられた。百姓家に育ったお増は、それまで子守児(こもりこ)などをして、苦労の多い日を暮して来た。
 やっと中学を出たばかりの、そのお茶屋の若旦那は、時々よその貸し座敷などから、そっと口をかけた。浪の音などの聞える船着きの町の遊郭には、入口の薄暗い土間に水浅黄色の暖簾(のれん)のかかった、古びた大きい妓楼(ぎろう)が、幾十軒となく立ちならんでいた。上方風の小意気な鮨屋(すしや)があったり、柘榴口(ざくろぐち)のある綺麗な湯屋があったりした。廓(くるわ)の真中に植わった柳に芽が吹き出す雪解けの時分から、黝(くろ)い板廂(いたびさし)に霙(みぞれ)などのびしょびしょ降る十一月のころまでを、お増はその家で過した。町に風評(うわさ)が立って、そこにいられなくなったお増は、東京へ移ってからも、男のことを忘れずにいた。そこのお神に据わる時のある自分をも、長いあいだ心に描いていた。男からも、時々手紙が来た。
「この人が死んじゃったんじゃしようがない。」
 三年ほど前に、男の亡(な)くなったことが、お増の耳へ伝わった時、それがにわかに空頼(そらだの)めとなったのに、力を落した。お増はまた、通って来る客のなかから、男を択(えら)ばなければならなかったが、その男は容易に見つからなかった。長いあいだには、いろいろの男がそこへ通って来た。こっちでよいと思う男は、先で思っていなかったり、親切にされる男は、こっちで虫が好かなかったりなどした。年が合わなかったり、商売が気に入らなかったりした。双方いいのは親係りであった。主人持ちであった。
 するうちに、お増はだんだん年を取って来た。出る間際のお増の心には、堅い一人の若いお店(たな)ものと浅井と、この二人が残ったきりであった。
 男のために、始終裸になっていたお雪と自分とを、お増は心のなかで比べていた。
「だらしがないじゃないの。いつまで面白いことが続くもんじゃないよ。」
 お増は一緒にいる時分から、時々お雪にそう言ってやったことがあった。けれどお雪自身は、それをどうすることも出来なかった。一つは、一時新造(しんぞ)に住み込んでまで、くっついていた母親が、お雪に自分のことばかりを考えさせておかなかったのではあったが、黒田の世話になっていた時分からの、お雪自身の体にも、そうした血が流れていたのであった。
 しみじみした話が、日の暮れまで絶えなかった。
「あの人の、どこがそんなにいいのさ。」
 お増はお雪に揶揄(からか)った。
「こうなっちゃ、いいも悪いもありゃしないよ。しかたなしさ。」
 お増をそこまで送りに出たお雪は、そう言って笑った。
 町には灯影が涼しく動いて、濡れた地面(じびた)からは、土の匂いが鼻に通って来た。

     九

 日が暮れてからは、風が一戦(ひとそよ)ぎもしなかった。お増は腕車(くるま)から降りて、蒸し暑い路次のなかへ入ると、急に浅井が留守の間に来ていはせぬかという期待に、胸が波うった。しばらく居なじんだ路次は、いつに変らず静かで安易であった。先の望みや気苦労もなさそうな、お雪などのとりとめのない話に、撹(か)き乱されていた頭脳(あたま)が日ごろの自分に復(かえ)ったような落着きと悦びとを感じないわけに行かなかった。浅井一人に、自分の生活のすべてが繋(かか)っているように思われた。男の頼もしさが、いつもよりも強い力でお増の心に盛り返されて来た。
「ただいま。」
 お増は鍵(かぎ)をあずけて出た、お千代婆さんの家の格子戸を開けると、そういって声かけた。
 茶の間のランプが薄暗くしてあった。水口の外に、女中が行水を使っているらしい気勢(けはい)がしたが、土間にははたして浅井の下駄もあった。
「おや二階でまた始まっているんだよ。」
 お増は浅井に済まないような、拗(す)ねて見せたいようななつかしい落着きのない心持で、急いで梯子段(はしごだん)をあがった。
 風通しのよい二階では、障子をしめた窓の片蔭に、浅井や婆さんや、よくここへ遊びに来る近所の医者などが一塊(ひとかたまり)になって、目を光らせながら花に耽(ふけ)っていた。顔を見るたんびに、体を診(み)てやる診てやると言ってはお増に揶揄(からか)いなどするその医者は、派手な柄の浴衣(ゆかた)がけで腕まくりで立て膝をしていた。線の太いようなその顔が、何となし青柳の気分に似通っているようで、気持が悪かった。
「お帰んなさい。」
 医者が声かけた。
「どこへ何しに行っていたんです。お増さんがついていないもんだから、浅井さんがさんざんの体(てい)ですよ。」
 浅井がハハハと内輪な笑い声を洩らした。
 お増は火入れに吸殻などの燻(いぶ)っている莨盆を引き寄せて、澄まして莨を喫(ふか)していた。そしてこの二、三日男が何をしていたかを探るように、時々浅井の顔を見たが、いつもより少し日焼けがしているだけであった。
「神さんに感づかれやしないの。」
 お増は二年ばかり附き合ってから、浅井と前後してじきに家へ帰ると、蒸し蒸しするそこらを開け放しながら言い出した。向うの女中が火種を持って来てくれなどした。
 浅井はにやにやしていた。
「それでもちっとは東京の町が行(ある)けるようになったかい。」
「ううん、何だかつまらなかったから、浅草のお雪さんの家を訪ねて見たの。」
 お増は背筋のところの汗になった襦袢(じゅばん)や白縮緬(しろちりめん)の腰巻きなどを取って、縁側の方へ拡げながら言った。
「こら、こんなに汗になってしまった。」
 お増は裸のままで、しばらくそこに涼んでいた。
「何か食べるの。」
「そうだね、何か食べに出ようか。」
「ううん、つまらないからお止(よ)しなさいよ。」
 お増は台所で体を拭くと、浴衣のうえに、細い博多(はかた)の仕扱(しごき)を巻きつけて、角の氷屋から氷や水菓子などを取って来た。そして入口の板戸をぴったり締めて内へ入って来た。
 お増はこの二、三日の寂しさを、一時に取返しをつけるような心持で、浅井の羽織などを畳んだり、持物をしまい込みなどして、ちびちび酒を飲む男の側で、団扇(うちわ)を使ったり、酒をつけたりした。そして時々時間を気にしている浅井の態度が飽き足りなかった。

     十

 その晩そこに泊った浅井が、明朝(あした)目を醒(さ)ましたのは大分遅くであった。その日もじりじり暑かった。昨夜(ゆうべ)更けてから、寝床のなかで、どこかの草間(くさあい)や、石の下などで啼(な)いている虫の音を聞いた時には、もう涼しい秋が来たようで、壁に映る有明けの灯影や、枕頭(まくらもと)におかれたコップや水差し、畳の手触りまでが、冷やかであったが、睡(ねむ)りの足りない頭や体には、昼間の残暑は、一層じめじめと悪暑く感ぜられた。
 浅井を送り出してから、お増はまた夜の匂いのじめついているような蒲団のなかへ入って、うとうとと夢心地に、何事をか思い占めながら気懈(けだる)い体を横たえていた。その懈さが骨の髄まで沁(し)み拡がって行きそうであった。障子からさす日の光や、近所の物音――お千代婆さんの話し声などの目や耳に入るのが、おそろしいようであった。
「こんなことをしていちゃ、二人の身のうえにとてもいいことはないね。」
 昨夜浅井が床のなかで言ったことなどが思い出された。
「真実(ほんとう)だわ。罪だわ。」
 お増も、枕の上へ胸からうえを出して、莨を喫(す)いながら呟(つぶや)いた。お増の目には、麹町の家に留守をしている細君の寂しい姿が、ありあり見えるようであった。苦しい心持も、身につまされるようであった。
「いつかはきっと見つかりますよ。見つかったらそれこそ大変ですよ。」
 お増の顔には、悪い夢からでもさめかかった人のような、苦悩と不安の色が漂っていた。
「ふふん。」
 浅井は鼻で笑っていた。
「こんなことが、あなたいつまで続くと思って? 私だって、夜もおちおち眠られやしないくらいなのよ。第一肩身も狭いし、つくづく厭だと思うわ。あなただって、経済が二つに分れるから、つまらないじゃないの。」
「けれど、あの女もよくないよ。彼奴(あいつ)さえ世帯持ちがよくて、気立ての面白い女なら、己(おれ)だってそう莫迦(ばか)な真似はしたくないのさ。実際あれじゃ困る。」
「でもあなたのためには、随分尽したという話だわ。」
「尽したといったところで、質屋の使いでもさしたくらいのもので、そう厄介(やっかい)かけてるというわけじゃないもの、己も今では相当な待遇をして来たつもりだ。」
 留守のまに、細君が知合いの家で、よく花を引いて歩いたり、酒を飲んだり、買食いをしたりすることなどを、浅井はお増にこぼした。それに病気が起ると、夜中でも起きて介抱してやらなければならなかった。それだけでも浅井の妻を嫌う理由は、充分であった。同棲(どうせい)している細君の母親も、浅井のためには、親切な老人ではなかった。部屋のなかが、始終引っ散らかっていたり、食べ物などの注意が、少しも行き届かなかったりした。
 お増には、浅井も気の毒であったが、細君も可哀そうであった。細君と別れさすのが薄情なような気がしたり、意気地がないように思えたりした。
 お増は長く床のなかにもいられなかった。そしてひとしきりうつらうつらと睡りに陥(お)ちかかったかと思うと、じきに目がさめた。
 その日から、浅井は三、四日ここに寝泊りしていた。ちょいちょい用を達(た)しに外へ出て行っては、帰って来た。浅井はそのころいろいろのことに手を拡げはじめていた。

     十一

「今日はちょっと家へ行って見て来ようかな。」
 浅井はある朝寝床から離れると、少し開けてあった障子の隙から、空を眺めながら呟いた。空は碧(あお)く澄みわたって、白い浮雲の片(きれ)が生き物のように動いていた。浅井の耽り疲れた頭には、主(あるじ)のいない荒れた家のさまや、夜もおちおち眠れない細君の絶望の顔が浮んで来た。ついこのごろよそから連れ込んで来て、細君に育てさしている、今茲(ことし)四つになる女の子のことも、気にかかりだした。髪なども振り散らかしたままで、知合いや友人の家を、そっちこっち探しまわっているに決まっている細君の様子も、目に見えるようであった。
「うっかりしていると、ここへもやって来ますよ。」
 お増も床の上に起き上りながら言った。
 やがて、浅井が楊枝(ようじ)を啣(くわ)えて、近所の洗湯(せんとう)に行ったあとで、お増はそこらを片着けて、急いで埃(ごみ)を掃き出した。そして鏡台を持ち出して、髪を撫でつけ、鬢(びん)や前髪を立てて、顔を扮(つく)った。充血したような目や、興奮したような頬の色が、我ながら美しく鏡の面に眺められたが、頬骨の出たことや、鼻の尖って来たことが、ふと心に寂しい影を投げた。色が褪(あ)せてから見棄てられるものの悲しさが、胸に湧(わ)き起って来た。
「商売をしたものは、どうしたってそれは駄目さ。」
 浅井のそう言ったことが、思い出された。
「私も早くどうかしなければ……。」
 体の弱い自分の計(はかりごと)をしなければならぬということが、いつになく深くお増の心に考えられた。それからそれへと移って行くらしい、男の浮気だということも、思わないわけに行かなかった。いつ棄てられても、困らないことにさえしておけば、欲に繋(つな)がる男心の弱味をいつでも掴(つか)んでいられそうに思えた。お増は自分の心の底に流れている冷たいあるものを、感ぜずにはいられなかった。
「あの人の神さんなぞは、私に言わせれば莫迦さ。」
 お増はそうも思った。勝利者のような誇りすら感ぜられるのであった。
 晴れ晴れした顔をして湯から帰って来た浅井は、昨宵(ゆうべ)の食べ物の残りなどで、朝食をすますと、じきに支度をして出て行った。お増は男を送り出すときいつでも経験する厭な心持を紛らそうとして、お千代婆さんの家を訪ねた。
「へえ、それでもよく飽きもせずに、三日も四日も、寝てばかりいられたものだね。」
 そう言っていそうなお千代婆さんの目の色が、嶮(けわ)しかった。
 お増は、昨日(きのう)浅井と一緒に出て買って来た、銘仙(めいせん)の反物を、そこへ出して見せた。
「これを私の袷羽織(あわせばおり)に仕立てたいんですがね。」
 婆さんは反物を手に取りあげて、見ていた。そして糸を切って、尺(さし)を出して一緒に丈を量(はか)りなどした。
「どうでしょう柄は。」
 お増は婆さんの機嫌を取るように訊ねた。
「じみでないかえ、ちっと。」
「私じみなものがいいんですよ。もうお婆さんですもの。」
 お増は自分の世帯持ちのいいことに、自信あるらしく言った。

     十二

 浅井の細君が、ふとそこへ訪ねて来た。
「御免下さい。」
 どこか硬いところのある声で、そういいながら格子戸を開けたその女の束髪姿を見ると、お増は立ちどころにそれと感づいた。細君は軟かい単衣(ひとえ)もののうえに、帯などもぐしゃぐしゃな締め方をして、取り繕わない風であった。丈の高いのと、面長(おもなが)な顔の道具の大きいのとで、押出しが立派であったが、色沢(いろつや)がわるく淋しかった。
 細君は格子戸を開けると、見通しになっている茶の間に坐った二人の顔を見比べたが、傘(かさ)を持ったままもじもじしていた。
 お増は横向きにうつむいていた。
「おやどなたかと思ったら、浅井さんの奥さんですかい。」
 お千代婆さんはそこを離れて来た。
「さあどうぞ。」
「有難うございます。」
 細君は手□(ハンケチ)で汗ばんだ額などを拭いていたが、間もなく上へあがって挨拶(あいさつ)をした。そして時々じろじろとお増の方を眺めた。
「この方は近所の方ですがね。」
 お千代婆さんは、お増を蔭に庇護(かば)うようにしながら言った。
「さいでございますか。」
 顔の筋肉などの硬張(こわば)ったお増は、適当の辞(ことば)も見つからずに、淋しい笑顔(えがお)を外方(そっぽ)へ向けたきりであったが、その目は細君の方へ鋭く働いていた。そして細君が何を言い出すかを注意していた。
「浅井さんも、このごろじゃ大分御景気がいいようで、何よりですわな。」
 お千代婆さんはお愛想を言いながら、お茶を淹(い)れなどした。
「何ですかね。」細君は気のない笑い方をした。
「外じゃどうだか知りませんけれど、内はちっともいいことはないんですよ。それに御存じですか、このごろは子供がいるものですから、世話がやけてしようがないんでございますよ。」
 細君は断(き)れ断(ぎ)れに言った。
「そうですってね。お貰(もら)いなすったってね。」
「何ですか。料理屋とか、待合とかの女中と、情夫(いろおとこ)との間(なか)に出来た子だそうですよ。子供がないから、貰って来たっていうんですけれど、何だか解りゃしませんよ。こちらへはちょいちょい伺いますの。」
「たまあに見えますがね。」
 お増は莨をふかしながら、じっと二人の話に聴き入っていたが、平気でそうしたなかに置かれた自分を眺めている自分の心持が、おかしいようであった。
「私後(のち)に来ますわ。」
 お増は反物を隅の方へ片づけると、そう言って、そこを出た。そして細目に開けてあった水口の方からそっと家へ入った。
 三十分ばかり、不安な待ち遠しい時が移った。細君はじきに帰って行った。
「方々尋ねてあるいている様子だぜ。」
 お千代婆さんは、客を送り出すと、急いで下駄を突っかけてやって来た。
「お増さんも、あんなに長く引き留めておくというのが悪いわな。」
「私を何だと思っていたでしょう。」
 お増は眉根(まゆね)を顰めた。
「それは解るもんじゃない。私も何とも言い出しゃしないもんだから。」

     十三

 麹町の方へ引き移ってから、お増はどうかすると買いものなどに出歩いている浅井の細君の姿を、よそながら見ることがあった。
 そのころには、一夏過したお増の様子がめっきり変っていた。世のなかへ出た当時の、粗野(ぞんざい)な口の利(き)き方や、調子はずれの挙動が、大分除(と)れて来た。櫛(くし)だの半襟(はんえり)だの下駄などの好みにも、下町の堅気の家の神さんに見るような渋みが加わって来た。どこか稜(かど)ばったところのあった顔の輪郭すら、見違えるほど和らげられて来た。
「ほんとにお前さんは、憎いような身装(なり)をするよ。」
 新調の着物などを着て訪ねて行くお増の帯や、襦袢の袖を引っ張って見ながら、お雪がうらやましそうに言った。
「今のうち、もっと派手なものを着た方がいいじゃないの。」
「ううん、派手なものは私に似合(にあ)やしないの。それにそんなものは先へ寄って困るもの。」
 浅井はそのころ、根岸の方の別邸へ引っ込んでいる元日本橋のかなり大きな羅紗(ラシャ)問屋の家などへ出入りしていた。店を潰(つぶ)してしまったその商人は、才の利く浅井に財政の整理を委(まか)すことにしていた。浅井はほかにも、いろいろの仕事に手を染めはじめていた。会社の下拵(したごしら)えなどをして、資本家に権利を譲り渡すことなどに、優(すぐ)れた手際を見せていた。
 お増を移らせる家を、浅井は往復の便を計って、すぐ自分の家の四、五丁先に見つけた。そこへ新しい箪笥(たんす)が持ち込まれたり、洒落(しゃれ)れた茶箪笥が据えられたりした。
「燈台下暗しというから、この方がかえっていいかも知れんよ。」
 浅井は初めてそこへ落ち着いたお増に、酒の酌(しゃく)をさせながら笑った。もうセルの上に袷羽織でも引っ被(か)けようという時節であった。新しい門の柱には、お増の苗字(みょうじ)などが記されて、広小路にいた時分、よそから貰った犬が一匹飼われてあった。ふかふかした絹布の座蒲団(ざぶとん)が、入れ替えたばかりの藺(い)の匂いのする青畳に敷かれてあった。浅井の金廻りのいいことが、ちょっとした手廻りの新しい道具のうえにも、気持よく現われていた。
 ワイシャツ一つになって、金縁眼鏡をかけて、向う前に坐っている浅井の生き生きした顔には、活動の勇気が、溢(あふ)れているように見えた。お増の目には、その時ほど、頼もしい男の力づよく映ったことはかつてなかった。
 浅井の調子は、それでも色の褪(あ)せた洋服を着ていたころと大した変化(かわり)は認められなかった。人柄な低い優しい話し声の調子や、けばけばしいことの嫌(きら)いなその身装(みなり)などが、長いあいだ女や遊び場所などで磨かれて来た彼の心持と相応したものであった。
 ここへ移ってからも、お増の目には、お千代婆さんの家で、穴のあくほど見つめておいた細君の顔や姿が、始終絡(まつ)わりついていた。
「あなたのお神さんを、私つくづく見ましたよ。」
 お増はその当時よく浅井に話した。
「へえ。家内の方じゃ何とも言やしなかったよ。少しは変に思ったらしいがね。」
「そこが素人(しろうと)なんですよ。」
 お増は気の毒そうに言った。
「私あの人と二人のときのあなたの様子まで目につきますよ。」
 お増は興奮した目色をして、顎(おとがい)などのしっかりした、目元の優しい男の顔を見つめた。

     十四

 迷宮へでも入ったように、出口や入口の容易に見つからないその一区画は、通りの物音などもまるで聞えなかったので、宵になると窟(あな)にでもいるようにひっそりしていた。時々近所の門鈴(もんりん)の音が揺れたり、石炭殻の敷かれた道を歩く跫音(あしおと)が、聞えたりするきりであった。
 二人きり差し向いの部屋のなかに飽きると、浅井は女を連れ出して、かなり距離のある大通りの明るみへ楽しい冒険を試みたり、電車に乗って、日比谷や銀座あたりまで押し出したりした。
 小綺麗な門や、二階屋の立ち並んだ静かな町を、ある時お増は浅井につれられて歩いていた。二人は一緒に入るような風呂桶(ふろおけ)を買いに出た帰路(かえり)を歩いているのであった。桶を買うまでには、お増は小人数な家で風呂を焚(た)くことの不経済を言い立てたが、浅井はいろいろの場所におかれた女を眺めたかった。
 灯影の疎(まば)らなその町へ来ると、急に話を遏(や)めて、女から少し離れて溝際(どぶぎわ)をあるいていた浅井の足がふと一軒の出窓の前で止った。格子戸の上に出た丸い電燈の灯影が、細い格子のはまったその窓の障子や、上り口の土間にある下駄箱などを照していた。お増はすぐにそれと感づけた。
「およしなさいよ。」
 お増はこっちから手真似をして見せたが、男は出窓の下をしばらく離れなかった。家はひっそりしていた。
「へえ、あれが本宅?」
 お増はよほど行ってから、後を振り顧(かえ)りながら言い出した。浅井は「ふん。」と笑ったきりであった。
「随分いい家ね。」お増は独(ひと)り語(ごと)のように言った。
「でも前を通れば、やっぱりいい心持はしないでしょう。可哀そうだとか何とか思うでしょう。」
「へへ。」と浅井は笑い声を洩(も)らした。
 帰ってからも、お増はいろいろのことを浅井に訊ねた。
「それは毅然(しっかり)した女だ。人との応対も巧いし、私がいないでも、ちゃんと仕事の運びのつくように、用を弁ずるだけの伎倆(はたらき)はある。それは認めてやらないわけに行かんよ。その点は、私の細君として不足はないけれど――。」
 浅井は言い出した。
「じゃ、なぜ大事にして上げないんです。」
「そうも行かんよ。女はそればかりでもいけない。むしろそんな伎倆(はたらき)のない方が、私にはいいんだ。」
 そう言って浅井は笑っていた。
 昼間お増は、その家の前を通って見たりなどした。ふと八百屋の店先などに立っている細君の姿を見たこともあった。細君は顔の丸い、目元や口元の愛くるしい子供を、手かけで負(おぶ)いなどしていた。お増は急いで、その前を通り過ぎた。
 冬になると、浅井の足が一層家の方へ遠ざかった。たまに細君や子供の様子を見に帰っても、一ト晩とそこに落ち着いていられなかった。ヒステレーの嵩(こう)じかかって来た細君は、浅井の顔を見ると、いきなりその胸倉に飛びついたり、瀬戸物を畳に叩(たた)きつけたりした。浅井は蒼い顔をして貴重な書類などを入れた鞄(かばん)をさげて、お増の方へ逃げて来た。
「こら、どうだ。」
 浅井は胸紐(むなひも)の乳(ち)を引き断(ちぎ)られた羽織を、そこへ脱ぎ棄てて、がっかりしたように火鉢の前に坐った。

     十五

 一週間の余も、うっちゃっておいた本宅の方へ、浅井はある日の午後、ふと顔を出してみた。そこへ来ているはずの手紙も見たかったし、絶望的な細君に対する不安や憐愍(れんびん)の情も、少しずつ忿怒(ふんぬ)の消え失せた彼の胸に沁みひろがって来た。長いあいだ貧しい自分を支えてくれた細君の好意や伎倆(はたらき)も考えないわけに行かなかった。
「離縁するほどの悪いことを、私に対してしていないんだから困る。」
 浅井は時々思い出したように、当惑の眉を顰めた。そのたびにお増は顔に暗い影がさした。
「あなたは一体気が多いんですよ。」
 お増は男の心が疑われて来た。
「どっちへもいい子になろうたって、それは駄目よ。」
 お増はそうも言ってやりたかったが、別れさしてからの、後の祟(たた)りの恐ろしさがいつも心を鈍らせた。
 浅井の帰って行ったとき、細君は奥で子供と一緒に寝ていたが、女中に何か聞いている良人(おっと)の声がすると、急いで起きあがって、箪笥のうえにある鏡台の前へ立った。そして束髪の鬢(びん)を直したり、急いで顔に白粉を塗ったりしてから出て来た。
「お帰んなさいまし。」
 細君は燥(はしゃ)いだ唇に、ヒステレックな淋しい笑(え)みを浮べた。筋の通った鼻などの上に、斑(まだら)になった白粉の痕(あと)が、浅井の目に物悲しく映った。
「この前、愛子という女が、京都から訪ねて来たときも、こうだった。」
 浅井はすぐその時のことを想い出した。その時は浅井の心は、まだそんなに細君から離れていなかった。細君の影もまだこんなに薄くはなかった。長味のある顔や、すんなりした手足なども、今のように筋張って淋しくはなかった。
 しばらく京都に、法律書生をしていた時分に昵(なじ)んだその女は、旦那取りなどをして、かなりな貯金を持っていた。そして浅井が家を持ったということを伝え聞くと、それを持って、東京に親類を持っている母親と一緒に上京したのであった。浅井はそれをお千代婆さんのところに託(あず)けておいて、それ以来の細君と自分との関係などを説いて聞かせた。女はむしろ浅井夫婦に同情を寄せた。そして一月ほど、そっちこっち男に東京見物などさしてもらうと、それで満足して素直に帰って行った。縹緻(きりょう)のすぐれた、愛嬌(あいきょう)のあるその女の噂(うわさ)が、いつまでもお千代婆さんなどの話の種子(たね)に残っていた。
「浅井さんが、よくまあ、あの女を還(かえ)したものだと思う。」
 お千代婆さんは、口を極(きわ)めて女を讃(ほ)めた。
 女が京へ帰ってからも、浅井は細君と相談して、よくいろいろなものを贈った。女の方からも清水(きよみず)の煎茶茶碗(せんちゃぢゃわん)をよこしたり、細君へ半襟を贈ってくれたりした。
「お愛ちゃんはどうしたでしょうねえ。」
 消息が絶えると、細君も時々その女の身のうえを案じた。
「もう嫁入りしたろう。」
 そう言っている矢先へ、思いがけなく女からまた小包がとどいた。女はやっぱり自分の体を決めずにいるらしかった。宿屋かお茶屋の仲居でもしているのではないかと思われた。
 浅井はその女のことを、時々思い占めていたが、道楽をしだしてから逢ったいろいろの女の印象と一緒に、それも次第に薄れて行った。

     十六

 浅井は、妻が傍に自分の顔を眺めていることを思うだけでも気窮(きづま)りであったが、細君も手紙などを整理しながら、自分の話に身を入れてもくれない良人の傍に長く坐っていられなかった。
「あの静(しい)ちゃんがね。」
 細君は、押入れの手箪笥のなかから、何やら古い書類を引っくら返している良人を眺めながら、痩(や)せた淋しげな襟を掻き合わし掻き合わし、なつかしげな声でまた側へ寄って来た。
「静(しい)ちゃんがね、昨日(きのう)から少し熱が出ているんですがね。」
 浅井は押入れの前にしゃがんで、手紙や書類を整理していたが、健かな荒い息が、口髭(くちひげ)を短く刈り込んだ鼻から通っていた。
「熱がある?」
 浅井の金縁眼鏡がきらりとこっちを向いたが、子供のことは深くも考えていないらしく、落着きのない目が、じきにまた書類の方へ落ちて行った。
「……急にそんなものを纏(まと)めて、どこへ持っていらっしゃろうと言うの。」
 細君は、そこへべッたり坐って嘆願するように言った。
「静ちゃんも、ああやって病気して可哀そうですから、ちっとは落ち着いて、家にいて下すったっていいじゃありませんか。」
 浅井は一片着(ひとかたづ)け片着けると、ほっとしたような顔をして、火鉢の傍へ寄って、莨をふかしはじめた。持ち主の知合いに頼まれて、去年の冬から住むことになったその家は、蔵までついていてかなり手広であった。薄日のさした庭の山茶花(さざんか)の梢(こずえ)に、小禽(ことり)の動く影などが、障子の硝子越(ガラスご)しに見えた。
 やがて奥へ入って行った浅井は、寝ている子供の額に触ったり、手の脈を見たりしていたが、子供はぱっちり目を開いて、物珍しげに浅井の顔を眺めた。
「静ちゃんお父さんよ。」
 細君は傍から声をかけた。
「なに、大したことはない。売薬でも飲ましておけば、すぐ癒(なお)る。」
 浅井は呟いていた。
「でも私も心細うござんすから、おいでになるならせめて出先だけでも言っておいて頂かないと、真実(ほんと)に困りますわ。」
 浅井は笑っていた。
「お前が素直にしていさいすれば、何のこともないんだ。それも台所をがたつかせるようなことをしておいて、女狂いをしているとでもいうのなら、また格別だけれど。」
 その晩長火鉢の側に、二人差し向いになっている時、浅井は少し真剣(むき)になって言い出した。
 三、四杯飲んだ酒の酔(え)いが、細君の顔にも出ていた。
「それに今までは、私も黙っていたけれど、お前は少し家の繰り廻し方が下手(へた)じゃないか。」
 浅井は、不断の低い優しい調子できめつけた。
「人のことばかり責めないで、一体私の留守のまに、お前は何をしている。」
「それはあなたが、何かを包みかくしているから、私だってつまらない時は、たまにお花ぐらい引きに行きますわ。」
「私はそれを悪いと言やしない。自分の着るものまで亡(な)くして耽るのがよくないと言うのだ。」
 浅井はこの前から気のついていた、ついこのごろ買ったばかりの細君の指環や、ちょいちょい着の糸織りの小袖などの、箪笥に見えないことなどを言い出したが、諄(くど)くも言い立てなかった。
「どっちも悪いことは五分五分だ。」などと笑ってすました。

     十七

 ある晩浅井とお増とが、下町の方の年の市へ行っている留守の間に、いきなり細君が押し込んで来た。
 お増の囲われた家を突き留めるまでに費やした細君の苦心は、一ト通りでなかた。浅井が家を出るたびに、細君は車夫に金を握らしたり、腕車(くるま)に乗らないときは、若い衆を頼んで、後から見えがくれに尾(つ)けさしたりしたが、用心深い浅井は、どんな場合にも、まっすぐにお増の方へ行くようなことはなかった。
「大丈夫でござんすよ奥さん……。」
 若い衆はそう言って、細君に復命した。
「しようがないね。きっとお前さんを捲(ま)いてしまったんですよ。」
 終(しま)いに細君は素直にばかりしていられなくなった。大切な株券が、あるはずのところになかったり、債券が見えなくなったりした。それを発見するたびに、細君は目の色をかえた。どうかすると、出来るだけ立派な身装(なり)をして、自身浅井の知合いの家を尋ねまわるかと思うと、絶望的な蒼い顔をして、髪も結わずに、不断着のままで子供をつれて近所を彷徨(うろつ)いたり、蒲団を引っ被(かつ)いで二日も三日も家に寝ていたりした。
 たまに手紙や何かを取りに来る浅井の顔を見ると、いきなり胸倉を取って武者ぶりついたり、座敷中を狂人(きちがい)のように暴れまわったりした。
「そんな乱暴な真似をしなくとも話はわかる。」
 浅井はようようのことで細君を宥(なだ)めて下に坐った。
 細君は、髪を振り乱したまま、そこに突っ伏して、子供のようにさめざめと泣き出した。
 跣足(はだし)で後から追いかけて来る細君のために、ようやく逃げ出そうとした浅井は、二、三町も先から、また家へ引き戻さなければならなかった。
 宵のうちの静かな町は、まだそこここの窓から、明りがさしていたり、話し声が聞えたりした。
「どこまでも私は尾(つ)いて行く。」
 細君はせいせい息をはずませながら、浅井と一緒に並んで歩いた。疲れた顔や、唇の色がまるで死人のように蒼褪(あおざ)めていた。寒い風が、顔や頸(くび)にかかった髪を吹いていた。
 そんなことがあってから二、三日のあいだ細君は病人のように、床につききりであった。
「つくづく厭になってしまった。」
 浅井はお増の方へ帰ると、蒼い顔をして溜息を吐(つ)いていた。
「まるで狂気(きちがい)だ。」
「しようがないね、そんなじゃ……。」
 お増も眉を顰(ひそ)めた。
「しかたがないから、当分うっちゃっておくんだ。」
 浅井は苦笑していた。
 お増の家のすぐ近くの通りをうろついている犬に、細君はふと心を惹(ひ)かれた。その犬の狐色の尨毛(むくげ)や、鼻頭(はながしら)の斑点(ぶち)などが、細君の目にも見覚えがあった。犬は浅井について時々自分の方へも姿を見せたことがあった。
「奥さん、あの尨犬が電車通りにおりましてすよ。」
 買物などに出た女中が、いつかもそう言って報(しら)したことも思い出された。
 やがて犬の後をつけて、静かなその地内へ入って行った細君は、その日もその辺へ、買物に来ていたのであった。
「ポチ、ポチ、ポチ。」
 新建ちの新しい家の裏口へ入って行った犬が、内から聞える女の声に呼び込まれて行ったのは、それから大分経(た)ってからであった。
「しかたがないじゃないか、こんなに足を汚(よご)して。」
 埃函(ごみばこ)などの幾個(いくつ)も出ている、細い路次口に佇(たたず)んでいる細君の耳に、そんな声が聞えたりした。
 晩方に細君は、顔などを扮(つく)って、きちんとした身装(みなり)をして、そこへ出向いて行ったのであった。

     十八


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