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著者名:徳田秋声 

     一

 笹村(ささむら)が妻の入籍を済ましたのは、二人のなかに産(うま)れた幼児の出産届と、ようやく同時くらいであった。
 家を持つということがただ習慣的にしか考えられなかった笹村も、そのころ半年たらずの西の方の旅から帰って来ると、これまで長いあいだいやいや執着していた下宿生活の荒(さび)れたさまが、一層明らかに振り顧(かえ)られた。あっちこっち行李(こうり)を持ち廻って旅している間、笹村の充血したような目に強く映ったのは、若い妻などを連れて船へ入り込んで来る男であった。九州の温泉宿ではまた無聊(ぶりょう)に苦しんだあげく、湯に浸(つか)りすぎて熱病を患(わずら)ったが、時々枕頭(まくらもと)へ遊びに来る大阪下りの芸者と口を利(き)くほか、一人も話し相手がなかった。
「どういうのがえいのんや。私が気に入りそうなのを見立てて上げるよって……東京ものは蓮葉(はすは)で世帯持ちが下手(へた)やと言うやないか。」笹村が湯に中(あた)って蒼(あお)い顔をして一トまず大阪の兄のところへ引き揚げて来たとき、留守の間に襟垢(えりあか)のこびりついた小袖(こそで)や、袖口の切れかかった襦袢(じゅばん)などをきちんと仕立て直しておいてくれた嫂(あによめ)はこう言って、早く世帯を持つように勧めた。
 笹村はもう道頓堀(どうとんぼり)にも飽いていた。せせっこましい大阪の町も厭(いと)わしいようで、じきに帰り支度をしようとしたが、長く離れていた東京の土を久しぶりで踏むのが楽しいようでもあり、何だか不安のようでもあった。帰路立ち寄った京都では、旧友がその愛した女と結婚して持った楽しげな家庭ぶりをも見せられた。
「我々の仲間では君一人が取り残されているばかりじゃないか。」
 友達は長煙管(ながぎせる)に煙草(たばこ)をつめながら、静かな綺麗(きれい)な二階の書斎で、温かそうな大ぶりな厚い蒲団(ふとん)のうえに坐って、何やら蒔絵(まきえ)をしてある自分持ちの莨盆(たばこぼん)を引き寄せた。そこからは紫だったような東山の円(まる)ッこい背(せなか)が見られた。
「京の舞妓(まいこ)だけは一見しておきたまえ。」友はそれから、新樹の蔭に一片二片(ひとひらふたひら)ずつ残った桜の散るのを眺めながら、言いかけたが、笹村の余裕のない心には、京都というものの匂(にお)いを嗅(か)いでいる隙(ひま)すらなかった。それで二人一緒に家へ還(かえ)ると、妻君が敷いてくれた寝所(ねどこ)へ入って、酔いのさめた寂しい頭を枕につけた。
 東京で家を持つまで、笹村は三、四年住み古した旧(もと)の下宿にいた。下宿では古机や本箱がまた物置部屋から取り出されて、口金の錆(さ)びたようなランプが、また毎晩彼の目の前に置かれた。坐りつけた二階のその窓先には楓(かえで)の青葉が初夏の風に戦(そよ)いでいた。
 笹村は行きがかり上、これまで係(たずさ)わっていた仕事を、ようやく真面目に考えるような心持になっていた。机のうえには、新しい外国の作が置かれ、新刊の雑誌なども散らかっていた。彼は買いつけのある大きな紙屋の前に立って、しばらく忘られていた原稿紙を買うと、また新しくその匂いをかぎしめた。
 けれど、ざらざらするような下宿の部屋に落ち着いていられなかった笹村は、晩飯の膳(ぜん)を運ぶ女中の草履(ぞうり)の音が、廊下にばたばたするころになると、いらいらするような心持で、ふらりと下宿を出て行った。笹村は、大抵これまで行きつけたような場所へ向いて行ったが、どこへ行っても、以前のような興味を見出さなかった。始終遊びつけた家では、相手の女が二月も以前にそこを出て、根岸(ねぎし)の方に世帯を持っていた。笹村はがらんとしたその楼(うち)の段梯子(だんばしご)を踏むのが慵(ものう)げであった。他の女が占めているその部屋へ入って、長火鉢(ながひばち)の傍へ坐ってみても、なつかしいような気もしないのに失望した。聞きなれたこの里の唄(うた)や、廊下を歩く女の草履の音を聞いても、心に何の響きも与えられなかった。
「山田君が今度建てた家の一つへ、是非君に入って頂きたいんだがね。」と友達に勧められた時、笹村は悦(よろこ)んで承諾した。

     二

 その家は、笹村が少年時代の学友であって、頭が悪いのでそのころまでも大学に籍をおいていたK―が、国から少し纏(まと)まった金を取り寄せて、東京で永遠の計を立てるつもりで建てた貸家の一つであった。切り拓(ひら)いた地面に二棟(むね)四軒の小体(こてい)な家が、ようやく壁が乾きかかったばかりで、裏には鉋屑(かんなくず)などが、雨に濡(ぬ)れて石炭殻を敷いた湿々(じめじめ)する地面に粘(へば)り着いていた。
 笹村は旅から帰ったばかりで、家を持つについて何の用意も出来なかった。笹村は出京当時世話になったことのある年上の友達が、高等文官試験を受けるとき、その試験料を拵(こしら)えてやった代りに、遠国へ赴任すると言って置いて行った少しばかりのガラクタが、その男の親類の家に預けてあったことを想い出して、それを一時凌(しの)ぎに使うことにした。開ける時キイキイ厭(いや)な音のする安箪笥(やすだんす)、そんなものは、うんと溜(たま)っていた古足袋(ふるたび)や、垢(あか)のついた着物を捻(ね)じ込んで、まだ土の匂いのする六畳の押入れへ、上と下と別々にして押し込んだ。摺(す)り減った当り棒、縁のささくれ立った目笊(めざる)、絵具の赤々した丼(どんぶり)などもあった。
 長い間胃弱に苦しんでいた笹村は、旅から持って帰った衣類をどこかで金に換えると、医療機械屋で電気器械を一台買って、その剰余(あまり)で、こまこましたいろいろのものを、時々提(さ)げて帰って来た。
 机を据(す)えたのは、玄関横の往来に面した陰気な四畳半であった。向うには、この新開の町へ来てこのごろ開いた小さい酒屋、塩煎餅屋(しおせんべいや)などがあった。筋向いには古くからやっている機械鍛冶(かじ)もあった。鍛冶屋からは、終日機械をまわす音が、ひっきりなしに聞えて来たが、笹村はそれをうるさいとも思わなかった。
 下谷(したや)の方から来ていた、よいよいの爺(じい)さんは、使い歩行(あるき)をさせるのも惨(みじ)めなようで、すぐに罷(や)めてしまった。
「あの書生たちは、自分たちは一日ごろごろ寝転(ねころ)んでいて、この体の不自由な老人を不断に使いやがってしようがない。」
 爺さんは破けた股引(ももひき)をはいてよちよち使いあるきに出ながら、肴屋(さかなや)の店へ寄って愚痴をこぼしはじめた。
「あの爺さんしようがないんですよ。それに小汚(こぎたな)くてしようがありませんや。」肴屋の若(わか)い衆(しゅ)は後で台所口へ来て、そのことを話した。
 笹村は黙って苦笑していた。
 友達の知合いの家から、じきに婆さんが一人世話をしに来てくれた。
 友達の伯母(おば)さんが、その女をつれて来たとき、笹村は四畳半でぽかんとしていた。外はもう夏の気勢(けはい)で、手拭を肩にぶら下げて近所の湯屋から帰って来る、顔の赤いいなせな頭(かしら)などが突っかけ下駄(げた)で通って行くのが、窓の格子にかけた青簾越(あおすだれご)しに見えた。
 婆さんを紹介されると、笹村は、「どうぞよろしく。」と叮寧(ていねい)に会釈をした。
 武骨らしいその婆さんは、あまり東京慣れた風もなかったが、すぐに荒れていた台所へ出て、そこらをきちんと取り片づけた。そして友達の伯母さんと一緒に、糠味噌(ぬかみそ)などを拵えてくれた。
 晩飯には、青豆などの煮たのが、丼に盛られて餉台(ちゃぶだい)のうえに置かれ、几帳面(きちょうめん)に掃除されたランプの灯(ひ)も、不断より明るいように思われた。
 ここに寝泊りをしていた友達と、笹村はぼつぼつ話をしながら、箸(はし)を取っていた。始終胃を気にしていた彼は燻(くす)んだような顔をしながら、食べるとあとから腹工合を気遣(きづか)っていた。
 すぐに婆さんに被(き)せる夜の物などが心配になって来た。友達は着ていた蒲団を押入れから引き出して、
「これを着てお寝(やす)みなさい。」と二畳の方へ顔を出した。
 婆さんは落着きのない風で、鉄板落(ブリキおと)しの汚い長火鉢の傍に坐って、いつまでも茶を呑(の)んでいた。
「いいえ私は一枚でたくさんでござんす、もう暑ござんすで……。」

     三

 笹村の甥(おい)が一人、田舎(いなか)から出て来たころには家が狭いので、一緒にいた深山(みやま)という友人は同じ長屋の別の家に住むことになった。いかなる場合にも離れることの出来なかった深山には、笹村の旅行中別に新しい友人などが出来ていた。生活上の心配をしてくれるある先輩とも往来(ゆきき)していた。帰京してからの笹村は深山と一緒に住まっていても、どこか相手の心に奥底が出来たように思った。かなりな収入もあって、暮に旅へ立つとき深山の生活状態はひどく切迫しているようであったが、笹村の心は、かつて漂浪生活を送ったことのある大阪の土地や、そこで久しぶりで逢(あ)える兄の方へ飛んでいて、それを顧みる余裕がなかった。深山が荷造りの手伝いなどしてくれるのを、当然のことのように考えていた。今度帰って来ても、やはりそれを気づかずにいた。けれど深山が、自分にばかり調子を合わしていないことが少しずつ解って来た。
「笹村には僕も随分努めているつもりなんだ。今度の家だって、あの男が寂しいからいてやるんだ。」
 こんなことが、ちょいちょいここへ来て飯を食ったり、徹夜(よどおし)話に耽(ふけ)ったりして行く、ある男を通して、笹村の耳へも入った。笹村には甥の来たのが、ちょうど二人が別々になるのにいい機会のように考えられた。笹村には思っていることをあまり顔に出さないような深山の胸に横たわっている力強いあるものに打(ぶ)ッ突(つ)かったような気がしていた。笹村が時々ぷりぷりして、深山に衝(ぶ)ッ突(つ)かるようなことはめずらしくもなかった。
 深山は古い笹村の一閑張(いっかんば)りの机などを持って、別の家へ入って行った。そこへ、この家を周旋した笹村の友達のT氏も、駒込(こまごめ)の方の下宿から荷物を持ち込んで、共同生活をすることになった。そして、二人は飯を食いに、三度三度笹村の方へやって来た。
 甥が着いたその晩に、家主のK―やT―、深山も一緒に来て、多勢持ち寄ったものを出し合って、滅多汁(めったじる)のようなものを拵えた。
 台所には、すべてに無器用な婆さんを助(す)けに、その娘のお銀という若い女も来て、買物をしたり、お汁(つゆ)の加減を見たりした。
「私(わし)あ甘うて……。」と、可愛らしい顔を赧(あか)くして、甥が眉根(まゆね)を顰(しか)めた。
「笹村君は、これでもう何年になるいな。」と、健啖家(けんたんか)のT―は、肺病を患ってから、背骨の丸くなった背(せなか)を一層丸くして、とめどもなく椀(わん)を替えながら苦笑した。彼は肺のために大学を休んでから、もう幾年にもなった。その時は、ちょうどいろいろな調査書類などを鞄につめて、一、二年視学をしていた小笠原島(おがさわらじま)から帰ったばかりであった。
「作かね。」
 笹村もくすぐったいような笑い方をした。そして長いあいだの習慣になっている食後の胃の薬を、四畳半の机の抽斗(ひきだし)から持って来て、茶碗(ちゃわん)の湯で嚥(の)み下した。それが少し落ち着くと、曇ったような顔をして、後の窓際へ倚(よ)りかかって、パイレートを舌の痛くなるほど続けて吸った。
 衆(みんな)は食べ飽きて気懈(けだる)くなったような体を、窓の方へ持って行って、夕方の涼しい風に当った。
 やがてお銀が、そこらに散らかったものを引き取って行った。
 お銀が初めてここへ来たのは、ついこのごろであった。ある日の午後、どこかの帰りに、笹村が硝子(ガラス)製の菓子器やコップのようなものを買って、袂(たもと)へ入れて帰って来ると、茶の室(ま)の長火鉢のところに、素人(しろうと)とも茶屋女ともつかぬ若い女と、細面の痩(や)せ形(がた)の、どこか小僧気(こぞうけ)のとれぬ商人風の少(わか)い男とが、ならんでいた。揉上(もみあ)げの心持ち長い女の顔はぽきぽきしていた。銀杏返(いちょうがえ)しの頭髪(あたま)に、白い櫛(くし)を□(さ)して、黒繻子(くろじゅす)の帯をしめていたが、笹村のそこへ突っ立った姿を見ると、笑顔(えがお)で少し前(すす)み出て叮寧に両手を支(つ)いた。
「……母がお世話さまになりまして。」

     四

 近所で表へ水を撒(ま)く時分に、二人は挨拶(あいさつ)をして帰って行った。
「ちょッといい女じゃないか。」
 笹村が四畳半の方で、その時まだ一緒にいた深山に話しかけると、深山は、「むむ。」と口のうちで言った。
「あの男は。」
「あれは情夫(いろ)さ。」深山はとぼけてそう言った。
「そうかね。」
 飯のとき笹村は笑いながら婆さんに、「お婆さん、いい子供がありますね。」と言うと、婆さんは、「ええ。」と言って嬉(うれ)しそうににっこりした。
 それから娘だけ二、三度も来た。
「あれも縁づいておりましたったけれど、ちっと都合があってそこを逃げて来とりますもんで、閑(ひま)だから、つい……。」
 婆さんは娘が帰って行くと、そう言っていた。
 娘は時々バケツを提げて、母親に水など汲(く)んで来てやった。台所をきちんと片づけて行くこともあった。娘が拵えてくれた小鯵(こあじ)の煮びたしは誰の口にもうまかった。
「これアうまい。お婆さんよりよほど手際がいい。」笹村は台所の方へ言いかけた。
「これは焼いて煮たんだね。」
「私は何だか一向不調法ですが……娘の方はいくらか優(まし)でござんす。」
 母親はそこへ来て愛想笑いをしたが娘はあまり顔出しをしなかった。
 使いあるきの出来ない母親の代りに、安くて新しい野菜物を、通りからうんと買い込んで来た娘が、傘(かさ)をさして木戸口から入る姿が、四畳半に坐っている笹村の目にも入った。
 見なれると、この女の窄(つぼ)まった額の出ていることなどが目についた。
 この女が、深山の若い叔父(おじ)の細君と友達であったことがじきに解って来た。この女が一緒になるはずであった田舎のある肥料問屋の子息(むすこ)であった書生を、その叔父の妻君であった年増(としま)の女が、横間(よこあい)から褫(うば)って行ったのだというようなことも、解って来た。
「あの女のことなら、僕も聞いて知っている。」と、深山はこの女のことをあまりよくも言わなかった。
「深山さんのことなら、私もお鈴さんから聞いて知ってますよ。」女も笹村からその話の出たとき、思い当ったように言い出した。
「へえ、深山さんというのは、あの方ですか。あの方の家輪(うちわ)のことならお鈴さんから、もうたびたび聞かされましたよ。」
 母親も閾際(しきいぎわ)のところに坐って、そのころのことを少しずつ話しはじめた。
「それでお鈴という女は、あんたのその男と一緒ですかね。」笹村は壁に倚りかかりながら、立てた両脛(りょうすね)を両手で抱えていた。
「いいえ、それはもうすぐ別れました。そんな一人を守っているような女じゃないんです。深山さんの叔父さんという方も、私よく存じております。この方もじきに後が出来たでしょう。」
 娘は低い鼻頭(はながしら)のところを、おりおり手で掩(おお)うようにして、二十二にしては大人びたような口の利き方をした。
「随分面白いお話なんです。」
 笹村はそんな話に大した興味を持たなかった。相手もそのことは深く話したそうにもなかった。
「ほんとに不思議ですね。」娘は少し膝(ひざ)を崩(くず)して、うつむいていた。

     五

 幼年学校とかの試験を受けに来た甥が、脚気(かっけ)の気味で、一時国へ帰る前に、婆さんはその弟の臨終を見届けに、田舎へ帰らなければならなかった。
 その弟が、いろいろの失敗に続いて、いたましい肺病に罹(かか)り、一年ほど前から田舎へ引っ込んでいたことを、婆さんは立つ前に笹村に話した。
「私が帰って来るまで、娘をおいて行ってもようござんすが、若いもののことだでどうでござんすか。それさえ御承知なら、娘も当分親類の家にぶらぶらしておりますもんだで……。」と、婆さんは立つ前に、重苦しい調子でこんな話を切り出した。
 お銀がそのころ、夕方になると、派手な浴衣(ゆかた)などを着て、こってり顔を塗っているのを、笹村は見て見ぬ振りをしていた。
「困るね、あんな風をされるようでは。君からよく言ってくれたまえ。近所でも変に思うから。」笹村は蔭で深山にそのことを話した。それでもこの女の時々助(す)けに来るということは、そんなに厭わしいことでもなかった。お銀が来るようになってから、一々自身で台所へ出て肴の選択をする必要もなくなったし、三度三度のお菜(かず)も材料が豊かになった。これまでに味わったことのない新漬(しんづ)けや、かなり複雑な味の煮物などがいつも餉台(ちゃぶだい)のうえに絶えなかった。長いあいだ情味に渇(かわ)いた生活を続けて来た笹村には、それがその日その日の色彩(いろどり)でもあった。
「それでは娘はお預けして行きますで……。」と、婆さんは無口で陰気な笹村なら、安心して娘をおいて行けるといった口吻(くちぶり)であった。
 家はじきに甥とお銀と三人の暮しになった。お銀は用がすむと、晩方からおりおり湯島の親類の方へ遊びに行った。そして夜更けて帰ることもあった。笹村が、書斎で本など読んでいると、甥と二人で、茶の間で夏蜜柑(なつみかん)など剥(む)いていることもあった。
「真実(ほんとう)に新ちゃんはいい男ですね。」お銀は甥の留守の時笹村に話しかけた。甥は笹村の異腹(はらちがい)の姉の子であった。
「叔父甥と言っても、ちっともお話なんぞなさいませんね。見ていてもあっけないようですね。その癖新ちゃんは、私にはいろいろのことを話します。来るとき汽車のなかで綺麗な女学生が、菓子や夏蜜柑を買ってくれたなんて……。」
「そうかね。」笹村は苦笑していた。
 甥に脚気の出たとき、笹村はお銀にいいつけて、小豆(あずき)などを煮させ、医者の薬も飲ませたが、脚がだんだん脹(むく)むばかりであった。
「医者が転地した方がいいと言うんですよ。大分苦しそうですよ。それで、叔父さんに旅費を貰(もら)ってくれないかって、私にそう言うんですがね。田舎へ帰してお上げなすったらどうです。」
 間もなく笹村は甥を帰国の途につかせた。通りまで一緒に送って行って、鳥打の代りに麦藁(むぎわら)を買って被(かぶ)せたり、足袋に麻裏草履などもはかせた。
「どうも贅沢(ぜいたく)を言って困った。」
 笹村は帰って来ると、台所を片着けているお銀に話しかけた。
「安いもので押し着けようとしたって、なかなか承知しない。」
 甥のいなくなった家を見廻すと、そこらがせいせいするほど綺麗に拭(ふ)き掃除がされてあった。裏の物干しには、笹村が押入れに束(つく)ねておいた夏襯衣(なつシャツ)や半□(ハンケチ)、寝衣(ねまき)などが、片端から洗われて、風のない静かな朝の日光に曝(さら)されていた。
「どうもそう何でも彼(かん)でも引っ張り出されちゃ困るね。」
 笹村は水口で渇いた口を嗽(すす)ぎながら言った。
「そうですか。」
 女は鬢(びん)の紊(ほつ)れ毛を掻(か)き揚げながら振り顧った。
「でも私、疳性(かんしょう)ですから。」

     六

 笹村は机の前に飽きると、莨(たばこ)を袂へ入れて、深山の方へよく話しに行った。T―は前の方の四畳半に、旅行持ちの敷物を敷いて、そこに寝転(ねころ)んでいた。T―は長いあいだ無駄に月謝を納めている大学の方をいよいよ罷(や)めて、好きな絵の研究を公然やり出そうかというようなことを、毎日考え込んでいた。父兄の財産によらずに、どうかして洋行するだけの金の儲(もう)けようはないものかなどと思い続けていた。島へ行ってから聖書などに親しみ、政治や戦争などを厭がるようになっていた。思想の毛色も以前より大分変っていた。
「僕は今小説を一つ書きかけているところなんだ。」と、鼻の高い、骨張った顔の相を崩しながら横に半身を起して、くうくう笑った。
 机のうえには、半紙に何やら書きかけたものがあった。T―の頭には、小笠原島で見た漁夫や、漂流の西班牙(スペイン)人や、多勢の雑種(あいのこ)について、小説にして見たいと思うようなものがたくさんあった。笹村のガラクタの中から拾い出して行った「海の労働者」の古本などが側にあった。
 二人はこのごろT―のところへ届いた枝ごとのバナナを手断(ちぎ)りながら、いろいろの話に耽った。薄暗い六畳から台所の横の二畳の方を透(すか)してみると、そこに深山が莨の煙のなかに、これも原稿紙に向っている。傍にパインナップルの罐(かん)や、びしょびしょ茶の零(こぼ)れている新聞紙などが散らかっていた。そして蟻(あり)が気味わるくそこらまで這(は)い上っていた。
「あの女が島田などに結うのは目障(めざわ)りだね。」笹村はこれまでよく深山に女の苦情を言った。夜家を明けて、女が朝夙(はや)く木戸をこじ明けて入って来ることも、笹村の気にくわなかった。お銀は時々湯島の親類の家で、つい花を引きながら夜更(よふか)しをすることがあった。
「近所へ体裁が悪いから、朝木戸をこじあけて入って来るなどはいけないよ。」
 笹村は一度女にもじかに言い聞かしたが、負けず嫌いのお銀はあまりいい返辞をしなかった。
「肴屋などは、あれを細君が来たのだと思っていやがる。女がそんな態度をするだろうか。」
「やはり若い女なぞはいけないんだ。」深山は女のことについて、あまり口を利かなかった。
 T―は傍で、くすりくすり笑っていた。
 笹村が裏から帰って来ると、お銀は二畳の茶の間で、不乱次(ふしだら)な姿で、べッたり畳に粘り着いて眠っていた。障子には三時ごろの明るい日が差して、お銀の顔は上気しているように見えた。と、跫音(あしおと)に目がさめて、にっこりともしないで、起きあがって足を崩したまま坐った。それを、ちらりと見た笹村の目には、世に棄(す)て腐れている女のようにも思えた。笹村は黙ってその側を通って行った。
 二、三日降り続いた雨があがると、蚊が一時にむれて来た。それでなくともお銀は暑くて眠られないような晩が多かった。そして蚊帳(かや)が一張(ひとはり)しかなかったので、夜おそくまで、蝋燭(ろうそく)の火で壁や襖(ふすま)の蚊を焼き焼きしていた。そんなことをして、夜を明かすこともあった。
「私も四ツ谷の方から取って来れば二タ張(はり)もあるんですがね。」
 お銀は肉づいた足にべたつくような蚊を、平手で敲(たた)きながら、寝衣姿(ねまきすがた)で蒲団のうえにいつまでも起き上っていた。
 翌日笹村は独り寝の小さい蚊帳を通りで買って、新聞紙に包んで抱えて帰った。そしてそれをお銀に渡した。
「こんな小さい蚊帳ですか。」お銀は拡げてみてげらげら笑い出した。そして鼠(ねずみ)の暴れる台所の方を避けて、それをわざと玄関の方へ釣(つ)った。土間から通しに障子を開けておくと、茶の間よりかそこの方が多少涼しくもあった。
「こんなに狭くちゃ、ほんとに寝苦しくて……。」大柄な浴衣を着たお銀は、手足の支(つか)える蚊帳のなかに起きあがって、唸(うな)るように呟(つぶや)いた。
 笹村は、六畳の方で、窓を明け払って寝ていた。窓からは、すやすやした夜風が流れ込んで、軽い綿蚊帳が、隣の廂間(ひさしあい)から差す空の薄明りに戦(そよ)いでいた。
 ばたばたと団扇(うちわ)を使いながら、いつまでも寝つかれずにいるお銀の淡白(うすしろ)い顔や手が、暗いなかに動いて見えた。

     七

「……厭なもんですよ。終(しま)いに別れられなくなりますから。」
 お銀はある晩、六畳へ蚊帳を吊(つ)っていながら真面目にそう言った。
 互いに顔を突き合わすのを避けるようにして過ぎた日のことを、振り顧って話し合うように二人は接近して来た。
 お銀は机の傍(そば)へ来て、お鈴に褫(うば)われた男のことを、ぽつぽつ話し出した。
「どんな男です。」笹村もそれを聞きたがった。
 お銀は括(くく)られているようなその顎(あご)を突き出して、秩序もなく前後のことを話した。
「晩方になると、私家を脱(ぬ)け出して、お鈴の部屋借りをしていた家の前へ立っていたんですよ。すると二人の声がするもんですから、いつまでもじっと聴いているんでしょう。私莫迦(ばか)だったんですね。自分から騒いで、かえっていけなくしたようなもんですの。」
 お銀はそれから、親類の若い男と一緒にそこへ捻(ね)じ込んで行ったことなどを話した。
「男も莫迦なんですよ。それから私の片づいている先へ、ちょいちょい手紙をよこしたり、訪(たず)ねて来たりするんです。そこはちょっとした料理屋だったもんですから、お客のような風をして上って来るんでしょう。洋服なんぞ着込んで、伯父さんの金鎖など垂(ぶら)さげて……私帳場にいて、ふっとその顔を見ると、もう胸が一杯になって……。」お銀は目のあたりを紅(あか)くしながら笑い出した。
「それで大変悪いことをした。お蔭で今度は学校の試験を失敗(しくじ)ったなんて……それもいいんですけれど、どうでしょう飲食いした勘定が足りないんでしょう。磯谷はそれア変な男なんです。まるで芝居のようなんです。」
 お銀は黒い壁にくっついている蚊を、ぴたぴた叩(たた)きはじめた。
「よくあなたは、こんな蚊が気にならないんですね。」
「僕は蚊帳なしに、夏を送ったことがあるからね。」笹村は頭の萎(な)えたような時に呑む鉄剤をやった後なので、脂(あぶら)のにじみ出たような顔に血の色が出ていた。ランプの灯に、目がちかちかするくらい頭も興奮していた。
 お銀は笹村の蒲団の汚いことを言い出して笑った。
「初めての蒲団を敷いたとき、びっくりしましたよ。食べ物やほかのことはそんなでもないのに、一体どうしたんでしょうと思って……敷いてから何だか悪いような気がして、また押入れへしまい込んだり何かして。」
「その家はどういう家なんだ。」笹村はまた訊(き)いた。
「そこの家ですか。それがまた大変に込み入った家なんです。阿母(おっか)さんというのが、継母で、もと品川に芸者をしていたとか言うんですがね、栄というその子息(むすこ)と折合いがつかなくて、私の行った時分には、余所(よそ)へ出ておったんですがね、それをお爺さんが入れるとか入れないとか言って、始終ごたごたしていたましたっけがね。子息も面白くないもんですから、やはりお金を使ったり何かするんですね。栄はちょっとした男でしたけれどね、私初めから何だか厭で厭で、いる気はしてなかったんです。」
 逃げて来てからも、その男に附き纏(まと)われたことなどを附け加えて話した。
「それに、ずうずうしい奴(やつ)なんです。」お銀は火照(ほて)ったような顔をして、そこへ片づいた晩のことを話した。
「深山は、お前がまた磯谷と一緒になるんだろうなんて言っていた。」
「いいえ、そうは行きません。」お銀は笑いながら言った。
「その方は、もうすっかり駄目なんです。」

     八

 時々大徳寺などに立て籠(こも)っていたことのあるT―が、ぶらりと京都に立って行ってからは、深山と笹村との間の以前からのこだわりが、お銀のことなどで一層妙になって来たので、深山は余所にいた出戻りの妹などと、世帯道具を買い込んで、別に食事をすることになった。笹村よりかむしろ一歩先に作を公にしたことなどもあり、自負心の高い深山が、一(い)ッ端(ぱし)働き出そうとしている様子がありあり笹村の目に見えた。いろいろの人がそこに集まっている様子なども、笹村の神経に触れた。
 女同士のことで、深山の妹とお銀とは、裏で互いに往来(ゆきき)していた。妹が茶の室(ま)へ来て、お銀や磯谷のことでも話しているらしいこともあったし、お銀から髢(かもじ)を借りて行ったり、洋傘(かさ)を借りて行くようなこともあった。懇意ずくで新漬けを提げ出すこともあった。
「うるさいな。」笹村はぷりぷりした。
「お前はまたどうして深山のところへなぞ行くんだ。」ときめつけると、お銀は笑って黙っていた。
 それでなくとも、心持のよく激変する笹村は、ふっとお銀の気もつかずに言ったことが、癪(しゃく)に触って怒り出した。
「帰ってくれ。お前に用はない。」
 女は上眼遣いに人の顔をじろじろ見ながら、低い腰窓の下に体を崩して、じッとしていた。そこへ腰かけている笹村は、膝で女を小突いた。
「あなた私を足蹴(あしげ)にしましたね。」お銀は険しいような目色をした。
 そういう女の太(ふ)てたような言い草が、笹村の心をいよいよ荒立たしめた。女は顔の汗を拭きながら、台所へ立って行った。伯父が失敗してから愚かな母親と弱い弟を扶(たす)けて今日までやって来たお銀は、そんなことを自然に見覚えて来た。そうしなければ生きられないような場合も多かった。
 静かな夏の真昼の空気に、機械鍛冶で廻す運転器の音が、苦しい眠りから覚めた笹村の頭に重く響いて来た。家のなかを見廻すと誰もいなかった。台所には、青い枝豆の束が、差し込んで来る日に炙(あぶ)られたまま、竈(かまど)の傍においてあった。風が裏手の広い笹原をざわざわと吹き渡っている。笹村は物を探るような目容(めつき)で、深山の家へ入っていった。
 六畳の窓のところに坐っている深山はいつもの通り、大きい体をきちんと机の前に坐ってうつむいていた。お銀が一畳ばかり離れて、玄関の閾際(しきいぎわ)に、足を崩して坐っていた。意味を読もうとするような笹村の目が、ちろりと女の顔に落ちた。
「家を開けちゃ困るじゃないか。」笹村は独り語(ごと)のように言って、すぐに出て行った。お銀も間もなくそこを起(た)って来た。
「何も言ってやしませんわ。お鈴さんのことで話していたんですわ。」
 お銀は深山が同情しているお鈴との一件のことで、自分が深山に悪く思われるのも厭であった。笹村はとにかく、お鈴を通して自分の以前のことを知っているはずの深山に、そう変な顔も出来ないというような心持もあった。機嫌(きげん)の取りにくい笹村の性質についても、深山の話に道理があるとも考えた。
「ほんとうにひどいことをしますよ。」
 お銀は晩に通りまで散歩に行った時、伴(つれ)の妹に話しかけた。
「私の手紫色……。」お銀は誇大にそうも言った。帰りに家の前で、「遊びにお出でなさいな。もし兄さんがいなかったら。」と、妹が声かけて別れて行くのを、笹村は暗い窓口から聞いていた。
 怜悧(れいり)な深山が、いつかお銀の相談相手になっているように思えた。

     九

 笹村との間隔(へだたり)が、だんだん遠くなってから深山は遠くへ越して行った。そのころは一時潤うていた深山の生活状態がまた寂しくなっていたので、家主のK―へやるべきものも一時そのまま残して行くことになった。後から笹村のところへ掛合いに来る商人も一人二人あった。
「お鈴さんから聞いてはいたけれど、随分めずらしい人ですね。」と、お銀が言っていたが、笹村も初めのように推奨する代りに、すべてを悪い方へ解釈したかった。深山に連絡している周囲が、女のことについて、いろいろに自分を批評し合っているその声が始終耳に蔽(お)っ被(かぶ)さっているようで、暗い影が頭に絡(まつ)わりついていた。
「あなたのやり方が拙(まず)いんですもの、深山さんと間(なか)たがいなどしなくたってよかったのに……。」と、女は笹村の一刻なのに飽き足りなかった。
「いっそいさぎよく結婚しようか。」
 お銀は支度のことを、なにかと言い出した。笹村もノートに一々書きつけて、費用などの計算までして見た。
「叔父さんが丈夫で東京にいるとよかったんですがね。小説なんか好きでよく読んでましたがね。……遊んでいる時分は、随分乱暴でしたけれど、病気になってからは、気が弱くなって、好きな小清(こせい)の御殿なぞ聞いて、ほろりとしていましたっけ。」
「東京で多少成功すると、誰でもきっと踏み込む径路さ。」
「それでも、自分はまだ盛り返すつもりでいますよ。今ごろは死んだかも知れませんわ。途中で宿屋へ担(かつ)ぎ込まれたくらいですもの。」お銀は叔父の死よりも、亡(な)くした自分の着物が惜しまれた。
「私横浜の叔母のところへ行けば、少しは相談に乗ってくれますよ。」お銀は燥(はしゃ)いだような調子で、披露(ひろう)のことなどをいろいろに考えていた。
 笹村は、旅行中羽織など新調して、湯治場へ貽(おく)ってくれた大阪の嫂に土産(みやげ)にするつもりで、九州にいるその嫂の叔母から譲り受けて来て、そのまま鞄(かばん)の底に潜(ひそ)めて来た珊瑚珠(さんごじゅ)の入ったサックを、机の抽斗(ひきだし)から出してお銀にやった。
「どうしてあなたがこんな物を持っているんです。」お銀は珠をひねくりながら、不思議そうに笑い出した。
「ただ安いから買っておかないかと、叔母さんから勧められたから……。」
「でも誰か、的(あて)がなくちゃ……おかしいわ。いくらに買ったのこれを……私簪屋(かんざしや)で踏まして見るわ。」
 結婚するとなると、笹村はまたさまざまのことが考え出された。
「僕に世話すると言っていた人は一体どうなったんだ。」笹村は笑いながら言った。
「いい女ですがね。」お銀は窓の外を瞶(みつ)めながら薄笑いをしていた。
 暗くなると、二人は別々に家を出て行った。そして明るい店屋のある通りを避けて、裏を行き行きした。暗い雲の垂(た)れ下った雨催(あまもよ)いの宵(よい)であった。片側町の寂しい広場を歩いていると、歩行(あるき)べたのお銀は、蹌(よろ)けそうになっては、わざとらしい声を立てて笹村の手に掴(つか)まった。笹村の小さい冷たい手には、大きい女の手が生温かかった。
 寄席(よせ)の二階で、電気に照されている女の顔には、けばけばしいほど白粉(おしろい)が塗られてあった。唇(くちびる)には青く紅も光っていた。笹村の目には暗い影が閃(ひらめ)いた。
「そんな……。」女はうつむいて顔を赧(あか)くした。
 お銀の話でここへ磯谷とよく一緒に来たということが、笹村の目にも甘い追憶のように浮んだ。
「ちょッとああいったようなね、頚(くび)つきでしたの。」女は下の人込みの中から、形(なり)のいい五分刈り頭を見つけ出して、目をしおしおさせた。笹村もこそばゆいような体を前へ乗り出して見下した。

     十

 母親が果物の罐詰などを持って、田舎から帰って来てからも、お銀は始終笹村の部屋へばかり入り込んでいた。笹村は女が自分を愛しているとも思わなかったし、自分も女に愛情があるとも思い得なかったが、身の周(まわ)りの用事で女のしてくれることは、痒(かゆ)いところへ手の届くようであった。男の時々の心持は鋭敏に嗅(か)ぎつけることも出来た。気象もきびきびした方で、不断調子のよい時は、よく駄洒落(だじゃれ)などを言って人を笑わせた。緊(しま)りのない肉づきのいい体、輪廓(りんかく)の素直さと品位とを闕(か)いている、どこか崩れたような顔にも、心を惹(ひ)きつけられるようなところがあった。笹村の頭には、結婚するつもりで近ごろ先方の写真だけ見たことのある女や、以前大阪で知っていた女などのことが、時々思い出されていたが、不意にどこからか舞い込んで来たこうした種類の女と、爛(ただ)れ合ったような心持で暮していることを、さほど悔ゆべきこととも思わなかった。
「深山がいさえしなければ、僕だってお前をうっちゃっておくんだった。」笹村は時々そんなことを言った。磯谷と女との以前の関係も、笹村の心を唆(そそ)る幻影の一つであった。そしてその時の話が出るたびに、いろいろの新しい事実が附け加えられて行った。
「……それがお前の幾歳(いくつ)の時だね。」
「私が十八で、先が二十四……。」
「それから何年間になる。」
「何年間と言ったところで、一緒にいたのは、ほんの時々ですよ。それに私はそのころまだ何にも知らなかったんですから。」
 笹村はお銀がそのころ、四ツ谷の方の親類の家から持って来た写真の入った函(はこ)をひっくらかえして、そのうちからその男の撮影を見出そうとしたが、一枚もないらしかった。中にはお銀が十六、七の時分、伯母と一緒に写した写真などがあった。顎が括れて一癖ありそうな顔も体も不恰好(ぶかっこう)に肥っていた。笹村はそれを高く持ちあげて笑い出した。
 母親から帰京の報知(しらせ)の葉書が来た。その葉書は、父親の手蹟(しゅせき)であるらしかった。お銀はこれまであまり故郷のことを話さなかったが、父親に対してはあまりいい感情をもっていないようであった。
「私たちも、田舎へ来いって、よくそう言ってよこしますけれど、田舎へ行けば、いずれお百姓の家へ片づかなくちゃなりませんからね。いかに困ったって、私田舎こそ厭ですよ。そのくらいなら、どこへ行ったって、自分一人くらい何をしたって食べて行きますわ。」
 お銀は田舎へ流れ込んで行っている叔父の旧(もと)の情婦(いろおんな)のことを想い出しながら、どうかすると、檻(おり)へ入れられたような、ここの家から放たれて行きたいような心持もしていた。磯谷との間が破れて以来、お銀の心持は、ともすると頽(くず)れかかろうとしていた。笹村は荒(すさ)んだお銀の心持を、優しい愛情で慰めるような男ではなかった。お銀を妻とするについても、女をよい方へ導こうとか、自分の生涯(しょうがい)を慮(おも)うとかいうような心持は、大して持たなかった。
「私がここを出るにしても、あなたのことなど誰にも言やしませんよ。」
 女は別れる前に、ある晩笹村と外で飲食いをした帰りに、暗い草原の小逕(こみち)を歩きながら言った。女は口に楊枝(ようじ)を啣(くわ)えて、両手で裾(すそ)をまくしあげていた。
「田舎へも、しばらくは居所を知らさないでおきましょうよ。」
 笹村は叢(くさむら)のなかにしゃがんで、惘(あき)れたように女の様子を眺(なが)めていた。
「そんなに行き詰っているのかね。」
「だけど、もう何だか面倒くさいんですから……。」女は棄て鉢のような言い方をした。
 二、三日暴(あ)れていた笹村の頭も、その時はもう鎮(しず)まりかけていた。自分が女に向ってしていることを静かに考えて見ることも出来た。

     十一

 母親と顔を突き合わす前に、どうにか体の始末をしようとしていたお銀は、母親が帰って来ても、どうもならずにいた。出て行く支度までして、心細くなってまた考え直すこともあった。この新開町の入口の寺の迹(あと)だというところに、田舎の街道にでもありそうな松が、埃(ほこり)を被(かぶ)って立っていた。賑(にぎ)やかなところばかりにいたお銀は、夜その下を通るたびに、歩を迅(はや)める癖があったが、ある日暮れ方に、笹村に逐(お)い出されるようにして、そこまで来て彷徨(ぶらぶら)していたこともあった。しかしやはり帰って来ずにはいられなかった。
「失敗(しま)ったね。私阿母(おっか)さんに来ないように一枚葉書を出しておけばよかった。」
 母親が帰って来そうな朝、お銀は六畳の寝床の上に蚊帳をはずしかけたまま、ぐッたり坐り込んで思案していた。部屋の隅(すみ)には疲れたような蚊の鳴き声が聞えた。笹村もその傍に寝転んでいた。
 帰って来た母親は、着替えもしずに、笹村の傍へ来て堅苦しく坐りながら挨拶をした。そして田舎の水に中(あ)てられて、病気をしたために、帰りの遅くなったいいわけなどをしながら、世のなかにただ一つの力であった一人の弟の死んで行った話などをした。
「親戚(しんせき)は田舎にたくさんござんすが、私の実家(さと)は、これでまア綺麗に死に絶えてしまったようなものだで……。」
 笹村はくすぐったいような心持で、それに応答(うけこたえ)をしていた。そして母親の土産に持って来た果物の罐詰を開けて試みなどしていた。
 二、三日お銀は、あまり笹村の側へ寄らないようにしていたが、いつまでもそれを続けるわけに行かなかった。
「言いましたよ私……。」
 お銀はある時笑いながら笹村に話した。
「阿母さんの方でも大抵解ったんでしょう。」
 笹村も待ち設けたことのような気もしたが、やはり今それを言ってしまって欲しくないようにもあった。
 仕事の方は、忘れたようになっていた。笹村の頭は、甥が出直して来た時分、また蘇(よみがえ)ったようになって来た。甥はしばらくのまにめっきり大人びていた。肩揚げも卸(おろ)したり、背幅もついて来た。着いた日から、一緒に来た友達を二人も引っ張って来て、飯を食わしたり泊らせたりして田舎語(いなかことば)の高声でふざけあっていた。ちょいちょい外から訪ねて来る仲間も、その当分は多かった。
「何を言っているんだか、あの方たちの言うことはさっぱり解りませんよ。」と、お銀はその真似をして、転がって笑った。
「それにお米のまア入(い)ること。まるで御飯のない国から来た人のようなの。」
 甥が日ののきに裏の井戸端で、ある日運動シャツなどを洗濯していた。その時分には、連中も落着き場所を見つけて、それぞれ散らばっていた。お銀は手拭を姉さん冠りにして、しばらく不精していた台所の棚(たな)のなかなぞを雑巾(ぞうきん)がけしていた。
「洗濯ぐらいしてやったらどうだ。」仕事に疲れたような笹村は、裏へ出て見るとお銀を詰問するように言った。
「え、だからしてあげますからって、そう言ったんですけれど。」お銀はそんなことぐらいというような顔をして笹村を見あげた。
 食べ物などのことで、女のすることに表裏がありはしないかと、始終そんなことを気にしていた笹村は、その時もそれとなく厭味を言った。
「そうですかね。私そんなことはちッとも気がつきませんでした。」女は意外のように、そこへべッたり坐って額に手を当てて考え込んだ。
「そんなことをして、私何の得があるか考えてみて下さい。」お銀は息をはずませながら争った。母親もほどきものをしていた手を休めて、喙(くち)を容(い)れた。
 そこへ甥と前後して、出京していた家主のK―が裏から入って来た。K―は、ほかの三軒が容易に塞(ふさ)がらないので、帰省して出て来ると、自分で尽頭(はずれ)の一軒を占めることにした。その日もお銀に冬物を行李から出させて、日に干させなどしていた。そして母親が、その世話をすることになっていた。
 片耳遠いK―は、立ったまま首を傾(かし)げて二人の顔を見比べていた。

     十二

 K―は、郷里では名門の子息(むすこ)で、稚(おさな)い時分、笹村も学校帰りに、その広い邸へ遊びに行ったことなどが、朧(おぼろ)げに記憶に残っていた。その後久しくかけ離れていたが、ある夏熊本の高等中学から、郷里の高等中学へ戻って来たK―のでくでくした、貴公子風の姿を、学校の廊下に認めてから間もなく、笹村は学校を罷(や)めてしまった。偶然にここで一つ鍋(なべ)の飯を食うことになっても、双方話が合うというほどではなかった。
 笹村は友人思いの京都のT―から、自分ら二人のその後の動静を探るようにK―へ言ってよこしたので、それでK―が貸家監理かたがたここへ来ることになった……とそうも考えたが、K―自身は、そのことについて一言も言い出さなかった。
「どうだい、男の機嫌をとるのはなかなか骨が折れるだろう。」K―は、二人の中へ割り込むように火鉢の傍へ来て坐り込んだ。
 それでその話は腰を折られて、笹村も笑って、奥へ引っ込んで行った。
 夜笹村は、かんかんしたランプに向って、そのころ書き始めていた作物の一つに頭を集中しようとしていた。機械鍛冶の響きはもう罷んで、向うの酒屋でも店を閉めてしまった。この町のずッと奥の方に、近ごろ出来た石鹸(せっけん)工場の職工らしい酔漢(よっぱらい)が、呂律(ろれつ)の怪しい咽喉(のど)で、唄(うた)を謳(うた)って通った。空車を挽(ひ)いて帰る懈(だる)い音などもした。
 K―は、茶の室(ま)でお銀たちを相手に、ちびちびいつまでも酒を飲み続けていた。しんみりしたような話し声が時々聞えるかと思うと、お銀の笑い声などが漏(も)れて来た。甥は真中の六畳の隅の方で、もう深い眠りに沈んでいた。
 夜になると、はっきりして来る笹村の頭は、痛いほど興奮していた。筆を執るには、目がちかちかし過ぎるほど、神経が冴(さ)えていた。
「酒というものは陽気でようござんすね。」客商売の家にいたりしたことのあるお銀が、先刻(さっき)酒好きなK―に媚(こ)びるように言ったことなどが想い出された。
 そういうお銀は、笹村の客が帰ったあとで、麦酒(ビール)などの残りをコップに注(つ)いで時々飲んでいた。酒が顔へ出て来ると、締りのない膝を少し崩しかけて、猥(みだ)らなような充血した目をして人を見た。齲歯(むしば)の見える口元も弛(ゆる)んで、浮いた調子の駄洒落などを言って独りで笑いこけていた。お銀の体には、酒を飲むと気の浮いて来る父親の血が流れているらしかった。
「女の酒は厭味でいけない。」
 時々顔を顰(しか)める笹村も、飲むとどこか色ッぽくなる女を酔わすために、自分でわざと飲みはじめることもあった。
 外が鎮まると、奥の話し声が一層耳について来た。女が台所へ出て、酒の下物(さかな)を拵えている気勢(けはい)もした。
 厠(かわや)へ立つとき、笹村は苦笑しながらそこを通った。女はうつむいて、畳鰯(たたみいわし)を炙(あぶ)っていたが、白い顔には酒の気があるようにも見えなかった。
「K―さんにお自惚(のろけ)を聴かされているところなんですの。どうしてお安くないんですよ。」お銀は沈んだような調子で言った。
 痛い頭を萎(な)やそうとして、笹村は机を離れてふと外へ出て見た。そして裏の空地を彷徨(ぶらぶら)して、また明るい部屋へ戻って見た。K―はまだちびりちびり飲み続けていた。そのうちに女は裏の木戸を開けて、ざくざくした石炭殻の路次口から駒下駄(こまげた)の音をさせて外へ出て行った。向うの酒屋へ酒を買いに行くらしかった。
「おい、少し静かにしないか。」
 大分たってから、たまりかねたように、笹村が奥へ大声で叫んだ。
 茶の室(ま)はひっそりしてしまった。

     十三

「そんなにお耳に障(さわ)ったんですか。だってK―さんがせっかくお酒を召し食(あが)っていらっしゃるのに、厭な顔も出来ないもんですから。」
 心持のゆったりしたようなK―が、間もなく黙って帰って行ってから、お銀は何気なげに遠くの方で言った。後で気のついたことだが、ちびりちびり酒を飲みながら、自惚(のろけ)まじりのK―の話のうちには、女を友達から引き離そうとするような意味も含まれてあった。それが今の場合K―自身として、笹村を救う道だと考えていたらしかった。以前下宿をしていた家の軍人の未亡人だという女主(おんなあるじ)と出来合っていたK―は、ほかにも干繋(かんけい)の女が一人二人あった。その晩もK―は、子まで出来た間(なか)を別れてしまった女のことを虚実取り混ぜて話していた。同じような心の痛みのまだどこかに残っている女は、しみじみした淡い妬(ねた)みの絡(まつ)わりついたような心持でそれに聴き惚(ほ)れていた。笹村の胸にも、それが感ぜられた。
 笹村は深山から聞いていた、お銀の以前のことなどを言い出した。
「それはあの方が、よく私たちのことを知らないからですわ。」お銀は口惜(くや)しそうに言った。
「今こそこうしてまごついちゃおりますけれど、田舎じゃ押しも押されもしねえ、これでも家柄はそんなに悪いもんでござんしねえに。」母親も傍へ来て弁解した。
「家柄が何だ。そんなことを今言ってるんじゃないんだ。」笹村は憎々しいような言い方をした。
「あなたから見れば、それはそうでもござんしょうが、田舎には親類もござんすで、娘がまたこんなことでまごつくようなことじゃ、私がまことに辛うござんすで……。」
 暴(あ)れたような不愉快な気分が、明朝(あくるあさ)も一日続いた。
 晩方K―が、ぶらりと入って来たころには、甥と一緒に、外を彷徨(ぶらつ)いて帰って来た笹村が、薄暗い部屋の壁に倚(よ)りかかって、ぼんやりしていた。茶の室(ま)では母親とお銀とが、声を潜(ひそ)めて時々何やらぼそぼそと話していた。
「おいおい、酒を持って来んか。」
 笹村はK―と話しているうちに、ふと奥の方へ声かけた。
「昨夜(ゆうべ)の今夜ですから、酒はお罷(よ)しなすった方がようござんすらに。」
 大分経ってから、母親がそこへ顔を出した。
「いいじゃないか。僕が飲むと言ったら。」笹村は吐き出すように言った。
 しばらくすると、出し渋っていた酒が、そこへ運ばれて、鰹節(かつぶし)を掻く音などが台所から聞えて来た。
「お銀に来て酌(しゃく)をしろって……。」
 笹村が言って笑うと、K―も顔を見合わせて無意味にニタリと笑った。
「おい酌をしろ。」笹村の声がまた突っ走る。
 夕化粧をして着物を着換えたお銀が、そこへ出て坐ると、おどおどしたような様子をして、銚子(ちょうし)を取りあげた。睡眠不足の顔に著しく窶(やつ)れが見えて、赭(あか)い目も弛(ゆる)み唇も乾いていた。K―はこだわりのない無邪気な顔をして、いつ飲んでもうまそうに続けて二、三杯飲んだ。
「お前行くところがなくなったら、今夜からKさんのところへ行ってるといい。」笹村はとげとげした口の利き方をした。
「うむそれがいい。己(おれ)が当分引き取ってやろう。今のところ双方のためにそれが一番よさそうだぜ。」
 K―は光のない丸い目を□(みは)って二人の顔を見比べた。
 おどおどしたような目を伏せて、うつむいて黙っていたお銀は、銚子が一本あくと、すぐに起って茶の室(ま)の方へ出て行った。そしていくら呼んでもそれきり顔を見せなかった。
 何も彼も忘れるくらいに酔って、笹村は寝床の上にぐッたり横たわっていた。目を開いてみると、傍へ来て坐っている女の青白い顔が、薄暗いランプの灯影に寂しく見えた。
「……ほんとに済みませんでした。これから気をつけますから、どうか堪忍して下さい。」お銀の呟(つぶや)く声が、時々耳元に聞えた。
 笹村は冷たい濡れ手拭でどきどきする心臓を冷やしていた。

     十四

 四ツ谷の親類に預けてあった蒲団や鏡台のようなものを、お銀が腕車(くるま)に積んで持ち込んで来たのは、もう袷(あわせ)に羽織を着るころであった。町にはそっちこっちに、安普請の貸家が立ち並んで、俄仕立(にわかじた)ての蕎麦屋(そばや)や天麩羅屋(てんぷらや)なども出来ていた。
 お銀は萌黄(もえぎ)の大きな風呂敷包みを夜六畳の方へ持ち込むと、四ツ谷で聞いて来たといって、先に縁づいていた家の、その後の紛擾(ごたごた)などを話して蒼(あお)くなっていた。お銀が逃げて来てからも、始終跡を追っかけまわしていたそこの子息(むすこ)が、このごろ刀でとかく折合いの悪い継母を斬(き)りつけたとかいう話であった。
 その話には笹村も驚きの耳を聳(そばだ)てた。
「係り合いにでもなるといけないから、うっかりここへ来ちゃいけないなんてね、お蝶(ちょう)さんに私逐(お)ん出されるようにして来たんですよ。」
「へえ。」と、笹村は呆(あき)れた目をして女の顔を眺めていた。
「私おっかないから、もう外へも出ないでおこう。この間暗い晩に菊坂で摺(す)れ違ったのは、たしかに栄ですよ。」
 傍で母親は、包みのなかから、お銀の不断着などを取り出して見ていた。外はざあざあ雨が降って、家のなかもじめじめしていた。
「私は顔色が大変悪いって、そうですか。」と、お銀は気にして訊(き)き出した。
 お銀はこの月へ入ってから、時々腹を抑(おさ)えて独りで考えているのであった。そして、
「私妊娠ですよ。」と笑いながら言っていたが、しばらくすると、またそれを打ち消して、
「冷え性ですから、私にはどうしたって子供の出来る気遣いはないんです。安心していらっしゃい。」
 しかしどうしても妊娠としかおもわれないところがあった。食べ物の工合も変って来たし、飯を食べると、後から嘔吐(はきけ)を催すことも間々あった。母親に糺(ただ)してみると、母親もどちらとも決しかねて、首を傾(かし)げていた。
「今のうちなら、どうかならんこともなさそうだがね。」
 また一ト苦労増して来た笹村は、まだ十分それを信ずる気になれなかった。弱い自分の体で、子が出来るなどということはほとんど不思議なようであった。
「そんなわけはないがな。もしそうだったとしても、己は知らない。」などと言って笑っていた。女の操行を疑うような、口吻(くちぶり)も時々洩(も)れた。
「私はこんながらがらした性分ですけれど、そんな浮気じゃありませんよ。そんなことがあってごらんなさい、いくら私がずうずうしいたって一日もこの家にいられるもんじゃありませんよ。」お銀も半分真面目で言った。
「お前の兄さん兄さんと言っている、その親類の医者に診(み)てもらったらどうだ。」
「そんなことが出来るもんですか。あすこのお婆さんと来たら、それこそ口喧(くちやかま)しいんですから。」
 お銀は三人の子供を、それぞれ医師に仕揚げたその老人の噂(うわさ)をしはじめた。
 こんな話が、二人顔を突き合わすと、火鉢の側で繰り返された。火鉢には新しい藁灰(わらばい)などが入れられて、机の端には猪口(ちょく)や蓋物(ふたもの)がおかれてあった。笹村は夜が更けると、ほんの三、四杯だけれど、時々酒を飲みたくなるのが癖であった。
「そんなに気にしなくとも、いよいよ妊娠となれば、私がうまくそッと産んじまいますよ。知った人もありますから、そこの二階でもかりて……。」お銀は言い出した。
「叔父さんが世話をした人ですから、事情(わけ)を言って話せば、引き受けてくれないことはないと思います。あなたからお鳥目(あし)さえ少し頂ければね。」
「そんなところがあるなら、今のうちそこへ行っているんだね。」
 お銀は京橋にいるその人のことを、いろいろ話して聞かした。叔父が盛んに切って廻していたころのことが、それに連れてまた言い出された。
「その時分、あなたはどこに何をしていたでしょう。」
 お銀は自分の十六、七のころを追憶(おもいだ)しながら、水々した目でランプを瞶(みつ)めていた。
「真実(ほんと)に不思議なようなもんですね。」お銀は笹村の指先を揉(も)みながら、呟いた。

     十五

 朝寒(あさざむ)のころに、K―がよく糸織りの褞袍(どてら)などを着込んで、火鉢の傍へ来て飯を食っていると、お銀が台所の方で甲斐甲斐(かいがい)しく弁当を詰めている、それが、どうかして朝起きをすることのある笹村の目にも触れた。お銀の話に、商業学校へ通っていた磯谷に弁当を持って行ってやったり、雨が降ると傘を持って行って、よく学校の傍で出て来るのを待っていたという、その時の女の心持が二人の様子にも思い合わされた。笹村と通りへ買物などに出かけると、お銀は翌朝の弁当の菜を、通りがかりの煮物屋などで見繕(みつくろ)っていた。そのK―も貸家の差配を例の若い後家さんに託して、自分は谷中(やなか)のもといた下宿へ引き移って行ってからは、貸家にもいろいろの人が出入りしたが、明いている時の方が多かった。
 甥は、その空家の一軒へ入り込んで寝起きをしていた。時には友達を大勢引っ張り込んで、叔父の方からいろいろの物を持ち運んで、飲食いをしていた。笹村が渡す月謝や本の代が、そのころ甥の捲(ま)き込まれていた不良少年の仲間の飲食いのために浪費されるらしい形迹(けいせき)が、少しずつ笹村に解って来た。
「新ちゃんは、いつのまにか私の莨入(たばこい)れを持って行(ある)いてますよ。」
 お銀は、笑いながら笹村に言い告げた。月極めにしてある莨屋の内儀(かみ)さんが、甥の持って行く莨の多いのを不思議がって、注意してくれたことなどもあった。
 机の抽斗(ひきだし)を開けてみると、学校のノートらしいものは一つもなかった。その代りに手帳に吉原の楼(うち)の名や娼妓(しょうぎ)の名が列記されてあった。妾(めかけ)――仲居――などと楽書きしてあるのは、この場合お銀のこととしか思えなかった。
「ああいう団体のなかに捲(ま)き込まれちゃ、それこそお終いだぞ。呼び出しをかけられても、今後決して外出しない方がいい。」
 笹村は甥を呼びつけていいつけたが、甥は疳性(かんしょう)の目を伏せているばかりで、身にしみて聞いてもいなかった。そして表で口笛の呼出しがかかると、じきにずるりと脱(ぬ)けて行ってしまった。
「いつかの朝、顔を瘤(こぶ)だらけにして帰って来たでしょう、あの時吉原で、袋叩(ふくろだた)きに逢ったんですって……言ってくれるなと言ったから言いませんでしたがね。」お銀は笹村に言い告げた。
「その時も、あの連中につれられて行ったようですよ。あの中には、髭(ひげ)の生えた人なんかいるんですもの。それに新ちゃんは乱暴も乱暴なんです。喧嘩(けんか)ッぱやいと来たら大変なもんですよ。国で、気に喰わない先生を取って投げたなんて言ってますよ。」
 お銀は甥が、この近所で近ごろ評判になっていることを詳しく話した。
「だけど、なにしろ友達が悪いんですからね。あなたもあまり厳(きび)しく言うのはお休(よ)しなさいよ。おっかないから。」

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