新世帯
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著者名:徳田秋声 

始終薄暗かったランプがいつも皎々(こうこう)と明るく点(とも)されて、長火鉢も鼠不入(ねずみいらず)も、テラテラ光っている。不器用なお作が拵(こしら)えてくれた三度三度のゴツゴツした煮つけや、薄い汁物(つゆもの)は、小器用なお国の手で拵えられた東京風のお菜(かず)と代って、膳の上にはうまい新香(しんこ)を欠かしたことがなかった。押入れを開けて見ても、台所へ出て見ても、痒(かゆ)いところへ手が届くように、整理が行き届いている。     二十一 新吉は何だかむず痒いような気がした。どこか気味悪いようにも思った。「そんなにキチキチされちゃかえって困るな。」と顔を顰(しか)めて言う。「商売が商売だから、どうせそう綺麗事に行きゃしない。」「でも心持が悪いじゃありませんか。」と、お国は遠慮して手を着けなかったお作の針函(はりばこ)や行李(こうり)や、ほどきものなどを始末しながら、古い足袋(たび)、腰巻きなどを引っ張り出していた。「何だか埃々(ごみごみ)してるじゃありませんか、お正月が来るってのに、これじゃしようがないわ。私はまた、自分の損得にかかわらず、見るとうっちゃっておけないという性分だから……。もういつからかここが気にかかってしようがなかったの。」といろいろな雑物(ぞうもの)を一束にしてキチンと行李にしまい込んだ。 新吉は苦い顔をして引っ込む。 こういうような仕事が二日も三日も続いた。お国はちょいちょい外へ買物にも出た。〆飾(しめかざ)りや根松を買って来たり、神棚(かみだな)に供えるコマコマした器などを買って来てくれた。帳場の側に八寸ばかりの紅白の鏡餅(かがみもち)を据えて、それに鎌倉蝦魚(かまくらえび)や、御幣を飾ってくれたのもお国である。喰積(くいつ)みとかいうような物も一ト通り拵えてくれた。晦日(みそか)の晩には、店頭(みせさき)に積み上げた菰冠(こもかぶ)りに弓張(ゆみはり)が点(とも)されて、幽暗(ほのぐら)い新開の町も、この界隈(かいわい)ばかりは明るかった。奥は奥で、神棚の燈明がハタハタ風に揺(ゆら)めいて、小さい輪飾りの根松の緑に、もう新しい年の影が見えた。 お国は近所の髪結に髪を結わして、小紋の羽織など引っかけて、晴れ晴れした顔で、長火鉢の前に坐っていた。 九時過ぎに、店の方はほぼ形(かた)がついた。新吉は小僧二人に年越しのものや、蕎麦(そば)を饗応(ふるも)うてから、代り番こに湯と床屋にやった。店も奥もようやくひっそりとして来た。油の乏しくなった燈明がジイジイいうかすかな音を立てて、部屋にはどこか寂しい影が添わって来た。黝(くろず)んだ柱や、火鉢の縁に冷たい光沢(つや)が見えた。底冷えの強い晩で、表を通る人の跫音(あしおと)が、硬く耳元に響く。 新吉は火鉢の前に胡坐(あぐら)をかいて、うつむいて何やら考え込んでいた。まだ真(ほん)の来たてのお作と一所に越した去年の今夜のことなど想い出された。「何をぼんやり考えているんです。」とお国は銚子(ちょうし)を銅壺(どうこ)から引き揚げて、きまり悪そうな手容(てつき)で新吉の前に差し出した。 新吉は、「何、私(あっし)や勝手にやるで……。」とその銚子を受け取ろうとする。「いいじゃありませんか。酒のお酌(しゃく)くらい……。」お国は新吉に注(つ)いでやると、「私もお年越しだから少し頂きましょう。」と自分にも注いだ。 新吉は一杯飲み干すと、今度は手酌でやりながら、「どうもいろいろお世話さまでした。今年は私もお蔭で、何だか年越しらしいような気がするんで……。」     二十二 お国は手酌で、もう二、三杯飲んだ。新吉は見て見ぬ振りをしていた。お国の目の縁が少し紅味をさして、猪口(ちょく)をなめる唇にも綺麗な湿(うるお)いを持って来た。睫毛(まつげ)の長い目や、生(は)え際(ぎわ)の綺麗な額の辺(あたり)が、うつむいていると、莫迦(ばか)によく見える。が、それを見ているうちにも新吉の胸には、冷たい考えが流れていた。この三、四日、何だか家中(うちじゅう)引っ掻き廻されているような、一種の不安が始終頭脳(あたま)に附き絡(まと)うていたが、今夜の女の酒の飲みッぷりなどを見ると、一層不快の念が兆(きざ)して来た。どこの馬の骨だか……という侮蔑(ぶべつ)や反抗心も起って来た。 お国は平気で、「どうせ他人のすることですもの、お気には入らないでしょうけれど、私もこの暮は独りで、つまりませんよ。あの二階の部屋に、安火(あんか)に当ってクヨクヨしていたって始まらないから、気晴しにこうやってお手伝いしているんです。春が来たって、私は何の楽しみもありゃしない。」「だが、そうやって私(あっし)のとこで働いていたってしようがないね。私は誠に結構だけれど、あんたがつまらない。」と新吉はどこか突ッ放すような、恩に被(き)せるような調子で言った。 お国は萎(しょ)げたような顔をして黙ってしまった。そうして猪口を下において何やら考え込んだ。その顔を見ると、「新さんの心は私にはちゃんと見え透いている。」と言うようにも見えた。新吉も気が差したように黙ってしまった。 しばらくしてから、女は銚子を持ちあげて見て、「お酒はもう召し食(あが)りませんか。」と叮寧(ていねい)な口を利く。「小野さんも、この春は酒が飲めねえで、弱っているだろう。」と新吉はふと言い出した。 それから二人の間には、小野の風評(うわさ)が始まった。お国はあの人と知っているのは、もう二、三年前からのことで、これまでにも随分いい加減な嘘(うそ)を聞かされた。そのころは自分もまだ一向初(うぶ)である若い書生肌の男と一緒に東京へ出て来た。宅(うち)は田舎で百姓をしている。その男が意気地(いくじ)がなかったので、長い間苦労をさせられた。それから間もなく小野と懇意になった。会社員だという触込みであったが、覩(み)ると聴くとは大違いで、一緒に世帯を持って見ると、いろいろの襤褸(ぼろ)が見えて来た。金は時たま三十四十と攫(つか)んでは来るが、表面(うわべ)に見せているほど、内面は気楽でなかった。才は働くし、弁口もあるし、附いていれば、まさかのめって死ぬようなこともあるまいけれど、何だか不安でならなかった。着物も着せてくれるし、芝居も見せてくれるが、それはその場きりで、前途(さき)の見越しがつかぬから、それだけで満足の出来よう道理がない……とお国はシンミリした調子で、柄にないジミな話をし始めた。「私真実(ほんとう)にそう思うわ。明けるともう二十五になるんだから、これを汐(しお)に綺麗に別れてしまおうかと……。」 新吉は黙っていた。聞いているうちに、何だか女というものの心持が、いくらか胸に染(し)みるようにも思われた。     二十三 正月になってから、新吉は一度お作を田舎に訪ねた。 町が寂れているので、ここは春らしい感じもしなかった。通り路(みち)は、どこを見ても、皆窓の戸を鎖(さ)して寝ているかと思う宅(うち)ばかりで、北風に白く晒(さら)された路のそこここに、凍(い)てついたような子守(こもり)や子供の影が、ちらほら見えた。低い軒がどれもこれもよろけているようである。呉服屋の店には、色の褪(さ)めたような寄片(よせぎれ)が看(み)るから手薄に並べてある。埃深(ほこりぶか)い唐物屋(とうぶつや)や古着屋の店なども、年々衰えてゆく町の哀れさを思わせている。ふといつか飛び込んだことのある小料理屋が目に入った。怪しげなそこの門を入って、庭から離房(はなれ)めいた粗末な座敷へ通され、腐ったような刺身で、悪い酒を飲んで、お作一家の内状を捜(さぐ)った時は、自分ながら莫迦莫迦しいほど真面目であった。新吉は外方(そっぽう)を向いて通り過ぎた。 こういう町に育ったお作の身の上が、何だか哀れなように思われてならなかった。この寂れた淋しい町に、もう二月の以上も、大きい腹を抱えて、土臭い人たちと一緒にいることを思うと、それも可哀そうであった。ショボショボしたような目、カッ詰ったような顔、蒼白い皮膚の色、ザラザラする掌(て)や足、それがもう目に着くようであった。何だか済まないような気もしたが、行って顔を見るのが厭なような心持もした。 一里半ばかり、鼻のもげるような吹曝(ふきさら)しの寒い田圃道(たんぼみち)を、腕車(くるま)でノロノロやって来たので、梶棒(かじぼう)と一緒に店頭(みせさき)へ降されたとき、ちょっとは歩けないくらい足が硬張(こわば)っていた。 車夫(くるまや)に賃銀を払っていると、「マア!」と言ってお作が障子の蔭から出て来た。新吉が新調のインバネスを着て、紺がかった色気の中折を目深(まぶか)に冠った横顔が、見違えるほど綺麗に見え、うつむいて蟇口(がまぐち)から銭を出している様子が、何だか一段も二段も人品が上ったように思えた。「よく来られましたね。寒かったでしょう。」とお作は帽子やインバネスを脱がせて、先へ奥に入ると、「阿母(おっか)さん、宅(うち)でいらっしゃいましたよ。」と声をかけた。 新吉が薄暗い茶の室(ま)の火鉢の側に坐ると、寝ぼけたような顔をして、納戸のような次の室(ま)から母親が出て来た。リュウマチが持病なので、寒くなると炬燵(こたつ)にばかり潜(もぐ)り込んでいると聞いたが、いつか見た時よりは肥(ふと)っている。気のせいか蒼脹(あおぶく)れたようにも見える。目の性が悪いと見えて、縁が赭(あか)く、爛(ただ)れ気味(ぎみ)であった。 母親は長々と挨拶をした。新吉が歳暮の砂糖袋と、年玉の手拭(てぬぐい)とを一緒に断わって出すと、それにも二、三度叮寧にお辞儀をした。 しばらくすると、嫂(あによめ)も裏から上って来て、これも莫迦叮寧に挨拶した。兄貴はと訊くと、今日は隣村の弟の養家先へ行ったとかで、宅(うち)には男片(おとこぎれ)が見えなかった。     二十四 嫂というのも、どこかこの近在の人で、口が一向に無調法な女であった。額の抜け上った姿(なり)も恰好(かっこう)もない、ひょろりとした体勢(からだつき)である。これまでにも二度ばかり見たが、顔の印象が残らなかった。先(さき)もそうであったらしい。今日こそは一ツ、お作の自慢の婿さんの顔をよく見てやろう……といった風でジロジロと見ていた。お作はベッタリ新吉の側へくっついて坐って、相変らずニヤニヤと笑っていた。「サア、ここは悒鬱(むさくる)しくていけません。お作や、奥へお連れ申して……何はなくとも、春初めだから、お酒を一口……。」「イヤ、そうもしていられません。」と新吉は頭を掻いた。「留守が誠に不安心でね……。」「いいじゃありませんか。」お作は自分の実家(さと)だけに、甘えたような、浮(うわ)ずったような調子で言う。「サア、あちらへいらっしゃいよ。」 新吉は奥へ通った。お作が母親や嫂に口を利くのを聞いていると、良人の新吉のことを、主人か何かのように言っている。嫂に対してはそれが一層激しい。「あまり御酒(ごしゅ)は召し食(あが)りませんのですから。」とか、「宅(うち)は真実(ほんとう)にせかせかした質(たち)でいらっしゃるんですから……。」とかいう風で……が、嫂の耳には格別それが異様にも響かぬらしい。「ヘエ、さいですか。」と新吉の顔ばかり見ている。新吉はこそばゆいような気がした。 しばらくすると、お作と二人きりになった。藁灰(わらばい)のフカフカした瀬戸物の火鉢に、炭をカンカン起して、ならんで当っていた。お作はいつの間にか、小紋の羽織に着替えていた。が東京にいた時より、顔がいくらか水々している。水ッぽいような目のうちにも一種の光があった。腹も思ったほど大きくもなかったが、それでも肩で息をしていた。気が重いのか、口の利き方も鈍かった。差し向いになると黙ってうつむいてしまうのであるが、折々媚(こ)びるような素振りをして、そっと男の顔を見上げていた。新吉は外方(そっぽう)を向いて、壁にかかった東郷大将の石版摺(せきばんず)りの硝子張(ガラスば)りの額など見ていた。床の鏡餅に、大きな串柿(くしがき)が載せてあって、花瓶(かびん)に梅が挿(さ)してあった。「今日はお泊りなすってもいいんでしょう。」お作は何かのついでに言い出した。「イヤ、そうは行かねえ。日一杯に帰るつもりで来たんだから。」新吉は素気(そっけ)もない言い方をする。 しばらく経ってから、「このごろ、小野さんのお内儀(かみ)さんが来ているんですって……。」「ア、お国か、来ている。」と新吉はどういうものか大きく出た。 お作はうつむいて灰を弄(いじ)っていた。またしばらく経ってから、「あの方、ずっといるつもりなんですか。」「サア、どういう気だか……彼女(あれ)も何だか変な女だ。」新吉は投げ出すように言った。     二十五「でも、ずるずるべったりにいられでもしたら困るでしょう。」お作は気の毒そうに、赤い顔をして言った。 新吉は黙っている。「今のうち、断わっちまうわけには行かないんですの。」「そうもいかないさ。お国だって、さしあたり行くところがないんだからね。」と新吉は胡散(うさん)くさい目容(めつき)をして、「それに宅(うち)だって、まるきり女手がなくちゃやりきれやしない。人を傭(やと)うとなると、これまたちょっと億劫(おっくう)なんです。だからこっちも別に損の行く話じゃねえし……。」と独りで頷(うなず)いて見せた。 お作は一層不安そうな顔をした。「でもこの間、和泉屋さんが行った時、あの方が一人で宅(うち)を切り廻していたとか……何だかそんなようなお話を、小石川の叔父さんにしていたそうですよ。」とお作はおずおず言った。「それに、あなたは少しも来て下さらないし、気分でも少し悪いと、私何だか心細くなって……何だってこんなところへ引っ込んだろうと、つくづくそう思うわ。」「お前の方で引き取ったのじゃないか。親兄弟の側で産ませれば、何につけ安心だからというんで、小石川の叔母さんが来て連れて行ったんだろう。」と新吉は邪慳(じゃけん)そうに言った。「それはそうですけれど。」「その時私がちゃんと小遣いまで配(あてが)って、それから何分お願い申しますと、叔母っ子に頼んだくらいじゃないか。」と新吉の語気は少し急になって来た。「己(おれ)はすることだけはちゃんとしているんだ。お前に不足を言われるところはねえつもりだ。小野なんぞのすること見ねえ、あの内儀さんと一緒になってから、もう大分になるけれど、今に人の宅(うち)の部屋借りなんぞしてる始末だ。いろいろ聞いて見ると随分内儀さんを困らしておくそうだ。そのあげくに今度の事件だろう。内儀さんは裸になってしまったよ。いるところもなけれア、喰うことも出来やしない。その癖あの内儀さんと来たら、なかなか伎倆(はたらき)もんなんだ。客の応対ぶりだって、立派なもんだし、宅(うち)もキチンキチンとする方だし……どうしてお前なんざ、とても脚下(あしもと)へも追っ着きゃしねえ。」 お作は赤い顔をしてうつむいていた。「私(あっし)なんざ、内儀さんにはよくする方なんだ。これで不足を言われちゃ埋(うま)らないや。」「不足を言うわけじゃないんですけれど……。」お作はあちらの部屋へ聞えでもするかと独りではらはらしていた。「真実(ほんと)に……。」と鼻頭(はなさき)で笑って、「和泉屋の野郎、よけいなことばかり弁(しゃべ)りやがって、彼奴(あいつ)に私(あっし)が何の厄介になった。干渉される謂(い)われはねえ。」と新吉はブツブツ言っていた。「そうじゃないんですけれどね……。」お作はドギマギして来た。     二十六「マア一口……。」と言って、初手(しょて)に甘ッたるい屠蘇(とそ)を飲まされた。それから黒塗りの膳が運ばれた。膳には仕出し屋から取ったらしい赤い刺身や椀や、鯔(いな)の塩焼きなどがならべてあった。「サア、お作や、お前お酌をしてあげておくれ。あいにくお相をする者がおりませんでね……。」 お作は無器用な手容(てつき)で、大きな銚子から酒を注(つ)いだ。新吉は刺身をペロペロと食って、けろりとしているかと思うと、思い出したように猪口を口へ持ってゆく。「阿母(おっか)さん、一つどうですな。」とやがて母親へ差した。「さようでございますかね。それでは……。」と母親は似而非笑(えせわら)いをして、両手で猪口を受け取った。そうしてお作に少しばかり注がせて、じきに飲み干して返した。「これも久しく東京へ出ていたせいでござりますか、大変に田舎を寂しがりまして……それに、だんだん産月(うみづき)も近づいて参りますと、気が鬱(ふさ)ぐと見えまして、もう自分で穴掘って入(へえ)るようなことばかり言っておるでござります。」とそれからお作が亭主や家思(うちおも)いの、気立ての至って優しいものだということを説き出した。前(ぜん)に奉公していた邸(やしき)で、ことのほか惜しまれたということ、稚(ちいさ)い時分から、親や兄に、口答え一つしたことのない素直な性質だということも話した。生来(うまれつき)体が弱いから、お産が重くでもあったら、さぞ応(こた)えるであろうと思って、朝晩に気をつけて大事にしていること、牛乳を一合ずつ飲まして、血の補いをつけておることなども話した。産れる子の初着(うぶぎ)などを、お作に持って来さして、お産の経験などをくどくどと話した。 新吉は「ハ、ハ。」と空返辞(からへんじ)ばかりしていたが、その時はもう酒が大分廻って来た。「お店の方も、追い追い御繁昌(ごはんじょう)で、誠に結構でござります。」母親は話を変えた。「お蔭でまアどうかこうか……。」と新吉は大概肴(さかな)を荒してしまって、今度は莨(たばこ)を喫(す)い出した。そうして気忙しそうに時計を引き出して、「もう四時だ。」「マア、あなたようござりましょう。春初めだからもっと御ゆっくりなすって……そのうちには兄も帰ってまいります。」と母親は銚子を替えに立った。 二人とも黙ってうつむいてしまった。障子の日が、もう蔭ってしまって、部屋には夕気(ゆうけ)づいたような幽暗(ほのぐら)い影が漂うていた。風も静まったと見えて、外はひっそとしていた。「今日は、真実(ほんとう)にいいんでしょう。」お作はおずおず言い出した。「商人が家(うち)を明けてどうするもんか。」と新吉は冷たい酒をグッと一ト口に飲んだ。 それからかれこれ一時間も引き留められたが、暇(いとま)を告げる時、お作は低声(こごえ)で、「お産の時、きっと来て下さいよ。」と幾度も頼んだ。 店頭(みせさき)へ送って出る時、目に涙が一杯溜っていた。     二十七 腕車(くるま)がステーションへ着くころ、灯(ひ)がそこここの森蔭から見えていた。前の濁醪屋(どぶろくや)では、暖(あった)かそうな煮物のいい匂(にお)いが洩れて、濁声(だみごえ)で談笑している労働者の影も見えた。寒い広場に、子守が四、五人集まって、哀れな調子の唄(うた)を謳(うた)っているのを聞くと、自分が田舎で貧しく育った昔のことが想い出される。新吉はふと自分の影が寂しいように思って、「己の親戚(みうち)と言っちゃ、まアお作の家だけなんだから……。」と独り言を言っていた。 汽車は間もなく出た。新吉は硬いクッションの上に縮かまって横になると、じきに目を瞑(つぶ)った。中野あたりまでとりとめもなくお作のことを考えていた。あまり可愛いと思ったこともないが、何だか深く胸に刻み込まれてしまったようにも思えた。そのうちに、ウトウトと眠ったかと思うと、東京へ入るに従って、客車が追い追い雑踏して来るのに気がついた。 飯田町のステーションを出るころは、酔(え)いがもうすっかり醒(さ)めていた。新吉は何かに唆(そその)かされるような心持で、月の冴(さ)えた広い大道をフラフラと歩いて行った。 店では二人の小僧が帳場で講釈本を読んでいた。黙って奥へ通ると、茶の室(ま)には湯の沸(たぎ)る音ばかりが耳に立って、その隅ッこの押入れの側で、蒲団を延べて、按摩(あんま)に腰を揉(も)ましながら、グッタリとお国が正体もなく眠っていた。後向きになった銀杏返(いちょうがえ)しの首が、ダラリと枕から落ちそうになって、体が斜めに俯伏(うつぶ)しになっていた。立ち働く時のキリリとしたお国とは思えぬくらいであった。貧相な男按摩は、薄気味の悪い白眼を剥(む)き出して、折々灯(ひ)の方を瞶(みつ)めていた。 坐って鉄瓶を下す時の新吉の顔色は変っていた。煙管(きせる)を二、三度、火鉢の縁に敲(たた)きつけると、疎(うと)ましそうに女の姿を見やって、スパスパと莨を喫(す)った。するうちお国は目を覚ました。「お帰りなさい。」と舌のだらけたような調子で声かけた。「少し御免なさいよ。あまり肩が凝ったもんですから……あなたもお疲れでしょう。後で揉んでおもらいなすってはどうです。」 新吉は何とも言わなかった。 しばらくすると、お国は懈(だる)そうに、うつむいたまま顔を半分こっちへ向けた。「どうでした、お作さんは……。」「イヤ、別に変りはないようです。」新吉は空を向いていた。 お国はまだ何やら、寝ぼけ声で話しかけたが、後は呻吟(うめ)くように細い声が聞えて、じきにウトウトと眠りに陥(お)ちてしまう。 新吉は茶を二、三杯飲むと、ツト帳場へ出た。大きな帳面を拡げて、今日の附揚(つけあ)げをしようとしたが、妙に気がイライラして、落ち着かなかった。おそろしい自堕落な女の本性が、初めて見えて来たようにも思われた。「莫迦にしてやがる。もう明日からお断わりだ。」     二十八 療治が済むと、お国は自分の財布から金をくれて按摩を返した。近所ではもうパタパタ戸が閉(しま)るころである。 お国はいつまでも、ぽつねんと火鉢の前に坐っていたが、新吉も十一時過ぎまで帳場にへばり着いていた。 寝支度に取りかかる時、二人はまた不快(まず)い顔を合わした。新吉はもう愛想がつきたという顔で、ろくろく口も利かず、蒲団のなかへ潜(もぐ)り込んだ。お国は洋燈(ランプ)を降したり、火を消したり、茶道具を洗ったり、いつもの通り働いていたが、これも気のない顔をしていた。 寝しなに、ランプの火で煙草を喫(ふか)しながら、気がくさくさするような調子で、「アア、何だか厭になってしまった。」と溜息を吐(つ)いた。「もうどっちでもいいから、早く決まってくれればいい。裁判が決まらないうちは、どうすることも出来やしない。ね、新さん、どうしたんでしょうね。」 新吉は寝た振りをして聴いていたが、この時ちょっと身動きをした。「解んねえ。けど、まア入るものと決めておいて、自分の体の振り方をつけた方がよかないかね。私(あっし)あそう思うがね。」と声が半分蒲団に籠(こも)っていた。「そうして出て来るのを待つんですね。」「ですけど、私だって、そう気長に構えてもいられませんからね。」と寝衣姿(ねまきすがた)のまま自分の枕頭(まくらもと)に蹲跪(つくば)って、煙管をポンポン敲いた。「あの人の体だって、出て来てからどうなるか解りゃしない。」 新吉はもう黙っていた。 翌日(あした)目を覚まして見ると、お国はまだ寝ていた。戸を開けて、顔を洗っているうちに、ようやく起きて出た。 朝飯が済んでしまうと、お国は金盥(かなだらい)に湯を取って、顔や手を洗い、お作の鏡台を取り出して来て、お扮飾(つくり)をしはじめた。それが済むと、余所行(よそゆ)きに着替えて、スッと店頭(みせさき)へ出て来た。「私ちょいと出かけますから……。」と帳場の前に膝(ひざ)を突いて、どこへ行くとも言わず出てしまった。 新吉はどこか気がかりのように思ったが、黙って出してやった。小僧連は、一様に軽蔑(けいべつ)するような目容(めつき)で出て行く姿を見送った。 お国は昼になっても、晩になっても帰らなかった。新吉は一日不快そうな顔をしていた。晩に一杯飲みながら、新吉は女の噂(うわさ)をし始めた。「どうせ彼奴(あいつ)は帰って来る気遣いないんだから、明朝(あした)から皆(みんな)で交(かわ)り番こに飯をたくんだぞ。」 小僧はてんでに女の悪口(あっこう)を言い出した。内儀さん気取りでいたとか、お客分のつもりでいるのが小面憎(こづらにく)いとか、あれはただの女じゃあるまいなどと言い出した。 新吉はただ苦笑いしていた。     二十九 二月の末――お作が流産をしたという報知(しらせ)があってからしばらく経って、新吉が見舞いに行った時には、お作はまだ蒼い顔をしていた。小鼻も目肉(めじし)も落ちて、髪もいくらか抜けていた。腰蒲団など当てて、足がまだよろつくようであった。 胎児は綺麗な男の子であったとかいうことである。少し重い物――行李を棚から卸(おろ)した時、手を伸ばしたのが悪かったか知らぬが、その中には別に重いというほどの物もなければ、棚がさほど高いというほどでもない。が何しろ身体が※弱(ひよわ)いところへ、今年は別して寒(かん)じが強いのと、今一つはお作が苦労性で、いろいろの取越し苦労をしたり、今の身の上を心細がったり、表町の宅(うち)のことが気にかかったり、それやこれやで、あまりに神経を使い過ぎたせいだろう……というのがいいわけのような愚痴のような母親の言い分であった。 お作は流産してから、じきに気が遠くなり、そこらが暗くなって、このまま死ぬのじゃないかと思った、その前後の心持を、母親の説明の間々へ、喙(くち)を容(い)れて話した。そうしてもう暗いところへやってしまったその子が不憫(ふびん)でならぬと言って泣き出した。いくら何でも自分の血を分けた子だのに、顔を見に来てくれなかったのは、私はとにかく、死んだ子が可哀そうだと怨(うら)んだ。 新吉も詳しい話を訊いてみると、何だか自分ながらおそろしいような気もした。そういう薄情なつもりではなかったが、言われて見ると自分の心はいかにも冷たかったと、つくづくそう思った。「私(あっし)はまた、どうせ死んでるんだから、なまじい顔でも見ちゃ、かえっていい心持がしねえだろうから、見ない方が優(まし)だという考えで……それにあのころは、小野の公判があるんで、東京から是非もう一人弁護士を差し向けてほしいという、当人の希望(のぞみ)だったもんだから、お国と二人で、そっちこっち奔走していたんで……友達の義理でどうもしかたがなかったんだ。」といいわけをした。「それならせめて初七日にでもいらして下されば……。」とお作は目に涙を一杯溜めて怨んだ。「それにあなたは、お国さんのことと言うと、家のことはうっちゃっても……。」と口の中でブツブツ言った。 これが新吉の耳には際立(きわだ)って鋭く響く。むろんお国は今でも宅(うち)へ入り浸っている。一度二度喧嘩(けんか)して逐(お)い出したこともあるが、初めの時はこっちが宥(なだ)めて連れて帰り、二度目の時は、女の方から黙って帰って来た。連れて来たその晩には、京橋で一緒に天麩羅屋(てんぷらや)へ入って、飯を食って、電車で帰った。表町の角まで来ると、自分は一町ほど先へ歩いて、明るい自分の店へ別々に入った。何の意味もなかったが、ただそうしなければ気が済まぬように思った。それからのお国は、以前よりは素直であった。自分も初めて女というものの、暖かいある物につつまれているように感じた。     三十 それから二、三日は、また仲をよく暮らすのであるが、後からじきに些細(ささい)な葛藤(かっとう)が起きる。それでお国が出てゆくと、新吉は妙にその行く先などが気に引っかかって、一日腹立たしいような、胸苦しいような思いでいなければならぬのが、いかにも苦しかった。「莫迦を言っちゃいけねえ。」新吉はわざと笑いつけた。「お国と己(おれ)とが、どうかしてるとでも思ってるんだろう。」「いいえ、そういうわけじゃありませんけれどね、子供が死んでも来て下さらないところを見れば、あなたは私のことなんぞ、もう何とも思っていらっしゃらないんだわ。」 新吉は横を向いて黙っていた。むろんお作の流産のことを想い出すと、病気に取り着かれるようであった。彼奴(やつ)も可哀そうだ、一度は行って見てやらなければ……という気はあっても、さて踏み出して行く決心が出来なかった。明日(あす)は明日はと思いながら、つい延引(のびのび)になってしまった。頭脳(あたま)が三方四方へ褫(と)られているようで、この一月ばかりの新吉の胸の悩ましさというものは、口にも辞(ことば)にも出せぬほどであった。その苦しい思いが、何でお作に解ろう。お作はとてもそういうことを打ち明ける相手ではないと、そう決めていた。「それで、私が帰れば、お国さんは出てしまうんですの。」お作はおずおず訊いた。 新吉は、口のうちで何やら曖昧(あいまい)なことを言っていた。「義理だから、己から出て行けと言うわけにも行かないが、いずれお国にも考えがあるだろう……。それでお前はいつごろ帰って来られるね。」「もう一週間も経てば、大概いいだろうと思うですがね……でも、お国さんがいては、私何だかいやだわ。阿母(おっか)さんもそう言うんですわ。小石川の叔母さんだけは、それならばなおのこと、速く癒(なお)って帰らなければいけないと言うんですけれど……。」 新吉は、二人の間(なか)が、もうそういう危機に迫っているのかと、胸がはらはらするようであった。「どちらにしても、お前が速く癒ってくれなければ……。」と気休めを言っていたが、そうテキパキ事情の決まるのが、何だかいやなような気がした。 新吉と別れてから、十日目にお作は嫂に連れられて、表町へ帰って来た。ちょうどそれが朝の十時ごろで、三月と言っても、まだ余寒のきびしい、七、八日ごろのことであった。腕車(くるま)が町の入口へ入って来ると、お作は何とはなし気が詰るような思いであった。町の様子は出て行った時そのままで、寂れた床屋の前を通る時には、そこの肥った禿頭(はげあたま)の親方が、細い目を瞠(みは)って、自分の姿を物珍らしそうに眺めた。蕎麦屋(そばや)も荒物屋も、向うの塩煎餅屋(しおせんべいや)の店頭(みせさき)に孫を膝に載せて坐っている耳の遠い爺(じい)さんの姿も、何となくなつかしかった。 腕車(くるま)を降りると、お作はちょいと嫂を振り顧(かえ)って躊躇(ちゅうちょ)した。「姉さん……。」と顔を赧(あか)らめて、嫂から先へ入らせた。     三十一 店には増蔵が一人いるきりで、新吉の姿が見えなかった。奥へ通ると、水口(みずぐち)の方で、蓮葉(はすは)なような口を利いている女の声がする。相手は魚屋の若い衆らしい。干物(ひもの)のおいしいのを持って来て欲しいとか、この間の鮭(しゃけ)は不味(まず)かったとか、そういうようなことを言っている。お前さんとこの親方は威勢がいいばかりで、肴(さかな)は一向新しくないとか、刺身の作り方が拙(まず)くてしようがないとかいう小言もあった。 お作は嫂と一緒に、お客にでも来たように、火鉢を一尺も離れて、キチンと坐って聞いていた。「それじゃね、晩にお刺身を一人前……いいかえ。」と言って、お国は台所の棚へ何やら収(しま)い込んでから、茶の室(ま)へ入って来た。軟(やわら)かものの羽織を引っ被(か)けて、丸髷(まるまげ)に桃色の手絡(てがら)をかけていた。生(は)え際(ぎわ)がクッキリしていて、お作も美しい女だと思った。 お国は、キチンと手を膝に突いている二人の姿を見ると、「オヤ。」とびっくりしたような風をして、「何てえんでしょう、私ちっとも知りませんでしたよ。それでも、もうそんなに快(よ)くおなんなすって。汽車に乗ってもいいんですか。」と火鉢の前に座を占めて、鉄瓶を持ちあげて、火を直した。「え、もう……。」とお作は淋しい笑顔(えがお)を挙げて、「まだ十分というわけには行きませんけれど……。」と嫂の方を向いて、「姉さん、この方が小野さんのお内儀(かみ)さん……。」「さようでございますか。」と姉が挨拶しようとすると、お国はジロジロその様子を眺めて、少し横の方へ出て、洒々(しゃあしゃあ)した風で挨拶した。そうして菓子を出したり、茶をいれたりした。「あなたも流産なすったんですってね。私一度お見舞いに上ろうと思いながら……何(なん)しろ手が足りないんでしょう。」 お作は嫂と顔を見合わしてうつむいた。「暮だって、お正月だって、私一人きりですもの。それに新さんと来たら、なかなかむずかしいんですからね……。マアこれでやっと安心です。人様の家を預かる気苦労というものはなかなか大抵じゃありませんね。」「真実(ほんとう)にね。」とお作は赤い顔をして、気の毒そうに言った。「どうも永々済みませんでした。」 お作はしばらくすると、着物を着替えて、それから台所へ出た。お国は、取っておいた鯵(あじ)に、塩を少しばかり撒(ふ)って、鉄灸(てっきゅう)で焼いてくれとか、漬物(つけもの)は下の方から出してくれとか、火鉢の側から指図がましく声かけた。お作は勝手なれぬ、人の家にいるような心持で、ドギマギしながら、昼飯(ひる)の支度にかかった。  飯時分に新吉が帰って来た。新吉はお作の顔を見ると、「ホ……。」と言ったきりで、話をしかけるでもなかった。飯の時、お作はお国の次に坐って、わが家の飯を砂を噛(か)むような思いで食った。     三十二 それでも、嫂のいるうちは、いくらか話が持てた。そうして家が賑(にぎ)やかであった。日の暮れ方になると、嫂は急に気を変えて、これから小石川へもちょっと寄らなければならぬからと言って、暇を告げようとした。お作は、にわかに寂しそうな顔をした。 お作は嫂を台所へ呼び出して、水口の方へ連れて行って、何やら密談(ないしょばなし)をし始めた。「お国さんは、まったく変ですよ。私何だか厭で厭で、しようがないわ。」と顔を顰(しか)めた。「真実(ほんとう)に勝手の強そうな、厭な女だね。」と嫂も心(しん)から憎そうに言った。「でも、いつまでもいるわけじゃないでしょう。私でも帰ったら、あの人も帰るでしょう。かまわないから、テキパキきめつけてやるといい。」「でも、宅(うち)はどういう気なんでしょう。」「サア、新さんが柔和(おとな)しいからね。」と嫂も曖昧(あいまい)なことを言った。そうして溜息を吐(つ)いた。その顔を見ると、何だか望みが少なそうに見える。「お前さんは、よっぽどしっかりしなくちゃ駄目だよ。」と言っているようにも見えるし、「あの女にゃ、どうせ敵(かな)やしない。」と失望しているようにも見える。 三、四十分、顔を突き合わしていたが、別にどうという話も纏(まと)まらない。いずれその内にはお国が帰るだろうからとか、新さんだってまさか、あの人をどうしようという気でもあるまいから、しばらく辛抱おしなさいとか、そのくらいであった。 お作は嫂の口から、そのことをよく新吉に話してくれということを頼んだ。「姉さんから、宅(うち)の人の料簡(りょうけん)を訊いて見て下さいよ。」と言った。「それはお作さんから訊く方がいいわ。私がそれを訊くと、何だか物に角(かど)が立って、かえって拙(まず)かないかね。」「そうね。」とお作は困ったような顔をする。 台所から出て来た時、お国は店にいた。新吉も店にいた。お作と嫂の茶の室(ま)へ入って来る気勢(けはい)がすると一緒に、お国も茶の室へ入って来た。それを機(きっかけ)に、嫂が、「どうもお邪魔を致しました……。」と暇を告げる。「オヤ、もうお帰り。マアいいじゃありませんか。」お国は空々しいような言い方をした。 嫂を送り出して、奥へ入って来ると、まだ灯(あかり)の点(つ)かぬ部屋には夕方の色が漂うていた。お作は台所の入口の柱に凭(よ)りかかって、何を思うともなく、物思いに沈んでいた。裏手の貧乏長屋で、力のない赤子の啼(な)き声が聞えて、乳が乏しくて、脾弛(ひだる)いような嗄(か)れた声である。四下(あたり)はひっそとして、他に何の音も響きも聞えない。お作は亡(な)くなった子供の声を聞くように感ぜられて、何とも言えぬ悲しい思いが胸に迫って来た。冷たい土の底に、まだ死にきれずに泣いているような気もした。冷たい涙がポロポロと頬に伝わった。 お作は水口へ出て、しばらく泣いていた。     三十三 部屋へ入って来ると、お国がせッせとそこいらを掃き出していた。「ぼんやりした内儀さんだね。」と言いそうな顔をしている。「あの、ランプは。」とお作がランプを出しに行こうとすると、「よござんすよ。あなたは御病人だから。」と大きな声で言って、埃(ごみ)を掃き出してしまい、箒(ほうき)を台所の壁のところへかけて、座蒲団を火鉢の前へ敷いた。「サア、お坐んなさい。」 お作はランプを点けてから背が低いので、それをお国にかけてもらって、「へ、へ。」と人のよさそうな笑い方をして、その片膝を立てて坐った。 晩飯の時、お国の話ばかり出た。小野の公判が今日あるはずだが、結果がどうだろうかと、新吉が言い出した。もし長く入るようだったら、私はもう破れかぶれだ……ということをお国が言っていた。「それなれア気楽なもんだ。女一人くらい、どこへどう転(ころ)がったって、まさか日干(ひぼ)しになるようなことはありゃしませんからね。」と棄て鉢を言った。 お作は惘(あき)れたような顔をした。「お前なんざ幸福(しあわせ)ものだよ。」と新吉はお作に言いかけた。「お国さんを御覧、添って二年になるかならぬにこの始末だろう。己なんざ、たといどんなことがあったって、一日も女房を困らすようなことをしておきゃしねえ。拝んでいてもいいくらいのもんだ。まったくだぜ。」 お作はニヤニヤと笑っていた。 飯が済んでから、お作が台所へ出ていると、新吉とお国が火鉢に差し向いでベチャクチャと何か話していた。お国が帰ると言うのを新吉が止めているようにも聞えるし、またその反対で、お国が出て行くまいと言って、話がごてつくようにも聞えるが、その話は大分込み入っているらしい。いろんな情実が絡(から)み合っているようにも思える。お作は洗うものを洗ってから、手も拭(ふ)かずに、しばらく考え込んでいた。と、新吉は何かぷりぷりして、ふいと店へ出てしまったらしい。お作が入って来た時、お国は長煙管で、スパスパと莨を喫(ふか)していた。 その晩三人は妙な工合であった。お作はランプの下で、仕事を始めようとしたが、何だか気が落ち着かなかった。それにしばらくうつむいていると、血の加減か、じきに頭脳(あたま)がフラフラして来る。お国に何か話しかけられても、不思議に返辞をするのが億劫(おっくう)であった。新吉は湯に行くと言って出かけたきり、近所で油を売っていると見えて、いつまでも帰って来なかった。 十一時過ぎに、お作は床に就いても、やっぱり気が落ち着かなかった。それでウトウトするかと思うと、厭な夢に魘(うな)されなどしていた。新吉とお国と枕をならべて寝ているところを、夢に見た。側へ寄って、引き起そうとすると、二人はお作の顔を瞶(みつ)めて、ゲラゲラと笑っていた。目を覚まして見ると、お国は独り離れて店の入口に寝ていた。     三十四 小野の刑期が、二年と決まった通知が来てから、お国の様子が、一層不穏になった。時とすると、小野のために、こんなにひどい目に逢(あ)わされたのがくやしいと言って、小野を呪(のろ)うて見たり、こうなれば、私は腕一つでやり通すと言って、鼻息を荒くすることもあった。 お国にのさばられ[#「のさばられ」に傍点]るのが、新吉にとっては、もう不愉快でたまらくなって来た。どうかすると、お国の心持がよく解ったような気がして、シミジミ同情を表することもあったが、後からはじきに、お国のわがままが癪(しゃく)に触(さわ)って、憎い女のように思われた。お作が愚痴を零(こぼ)し出すと、新吉はいつでも鼻で遇(あしら)って、相手にならなかったが、自分の胸には、お作以上の不平も鬱積(うっせき)していた。 三人は、毎日不快(まず)い顔を突き合わして暮した。お作は、お国さえ除(の)けば、それで事は済むように思った。が、新吉はそうも思わなかった。「どうするですね、やっぱり当分田舎へでも帰ったらどうかね。」と新吉はある日の午後お国に切り出した。 お国はその時、少し風邪(かぜ)の心地で、蟀谷(こめかみ)のところに即効紙(そっこうし)など貼(は)って、取り散(みだ)した風をしていた。「それでなけア、東京でどこか奉公にでも入るか……。」と新吉はいつにない冷やかな態度で、「私(あっし)のところにいるのは、いつまでいても、それは一向かまわないようなもんだがね。小野さんなんぞと違って、宅(うち)は商売屋だもんだで、何だかわけの解らない女がいるなんぞと思われても、あまり体裁がよくねえしね……。」 新吉はいつからか、言おうと思っていることをさらけ出そうとした。 ずっと離れて、薄暗いところで、針仕事をしていたお作は、折々目を挙げて、二人の顔を見た。 お国は嶮相(けんそう)な蒼い顔をして、火鉢の側に坐っていたが、しばらくすると、「え、それは私だって考えているんです。」 新吉は、まだ一つ二つ自分の方の都合をならべた。お国はじっと考え込んでいたが、大分経ってから、莨を喫(ふか)し出すと一緒に、「御心配入りません。私のことはどっちへ転んだって、体一つですから……。」と淋しく笑った。「そうなんだ。……女てものは重宝なもんだからね。その代りどこへ行くということが決まれば、私(あっし)もそれは出来るだけのことはするつもりだから。」 お国は黙って、釵(かんざし)で、自棄(やけ)に頭を掻いていた。晩方飯が済むと、お国は急に押入れを開けて、行李の中を掻き廻していたが、帯を締め直して、羽織を着替えると、二人に、更(あらた)まった挨拶をして、出て行こうとした。 その様子が、ひどく落ち着き払っていたので、新吉も多少不安を感じ出した。「どこへ行くね。」と訊いて見たが、お国は、「え、ちょいと。」と言ったきり、ふいと出て行った。 新吉もお作も、後で口も利かなかった。     三十五 高ッ調子のお国がいなくなると、宅(うち)は水の退(ひ)いたようにケソリとして来た。お作は場所塞(ばしょふさ)げの厄介物を攘(はら)った気でいたが、新吉は何となく寂しそうな顔をしていた。お作に対する物の言いぶりにも、妙に角が立って来た。お国の行き先について、多少の不安もあったので、帰って来るのを、心待ちに待ちもした。 が、翌日も、お国は帰らなかった。新吉は帳場にばかり坐り込んで、往来に差す人の影に、鋭い目を配っていた。たまに奥へ入って来ても、不愉快そうに顔を顰(しか)めて、ろくろく坐りもしなかった。 お作も急に張合いがなくなって来た。新吉の顔を見るのも切ないようで、出来るだけ側に寄らぬようにした。昼飯の時も、黙って給仕をして、黙って不味(まず)ッぽらしく箸を取った。新吉がふいと起ってしまうと、何ということなし、ただ涙が出て来た。二時ごろに、お作はちょくちょく着に着替えて、出にくそうに店へ出て来た。「あの、ちょっと小石川へ行って来てもようございますか。」とおずおず言うと、新吉はジロリとその姿を見た。「何か用かね。」 お作ははっきり返辞も出来なかった。 出ては見たが、何となく足が重かった。叔父に厭なことを聞かすのも、気が進まない。叔父にいろいろ訊かれるのも、厭であった。叔父のところへ行けないとすると、さしあたりどこへ行くという的(あて)もない。お作はただフラフラと歩いた。 表町を離れると、そこは激しい往来であった。外は大分春らしい陽気になって、日の光も目眩(まぶ)しいくらいであった。お作の目には、坂を降りて行く、幾組かの女学生の姿が、いかにも快活そうに見えた。何を考えるともなく、歩(あし)が自然(ひとりで)に反対の方向に嚮(む)いていたことに気がつくと、急に四辻(よつつじ)の角に立ち停って四下(あたり)を見廻した。 何だか、もと奉公していた家(うち)がなつかしいような気がした。始終拭(ふ)き掃除(そうじ)をしていた部屋部屋のちんまり[#「ちんまり」に傍点]した様子や、手がけた台所の模様が、目に浮んだ。どこかに中国訛(ちゅうごくなま)りのある、優しい夫人の声や目が憶い出された。出る時、赤子であった男の子も、もう大きくなったろうと思うと、その成人ぶりも見たくなった。 お作は柳町まで来て、最中(もなか)の折を一つ買った。そうしてそれを風呂敷に包んで一端(いっぱし)何か酬(むく)いられたような心持で、元気よく行(ある)き出した。 西片町界隈(かいわい)は、古いお馴染(なじ)みの町である。この区域の空気は一体に明るいような気がする。お作は※(かなめ)の垣根際(かきねぎわ)を行(ある)いている幼稚園の生徒の姿にも、一種のなつかしさを覚えた。ここの桜の散るころの、やるせないような思いも、胸に湧(わ)いて来た。 家は松木といって、通りを少し左へ入ったところである。門からじきに格子戸で、庭には低い立ち木の頂が、スクスクと新しい塀越(へいご)しに見られる。お作は以前愛された旧主の門まで来て、ちょっと躊躇した。     三十六 門のうちに、綺麗な腕車(くるま)が一台供待(ともま)ちをしていた。 お作はこんもりした杜松(ひば)の陰を脱けて、湯殿の横からコークス殻を敷いた水口へ出た。障子の蔭からそっと台所を窺(のぞ)くと、誰もいなかったが、台所の模様はいくらか変っていた。瓦斯(ガス)など引いて、西洋料理の道具などもコテコテ並べてあった。自分のいたころから見ると、どこか豊かそうに見えた。 奥から子供を愛(あや)している女中の声が洩れて来た。夫人が誰かと話している声も聞えた。客は女らしい、華(はな)やかな笑い声もするようである。 しばらくすると、束髪に花簪(はなかんざし)を挿して、きちんとした姿(なり)をした十八、九の女が、ツカツカと出て来た。赤い盆を手に持っていたが、お作の姿(なり)を見ると、丸い目をクルクルさせて、「どなた?」と低声(こごえ)で訊いた。「奥様いらっしゃいますか。」とお作は赤い顔をして言った。「え、いらっしゃいますけれど……。」「別に用はないんですけれど、前(ぜん)におりましたお作が伺ったと、そうおっしゃって……。」「ハ、さよでございますか。」と女中はジロジロお作の様子を見たが、盆を拭いて、それに小さいコップを二つ載せて、奥へ引っ込んだ。 しばらくすると、二歳(ふたつ)になる子が、片言交(かたことまじ)りに何やら言う声がする。咲(え)み割れるような、今の女中の笑い声が揺れて来る。その笑い声には、何の濁りも蟠(わだかま)りもなかった。お作はこの暖かい邸で過した、三年の静かな生活を憶い出した。 奥様は急に出て来なかった。大分経ってから、女中が出て来て、「あの、こっちへお上んなさいな。」 お作は女中部屋へ上った。女中部屋の窓の障子のところに、でこぼこの鏡が立てかけてあった。白い前垂や羽織が壁にかかっている。しばらくすると、夫人がちょっと顔を出した。痩(や)せぎすな、顔の淋しい女で、このごろことに毛が抜け上ったように思う。お作は平たくなってお辞儀をした。「このごろはどうですね。商売屋じゃ、なかなか気骨が折れるだろうね。それに、お前何だか顔色が悪いようじゃないか。病気でもおしかい。」と夫人は詞(ことば)をかけた。「え……。」と言ってお作は早産のことなど話そうとしたが、夫人は気忙しそうに、「マアゆっくり遊んでおいで。」と言い棄てて奥へ入った。 しばらく女中と二人で、子供をあっちへ取りこっちへ取りして、愛(あや)していた。子供は乳色の顔をして、よく肥っていた。先月中小田原の方へ行っていて、自分も伴(とも)をしていたことなぞ、お竹は気爽(きさく)に話し出した。話は罪のないことばかりで、小田原の海がどうだったとか、梅園がこうだとか、どこのお嬢さまが遊びに来て面白かったとか……お作は浮(うわ)の空で聞いていた。 外へ出ると、そこらの庭の木立ちに、夕靄(ゆうもや)が被(かか)っていた。お作は新坂をトボトボと小石川の方へ降りて行った。     三十七 帰って見ると、店が何だか紛擾(ごたごた)していた。いつもよく来る、赭(あか)ちゃけた髪の毛の長く伸びた、目の小さい、鼻のひしゃげた汚い男が、跣足(はだし)のまま突っ立って、コップ酒を呷(あお)りながら、何やら大声で怒鳴っていた。小僧たちの顔を見ると、一様に不安そうな目色をして、酔漢(よっぱらい)を見守っている。奥の方でも何だかごてついているらしい。上り口に蓮葉な脱ぎ方をしてある、籐表(とうおもて)の下駄は、お国のであった。「お国さんが帰って?」と小僧に訊くと、小僧は「今帰りましたよ。」と胡散(うさん)くさい目容(めつき)でお作を見た。 そっと上って見ると、新吉は長火鉢のところに立て膝をして莨を吸っていた。お国は奥の押入れの前に、行李の蓋(ふた)を取って、これも片膝を立てて、目に殺気を帯びていた。お作の影が差しても、二人は見て見ぬ振りをしている。 新吉はポンポンと煙管を敲(はた)いて、「小野さんに、それじゃ私(あっし)が済まねえがね……。」と溜息を吐(つ)いた。「新さんの知ったことじゃないわ。」とお国は赤い胴着のような物を畳んでいた。髪が昨日よりも一層強(きつ)い紊(みだ)れ方で、立てた膝のあたりから、友禅の腰巻きなどが媚(なま)めかしく零(こぼ)れていた。「私ゃ私の行きどころへ行くんですもの。誰が何と言うもんですか。」と凄(すさま)じい鼻息であった。 お作はぼんやり入口に突っ立っていた。「それも、東京の内なら、私(あっし)も文句は言わねえが、何も千葉くんだりへ行かねえだって……。」と新吉も少し激したような調子で、「千葉は何だね。」「何だか、私も知らないんですがね、私ゃとても、東京で堅気の奉公なんざ出来やしませんから……。」「それじゃ千葉の方は、お茶屋ででもあるのかね。」 お国は黙っている。新吉も黙って見ていた。「私の体なんか、どこへどう流れてどうなるか解りゃしませんよ。一つ体を沈めてしまう気になれア、気楽なもんでさ。」とお国は投げ出すように言い出した。「だけど、何も、それほどまでにせんでも……。」と新吉はオドついたような調子で、「そう棄て鉢になることもねえわけだがね。」と同じようなことを繰り返した。「それア、私だって、何も自分で棄て鉢になりたかないんですわ。だけど、どういうもんだか、私アそうなるんですのさ。小野と一緒になる時なぞも、もうちゃんと締るつもりで……。」とお国は口の中で何やら言っていたが、急に溜息を吐(つ)いて、「真実(ほんとう)にうっちゃっておいて下さいよ。小野のところから訊いて来たら、どこへ行ったか解らない、とそう言ってやって下さい。この先はどうなるんだか、私にも解らないんですから。」「じゃ、マア、行くんなら行くとして、今夜に限ったこともあるまい。」 店がにわかにドヤドヤして来た。酔漢(よっぱらい)は、咽喉(のど)を絞るような声で唄い出した。     三十八 しばらくすると、食卓(ちゃぶだい)がランプの下に立てられた。新吉はしきりに興奮したような調子で、「酒をつけろ酒をつけろ。」とお作に呶鳴(どな)った。「それじゃお別れに一つ頂きましょう。」お国も素直に言って、そこへ来て坐った。髪を撫(な)でつけて、キチンとした風をしていた。お作はこの場の心持が、よく呑み込めなかった。お国がどこへ何しに行くかもよく解らなかった。新吉に叱られて、無意識に酒の酌などして、傍に畏(かしこ)まっていた。 お国は嶮(けわ)しい目を光らせながら、グイグイ酒を飲んだ。飲めば飲むほど、顔が蒼くなった。外眦(めじり)が少し釣り上って、蟀谷(こめかみ)のところに脈が打っていた。唇が美しい潤(うるお)いをもって、頬が削(こ)けていた。 新吉は赤い顔をして、うつむきがちであった。お国が千葉のお茶屋へ行って、今夜のように酒など引っ被(かぶ)って、棄て鉢を言っている様子が、ありあり目に浮んで来た。頭脳(あたま)がガンガン鳴って、心臓の鼓動も激しかった。が、胸の底には、冷たいある物が流れていた。「新さん、じゃ私これでおつもりよ。」とお国は猪口(ちょく)を干して渡した。 お作が黙ってお酌をした。「お作さんにも、大変お世話になりましたね。」とお国は言い出した。「いいえ。」とお作はオドついたような調子で言う。「あちらへ行ったら、ちっとお遊びにいらして下さい……と言いたいんですけれどね、実は私は姿を見られるのもきまりが悪いくらいのところへ行くんですの。これッきり、もうどなたにもお目にかからないつもりですからね。」 お作はその顔を見あげた。 酔漢(よっぱらい)はもう出たと見えて、店が森(しん)としていた。生温(なまぬる)いような風が吹く晩で、じっとしていると、澄みきった耳の底へ、遠くで打っている警鐘の音が聞えるような気がする。かと思うと、それが裏長屋の話し声で消されてしまう。「ア、酔った!」とお国は燃えている腹の底から出るような息を吐(つ)いて、「じゃ新さん、これで綺麗にお別れにしましょう。酔った勢いでもって……。」と帯の折れていたところを、キュと仕扱(しご)いてポンと敲(たた)いた。「じゃ、今夜立つかね。」新吉は女の目を瞶(みつ)めて、「私(あっし)送ってもいいんだが……。」「いいえ。そうして頂いちゃかえって……。」お国はもう一度猪口を取りあげて無意識に飲んだ。 お国は腕車(くるま)で発(た)った。 新吉はランプの下に大の字になって、しばらく寝ていた。お国がまだいるのやらいないのやら、解らなかった。持って行きどころのない体が曠野(あれの)の真中に横たわっているような気がした。 大分経ってから、掻巻(かいま)きを被(き)せてくれるお作の顔を、ジロリと見た。 新吉は引き寄せて、その頬にキッスしようとした。お作の頬は氷のように冷たかった。      *     *     *「開業三周年を祝して……」と新吉の店に菰冠(こもかぶ)りが積み上げられた、その秋の末、お作はまた身重(みおも)になった
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